侗庵新論 第百六

(要約)

・家康公を祀った日光東照宮を徳川家以降も永続させる策を家光から問われた知恵者の島田利正は、滅亡した豊臣家の廟を修築することを提案したが受け入れられなかった。これに対し清の康熙帝は滅亡した明の太祖の墓を自ら参拝し手厚く保護することで民を感激させ、清の大業の基礎を成したと評価されており、家光公より勝っているようにも見える。しかし家光公の時代はまだ豊臣家の恩顧を被った大名が存在しており、豊臣家の廟を修築すれば反乱の契機となりかねなかったのに対し、清は封建制ではなく中央集権制なので滅亡した前の王朝の諸侯が存続していること自体が有り得ず、そのうえ康熙帝の時代には清の安定期に入っており反抗する者が見当たらなかった。康熙帝が家光公の立場であれば豊臣家の廟の修築を許さなかったであろう。正しい政策であっても実施すべき時期をよく見なければならないのである。

 

(現代語訳)

1徳川家光公は世にまれな名君である。家康公を天のように崇め奉り、その偉業を受け継ぎ発展させることに熱心に取り組まれた。既に日光に東照宮を造営したが、それは巨大かつ美麗であり神威を遠く四方に輝かせていた。ある日群臣を江戸城に集めて、老中に上意をこう告げさせた。「私の願いは家康公の廟が永遠に廃れることが無いようにすることだ。それはどうすれば実現できるだろうか」と。皆目を見開いて一言も言葉を発するものはいなかった。その時島田利正が進みて出てこう言った。「今日ただ太閤殿下の廟を修復すれば家康公の廟も千年間無事を保つことができましょう」と。皆これには驚いたが、家光公はこう言われた。「攻め滅ぼされた国の廟は朽ち果てるに任せ、修繕しないのが古来からの決まりである。豊国廟を何で修築する必要があろうか」と。こうして島田利正の案は取り入れられることはなかった。利正は多くの人々の中でただ一人こうした率直で刺激的な言葉を発するとは優れた人物といえる。しかし結局明君の決定を覆すことができなかったのにはそれなりの理由があったのである。

2家康公はすぐれた武徳により豊臣氏に代り天下を取った。しかし当時の大名で太閤の恩顧を受けなかった者はおらず、中には家康公と等しく肩を並べる者もいた。家康・秀忠・家光の三代の君主が深い思いやりと徳により恩恵を与えても彼らの心はなお豊臣氏の恩義を忘れるには至らなかった。こんな時に豊国廟を一新して追慕の情を勢いづかせれば、不穏な動きをする者が出るかもしれない。だから豊国廟が廃れてゆくのを不問に付すのはかえって思いやりある人の心配りなのである。大阪城が落城した時に、金色の幣を豊国廟に奉納した者は数えきれないほどいた。廟を守る役人がこのことを詳しく報告すると家康公はこう言われた。「これは太閤に領地を与えられた大名が供えたに違いない。そもそも人は智・仁・勇の三つの徳を全て備えてはじめて神の称号を与えられるのにふさわしいのに、太閤は一つも備えていない。何で神の称号を勝手に称えて許されようか」と。そして遺像の冠服をはぎ取り、その廟を破壊することを命じた。秀吉の正室高台院が哀願して、やっとすぐには壊さず自然に崩れるのに任せること許した。家康公ほど仁愛の深い人物が何で敗者に対してこれほどむごいのか。それは罪を犯す人が増加するのを恐れて、予め発生を防止するためである。

3家光公の心は家康公の心と同じである。もしさらに数十年が経って、大名の中に豊臣氏の恩顧を被った者が全く存在しなくなり、徳川家による恩恵が武士にも庶民にも行き渡り皆心変わりしないようになった際に島田利正がこの言葉を述べれば、家光公ほどの思いやりと賢明さがあれば、必ずしも受け入れられなくはなかっただろう。惜しいことに、まだこれを言うべき時ではなかったということだ。

4しかしながら島田利正の言葉は理をつくしたとはいえない。彼が豊国廟の修繕を求めたのは、それによって次世代の君主を感化し、日光東照宮を代々にわたって維持させようとしたからであるが、これは目先の利害・損得について論じているだけで、正しい道には到達していない。昔から王朝を開いた君主で前の王朝を敵視した者はいない。ましてや家康公は長久手の戦いに勝って後しばらくして太閤と講和し、太閤に臣従するようになった。太閤からは厚遇され、また太閤の妹の朝日姫を正室に迎え入れたのだから、豊臣家との関係を軽んじてよいわけがない。こうした経緯をすべて踏まえたうえで家光公に上申すれば、必ず心に響いたことであろう。島田利正にはまだ不十分な所があったということだ。

5清の康熙二十三年に康熙帝は明の太祖の陵を自ら参拝した。参道の脇を通って行き、お付きの者や家臣に命じて、皆門の前で下馬させた。皇帝は三跪九叩頭の礼を行い、宝蔵の前に参詣し三献の礼を行った。退出のときもまた参道の脇を通って行った。陵墓を管理する宦官や陵を守る役人らに与える褒美には功績に応じて差をつけた。薪を取ること禁止するように指示し、地方官には厳しく巡察するように命じた。村の老人でこれに従って見ていたものは数万人いたが、みな感激して泣いていた。総督の王新命は石を刻んでこの事を記録した。その後自ら参拝したのは一度に止まらず、使者を派遣して毎年供え物をささげることを止めることはなかった。康熙帝が前の朝廷を崇敬することはこれほどまでだったのである。

6そして陵や廟を一新し廃れることがないようにさせたのは言うまでもない。このため清の論者はこれを古今に無い偉大な事業として称え、清の長年の大事業はこれを基に始まったと評価している。私は心を静めて公平に考えてみると、清の政治や法律は残酷であり、その風習は反抗的で強情であって、はるかにわが国に及ばない。それなのにこの一事だけが勝っているように見える。これは当然康熙帝の見識と度量が優れていたことに原因があるが、しかし以下に述べるように国体が全く異なることも考えるべきである。清の制度は中央集権の郡県制で封建制ではない。だから前の王朝の諸侯の領国がわずかでも残っているなどということは無い。清の初期の太祖、太宗、世祖の三皇帝は、明の人民千数百万人を殺して天下を取り、力で脅し威嚇で制圧した。これに対し人々は何もできなかった。康熙帝の中期から後期の世の中を見回してみると、恐れるに足るようなことは何一つなく、自分のやろうとすることに対し妨げになるようなことも見当たらなかった。もし康熙帝がわが国に生まれて豊臣家やその恩顧の大名が多数いる時に当たったならば、断じてこんなことはできなかっただろう。清朝と徳川家とでは情勢が異なっており、家光公と康熙帝に徳の優劣があったわけではないとわかる。

7清が明を滅ぼすと、清に抵抗した者は忠臣や信念を貫いた人物であってもたちどころに捕まえて殺した。一方で恥知らずにも服従した者には官位や褒美を与えてその身を輝かせた。つまり南北朝時代の褚淵(チョエン)や五代十国時代の馮道(フウドウ)のように二王朝に仕える恥知らずの大臣が前代以上に厚遇され、少しも非難されることもなかった。しかし更に四五代を経て、雍正帝や乾隆帝の時代になると始めて名誉や忠節を重んじるようになり、朱子学の華夷思想により清への忠節を否定した呂留良(リョリュウリョウ)や明に仕えながらその滅亡後は清に仕えた錢謙益(センケンエキ)などは始めて天下の重罪人とされた。この措置は大いに人々の不満を呼び起こした。しかしこれは時宜を得た適切な判断であり、英主の計略と言っても良いものである。清は異民族でありながら中国の土地を占領しているので、中国の人々はもともと深い恨みの感情を抱いており、競って命を投げ出すことを思い武力に反抗する者が澤の雑草のように多数いた。

8もし清朝が更に名誉や道義を重んじていたならば、明の人民の苦しくても信念を貫こうとする態度はますます激しくなり、清に屈しようとしなくなる。そうするとどうしても国内の人民を殺し尽くさなければ終わらなくなっただろう。それゆえ清の君主は残酷で乱暴ではあっても、王朝の始めのうちは明の旧臣に忠義や信念を求めるようなことはせず、務めてこれを招聘した。孫や子である雍正帝や乾隆帝の代になるのを待って、儒教の教えを重視するようになったことは思いやりと知恵のある措置と言えなくもない。だから天下の正しい政策であっても、時を見て実施すべきであり、そうしなければ必ず障害があって実施し難いだろう。これゆえ前の王朝の廟の修造にも自ずから適切な時期があることがわかるはずである。

(読み下し文)

1大猷大君、希世の英辟(エイヘキ)なり。其の烈祖を崇仰すること天の如し。孶孶(シシ)として紹述(ショウジュツ)するを以て務めと為す。既に日光山に大廟を営造し、其れ鉅麗(キョレイ)を極め、以て神威を四遐(シカ)に耀(かがや)かす。一日群臣を朝に會(あつ)め、大臣に宣旨せしめて曰く、「吾が意願はくば烈祖の廟をして千萬世に廃毀靡(な)からしめん。其の策如何にして可なるや」と。衆(みな)瞠目し敢(あへ)て片言を發するもの莫(な)し。島田幽也(ユウヤ)、進みて言ひて曰く「今日惟だ豊太閤廟を修葺(シュウシュウ)せば則ち烈祖の廟、以て千載虞(おそ)れ無きを保つべし」と。衆(みな)之(これ)に愕爾と為す。大猷大君曰く「勝國(ショウコク)の廟、其の壊堕(カイダ)に任せ、復た補理(ホリ)せざるを古(いにしへ)の法も然りと為す。豊國廟安(いづくん)ぞ再修すべきや」と。遂に聴用(チョウヨウ)せられず。幽也稠衆(チュウシュウ)中に在りて、獨り克(よ)く斯る伉直(コウチョク)激觸(ゲキショク)の言を吐くは奇士と称するに足る。顧(おも)ふに終(つひ)に英主の聴(さば)きを能く動かさざるは、是れ故(ゆゑ)有るなり。

2烈祖神武を以て豊臣氏に代り天下を有す。而して並時列侯、豊太閤の恩眷(オンケン)を蒙らざる者莫(な)く、間に烈祖と肩を騈ぶる等夷の人有り。祖宗三世、深仁厚徳を以て之(これ)を涵煦(カンク)すれど彼の心猶ほ未だ豊臣氏の私恩を全て忘るるに至らず。爾時(このとき)に當り豊國廟を一新し以て追慕の情を鼓舞せば、或は蠢動(シュンドウ)し靖(つつし)まざる者出るに致らん。則ち其の豊國廟の廃墜に於て不問に附するは、乃(すなは)ち仁人の設心なり。浪華城陥る日、金幣を豊國廟に奠(たてまつ)る者何人かを知らず、雑然と無數なり。守廟吏具(つぶさ)に聞こえさせば、烈祖曰く「此れ必ず太閤封ずる所の諸侯之(これ)を供ふなり。夫れ人必ず智仁勇の三徳を全て備へ、然る後に神明の號に膺(あた)るべし。太閤未だ一つも有らず。奚(いづくん)ぞ其の冒称(ボウショウ)を容るるや」と。遺像の冠服を褫(は)ぎ、其廟を隳(こは)せしむ。高臺夫人哀籲(アイユ)し、方に始めて其の壊(やぶ)れ塌(くづ)るるに任せて即(ただ)ちに毀(こは)さざるを許す。烈祖の至仁を以て何ぞ乃(すなは)ち勝國に於て此(かく)の如くに忍(むご)きか。洵(まこと)に其の嬰罪(エイザイ)の人を滋生(ジッセイ)するを恐れて豫(あらかじ)め未だ萌(きざ)さざるを杜(ふさ)ぐなり。

3大猷大君の心、即ち烈祖の心なり。借令(もし)更に数十禩の久しきを閲(けみ)し、諸侯に豊臣氏の豢養(カンヨウ)を蒙る者復た存せず、祖宗の惠澤既に士民の心を一定靡貳(ビニ)に浹(うるほ)し、斯(こ)の際に幽也此の言を陳べば、大猷大君の仁明を以てすれば、未だ必ずしも石を水に投ずるが如くにならざることなし。惜しかるかな、未だ之(これ)を言ふべき時に値(あ)はざるなり。

4然りと雖(いへど)も幽也の言、亦た未だ理を盡(つく)さず。彼其の豊國廟を修造するを請ふは、将(まさ)に此れを以て代興(ダイコウ)の君を感化し、世世に烈祖廟を営葺せしめんとす。纔(わづか)に利害を以て論じ、未だ至當の道に及ばざるなり。古来開創の君、未だ勝朝を仇視(キュウシ)する者有らず。矧(いはん)や烈祖長湫(ながくて)に捷(かち)を奏し、尋(ついで)太閤と媾(コウ)し、遂(つひ)に順(したが)ひ之(これ)に事(つか)ふ。其の厚遇を蒙(かうむ)り、又南明夫人の于帰(ウキ)を有し、蔑棄(ベツキ)すべきに非ず。悉(ことごと)く斯(かか)る理を備へ、以て大猷大君に入告(ニュウコク)せば、未だ必ずしも其の心に犂然(リゼン)たらざることなし。幽也猶ほ未だ達せざる所有るなり。

5清の康熙二十三年、聖祖明の太祖の孝陵を親謁す。甬道(ヨウドウ)の旁(かたはら)に由り行き、扈従(コジュウ)・諸臣を諭(さと)し、皆門に於て下馬す。上は三跪九叩頭の禮を行ひ、寶藏前に詣で、三獻の禮を行ふ。出て復(ま)た甬道(ヨウドウ)の旁(かたはら)に由(よ)り行き、守陵内監及び陵戸の人等に齎(あた)ふ賞に差有り。樵採(ショウサイ)を禁ずべく諭(つ)げ、地方官に厳しく巡察を加ふるを命ず。父老従ひ観る者数萬人、皆感泣す。総督王新命石を刻み事を紀(しる)す。嗣後親謁すること一に非ず。使ひを遣はし奠(テン)を致すこと年々替(や)むこと勿(な)し。其の崇敬此(かく)の如し。

6則ち陵廟を一新し壊隳(カイキ)せしめざるは又言を待たず。故に清の論者、以て古今未だ有らざる盛擧と為して称へ、又以て清の億萬載の丕業(ヒギョウ)此れに由(よ)ると為すなり。予、心を静め夷考(イコウ)すれば、清の政法峻酷にして風習忮懻(シキ)し、迥(はるか)に本邦に及ばず。獨(た)だ是の一擧のみ則ち勝るに似る。此れ固(もと)より聖祖識度(シキド)の卓出に由(よ)る。而して左に當(まさ)に國体の絶へて殊(こと)なるを察すべきのみ。清制郡縣にて封建に非ず。未だ始めから勝國の邦の僅(わづか)に存(のこ)ること有らず。太祖・太宗・世祖の三世、明の生霊(セイレイ)千有餘萬を屠僇(トリク)して天下を取り、力で脅し威で制す。士民敢て蠕動(ゼンドウ)せず。聖祖中季に寰區(カンク)を四顧すれば一つとして畏れ憚るに足るもの無し。惟だ吾爲さんと欲する所に何の窒礙(チツガイ)や有る。試(こころみ)みに使(も)し聖祖本邦に生れ、勝朝諸侯林立の日に丁(あた)らば、断じて斯(かか)る事を行ふ能はず。其の勢ひの同じからず、徳に優と劣と有るに非ざるを知るべきなり。

7清の明を滅ぼすや、其の我に抗(あらが)ふ者は藎臣(ジンシン)烈士と雖も、立(たちどころ)に捽(つか)みて之(これ)を戮(ころ)す。其の靦顔(テンガン)にして服従する者には寵秩(チョウチツ)し賚(ライ)を錫(あた)へ厥(その)躯(み)を煜耀(イクヨウ)す。即ち二姓に歴事する大臣、褚淵(チョエン)・馮道(フウドウ)の如きの亡耻(ボウチ)、榮遇(エイグウ)前代を軼(す)ぎ、少しも譙譴(ショウケン)を被らず。更に四五世を閲(けみ)し、雍正・乾隆に迄(いた)り始めて、名節を激揚し、而(すなは)ち呂留良(リョリュウリョウ)、錢謙益(センケンエキ)の輩、始めて天下の重犯と為る。此の擧大いに人意を満たさず。然れども其れ時を揆(はか)り宜しきを裁き、猶ほ英主の權(はかりごと)に庶(ちか)し。清膻臊(センソウ)なるを以て中州を竊據(セッキョ)す。中州士民、固(もと)より已(すで)に深く憤惋(フンワン)を抱き、競ひて喪元(ソウゲン)糜躯(ビク)を思ひ、以て其の鋒(ほこさき)に攖(ふ)れ反く者澤(さわ)の蕉(ショウ)の如く然り。

8若使(もし)更に名義を崇尚せば、則ち其の苦節益(ますます)甚しく、撊然(カンゼン)と下に屈せず、勢ひ海内士庶の殄戮を盡さざれば止まず。故に清主酷暴と雖も、而(すなは)ち其の始めは節烈を責(もと)めず務めて之を招来す。後代の孫子を待ち、方(まさ)に名教を大重とするは、亦た仁智の擧為るを失はず。然れば則ち天下至當の擧なれど猶ほ且つ時を相(み)て施し、方(まさ)に行ふべし。然らざれば必ず障(さは)り閼(ふさ)ぐ所有り通り難し。此れ以て勝朝遺廟の修造に自(おのづ)から其の時有るを悟るべし。

 

(語釈)

1大猷大君(徳川家光)英辟(エイヘキ)(明君)孶孶(シシ)(つとめはげむさま)紹述(ショウジュツ)(先人の業を受け継いで、それに従って行うこと)鉅麗(キョレイ)(すぐれて大きく美しいこと)四遐(シカ)(四方の極遠の地)、島田幽也(ユウヤ)(島田利正、旗本。江戸町奉行を務めた。知恵で知られ多くの逸話が残る)修葺(シュウシュウ)(修繕)勝國(ショウコク)(攻めほろぼされた国。亡国)壊堕(カイダ)(こわれ落ちる)補理(ホリ)(修理)聴用(チョウヨウ)(聞きいれて採用すること)稠衆(チュウシュウ)(多くの人の寄り集まり)伉直(コウチョク)(義理を曲げず正直なこと)激觸(ゲキショク)(刺激的)

2並時(同時代)恩眷(オンケン)(恩顧)等夷(同じ地位にあるなかま。同輩)涵煦(カンク)(恩恵を施し養う)鼓舞(勢いづけること)蠢動(シュンドウ)(うごめく)設心(心を用ひる。心をくばる)冒称(ボウショウ)(勝手に他の姓や名称をなのること、詐称)高臺夫人(高台院、秀吉正室おね)哀籲(アイユ)(哀願)嬰罪(エイザイ)(罪にふれる)滋生(ジッセイ)(繁殖する. 増加する、引き起こす)

3豢養(カンヨウ)(養うこと)一定靡貳(ビニ)(一定不変)石を水に投ずるが如く(受け入れて反発しないたとえ)

4代興(ダイコウ)(かわるがわる興る、次々に興る)世世(代々)営葺(修理、修繕)勝朝(前の王朝)仇視(キュウシ)(敵視)尋(ついで)(まもなく)媾(コウ)(講和)南明夫人(朝日姫 秀吉の異父妹)于帰(ウキ)(嫁に行くこと とつぐこと)蔑棄(ベツキ)(あなどりすてる)入告(ニュウコク)(事を上聞する 申し上げる)犂然(リゼン)(心にひびくさま、ふるえおののくさま。ぞくぞくするさま)。

5康熙二十三年(1684年)聖祖(清の第四代皇帝康熙帝)孝陵(明の太祖の陵)親謁(皇帝がみずから参拝すること)甬道(ヨウドウ)(中庭や墓地などのれんがや石畳の小道)扈従(コジュウ)(お付きの者)守陵内監(帝室の陵墓や廟・壇を維持管理を担う宦官)陵戸(天子の陵を守る者)樵採(ショウサイ)(薪をとること)父老(村里のおもだった年寄り、長老)奠(テン)(酒食を神・祖先に供えて祭ること)

6壊隳(カイキ)(やぶれこわれる)丕業(ヒギョウ)(大事業)夷考(イコウ)(公平に考察すること)忮懻(シキ)(強くもとる 反抗的で強情)識度(シキド)(見識と度量。物の考え方がすぐれ、心が広い)邦(諸侯の領地)太祖(清の初代皇帝ヌルハチ)太宗(第二代皇帝ホンタイジ)世祖(第三代順治帝)生霊(セイレイ)(たみ。人民)屠僇(トリク)(殺害)蠕動(ゼンドウ)(うごめく)中季(中期から末期)寰區(カンク)(天下)窒礙(チツガイ)(障害)

7藎臣(ジンシン)(忠臣)烈士(信念を貫きとおす男子)靦顔(テンガン)(羞耻のない顔つき。厚顏)寵秩(チョウチツ)(愛して官秩を授ける) 賚(ライ)(賜物) 煜耀(イクヨウ)(明らかにかがやく) 二姓(二つの王朝)歴事(二代以上の君主につかえる)褚淵(チョエン)(南朝の宋・斉の二代にわたって仕えた政治家。宋の明帝の遺詔を受けた重臣であったが、蕭道成が帝位を簒奪し斉を開国するのを助け、齊でも重臣の地位を占めた)馮道(フウドウ)(五代十国時代の政治家。五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった)亡耻(ボウチ)(恥知らず)、榮遇(エイグウ)(名誉ある待遇。光栄ある境遇)譙譴(ショウケン)(せめとがめ 非難)雍正(清第五代皇帝。雍正帝は,華夷の弁別に厳しかった朱熹や呂留良の思想に忠実であった曾静の謀反画策が発覚したのを契機に,漢民族のなかに満王朝の支配に反対する民族意識がなお根強く存在することを知った。そこで曾静を逮捕して訊問し,その主張に逐一論駁を加えて,みずからの支配の正当性を主張するとともに,この論駁の経過,それに関連する上諭,曾静の転向声明を併せて「大義覚迷録」とし,思想教化の道具とした) 乾隆(清代六代皇帝。乾隆帝統治時の社会情勢は清の初期と大きく異なり、明末に清の侵攻に抵抗し続けた人物を「忠臣」と評価することに対し、率先に清に帰降した、いわゆる清の建国の有功者を、二朝に仕えた節操のない臣、すなわち弐臣と評価するようになった。乾隆帝の時代には「弐臣」をテーマした清の正史である弐臣伝が編纂された)名節(名誉と忠節)激揚(はげしく天下に広める)呂留良(リョリュウリョウ)(明末清初期の思想家,朱子学者.明の滅亡後,清朝に出仕することを拒み再三の招聘にも応じず在野での講学,著述や出版事業に専念した.朱子学を教条主義的に理解し,政治論では,復古的な理想主義に依拠して井田・封建の制の復活や華夷の別を唱え,中央集権的な専制王朝体制を鋭く批判した.その没後に,彼の教説に私淑した曽静が,清朝打倒の謀反を企図して発覚したため,彼の所説は危険視され,その墓は暴かれ,著述は禁書とされた)、錢謙益(センケンエキ)(明末・清初の学者,詩人。明の滅亡後,一時南京の福王を擁立したが,清軍に降伏して,これに仕えた。そのため,彼の死後,乾隆帝は2朝に仕えた不忠の臣として非難し,その著書をすべて禁止した)膻臊(センソウ)(生臭い、異民族のこと)竊據(セッキョ)(土地を占據する)憤惋(フンワン)(いきどほりうらむこと)喪元(ソウゲン)(首を失う。殺される。元は頭)糜躯(ビク)(身を粉にしてつくす)蕉(ショウ)(雑草)

8名義(名譽と道義)苦節(逆境にあっても、自分の信念や態度を固く守りとおす心)撊然(カンゼン)(怒って)大重(大きく重い任務。重大な責任。大任)

 

(漢文)

1大猷大君、希世英辟也、其崇仰烈祖如天、孶孶以紹述爲務、既営造日光山大廟、極其鉅麗、以耀神威于四遐、一日會群臣于朝、使大臣宣旨曰、吾意願使烈祖之廟、千萬世靡廃毀、其策如何而可也、衆瞠目莫敢發片言、島田幽也、進而言曰、今日惟修葺豊太閤廟、則烈祖之廟、可以保千載無虞、衆爲之愕爾、大猷大君曰、勝國之廟、任其壊堕、不復補理、古之法為然、豊國廟安可再修、遂不見聴用、幽也在稠衆中、獨克吐斯伉直激觸之言、足称奇士、顧終不能動英主聴者、是有故也、

2烈祖以神武、代豊臣氏有天下、而並時列侯、莫非蒙豊太閤恩眷者、間有與烈祖騈肩等夷之人、祖宗三世、以深仁厚徳涵煦之、而彼之心猶未至全忘豊臣氏私恩、當爾時、一新豊國廟、以鼓舞追慕之情、或致蠢動弗靖者出、則其附豊國廟於廃墜而不問者、乃仁人之設心也、浪華城陥日、不知何人奠金幣於豊國廟者、雑然無數、守廟吏具以聞、烈祖曰、此必太閤所封之諸侯供之也、夫人必全備智仁勇三徳、然後可膺神明之號、太閤未有一、奚容其冒称乎、令褫遺像冠服、隳其廟、高臺夫人哀籲、方始許任其壊塌、而不即毀、以烈祖之至仁、何乃忍於勝國如此、洵恐其滋生嬰罪之人、而豫杜未萌也、

3大猷大君之心、即烈祖之心也、借令更閲数十禩之久、諸侯蒙豊臣氏豢養者、不復存、祖宗之惠澤、既浹士民之心、一定靡貳、斯之際而幽也陳此言、以大猷大君之仁明、未必不如石投水、惜哉未値可言之時也、

4雖然幽也之言、亦未盡理、彼其請修造豊國廟者、将以此感化代興之君、使世世営葺烈祖廟、纔以利害論、未及至當之道也、古来開創之君、未有仇視勝朝者、矧烈祖長湫奏捷、尋與太閤媾、遂順事之、蒙其厚遇、又有南明夫人于帰、非可蔑棄、備悉斯理、以入告于大猷大君、未必不犂然乎其心、幽也有所猶未達也、

5清康熙二十三年、聖祖親謁明太祖孝陵、由甬道旁行、諭扈従諸臣、皆於門下馬、上行三跪九叩頭禮、詣寶藏前、行三獻禮、出復由甬道旁行、賞齎守陵内監及陵戸人等有差、諭禁樵採、命地方官、厳加巡察、父老従観者数萬人、皆感泣、総督王新命刻石紀事、嗣後親謁者非一、遣使致奠者、年々勿替、其崇敬如此、

6則一新陵廟不使壊隳、又不待乎言、故清論者、称以爲古今未有之盛擧、又以爲清億萬載之丕業由此也、予静心夷考、清政法峻酷、風習忮懻、迥不及本邦、獨是一擧則似勝、此固由聖祖識度之卓出、而左當察國体之絶殊耳、清制郡縣而非封建、未始有勝國邦之僅存者、太祖太宗世祖三世、屠僇明生霊千有餘萬、而取天下、力脅威制、士民不敢蠕動、聖祖中季四顧寰區、無一足畏憚、惟吾所欲爲、有何窒礙、試使聖祖生于本邦、丁勝朝諸侯林立之日、断不能行斯事、可知其勢之不同、非徳有優與劣也、

7清之滅明也、其抗我者、雖藎臣烈士、立捽而戮之、其靦顔服従者、寵秩錫賚、煜耀厥躯、即大臣歴事二姓、如褚淵馮道之亡耻、榮遇軼于前代、不少被譙譴、更閲四五世、迄雍正乾隆始、激揚名節、而呂留良、錢謙益輩、始爲天下重犯、此擧大不満人意、然其揆時裁宜、猶庶乎英主之權、清以膻臊、竊據中州、中州士民、固已深抱憤惋、競思喪元糜躯以攖其鋒、反者如澤蕉然、

8若使更崇尚名義、則其苦節益甚、撊然不屈下、勢不盡殄戮海内士庶不止、故清主雖酷暴、而其始不責節烈、務招来之、待後代孫子、方大重名教、亦不失爲仁智之擧、然則天下至當之擧、猶且相時而施方可行、不然必有所障閼難通、此可以悟勝朝遺廟之修造、自有其時矣、