(要約)
蘇軾や楊慎のように才能に恵まれ物事に捉われないはずの人物が、礼法では硬直的な解釈を行い到底実行不可能な要求を他人にしてしまうのはなぜか。彼らは自身の修養が不十分なまま学問を身に付けたため、思いやりがなく他人に厳しい要求をしてしまう。こうした内面不全の心理を理解すれば欧陽脩、王陽明、唐荊川らの偉人の言行のゆがみについても理解できるようになる。
(現代語訳)
1南朝宋の劉道隆は謝超宗(シャチョウソウ)にむかってこう言った。「あなたは珍しい宝をお持ちと聞きますが、見せていただけますか」と。謝超宗は「窮乏して家の中はがらんどうです。宝など有るものですか」と言った。劉道隆は武人であるためよく知らずに禁忌である謝超宗の亡父の名(謝鳳)に觸れてこう言った。「朝方に皇帝の宴会に同席したときに、皇帝は貴君には鳳毛があるとおっしゃっていました」と。謝超宗は裸足で家に帰ってしまった。劉道隆は謝超宗が鳳毛を探しに行ったのだと思い暗くなるまで待ったが果たせず去った。陸象山は呂祖謙に送った手紙でこう言っている。「蘇軾・蘇轍の兄弟は親の喪に服している三年間は詩文を禁断していた。これは喪礼をよく知っていたということだ」と。後世の人たちはこの説を墨守し、皆喪中に詩を作ることは大罪だと考えた。明の第十二代嘉靖帝が従兄である十一代正徳帝の後を継いで即位した際、皇帝ではなかった実父(興献王)を「皇考(亡き父帝)」と呼ぶか「皇叔父(皇帝の叔父)」と呼ぶかを巡って、儒教的な礼儀を重視する官僚側と、実父の権威を高めたい嘉靖帝側が激しく対立した。官僚の楊慎は興奮してこう言った。「國家は百五十年間、我々士を養ってきた。今日こそは節義のために死すべきである」と。そして多くの役人を集めて左順門にひざまずいて、明の太祖朱元璋や第十代の名君弘治帝の名前を大声で叫んだ。また門をゆすり大声で泣くと、民衆も皆泣き、声は宮中を震わせた。嘉靖帝は激怒し礼儀を重視する家臣二百二十人を逮捕した。
2そもそも死者の生前の名を呼ぶことを避けるようになったのは周に始まり、聖王の定めにもなった。しかしこれを行うについてもおのずから適切な限度があり、過度に偏ったとり行いをしてはならない。韓愈が「諱辯」を著して、李賀の父の名(晋粛)が「進士」の「進」と同音であるため李賀が進士試験を受けられないとされた際、「父の名が『晋』だからといって『進』を受けられないなら、父の名が『仁』なら子は『人』になれないのか」と極端な避諱の風潮を痛烈に批判したのもこのためである。ましてや劉道隆は無骨な田舎者であり、謝超宗の亡父の名に触れてしまったのも悪意からではない。徐々に教えてやればよいことであり、何で裸足で逃げ出して果てしない恥辱を与える必要があっただろうか。喪中に詩を作ることは、その対句の技巧に凝ったものや、言葉遣いが華麗なものは、まさに禁止すべきである。しかし深いまごころを述べたものであれば、何で無理やり気持ちを抑えてまで作るのを止める必要があろうか。詩経の中で、孝子が賦役に行って家に居なかったため親の没後に孝養を尽くせなかったことを悲しんだ詩である「蓼莪衷衷の篇」などは、父母の喪が終って始めて作れるものであろうか。東晋の詩人である孫綽は、「肉親が亡くなった苦しみにあってから夏と冬を経て悲しみに耐えず詩一首を作った」と言っている。宋代の文学者王十朋は「父が世を去って五十日経ち、五言律詩四十字を書いて限りない恩にに寄せた」と言っている。つまり古の賢人の中にも服喪の礼にこだわらない者がいたということである。
3嘉靖帝の父親の処遇の是非をめぐる議論は騒々しくまとまりがつかなかった。嘉靖帝側の張璁・桂萼が必ずしも誤っていたわけではなく、礼儀重視の楊廷和と楊慎父子が必ずしも正しいわけではない。張璁・桂萼の人柄は憎むべきだが、人柄を理由にその人の言うことまでも排除してよいわけではない。楊廷和と楊慎父子が嘉靖帝にその実父を父と呼ばせず、格下げして叔父と呼ばせようとしたことは決して理にかなったことではない。思うに人の意見は同じではない。しかし楊慎がもし本当に嘉靖帝を諫めようと思うのなら、当然君主に対してものを申し上げる決まりや形があるはずだ。帝の父親の処遇は国家の安危に関わることではないのに、何で仲間を集めて力ずくで争い、宮殿の門をゆるがし大声で泣くようなことまでするのか。何で太祖や弘治帝の霊名を大声で呼んで主君を脅迫するようなことまでするのか。そもそも父子間の倫理から言えば、諱を犯すのは重大な罪であるし、三年の喪の期間中は断じて作詩は許されない。君臣間の、常法からすれば、他家を相続した子の実父を決して父と呼ぶことは許されず、死をかけてこれを争うということになる。頭の固い儒学者であればあるいはこうしたことを本当にやるかもしれない。しかし世俗を超越した人士であればそんなことはしない。謝超宗・蘇軾・楊慎の三人は生まれつきの才能がひときわ優れており、平素はものにこだわらず無遠慮で、あまり世間の評判や行儀作法を気にしないと言われていたが、今回の議論や行動では反対に形式にこだわって動きが取れなくなっている。これは世間一般の人々から見ると不思議なことだが、識者からは一目瞭然のことなのである。
4つまり君子の道を実践するとは、自分自身の心身を修めることから始まり、家や國へそして天下へと教え広めて行くことなのである。妻子や兄弟から始め、親族、友人、さらに民衆に至るのであって、水の流れのように正しい順序があり、少しも踏み越えることはない。そしてそのような人は、心の中に思いやりがあり、学問は自分の修養のために行い、自分自身は厳しく反省するが、民衆への要求は極めて軽く、敢えて実行が困難なことを人に望んだりしない。このためこの人の発言は明快で筋道が通っており従いやすい。その説く道は、平易で行きやすい。ただきままな文士たちは孝悌も礼儀も自ら体験したことがなく、人として守るべき道も物事の法則もよく理解することができない。自身の内には隠れた真心などは無いくせに、外にはきらびやかな美をみせびらかす。自分自身は勝手気ままに行動して失敗することが多いのに、人には厳しい規則を押し付ける。彼らの言うことが苛酷で実行が困難なことは当然なのである。
5韓非子がこう言っている。「宋の人が道を進んでいたが、その馬が進もうとしなくなったので、これを倒して川の中に放り込んだ。再び道を進んでいると、また馬が進まなくなったので、また倒して川に放り込んだ。これを三度くりかえした。名御者である造父が馬を威圧する方法でさえもこれほどでは無かった。造父の方法を理解せずに、むやみにに力づくで抑えるのは馬の取り扱いにとっては無益なことである」と。それゆえ物の事情に通じない者は必ずその物にひどい扱いをする。宋の人が馬を扱うのが乱暴だったのは、まさに馬の性質を理解していなかったことを表している。勝手気ままな文士たちが、持論を主張し教えを広めようとしても、かえってあのように苛酷な結果になるのも、同じ理屈である。彼らも静かな夜に反省してみれば、必ず自分の行いに不足が多いことを恥じることになるだろう。しかし心を奮い起こして痛切に自らを悔い改めることもできないくせに、自分の誠実で立派な行いを外に示そうと切望する。こんなことだから、身を律する基準を解釈すれば必ず極端に苛烈なものになり、人を教える方法を議論すれば完ぺきを要求する方向に流れることになる。
6ある人がこう言った。「大悪人はかえって忠臣のように見え、大詐欺師はかえって信頼できる人間に見える。だから『人の心は山川より複雑で入り組んでおり、知るのが難しい』と言われるのだ。彼らが浮ついているくせに確実な行ないをみせびらかし、わがままで勝手気ままなくせにかしこまって厳格な話を主張するのは、もともと小人物によくあることなのだ」と。この論に見る所が無いとは思わない。しかしここまでになってしまうのは、必ず邪悪で不良な人物だけである。謝超宗・蘇軾・楊慎の三人は品行に欠点があるとはいえ、悪人とまでみなすべきではない。ただ真の仁義を会得していないくせに軽々しくそれを言い、自分のことのように人のことを思いやる境地に達していないくせに軽率に人を責める。これが言葉や行為が過激になり人情から遠くなる理由である。このことをよく理解して古人を見てみれば、あの北宋随一の名文家であった欧陽脩が作詩のうまさを自慢し、陽明学を大成した王陽明が人間の本性や宇宙の原理についてしゃべりたがり、明代の博識な文学者唐荊川(トウケイセン)がむやみに武功を挙げることを願った理由も、東晋の温嶠が犀の角を燃やして深淵を照らして怪物の有様を実見したように、明らかに理解できるようになるだろう。
(読み下し文)
1宋の劉道隆、謝超宗(シャチョウソウ)に謂ひて曰く「君に異物有りと聞く。見るを得べきや」と。超宗曰く「懸磬(ケンケイ)の室に復た異物有るや」と。道隆武人にして識(し)ること無く正に其の父の名に觸れて曰く「旦(あした)に至尊に侍宴(ジエン)し、君に鳳毛(ホウモウ)有りと説(と)く」と。超宗従跣(トセン)にて内に還る。道隆鳳毛を検覓(ケンベキ)すと謂(おも)ひ、闇(くら)きに至るまで待ち得ずして乃(すなは)ち去る。陸子静、呂伯恭に與(あた)ふ書に云く「眉山兄弟,喪に居り再期(サイキ)の内に詩文を禁断す。其れ亦た喪礼(ソウレイ)を講聞(コウブン)するなり」と。後人此の説を墨守し、類(みな)制中に詩を賦(フ)すを以て大罪と為す。嘉靖大礼の議、楊慎(ヨウシン)奮ひて曰く「國家士を養ふこと百五十年。節に伏し義に死するは正に今日に在り」と。遂に群寮(グンリョウ)を會(あつ)め左順門に跪伏し、高皇帝、孝宗皇帝を大呼する者有り。慎等又門を撼(ゆす)り大哭(タイコク)し、衆皆哭(な)き、声闕廷(ケツテイ)を震はす。帝赫怒し、尽(ことごと)く礼を議(あげつら)ふ臣二百二十人を逮(とら)ふ。
2夫れ諱(いみな)を避くるは周に昉(はじ)まり、亦た聖王の制(さだめ)に属(いた)る。然れども之を行ふに自(おのづ)から中道有り。僻執(ヘキシュウ)に過(す)ぐべからず。韓子之(これ)が辯を著す所以(ゆゑん)なり。矧(いはん)や劉道隆麤笨(ソホン)の一鄙夫なり。諱に觸るるも無心より出る。正に徐徐に誨(をし)へ示すべし。何ぞ必ずしも徒跣(トセン)にて逃走し無涯の辱(はづかしめ)を加ふるや。制中に詩を綴るは、、其の對偶(タイグウ)精切にして摛藻(チソウ)春麗(シュンレイ)なれば當(まさ)に禁ずべし。若(も)し乃(すなは)ち情を攄(の)べ思ひを抒(の)ぶること、深衷(シンチュウ)より發する者なれば奚(なん)ぞ必ずしも剛制して作ること勿(な)きや。蓼莪(リョウガ)衷衷の篇、豈に必ず父母の喪終りて後に始めて賦(フ)すや。孫綽(ソンシャク)曰く「荼毒(トドク)に丁(あた)りてより載(すなは)ち寒暑を離(へ)て哀號(アイゴウ)に勝(た)へず詩一首を作る」と。王十朋(オウジュウホウ)曰く「先君子(センクンシ)世を去り五十日、四十字を書き以て罔極(モウキョク)の恩に寄す」と。則ち此の礼に古賢固(もと)より未だ始めから拘はらざる者有るなり。
3嘉靖議礼の是非、聚訟(シュウショウ)鬨然(コウゼン)たり。張桂未だ必ずしも非ならず。而して楊廷和父子未だ必ずしも是ならざるなり。張桂其の人醜(にく)むべし。而して人を以て言を廃し難し。楊氏父子、必ず世宗をして其の父を父とせず降(くだ)りて叔父と為さしまんと欲するは、決して之(これ)を行ふべき理無し。顧(おも)ふに人の所見同じからず。慎果して諫めんと欲さば、自(おのづ)から君に告ぐる體有り。其の事既に宗社の安危に係る所に非ざれば、何ぞ黨を糾(あつ)め力争し殿門を撼(ゆるが)し大哭するに至るや。何ぞ先帝の霊を大呼し以て要君するに至るや。夫れ父子の倫(みち)を以て言はば則ち諱を犯すを以て至大の罪と為す。三年の喪に断じて作詩を許さず。君臣の彝(のり)を以て論ずれば則ち本生父(ホンセイフ)決して考を称するを聴さず、死を以て之を争ふ。此に迂腐の儒生在らば或は之を有(な)さん。飄逸(ヒョウイツ)の士なれば當(まさ)に然らざるなり。謝蘇楊三子天才秀麗、平素倜儻(テキトウ)放驁(ホウゴウ)、甚しく名検を矜(たっと)ばずと曰ふと雖も、今の立論制行、反(かへっ)て拘滞(コウタイ)に陥る。此れ衆の疑ふ所なれど実に識者の以て一見瞭然たる所なり。
4蓋し君子の行道を実践するや、心身由(よ)り家國へ天下へ教へを敷くなり。妻子昆弟より始め、親眷(シンケン)朋舊(ホウキュウ)烝黎(ジョウレイ)に至る。秩秩(チツチツ)として序(ついで)有り、少しも躐越(リョウエツ)せず。且つ若(かくのごとき)人中心に仁恕あり、學は以て己の爲にす。身を検するに巌しく、衆を責むること綦て軽し。敢て超遠難行の事を以て人に望まず。故に其の言を為すこと、明暢(メイチョウ)にして遵(したが)ひ易きなり。其の道と為すこと、坦夷(タンイ)にして由(よ)り易きなり。獨だ佚蕩(テットウ)の士のみ、孝弟礼義、未だ嘗て己に體験せず、人紀(ジンキ)物則(ブツソク)、茫(ボウ)として能く辨(わきま)へず。内には冥冥(メイメイ)の実(まこと)無く、外には的然(テキゼン)の美を襮(さら)す。身に恣睢(シキ)の失(あやまち)多く、人には森嚴の規(のり)を以て律す。宜(むべ)なるかな、其の苛酷にして行ふを可とすることの難きことをや。
5韓非曰く「宋人に道を取る者有り。其の馬進まず。倒して之を雞水(ケイスイ)に投じ、又復(ふたた)び道を取る。其の馬進まず、又倒して之を雞水に投ず。此の如き者(こと)三たび。造父(ゾウホ)の馬を威(おど)す所以(ゆゑん)と雖も、此れを過ぎず。造父の道を得ずして徒(いたづら)に其の威を得るは御に於て益無し」と。故に物の情に通ぜざる者、其の物を待(あしら)ふこと必ず酷(ひど)し。宋人之(これ)馬を馭するに於て暴(あら)く、適(まさ)に其の未だ馬の性に達せざるを見(あらは)す。蕩肆(トウシ)の士、論を吐き教へを設けど、反(かへっ)て斯の如きの過厳となるは蓋し同一の理なり。彼静夜に顧省せば未だ必ずしも己の行ひの歉(あきたらざる)こと多きを恥ざることなし。既に中心に奮励し痛く自ら悛改すること能はざるに、亦た篤誠(トクセイ)の行ひを以て自(みづか)ら見(あらは)すことを庶幾(ショキ)す。是以(これゆゑ)範身の矩(のり)を辨(ただ)さば必ず峻烈に陥る。人を誨(をし)ふる方(てだて)を論ぜば、動(ややもすれば)責備(セキビ)に流るるのみ。
6或(あるひと)云く「大姦は忠に似、大詐は信に似る。故に曰く人心は山川より険し。彼、浮浪なるに確実の行ひを炫(てら)ひ、恣肆(シシ)なるに謹厳の論を騰(あ)ぐるは固より小人の常なり」と。此の論無見と為さず。然れども人の此に至るは、必ず姦険不良の輩なり。三子は行誼(ギョウギ)に疵(きず)有りと雖も。亦た奚(なん)ぞ姦険を以て目すべきや。特(た)だ其れ仁義の実を體認(タイニン)せず、容易に之を言ひ、推己恕人(ツイキジョジン)の道に達せずして、率爾(ソツジ)に人を責む。言行矯激にして情に近からざる所以(ゆゑん)なり。苟(いやしく)も斯(こ)の理を諳(そらん)じ以て古人を参看せば、則ち夫(か)の六一(リクイツ)の工詩(コウシ)を誇り、陽明の性理を譚(かた)るを好み、唐荊川(トウケイセン)の妄(みだり)に折衝の勲(いさお)を希(ねが)ふこと、直(た)だ然犀(ネンサイ)怪しきを照すが如くに明らかなるのみ。
(語釈)
1謝超宗(シャチョウソウ)(南朝の文人。祖父は南朝文化を代表する文人である謝霊運、父は謝鳳)懸磬(ケンケイ)(窮乏して家の中ががらんどうなさま)旦(あした)(朝)至尊(天子、皇帝)侍宴(ジエン)(宴席ではべる)鳳毛(ホウモウ)(鳳凰の毛、文才のあることの喩え)従跣(トセン)(はだし、素足)検覓(ケンベキ)(探し求める)陸子静(陸象山 南宋の思想家。心の内省を重んじて「心即理」説を唱え、朱熹の「性即理」説と対立する一派をなした。その思想は王陽明に継承され、陽明学の源流となった。)呂伯恭(呂祖謙。南宋の思想家.朱熹やと親しくしていただけでなく陸象山とも親交を持った.また朱熹と陸象山が互いの思想を開陳し合うという鵝湖の会を企画した.さらに朱熹とは,後世,宋学を学ぶ者の必読書となる《近思録》を編纂している)眉山兄弟(蘇軾・蘇轍の兄弟)再期(サイキ)(三年の喪、父母の喪)喪礼(ソウレイ)(葬礼)講聞(コウブン)(ならい聞く)制中(喪中)嘉靖大礼の議(明第十二代嘉靖帝の亡父興献王の処遇をめぐる政争。明の第十一代・正徳帝が後嗣なく没した後、従弟の嘉靖帝が即位した際、実父(興献王)を「皇考(亡き父帝)」と呼ぶか「皇叔父」と呼ぶかを巡って起きた。儒教的な伝統・礼論を重視する官僚派(楊慎ら)と、実父の権威を高めたい嘉靖帝側が激しく対立した。数年にわたる混乱の後、最後は嘉靖帝の望み通りに決着したものの、不毛な論争の後、嘉靖帝は政治への意欲を失い不老不死の道教に逃避するようになった)楊慎(ヨウシン)(明の学者。大礼の議が起こると,皇帝の意向に反した大学士の父楊廷和は依願退官し,同調した息子は体罰の上,雲南永昌衛(保山)に永久流刑となり,配所で没した)群寮(グンリョウ)(多くの役人)高皇帝(明の太祖朱元璋の諡)孝宗皇帝(明の第十代弘治帝。明君とされる)大哭(タイコク)(大声で泣く)闕廷(ケツテイ)(宮中、御所)
2僻執(ヘキシュウ)(偏った行い)韓子(韓愈 唐の文学者・思想家)辯(韓愈の「諱辯」。韓愈は李賀の父の名(晋粛)が「進士」の「進」と同音であるため李賀が進士試験を受けられないとされた際、「父の名が『晋』だからといって『進』を受けられないなら、父の名が『仁』なら子は『人』になれないのか」と極端な避諱の風潮を痛烈に批判した)麤笨(ソホン)(無骨な)對偶(タイグウ)(詩文の対句)精切(くわしく適切)摛藻(チソウ)(巧みな詞章)春麗(シュンレイ)(春の花のように麗しい)深衷(シンチュウ)(深い心、まごころ)剛制(つとめて抑える、意志を固くして制限する)蓼莪(リョウガ)衷衷の篇(詩経の中で、孝子が賦役に行って家に居なかったため、親の没後に孝養を尽くせなかったことを悲しんだ詩)孫綽(ソンシャク)(東晋の文学者)荼毒(トドク)(苦痛)哀號(アイゴウ)(悲しみ叫ぶこと)王十朋(オウジュウホウ)(宋代の文学者)先君子(センクンシ)(亡父の敬称)四十字(五言律詩。一句五言で、八句からなる近体詩)罔極(モウキョク)の恩(限りない恩、父母の恩)
3聚訟(シュウショウ)(言い争ってまとまりがつかないこと)鬨然(コウゼン)(騒々しい)張桂(張璁(チョウソウ)・桂萼(ケイガク) 嘉靖帝側の官僚)楊廷和父子(楊廷和と楊慎)世宗(嘉靖帝)體(きまり、かたち)要君(勢いをたのんで主君に強要する)彝(のり)(常道、常法)本生父(ホンセイフ)(他家を相続した子の実父)考(父)迂腐(まわりくどくて役にたたない)飄逸(ヒョウイツ)(世俗のわずらわしさを気にしないでのびのびしていること)謝蘇楊三子(謝超宗・蘇軾・楊慎)倜儻(テキトウ)(気持ちが大きく、ものにこだわらないこと)放驁(ホウゴウ)(慎まない)名検(名儀、名分、名誉 世間の評判や行儀作法)拘滞(コウタイ)(型にはまって融通がきかない。こだわって動きがとれない)
4親眷(シンケン)(親族)朋舊(ホウキュウ)(朋友)烝黎(ジョウレイ)(民衆、もろもろの民)秩秩(チツチツ)(水が流れるように、順序正しく)躐越(リョウエツ)(踏み越える)中心(心の中)身を検する(反省する、自己批判する)明暢(メイチョウ)(明快で筋道が通っていること)坦夷(タンイ)(平らか、なだらか)佚蕩(テットウ)(しまりがない、だらしがない。遊びの度が過ぎていること,放蕩に及ぶこと)孝弟(父母に孝行で、兄によくしたがうこと)人紀(ジンキ)(人として守るべき道、倫理)物則(ブツソク)(物事の法則、万物の上に存在する自然の法則)冥冥(メイメイ)の実(まこと)(人の目につかないまごころ)的然(テキゼン)(明らかな)恣睢(シキ)(かって気ままに行動していばる)
5雞水(ケイスイ)(川の名)造父(ゾウホ)(周の穆王につかえた名御者)蕩肆(トウシ)(勝手気まま)篤誠(トクセイ)(情け深く真心がある)自(みづか)ら見(あらは)す(自分の徳を外に示す)庶幾(ショキ)(こいねがう) 責備(セキビ)(完全であることを要求する)
6人心は山川より険し(荘子雑篇列禦寇 「凡そ人心は山川より険しく、天を知るより難し」)恣肆(シシ)(わがまま、勝手気まま)行誼(ギョウギ)(品行)體認(タイニン)(体験的に会得すること)推己恕人(ツイキジョジン)(自分の心を元に人を思いやること、自分の事のように人を思いやる)率爾(ソツジ)(軽率)六一(リクイツ)(欧陽脩 北宋随一の名文家で、唐宋八家の一人)工詩(コウシ)(詩を作るのがうまいこと)唐荊川(トウケイセン)(唐順之 明代中期の文学者。倭寇防御に功あり、官は右僉都御史 、鳳陽巡撫 に至った。学識博大で天文、地理、音楽、兵法、数学にまで通じ、古今の文献を内容別に編集し、左、右、文、武、儒、稗の六編を著した。王陽明の弟子王畿 に良知説を学び、散文家としては、初め偽古文派七子に倣った文を制作したが、のち悟って古文家として王慎中、茅坤、帰有光らと並称された(日本大百科全書))折衝(敵が攻めてくるのをくじき止める)然犀(ネンサイ)(暗い所を明らかに照らすこと。東晋の温嶠が犀の角を燃やして深淵の怪物の有様を実見した故事による)
(漢文)
1宋劉道隆謂謝超宗曰、聞君有異物、可得見乎、超宗曰、懸磬之室、復有異物耶、道隆武人無識、正觸其父名曰、旦侍宴至尊、説君有鳳毛、超宗従跣還内、道隆謂検覓鳳毛、至闇待不得乃去、陸子静與呂伯恭書云、眉山兄弟居喪再期之内、禁断詩文、其亦講聞乎喪礼也、後人墨守此説、類以制中賦詩爲大罪、嘉靖大礼之議、楊慎奮曰、國家養士百五十年、伏節死義正在今日、遂會群寮跪伏左順門、有大呼高皇帝孝宗皇帝者、慎等又撼門大哭、衆皆哭、声震闕廷、帝赫怒、尽逮議礼臣二百二十人、
2夫避諱昉於周、亦属聖王之制、然行之自有中道、不可過於僻執、韓子所以著之辯也、矧劉道隆麤笨一鄙夫、觸諱出於無心、正可徐徐誨示、何必徒跣逃走、加無涯之辱耶、制中綴詩、其對偶精切、摛藻春麗者、當禁、若乃攄情抒思、發乎深衷者、奚必剛制而勿作、蓼莪衷衷之篇、豈必終父母之喪、而後始賦耶、孫綽曰、自丁荼毒、載離寒暑、不勝哀號、作詩一首、王十朋曰、先君子去世五十日、書四十字以寄罔極之恩、則此礼古賢固有未始拘者也、
3嘉靖議礼之是非、聚訟鬨然、張桂未必非、而楊廷和父子未必是也、張桂其人可醜、而難以人廃言、楊氏父子、必欲使世宗不父其父、而降爲叔父、決無可行之理、顧人之所見不同、慎果欲諫、自有告君之體、其事既非宗社安危所係、何至糾黨力争、撼殿門大哭、何至大呼先帝之霊以要君、夫以父子之倫言、則以犯諱爲至大之罪、三年之喪、断不許作詩、以君臣之彝論、則本生父決不聴称考、以死争之、此在迂腐儒生、或有之、飄逸之士、不當然也、謝蘇楊三子雖曰天才秀麗、平素倜儻放驁、不甚矜名検、而今之立論制行、反陥於拘滞、此衆之所疑、而実識者所以一見瞭然也、
4蓋実践君子行道也、由心身而家國而天下敷教也、始於妻子昆弟、至於親眷朋舊烝黎、秩秩有序、不少躐越、且若人中心仁恕、學以爲已、巌於検身、而責衆綦軽、不敢以超遠難行之事望於人、故其為言、明暢易遵也、其為道、坦夷易由也、獨佚蕩之士、孝弟礼義、未嘗體験乎己、人紀物則、茫不能辨、内無冥冥之実、而外襮的然之美、身多恣睢之失、而律人以森嚴之規、宜矣其苛酷而難可行也、
5韓非曰、宋人有取道者、其馬不進、倒而投之雞水、又復取道、其馬不進、又倒而投之雞水、如此者三、雖造父之所以威馬、不過此矣、不得造父之道、而徒得其威、無益於御、故不通物之情者、其待物必酷、宋人之暴於馭馬、適見其未達馬之性、蕩肆之士、吐論設教、反如斯之過厳、蓋同一理也、彼静夜顧省、未必不恥己行之多歉、既不能中心奮励、痛自悛改、而亦庶幾以篤誠之行自見、是以辨範身之矩、必陥於峻烈、論誨人之方、動流於責備耳、
6或云、大姦似忠、大詐似信、故曰、人心険於山川、彼浮浪而炫確実之行、恣肆而騰謹厳之論、固小人之常也、此論不為無見、然人之至此、必姦険不良之輩也、三子者雖行誼有疵、亦奚可目以姦険、特其不體認仁義之実、而容易言之、不達推己恕人之道、而率爾責人、所以言行矯激不近情也、苟諳斯理、以参看古人、則夫六一之誇工詩、陽明之好譚性理、唐荊川之妄希折衝之勲、直如然犀照怪之明耳、