侗庵新論 第九十九

(要約)

蘇軾や楊慎のように才能に恵まれ物事に捉われないはずの人物が、礼法では硬直的な解釈を行い到底実行不可能な要求を他人にしてしまうのはなぜか。彼らは自身の修養が不十分なまま学問を身に付けたため、思いやりがなく他人に厳しい要求をしてしまう。こうした内面不全の心理を理解すれば欧陽脩、王陽明、唐荊川らの偉人の言行のゆがみについても理解できるようになる。

 

(現代語訳)

南朝宋の劉道隆は謝超宗(シャチョウソウ)にむかってこう言った。「あなたは珍しい宝をお持ちと聞きますが、見せていただけますか」と。謝超宗は「窮乏して家の中はがらんどうです。宝など有るものですか」と言った。劉道隆は武人であるためよく知らずに禁忌である謝超宗の亡父の名(謝鳳)に觸れてこう言った。「朝方に皇帝の宴会に同席したときに、皇帝は貴君には鳳毛があるとおっしゃっていました」と。謝超宗は裸足で家に帰ってしまった。劉道隆は謝超宗が鳳毛を探しに行ったのだと思い暗くなるまで待ったが果たせず去った。陸象山は呂祖謙に送った手紙でこう言っている。「蘇軾・蘇轍の兄弟は親の喪に服している三年間は詩文を禁断していた。これは喪礼をよく知っていたということだ」と。後世の人たちはこの説を墨守し、皆喪中に詩を作ることは大罪だと考えた。明の第十二代嘉靖帝が従兄である十一代正徳帝の後を継いで即位した際、皇帝ではなかった実父(興献王)を「皇考(亡き父帝)」と呼ぶか「皇叔父(皇帝の叔父)」と呼ぶかを巡って、儒教的な礼儀を重視する官僚側と、実父の権威を高めたい嘉靖帝側が激しく対立した。官僚の楊慎は興奮してこう言った。「國家は百五十年間、我々士を養ってきた。今日こそは節義のために死すべきである」と。そして多くの役人を集めて左順門にひざまずいて、明の太祖朱元璋や第十代の名君弘治帝の名前を大声で叫んだ。また門をゆすり大声で泣くと、民衆も皆泣き、声は宮中を震わせた。嘉靖帝は激怒し礼儀を重視する家臣二百二十人を逮捕した。

そもそも死者の生前の名を呼ぶことを避けるようになったのは周に始まり、聖王の定めにもなった。しかしこれを行うについてもおのずから適切な限度があり、過度に偏ったとり行いをしてはならない。韓愈が「諱辯」を著して、李賀の父の名(晋粛)が「進士」の「進」と同音であるため李賀が進士試験を受けられないとされた際、「父の名が『晋』だからといって『進』を受けられないなら、父の名が『仁』なら子は『人』になれないのか」と極端な避諱の風潮を痛烈に批判したのもこのためである。ましてや劉道隆は無骨な田舎者であり、謝超宗の亡父の名に触れてしまったのも悪意からではない。徐々に教えてやればよいことであり、何で裸足で逃げ出して果てしない恥辱を与える必要があっただろうか。喪中に詩を作ることは、その対句の技巧に凝ったものや、言葉遣いが華麗なものは、まさに禁止すべきである。しかし深いまごころを述べたものであれば、何で無理やり気持ちを抑えてまで作るのを止める必要があろうか。詩経の中で、孝子が賦役に行って家に居なかったため親の没後に孝養を尽くせなかったことを悲しんだ詩である「蓼莪衷衷の篇」などは、父母の喪が終って始めて作れるものであろうか。東晋の詩人である孫綽は、「肉親が亡くなった苦しみにあってから夏と冬を経て悲しみに耐えず詩一首を作った」と言っている。宋代の文学者王十朋は「父が世を去って五十日経ち、五言律詩四十字を書いて限りない恩にに寄せた」と言っている。つまり古の賢人の中にも服喪の礼にこだわらない者がいたということである。

嘉靖帝の父親の処遇の是非をめぐる議論は騒々しくまとまりがつかなかった。嘉靖帝側の張璁・桂萼が必ずしも誤っていたわけではなく、礼儀重視の楊廷和と楊慎父子が必ずしも正しいわけではない。張璁・桂萼の人柄は憎むべきだが、人柄を理由にその人の言うことまでも排除してよいわけではない。楊廷和と楊慎父子が嘉靖帝にその実父を父と呼ばせず、格下げして叔父と呼ばせようとしたことは決して理にかなったことではない。思うに人の意見は同じではない。しかし楊慎がもし本当に嘉靖帝を諫めようと思うのなら、当然君主に対してものを申し上げる決まりや形があるはずだ。帝の父親の処遇は国家の安危に関わることではないのに、何で仲間を集めて力ずくで争い、宮殿の門をゆるがし大声で泣くようなことまでするのか。何で太祖や弘治帝の霊名を大声で呼んで主君を脅迫するようなことまでするのか。そもそも父子間の倫理から言えば、諱を犯すのは重大な罪であるし、三年の喪の期間中は断じて作詩は許されない。君臣間の、常法からすれば、他家を相続した子の実父を決して父と呼ぶことは許されず、死をかけてこれを争うということになる。頭の固い儒学者であればあるいはこうしたことを本当にやるかもしれない。しかし世俗を超越した人士であればそんなことはしない。謝超宗・蘇軾・楊慎の三人は生まれつきの才能がひときわ優れており、平素はものにこだわらず無遠慮で、あまり世間の評判や行儀作法を気にしないと言われていたが、今回の議論や行動では反対に形式にこだわって動きが取れなくなっている。これは世間一般の人々から見ると不思議なことだが、識者からは一目瞭然のことなのである。

つまり君子の道を実践するとは、自分自身の心身を修めることから始まり、家や國へそして天下へと教え広めて行くことなのである。妻子や兄弟から始め、親族、友人、さらに民衆に至るのであって、水の流れのように正しい順序があり、少しも踏み越えることはない。そしてそのような人は、心の中に思いやりがあり、学問は自分の修養のために行い、自分自身は厳しく反省するが、民衆への要求は極めて軽く、敢えて実行が困難なことを人に望んだりしない。このためこの人の発言は明快で筋道が通っており従いやすい。その説く道は、平易で行きやすい。ただきままな文士たちは孝悌も礼儀も自ら体験したことがなく、人として守るべき道も物事の法則もよく理解することができない。自身の内には隠れた真心などは無いくせに、外にはきらびやかな美をみせびらかす。自分自身は勝手気ままに行動して失敗することが多いのに、人には厳しい規則を押し付ける。彼らの言うことが苛酷で実行が困難なことは当然なのである。

韓非子がこう言っている。「宋の人が道を進んでいたが、その馬が進もうとしなくなったので、これを倒して川の中に放り込んだ。再び道を進んでいると、また馬が進まなくなったので、また倒して川に放り込んだ。これを三度くりかえした。名御者である造父が馬を威圧する方法でさえもこれほどでは無かった。造父の方法を理解せずに、むやみにに力づくで抑えるのは馬の取り扱いにとっては無益なことである」と。それゆえ物の事情に通じない者は必ずその物にひどい扱いをする。宋の人が馬を扱うのが乱暴だったのは、まさに馬の性質を理解していなかったことを表している。勝手気ままな文士たちが、持論を主張し教えを広めようとしても、かえってあのように苛酷な結果になるのも、同じ理屈である。彼らも静かな夜に反省してみれば、必ず自分の行いに不足が多いことを恥じることになるだろう。しかし心を奮い起こして痛切に自らを悔い改めることもできないくせに、自分の誠実で立派な行いを外に示そうと切望する。こんなことだから、身を律する基準を解釈すれば必ず極端に苛烈なものになり、人を教える方法を議論すれば完ぺきを要求する方向に流れることになる。

ある人がこう言った。「大悪人はかえって忠臣のように見え、大詐欺師はかえって信頼できる人間に見える。だから『人の心は山川より複雑で入り組んでおり、知るのが難しい』と言われるのだ。彼らが浮ついているくせに確実な行ないをみせびらかし、わがままで勝手気ままなくせにかしこまって厳格な話を主張するのは、もともと小人物によくあることなのだ」と。この論に見る所が無いとは思わない。しかしここまでになってしまうのは、必ず邪悪で不良な人物だけである。謝超宗・蘇軾・楊慎の三人は品行に欠点があるとはいえ、悪人とまでみなすべきではない。ただ真の仁義を会得していないくせに軽々しくそれを言い、自分のことのように人のことを思いやる境地に達していないくせに軽率に人を責める。これが言葉や行為が過激になり人情から遠くなる理由である。このことをよく理解して古人を見てみれば、あの北宋随一の名文家であった欧陽脩が作詩のうまさを自慢し、陽明学を大成した王陽明が人間の本性や宇宙の原理についてしゃべりたがり、明代の博識な文学者唐荊川(トウケイセン)がむやみに武功を挙げることを願った理由も、東晋の温嶠が犀の角を燃やして深淵を照らして怪物の有様を実見したように、明らかに理解できるようになるだろう。

(読み下し文)

宋の劉道隆、謝超宗(シャチョウソウ)に謂ひて曰く「君に異物有りと聞く。見るを得べきや」と。超宗曰く「懸磬(ケンケイ)の室に復た異物有るや」と。道隆武人にして識()ること無く正に其の父の名に觸れて曰く「旦(あした)に至尊に侍宴(ジエン)し、君に鳳毛(ホウモウ)有りと説()く」と。超宗従跣(トセン)にて内に還る。道隆鳳毛を検覓(ケンベキ)すと謂(おも)ひ、闇(くら)きに至るまで待ち得ずして乃(すなは)ち去る。陸子静、呂伯恭に與(あた)ふ書に云く「眉山兄弟,喪に居り再期(サイキ)の内に詩文を禁断す。其れ亦た喪礼(ソウレイ)を講聞(コウブン)するなり」と。後人此の説を墨守し、類(みな)制中に詩を賦(フ)すを以て大罪と為す。嘉靖大礼の議、楊慎(ヨウシン)奮ひて曰く「國家士を養ふこと百五十年。節に伏し義に死するは正に今日に在り」と。遂に群寮(グンリョウ)を會(あつ)め左順門に跪伏し、高皇帝、孝宗皇帝を大呼する者有り。慎等又門を撼(ゆす)り大哭(タイコク)し、衆皆哭(な)き、声闕廷(ケツテイ)を震はす。帝赫怒し、尽(ことごと)く礼を議(あげつら)ふ臣二百二十人を逮(とら)ふ。

夫れ諱(いみな)を避くるは周に昉(はじ)まり、亦た聖王の制(さだめ)に属(いた)る。然れども之を行ふに自(おのづ)から中道有り。僻執(ヘキシュウ)に過(す)ぐべからず。韓子之(これ)が辯を著す所以(ゆゑん)なり。矧(いはん)や劉道隆麤笨(ソホン)の一鄙夫なり。諱に觸るるも無心より出る。正に徐徐に誨(をし)へ示すべし。何ぞ必ずしも徒跣(トセン)にて逃走し無涯の辱(はづかしめ)を加ふるや。制中に詩を綴るは、、其の對偶(タイグウ)精切にして摛藻(チソウ)春麗(シュンレイ)なれば當(まさ)に禁ずべし。若()し乃(すなは)ち情を攄(の)べ思ひを抒()ぶること、深衷(シンチュウ)より發する者なれば奚(なん)ぞ必ずしも剛制して作ること勿()きや。蓼莪(リョウガ)衷衷の篇、豈に必ず父母の喪終りて後に始めて賦(フ)すや。孫綽(ソンシャク)曰く「荼毒(トドク)に丁(あた)りてより載(すなは)ち寒暑を離()て哀號(アイゴウ)に勝()へず詩一首を作る」と。王十朋(オウジュウホウ)曰く「先君子(センクンシ)世を去り五十日、四十字を書き以て罔極(モウキョク)の恩に寄す」と。則ち此の礼に古賢固(もと)より未だ始めから拘はらざる者有るなり。

嘉靖議礼の是非、聚訟(シュウショウ)鬨然(コウゼン)たり。張桂未だ必ずしも非ならず。而して楊廷和父子未だ必ずしも是ならざるなり。張桂其の人醜(にく)むべし。而して人を以て言を廃し難し。楊氏父子、必ず世宗をして其の父を父とせず降(くだ)りて叔父と為さしまんと欲するは、決して之(これ)を行ふべき理無し。顧(おも)ふに人の所見同じからず。慎果して諫めんと欲さば、自(おのづ)から君に告ぐる體有り。其の事既に宗社の安危に係る所に非ざれば、何ぞ黨を糾(あつ)め力争し殿門を撼(ゆるが)し大哭するに至るや。何ぞ先帝の霊を大呼し以て要君するに至るや。夫れ父子の倫(みち)を以て言はば則ち諱を犯すを以て至大の罪と為す。三年の喪に断じて作詩を許さず。君臣の彝(のり)を以て論ずれば則ち本生父(ホンセイフ)決して考を称するを聴さず、死を以て之を争ふ。此に迂腐の儒生在らば或は之を有(な)さん。飄逸(ヒョウイツ)の士なれば當(まさ)に然らざるなり。謝蘇楊三子天才秀麗、平素倜儻(テキトウ)放驁(ホウゴウ)、甚しく名検を矜(たっと)ばずと曰ふと雖も、今の立論制行、反(かへっ)て拘滞(コウタイ)に陥る。此れ衆の疑ふ所なれど実に識者の以て一見瞭然たる所なり。

蓋し君子の行道を実践するや、心身由()り家國へ天下へ教へを敷くなり。妻子昆弟より始め、親眷(シンケン)朋舊(ホウキュウ)烝黎(ジョウレイ)に至る。秩秩(チツチツ)として序(ついで)有り、少しも躐越(リョウエツ)せず。且つ若(かくのごとき)人中心に仁恕あり、學は以て己の爲にす。身を検するに巌しく、衆を責むること綦て軽し。敢て超遠難行の事を以て人に望まず。故に其の言を為すこと、明暢(メイチョウ)にして遵(したが)ひ易きなり。其の道と為すこと、坦夷(タンイ)にして由(よ)り易きなり。獨だ佚蕩(テットウ)の士のみ、孝弟礼義、未だ嘗て己に體験せず、人紀(ジンキ)物則(ブツソク)、茫(ボウ)として能く辨(わきま)へず。内には冥冥(メイメイ)の実(まこと)無く、外には的然(テキゼン)の美を襮(さら)す。身に恣睢(シキ)の失(あやまち)多く、人には森嚴の規(のり)を以て律す。宜(むべ)なるかな、其の苛酷にして行ふを可とすることの難きことをや。

韓非曰く「宋人に道を取る者有り。其の馬進まず。倒して之を雞水(ケイスイ)に投じ、又復(ふたた)び道を取る。其の馬進まず、又倒して之を雞水に投ず。此の如き者(こと)三たび。造父(ゾウホ)の馬を威(おど)す所以(ゆゑん)と雖も、此れを過ぎず。造父の道を得ずして徒(いたづら)に其の威を得るは御に於て益無し」と。故に物の情に通ぜざる者、其の物を待(あしら)ふこと必ず酷(ひど)し。宋人之(これ)馬を馭するに於て暴(あら)く、適(まさ)に其の未だ馬の性に達せざるを見(あらは)す。蕩肆(トウシ)の士、論を吐き教へを設けど、反(かへっ)て斯の如きの過厳となるは蓋し同一の理なり。彼静夜に顧省せば未だ必ずしも己の行ひの歉(あきたらざる)こと多きを恥ざることなし。既に中心に奮励し痛く自ら悛改すること能はざるに、亦た篤誠(トクセイ)の行ひを以て自(みづか)ら見(あらは)すことを庶幾(ショキ)す。是以(これゆゑ)範身の矩(のり)を辨(ただ)さば必ず峻烈に陥る。人を誨(をし)ふる方(てだて)を論ぜば、動(ややもすれば)責備(セキビ)に流るるのみ。

或(あるひと)云く「大姦は忠に似、大詐は信に似る。故に曰く人心は山川より険し。彼、浮浪なるに確実の行ひを炫(てら)ひ、恣肆(シシ)なるに謹厳の論を騰()ぐるは固より小人の常なり」と。此の論無見と為さず。然れども人の此に至るは、必ず姦険不良の輩なり。三子は行誼(ギョウギ)に疵(きず)有りと雖も。亦た奚(なん)ぞ姦険を以て目すべきや。特(た)だ其れ仁義の実を體認(タイニン)せず、容易に之を言ひ、推己恕人(ツイキジョジン)の道に達せずして、率爾(ソツジ)に人を責む。言行矯激にして情に近からざる所以(ゆゑん)なり。苟(いやしく)も斯(こ)の理を諳(そらん)じ以て古人を参看せば、則ち夫()の六一(リクイツ)の工詩(コウシ)を誇り、陽明の性理を譚(かた)るを好み、唐荊川(トウケイセン)の妄(みだり)に折衝の勲(いさお)を希(ねが)ふこと、直()だ然犀(ネンサイ)怪しきを照すが如くに明らかなるのみ。

(語釈)

謝超宗(シャチョウソウ)(南朝の文人。祖父は南朝文化を代表する文人である謝霊運、父は謝鳳)懸磬(ケンケイ)(窮乏して家の中ががらんどうなさま)(あした)(朝)至尊(天子、皇帝)侍宴(ジエン)(宴席ではべる)鳳毛(ホウモウ)(鳳凰の毛、文才のあることの喩え)従跣(トセン)(はだし、素足)検覓(ケンベキ)(探し求める)陸子静(陸象山 南宋の思想家。心の内省を重んじて「心即理」説を唱え、朱熹の「性即理」説と対立する一派をなした。その思想は王陽明に継承され、陽明学の源流となった。)呂伯恭(呂祖謙。南宋の思想家.朱熹やと親しくしていただけでなく陸象山とも親交を持った.また朱熹と陸象山が互いの思想を開陳し合うという鵝湖の会を企画した.さらに朱熹とは,後世,宋学を学ぶ者の必読書となる《近思録》を編纂している)眉山兄弟(蘇軾・蘇轍の兄弟)再期(サイキ)(三年の喪、父母の喪)喪礼(ソウレイ)(葬礼)講聞(コウブン)(ならい聞く)制中(喪中)嘉靖大礼の議(明第十二代嘉靖帝の亡父興献王の処遇をめぐる政争。明の第十一代・正徳帝が後嗣なく没した後、従弟の嘉靖帝が即位した際、実父(興献王)を「皇考(亡き父帝)」と呼ぶか「皇叔父」と呼ぶかを巡って起きた。儒教的な伝統・礼論を重視する官僚派(楊慎ら)と、実父の権威を高めたい嘉靖帝側が激しく対立した。数年にわたる混乱の後、最後は嘉靖帝の望み通りに決着したものの、不毛な論争の後、嘉靖帝は政治への意欲を失い不老不死の道教に逃避するようになった)楊慎(ヨウシン)(明の学者。大礼の議が起こると,皇帝の意向に反した大学士の父楊廷和は依願退官し,同調した息子は体罰の上,雲南永昌衛(保山)に永久流刑となり,配所で没した)群寮(グンリョウ)(多くの役人)高皇帝(明の太祖朱元璋の諡)孝宗皇帝(明の第十代弘治帝。明君とされる)大哭(タイコク)(大声で泣く)闕廷(ケツテイ)(宮中、御所)

僻執(ヘキシュウ)(偏った行い)韓子(韓愈 唐の文学者・思想家)(韓愈の「諱辯」。韓愈は李賀の父の名(晋粛)が「進士」の「進」と同音であるため李賀が進士試験を受けられないとされた際、「父の名が『晋』だからといって『進』を受けられないなら、父の名が『仁』なら子は『人』になれないのか」と極端な避諱の風潮を痛烈に批判した)麤笨(ソホン)(無骨な)對偶(タイグウ)(詩文の対句)精切(くわしく適切)摛藻(チソウ)(巧みな詞章)春麗(シュンレイ)(春の花のように麗しい)深衷(シンチュウ)(深い心、まごころ)剛制(つとめて抑える、意志を固くして制限する)蓼莪(リョウガ)衷衷の篇(詩経の中で、孝子が賦役に行って家に居なかったため、親の没後に孝養を尽くせなかったことを悲しんだ詩)孫綽(ソンシャク)(東晋の文学者)荼毒(トドク)(苦痛)哀號(アイゴウ)(悲しみ叫ぶこと)王十朋(オウジュウホウ)(宋代の文学者)先君子(センクンシ)(亡父の敬称)四十字(五言律詩。一句五言で、八句からなる近体詩)罔極(モウキョク)の恩(限りない恩、父母の恩)

聚訟(シュウショウ)(言い争ってまとまりがつかないこと)鬨然(コウゼン)(騒々しい)張桂(張璁(チョウソウ)・桂萼(ケイガク) 嘉靖帝側の官僚)楊廷和父子(楊廷和と楊慎)世宗(嘉靖帝)(きまり、かたち)要君(勢いをたのんで主君に強要する)(のり)(常道、常法)本生父(ホンセイフ)(他家を相続した子の実父)(父)迂腐(まわりくどくて役にたたない)飄逸(ヒョウイツ)(世俗のわずらわしさを気にしないでのびのびしていること)謝蘇楊三子(謝超宗・蘇軾・楊慎)倜儻(テキトウ)(気持ちが大きく、ものにこだわらないこと)放驁(ホウゴウ)(慎まない)名検(名儀、名分、名誉 世間の評判や行儀作法)拘滞(コウタイ)(型にはまって融通がきかない。こだわって動きがとれない)

親眷(シンケン)(親族)朋舊(ホウキュウ)(朋友)烝黎(ジョウレイ)(民衆、もろもろの民)秩秩(チツチツ)(水が流れるように、順序正しく)躐越(リョウエツ)(踏み越える)中心(心の中)身を検する(反省する、自己批判する)明暢(メイチョウ)(明快で筋道が通っていること)坦夷(タンイ)(平らか、なだらか)佚蕩(テットウ)(しまりがない、だらしがない。遊びの度が過ぎていること,放蕩に及ぶこと)孝弟(父母に孝行で、兄によくしたがうこと)人紀(ジンキ)(人として守るべき道、倫理)物則(ブツソク)(物事の法則、万物の上に存在する自然の法則)冥冥(メイメイ)の実(まこと)(人の目につかないまごころ)的然(テキゼン)(明らかな)恣睢(シキ)(かって気ままに行動していばる)

雞水(ケイスイ)(川の名)造父(ゾウホ)(周の穆王につかえた名御者)蕩肆(トウシ)(勝手気まま)篤誠(トクセイ)(情け深く真心がある)自(みづか)ら見(あらは)す(自分の徳を外に示す)庶幾(ショキ)(こいねがう) 責備(セキビ)(完全であることを要求する)

人心は山川より険し(荘子雑篇列禦寇 「凡そ人心は山川より険しく、天を知るより難し」)恣肆(シシ)(わがまま、勝手気まま)行誼(ギョウギ)(品行)體認(タイニン)(体験的に会得すること)推己恕人(ツイキジョジン)(自分の心を元に人を思いやること、自分の事のように人を思いやる)率爾(ソツジ)(軽率)六一(リクイツ)(欧陽脩 北宋随一の名文家で、唐宋八家の一人)工詩(コウシ)(詩を作るのがうまいこと)唐荊川(トウケイセン)(唐順之 明代中期の文学者。倭寇防御に功あり、官は右僉都御史  、鳳陽巡撫  に至った。学識博大で天文、地理、音楽、兵法、数学にまで通じ、古今の文献を内容別に編集し、左、右、文、武、儒、稗の六編を著した。王陽明の弟子王畿  に良知説を学び、散文家としては、初め偽古文派七子に倣った文を制作したが、のち悟って古文家として王慎中、茅坤、帰有光らと並称された(日本大百科全書))折衝(敵が攻めてくるのをくじき止める)然犀(ネンサイ)(暗い所を明らかに照らすこと。東晋の温嶠が犀の角を燃やして深淵の怪物の有様を実見した故事による)

 

(漢文)

宋劉道隆謂謝超宗曰、聞君有異物、可得見乎、超宗曰、懸磬之室、復有異物耶、道隆武人無識、正觸其父名曰、旦侍宴至尊、説君有鳳毛、超宗従跣還内、道隆謂検覓鳳毛、至闇待不得乃去、陸子静與呂伯恭書云、眉山兄弟居喪再期之内、禁断詩文、其亦講聞乎喪礼也、後人墨守此説、類以制中賦詩爲大罪、嘉靖大礼之議、楊慎奮曰、國家養士百五十年、伏節死義正在今日、遂會群寮跪伏左順門、有大呼高皇帝孝宗皇帝者、慎等又撼門大哭、衆皆哭、声震闕廷、帝赫怒、尽逮議礼臣二百二十人、

夫避諱昉於周、亦属聖王之制、然行之自有中道、不可過於僻執、韓子所以著之辯也、矧劉道隆麤笨一鄙夫、觸諱出於無心、正可徐徐誨示、何必徒跣逃走、加無涯之辱耶、制中綴詩、其對偶精切、摛藻春麗者、當禁、若乃攄情抒思、發乎深衷者、奚必剛制而勿作、蓼莪衷衷之篇、豈必終父母之喪、而後始賦耶、孫綽曰、自丁荼毒、載離寒暑、不勝哀號、作詩一首、王十朋曰、先君子去世五十日、書四十字以寄罔極之恩、則此礼古賢固有未始拘者也、

嘉靖議礼之是非、聚訟鬨然、張桂未必非、而楊廷和父子未必是也、張桂其人可醜、而難以人廃言、楊氏父子、必欲使世宗不父其父、而降爲叔父、決無可行之理、顧人之所見不同、慎果欲諫、自有告君之體、其事既非宗社安危所係、何至糾黨力争、撼殿門大哭、何至大呼先帝之霊以要君、夫以父子之倫言、則以犯諱爲至大之罪、三年之喪、断不許作詩、以君臣之彝論、則本生父決不聴称考、以死争之、此在迂腐儒生、或有之、飄逸之士、不當然也、謝蘇楊三子雖曰天才秀麗、平素倜儻放驁、不甚矜名検、而今之立論制行、反陥於拘滞、此衆之所疑、而実識者所以一見瞭然也、

蓋実践君子行道也、由心身而家國而天下敷教也、始於妻子昆弟、至於親眷朋舊烝黎、秩秩有序、不少躐越、且若人中心仁恕、學以爲已、巌於検身、而責衆綦軽、不敢以超遠難行之事望於人、故其為言、明暢易遵也、其為道、坦夷易由也、獨佚蕩之士、孝弟礼義、未嘗體験乎己、人紀物則、茫不能辨、内無冥冥之実、而外襮的然之美、身多恣睢之失、而律人以森嚴之規、宜矣其苛酷而難可行也、

韓非曰、宋人有取道者、其馬不進、倒而投之雞水、又復取道、其馬不進、又倒而投之雞水、如此者三、雖造父之所以威馬、不過此矣、不得造父之道、而徒得其威、無益於御、故不通物之情者、其待物必酷、宋人之暴於馭馬、適見其未達馬之性、蕩肆之士、吐論設教、反如斯之過厳、蓋同一理也、彼静夜顧省、未必不恥己行之多歉、既不能中心奮励、痛自悛改、而亦庶幾以篤誠之行自見、是以辨範身之矩、必陥於峻烈、論誨人之方、動流於責備耳、

或云、大姦似忠、大詐似信、故曰、人心険於山川、彼浮浪而炫確実之行、恣肆而騰謹厳之論、固小人之常也、此論不為無見、然人之至此、必姦険不良之輩也、三子者雖行誼有疵、亦奚可目以姦険、特其不體認仁義之実、而容易言之、不達推己恕人之道、而率爾責人、所以言行矯激不近情也、苟諳斯理、以参看古人、則夫六一之誇工詩、陽明之好譚性理、唐荊川之妄希折衝之勲、直如然犀照怪之明耳、

侗庵新論 第九十八

(要約)

北魏の孝文帝と金の世宗は共に異民族王朝の皇帝であるが、片や漢化政策、片や女真文化重視政策と正反対の文化政策をとりながら両者とも王朝衰退の原因を作ってしまった。これは両者とも氏姓、言語、衣装など表面的な文化にこだわり国家統治の根本を軽視したためである。天下泰平の中でも尚武の気風を保つことこそ肝要である。

 

(現代語訳)

北魏の孝文帝は一代の賢主であった。歴史書の記載を見てみれば、立派な言葉や行為、善政や美談が次々に現われ、礼節と音楽、名声と事跡とが立派に備わり、ほとんど古代の賢王に匹敵するほどだった。しかし王家である拓跋氏滅亡の萌しはすでにこの時にあった。この後に宣武帝、孝明帝、孝荘帝の代になると、日が沈むかのように息も絶え絶えに衰退していった。孝文帝より前は、気風は粗野で国法も簡略だった。これに加えて暴虐な君主が多く、しばしば危機や騒乱にもなった。しかし国の根本が揺らいだことは無かった。孝文帝の時代になって礼制は完璧に備わったが、かえって衰退の端緒を開くことになってしまったのはなぜだろうか。金の世宗の治世のすばらしさは歴史書の中で光り輝いているが、ここにも金王朝衰退の兆しが現れていた。これは孝文帝と同一であり、後世の人の疑問を免れないところである。

そもそも実態が外見より勝っていれば世の中は平穏に治まる方向に向かい、うわべの飾りが実質を覆い隠しているようでは乱の始まりとなる。誠実で率直なことが国家隆盛の根本である。ほらを吹いたり、うわべを粉飾することは衰退の原因である。私が見た所では、孝文帝は派手な考えは多くあったが、人知れず励み勉めるような行為は少なかった。やたらに細かな儀式の作法やきまりにこだわったが、政治と教化の要点については全くいいかげんだった。平城から洛陽に遷都して鮮卑族の風習を中華風に変えようとしたのは失策の最たるものであった。北魏は昭成帝・道武帝の創業以来、征討し四方で勝ち、開発した土地は日に日に広くなり、威信と名声は遠方にまで届くようになっていた。その上旧来の土地では気風は峻烈で、習俗は愚直であった。もし政治が適切に行われれば、古代のような繁栄を求めることもできたであろうし、坐して天下を治めることもできたであろう。しかし孝文帝の思慮は浅く、太平の天子であることに自ら満足していた。従来の都である平城は戦争用の地であると考え、中国全土に徳を及ぼそうとして文化や教育を振興した。ひたすら中華風の風俗にあこがれ、国を挙げて急速に軽薄な風潮に陥り、勇猛な風習はすっかり無くなった。惜しいことであった。

孝文帝は群臣と遷都について議論すると、ただひたすら殷や周を理想として追い求め、前漢や後漢に比較されることを快く思わなかった。その志は大したものだが、もしそう思うのなら、国家統治の措置は至急を要するものから始めるべきであった。しかし孝文帝が行ったことは、すべての鮮卑族の姓を中華風に変え胡語の使用を禁止し衣服を改製したに過ぎなかった。そもそも氏姓、言語、衣服などは政治の中では極めて些細な事柄にすぎない。だから氏姓を極めて上品なものに変え、言葉の発音をすべて中華風に合わせ、衣装は古代の夏・殷・周を模範としたところで、それのどこが国家の盛衰や興亡に関係しようか。孝文帝がこんなことに汲々としていたのは、全く愚かで間違ったことであった。

そもそも国を導くのに礼制や音楽、文化を貴ぶ理由は、それが政治に役立つからである。もしその本質を見失い形式にこだわるのであれば、全く礼制や音楽、文化に煩わされることが無い方がましである。このため春秋時代の魯の昭公は儀礼を良く知っていることで有名であったが礼の本質を知らず、国を失う災難からのがれられなかった。齊の景公は毎日のように舜の作った音楽を見事に演奏したが結局国の衰退を救うことはなかった。さらに金の第三代煕宗は中国の文化にあこがれ、専ら中国の文物の移植に務めたが、これが失敗の原因となった。ただ遼だけはもとの風俗を改めず、二百年間太平であった。さらに耶律大石は金に攻められ逃げて遠く離れた土地で建国し、なお百年間遼の寿命を延ばした。清はとりわけこうしたことを手本として、務めて満州族の風俗を保つようにし、武備を忘れず、中国の風俗に染まることを深く戒めた。これが彼らが統一後百七八十年たっても依然として強大である理由である。遼や清の君主たちがむしろ彼らの風俗の荒々しさを嫌わなかったのは、一度でもその風俗を改めてしまえば、必ず勇猛な習慣が軟弱に変わってしまい、得ることが極めて小さく失うことが絶大であることをよく知っていたからである。

しかも中国の君主や家臣は軽薄で華やかな文化の中で生まれ育ってきた。このため乱れた風俗や不真面目な環境の中にあっても、少しは振り返って考えることがあった。このためその害悪が国家に及ぶまでにはならなかった。しかし異民族は一たびこうした派手で不真面目な風潮に染まってしまうと、もとに戻ることを忘れて衰退への道に直行し、救いようがなくなってしまう。都会の人間は平素から華やかな所で盛んに飲み食いしていても、それで必ずしも家を失うことにはならない。田舎の愚かな人間は不幸にも人から誘われて遊郭に入り浸るようになると、破産し身を落とすことになりがちだ。異民族が堕落するのもこれと同じ理屈である。わが国の礼儀作法を講義する学者の中には、関東の服装が野暮ったいのを恥て、京都の服装の制度に従わせようとする者がいる。そもそも天下を治めるには当然のことながら重要な業務がある。それを考えることをせず、やたらにこまごまとした礼儀作法にこだわるとは、孝文帝の誤った考え方と何の違いがあろうか。こんなことで世を救い民を導こうとしてもうまくいくわけがない。

金の第五代皇帝世宗は小尭舜と呼ばれ、その資質は孝文帝より優れていた。しかし彼は群臣と議論すると口先で勝つことが多かった。当時天下はまだ統一されていなかったが、軍事を軽視し、専ら儀式の作法やきまりを重視していた。これこそが彼の政治の病原であった。彼は皇太子に対して「私はお前のために天下の経営のことで苦労することが無いようにしておいた。お前はただ祖先から受け継いだ人情に厚い気風を忘れないようにすればよい」と言うだけだった。このように彼はのんびりと自己満足に浸っていたのだった。こんなことで何で国家の大計を共に語ることができようか。

私はこれまでに金の歴史書を読んで第四代皇帝の海陵王の淫乱残虐ぶりの記載の所に来るたびにため息をついて怪しみ、これでは古代の暴君である紂の十倍、桀の百倍ひどいのではないかと思った。金の学者である賈益謙の言葉を読むとこう書いてある。「私が聞いたところでは、海陵王が殺されて世宗が皇帝に立つと、世宗治世の三十年間に、皇帝の近臣で海陵王の旧悪を暴いた者は良い官職につき、史書官が実録を編纂する際には海陵王がひどく淫乱で凶暴であるとの史実を捏造して悪名を後世に長く残したとのことである」と。今からこの歴史書を見れば、百に一つも信じられようか。そうしてみると海陵王の悪行とは、すべて世宗のでっちあげによるもので、彼の心の狭さや不公平さはこの通りである。他の事も推して知るべしである。

異民族の風習に関しては、世宗と孝文帝とは全く相反している。世宗はかつてこう言った。「女真族の昔からの風習は書物を知らないとはいえ、天地を祭り、親戚を敬い、老人を尊敬し、賓客をもてなし、友を信頼し、相手を尊敬し、親しく交際するというものだ。これらのことは自然に出るもので、古い書物に書いてあることと異ならない。お前たちはこれらを学び古い風習を忘れてはならない」と。また衛士の中に女真語を習っていない者がいたので学習を強制し、その後は漢語を使ってはならないと命じた。さらに女真大學を建て、漢姓に改称することや漢人の衣装をまねることを禁止し、違反する者は処罰した。世宗の知恵は孝文帝より数段優れている。しかし問題にしているのは言語、衣裳、姓氏に過ぎず、その点では孝文帝がやたらに中華の風俗をまねて夏、殷、周の古代の理想に従おうとしたのとそれほど異なってはいない。

異民族について評価できる所は、彼らが服装や言語を改めなかったことである。そしてその人民もこれにならって従前からの勇猛な習慣を捨てることはなかったが、評価をそこにとどめていてよいわけではない。五胡十六国時代の後趙の皇帝石虎や夏の皇帝赫連勃勃は異民族の風習を捨てたことなどなかったが、たちまち滅亡の危機に瀕した。明の永楽帝はきらびやかな中華の衣装の風習を受け継いだが、靖難の変で帝位に就いた後、三度安南を平定し、四度モンゴルに遠征し、すべての西南諸国を降伏させ、領土は南北にほとんど二萬里に及んだ。その盛強ぶりは未曾有のことだった。これにより失敗と成功の原因を悟るべきだ。つまり孝文帝と世宗とではやっていることは全く異なるが、共に衰退の兆候を免れなかった。彼らは末節にこだわり根本をおろそかにし、儀式の作法にこだわりその心に達していない点では同じではないだろうか。

天下が安全で無事になれば必ず豊かで軟弱になるのは、水が汚れるのと同じで必然の流れである。上にある者はこれを以前の勇敢な気風に戻そうと努め、それが達成できないことを恐れる。逆に浮ついて内実の無い教えで民を導こうとすればその失敗はとどまるところを知らない。北魏や金で起きたことは、明らかな失敗の事例である。

(読み下し文)

魏の孝文一代の賢主なり。史に載する所を参稽(サンケイ)すれば、嘉言(カゲン)懿行(イコウ)、善政美事(ビジ)、紛紜(フンウン)と畳見(ジョウケン)し、礼楽名物、煥乎(カンコ)として盛んに備はる。殆ど古の哲王を追配す。而して拓跋の亡び、実に斯の時に萌(きざ)す。是より而(すなは)ち宣武、而ち孝明・孝荘、日の崦嵫(エンシ)に薄(せま)るが如く、奄奄(エンエン)として頽替(タイテイ)す。孝文より前は、習尚(シュウショウ)疏野(ソヤ)、憲法簡闊(カンカツ)、之(これ)に加へ暴戻の主多く、屡(しばしば)危乱に致る。而して國本未だ嘗て揺らがず。孝文に至りて禮制全然瑕闕(カケツ)無し。而して翻(かへっ)て衰滅の端を啓(ひら)くは何ぞや。金の世宗治教の美、史乗(シジョウ)に彪炳(ヒョウヘイ)す。而して亦た金源の衰(おとろ)へを兆(きざ)す。此れ孝文と同一を以てする所にて、後人の疑ひを免れざるなり。

夫れ實が名に勝るが治に趨(おもむ)く所以(ゆゑん)なり。文(かざり)が質を掩(おほ)ふが乱を兆(きざ)す所以なり。誠愨(セイカク)易簡(イカン)、盛りの本なり。虚誇(キョコ)粉飾、衰への源なり。予観()るに、孝文皦皦(キョウキョウ)の意多く冥冥(メイメイ)の行ひ少なし。徒(いたづら)に儀文(ギブン)の末に拘(こだは)れども政化の要(かなめ)全く茫然たり。其の遷都して夷を變へ夏と為すは尤も失策の尤もなる者なり。魏、昭成・道武より鴻業を肇(はじ)め而來、征討し四たび剋()ち、闢地(ヘキチ)日に廣く、威声遐方(カホウ)を憺(うご)かす。矧や恒代の地、風気峻烈、習俗戇(おろか)にして直し。苟(いやしく)も政理適宜なれば、盛古を追ふを以てすべし、坐して萬方を制(をさ)むるを以てすべし。孝文の慮(おもんぱか)り遠きに達せず、充然(ジュウゼン)と太平の天子たるを以て自ら居り、以て平城を用武の地と爲し、中土を光宅せんと欲し、以て文教を興す。一意に中州の俗(ならはし)を崇慕し國を挙げて頓(にはか)に浮薄に陥る。猛鷙(モウシ)の習ひ、地を掃(はら)ひ遺(のこ)り無し。惜しむべきなるのみ。

孝文の群臣と遷都を論ずるや、直だ殷周を上に追はんと欲し、両漢に匹(たぐ)ふるを屑(いさぎよし)とせず。其の志偉(をを)いなるかな。果して爾(しか)らば則ち経綸(ケイリン)を注措するに、當(まさ)に至急なる者従()り始むべし。乃(すなは)ち其の行事、盡(ことごと)く胡姓を中原の姓氏に従()り變へ、北語を断ち衣服を改製するに過ぎず。夫れ姓氏、語言、衣服の属(たぐひ)、特(た)だ政(まつりごと)の微にして微なる者なり。即ち姓氏其の雅馴(ガジュン)を極め、語音一一中に協(あは)せ、裳衣全く三代を師とす。奚(いづくん)ぞ治忽興亡の数に関はるや。孝文迺(すなは)ち此に汲々たるは迂謬(ウビュウ)の極みなり。

夫れ國を道びくに礼楽文物を貴ぶ所以(ゆゑん)は、其の治を裨(たす)くるを以てなり。若し其の眞を失なひて迹(あと)を成すに是れ泥(なず)まば、全く礼楽文物の愈(うれ)ひ無きに如かざるなり。故に魯昭、礼を知るを以て聞こへど國を失ふの祻(わざはひ)を免れず、齊景、日に盡美盡善の韶(ショウ)を奏(かな)づれども、究(つひ)に何ぞ衰替を救ふや。而して金の煕宗、中國風教を慕ひ、専ら文物を以て務めと為す。即ち乱敗を來す所以(ゆゑん)なり。獨(た)だ遼のみ舊俗を改めずして隆平二百年。耶律大石、奔竄(ホンザン)し、絶域(ゼツイキ)に立國し、猶ほ祚を百年延ばす。清尤(もっと)も此を鑑と有(な)し、務めて胡俗を存(たも)ち、武備を忘れず、中州の風に漸(すす)むを深く戒む。此れ其の一統し百七八十年にして彊大未だ艾()まざる所以(ゆゑん)なり。遼清の諸主寧ろ胡風麤獷(ソコウ)を醜(にく)まざるは、誠に一たび胡俗を改むれば、必ず驍武(ギョウブ)の習ひを化へ柔靡と為るに至り、得る所綦めて微(わづか)にして失ふ所絶大なるを知るなり。

且也、中州の君臣浮文の俗(ならはし)に生長す。故に虚誇淫靡中に、稍(やや)顧慮する所有り、自(おのづ)から害宗社に延(およ)ぶに至らず。胡人一朝浮靡(フビ)の風を逐はば、蕩肆(トウシ)として返るを忘れ、直ちに衰頽し救ふべき薬無きに至る。今夫れ都會士人、平素紅翠(コウスイ)に酣飫(カンヨ)すれど、未だ必ずしも此れを以て家を喪はず。田舎の顓蒙(センモウ)の児、不幸にも人の誘ふ所と為り花柳に沈溺せば、動(ややもすれば)破産し身を隕(おと)すに至る。胡人の事、理(ことはり)此れと侔(ひと)し。本邦学士、礼文を講()く者、或は関東被服の野(ひな)なるを恥ぢ、変じて京師の冠裳の制に従はんと欲す。夫れ天下を治むるに、自(おのづ)から要務有り。之を察すると是とせず、徒(いたづら)に小節に規規たるは孝文の謬見と何ぞ異なるや。此れを以て世を濟(すく)ひ民を化(みちび)かんと欲すれど、難きかな成すこと有るや。

世宗小尭舜と號称す。其の資更に孝文より美(すぐ)る。然れども其れ群臣と談論し口給(コウキュウ)を以て勝を取ること多し。當時天下未だ一ならず。而して武事を度外に措き、専ら儀文を以て務めと為す。此れ其の病源なり。其の皇太子に諭(つ)ぐること、「朕汝の爲に天下に復(ま)た経営の事を有()すこと無きやう措(はか)れり。汝惟(た)だ祖宗の純厚の風を忘るること無かれ」と曰ふに過ぎず。其の従容と自ら佚(たの)しむこと此(かく)の如し。烏(いづくん)ぞ與(とも)に大猷(タイユウ)を語るに足るや。

予嘗て金史を閲(けみ)し、海陵王の淫虐(インギャク)に至り、未だ嘗て嘆き怪しまざることなく、以て十紂百桀未だ必ずしも此に至らざると為す。金の賈益謙(カエキケン)の言を閲するに及び曰く「我聞くならく、海陵逆せられ、世宗皇帝に立ち、大定三十年、禁近能く海陵の蟄悪を暴く者美仕(ビシ)を得る。史官実録を修むるに、其の淫毒狼鷙(ロウシ)を誣(し)ひ、臭を無窮に遺(のこ)す」と。今より之を観れば、百に一を信ずるを可とするや。然れば則ち海陵の悪、咸(みな)世宗の羅織(ラショク)に於て成る。其の狭中(キョウチュウ)偏私(ヘンシ)此(かく)の如し。自他推すべきなり。

胡俗一事に至れば、則ち世宗と孝文全然相反す。世宗嘗て曰く「女直の舊風、書を知らずと雖(いへど)も、然り其の天地を祭り、親戚を敬ひ、耆老(キロウ)を尊び、賓客に接し、友を信用す。礼意款曲(カンキョク)、皆自然に出(い)づ。古書に載する所と異ならず。汝輩(なんぢがともがら)當(まさ)に之を習學し其の舊風を忘るべからず」と。又衛士に女直語を閑(なら)はざる者有るに應(あた)り並(みな)習學するを勒()ひ、仍(よっ)て自後(ジゴ)漢語を得ざるを命ず。又女直大學を建て、漢姓に改称し南人の衣装を學ぶを得ざるべく禁じ、犯す者は罪に抵(いた)す。其の識(ちゑ)孝文に數等を加ふ。而して事とする所、語言・衣裳・姓氏を出ず、夫(か)の孝文の徒(いたづら)に河洛の風尚に傚(なら)ひ以て三代に法(のっと)ると為すと相去ること幾(いくばく)も無し。

夫れ戎虜に於て取る所は胡服胡言を改めざる者なり。以て其の凡百此れに放(なら)ひ従前の剛武の俗を墜(おと)さざれど、其の此れに止まるを與(ゆる)すに非ざるなり。然らざれば石虎(セキコ).・赫連勃勃(カクレンボツボツ)、未だ嘗て胡風を襲()がざることなし。而して衰亡立(たちどころ)に至る。明の成祖、粲然(サンゼン)たる冠帯の俗(ならはし)。而して靖難の後、三たび安南を平らげ、四たび北庭を犂(たがや)し、尽(ことごと)く西南諸国を服降させ、緜地(メンチ)南北に幾(ほとん)ど二萬里。盛強なること千古に冠す。此れ以て失得の帰(よ)るところを悟るべし。然れば則ち孝文・世宗の行事の跡夐(はるか)に殊(こと)なれども、均(ひと)しく之(これ)衰乱を兆(きざ)すを免れず。豈に以て其の末を徇(もと)めて本を舎て儀文に拘(こだ)はりて大體に達せざるは則ち一なるに非ざるや。

於乎(ああ)天下晏安無事なれば必ず軟肥(ナンピ)に流るるは猶ほ水の汚れに就くがごとき必然の勢なり。上に在る者、之(これ)を前古勇虓(ユウコウ)の風に挽(ひ)かんと力(つと)め、且つ其の未だしを恐る。乃(すなは)ち浮靡無実の教へを以て之を驅()らんと欲すれば、其の末失(マツシツ)奚(いづく)にか底極する所やある。魏金の已事(イジ)、是れ覆車(フクシャ)の章章たる者なり。

 

(語釈)

魏の孝文(北魏の第6代皇帝。多くの漢人官僚の協力を得て内政の整備に力を注いだ。平城(山西大同)から洛陽への遷都を強行すると,さらに王朝全体の漢化政策を強力に推進した.南朝に倣った中国的官制を整備し,胡族の習俗や朝廷における鮮卑語の使用を禁じ,鮮卑,漢人双方の姓族分定を行い,同家格内での胡漢通婚を奨励して胡漢の融和を進め,さらに胡姓を漢風の姓に改め,自らの拓跋氏も元氏とした.改革によって中国王朝としての体裁を整え,国威が大いに揚がった一方で,鮮卑も含めた胡族軽視の政策は必然的に胡族の不満を生み,旧都平城で起きた反乱には皇太子元恂までが加担した  .この反乱はすみやかに鎮圧されたものの,胡族の鬱憤は堆積していき,およそ30年後に北辺に配置された胡族系軍士による反乱(六鎮の乱)として爆発し,北魏が崩壊していく要因となった.)参稽(サンケイ)(参照)嘉言(カゲン)(立派な言葉)懿行(イコウ)(立派な行い)美事(ビジ)(善い事柄)、紛紜(フンウン)(多いこと)畳見(ジョウケン)(かさねがさね現れる)煥乎(カンコ)(光り輝いて)追配(匹敵する)崦嵫(エンシ)(日が入ると考えられた山)頽替(タイテイ)(くずれすたる)習尚(シュウショウ)(気風)疏野(ソヤ)(無作法で賤しい)憲法(国のおきて、国法)簡闊(カンカツ)(手軽で粗略、簡略)金の世宗(金の第五代皇帝。南宋と不仲の海陵王にかわり、南宋との国交を回復し、国内では官吏の粛正、財政の緊縮、女真文化の保護を行ない、金の黄金時代を築いて、小堯舜と呼ばれた)史乗(シジョウ)(歴史書)彪炳(ヒョウヘイ)(光り輝く)金源(金国のこと)

誠愨(セイカク)(誠実)易簡(イカン)(手軽で率直、わかりやすいこと) 虚誇(キョコ)(ほらを吹くこと)粉飾(うわべを飾りつくろう)皦皦(キョウキョウ)(明白)冥冥(メイメイ)(沈思して誠をつくす 人知れず励み勉める)儀文(ギブン)(儀式の作法やきまり)政化(政治と教化)闢地(ヘキチ)(開発した土地)遐方(カホウ)(遠方)政理(政治)充然(ジュウゼン)(満ち足りたさま、平然)平城(北魏の都の地)光宅(徳が天下にあまねく及ぶ)猛鷙(モウシ)(鷹)

経綸(ケイリン)(国家統治)雅馴(ガジュン)(上品でおだやか)(運命)迂謬(ウビュウ)(世間の事情にくらくて、あやまりが多いこと)

文物(法律・学問・芸術・宗教など、文化の発達によってできるもの)魯昭(魯の昭公。春秋時代の魯の君主。儀を知りて礼を知らずと言われた。魯の昭公は晋の平公に朝覲するため晋国へ赴いた。郊外での出迎えから進物に至るまで、あらゆる外交儀礼において魯の昭公の振る舞いは極めて完璧であった。晋の平公は昭公に感服し、晋の大夫・女叔斉に向かって「魯の国君は実によく礼を知っているのではないか?」と言った。しかし意外にも、女叔斉は平公の言葉に同意しなかった。女叔斉は「魯の昭公が得意としているのは単なる『儀式』に過ぎず、『周礼』ではありません。そもそも『礼』とは、国家を守り、政令を執り行い、民心を失わないようにするためのものです。しかし現在の魯国では、国君の大権は士大夫の手へと落ちてしまいました。魯の公室は季孫氏・叔孫氏・孟孫氏という三大政治勢力によって四分されています。権力が失墜しているため、民衆もまた国君の処境に無関心です。国君でありながら自らの身に災難が迫っているというのに、一向にそれを解決しようとせず、ただ細かい儀礼の習得にばかり執着している。これをどうして『礼を知る』と言えましょうか」と説明した)齊景(斉の景公。春秋時代の齊の君主。贅沢を好んだ暗君)(ショウ)(舜帝が作ったといわれる音楽)金の煕宗(金の第3代皇帝。淮水と大散関とを結ぶ線を国境とし、宋と講和を結んだ。国史を編修し、女真小字を公布する一方、官制、礼制、儀制、服制などの制度を中国風に改めた。すなわち、これまで最高の政務執行機関であった勃極烈 (ボギレ) 制を廃止し、これにかえて中書、門下、尚書の三省を金国の政務執行機関とした。そして最高の政策決定機関として領三省事を三省の上位に置き、三省を総領させた。また経義、詞賦両科によって官吏をとる科挙制を採用し、殿前都点検司を置き、百官の参朝に朝服を用いさせるなど、制度の中国化を進めた。その後酒乱になって乱行を働くようになり,人望を失って従兄の完顔亮(海陵王)に暗殺された)隆平(太平)耶律大石(カラキタイ(西遼)の初代皇帝。遼の王族の出身。遼が金の攻撃を受けると外モンゴルに逃れ、のち西進して制圧、1132年カラハン朝を倒し、さらに東西トルキスタンを制圧した。版図の拡大に当たっていたずらに周辺勢力を滅ぼさず,また寛容な統治を行ったため国内はうまく治まった)奔竄(ホンザン)(逃げ隠れる)絶域(ゼツイキ)(遠く離れた土地)(天子の位、皇位)麤獷(ソコウ)(荒々しさ)驍武(ギョウブ)(強く勇ましい、勇猛)

浮文(軽薄なかざり)生長(生まれ育つ)虚誇(えらそうにすること、ほらを吹くこと)淫靡(男女の関係、風俗などが乱れていること)顧慮(気にかけて思う。心配する)一朝(ひとたび)浮靡(フビ)(派手で不真面目)蕩肆(トウシ)(ほしいまま、みだら)酣飫(カンヨ)(盛んに飲み食いすること)顓蒙(センモウ)(愚か)礼文(礼制儀文)小節(小さな事柄)規規(規則、軌範などにこだわるさま)

世宗(金朝第5代の皇帝。海陵王が無謀な南宋討伐を企ててひきおこした動乱の最中に,当時東京留守の任にあった世宗は海陵王に不満をもつ女真人や渤海人に推されて遼陽で即位した。海陵王が兵士に殺された後,同年世宗は中都(現,北京)に進出して,まず契丹人の反乱を収拾し,宋と和議を結んで(1165)平和を回復した。そして物力銭など新しい経済政策を実施する一方,経費を抑えて国家財政をたて直し,また地方官に人材を抜擢して民生の安定につとめた。矛盾が大きくなった猛安謀克制に対しても改革を断行して再建をはかった。世宗の治世は金の全盛時代で,世宗はのちに小尭舜とたたえられた。)口給(コウキュウ)(口先がうまいこと。口達者)儀文(儀式の作法やきまり)純厚(手厚い、人情深い)従容(のんびりしたさま)大猷(タイユウ)(大きな計画、大道)

海陵王(金朝第4代の皇帝。クーデタによって煕宗を殺害して即位し,宗室などの旧勢力を抑えて独裁権力の確立をはかった。1150年(天徳2)には宗室を大虐殺してその勢力を奪った。また独立的な地方機関に対しても統制を強めて,同年行台尚書省を廃止し,都元帥府を枢密院と改めたほか,翌年には世襲万戸を廃してそのあとに節度使を任命し,中央政府の権限を強めた。53年(貞元1)首都を上京会寧府(現在の黒竜江省阿城県付近)から燕京(のち中都と改称,現在の北京)に遷し,56年(正隆1)には中書,門下両省を廃して尚書省に権限を集中し,こうして独裁体制を築いた。そして61年には中国統一の野望に燃えて自ら南宋征伐に向かったが,あまりに過酷な徴発をしたために国内に動揺がひろがって,契丹人が西北方面で反乱をおこし,遼陽では東京留守烏禄(世宗)が自立して大混乱となった。こうした中で海陵王は部下によって揚州で殺害された。世宗はのちに彼を皇帝の位から海陵郡王に降し,最後には庶人にまでおとした)淫虐(インギャク)(淫乱で残虐)十紂百桀(十人の紂王と百人の桀王、紂王の十倍、桀王の百倍)賈益謙(カエキケン)(金の学者、官僚)大定(世宗の治世の年号。1161年~89年)禁近(文学をもって仕える臣)蟄悪(悪を隠すこと)美仕(ビシ)(良い官職につくこと)史官(歴史書を編纂する官吏)淫毒(甚だしく淫乱)狼鷙(ロウシ)(狼や鷲のように狂暴なこと)(醜聞、悪い噂)羅織(ラショク)(人を罪におとしいれること)狭中(キョウチュウ)(心が狭いこと)偏私(ヘンシ)(えこひいき、不公平)

耆老(キロウ)(老人、耆は六十歳、老は七十歳)礼意(相手を尊敬する気持ち)款曲(カンキョク)(うちとけて交際する。そつのないもてなしをする)、自後(ジゴ)(その後)河洛(黄河と落水の流域の地)

凡百(人民)石虎(セキコ)(五胡後趙の第3代皇帝。後趙を建てた羯族石勒の従子.残忍な性格であったが武勇は抜群で,石勒のもとで活躍し,前趙を滅ぼすなど後趙建国期におおいに貢献した.石勒が没し皇太子の石弘が即位すると,翌年に石弘を廃して自ら君主となった。各地の反乱や宗室内の争いが続くなかで病気がちとなり,皇帝位に即いた年に没した.石虎の統治時代は暴虐非道な政治がまかり通り,厳しい収奪が続いたために民力は疲弊し,乱世といわれる五胡十六国時代でも特に過酷な時代であったとされる)赫連勃勃(カクレンボツボツ)(五胡十六国の夏の世祖。匈奴の出身。のち、長安を占領して北魏と対立した。残忍な性格で,人民はその苛政に苦しんだ)明の成祖(永楽帝 明  朝第3代の皇帝。太祖洪武帝の第4子。太祖の後を継いだ甥の建文帝から位を奪って(靖難の変)帝位につき、国都を北京に移した。その22年にわたる治世は華々しい対外積極政策で飾られ、中国史上もっとも活気にあふれた時代であった。彼は中国史上最高の軍人帝王の評をもち、漢人の皇帝としてはただ1人、自ら大軍を率いて五度もモンゴリアを親征したほか、シベリア経営に乗り出し、黒竜江河口から樺太にまで領土を拡張し、チベットを臣属させ、安南にも兵を進め、交趾布政司を設けて中国領土に編入した。西方についても、嘉峪関付近でティームール帝国と接触し、朝鮮半島では李氏の朝鮮王朝を服従させ、室町幕府の3代将軍足利義満を日本国王に封じて、日本を朝貢国とするに至った。さらに南方諸国に対しては、鄭和の率いる大船団を七度も派遣し、東南アジアから、インド洋、ペルシア湾、紅海の沿岸、アフリカ東海岸の三十数か国と活発な貿易を行わせた。こうして15世紀初頭の東アジア世界には、直接の武力制圧、あるいは朝貢関係を通じて、明帝国を中心とする国際的秩序が成立し、永楽帝はその主宰者であったといえる。だが、対外政策に比べると、内政面での業績は見劣りがする。しかも、靖難の変後、建文帝側近の有力者とその一族に対して行った誅滅事件は、「永楽の瓜蔓抄 (つるまくり) 」として後世の非難を受け、また、簒奪者の後ろめたさに起因する宦官の重用など、内政的には暗さの伴っているのは否定できない。)  粲然(サンゼン)(あざやかな)北庭(北方異民族の地 モンゴル)服降(降伏)緜地(メンチ)(長く続いた土地)大體(本体、心)

軟肥(ナンピ)(柔らかでふとる 柔らかでゆたか)勇虓(ユウコウ)(勇ましい、勇敢)浮靡(派手でふまじめ)無実(実体が無い)末失(マツシツ)(本来のやり方に反する行い 失敗)已事(イジ)(過去の事)覆車(フクシャ)(前人の失敗)章章(明らか)

 

(漢文)

魏孝文一代賢主也、参稽史所載、嘉言懿行、善政美事、紛紜畳見、礼楽名物、煥乎盛備、殆追配古之哲王、而拓跋之亡、実萌乎斯時、自是而宣武、而孝明孝荘、如日之薄崦嵫、奄奄頽替、前乎孝文、習尚疏野、憲法簡闊、加之多暴戻之主、屡致危乱、而國本未嘗揺、至于孝文、禮制全然無瑕闕、而翻啓衰滅之端、何也、金世宗治教之美、彪炳史乗、而亦兆金源之衰、此所以與孝文同一、不免後人之疑也、

夫實勝名、所以趨治也、文掩質、所以兆乱也、誠愨易簡、盛之本也、虚誇粉飾、衰之源也、予観孝文皦皦之意多、而少冥冥之行、徒拘儀文之末、而政化之要全茫然、其遷都而變夷為夏、尤失策之尤者也、魏自昭成道武肇鴻業而來、征討四剋、闢地日廣、威声憺乎遐方、矧恒代之地、風気峻烈、習俗戇而直、苟政理適宜、可以追盛古、可以坐制萬方、孝文之慮不達遠、充然以太平天子自居、以爲平城用武之地、欲光宅中土、以興文教、一意崇慕中州之俗、而挙國頓陥於浮薄、猛鷙之習、掃地無遺、可惜也已、

孝文之與群臣、論遷都也、直欲上追殷周、不屑匹両漢、其志偉矣、果爾則注措経綸、當従至急者始、乃其行事、不過盡變胡姓、従中原姓氏、断北語改製衣服、夫姓氏語言衣服之属、特政之微乎微者、即姓氏極其雅馴、語音一一協乎中、裳衣全師三代、奚関於治忽興亡之数、孝文迺汲々於此、迂謬極矣、

夫道國所以貴礼楽文物者、以其裨於治也、若失其眞、而成迹是泥、不如全無礼楽文物之愈也、故魯昭以知礼聞、而不免失國之祻、齊景日奏盡美盡善之韶、究何救於衰替、而金煕宗慕中國風教、専以文物爲務、即所以來乱敗也、獨遼不改舊俗、而隆平二百年、耶律大石、奔竄、立國乎絶域、猶延祚百年、清尤有鑑于此、務存胡俗、不忘武備、深戒漸中州之風、此其所以一統百七八十年、而彊大未艾也、遼清諸主寧不醜胡風之麤獷、誠知一改胡俗、必至化驍武之習爲柔靡、所得綦微而所失絶大也、

且也中州君臣生長浮文之俗、故虚誇淫靡中、稍有所顧慮、自不至害延宗社、胡人一朝逐浮靡之風、蕩肆忘返、直至衰頽無可救薬、今夫都會士人、平素酣飫紅翠、未必以此喪家、田舎顓蒙之児、不幸爲人所誘、沈溺花柳、動至破産隕身、胡人之事、理與此侔耳、本邦学士、講礼文者、或恥関東被服之野、欲変而従京師冠裳之制、夫治天下、自有要務、不是之察、而徒規規於小節、、與孝文之謬見何異、欲以此濟世化民、難哉有成也、

世宗號称小尭舜、其資更美於孝文、然其與群臣談論、多以口給取勝、當時天下未一、而措武事於度外、専以儀文爲務、此其病源也、其諭皇太子、不過曰朕爲汝措天下無復有経営之事、汝惟無忘祖宗純厚之風耳、其従容自佚如此、烏足與語大猷哉、

予嘗閲金史、至海陵王淫虐、未嘗不嘆怪以爲十紂百桀未必至此、及閲金賈益謙之言、曰我聞海陵被逆、而世宗皇帝立、大定三十年、禁近能暴海陵蟄悪者得美仕、史官修実録、誣其淫毒狼鷙、遺臭無窮、自今観之、百可一信耶、然則海陵之悪、咸成於世宗之羅織、其狭中偏私如此、自他可推也、

至於胡俗一事、則世宗與孝文全然相反、世宗嘗曰、女直舊風、雖不知書、然其祭天地、敬親戚、尊耆老、接賓客、信用友、礼意款曲、皆出自然、與古書所載無異、汝輩當習學之、不可忘其舊風、又命應衛士有不閑女直語者、並勒習學、仍自後不得漢語、又建女直大學、禁不得改称漢姓、學南人衣装、犯者抵罪、其識加於孝文數等、而所事不出於語言衣裳姓氏、與夫孝文徒傚河洛風尚以爲法三代、相去無幾耳、

夫所取於戎虜、不改胡服胡言者、以其凡百放此、不墜従前剛武之俗、非與其止乎此也、不然石常赫連勃勃、未嘗不襲胡風、而衰亡立至、明成祖粲然冠帯之俗、而靖難之後、三平安南、四犂北庭、尽服降西南諸国、緜地南北、幾二萬里、盛強冠千古、此可以悟失得之帰矣、然則孝文世宗行事之跡夐殊、而均之不免兆衰乱、豈非以其徇末而舎本、拘儀文而不達大體則一耶、

於乎天下晏安無事、必流於軟肥、猶水之就汚、必然之勢也、在上者、力挽之前古勇虓之風、且恐其未、乃欲以浮靡無実之教駆之、其末失、奚所底極、魏金已事、是覆車之章章者也、

侗庵新論 第九十七

(要約)

文や詩や書について、作者の名声に目を眩まされて作品の真贋を見抜けなければそれは全く恥ずべきことであるが、所詮文芸についてのことであり大した害があるとまではいえない。しかし人材の登用について、人物の評判にひかれて能力、適性を見極めなければそれは国家の運命に多大な害が及ぶことになる。

 

(現代語訳)

唐の書家李北海は常に蕭誠の書を評価しなかった。そこで蕭誠は古い習字の手本を偽造し紙もことさらに暗くして李北海のところに持参して示して「これは王羲之の真筆です。どうですか」と言った。李北海はこれを見てすばらしいと言った。蕭誠はそこで本当のことを告げると、李北海はまたこれを取って見てこう言った。「細かく見てみると、良くないな」と。明の詩人何景明は唐詩を愛して宋詩を評価しなかった。揚用修はかつて、宋詩の中の唐詩に似て上品で奥ゆかしいもの数首を選んで何景明に示したことがあった。すると何景明は感服してこれは唐詩の傑作だと言った。揚用修がその作者の名前を言うと、何景明は再度それを見てこう言った。「じっくり読んでみると、あまりうまくない気がする」と。揚用修は何景明の強情ぶりを批判した。明の唐宋派の文学者茅順甫は同時期の文学者では同じ唐宋派の荆川だけを評価した。胡績渓は唐宋派ではない徐文長の文を茅順甫に見せて偽って荆川のものだと言った。茅順甫は感嘆してやまず、「荆川でなければできないものだ」と言った。その後徐文長のものであることを知ると、再度取って見てこう言った。「確かに上手だが、惜しいことに後半にやや弱くなり勢いが無いな」と。明末清初の学者錢謙益は茅順甫の自信過剰で誤りを認めない態度を非難した。世の中には昔から名声に目がくらんで実体を調べない者が何と多いことか。

定見の無い人はただ名だけを追い求め、もしその名が有名であれば感嘆してあこがれ、本人の技術の巧拙、その説く道の奥深さを全く問題にしない。そんなことで立論に誤りの無いことを期待できるものか。李北海は書に関して、何景明は詩に関して、茅順甫は文に関して、皆眼力は人より格段に高いし、その自信も軽いものではない。ところがその批評はまるで目がよく見えない状態で色彩について話しているようなものだ。その破綻が明らかになると、あちこちに言い訳をしてごまかそうとし、他人から笑われるだけになる。この優秀な三人ですらこの体たらくである。ましてやこの三人に及ばない者など言うまでもない。

そうしてみると現在書や詩や文の名人を自任している者が必ずしも真の名人とは限らないし、優れた鑑識眼があると自負し作家の優劣を一言で評価する者も必ずしも鑑定が優れているとは限らない。私が思うに真に優れた作品を書き、優れた評論を書く者は、寂しい土地にいて全く人が知ることもないのかもしれない。

昔の賢人がこう言った。「今の人は昔の人にとてもかなわない」と。そもそも昔を是として今を非とするのは人の常である。昔の賢人のことばもすべて正しいわけではない。それゆえ昔の人が勝っていて今の人が劣っていることもあれば、今の人が巧みで昔の人が拙いこともある。天文学や地理学などは時代が進むにしたがって精密になり、後世のほうが昔よりはるかに優れている。清代の考証学者閻若璩はこう言っている。「囲碁の技術では後世の人は古人より四目勝っている」と。些細な技ですらこうなのだから、他は推して知るべしである。何で今は必ず昔より劣っているとなどいう偏見にこだわる必要があろうか。

古を師として尊ぶということは、古人の真の価値をよく理解してこれを手本とするということである。もし、古人の表面を覆っているものの中をうかがい見ようともせず、ただそれが古いものだからという理由だけでひたすら尊び師とするのであれば、それは逆に古人の優れたところを知らずにこれをののしり排斥するのと比べてもその違いはほんのわずかでしかない。何でそんな者が評価に値しようか。

振り返って見れば、文章や詩や書では名声に目をくらまされてその真実を見抜けないことは、識者からは笑われ、後世の人々から非難されて全く恥ずべきことではあるが、取るに足らない一芸についてのことであり大した害があるとまでは言えない。しかし人材を登用することは天下の重要事項である。上にある者が、その人の正か不正か、賢か愚かを虚心によく見て詳しく調べることをせず、ただその時の実体のない評判に引かれて宰相や将軍、民生や裁判の官吏に登用すれば、そのわざわいはとめどないだろう。

昔、戦国時代に趙の孝成王は秦との戦闘中に秦の流言に乗せられて指揮官を経験の浅い趙括に交代させて、秦に大敗する過ちを犯し、東晋の簡文帝は清談の名手として名高かった殷浩を将軍に登用したが軍事に疎く北伐で敗北を繰り返した。唐の粛宗は軍事に疎い房琯を安史の乱の鎮圧に登用して大敗する誤りを犯した。北宋の神宗は王安石を宰相に任用することで新法党と旧法党の対立を招き、南宋の高宗は用兵に疎い張浚を将軍に任用して冨平の戦いで金に大敗し陝西地方を失う失敗を招いた。明の太祖朱元璋は極端な猜疑心から有能な武将を残らず粛清し次代の建文帝のためには方孝孺などの軍事に疎い学者肌の官僚しか残してやらず、このことが靖難の変を招くことになった。これらの家臣は必ずしも悪人ではない。しかしその才能は大任を担うには足らず、智略も反乱を鎮圧できるほどのものではなかった。君主がその人物をよく調べもせず登用して世の安定や乱の鎮圧を求めたが、結局国家の存亡に関わる災いを残すことになった。まことに恐るべきことである。

 

(読み下し文)

李北海.常に蕭誠(ショウセイ)の書を許(みと)めず。、誠乃(すなは)ち古帖(コジョウ)を詐作(ササク)し、紙を故(ことさら)に暗くし、北海に持ち示して曰く「此れ乃(すなは)ち右軍(ユウグン)の真蹟なり、如何(いかん)」と。北海看()て善しと称ふ。誠以て實を之に告ぐ。北海復()た取り視て曰く「細看(サイカン)すれば亦た未だ好(よ)しと見ず」と。何景明(カケイメイ)唐詩を愛して宋詩を取らず。揚用修.嘗て宋詩の清雅(セイガ)深穩(シンオン)なること唐に類()る者数首を摘(えら)び、以て景明に示す。景明嗟服(サフク)し以て唐詩の佳き者と為す。用修其の姓字を具(つぶさ)に道(い)へば、景明復た之を閲(けみ)して曰く「熟玩(ジュクガン)すれば了(つひ)に其の未だ工(たくみ)ならざるを覺ゆ」と。用修彊項(キョウコウ)なるを以て斥(せめとが)む。茅順甫.同時に於て、惟だ荆川(ケイセン)一人を推す。胡績渓嘗て徐文長の文を以て之に示し、詭(いつは)りて荆川と云ふ。順甫讃歎して已(や)まず曰く「荆川に非ざれば作る能(あた)はず」と。已(すで)にして文長爲るを知るや、復た取り視て曰く「故(たしか)に是れ名手なり。惜しむらくは後半稍(やや)弱く振はざるのみ」と。錢謙益(センケンエキ)其の自負護前(ゴゼン)を誚(せ)む。久しいかな世の名に炫(くら)みて、其の實を覈(しら)べざるや。

人の定見無きや、惟だ名のみ是(これ)を逐ひ、苟(いやしく)も其の名の赫灼たれば輒(すなは)ち嘆羨(タンセン)欣慕(キンボ)す。未だ始めから其の術の工拙、道の蘊奥(ウンオウ)如何を晰(あき)らかにせず。其の立論の繆(あやま)らざるを欲すれど得るや。李北海之(これ)書に於て、何景明之詩に於て、茅順甫之文に於て、皆眼力人より数等尚(たか)し。其の自任又殊に軽からず。乃(すなは)ち其の評隲(ヒョウシツ)瞀瞀然(ボウボウゼン)として、眛目(マイモク)にて五采を談ずるが如し。其の破綻露(あらは)になるに及び、又多方に周遮(シュウシャ)し、以て之を掩飾(エンショク)せんと欲し、秪(た)だ旁人(ボウジン)の咍(わら)ひを来すのみ。三子の卓卓(タクタク)にして且つ爾(しか)り。矧(いはん)や迥(はるか)に三子に如(およ)ばざる者をや。

然れば則ち今の昂昂(コウコウ)として書聖・詩傑・文宗を以て自命する者、未だ必ずしも一代の哲匠爲らず。其れ一隻眼(イッセキガン)を以て自負し、作家の優劣高下、片言に於て決する者、未だ必ずしも藻鑑(ソウカン)に於て妙(すぐ)れず。予意(おも)ふに世の作を善くし評隲を善くする者は必ず夫の遐僻(カヘキ)の郷、寂寞(セキバク)の渓に在りて、人絶へて之(これ)を知ること莫きなり。

前修云へる有り「古(いにしへ)に今人(コンジン)相及ばず」と。夫れ古を是とし今を非とするは人の恒情なり。前修の言、亦た未だ尽さざるなり。故に古人勝りて今人劣る者有り。今人工(たくみ)にて古人拙き者有り。天象・輿地(ヨチ)の學の如し、世に随ひ愈(いよいよ)密(つまびらか)なり。晩出(バンシュツ)者迥(はるか)に古を過ぐ。閻若璩(エンジャッキョ)云へる有り「囲碁の術、後人実に古人に四子勝る」と。小技にして且つ爾(しか)り。自(おのづ)から他も推すべし。奚(なん)ぞ必ず今は古(いにしへ)に及ばざるの偏見に泥守するや。

且つ師古(シコ)を尚ぶ所の者は、其の克く人の真を洞知して之を誦法(ショウホウ)するを以てなり。今未だ始めから古人の藩を窺はず、徒(いたづら)に其の古より出たるを以て一意に之を尊び之を師とするは、諸(これ)を彼の漫(みだり)に古人の長(すぐ)る所を知らずして之(これ)を撓(みだ)し罵(ののし)り斥(しりぞ)く者と較(くら)ぶれば、相距(へだ)つること咫尺(シセキ)のみ。奚(なん)ぞ取るに足るや。

顧(かへりみ)れば文詩及び書、盛名に炫(くら)まされて其の真を洞(みとほ)さざれば識者の嗤(わら)ひを来(きた)し、後生の譏誚(キショウ)を貽(のこ)すは亦た醜(は)づべきと雖も、區區(クク)たる一藝にして巨害と為すに足らず。若()し乃(すなは)ち登賢(トウケン)任材天下の至要(シヨウ)の務(つとめ)なり。上に在る者、虚心に諦観(タイカン)し以て其の人の直枉・賢不肖を審(つまびらか)にせず、徒(いたづら)に一時の浮誉(フヨ)に牽()かれ、便ち擢(ひきぬ)き以て燮理(セツリ)の佐、禦侮(ギョブ)の帥(スイ)、字民(ジミン)折獄(セツゴク)の吏と為さば、其の殃害(オウガイ)奚(いづくん)ぞ涯極(ガイキョク)する所あるや。

昔者(むかし)趙の孝成王之を趙括に於て失(あやま)る。晋の簡文之を殷浩(インコウ)に於て失る。唐の粛宗之を房琯(ボウカン)に於て失り、宋の神高二宗、之を王安石・張浚に於て失る。明の太祖之を方孝孺に於て失る。斯れ其の人必ずしも憸邪(センジャ)の臣為らず。而して才大任を擔(にな)ふに足らず、智克く乱災を防遏せず。人主審察(シンサツ)すること能はずして便(すなは)ち濟世靖乱(サイセイセイラン)の方(てだて)を以て責(もと)め、遂に宗祏(ソウセキ)の祻(わざはひ)を貽(のこ)す。深長に懼れざるべきかな。

(語釈)

李北海(唐の官僚,書家.若い頃より文名があり,数度の変遷を経て晩年北海太守となった.しかし豪奢な性格が災いし,悪事が露見して罪を承け,かつ宰相の李林甫に憎まれて,死刑に処せられた). 蕭誠(ショウセイ)(唐の書家。当時、高名な書家である李邕(李北海)は、蕭誠の才能を高く評価していなかった。蕭誠は李邕を感動させ、注目させようと思い、自ら作品を制作した。巧妙な偽作の手法を用いて、紙をわざと古びて暗い色に仕上げ、前人の作品を模写し、技術的な加工を施した上で李邕に見せ、「これは王羲之の真筆ですが、いかがでしょうか」と尋ねた。李邕はそれを見て、疑うことなく王羲之の真蹟と思い込み、大いに称賛した。こうして蕭誠は、この高名な書家を欺くことに成功したのである。その後、蕭誠が自分で書いたものだと打ち明けると、李邕は深く感服し、以後、蕭誠を軽んじることはなくなった。)古帖(コジョウ)(古い習字の手本)詐作(ササク)(偽作 偽造)右軍(ユウグン)(王羲之)細看(サイカン)(つぶさに見る)何景明(カケイメイ)(明中期の詩人。復古主義を唱えた前七子のなかでは、李夢陽とともに指導的立場にあり、李何と並称されたが、のち夢陽は模擬を、景明は創造を主張して対立した)揚用修(楊慎。明代の詩文作家,学者.その文学は「人ごとに,時代ごとに詩有り」をモットーとし,復古を志すものの,当時の古文辞派〈前七子〉とは一線を画し,その一人である何景明に対しては六朝文学の《文選》を読まないことを批判した)清雅(セイガ)(清らかで上品な美しさのあること)深穩(シンオン)(奥ゆかしく落ちついているさま)嗟服(サフク)(感服)姓字(姓名)熟玩(ジュクガン)(熟読玩味)彊項(キョウコウ)(強情)茅順甫(茅坤(ボウコン)。明代の文学者.古文辞派の「文は必ず秦漢」の全盛期に,それに抗う形で唐宋古文を推戴したことから,唐順之,王慎中とともに唐宋派と呼ばれる.彼が編纂した《唐宋八大家文鈔》は,唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽脩,蘇洵,蘇軾,蘇轍,曽鞏,王安石の名編を集めたもので,古文の入門書として人気を博し,唐宋八大家という呼称はこの書から広まったという)荆川(ケイセン)(唐順之。明代の文学者,思想家。七子派の古文辞の模擬に過ぎるあまり,文のリズムを失った点を批判し,唐・宋の伝統的な古文への復古を主張した)徐文長(徐渭。明の文人,書家.当時の文学界は華美な台閣体に対して古文復興運動の機運が高まり,古文辞派が唱える擬古主義が台頭しはじめていたが,それを批判し,形式に囚われず自身の気持ちを素直に表すべきと主張した)錢謙益(センケンエキ)(明末清初の学者・詩人。明代の古文辞派などを批判し、詩のもつ気高い趣を重んじた)護前(ゴゼン)(過失を改めないこと)

嘆羨(タンセン)(感嘆してうらやむ)欣慕(キンボ)(よろこびしたう)蘊奥(ウンオウ)(奥義)評隲(ヒョウシツ)(批評)瞀瞀然(ボウボウゼン)(目がはっきりしない)眛目(マイモク)(目がよく見えない)周遮(シュウシャ)(まわり遠い。まわりくどい。もってまわること)掩飾(エンショク)(ごまかす、過ちを飾る)旁人(ボウジン)(他人)卓卓(タクタク)(抜きんでて優れること)

昂昂(コウコウ)(高く抜きんでている、優れていること)自命(自任)一隻眼(イッセキガン)(ものを見抜く特別な眼識。独特の批評眼)藻鑑(ソウカン)(鑑識、鑑別)

「古(いにしへ)に今人(コンジン)相及ばず」(『文章規範』 巻之一 送楊少尹序(韓愈)にあることば)恒情(普通の人情)天象(天体現象)輿地(ヨチ)(大地)晩出(バンシュツ)(おくれて世に出る)閻若璩(エンジャッキョ)(清代の古典学者。経史に詳しく、精密な考証にすぐれ、清代考証学の基礎を築いた)

師古(シコ)(古を師とすること)誦法(ショウホウ)(手本として万事を律する)(まがき、おおい)咫尺(シセキ)(わずか)

譏誚(キショウ)(そしり 批判)區區(クク)(小さな、取るに足らない)登賢(トウケン)(賢才を登用する)任材(人材を任用する)諦観(タイカン)(よく見る、つまびらかに見る)浮誉(フヨ)(虚名、実績を伴わない評判)燮理(セツリ)(宰相)禦侮(ギョブ)(防衛 国防)(スイ)(指揮者、将軍)字民(ジミン)(民をいつくしむ)折獄(セツゴク)(裁判)殃害(オウガイ)(わざわい)涯極(ガイキョク)(果てる 終わる)

趙の孝成王(中国戦国時代の趙の第8代君主。秦と長平の戦いが勃発すると趙軍を率いる老将廉頗は秦側の遠征軍の不利を衝き、疲弊を待つ持久戦に徹した。孝成王は秦側の流言に乗せられ廉頗に替えて趙括を将軍に任じて攻勢に転じようとする。この人事には先王の代に対秦外交で活躍した藺相如も、死の床にあった身を押して参内し強く反対。趙括の父、趙奢の遺言を受けた母親までもが翻意を訴えたが、孝成王は将軍交代を強行。その結果、秦の将軍白起に戦術を見切られた趙括軍は大敗。40万を超える趙軍は壊滅という事態を招いた)趙括(趙の政治家。若くして兵法を学び,天下一と自任し.兵事については父の趙奢も言い負かすことができなかった.趙と秦の長平の戦いで,趙の将軍の廉頗は持久戦をとり,秦軍は苦しんだが.秦は,趙括が将軍になることを恐れていると噂を流し,これにより趙の孝成王は,廉頗を罷免して趙括を将軍とした.趙括は秦軍に攻勢に出て大敗,包囲され,ついに戦死した)晋の簡文(東晋の第8代皇帝)殷浩(インコウ)(東晋の政治家・軍人。清談の名手として才名は鳴り響いていたが、将軍として採用され北伐を実行すると敗北を繰り返し罷免された)唐の粛宗(唐第7代の皇帝.玄宗の第3子.安史の乱  に遭い,玄宗が蜀へ逃れるのに随ったが,父老に長安の奪回を懇請されて馬嵬駅(長安の西方)で別れ,霊武で宦官李輔国の勧めに従い皇帝に即位し,玄宗を上皇と尊称した.ウイグル等を援兵に付け,郭子儀らの活躍もあって,翌年長安,洛陽を回復したが,在位中に乱を平定するには至らなかった.また即位に際して宦官が介在したことは,唐代後半期に宦官が力を持つきっかけとなったとされる)房琯(ボウカン)(唐代の政治家。粛宗朝の行在の重要な政務の多くは房琯によって決裁された。房琯は長安奪回の作戦を提案して、粛宗に承認され、持節・招討西京兼防禦蒲津関潼関兵馬節度等使を加えられた。郭子儀や李光弼らと図って兵を進め、自ら中軍を率い、先鋒をつとめた。10月、咸陽県の陳濤斜で反乱軍と戦って敗れ、4万人あまりを殺傷された。房琯はさらに南軍を率いて戦ったが、また敗れ、行在に逃げ帰った)宋の神高二宗(北宋の神宗と南宋の高宗)、王安石(北宋の政治家。神宗の信任を得て宰相となり、青苗法など多くの新法を実施したが、旧法党の反対にあって辞職した)。張浚(南宋初期の政治家。1129年(建炎3)春,禁衛軍の反乱を鎮圧して高宗の信頼を得た。同年秋,四川・陝西防衛の最高責任者となり,四川への金軍侵入阻止に成功した。対金強硬論者であったため,秦檜専制期は全く不遇であった。秦檜の死,孝宗の即位によって宰相となり,中原奪回作戦を計画したが,63年(隆興1)の符離(安徽省)の敗戦で挫折した)明の太祖(明の初代洪武帝 中央集権による皇帝独裁権を築いたが、強い猜疑心から功臣をことごとく粛清し,スパイによる恐怖政治を行った。皇后にも先立たれ,晩年孤独のうちに病没した)方孝孺(明初の学者。代々官僚の家の子で,10歳で当代の碩学宋濂に学び,濂門の第一人者とうたわれた。はじめ洪武帝に召されたが,建文帝の即位とともに翰林院侍講に任ぜられ,ついで侍講学士にすすみ,国政の枢機に参画した。燕王(のちの永楽帝)が挙兵して〈靖難の変〉が起こると,帝の側近にあって輔佐したが,戦いに敗れて建文帝は没し,彼自身も捕らえられた。南京占領に先立ち,姚広孝は方孝孺を殺せば天下の学問の種子が絶えると忠告していたが,彼が即位の詔勅を書くのを拒否し,〈燕賊位を簒う〉と大書したため,永楽帝は彼を磔刑に処し,妻子をはじめ一族八百数十名を殺害した。)憸邪(センジャ)(よこしま、悪い)審察(シンサツ)(詳しく調べる)濟世靖乱(サイセイセイラン)(世を救い乱をおさめる)宗祏(ソウセキ)(宗廟内の位牌を保管する石室)

 

(漢文)

李北海常不許蕭誠書、誠乃詐作古帖、令紙故暗、持示北海曰、此乃右軍真蹟、如何、北海看称善、誠實以告之、北海復取視曰、細看亦未見好、何景明愛唐詩、而不取宋詩、揚用修嘗摘宋詩之清雅深穩類唐者数首、以示景明、景明嗟服以爲唐詩之佳者、用修具道其姓字、景明復閲之曰、熟玩了覺其未工、用修斥以彊項、茅順甫於同時、惟推荆川一人、胡績渓嘗以徐文長文示之、詭云荆川、順甫讃歎不已曰、非荆川不能作、已而知爲文長也、復取視曰、故是名手、惜後半稍弱不振耳、錢謙益誚其自負護前、久矣哉世之炫於名、而不覈其實也、

人之無定見也、惟名是逐、苟其名之赫灼、輒嘆羨欣慕、未始晰其術之工拙、道之蘊奥如何、欲其立論不繆得乎、李北海之於書、何景明之於詩、茅順甫之於文、皆眼力尚於人数等、其自任又殊不軽、乃其評隲瞀瞀然、如眛目而談五采、及其露破綻、又多方周遮、欲以掩飾之、秪来旁人之咍、三子之卓卓且爾、矧迥不如三子者乎、

然則今之昂昂、以書聖詩傑文宗自命者、未必為一代哲匠、其以一隻眼自負、作家之優劣高下、決於片言者、未必妙於藻鑑、予意世之善作善評隲者、必在夫遐僻之郷、寂寞之渓、而人絶莫之知也、

前修有云、古今人不相及、夫是古而非今、人之恒情、前修之言、亦未尽也、故有古人勝而今人劣者、又有今人工而古人拙者、如天象輿地之學、随世愈密、晩出者迥過乎古、閻若璩有云、囲碁之術、後人実勝古人四子、小技且爾、自他可推、奚必泥守今不及古之偏見乎、

且所尚於師古者、以其克洞知人之真、而誦法之也、今未始窺古人之藩、徒以其出于古、而一意尊之師之、較諸彼漫不知古人所長、而撓罵斥之者、相距咫尺耳、奚足取哉、

顧文詩及書、炫於盛名、而不洞其真、來識者之嗤、貽後生之譏誚、雖亦可醜、而區區一藝、不足為巨害、若乃登賢任材天下之至要務也、在上者不虚心諦観、以審其人之直枉賢不肖、徒牽於一時浮誉、便擢以爲燮理之佐、禦侮之帥、字民折獄之吏、其殃害奚所涯極也、

昔者趙孝成王失之於趙括、晋簡文失之於殷浩、唐粛宗失於房琯、宋神高二宗、失之於王安石張浚、明太祖失之於方孝孺、斯其人不必為憸邪之臣、而才不足擔大任、智不克防遏乱災、人主不能審察、而便責以濟世靖乱之方、遂貽宗祏之祻、可不深長懼哉、

 

侗庵新論 第九十六

(要約)

創業の君主は天命を受けて生まれるとしても、名臣までが天命の賜物ではない。人材は君主の人徳に感応して育つ。教化は近くから遠くに及び限界もあるが、遠方に対しても君主が誠を尽くし、家臣も目前の名君に仕えるが如く自ら修養に励めば、必然的に人材は輩出される。人材不足とは、教化と努力の欠如が招く事態に過ぎないのである。

 

(現代語訳)

漢の高祖劉邦は故郷の豊沛(ホウハイ)で決起し、豊沛の地には優れた人材が多く集まった。後漢の光武帝は南陽で漢を再興し南陽では郡全体で才知ある賢者が盛んに生まれた。我らの徳川家康公は三河で立ち上がり、三河や遠州では勇将、智士、良臣、能吏らが多く集まった。これは昔から今まで無かったことだ。この他に金の完顔阿骨打や元のチンギスハンなどは、万里の長城の外側の荒れ果てた寒々とした地に勃興したが、この時も、混同江や斡難河の河畔には英雄豪傑が雲のように集まった。ああ、こうしたことはどうして起こったのだろうか。

論者は「国家を開設した君主や家臣は賤しい身分から身を起こし、長年の大乱を終わらせた。こういう人たちは決して偶然生まれたのではない。天地の間の霊気が一か所に集まって、帝王はその気を受けて生まれたのだ。下は武将や家臣に至るまですべてこの気に育てられたもので、人の力はどこにも関与していないのだ」などと言う。この論はわずかに一部だけは当たっているが、その全てを説明してはいない。そもそも一人で人民を虐政の苦しみから救い、数十年の乱をおさめて何百年もの治世を開始する、こういう人が天命を受けて生まれたというのは無理ではない。しかしこうした名君に付き従った家臣たちはただ幸いにも時勢に乗って大きな手柄をたてただけのことなのに、これらも皆、天地の優れた気を受けて生まれてきたとするのは、大分人情からは遠い。もし言う通りならば、無数の功臣が非凡で優れていることや、大きな功績を挙げたこともすべて天が行ったことで人は全く関与していないことになる。これは全く物事の道理からかけ離れている。

高祖や光武帝の功臣を見てみると蕭何、曹参、樊噲、周勃、馮異、岑彭など、皆才略にすぐれ、功績も偉大であり、まことに他人には望めないような所がある。このため人々は、これを特別な霊気を受けて生まれたのではと疑い、幸いにも不世出の名君に出会ったことでそうなったということを全く知ろうとしない。仮に高祖や光武帝が他の地方で生まれ、金の完顔阿骨打や元のチンギスハンが南で決起したとしても、また必ず蕭何や曹参、馮異(フウイ)や岑彭(シンホウ)、あるいは粘罕(ネメガ)や木華黎(ムハリ)のような功臣が出現し、機を見て動きそれぞれの地で才能を示すことになるだろう。

優れた才能や器量のある人物であれば天下を動かすことができるだろう。高祖の功臣の張子房や光武帝の功臣の鄧仲華のような人物は特別な霊気によって生まれたのに近い。彼らはもともと君主の影響力を借りる必要も無かっただろう。しかしこれ以下の人物では、明君の指導を頼りにしない者などいない。そもそも明君というのは国家を治め、人民を等しく包容して皆が賢人や君子になるように導きたいと思うものだ。しかし得てしてそうはいかない。必ず教化は近くから遠くに及び、遠くの人は近くの人が深く教えの恩恵を受けるようにはいかない。それゆえ尭はまず周りの多くの官吏を公平に治め、それから万国を仲良くさせようとした。文王は自分の妻の行いを正しくし、それを兄弟に及ぼし、さらに国家を治めた。孔子は政治の要道と尋ねられてこう答えた。「近い人たちが喜んで従い、遠方の者がこれを慕って集まって来るようにすればよろしいのです」と。孟子はこう言っている。「天下の根本は国にあり、国の根本は家にあり、家の根本は一身にある」と。これらは皆、教化が近くから遠くに及ぶことを表している。

国家を創業した君主であっても当然古代の聖王に対しては恥じることもある。しかし大事業を成し遂げた点では同じであり、遠くも近くも人々の姿や声がすき間なくおおう。しかも王のいる地であれば、人々の好みも王と同じであり、王と気風を同じくする人たちは、水と乳が仲睦まじく結びつき、土笛と竹笛が音色を調和させるように王との共鳴を感じる。その教えは骨身に染み、進歩もせず頑なで荒々しいだけの人間でなければ、自然と皆生き生きと奮い立ち、善行に向かい尽力するようになる。このため英才が次々出るようになるが、これは遠方で王の話をはるかに聞いているだけの者とは天と地ほども違いがある。これを例えてみれば、古代の歌の名手である秦青の門の前には歌の得意な者が群れを成し、扁鵲、倉公といった名医のいる所では病人がけろりと治るのと同じで、人の力が成し遂げたことであり天によるものではない。そうしてみると、興国の王のいる所に人材が多く出るのは、時勢のめぐり合わせによるもので王の力によるものではないなどと言うのは、果たして正しいのだろうか。そもそも君主の影響力の及ぶ範囲にはもともと限界がある。そうではあるが、王者が自分の故郷のように遠方の地を見ることができれば、真心を尽くしてその地の人々の心を動かし、ねんごろに教えてこれを導くだろう。たとえ王の故郷と全く同じにはできないにしても、人材は必ず以前の何倍にもなるだろう。そして王の下にいる者たちも文王のような聖人が出てくるのをあてにしていたことを恥じて、庶民のために立ち上がり、心を洗い清めて修養し、自ら善に進む行いをするようになる。これは明君が目の前にいて自分たちを導いているかのようだ。そうすれば必ず今日のような衰退の事態には至らないだろう。上下共にこの道理を理解してその実践に努めれば、人材が世の中に乏しいなどと悩むこともないだろう。

 

(読み下し文)

高祖豊沛(ホウハイ)に於て奮ひ、豊沛の地俊傑林を成す。光武南陽に於て中興し、南陽闔郡(コウグン)才賢蔚興(ウッコウ)す。我烈祖参河に於て龍飛し、参遠諸州、驍将(ギョウショウ)智士良臣能吏之(これ)夥(おびただ)しく振古(シンコ)未だ嘗て有らざる所為り。他に阿骨打(アクダ)・鐵木真(テムジン)の如し、塞外(サイガイ)荒寒(コウカン)の區(ところ)に於て勃興し、爾時(このとき)混同江・斡難河(オノンガ)の畔(ほとり)、英豪雲の如し。嗟夫れ此れ何の道にて然致るや。

論者以爲(おもへらく)「開剏(カイソウ)の君臣卑微(ヒビ)より奮ひ、以て積年の大乱を撥(をさ)む。其の人必ず偶爾(グウジ)生るる者に非ず。両間の霊秀(レイシュウ)斯()の一方に蓊然(オウゼン)と萃(あつま)り、帝王固より斯()の気を稟()け以て産る。下は将帥臣隣(シンリン)に至るまで、斯の気の茂育(モイク)する所に非ざるもの莫し。人力奚(いづくん)ぞ與(あづか)らんや」と。此の論纔(わづか)に一偏を得れども未だ其の全てを尽さざるなり。夫れ一人蒼黎(ソウレイ)を水火より拯(すく)ひ数十年の乱に龕(か)ち以て百載を累(かさ)ぬる盛治を開く。之(これ)を天命を受けて生まるると謂ふは無理と為さず。若()し乃(すなは)ち附鳳攀龍(フホウハンリュウ)の諸臣、則ち特()だ幸にして風雲の會に位し、以て大勲を成すのみ。乃ち以て亦た皆神秀を稟(う)け以て生るると為すは大ひに人情に近からず。且()し云ふ所の如くなれば、則ち無数の功臣の卓犖(タクラク)不凡(フボン)にして鴻勲(コウクン)を樹つる所以(ゆゑん)は、咸(みな)天之を爲して人絶へて與(くみ)せず。亦た事の理に於て闊(とほ)し。

夫()の高光の功臣を観れば、蕭曹樊周馮岑の倫の如し、才略之(これ)雄(すぐ)れ、勲績之(これ)俊偉(シュンイ)。洵に他人の希む所に非ざる者を有す。是以(これゆゑ)人其の霊秀を受けて挺生(テイセイ)するを疑ひ、絶へて其の不世の英主に幸遇し以て此(ここ)に至るを知らざるなり。假令(たとひ)高光他方に於て興き、金元二祖南に於て起()てども、亦た必ず蕭曹馮岑の属(ともがら) 粘罕(ネメガ)・木華黎(ムハリ)の輩(ともがら)の若(ごと)き出で、鷹揚(オウヨウ)鵲起(ジャッキ)し、以て其の地に於て材を呈(しめ)すこと有らん。

顧ふに瑰才(カイサイ)偉器(イキ)の士、天下を斡運(アツウン)するを以て足る。張子房・鄧仲華の如き、間気の生む所に庶(ちか)し。彼固より應(まさ)に君上(クンジョウ)に作興の力を借りざらん。苟(いやしく)も此より下なれば、未だ始めから明王の唱率を待たざる者有らざるなり。夫れ英辟海寓を馭し、兼懐一視し、未だ嘗て億兆を化(みちび)き賢人と為し君子と為さんと欲せざることなし。而して勢ひ行ふべからざる者有り。必ずや近き由()り遠きに覃(およ)び、遠き人断じて近き者の蒙化(モウカ)深きに如(およ)ばず。故に尭、百姓を平章し、以て萬邦を協和す。文王、寡妻(カサイ)を刑(ただ)し、兄弟に至り、以て家邦を御す。孔曰く「近き者悦び、遠き者来る」と。孟曰く「天下の本國に在り、國の本家に在り、家の本身に在り」と。皆此の理なり。

肇業の英主、固より盛古の聖王に愧ずこと有り。而して其の大作之(これ)と同符す。是以(これゆゑ)聲光(セイコウ)之(これ)邇遐(ジカ)に間無く被(おほ)ひ、而も興王の地なれば則ち風尚之(これ)同じ、気類之(れ)水乳契りて塤篪(ケンチ)和すがごとくに感ず。其の化(をし)へ浹髄淪骨(ショウズイリンコツ)し、自から佁儗(チギ)頑獷(ガンコウ)の徒に非ざれば、擧げて皆躍然振奮(シンプン)し善に趨き功に赴く。是以(これゆゑ)英才坌出(フンシュツ)し、遐方(カホウ)に逖(はるか)に聴く者と、穹壌の懸(へだ)りに直(あた)ひす。諸(これ)を譬(たと)ふれば秦青(シンセイ)の門に歌を善くする者群(むれ)を成し、扁倉の居る所に病夫咸(みな)霍然(カクゼン)たるがごときは、人力之(これ)を爲して天に由らざると見るべし。然れば則ち興王の地に人才多きは、気運之(これ)を為し王者の力に非ずと謂はば、其れを通すべきか。夫れ人主の風化の覃(およ)ぶ所固より涯(はて)有り。然りと雖も王者能く遐方を視ること吾が發祥の州の如くなれば、積誠以て之を感(うごか)し、惇誨(トンカイ)以て之を導く。縦(たと)ひ能()く興王の地と如一(ジョイツ)とせざれども、人才必ず前日より倍蓰(バイシ)すべし。即ち下人亦た能く文王を待つを恥じて、之を凡民の為に興し、澡雪(ソウセツ)修治し、自ら徳業に進むこと、明辟の目前に在り以て我を誘迪(ユウテキ)するが如し。必ず今日の衰苶(スイデツ)の如きに至らざるなり。上下相與(とも)に此の理を洞悉して之を践(おこな)ふに力(つと)むれば、豈に人才世に乏しきを患ふや。

 

(語釈)

豊沛(ホウハイ)(漢の高祖劉邦の故郷の地)光武(後漢初代皇帝)闔郡(コウグン)(郡全体で)才賢(才知ある賢者)蔚興(ウッコウ)(さかんに興る)龍飛(英雄が時を得て活躍する)驍将(ギョウショウ)(勇将)振古(シンコ)(昔より)阿骨打(アクダ)(完顔阿骨打(ワンヤンアクダ) 金の初代皇帝)鐵木真(テムジン)(チンギスハン)塞外(サイガイ)(万里の長城の外側)荒寒(コウカン)(荒れて寒々とした)混同江(黒竜江 女真族発祥の地)斡難河(オノンガ)(黒竜江の上流 チンギスハンの決起したところ)

卑微(ヒビ)(卑しい身分)偶爾(グウジ)(たまたま)霊秀(レイシュウ)(きわめて霊妙なこと)蓊然(オウゼン)(盛んに)臣隣(シンリン)(臣下、家臣)茂育(モイク)(伸ばし育てる)一偏(一部分)蒼黎(ソウレイ)(百姓 人民)水火(虐政の苦しみ)附鳳攀龍(フホウハンリュウ)(鳳凰に従い龍につかまる、優れた人に付き従うこと)風雲の會(明君に巡り合って才能を発揮すること)神秀(すぐれていること)卓犖(タクラク)(高くぬきんでていること、非常にすぐれていること)不凡(フボン)(非凡)鴻勲(コウクン)(大きな功績)

蕭曹樊周馮岑(蕭何、曹参、樊噲、周勃、以上高祖の功臣。馮異(フウイ)、岑彭(シンホウ)、以上光武帝の功臣)勲績(功績)挺生(テイセイ)(生まれる)幸遇(幸いにも出会う)粘罕(ネメガ)(完顔宗翰、金の宗室,武将.対宋戦争で主導的な役割を果たし,宋(北宋)を滅ぼした)木華黎(ムハリ)(モンゴル帝国創業の功臣。チンギス・ハーンの苦難時代からこれを助けてその覇業に貢献し,ボオルチュ,ボロクル,チラウンとともに四傑と称せられた)鷹揚(オウヨウ)(強い兵士)鵲起(ジャッキ)(機を見て動く)(才能)

瑰才(カイサイ)(優れた才能)偉器(イキ)(優れた人徳)張子房(張良。漢の高祖の功臣。陳勝・呉広の挙兵に呼応してたち上がり,劉邦に従ってその軍師となった。秦軍を破って関中に入り,秦都咸陽をおとし,有名な鴻門の会では劉邦を危地から救い,さらに項羽を追撃して自害に追いやるまで,彼はつねに劉邦の帷幕にあって奇謀をめぐらし,漢を勝利にみちびいた。漢の天下平定にともないその功績によって留侯に封ぜられたが,そののちも長安に都すべきことを進言したり,蕭何を相国に推したり,また恵帝の擁立に努めるなど,漢帝国創建に果たした役割は大きい)鄧仲華(鄧禹。後漢建国の功臣。光武帝の信頼厚く,即位後大司徒に任じられた)間気(豪傑が出る機運)君上(クンジョウ)(君主)作興(振興)英辟(明君)海寓(天下、国家)  兼懐(等しく包容すること)一視(同一視すること)億兆(人民)蒙化(モウカ)(徳化をこうむる、恩恵をこうむる)百姓(百官)平章(公平に治める)萬邦(万国)寡妻(カサイ)(正妻)家邦(国家「近き者悦び、遠き者来る」(論語子路篇。「葉公政を問ふ。子曰く、近き者悦び、遠き者来ると」

同符(一致する)聲光(セイコウ)(人々の声や姿)邇遐(ジカ)(近くと遠く)興王(興国の王)風尚(人々の好み)気類(気風が同じ人)塤篪(ケンチ)(土笛と竹笛)浹髄淪骨(ショウズイリンコツ)(骨身に染みること)佁儗(チギ)(進歩しないこと)頑獷(ガンコウ)(頑なで荒々しい)躍然(生き生きと)振奮(シンプン)(奮い勇み)坌出(フンシュツ)(湧き出る)遐方(カホウ)(遠方)秦青(シンセイ)(古の歌の名手)扁倉(扁鵲、倉公 ともに名医)霍然(カクゼン)(病気がけろりと治る)人才(人材)人主(天子、君主)風化(善い教えで人を善に導くこと)發祥(帝王やその祖先が生まれ出ること)積誠(真心を尽くすこと)惇誨(トンカイ)(ねんごろに教える)如一(ジョイツ)(同じ)澡雪(ソウセツ)(洗い清める)誘迪(ユウテキ)(導く)

 

(漢文)

高祖奮於豊沛、而豊沛之地、俊傑成林、光武中興於南陽、而南陽闔郡才賢蔚興、我 烈祖龍飛於参河、而参遠諸州、驍将智士良臣能吏之夥、為振古所未嘗有、他如阿骨打鐵木真勃興於塞外荒寒之區、而爾時混同江斡難河畔、英豪如雲、嗟夫此何道而致然也、

論者以爲開剏君臣奮於卑微、以撥積年大乱、其人必非偶爾生者、両間霊秀蓊然萃於斯一方、帝王固稟斯気以産、下至将帥臣隣、莫非斯気所茂育、人力奚與焉、此論纔得一偏、而未尽其全也、夫一人拯蒼黎於水火、龕数十年之乱、以開累百載之盛治、謂之受天命而生、不為無理、若乃附鳳攀龍之諸臣、則特幸而位風雲之會、以成大勲耳、乃以爲亦皆稟神秀以生、大不近於人情、且如所云、則無数功臣所以卓犖不凡樹鴻勲者、咸天爲之、而人絶不與、亦闊於事之理矣、

観夫高光功臣、如蕭曹樊周馮岑之倫、才略之雄、勲績之俊偉、洵有非他人所希者、是以人疑其受霊秀而挺生、絶不知其幸遇不世英主以至此也、假令高光興於他方、金元二祖起於南、亦必有若蕭曹馮岑之属、粘罕木華黎之輩出、鷹揚鵲起、以呈材於其地矣、

顧瑰才偉器之士足以斡運天下、如張子房鄧仲華、庶乎間気所生、彼固應不借君上作興之力、苟下乎此、未始有不待明王唱率者也、夫英辟馭海寓、兼懐一視、未嘗不欲化億兆爲賢人爲君子、而勢有不可行者、必也由近而覃遠、遠人断不如近者之蒙化深、故尭平章百姓、以協和萬邦、文王刑于寡妻、至于兄弟、以御于家邦、孔曰近者悦、遠者来、孟曰天下之本在國、國之本在家、家之本在身、皆此理也、

肇業英主、固有愧盛古聖王、而其大作與之同符、是以聲光之被無間乎邇遐而興王之地、則風尚之同、気類之感、水乳契、而塤篪和、其化浹髄淪骨、自非佁懝頑獷之徒、擧皆躍然振奮趨善赴功、是以英才坌出、與遐方逖聴者、直穹壌懸、譬諸秦青之門、善歌者成群扁倉所居、病夫咸霍然可見人力爲之、而不由天、然則謂興王之地多人才者、気運爲之而非王者之力、其可通乎、夫人主風化之所覃固有涯、雖然王者能視遐方、如吾發祥之州、積誠以感之、惇誨以導之、縦不能與興王之地如一、人才必倍蓰於前日、即下人亦能恥待文王而興之爲凡民、澡雪修治、自進於徳業、如明辟之在目前以誘迪我、必不至如今日之衰苶也、上下相與洞悉此理、而力践之、豈患人才乏於世哉、

 

侗庵新論 第九十五

(要約)

俸禄に不満を抱く者が今もいるが、外国の事情を知れば我が国の俸禄がいかに恵まれたものかを知ることになろう。また近年は諸外国は侵略と併呑に務めておりわが国の政策や国境警備に点からも外国の事情を知ることは極めて重要である。

 

(現代語訳)

世界中に建てられた国は星のように多く並び立っている。しかし領知や俸禄についてはわが国より豊かなところは無い。わが国の制度では一万石以上百万石までを大名としている。しかし一万石でも実は五六万石に上る者もあるし、五十万石でも実は百万石を超える者もある。そして家老で扶持が三万石を超える者はいくらいるかわからないほどだ。家老の家臣で三千石を受ける者もいる。下の者への待遇は極めて手厚い。

中国では秦や漢以後、臣下の待遇が代々甚だしく薄かった。一生のうちに家臣は出世して二千石を得れば栄誉とされた。晋王朝では丞相より高い職位はなかったがその領地は百戸に止まることもあった。宋の宰相の領地は二千戸あるいは三千戸ということになっていたが実際の俸禄はわずか数百戸を受けるだけだった。もちろんその領地には実体が無く、また俸禄の数字もほとんど実際とはかけ離れていた。明の初期には広く功臣に領地を与えたが、徐達は建国に大功があって魏國公となっても俸禄はわずか五千石だった。そして水軍を率いて建国に功績のあった廣徳侯華高は六百石で諸侯とされた。以後は抜群の功績を挙げた家臣を侯や伯に任じてもその俸禄は往々にしてわずか数百石だった。このような家臣の待遇の薄さをどう考えたらよいのだろうか。

唐の武元衡と裴度という二人の宰相が刺客に襲われたときの状態を見ると、護衛や従者の少ないことではほとんどわが国の目付や徒士頭と同じであった。その貧弱ぶりは哀れと言うしかない。幕府の老中や諸国の大名の俸禄が中国の宰相よりも上であることは言うまでもない。さらに中国の宰相の俸禄は大名の家老にすら及ばない。わが国に生まれたことは何と幸いで、中国に生まれることは何と不幸なことであろうか。

中国の昔のことなど学者や殿様方は聞き飽きているだろうから、くどくど言う必要もないだろう。近頃では学問が大いに進み、外国の事情も日々明らかになってきており、その政治や文化についておおむね知ることができるようになった。清以外ではロシアが最も強大であり、その収入は清をはるかに上回る。しかし、我が国の御三家のように王統が絶えたときにその跡を継ぐ三家の年間の俸禄は米一万石、銀五万枚に過ぎない。宰相以下であればそれを大いに下回る。わが国にははるかに及ばないことが見て取れる。清やロシアですらこんな状態であり、他の諸国など言うまでもない。そうしてみるとわが国の収入の豊かさは世界一である。

我が国の扶持の豊かさはこれほどなのである。大名や家老、藩士らは皆ありがたくいただき、御恩を骨に刻んで忘れないようにしなければならない。それなのに俸禄が不十分であると怨み、一万石の者は二万石になることを思い、三千石の者は五千石に進むことを願い、数百金をもらう者はまだ千金になっていなと嘆く。多くの方面に要求し、必ずその欲望を満足させるまで終わらない。これまでに受けてきた扶持が既に身の程を超えるものであったことを知ろうともしない。全く誤っている。思うに我が国で収入が豊かなことは、それが長く続いて定まっているので世の中の人々は皆当然視している。古の君子はこう言っている。「悲しいことに風俗は人を変えてしまう」と。今はすでに皆こうした風潮に従いそれが当たり前になってしまったので、誤謬を正しい方向に教導しようとしても極めて難しい。もし中国やその他の諸国の政治や文化を皆がよく知るようになれば、我が国の俸禄がいかに豊かであるかを知って感謝の気持ちが自然に発生するだろうに。

ある人がこう言った。「平穏な日々が長く続き、世間の気風は日に日に汚れ、強欲の心が勝るようになってきた。そして義を貴ぶ心は薄れ、あらゆる所で利益や官職を争うようになった。これはただ教えが行われているか否かだけに係っている」と。これは勿論一つの道理ではある。そうではあるが、教えを広めて強欲の習性を変え、忠君報国の真心が発揮されるようにすることは、主君や宰相の務めである。もし主君と宰相が心を一つにして世の気風を変え世の中を良くする方策を考えているのなら、何で私の言葉などを気にする必要があろうか。しかしもし教えが四方に広まり、人は正義に勇むようになったとしても、外国の事情を良く知らなければ、我が国の扶持が豊かなことを知らないのもこれまで通りということになり、その恩義に深く感謝しない者もあるだろう。

家康公の功臣で忠義や勇猛の士でない者はいない。本多忠勝、榊原康政のなどはそのうちの最も優れた者である。しかし忠勝は大国を与えられなかったことに不平を抱き、康政は高い功績を挙げたのに恩賞が薄かったとして、晩年は怒りに任せて内蔵が腐り出仕しようとしなかった。平松金次郎は長久手の戦いでの功績に対する恩賞が望み通りでなかったことを怨み、豊臣方に寝返ろうとした。様々な家臣でこれと同じような者は一人や二人ではない。当時、織田信長ははじめて二十余りの国を得て、すぐに柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎など数名の功臣に大国を与えた。太閤秀吉は天下を統一して、諸侯に国を与えた。ある者は二百万石、ある者は百万石だが、二三十万石の国ともなればあちこちに入り乱れてあった。これが百代続くような掟ではないとはいえ、十数年中に信長、秀吉の二公があいついでこんなことを行ったので、当時の人々はこれが基準だと考えた。家康公の知恵は遠大なもので、事を行うのに千年間弊害が生じないように考え、信長、秀吉の二公のように遠い将来を見通さずに掟を決めるとか、ただ目前の手近な手柄を挙げただけの将士を喜ぶようなことはしなかった。そのため恩賞と勲功とはすべてつり合いがとれていた。そしてこれを中国やその他の国と比べてみれば、ただ数倍これを上回るに止まらない。しかし信長、秀吉公の事が前にあり、家康公の処置が後にあったため、当時の功臣は信長や秀吉が乱発した恩賞を誇り、反対に家康公は恩恵を下に及ぼさないと考えた。輝かしい功臣でたぐいまれな忠誠を誇る者でも、このように望みがかなえられないと言って怨む。古くからの悪習は除くのが難しいことがわかる。

このため今日でも昔からの悪習を取り除き、儒教を広めてその正義を優先し利益を後回しにする精神を奨励しようとすることは当然大切な務めである。しかし外国の政治や文化を研究して、世の中のすべての人々にわが国の俸禄があらゆる国よりはるかに勝ることを知らせれば、人々は皆その恩恵を知り自ら励もうと思うようになるだろう。ああ、世界では今日になって、知恵ある家臣はその知力を尽くし、勇士はその力を発揮して、ひたすら侵略と併呑に務めている。このため全世界でこれまで未知であった所はすべて発見され、遠隔の地もすべて開拓された。誰が自ら狭い所に安住して全く外国のことを知らずにいられようか。ただわが国だけは土地が肥沃で民も豊かで海中に孤立してまわりの異民族も服従させたため、安心して自ら満足し全く外国の事情を研究しようなどとは思わずにきた。しかし今や外国は日々ますます強大となり、どんな狡猾な考えを持っているか知れたものでは無い。このため外国の事情を探り上下に明確に周知させることは今日の最も重要な政策である。もしこれができなければ、政策を発動するのに必ず誤りが発生し、国境警備にも必ず多くの手落ちが発生するであろうことを認識しなければならない。そもそも外国の実情を明らかに知れば、感謝の気持ちもたちまち現れるので、一挙に二つの大きな利益が得られることになる。上下共にこれにに努めるべきであろう。

 

(読み下し文)

両間に建つる国、森然(シンゼン)と星羅(セイラ)す。而して地を領(をさ)め禄を賜ること、蓋し未だ本邦より豊かなる者有らざるなり。本邦の制(さだめ)、萬石而上自()り百萬石に至るを列侯と為す。萬石なれど実は五六萬石に躋(のぼ)る者之(これ)有り。五十萬石なれど実は百萬石を過ぐる者之(これ)有り。而して大夫の禄入(ロクニュウ)、三萬石を過ぐる者、其れ幾(いく)らかを知らず。大夫の臣、且(まさ)に三千石を享くる者有り。其の下を待(もてな)すこと之(これ)優渥(ユウアク)極まれり。

西土秦漢而降、待臣(タイシン)の薄きこと世(よよ)に甚し。一世に人臣登仕(トウシ)二千石を以て榮(ほまれ)と為す。晋の最(つと)め丞相(ジョウショウ)より尊きは莫し。而して封邑(ホウユウ)百戸に止まる者有り。宋代の宰相の食邑(ショクユウ)二千戸或は三千戸なれど実封(ジッポウ)僅僅数百戸を食(う)く。亡論(もちろん)其の食邑に実無く、即ち実封亦た虚数に属(ちか)し。明初に遍(あまね)く功臣を封ずれど、徐達元勲を以て魏國公と為り裁(わづか)に五千石。而して廣徳侯華高(カコウ)且に六百石を以て侯と称す。嗣後勲臣不世の功を建て侯伯に封ずれど往々にして財(わづか)に数百石。其の觳薄(カイハク)を何如と為すや。

唐の武・裴の二相刺客の賊する所と為る時の状(おもむき)を観()れば、鹵簿(ロボ)傔従(ケンジュウ)の単寡(タンカ)なること、殆ど本邦の監察徒卒長に比(なら)ぶ。其の寒(さび)しく倹(とぼ)しきこと憫れむべきなるのみ。公朝(コウチョウ)の侍従隊帥(タイスイ)、列国大夫の禄、西土の宰輔より優(まさ)ること、固(もと)より言ふを待たず。即ち西土の宰輔、或は列國大夫の大夫を希(ねが)ふこと能はず。人の本邦に生まるる者、何ぞ其れ多幸にして、於西土に生まるる者、何ぞ其れ不幸なるや。

顧(おも)ふに西土の已事(イジ)、学士大夫飫聞(ヨブン)する所にて正に必ずしも縷述(ルジュツ)せず。近代文教誕(おほ)ひに闢(ひら)け、外国情状、日に滋(ますます)明晰たり。其の政俗略(ほぼ)得て聞くべし。清の外、俄羅斯(オロシア)最も彊大と為す。其の領禄殊に清に優(まさ)る。然れども其の三宗、大統絶へなば則ち入りて継ぐ本邦の三親藩の如き者、歳支米萬石・銀五萬鈑に過ぎず。輔相而下なれば則ち大ひに降殺(コウサイ)有り。其の迥(はるか)に本邦に及ばざるを見るべし。満清・俄羅斯且(まさ)に爾り。矧(いはん)や自他諸國をや。然れば則ち今日本邦禄賜の豊かなること、洵(まこと)に寰宇の甲なり。

夫れ以て本邦禄入の饒裕(ジョウユウ)なること此(かく)の若(ごと)きなり。諸侯郷大夫士宜(よろし)く當(まさ)に感戴(カンタイ)し至恩骨に銘(きざ)み忘れざるべし。乃(すなは)ち方(まさ)に禄賜の未だ其の豊を極めざるを怨み、萬石の者は二萬石に躋るを思ひ、三千石の者は五千石に進むを願ひ、数百金を賚(たま)はる者は且つ未だ千金に盈()たざるを嘆く。多方に干求(カンキュウ)し、必ず其の欲を逞(たくま)しくし然る後に止む。未だ始めから従前に享()くる所既に其の涯分(ガイブン)を過ぐるを知らず。惑(まど)ひ之(これ)甚しきなり。蓋し本邦の禄賜の豊かなること、其の制(さだめ)久しく已に一定なれば世を擧げて當然と視る。前修(ゼンシュウ)云へる有り「傷(かなし)きかな風俗の人を移すや」と。今已(すで)に靡然として俗(ならはし)と成り、訓迪(クンテキ)し以て迷謬(メイビュウ)を牖(みちび)かんと欲すれど戛戛(カツカツ)として綦(きは)めて難きかな。果して使(も)し支那及び諸國の政俗、衆悉(つく)さざるもの無ければ、則ち本邦禄賜の豊かなること夫れ人之を知りて感銘の情油然(ユウゼン)と自生(ジセイ)するなり。

或(あるひと)曰く「寧謐(ネイヒツ)之(これ)久しく、俗尚(ゾクショウ)日に汚れ、貪饕(タントウ)の情勝る。而して理義の心薄れ、奔競(ホンキョウ)鑽求(サンキュウ)為さざる所無し。此れ特()だ教への行はるると否とに係るのみ」と。此の論固(もと)より一道なり。然りと雖(いへど)も教へを敷きて其の貪惏(タンラン)の習ひを變へ其の忠君報国の忱(まこと)を全くするは、乃(すなは)ち吾君吾相の職(つとめ)なり。今君相一心に移風淑世の方(てだて)を図れば、奚(なん)ぞ予の言を労(うれへ)るや。顧(おも)ふに即(すなは)ち使(も)し教化四被し人義に勇めど、未だ外國の情を洞(みとほ)さざれば、其の本邦禄賜の豊かなることを知らざるや自若たり。則ち其の感恩必ず其の深きを極めざる者有り。

神祖の功臣、忠勇の士に非ざるもの莫()し。本多忠勝、榊原康政の如きは尤も其の嶢然(ギョウゼン)特に秀る者なり。而して忠勝大國に封ぜざるを以て不平を懐き、康政功高く賞薄きを以て、晩歳多怒に託(まか)せて五蔵爛腐し、任事に出るを肯ぜず。平松金次郎長湫(ながくて)の役の賞の望みに副(そ)はざるを怨み、浪華に奔(はし)らんと欲するに至る。諸臣此れに類する者一に非ず。當時織田右府甫(はじめ)て二十餘州を有し、便(すなは)ち柴田丹羽木下数(いくつか)の功臣を大國に封ず。豊太閤區寰(クカン)を混壹(コンイツ)し、諸侯を建つ。或は二百萬石、或は百萬石、二三十萬石の國に至れば則ち紛然(フンゼン)繡錯(シュウサク)す。未だ百代の成憲為らざると雖も、然して十数年中二公相承(ソウショウ)すること此(かく)の如し。故(ゆゑ)に時の人此れを以て準矱(ジュンワク)と為す。神祖の智識遠大なり。事を処するに必ず千載無弊を期し、織豊二公の如く憲(のり)遠くに及ばず、苟(た)だ目前の近功を要()すを以て将士を悦(よろこ)ぶに非ず。故に其の施賞(シショウ)咸(みな)其の人の勳烈と相称(ソウショウ)す。而して諸(これ)を西土及び萬國と較ぶれば、啻(た)だ倍蓰(バイシ)し之を過ぐるのみならず。然れども二公の事前に在り、神祖の擧後に在り。一時功臣二公の濫賞を炫(ほこ)り、翻(かへっ)て神祖を以て屯膏(チュンコウ)と為す。赫赫たる功臣の忠誠罕匹(カンヒツ)たるを以て、既已(キイ)觖望(ケツボウ)此(かく)の若(ごと)し。積習(セキシュウ)の祛(はら)ひ難(がた)きを見るべし。

故に今日宿弊を滌(のぞ)き教へを播(ひろ)め以て其の義を先にし利を後にする心を鼓(はげま)さんと欲するは固(もと)より要務爲り。而して外夷の政俗を研究し、擧世をして本邦禄賜の迥(はるか)に萬國に勝るを明知せしめば、則ち人盡(ことごと)く恩を知りて自ら勵(はげ)むを思ふべし。嗟嗟世今日に降(くだ)り、謀臣其の智を竭(つく)し、勇士其の力を運(めぐ)らせ、惟だ吞噬(ドンゼイ)に是れ務む。是以(これゆゑ)遍(あまね)く五大州に幽(くら)きを燭(てら)さざるもの靡()く、遐(とほ)きを闢(ひら)かざるもの靡し。孰(だれ)か甘じて狭陋に自安(ジアン)して絶へて外國を知らざるや。獨()だ本邦のみ、地沃(こ)え民饒(ゆた)かにして海中に孤懸(コケン)し四夷を威制す。故に晏然として自足(ジソク)し、復()た外國の情状を討究(トウキュウ)するを思はず。然れども今や對岸の國、日に益(ますます)盛大となり狡謀(コウボウ)測り難し。故に外國の消息を探り上下に灼然と周知せしむるは洵(まこと)に今日の至計(シケイ)爲り。苟(も)し能(あた)はざれば、政(まつりごと)を發(おこ)すに必ず舛謬(センビュウ)有り、邊(くにざかひ)に備ふるに必ず闊疎(カッソ)なる所多きを察せざるべからざるなり。夫れ外國の情偽(ジョウギ)を晰(あきらか)にせば、則ち感恩の效立(たちどころ)に見(あらは)れ、一擧に二大益を得べし。上下盍(なん)ぞ相與(とも)に之(これ)に勖(つと)めざるや。

 

(語釈)

両間(天と地の間、世界)森然(シンゼン)(多く並び立つさま)星羅(セイラ)(星が天空に羅列するように、物が数多く並びつらなること)禄入(ロクニュウ)(扶持)優渥(ユウアク)(ねんごろで手厚いこと)

待臣(タイシン)(臣下の待遇)登仕(トウシ)(登り仕えること)封邑(ホウユウ)(領地)食邑(ショクユウ)(領地)実封(ジッポウ)(実際の俸禄)徐達(明の軍人。同郷の朱元璋(明の太祖洪武帝)に従い集慶(南京)の攻略,陳友諒・張士誠との戦いに大功をあげ,67年以後は征虜大将軍として北征し,翌洪武元年,元の都大都を陥落させ,さらに山西・陝西に軍を進めて元の残存勢力を駆逐した。この間右丞相などを歴任したが,その功は勲臣第一とされ魏国公に封じられた)元勲(国家をおこすことにつくした大功)華高(カコウ)(明の軍人。水軍を率いて朱元璋に従い、軍功を累ね広徳侯に封じられた)觳薄(カイハク)(薄いこと、倹約なこと)

唐の武(武元衡 中唐の宰相。藩鎮強攻策をとったが藩鎮の李師道が放った刺客に長安靖安坊にて刺殺される)(裴度。中唐の政治家,文学者.宰相武元衡と共に藩鎮呉元済平定に功を挙げるが長安で刺客の襲撃を受け負傷した。その後宰相となる。)鹵簿(ロボ)(天子の行列)傔従(ケンジュウ)(従者)単寡(タンカ)(少ない、わずか)監察(目付)徒卒長(徒士頭)列国大夫(大名、藩主)列國大夫の大夫(大名の家老)

已事(イジ)(以前のこと)、飫聞(ヨブン)(聞き飽きる)縷述(ルジュツ)(詳しく述べる) 文教(学問の教え)領禄(受ける俸禄) 歳支(年間の俸禄) 降殺(コウサイ)(数を減らすこと) 寰宇(天下、世界)   (第一)

饒裕(ジョウユウ)(豊か)感戴(カンタイ)(ありがたくおしいただく)干求(カンキュウ)(求める)涯分(ガイブン)(身の程)前修(ゼンシュウ)(古の君子)訓迪(クンテキ)(教え導く)迷謬(メイビュウ)(誤謬)戛戛(カツカツ)(食い違うさま、難いさま) 油然(ユウゼン)(おのずとそうであるさま)自生(ジセイ)(自然に生じる)

寧謐(ネイヒツ)(静かで安らかなこと)俗尚(ゾクショウ)(世俗の風潮。世俗の好み。世間の気風)貪饕(タントウ)(貪欲)奔競(ホンキョウ)(われがちに争うこと。利益や官職を争って求めること)鑽求(サンキュウ)(術策によって出世を求める)一道(一つの道理、一つの方法)移風(風俗を変える)淑世(世をよくする)自若(もとのまま、従来通り)感恩(恩に感謝すること)

嶢然(ギョウゼン)(特にすぐれているさま)任事(仕事に従事すること)平松金次郎(家康の家臣。小牧長久手の戦いで一番槍の戦功を立てるが、後に豊臣方に寝返る)區寰(クカン)(世の中)混壹(コンイツ)(統一)紛然(フンゼン)(みだれるさま、ごたごたして)繡錯(シュウサク)(入り混じる)相承(ソウショウ)(順次受け継ぐこと)準矱(ジュンワク)(基準)施賞(シショウ)(賞をほどこすこと)相称(ソウショウ)(つり合いが取れていること)倍蓰(バイシ)(数倍)屯膏(チュンコウ)(恩恵を下に及ぼさない)罕匹(カンヒツ)(たぐいまれな)既已(キイ)(すでに もはや)觖望(ケツボウ)(望みがかなえられず怨むこと)積習(セキシュウ)(古くからの習慣)

擧世(世の中全体)謀臣(計略の得意な家臣)自安(ジアン)(自ら満足する)孤懸(コケン)(孤立)自足(ジソク)(自ら満足する)討究(トウキュウ)(奥深くまでたずね調べる 研究)狡謀(コウボウ)(狡猾なたくらみ)至計(シケイ)(もっともすぐれた計略 最上の計画)舛謬(センビュウ)(誤り)闊疎(カッソ)(おろそか、迂闊)情偽(ジョウギ)(ありのままの様子 実情)

(漢文)

両間建国、森然星羅、而領地賜禄、蓋未有豊於本邦者也、本邦之制、自萬石而上、至百萬石、為列侯、萬石而実躋五六萬石者有之、五十萬石而実過百萬石者有之、而大夫禄入、過三萬石者、不知其幾、大夫之臣、且有享三千石者、其待下之優渥極矣、

西土秦漢而降、待臣之薄、世甚一世、人臣登仕、以二千石爲榮晋之最、莫尊於丞相、而有封邑止百戸者、宋代宰相食邑二千戸、或三千戸、而食実封僅僅数百戸、亡論其食邑之無実、即実封亦属虚数、明初遍封功臣、徐達以元勲爲魏國公、裁五千石、而廣徳侯華高且以六百石称侯、嗣後勲臣建不世之功、封侯伯、而往々財数百石、其觳薄爲何如也、

観唐武裴二相為刺客所賊時状鹵簿傔従之単寡、殆比本邦之監察徒卒長、其寒倹可憫也已、公朝侍従隊帥、列国大夫之禄、優於西土宰輔、固不待言、即西土宰輔、或不能希列國大夫之大夫、人之生於本邦者、何其多幸、而生於西土者、何其不幸也、

顧西土已事、学士大夫所飫聞、正不必縷述、近代文教誕闢、外国情状、日滋明晰、其政俗略可得而聞、清之外俄羅斯為最彊大、其領禄殊優於清、然其三宗大統絶則入継、如本邦三親藩者、不過歳支米萬石銀五萬鈑、輔相而下、則大有降殺、可見其迥不及本邦、満清俄羅斯且爾、矧自他諸國乎、然則今日本邦禄賜之豊、洵甲於寰宇矣。

夫以本邦禄入之饒裕若此也、諸侯郷大夫士宜當感戴至恩銘骨弗忘、乃方怨禄賜未極其豊、萬石者思躋二萬石、三千石者願進五千石、賚数百金者、且嘆未盈千金、多方干求、必逞其欲然後止、未始知従前所享既過其涯分、惑之甚也、蓋本邦禄賜之豊、其制久已一定、擧世視當然、前修有云、傷哉風俗之移人也、今已靡然成俗、欲訓迪以牖迷謬戛戛乎綦難矣、果使支那及諸國政俗、衆無不悉、則本邦禄賜之豊、夫人知之、而感銘之情、油然自生矣、

或曰寧謐之久、俗尚日汚、貪饕之情勝、而理義之心薄、奔競鑽求無所不為、此特係教之行與否耳、此論固一道也、雖然敷教而變其貪惏之習、全其忠君報国之忱、乃吾君吾相之職、今君相一心、図移風淑世之方、奚労予言、顧即使教化四被、人勇於義、而未洞外國之情、其不知本邦禄賜之豊也自若、則其感恩必有不極其深者矣、

神祖功臣、莫非忠勇之士、如本多忠勝、榊原康政、尤其嶢然特秀者也、而忠勝以不封大國懐不平、康政以功高賞薄、晩歳託多怒、而五蔵爛腐、不肯出任事、平松金次郎怨長湫之役、賞不副望、至欲奔浪華、諸臣類此者非一、當時織田右府甫有二十餘州、便封柴田丹羽木下数功臣於大國、豊太閤混壹區寰、建諸侯、或二百萬石、或百萬石、至二三十萬石之國、則紛然繡錯、雖未為百代成憲、然十数年中、二公相承如此、故時人以此為準矱、神祖智識遠大、処事必期千載無弊、非如織豊二公憲不及遠、苟悦将士、以要目前近功、故其施賞咸與其人之勳烈相称、而較諸西土及萬國、不啻倍蓰過之、然二公之事在前、神祖之擧在後、一時功臣炫二公之濫賞、翻以神祖爲屯膏、以赫赫功臣忠誠罕匹、而既已觖望若此、積習之難祛可見。

故欲滌今日宿弊、播教以鼓其先義後利之心、固爲要務、而研究外夷政俗、使擧世明知本邦禄賜迥勝萬國、則人盡知恩而思自勵矣、嗟嗟世降乎今日、謀臣竭其智、勇士運其力、惟吞噬是務、是以遍五大州、靡幽不燭、靡遐不闢、孰甘自安於狭陋、而絶不知外國者、獨本邦地沃民饒、孤懸海中、威制四夷、故晏然自足、不復思討究外國情状、然今也對岸之國、日益盛大、狡謀難測、故探外國消息、使上下灼然周知、洵為今日至計、苟不能爾、發政必有舛謬、備邊必多所闊疎不可不察也、夫晰外國情偽、則感恩之效立見、一擧而得二大益、上下盍相與勖之、

 

 

侗庵新論 第九十四

(要約)

昔から音楽、囲碁、工芸などの芸に熱中するあまり国を亡ぼした皇帝が何人もいる。しかし芸には品行を磨く、知恵を増す、仕事に習熟するなどの効用もあり無用なものではない、君子にとって徳の涵養こそが重要であるが、徳を本としてその傍らで芸を磨けば芸は徳を助けることになる。芸に関わりながら徳を忘れているようでは芸は偏ったものになり役に立たないであろう。

 

(現代語訳)

歴史書を見てみると、後漢第十一代の桓帝は音楽を好み、琴や笙が得意であった。南朝宋の第二代少帝劉義符は騎射が得意で音楽を理解した。南朝宋の第七代後廃帝劉昱(イク)はほとんどの卑近な作業を目にすればすぐによくできるようになった。銀の鍛造、裁縫、帽子の作成などすべて精巧であった。今までに横笛の一種である篪(チ)を吹いたことはなかったが、管をとればすぐに音を響かせることができた。唐の第十八代僖宗(キソウ)は幼いときから多才だった。もともと碁は得意ではなかったが、ある晩夢の中で人が碁の経典三巻を焼いて彼に飲ませた。目が覚めてお付きの役人に碁を見せると、すべてのさし手が人の意表をつくものであった。。明の第十六代天啓帝熹宗(キソウ)は、宮殿の中にいるときは自ら小楼閣を作るのを好み、斧やまさかりを手から離すことがなかった。彫刻の飾りは見事なものであった。

これらの皇帝は亡国の君主であったが、皆このように芸事にすぐれていた。秦の穆公が自らの過ちを悔い臣下に述べた誓いの言葉である「秦誓」に次のような一節がある。「もし誠実だが他には技能の無い一人の家臣がいてくれたならば」。孔子はこう言っている。「私は若いときに貧乏だったので多くのくだらぬ芸事に習熟した。君子は多能であるべきか、いや決してそんな必要はない」そうしてみると、芸事は取るに足らないもので、有徳の君子はむしろ無芸であることを貴ぶべきである。

ところが更に孔子の言葉を見てみるとこんなことも言っている「徳にもとづき、仁によりそい、藝に心を遊ばせる」と。つまり芸を徳や仁の上には置かないが、徳にもとづき、仁によりそうための助けとして芸を用いるということだ。朱子もまたこのように言っている。「芸に心を遊ばせれば、小さな事柄もおろそかにしないようになり、立ち居振る舞いに良い影響がある」と。これまでに言ってきたことと食い違っているようにも思えるが、学生はこれらの言葉が並び立って少しも矛盾しないことをよく理解しなければならない。そもそも徳が成就することは上であり、芸が成就することは下であって、芸は徳と比べればその軽重、大少ははるかに異なる。しかし芸は軽微なものとは言っても、精緻に磨いてきたことの集積であったり、正しい方法がある所なのである。芸について人が広く知識を得て十分に練習を積めば、品行も磨くこともできるし、知恵を増すこともできるし、世の中の仕事に習熟することもできる。それゆえ君子は芸を捨てないのである。ただそもそも徳は大きく芸は小さい。そのため君子で徳と芸を兼ね備えている者は徳があることで有名になっても芸があることを称えられたりはしない。これを例えてみると、月と星が合うと星は光を失い、大太鼓と小太鼓を並べて演奏すると大太鼓の音だけが響くのと同じで、必然の理である。そうしてみると秦誓にあった「誠実だが他には技能の無い一人の家臣」というのは本当に技能が無いわけではない。その徳がすばらしく、人から尊敬信頼されているため、技能があることを忘れられているということなのである。孔子が君子は多能である必要はないと論じるのも、多能であることを憎んでいるからではない。学ぶ者が根本を捨てて枝葉末節に走るようになることを恐れたからである。孔子は戦えば必ず勝ったが、戦争が得意であったとは言われていない。文章は極めて上手だったが、文章で有名になってはいない。博学であることや記憶力が優れていることでは昔から今に至るまで匹敵する者が無いほどだが、すべてを兼ね備えていることで有名になっているわけではない。これも徳があまりに素晴らしかったからである。

ただ周公だけは多芸多才で有名であり、聖人としてはふさわしくないようにも思える。しかし周公が自分のことを多芸多才で鬼神に仕えることもできると言ったのは、ひたすら自分の長所を述べて武王に代って死に、先王である亡き文王にお仕えしたいと願ったからであり、自分の存在を主張するためではない。孔子は周公の優れた才能を称え、またその際に特に「周公ほどの優れた才能があっても驕慢で吝嗇ならばその他の才能など見る価値も無い」と言って驕慢と吝嗇が極めて良くないということを示した。もし周公をほめたたえようと思うのなら、必ずその名声に欠ける所が無く、王家のために骨身を惜しまなかったことを真っ先に指摘するのが正しい。程頤が「周公の徳があればおのずと驕慢も吝嗇も無い」と言ったのもこのことを指しているのである。

一方で、漢・宋・唐・明の諸々の暗君たちにはこれといった善行が少しも無いため、芸で名をなさざるを得なかった。まして芸には大小があり、芸の大きなものは容易に望みがたい。小さなものは凡庸な資質の者でもひたすら打ち込めば到達できることがある。彼にはもとより芸と釣り合うような徳行が無いので、独特の小芸が一時の輝かしさを増している。しかしこのことはただその人の甚だしい不徳ぶり表しているだけのことである。

昔東晋の王羲之は書が得意でその名声は天下に満ちていた。しかしその人物も実は度量が大きく道理に通じていて、世の困難を救う才覚があったが、世の中にこれを重視すべきであると知る者はいなかった。これについて論者はこう言っている。「王羲之は書が得意で有名になったので、それが自らの徳を覆い隠してしまったのだ」と。この言葉は真の理由を理解していない。もし本当に王羲之が大徳を備えた人物であれば、断じてそれは書によって覆い隠されるようなことはない。書によって覆い隠されてしまって徳の美が表れないようでは、その徳は小さいと見られるだけのことだ。

そのため徳を本として、その傍らで芸に精進すれば芸はことごとく徳の翼となり心身を助けてくれるだろう。芸に関わっても徳の有無にについては不問に付すようではその芸は偏ったものになり、役に立たないだろう。たとえ技術が巧妙であっても、漢の桓帝や唐の僖宗、明の熹宗のようになるだけだ。人はまた徳と藝とでは軽重が懸け離れていることを明確に認識することができる。そのため世の中で芸により名を上げようする者はおのずと反省すべきところを知るようになるだろう。だから芸により一時的に輝く者を、何でうらやんだりあこがれたりする必要があろうか。

 

(読み下し文)

予史乗(シジョウ)を観るに、漢の桓帝音楽を好み、琴笙を善くす。宋の少帝義符騎射を善くし、音律を解す。後廃帝昱(イク)凡(およ)そ諸鄙事(ヒジ)目を過(よぎ)れば即ち能くす。鍛銀・裁衣・作帽、精絶ならざるもの無し。未だ嘗て篪()を吹かざるに、管を執れば輒ち韻(ひび)く、唐の僖宗(キソウ)幼くして多能、素(もと)より棊()を能()くせず。一夕夢に人棊経三巻を以て焚(や)きて之に呑ましむ。覚()むるに及び、待詔(タイショウ)に棊を観せしむ。凡そ措画する所、皆人意に出る。明の熹宗(キソウ)在宮中、手づから小楼閣を製るを好み、斧斤(フキン)手を去らず、雕鏤(チョウロウ)精絶なり。諸主皆喪國の君にして、其の藝に精(すぐ)るること此(かく)の如し。秦誓(シンセイ)に曰く「如()し一个(ひとり)の臣、断断として他に技無きもの有らば」と。孔子曰く「吾少(わか)くして賤(いや)し。故に鄙事(ヒジ)に多能なり。君子多ならんや。多ならざるなり」と。然れば則ち藝果して取るに足らず、有徳の君子、方に且に無藝たるを以て貴しと為すなり。

乃(すなは)ち更に夫子の言を参看すれば云へる有り「徳に據()り、仁に依(よ)り、藝に遊ぶ」と。即ち藝を以て徳仁の上に加へず。固(もと)より亦た徳に據()り仁に依(よ)るの資(たす)けと為して用ふ。朱子亦た曰く「藝に游べば則ち小物遺(のこ)さず、而(すなは)ち動息(ドウソク)に養ひ有り」と。従上(ジュウジョウ)に言ふ所と参差(シンシ)不合なるに似る、學者此に於て其の言の並行して少しも相悖(もと)ること無きを洞知せざるべからざるなり。夫れ徳成るは上、藝成るは下。藝の徳に於けるは重軽鉅小夐然(ケイゼン)と殊(こと)なる。顧(おも)ふに藝は微にして軽なりと曰ふと雖も、精理の蘊(あつま)る所、大道の存(あ)る所に非ざること莫()し。人克()く博該にして熟習せば、砥行(シコウ)を以てするも可()し、智思を増すを以てするも可し、世務に諳練するを以てするも可し。故に君子遺()てざるなり。惟だ其れ徳大にして藝小なり。故に君子徳藝を一身に兼備する者、徳を以て聞(きこ)えど藝を以て称へず。之(これ)を譬(たと)ふれば猶ほ夫れ月星合ひて星光を失ひ、鞉(トウ)田並び奏さば田聲獨り轟くがごとくの必至の理なり。然れば則ち一个(ひとり)の臣の断断にして他に技(わざ)無き者は真に技無きに非ず。其の徳の懿(うるは)しきこと、人に敬信を来(きた)す以(ゆゑ)有り。復()た其の技(わざ)有るを覚へざるなり。夫子君子多能ならざるを論ずるは多能を疾(にく)むに非ず。學者の本を舎()てて末に務むるを恐るるなり。孔夫子戦へば必ず克つ。而して兵を善くするを以て聞へず。文章の妙萬世に冠絶す。而して文を以て鳴らさず。博渉強記、亘古(コウコ)匹(なら)ぶもの無し。而して淹該(エンガイ)を以て名を成さず。是れ徳の至盛なり。

獨り周公のみ多材多芸を以て顕(あき)らかにして、聖の聖たる所以(ゆゑん)に非ざるに似る。然れども周公己(おのれ)を多材多芸にして克く鬼神に事(つか)ふると陳()ぶるは、蓋(けだ)し自ら長()くる所を述べ一意に武王に代りの死し、以て先王に奉事(ホウジ)せんと欲するなり。周公碩膚(セキフ)の在る所に非ず。即ち孔子周公の才の美を称へ、亦た特に借て以て驕吝(キョウリン)の綦(きは)めて不可なるを形(あらは)す。若(も)し周公を賞揚せんと欲さば、必ず其の徳音(トクイン)瑕()けず、王家に勤労するを直指するが方(まさ)に至當為り。程子謂ふ所の「周公の徳有らば自(おのづ)から驕吝無し」とは、是れなり。

若()し乃(すなは)ち漢宋唐明の諸昏主(コンシュ)、既に取るべき片善(ヘンゼン)無く、勢ひ藝を以て名をなさざるを得ず。矧(いはん)や藝又大少有り。藝の大なる者は容易に企(のぞ)むべからず。其の小なる者は庸劣(ヨウレツ)の質と雖(いへど)も、或は偏(ひとへ)に詣(いた)る所有り。彼既已(キイ)徳行の藝と相配するもの無く、則ち独得の小藝、灼灼(シャクシャク)たる一時を益す。此れ秖(た)だ其の人の不徳の甚しきを見(あらは)すのみ。

昔晋の王羲之、書を善くするの名寰宇(カンウ)に満つ。而して其の人實に自ら宏通(コウツウ)し、濟時(セイジ)の才有り。世に之(これ)を重んずるを知るもの莫()し。論者謂(いは)く「羲之(ギシ)蓋(けだ)し書を善くするを以て名をなし、自ら其の徳を掩(おほ)ふ」と。此の言未だ理の真を得ざるなり。果して使()し羲之孔徳の士爲らば、断じて書の克()く掩ふ所に非ず。書の掩ふ所と為りて徳美彰(あらは)れざるは、徳の小なるを見るべきのみ。

故に徳を以て本と為して旁(かたはら)に藝に通ずれば、即ち藝悉(ことごと)く徳の羽翼と為り、以て心身を裨(たす)く。藝に囿(かかは)りて徳の存否絶へて之(これ)を問はざれば、則ち其の藝一偏に拘滞(コウタイ)し、用(はたらき)を呈(しめ)すこと能はず。縦(たと)ひ其の工妙(コウミョウ)を極むれど、漢桓唐僖たるのみ、明の熹宗たるのみ。人亦た以て徳藝軽重の懸(へだた)りを洞照(ドウショウ)すべし。然れば則ち世の藝を借り名を騰(あ)げんと欲する者、宜(よろ)しく自(おのづ)と顧省(コセイ)する所を知るべし。而(すなは)ち夫()の藝を以て一時に輝映(キエイ)する者、何ぞ必ず之を歎羨(タンセン)し崇慕(スウボ)するや。

 

(語釈)

史乗(シジョウ)(歴史書)漢の桓帝(後漢11代皇帝。15歳で即位したが、外戚の梁冀 が専横を極めており、成人してからも実権を掌握できなかった。梁冀の妹の梁太后および梁后の死後、宦官の助力を得て梁氏を族誅にした。これ以後は宦官が政治を専断し、宦官とこれに結託する勢力と清流党人とが激しく対立し、党錮の禁を起こした。儒教がもっぱら尊崇されていた風潮に対して、桓帝自らは仏教と老子を尊崇し、また音楽を愛好、琴笙に巧みであった)宋の少帝義符(南朝宋の第2代皇帝。姓は劉、諱は義符。少帝は父の武帝の喪中にあっても礼を守らず、側近たちと馴れ合い、遊戯に節度がなかったため、朝廷の諸官らの失望を買い、退位させられ殺害された)後廃帝昱(イク)(南朝宋の第七代皇帝。有力武将であった蕭道成の命を受けた部下により殺害された)鄙事(ヒジ)(いやしい雑事)(チ)(横笛の一種、ちの笛)唐の僖宗(キソウ)(唐第18代の皇帝。多才をもって知られ,闘鶏や騎射,武術,法算,音楽,囲棋,馬球に優れた.在位中に勃発した王仙芝,黄巣らの反乱を契機に,急速に唐朝は衰亡し五代十国時代の到来を準備することになった)待詔(タイショウ)(中国の官名。天子の詔(みことのり)を待って、それに応じ、また文章を奏上するもの)明の熹宗(キソウ)(明朝の第16代皇帝天啓帝。側近であった宦官魏忠賢が中央の権力を掌握する一方,天啓帝は国政を全く顧みず,木工,漆工,建築等,特殊な逸楽の世界に耽溺した.魏忠賢による専横のもと,東北では女真の勢力が拡大して瀋陽,遼陽等を陥落させ,山東では白蓮教徒による徐鴻儒の乱が起こり,四川では奢崇明,貴州では安邦彦による反乱が相継いで勃発した.この時期,明朝はまさに末期的様相を呈していた)斧斤(フキン)(おの、まさかり)雕鏤(チョウロウ)(彫刻して飾ること)秦誓(シンセイ)(秦の穆公が鄭を討つのに失敗した後に自らの過ちを悔い臣下に述べた誓いの言葉。書経の一節)断断(一つのことに専心するさま。また、一つのことを守って変えないさま。誠実なこと)孔子曰く「吾少(わか)くして賤(いや)し。故に鄙事(ヒジ)に多能なり。君子多ならんや。多ならざるなり」(論語子罕篇)

「徳に據(よ)り、仁に依(よ)り、藝に遊ぶ」(論語述而篇)小物(小さな事柄、些細な事柄)動息(ドウソク)(動くことと休むこと、出処進退、身の振り方)従上(ジュウジョウ)(これまでに)参差(シンシ)不合(不揃いで合わないこと)夐然(ケイゼン)(はるかに)精理(精緻にみがくこと)大道(正しい方法)博該(学問、知識が広く備わっていること)熟習(十分に練習を積むこと。じっくり学習すること)砥行(シコウ)(品行をみがく)鞉(トウ)(〈ふりつづみ〉柄のある小さい太鼓)(大きい鼓)亘古(コウコ)(昔から今に至るまで)  淹該(エンガイ)(ことごとく兼ね備える)

周公(西周王朝建国の功臣。周公旦ともいう。周の文王の子。武王の弟。武王を助けて殷王朝を滅ぼし,武王の死後は幼い成王を助け摂政となった。周公の弟の管叔,蔡叔らが殷の紂王の子の武庚と結んで反乱をおこすと,東征を行って反乱者を鎮圧するとともに東方の異民族たちを平定。さらに周王朝の東方支配の拠点として東都洛邑(成周)を建設した。また周代の多くの礼楽制度が周公によって定められたとされ,《周礼)》《儀礼》《易経》の爻辞なども,伝説的には周公の著述とされる。その功績により魯に封ぜられたが,彼自身は魯国に行かず,息子の伯禽が初代の魯公となった。周の都にとどまった彼の子孫は〈周公〉の名を世襲したらしく,西周晩期にも有力な臣下としてその名が見える。成王が成長すると政治を王にかえした。このように周王朝の諸制度を定めたとされるところから,原始儒家はとくに周公を聖人としてあがめ,儒教自体も〈周孔の道〉と呼ばれている)奉事(ホウジ)(目上の人におつかえ申し上げる)周公碩膚(セキフ)(碩膚は男子の美称。麗しい周公というほどの意味)借て以て(それによって、その際に)驕吝(キョウリン)(驕慢と吝嗇。他人に対してはもの惜しみをし、自分自身に対してはおごること)(論語泰伯篇「子曰く、如(も)し周公の才の美有るも、使(も)し驕且つ吝ならば、其の餘は観るに足らざるのみ」)徳音(トクイン)(よい評判。よい誉れ)勤労(つとめ励む)「周公の徳有らば自(おのづ)から驕吝無し」(程頤の語。『程氏遺書』より)

昏主(コンシュ)(愚かな君主、暗君)片善(ヘンゼン)(少しの善行)庸劣(ヨウレツ)(凡庸で劣っている、凡愚)既已(キイ)(すでに、特に、もともと)相配(つりあう)灼灼(シャクシャク)(輝かしい)

王羲之(東晋の政治家,書人)寰宇(カンウ)(天下)宏通(コウツウ)(度量が大きく道理に通じている)濟時(セイジ)(世の困難を救う)孔徳(大徳)徳美(徳の美、人格が立派なこと)

一偏(一方に偏る)拘滞(コウタイ)(型にはまって融通がきかない こだわって動きがとれない)工妙(コウミョウ)(巧妙)洞照(ドウショウ)(はっきり見通す)顧省(コセイ)(かえりみる、ふりかえって反省する)  輝映(キエイ)(輝き映える)歎羨(タンセン)(うらやむ)崇慕(スウボ)(心中深く尊敬する)

 

(漢文)

予観史乗、漢桓帝好音楽、善琴笙、宋少帝義符善騎射、解音律、後廃帝昱凡諸鄙事、過目即能、鍛銀裁衣作帽、無不精絶、未嘗吹篪、執管輒韻、唐僖宗幼而多能、素不能棊、一夕夢人以棊経三巻、焚而使呑之、及覚、命待詔観棊、凡所措画、皆出人意、明熹宗在宮中、好手製小楼閣、斧斤不去手、雕鏤精絶、諸主皆喪國之君、而其精於藝如此、秦誓曰、如有一个臣、断断兮無他技、孔子曰、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、然則藝果不足取、而有徳君子、方且以無藝為貴也、

乃更参看夫子、言有云、據於徳、依於仁、遊於藝、即不以藝加徳仁之上、固亦用為據徳依仁之資、朱子亦曰、游藝則小物不遺、而動息有養、似與従上所言、参差不合、學者於此不可不洞知其言之並行而無少相悖也、夫徳成而上、藝成而下、藝之於徳重軽鉅小、夐然殊、顧藝者雖曰微而軽、莫非精理之所蘊、大道之所存、人克博該而熟習、可以砥行、可以増智思、可以諳練世務、故君子不遺也、惟其徳大而藝小、故君子兼備徳藝於一身者、以徳聞、而不以藝称、譬之猶夫月星合而星失光、鞉田並奏而田聲獨轟、必至之理也、然則一个臣之断断無他技者、非真無技、其徳之懿、有以来人敬信、不復覚其有技也、夫子論君子不多能者、非疾多能、恐學者舎本而務末也、孔夫子戦必克、而不以善兵聞、文章之妙冠絶萬世、而不以文鳴、博渉強記、亘古無匹、而不以淹該成名、是徳之至盛也、

獨周公以多材多芸顕、似非聖之所以聖、然周公陳己多材多芸、克事鬼神者、蓋自述所長、一意欲代武王死、以奉事先王、非周公碩膚之所在、即孔子称周公之才之美、亦特借以形驕吝之綦不可、若欲賞揚周公、必直指其徳音不瑕、勤労王家、方為至當、程子所謂有周公之徳、自無驕吝者、是也、

若乃漢宋唐明諸昏主、既無片善可取、勢不得不以藝名、矧藝又有大少、藝之大者非可容易企、其小者雖庸劣之質、或有所偏詣、彼既已無徳行之與藝相配、則独得之小藝、益灼灼一時、此秖見其人不徳之甚耳、

昔晋王羲之、善書之名満寰宇、而其人實自宏通、有濟時才、世莫之知重、論者謂羲之蓋以善書名、自掩其徳、此言未得理之真也、果使羲之爲孔徳之士、断非書所克掩、為書所掩、而徳美不彰、徳之小可見已、

故以徳爲本、而旁通於藝、即藝悉爲徳之羽翼、以裨乎心身、囿於藝、而徳之存否絶不之問、則其藝拘滞一偏、不能呈用、縦極其工妙、漢桓唐僖而已、明熹宗而已、人亦可以洞照徳藝軽重之懸矣、然則世之欲借藝騰名者、宜自知所顧省、而夫以藝輝映一時者、何必歎羨而崇慕之耶、

 

侗庵新論 第九十三

(要約)

諫言は君主の過ちを正すためのものであり、臣下の名声や自己満足のためにあるべきではない。中国のように直言を美化し過激に走る風潮は、かえって君主を反発させ、政治を停滞させる。諫言は行う機会や方法に十分注意して行わなければならない。

 

(現代語訳)

臣下が君主に対して諫言を申し上げるのは好き好んでやっているわけはない。君主の行いに欠点が無く、政治も適正に行われていれば、我々が諫言をすることは無用であるが、君主の行いに落ち度があり政治や教化に不当なことが多くあれば、初めて諫言することになる。諫言をしなければならない事態に至ることは、臣下にとって不幸なことである。そして、一度言っただけでは聞き入れられず、二度三度言ってもなお聞き入れられないので、心は追い込まれ、言葉はどうしてもおだやかではいられなくなる。その心は少しも名声を上げたいなどと思っているわけではないのに世の中の人々はこれを称えて、「彼は君主の逆鱗に触れたのに少しも恐れなかった」などと言って、恐れを知らぬ直言をしたとの名声を天下に広めてしまう。これこそとりわけ臣下にとって不幸なことなのである。

宋王朝以降、儒学が大いに盛んになり、人々は節操と気概を尊ぶようになった。このため諫言の風潮が日々盛んになり、主君にいやな顔をされても恐れず諫める人士が世に多くなった。これはそもそも称えるべきことではあるが、中には峻烈や過激に流れる者も出てきて、それは実に行き過ぎによる弊害であった。宋代に剛直な士が直言したことで追放されると、これに対してある人がこんな詩を作って送った。「国を去るあなたの身は葉のように軽いが、高名は永遠に山より重いだろう」と。一回諫言して国を去りこれにより永遠の高名を勝ち取ったことを名誉と考えるような者に果たして忠臣の心があるのだろうか。諫官に手紙を差し上げてこう言った者がいる。「今の官職にいる者はあるいは半年で転任するかもしれない。転任する前に諫言しておくべきだ」と。そもそも諫言は君主に過ちがあった場合に行うもので、予め期限を定めてするようなことではない。転任が近いことを恐れて急に諫言するなど、自分のことを優先して君主を後回しにしているということだ。

明の時代になるとこうした風潮はますます激しくなった。人の非を暴くことは容赦なく行い、他人の説の誤りは大げさに言って攻撃する。務めて人の耳目を驚かそうとはするが、忠君愛国の真心は全くないし、剛毅なように聞こえて心がけは正しくない。例の肩をすぼめて機嫌をとり、痔をなめてこびへつらっている者と一致する。こんなことは厳しく禁止せざるを得ない。

古の君子がこう言っている。「事を急いで失敗する者が十人中七八人である」と。私はかつてこう論じたことがあった。「諫言した結果、激しくぶつかり災難にあう者が大半を占める。もし同僚に良くない行いが有り、自分がこれに対して諭す場合でもやさしく柔らかに言わないわけがない。ましてや大国の君主に対してはなおさらだ。それなのに、君主に迫って恐れも知らないようであれば、言っていることの一つ一つが理にかなっていても、既に不敬の振る舞いであり、いつくしみと知恵を兼ね備えた君主でもない限り受け入れることなどありえない。断じて今の君主には望み難い。そもそも家臣が諫言を申し上げるのは君主が改めることができるように願ってのことに過ぎない。しかし改めるように徐々に導き、助け、励ますことはできず、反対に激しく直言して反発を買い、君主に善に進むことを思わなくさせるとは何と知恵の浅いことだろうか。そうであれば、強く厳しく諫めることは、単に不幸な結果を導くだけでなく、自らも無知に陥ることになる。何でこんなことが称えるのに値するものか」と。

南北朝時代の北魏の名臣高允(コウイン)は剛直な忠臣であった。しかし生まれてからこのかた正面からまともに諫言したことがない。北魏第四代の文成帝は彼の上奏文を見て、群臣にこう言った。「君主と父とは同じである。父に誤りがあるときに、子は書面で公然と諫めて人に父親の悪事を知らせるようなことはしないのはなぜか。それは父親が悪事の外に出ることを恐れるからではないのか。今国家の善悪について面と向かって親しく言うことができないくせに、文書を奏上してあからさまに諫言するのは、君主の過ちを暴露して自分の美点を世に公表するためではないのか。高允のような者こそ真の忠臣である。私に非があれば常に遠慮なく忠告し、それは私が聞くに堪えないようなことにまで及ぶが、すべて忌憚なく諭し選ぶ所が無い。私はその過ちを聞いているが、天下はその諫言があったことすら知らない。これこそが忠義ではないだろうか」と。文成帝のことばを見れば、強いて諫めて名誉を求めようとすることが誤りであることがわかる。

徳川家光公は不世出の君主であった。青山忠俊は一代の賢臣であった。賢臣が優れた君主を諫めるのは、石を水に沈めるより容易なことであった。しかし忠俊は晩年ついに罪に問われた。これはそのことばが少し過激に流れたからではないのか。忠俊が既に没してから家光公は忠俊の子を呼び寄せ領地を復活させた。泣きながら彼にこう言った「私が今になってお前の父の言ったことをはるかに思い出してみると、まことに道理にかなったことばだった。私は若く意気盛んだったので、その全てに従うことはできなかった。悔やんでももう手遅れだ。お前には私の子を補佐してほしい。お前の父が私に仕えたようにしてくれれば良いのだ」と。家光公は自分の過ちを改めるのに躊躇しなかった。その美徳は殷の湯王にも匹敵する。これほどの名君でも生前に泣かせることはできず、死後に無駄に泣かせているのは、諫言を奏上する方法が十分に考えられていなかったからではないかと思える。越前宰相の松平忠昌公は忠俊が罪に問われたのを聞いてひそかに人にこう語った。「飯や汁は命を続けるための手段だが、朝夕飲み食いして度を過ごせば健康を損ねることもある。すべての物事はそうしたものだ。やりすぎはよくない。諫言する老臣は国の柱だが、下の者が主君に諫言するには、申し上げる機会や方法をよく考えなければならない。酒井忠世や酒井忠勝などは諫言を何度もしたが、ただ言いすぎることはしなかったため、害が及ぶこともなかった。忠俊は少し度を過ごしてしまったためこんなことになった。食べ過ぎで健康を損ねたのと同じことだ」と。越前宰相の老成の見解というべきである。

尾張の国学者山本格安(ただやす)はこう言っている「関門を切り抜けて旗を奪ったり、死地に入って一番乗りを果たすといったことでは中国人は日本人に及ばない。この点で見れば中国人は赤ん坊のようなものだ。愚かな君主に直言したり、権勢を誇る家臣に面と向かって非難して、釜茹での刑になっても平然と受け入れるといったことでは中国人の方が勝る。この点から見れば日本人は逆に女子供のようだ」と。このことばは確かなものとはいえない。そもそも昔からこびへつらう家臣がただただ上の言うことを聞いて一生を終わるのはわが国も中国も同じである。忠義剛直の士が君主のあやまちを見れば必ず正して諫めるのもわが国と中国は同様である。ただわが国で家臣が主君を諫める場合、中国をまねて激高して行うのは良しとされなかった。ただし最近では人の心が日々軽薄になり恐れることなく直言する気風がやや衰えてきたのを感じる。このため儒学者たちはまたひたすら中国をまねて立論するようになっている。そもそも物事は行き詰まれば必ず変わる。今日の武士の気風は黙って従うばかりだが、これが変って激しく直言するようになることが無いとはいえない。ましてや儒学者たちの論が世間を煽り立てることになればなおさらだ。しかしながら今の静かな習慣を中国の過激な習慣に変えても良いことはほとんどない。このため私はまだ習慣が変らないうちにあえて諫言する方法について取り上げ、臣下の人々に基準を示したのである。

 

(読み下し文)

人臣君に諫(いさめ)を納(をさめ)むるは、豈に己むを得るかな。君而(すなは)ち制行玷(きず)無く、政(まつりごと)其の宜(よろ)しきに適(かな)はば、則ち吾諫(いさめ)を陳(の)ぶること無庸(ムヨウ)なれど、君の行ひに玷缼(テンケツ)有り、政教に失當多くあらば、而る後に諫諍(カンソウ)を有(な)す。事、諫(いさめ)に至るは、人臣の不幸なり。乃(すなは)ち又一たびなれば聴かず。再び三たびにして猶ほ入れず。丹衷(タンチュウ)迫急(ハクキュウ)し、言愷切(ガイセツ)たらざるを得ず。其の心豈に絲毫も美名を騰()げんと欲するや。乃(すなは)ち世人之を称(たた)へ以て為彼能く逆鱗に批()れども少しも惴(おそ)れずと為し、以て直諫の聲(ほまれ)を天下に播()くは尤も人臣之(これ)不幸に至るなり。

趙宋而降、聖学大ひに明らかなり。夫れ人節概(セツガイ)を矜(ほこ)り尚(たっと)ぶ。是に於て直諫の風日に昌(さか)んとなり、世に犯顔(ハンガン)不懾(フショウ)の士多し。斯()れ其れ称ふべき者なれど、其の或は峻に激に流れ、実に末弊なり。宋代鯁正(コウセイ)の士、直言を以て逐()はる。而して詩を賦()し之(これ)に送りて曰く「國を去る一身軽きこと葉に似る。高名は萬古山より重し」と。一諫を以て國を去り、萬古に美名を博するを榮(ほまれ)と為す者の如きは、此れ豈に忠臣の心なるかな。諫官に書を上げ云ふもの有り「今の官に居る者、或は半歳にして遷る。宜(よろ)しく未だ遷らざる迨(まで)に諫むべし」と。夫れ君に失(あやまち)有り然る後に諫む。豫め期を定むべきに非ず。轉官近きに在るを恐れて急急に言を陳(の)ぶ、是れ己を先にして君を後にするなり。

明に至り、則ち斯る風滋甚(ジジン)たり。絞訐(コウケツ)すること惨酷にして、辨駁(ベンバク)すること張皇(チョウコウ)たり。務めて人の視聴を聳動(ショウドウ)すれど、絶へて忠愛の誠無し。迹剛毅に類(に)れども、心術之(これ)正直ならず。夫()の脅肩(キョウケン)舐痔(シジ)容悦(ヨウエツ)是(これ)を事とする者と一致す。痛く禁ぜざるべからざるなり。

前修云へる有り「事急ぐを以て敗るる者、十に七八なり」と。予嘗て論ぜり「諫諍し以て激触し禍(わざはひ)を取る者大半を居(し)む。今夫れ僚友に不韙(フイ)の行ひ有りて吾之(これ)を誨(さと)し告ぐるに、且(まさ)に婉柔(エンジュウ)に善導せざるべからず。萬乗の主に對してをや。若()し乃(すなは)ち躋(のぼ)り急(せま)り顧畏(コイ)を知らざれば、即ち所論の一一理に中(あた)れど、既に不敬に流れ、自(いやしく)も仁明の君に非ざれば、必ず能く容受せず。断じて世主(セイシュ)に望み難し。且夫れ人臣君に納諫するは君克()く悛(あらた)むるを願ふに過ぎず。乃(すなは)ち其の過(あやまち)を改むるの機に徐々に誘(みちび)き掖(たす)け鼓(はげま)すこと能はず、方(まさ)に且(まさ)に激訐(ゲキケツ)し触忤(ショクゴ)し、吾君をして復()た進善を意(おも)ふこと無からしむるは、何ぞ智思の浅浅なるや。然れば則ち諫めれど伉厲(コウレイ)なれば、獨()だ不仁に帰するのみならず、又且(まさ)に自ら不智と為るに陥る。奚(なん)ぞ称ふるに足るや。

北魏の高允(コウイン)剛直なる藎臣(ジンシン)なり。而して生るるや未だ嘗て顕諫(ケンカン)せず。文成其の疏を省(み)て、群臣に謂ひて曰く「君父一つなり。、父に是非有らば、子何為(なんすれぞ)人中に書を作し之を諫め人に悪を知らしめざるや。豈に父親悪の外に彰(あらは)るを恐るる以(ゆゑ)ならざるや。今国家の善悪能く面陳(メンチン)せず、而して上表し顕諫するは、豈に君の短(あやまち)を彰(あきらか)にし己の美を明らかにするにあらずや。高允の如き者に至り真の忠臣なり。朕に是非有らば、恒(つね)に正言して論()き、朕の聞くに忍ばざる所の者に至る。皆侃侃(カンカン)と論説し、避就(ヒシュウ)する所無し。朕其の過(あやまち)を聞く。而して天下其の諫(いさ)めを知らず。豈に忠ならざるや」と。文成の言を観れば、亦た以て強ひて諫め名を求むるの非を悟るべし。

大猷大君不世の英主なり。青山忠俊一代の賢輔なり。賢輔を以て英主を諫むるは、宜(ほとん)ど石を水に投ずるより易(やす)し。而して忠俊晩年竟(つひ)に罪譴(ザイケン)を免れず。豈に其の言少し激に流るる以(ゆゑ)に非ざるや。忠俊既に没し、大猷大君其の子を召し、封邑(ホウユウ)を復す。泣き之に諭(さと)して曰く「吾今にして緬(はるか)に汝の父の陳()ぶる所を憶(おも)へば、洵(まこと)に至言為り。吾少壮気鋭にして全てを遵用(ジュンヨウ)すること能はず。悔ひ追ふべくも無し。汝其(ねがはく)は吾児を輔翼すべし。汝の父の我に事(つか)ふるが如きを可(よし)とするなり」と。大猷大君過(あやまち)を改むるに吝(やぶさか)ならず。美は成湯に媲(なら)ぶ。此(かく)の如くの明辟(メイヘキ)をして生前に涕泣(テイキュウ)せしむること能はず、而して徒(いたづら)に身後(シンゴ)に涕泣せしむるは、諫(いましめ)を献(たてまつ)る方(てだて)猶ほ未だ尽さざるを覚ゆるなり。越前源宰相忠俊罪に罹るを聞き、竊(ひそか)に人に語りて曰く「飯羹(ハンコウ)命を續くる所以(ゆゑん)なり。然れども朝夕飲啗(インタン)し度を過さば、或は敗傷に致る。凡そ事此(かく)の若(ごと)し。過すべからざるなり。諫争の老臣は國の柱石為り。然り而して下に居て上(かみ)を劘(みが)くは、當(まさ)に納(たてまつ)るべき機を量(はか)るべし。酒井忠世・酒井忠勝の如きは、諫争其の幾(いくたび)かを知らず。惟だ其の言過(すご)さず、故に害無し。忠俊の論議少し中を過(すご)す。以(ゆゑ)に此に至る。猶ほ食を過して身を戕(そこな)ふがごときなり」と。宰相亦た老成の見と謂ふべし。

山本格安(やまもとただやす)曰く「夫れ関を斬り旗を奪ひ死地に入り先に登るが若(ごと)きは、則ち中華人固より應に本邦人に及ばざるべし。是を以て中華人を視れば恰(あたか)も嬰孩(エイガイ)の若(ごと)し。其の闇主(アンシュ)に直諫し、権臣に面折(メンセツ)し、鼎鑊(テイカク)飴の如きと覩(み)るに至れば、則ち中華人尤も愈(まさ)る。是を以て本邦人を視れば顧(かへっ)て婦女の若(ごと)し」と。此の言未だ確かならず。夫れ古来阿諛の臣、諾々として唯唯一生を畢(をは)るは本邦西土同じなり。忠藎剛正の士、君の失(あやまち)を見れば必ず匡(ただ)し諫むるは本邦西土同じなり。特だ本邦の諫臣、西土の悻悻(コウコウ)たるに效(なら)ふを肯(がへん)ぜざるのみ。但し晩近人気(ジンキ)日に浮靡(フビ)、謇諤(ケンガク)の風稍(やや)衰ふるを覚ゆるが似(ごと)し。是に於てや、儒生又専ら西土に倣象(ホウショウ)するを以て立説す。夫れ物窮れば必ず変る。今日の士風循黙(ジュンモク)の極みなれど、未だ必ずしも變りて激訐(ゲキケツ)に趨(はし)ること無しとせず。又況(いはん)や儒先の論を以て一世を簧鼓(コウコ)するを助くるをや。然りと雖も今日の泯黙(ビンモク)の俗を變へ、西土の矯激(キョウゲキ)の習ひと為すは得る所幾(いく)らも無し。故に予俗(ならはし)の未だ變らざるに迨(およ)び、敢て諫法を掲げ、以て人臣に規彠(キワク)を示すこと此(かく)の如し。

 

(語釈)

制行(徳行)無庸(ムヨウ)(無用)玷缼(テンケツ)(欠点、落ち度)失當(不当)諫諍(カンソウ)(諫めて言い争うこと)丹衷(タンチュウ)(まごころ)愷切(ガイセツ)(親切)

節概(セツガイ)(節操と気概)犯顔(ハンガン)(いやな顔をされてもかまわず諫める)不懾(フショウ)(恐れない)鯁正(コウセイ)(剛直で正しい)博す(得る、勝ち取る)

滋甚(ジジン)(ますます甚だしい)絞訐(コウケツ)(人の非をあばき正すこと)辨駁(ベンバク)(他人の説の誤りを突いて攻撃すること)張皇(チョウコウ)(おおげさに言う)聳動(ショウドウ)(驚かす)(名聞、きこえ)心術(心映え、気だて)脅肩(キョウケン)(肩をすぼめ、首をちぢめる。相手の機嫌をとる)舐痔(シジ)(痔をなめる、こびへつらうことの喩え)容悦(ヨウエツ)(こびへつらう)

前修(古の君子) 激触(激しくぶつかる) 不韙(フイ)(不善) 婉柔(エンジュウ)(やさしくやわらかに)萬乗の主(天子) 顧畏(コイ)(躊躇し恐れること) 世主(セイシュ)(時の君主)納諫(諫言を申し上げる) 激訐(ゲキケツ)(激しく直言する)触忤(ショクゴ)(人の気に触れ逆らう)伉厲(コウレイ)(つよくきびしい)

高允(コウイン)(北朝北魏の名臣,学者。40歳を過ぎて出仕,没するまでの50余年間,漢人官僚の指導者として活躍した)藎臣(ジンシン)(忠臣)顕諫(ケンカン)(正面からまともに諫める)文成(北魏の第4代皇帝)(上奏文)面陳(メンチン)(面と向かって述べる、親しく申し上げる)正言(遠慮せず忠告すること。直言)侃侃(カンカン)(忌憚なく)避就(ヒシュウ)(避けることと為すこと)

大猷大君(徳川家光公)青山忠俊(幼少のころより徳川秀忠に近侍。のち家光の傅となり、のち酒井忠世,土井利勝とともに家光を補佐し(寛永の三輔),1616年(元和2)老中となる。忠俊は家光補佐役としてしばしば諫言したためか左遷され,相模国今泉に蟄居中死去)罪譴(ザイケン)(つみ、とがめ)封邑(ホウユウ)(領地)気鋭(意気盛んなこと)遵用(ジュンヨウ)(従い用いる)成湯(殷の初代帝王湯王)明辟(メイヘキ)(明君)涕泣(テイキュウ)(涙を流して泣く)身後(シンゴ)(死後)越前源宰相(松平忠昌。結城秀康の次男。徳川家康の孫。兄忠直改易後の越前北庄藩50万石にはいり,越前松平家を復興。同年北庄を福居(福井)とあらためた。藩法を整備し,武芸者をあつめて福井藩武芸十二法の基礎をつくる)飯羹(ハンコウ)(飯と汁)飲啗(インタン)(飲み食いする)敗傷(損傷)上(かみ)を劘(みが)く(主君を諫める)酒井忠世(江戸初期の幕臣。老中・大老。2代将軍秀忠から3代家光の前半にかけて幕政の中心として活躍)酒井忠勝(江戸前期の幕臣。老中・大老。3代将軍家光の時、幕政の中心として活躍。家光の遺命により他の老中とともに4代家綱を補佐)

山本格安(やまもとただやす)(江戸時代中期の国学者。国学,儒学を天野信景に,算学を西塚重勝にまなぶ) 嬰孩(エイガイ)(嬰児)闇主(アンシュ)(暗君)面折(メンセツ)(面と向かって欠点やあやまちを非難する) 鼎鑊(テイカク)(釜茹での刑)悻悻(コウコウ)(腹をたてているさま)人気(ジンキ)(人の心)浮靡(フビ)(表面上のみはなやかで、実質の伴わないこと)、謇諤(ケンガク)(正言する、直言してへつらわないこと)   倣象(ホウショウ)(ならう、まねする)立説(立論)循黙(ジュンモク)(素直に黙っている、一言も無く従っている、事あるときに何も言えない)激訐(ゲキケツ)(激しく直言する)簧鼓(コウコ)(妄言して衆を惑わす) 泯黙(ビンモク)(寂然と静止する)矯激(キョウゲキ)(言動が過激なこと)規彠(キワク)(法則、基準)

 

(漢文)

人臣納諫於君、豈得己哉、君而制行無玷、政適其宜、則吾無庸陳諫、君之行有玷缼、政教多失當、而後有諫諍、事至於諫、人臣之不幸也、乃又一而不聴、再而三而猶不入、丹衷迫急、言不得不愷切、其心豈絲毫欲騰美名、乃世人称之、以為彼能批逆鱗、而不少惴、以播直諫之聲

於天下、尤人臣之至不幸也、

趙宋而降、聖学大明、夫人矜尚節概、於是乎直諫之風日昌、世多犯顔不懾之士、斯其可称者、其或流於峻於激、実末弊也、宋代鯁正之士、以直言見逐、而賦詩送之曰、去國一身軽似葉、高名萬古重於山、如以一諫去國、博萬古美名為榮者、此豈忠臣之心也哉、上諫官書有云、今之居官者、或半歳而遷、宜迨未遷、而諫、夫君有失然後諫、非可豫定期、恐轉官在近、而急急陳言、是先己而後君也、

至於明、則斯風滋甚、絞訐惨酷、辨駁張皇、務聳動人視聴、絶無忠愛之誠、迹類剛毅、而心術之不正直、與夫脅肩舐痔容悦是事者一致、不可不痛禁也、

前修有云、事以急敗者、十七八、予嘗論、諫諍以激触取禍者居大半、今夫僚友有不韙之行、吾誨告之、且不可不婉柔善導、對萬乗之主乎、若乃躋急不知顧畏、即所論一一中理、既流於不敬、自非仁明之君、必不能容受、断難望於世主矣、且夫人臣納諫於君、不過願君克悛、乃不能徐々誘掖鼓其改過之機、方且激訐触忤、使吾君無復意乎進善、何智思之浅浅也、然則諫而伉厲、不獨帰於不仁、又且陥自為不智、奚足称哉、

北魏高允剛直藎臣也、而生乎未嘗顕諫、文成省其疏、謂群臣曰、君父一也、父有是非、子何為不作書於人中諫之、使人知悪、豈不以父親恐悪彰於外也、今国家善悪不能面陳、而上表顕諫、豈不彰君之短、明己之美、至如高允者、真忠臣矣、朕有是非、恒正言、而論、至朕所不忍聞者、皆侃侃論説、無所避就、朕聞其過、而天下不知其諫、豈不忠乎、観於文成之言、亦可以悟強諫求名之非矣、

大猷大君不世英主也、青山忠俊、一代賢輔也、以賢輔諫英主、宜易於石投水、而忠俊晩年竟不免罪譴、豈非以其言少流於激耶、忠俊既没、大猷大君召其子、復封邑、泣諭之曰、吾今而緬憶汝父所陳、洵為至言、吾少壮気鋭、不能全遵用、悔無可追、汝其輔翼吾児、如汝父之事我可也、大猷大君改過不吝、媲美成湯、不能使如此之明辟、涕泣於生前、而徒涕泣於身後、覚献諫之方猶未尽也、越前源宰相、聞忠俊罹罪、竊語人曰、飯羹所以續命、然朝夕飲啗過度、或致敗傷、凡事若此、不可過也、諫争老臣、為國柱石、然而居下劘上、當量可納之機、如酒井忠世酒井忠勝、諫争不知其幾、惟其言不過、故無害、忠俊論議少過於中、以至此、猶過食而戕身也、宰相亦可謂老成之見矣、

山本格安曰、若夫斬関奪旗、入死地先登、則中華人固應不及本邦人、以是視中華人、恰若嬰孩、至其直諫闇主、面折権臣、覩鼎鑊如飴、則中華人尤愈、以是視本邦人、顧若婦女、此言未確、夫古来阿諛之臣、諾々唯唯畢一生、本邦西土同也、忠藎剛正之士、見君失必匡諫、本邦西土同也、特本邦諫臣、不肯效西土之悻悻耳、但晩近人気日浮靡、似覚謇諤之風稍衰、於是乎、儒生又専以倣象西土立説、夫物窮必変、今日士風循黙之極、未必無變而趨激訐、又況助以儒先之論、簧鼓一世乎、雖然變今日泯黙之俗、為西土矯激之習、所得無幾、故予迨俗之未變、敢掲諫法、以示人臣規彠如此、