侗庵新論 第百八

(要約)

戦国時代を見ると奇抜な戦略が次々に出て見事にはまる。これを見て古人の知恵は現代人には及びもつかないなどと言うのは物事の実態を理解していない。奇抜な戦略は近世になるほど出てこなくなるが、それは相手にも戦略の知恵が行き渡っており、昔の浅はかな戦略は通用しなくなっているからである。それは名人同士の囲碁の対戦が静かに緻密に進むのと同様である。

 

(現代語訳)

1戦国時代の斉の兵法家孫臏は、魏の将軍龐涓と戦った時、逃走するとみせかけ狭隘な馬陵の地で待ち伏せた。そこで大樹の皮を剥いで白くした部分に「龐涓この樹の下に死す」と書きつけ,射撃に長じた者を道を挟んで潜ませ,夕暮れに火を見たら一斉に矢を発射するよう命じた。龐涓は孫臏の予想通り暮れに馬陵に達し,火を点けて書を読もうとすると斉軍の矢が一斉に発射され,魏軍は大混乱に陥った.龐涓は知恵も尽き戦い敗れたことを知り,自らの首を刎ねた。斉は燕により滅ぼされかけていたが、斉の武将田単は燕人を欺いて斉の人々の祖先の墓を掘らせて斉人を怒らせ、火牛の計により燕軍を大いに破りたちまち燕に取られた七十余りの城を取り返した。漢の劉邦の将である韓信は趙と戦った時、本隊には背水の陣をひかせ決死の覚悟で守らせ、一方で別動隊を山に隠し、趙軍が本隊を攻めあぐねて本陣を空けている隙に別動隊が趙の本陣を占領し漢の赤旗を立てて趙軍を混乱させ趙の都を攻め落とした。魏と戦った時は、黄河の各渡河口を堅守する魏軍に対し下流を渡河すると見せかけ、上流地点に木に甕を縛り付けた即製のいかだを大量に作りそれにより河を渡り魏の本拠地を急襲して滅ぼした。楚の将軍龍且と河をはさんで対陣したときは、夜間のうちに上流に土嚢を積んで堰を造り水を塞いでおいた。韓信は軍を率いて半ばが渡ったところに龍且が攻撃してくると、偽って敗走し、龍且が追撃すると土嚢の堰を決壊させ龍且を打ち殺した。彼らは奇策が次々に出てとどまることが無かった。まるで朽ちた木を砕くように強敵を掌の上で翻弄し打ち破った。後世にこれと比べられる者は見たことが無い。しかし思うにこれは時勢がそうさせただけのことである。それなのに論者はこのことについて、「古人の知恵は現在では及びもつかない」などと言う。つまりこれは物事の実態を理解できていないということである。

2そもそも智者のはかりごとは愚昧な相手に遭ってはじめてその効果を発揮する。当方が知恵を存分に発揮し、先方は当方に籠絡されて慌てふためいて転倒し、逃げまどっても道は絶えるなど、すべて当方の思惑通りになるのは、必ずしも智者の知恵が人並み外れて優れているからではなく、愚者が自らその愚昧ぶりを露呈しているからである。それゆえ次のように言われている。「知恵というのは自分より劣る者には勝つことができるが、自分と同等の者に会うと行き詰まるものだ」と。

3昔の人の心が誠実であることや行いの美しいことについては、今の世の中の人は思いもよらない。しかし知恵をうまくはたらかせることについては、必ずしも後世の人に勝っていないし、場合によってはやや劣るだろう。つまりそれ以前の戒めとすべき手本が少ないために、その時々の出来事に対してあまりうまく対処できていないということだ。このような状況で愚かな大衆の中に一二の知恵ある人物が出て臨機応変のはかりごとを行えば、自然に世の中では圧倒的に優れているように感じられる。ためしに戦国時代の弁士がその時代の君主を説得するのを見てみると、言った言葉は必ず聞かれ、献策は必ず実施されており、それは水に投げた石が水に受け入れられるどころではない受け取られ方だった。このことは彼の弁舌の才能がもともと世に抜きんでていたためではあるが、しかし今になってその言葉を熟読玩味してみると、黒を白と言いくるめ、東を西と言いつくろっており、嘘や偽りの形跡が明らかなものが大半を占めている。弁士は幸いにも戦国時代の暗愚な君主に遭遇したがゆえに、言ったことがことごとく聞き入れられたに過ぎない。もし後の時代であれば、採用されない言葉が十のうち六か七であると予想できるのはここに明らかである。つまり昔の名将の智略が世の中を驚かせ動かしえたのはそのためだったのがわかるのである。

4歴史書をつぶさに読んでみると、おおむね近世になるほど、将軍の奇抜な智略は次第に見られなくなる。元、明、清の開祖などは皆優れた君主で、その智略は追従を許さない。しかし、彼らが群雄を征服し天下を統一した方法を見ると、つむじ風や稲妻が押し寄せるように、ただその軍事力で制圧しただけにしか見えない。智略についてはかえって南北朝時代の南朝梁の創業者蕭衍(ショウエン)や北朝北魏や東魏の実権者高歓(コウカン)の奇策にはかなわないように見える。他にも遼の名将耶律休哥(ヤリツキュウカ)、金の武将で北宋を滅ぼした粘罕(メメガ)、元朝創業の功臣木華黎(ムハリ)、南宋を滅ぼした元の伯顔(バヤン)などについてその策略をたどってみても、ほとんどそれ以前の良将たちの神出鬼没ぶりと比べると見劣りがする。これは本当に劣っているということだろうか。これには当然理由がある。つまり敵になる者にもたいてい計略が行き渡っており、火牛の計だとか、嚢沙の計などの浅はかな計略では誘い出すことなどできなくなっていたのである。自らを守るときには、必ず被害が来る前に察してこれを予防するし、敵を迎え撃つときは、常にその敵の策が実現する前にこれに先んじておさえる。このため、彼らの深謀を窺い知ることが難しく、当時を輝かしく見せているのは立派な英雄の姿や勇猛な気風のおおまかな痕跡のみなのである。世の中の人がこれをもって、後世の明君は専ら武力で王朝を開いたと言うのは甚だしい間違いである。孫子が「善い将兵には、華々しい手柄など無いものだ」と言っているのはまさにこれを指しているのだ。

5私はかつて囲碁の対戦を見たことがあるが、極めて下手な者が上手な者と当たると、土砂崩れのようにあっという間に負けて驚くほどだった。名人同士が対戦すると、それは奥深く静かで緻密であり、一見何事も無いかのように進み、ただ平凡に感じてしまうほどだ。これはつまり互いに乗ずべき隙や欠点が無いためである。そうであれば一体どこで奇抜な計略など見ることができようか。囲碁の道理が理解できれば、将軍たちの戦略の妙味がいきいきと眼前に見えるようになるだろう。

 

(読み下し文)

1昔孫臏(ソンピン)白樹を斫(けづ)り以て識(しるし)と為し、萬弩斉(ひと)しく發し、龐涓(ホウケン)をして樹下に自刎せしむ。田単燕人を欺き、斉家の墓を掘らせ以て我を怒らせ、火牛衝突し、燕軍を大いに敗(やぶ)り、立(たちどころ)に七十城を復す。淮陰侯(ワイインコウ)背水(ハイスイ)萆山(ヘイザン)にて趙都を抜き、木罌缶(オウフ)、軍を渡して魏を滅ぼす。嚢沙(ノウシャ)し河流を壅(ふさ)ぎ、龍且(リョウショ)を破殺(ハサツ)す。彼の其の奇計百出し窮まらず。勍敵(ケイテキ)を掌上に弄(もてあそ)び摧破すること朽(キュウ)を拉(くじ)くが如く然り。後世絶へて未だ其の比を見ず。蓋(けだ)し亦た時が然らしむ。而して論者此れに由(よ)り遂に謂(いは)く「古人の智思、叔季(シュクキ)克(よ)く依稀(イキ)たるを希(のぞ)む所に非ず」と。則ち未だ其の實を獲(え)ざるなり。

2夫れ智士の籌策(チュウサク)を運(めぐ)らすは、必ず愚且つ昧に遇(あ)ひ、然る後に始めて其の妙を見(あらは)す。吾れ吾が智慮を逞しくして、彼れ我の籠絡する所と為り、狼狽顛頓(テントン)し、逃奔(トウホン)するも路(みち)絶(た)へ、一一吾が料(はか)る所を出ざるは、此れ必ずしも智士の智倫(ともがら)を邁(す)ぐにあらず、亦た愚者自ら其の愚を露(あらは)す。故に曰く「智は己(おのれ)に如かざる者に勝ち、己に如く者に至りては窮するなり」と。

3古の人、其の處心の摯(シ)なること、制行懿(うるは)しきこと、洵(まこと)に叔世の企(くはだ)つる所に非ず。智を運(めぐ)らす妙に至れば、則ち未だ必ずしも後人に勝(まさ)らず、或は且(まさ)に稍(やや)遜(ゆづ)るべし。蓋し其れ前に鑑戒とする所鮮(すくな)きを以て、時事を磨礱(マロウ)すること甚(はなはだ)しからざるなり。是に於て蠢蠢たる庸衆中に一二の智計の士出(い)で其の権略を運(めぐ)らすこと有らば、自から其の傑然と世を陵跨(リョウコ)するを覺ゆ。蓋(けだ)し試(ため)しに戦國の辨士の時君を説くを観るや、言必ず聴かれ、策必ず售(おこなは)れること、翅(た)だ石を水に投ずるがごときのみならず。斯れ其の口才(コウサイ)固(もと)より一世を超軼(チョウイツ)する者有り。然れども今にして其の言を熟玩すれば、皁(くろ)を以て白と為し、東を以て西と為す。虚飾の跡の歴々たる者、其の大半を居(し)む。幸にして戦國の憒憒(カイカイ)の主に遇(あ)ふ。故に盡(ことごと)く聴信(チョウシン)せらるのみ。使(も)し後代に在らば、其の採用されざる者十に六七なるを予知すべきこと、此(ここ)に明らかなり。則ち古(いにしへ)の名将、智略一世を驚動するは其の故(ゆゑ)なるを識(し)るべし。

4予史乗(シジョウ)を歴閲(レキエツ)すれば、大率(おほむね)世愈(いよいよ)近ければ、而(すなは)ち将略の奇、愈(いよいよ)見るべからず。元明清の三祖の如し、皆開剏(カイソウ)の英主、其の智計(チケイ)卓(すぐ)れ追ふべからず。然れども其の群雄を芟(か)り寰區(カンク)を混合する所以(ゆゑん)を観(み)れば、疾飆(シッピョウ)激電(ゲキデン)の至るが如し。徒だ其の威力物を制(おさ)ふを見るのみ。智慮に至れば、反(かへ)って蕭衍(ショウエン)・高歓の奇に及ばざるに似る。他に耶律休哥(ヤリツキュウカ)・粘罕(メメガ)・木華黎(ムハリ)・伯顔(バヤン)の倫(たぐひ)の如し、其の策略の妙を迹(たづぬ)れば、亦た殆ど従前の諸良将の神入鬼没に愧(は)づ。此れ豈に真に如かざるや。亦た自(おのづ)から其の理有り。蓋し吾が敵と為る者、類(おほむ)ね計慮(ケイリョ)周匝(シュウソウ)にして、火牛、嚢沙等の膚計(フケイ)を以て誘致すべきに非ず。其の自ら守るや、必ず禍(わざはひ)を未だ至らざるに於て察して之(これ)を豫防す。其の敵を待つや、毎(つね)に其の策未だ就(な)らざるに先んじて早(つと)に之を制す。是以(これゆゑ)其の深謀窺(うか)ふに易(やす)からず。而(すなは)ち燁然(ヨウゼン)と一時を輝映(キエイ)する者は、纔(わづか)に英風猛気の粗迹(ソセキ)のみ。世或は此(これ)を以て後の英辟(エイヘキ)専ら威武を以て丕業を創(はじ)むと議(い)ふは、惑(まどひ)の甚しきなり。孫武曰く「善き将兵は、赫赫の功無し」と。正に此れを指すなり。

5予嘗て奕者(エキシャ)の競ふを観るに、綦(きはめ)て拙(つたな)き者は巧者に遭へば、則ち土崩の速きに驚怛(キョウダツ)すべし。國手(コクシュ)相値(あた)るに洎(およ)びては、則ち深穩(シンオン)縝緻(シンチ)に事無き所を行き、惟(た)だ其の平平たるを覚ゆるのみ。蓋(けだ)し投ずべき罅(ひび)無く、乗ずべき瑕(きず)無ければ、則ち又た奚(いづれ)自(よ)り其の籌算(チュウサン)の奇を窺(うかが)ふを得るや。奕(エキ)の理を悟れば則ち将略の妙躍如(ヤクジョ)たり。

 

(語釈)

1孫臏(ソンピン)(戦国時代の斉の兵法家。同学の龐涓に才能をねたまれ、両足を切断されたが、のち、斉の威王に軍師として仕え、龐涓の率いる魏軍を破った)龐涓(ホウケン)(魏の将軍.孫臏とともに兵法を学んだ.のちに魏に仕え恵王(魏恵成王)の将軍となったが,孫臏が己よりも賢いことを恐れ憎み,密かに孫臏を呼び寄せて無実の罪を着せ,両足を切断し入れ墨を入れる刑罰に処した.後に趙とともに韓を攻めたが,斉の将軍の田忌が兵を率いて大梁に急行したため,取ってかえし斉軍を迎え撃とうとした.田忌は孫臏の計に従い,日一日と竈の数を減らしていった.龐涓は斉軍が魏の地に侵入してから3日で士卒の半分以上が逃亡したと思い込み,歩兵を棄て軽敏精鋭な部隊を率い,2日の行程を1日に縮めて斉軍を急追し,暮れには馬陵に至るはずであった.馬陵は道が狭く,両側が切り立った場所が多く,伏兵を置くのに適していた.そこで孫臏は大樹の皮を剥いだ部分に「龐涓此の樹の下に死す」と書きつけ,射撃に長じた者を道を挟んで潜ませ,夕暮れに火を見たら一斉に矢を発射するよう命じた.龐涓は孫臏の予想通り暮れに馬陵に達し,火を点けて書を読もうとすると斉軍の矢が一斉に発射され,魏軍は大混乱に陥った.龐涓は知恵も尽き戦い敗れたことを知り,自らの首を刎ねた)田単(戦国時代の斉の武将。斉が燕の将楽毅に大敗したとき、反間の計をもって楽毅を退け、また、火牛の計をもって斉の失地七十余城を回復した)淮陰侯(ワイインコウ)(韓信 漢初の武将。項羽に従ったのち、劉邦の将となり、華北を平定。斉王、次いで楚王に封ぜられたが、のち淮陰侯に左遷され、反逆の疑いで呂后に処刑された)背水(ハイスイ)萆山(ヘイザン)(韓信が趙と戦った時、本隊には背水の陣をひかせ必死に守らせ、別動隊を山に隠し、趙軍が本隊を攻めあぐねている隙に別動隊が趙の陣地を占領し漢の赤旗を立てさせ趙軍を壊滅させた) 抜き(攻め落とし)  木罌缶(オウフ)(韓信は黄河の各拠点を堅守している魏に対して、下流に船舶を集結させ渡河すると見せかけ、主力軍は上流地点に木に甕を縛り付けた即製のいかだ(木罌缶)を大量に作りそれにより河を渡り魏の本拠地安邑を急襲して滅ぼした (安邑の戦い))。  嚢沙(ノウシャ)(砂を袋に入れること)龍且(リョウショ)(楚の将軍。項羽の信任が厚かった。韓信と河をはさんで対陣した時に、韓信は夜間のうちに上流に土嚢を積んで堰を造り、水を塞いでおいた。韓信は軍を率いて半ばが渡ったところに龍且が攻撃してくると偽って敗走した。龍且が追撃すると韓信は土嚢の堰を決壊させ龍且は討ち取られた(濰水の戦い))   勍敵(ケイテキ)(強敵)朽(キュウ)(朽ちた木)叔季(シュクキ)(末の世。末世、現在)依稀(イキ)(よく似ているさま)

2籌策(チュウサク)(はかりごと)逃奔(トウホン)(逃げ走ること 逃走)

3摯(シ)(誠実)鑑戒(戒めとすること。また、戒めとすべき手本)時事(その時々のの出来事)磨礱(マロウ)(とぎみがく)蠢蠢(愚かで無知な)権略(臨機應變のはかりごと)傑然(傑出しているさま)陵跨(リョウコ)(こえまたがる)口才(コウサイ)(弁舌の才能)超軼(チョウイツ)(抜きんでていること)熟玩(熟読玩味)虚飾(うそいつわり)憒憒(カイカイ)(暗愚)聴信(チョウシン)(聞いて信じる)

4史乗(シジョウ)(歴史書)歴閲(レキエツ)(次々に読む、ひとつひとつ読む)将略(大将としての知略)開剏(カイソウ)(開創、創業)智計(チケイ)(かしこいはかりごと)寰區(カンク)(天下)疾飆(シッピョウ)(つむじ風)  激電(ゲキデン)(稲妻)蕭衍(ショウエン)(南朝梁の初代皇帝。教養があり南朝随一の英主とされる)高歓(南北朝時代の政治家。北魏末期にその実権を握り、北魏が東西に分裂すると東魏の実権者となった。)耶律休哥(ヤリツキュウカ)(遼(契丹)の軍人・将軍。対宋戦で活躍し、名将として知られる、知略に優れ勝利を重ね、宋ではたいへん恐れられたが、罪のない人を殺すことがなく、また戦禍で疲弊した民を案じて税を軽くし、孤児や寡婦を助け、国境地帯の安全を守ったとされている)粘罕(メメガ)(完顔宗翰。金の武将.完顔宗望とともに対宋戦争で主導的な役割を果たし北宋を滅ぼした)木華黎(ムハリ)(モンゴル帝国創業の功臣。チンギス・ハーンの苦難時代からこれを助けてその覇業に貢献した)伯顔(バヤン)(元代初期の勲臣。南宋征服軍の総司令官となり,南宋の首都臨安を無血開城させた)計慮(ケイリョ)(はかりごと。計略)周匝(シュウソウ)(すみずみまでゆきわたること。周到)膚計(フケイ)(浅薄な計略)燁然(ヨウゼン)(かがやくさま)  一時(当時)輝映(キエイ)(てりはえる。かがやきうつる)英風(立派な英雄の姿)猛気(勇猛な気風)英辟(エイヘキ)(明君)孫武(孫子)

5奕者(エキシャ)(囲碁を打つ者。碁打ち)驚怛(キョウダツ)(おどろく)國手(コクシュ)(囲碁の名人)深穩(シンオン)(奥ふかく靜かなこと)縝緻(シンチ)(細かく緻密)平平(平凡)籌算(チュウサン)(はかりごと、戦略)奕(エキ)(囲碁)躍如(ヤクジョ)(いきいきとしていて目の前に見えるさま)

 

(漢文)

1昔孫臏斫白樹以爲識、萬弩斉發、使龐涓自刎樹下、田単欺燕人、掘斉家墓以怒我、火牛衝突、大敗燕軍、立復七十城、淮陰侯背水萆山、而抜趙都、木罌缶渡軍而滅魏、嚢沙壅河流、而破殺龍且、彼其奇計百出不窮、弄勍敵於掌上、摧破如拉朽然、後世絶未見其比、蓋亦時使然、而論者由此遂謂、古人智思、非叔季所克希依稀、則未獲其實也、

2夫智士之運籌策、必遇愚且昧、然後始見其妙、吾逞吾智慮、而彼爲我所籠絡、狼狽顛頓、逃奔路絶、一一不出乎吾所料、此不必智士之智邁倫、亦愚者自露其愚、故曰智勝不如己者、至於如己者而窮也、

3古之人、其處心之摯、制行之懿、洵非叔世所企、至運智之妙、則未必勝後人、或且稍遜、蓋以其鮮所鑑戒乎前、不甚磨礱時事也、於是蠢蠢庸衆中、有一二智計之士出、運其権略、自覺其傑然陵跨乎世、蓋試観戦國辨士之説時君乎、言必聴、策必售、不翅石投水、斯其口才固有超軼一世者、然今而熟玩其言、以皁爲白、以東爲西、虚飾之跡、歴々者、居其大半、幸而遇戦國憒憒之主、故盡見聴信耳、使在後代予知其不見採用者十六七、明乎此、則古之名将、智略驚動一世、其故可識矣、

4予歴閲史乗、大率世愈近、而将略之奇、愈不可見、如元明清三祖、皆開剏英主、其智計卓不可追、然観其所以芟群雄混合寰區、如疾飆激電之至、徒見其威力制物、至於智慮、似反不及蕭衍高歓之奇、他如耶律休哥、粘罕、木華黎、伯顔之倫、迹其策略之妙、亦殆愧従前諸良将之神入鬼没、此豈真不如也哉、亦自有其理、蓋爲吾敵者、類計慮周匝、非可以火牛嚢沙等膚計誘致、其自守必察禍於未至而豫防之、其待敵、毎先其策未就而早制之、是以其深謀不易窺、而燁然輝映一時者、纔英風猛気之粗迹耳、世或以此議後之英辟専以威武創丕業、惑甚矣、孫武曰、善将兵者、無赫赫之功、正指此也、

5予嘗観奕者之競矣、綦拙者、遭巧者、則土崩之速可驚怛、洎國手相値、則深穩縝緻、行乎所無事、惟覚其平平耳、蓋無罅可投、無瑕可乗、則又奚自而得窺其籌算之奇哉、悟奕之理、則将略之妙躍如矣、

 

侗庵新論 第百七

(要約)

君臣の道は不変の道理である。天子が弊害を天下にまき散らしているなら諸侯がこれに代わり国家の大権を握るのは当然だが、家臣が主君を討つのは全くやむを得ない場合にのみすべきことである。安易に討てば遺民の反発を受け国の命運を縮める。推戴してきた君主であれば実権を失っても軽視せず礼儀を欠かさず扱うべきである。

(現代語訳)

1ここに一人の人がいて平素の行いが悪く皆が憎んでいるが、その没落を祈ったり死ねばいいと思うほどではない場合に、為政者が一時の怒りを抑えきれず直ちにこれを打ち殺したりすれば、民衆は必ず憐みの心を起こすだろう。ましてや平凡な人でまだ明らかに責めるべき大罪も犯していないのに、当方がこれを虐げたり苦しめたりすれば、民衆の憤りが強く当方に押し寄せる。目を吊り上げ腕を撫してその人の危機に駆け付ける。その人は平凡な人間にすぎないが、同時代の俊傑として押し上げられる。これこそが勢いのなせるわざである。天下の人々は皆相手をはずかしめたり力を弱めたりすることが相手への抑制手段となることを知っているが、しかしそれがかえって相手の勢力を拡張するきっかけにもなることを知らないとは見識が無いこと甚だしい。

2昔、戦国時代に秦の昭襄王は楚の懐王と友好を約束して武関で会った。しかしこれを騙して捕え、ついに秦で客死させた。秦はその遺体を楚に帰すと、楚の人々はこれを親戚の死を悲しむように憐れんだ。諸侯はこのことにより秦に素直に従わなくなり、楚の国がたとえ衰退してわずか三戸のみとなったとしても、必ずや秦国を滅ぼすという「三戸亡秦の謡」ができるに至った。ついに兵を起こして秦を滅亡させたのは、陳勝・呉広や項羽などの人々だが、これらは皆楚の人間である。

3そもそも懐王は無知で頑迷で、へつらう者を信用し忠臣は捨て、戦国の六国の中では最も劣る者であった。もしこの人が長年王位にいたとすれば、その悪影響が次第に増大し、人民が「この王はいつ亡びてくれるのだろうか」と思うようにならないとは限らないほどだった。ただその罪がはっきりと現れる前に秦が懐王を殺害に及んだことにより、秦に対する恨みや憎悪が秦の王室の子孫を残らず滅ぼすに至ったのだった。まことに恐るべきことである。しかしこれは対等な国同士の話である。もし王と臣下の間でこんなことがあればどうしたらよいだろうか。このため私は夏・殷・周の古代三王朝の末期に深く感じ入ることがある。

4殷の紂王の非道な行いのために、民衆は怨み嘆き、周の武王が討伐してこれに代わった。しかし既に殷を滅ぼした後も殷の遺民が反抗して平穏にならなかった期間がほぼ三十六年間もあった。次に即位した成王は幼かったので周公旦が補佐し、諄々と言い聞かせて、どうにか騒乱に至らせないようにした。書経・周書の「多方・多士」篇の記載を見れば周公旦がいかに苦心したかがわかる。このため後の儒者の間には武王は聖人ではないとの論がある。一方でまた武王は聖人ではないとの論を非難するものもある。この二つの論はやかましく争っているが、まだ決着はついていない。そもそも武王が聖人か否かについては私にはこれをまとめる余裕はない。しかし前の王朝を継いで天下を取っても人々が怒って服従しない状況に至ったということは、武王の徳が前の王朝に代わるには十分ではなかったということである。徳が不足しているのに早くも天下に君臨してしまった。このため周が隆盛であったのはわずか四十年に過ぎなかった。かたくなで新しい王朝に従おうとしなかった人民がようやく従うようになった頃には、周は次第に衰えていった。名目上周は八百年続いたというものの、第十代厲王、第十一代宣王以降は諸侯と同じ地位にまで落ちぶれ、天下を導くには力不足となった。最後の赧王の時代になると、祖先からの恩恵もすでに尽き、狭い領土で大国の間にはさまれ、ついには秦に滅ぼされてしまったが、それはあたかも山が卵を押し潰したかのようであった。そして周の遺民はことごとく東に逃げ、秦に家臣として服従しようとはしなかった。周の人民が喜んで服従しようとしていないのに、秦が力づくでこれを支配しようとしたことは、まさに民心を失い、國を滅ぼす十分な理由となった。そうではあるが、秦は虎や狼のような国なので天や人に対して犯した罪は一つどころではなく、当然これだけでは責め足りない。武王は大いに徳のある君主であるが殷の紂王への対応はまだ万策を尽くしていなかったように見える。これは人に完璧を求める論によってのみ咎めることができるにすぎない。

5そもそも君臣の道は不変の道理であって、人倫の中でも極めて重いものである。紂王が暴君であるとしても、また武王が仁義を重んずる家臣であるとしても、家臣が主君を討つのは全くやむを得ない場合にのみすべきことである。その悪が世に満ちて民心が離れるのを待ち、その後にこれを討てば天下に言い訳もできる。もし天命がまだ改まっておらず、人心も今の王朝になついてこちらに従おうとしないのに、急にこれに取って代わろうとするのは、論語に言う所の善を盡していないということではないのか。仮に尭や舜がこうした時に当たったとしてもこんな拙速な挙兵をすることは絶対にないだろう。もし挙兵するとすれば、国中が心から従い頑なに抵抗する民衆を心配する必要が無い時か、あるいはこうした民衆が自らこちらに帰服して兵力で従わせる必要が無い時かだが、それは知る由もない。思うに最善の道徳にあてはめて考えれば問題は挙兵するか否かに止まらない。天子がもし悪逆非道で弊害を天下にまき散らし、国家の命運がほとんど尽きかけていれば、諸侯が取って代わり政治を行わざるを得ない。情勢が既にここまで至っていれば国家の大権を握るべきことは当然である。しかし天子というのは自分たちが以前から敬ってきた存在であるから本心では当然滅ぼすのは忍びない。時勢からみても滅ぼすべきではない事情がある。亡父古賀精里は嘗てこう言っていた。「孔子は、舜帝の音楽は美と善をつくしているが、武王の音楽は善をつくしていないと言っている。また周の伯夷・叔齊の兄弟が臣下でありながら主君を討った武王を諫めたことをしばしば称えている。さらに周王の地位を弟に譲った泰伯や徳をもって万民を収めた文王を評価している。これらのことから見れば、孔子はきっと武王には不満だったはずだ。孔子のような大徳ある人でも殷と周の交代期に生まれていれば断じて革命を起こさざるを得なかっただろう。しかし一方でひそかに殷の王室を残して古河公方のように推戴していただろう」と。まことに道理にかなった論である。

6私が考えるに、紂王はすでに長年悪事を重ねているのに改悛もせず、親族も民衆も離反しているのだから、武王が殷を退けて自らが王になることに何の差し支えも無い。ただ紂王には百里四方の公侯の国を与え、黄河流域の肥沃な土地に都を置かせ、宮殿、飲食、服装など元と変らず立派にして、狩猟や遊興の楽しみも思い通りにさせる。政治は周に任せるが、王としての楽しみは依然として享受させる。周が代々このようにすれば、それは最高の仁、最高の忠、最高の人倫となるだろう。これこそ古来全く無かった最高の徳ではないだろうか。

7ある人がこう言った。「前の王朝の君主を優遇して勝手気ままにさせておくと、思わぬ異変を生じさせないとも限らない。これを抑圧して民の望みを絶ってはどうか」と。こうした議論は私にはとても拙劣なものに思える。自分の徳がまだ十分に成熟していなければ心配だが、もし前の王朝に代わって天下を治めるだけの徳があるならば何を恐れることがあろうか。この人の疑いや警戒はまるで何かにとらわれているかのようだ。人の心に不安があるとそれがついには基準となってしまうことが無いでもない。もし当方が前王朝を崇め奉れば人々は我々を喜んで推し戴くようになり、自然に幸運が集まるようになる。前王朝の君主は限りない名誉を与えられ、当方も代々にわたり子孫に教訓を残せる。逆に繁栄につながるのではないか。しかしながらそう簡単には言えない。あの殷の紂王について、ただ威張り散していてすべての諸侯が紂王伐つべしなどと言ったという話はすべて周の人から出たものであり、果たして信用に値するのだろうか。それゆえ論語の中で子貢は「紂王はそれほどまでにひどいことはしていない」と言っている。歴史書によれば、周の武王が殷の紂王を伐つた牧野の戦いでは、紂王は七十万の兵を率い心を一つにして敵に当たった。周は苦戦してやっとの思いでこれに勝った。それゆえ大量の血が流れ、盾を押し流したほどだった。このことは武王が紂王の命運を握れていなかったことを示す。それで何で紂王を君主として推戴して安らかにしていられようか。だからこんなことは断じて武王が考えるはずもない。私はただ後世に前の王朝に対処する者のために基準を立てただけのことだ。

8そもそも仁徳ある人の慈愛は心からのものであり、人との交際も親切で人情に厚い。推戴した君主に対しても自然に尊敬し誠意を尽くす。これに対し知恵ある者は物事の機会をよく知っており、推戴した君主を軽視したり傲慢な態度をとれば、国の命運を縮めることを熟知している。このため敢えて自らを謙遜する礼儀を欠かさない。仁徳ある人になろうとしても容易ではないが、知恵者にはなろうと思えばなれる。後世で推戴した君主に仕える者は、進んでこれを手本とすべきであろう。

 

(読み下し文)

1人茲(ここ)に有らんか、居平(キョヘイ)兇悍(キョウカン)無行にして、衆(みな)曹疾(ソウシツ)する所なれど、猶ほ未だ其の亡(ほろ)びを祈りて其の死を欲するに至らず。乃(すなは)ち一朝の恚(いかり)に堪へず、立(たちどころ)に之を打ち殺さば、衆必ず憫惻(ビンソク)の心を生ずべし。矧(いはん)や人庸庸(ヨウヨウ)の徒にして未だ顕(あきらか)に攻むべき大罪有らざるに、吾乃(すなは)ち之を陵虐し、之を困蹙(コンシュク)せしめば、則ち衆の怨憤、総然我に萃(あつ)む。方(まさ)に且(まさ)に軒眉(ケンビ)扼腕(ヤクワン)し、其の人の急に赴く。而(すなは)ち其人之(これ)凡なれど直だ一時の俊彦(シュンゲン)と為して推す。是れ勢の必至なり。天下之を挫辱(ザジョク)し之を削弱(サクジャク)することの抑(おさ)へと為るを咸(みな)知る。而して秖(まさ)に其の張興の端を啓(ひら)くを知らざるは無識(ムシキ)なること甚(はなはだ)し。

2昔、秦昭、楚懐と好(よしみ)を約し武関に會ふ。之を誘(さそ)ひ執(とら)へ、遂に秦にて客死さす。秦其の喪(しかばね)を帰し、楚人之を親戚を悲しむが如きに憐れむ。諸侯是れに由り秦に直(なほ)からず、三戸亡秦(サンコボウシン)の謡(うた)有るに至る。卒(つひ)に之(ここ)に兵を起し秦を夷(たひら)ぐ者は、勝廣・項藉の倫(ともがら)、皆楚人なり。

3夫れ懐王の昏瞀(コンボウ)頑劣(ガンレツ)なること、憸壬(センジン)を信じ忠藎(チュウジン)を棄つ。六國諸王の最下者なり。使(も)し之をして緜久に在位せしめば、其の悪稔熟(ジンジュク)し、民未だ必ずしも「時日(このひ)害(いつ)か喪(ほろ)びん」の心無きことなからん。特(た)だ其の罪未だ甚しく暴著(バクチョ)せざるに、秦残害(ザンガイ)を行ふに及ぶを以てや、怨毒(エンドク)の報ひ、其の後裔を殲ぼして遺(のこ)り靡(な)きに至る。噫(ああ)畏(おそ)るべきなるのみ。然れども此れ猶ほ駢肩(ヘンケン)の國なり。倘(も)し臣事する所に在らば則ち當(まさ)に何如(いかん)せん。予因て三代の季(すゑ)に深く感ずること有り。

4殷紂道を失ひ、兆庶(チョウショ)怨咨(エンシ)す。周武討ちて之に代る。既に殷に克つも殷民反側(ハンソク)し靖(やす)からざること幾(ほとん)ど三紀。周公沖主を輔(たす)け、諄々と暁諭(ギョウユ)し、財(わづか)に繹騒(エキソウ)に致らざるを得る。多方・多士に陳ぶる所を観れば、周公の苦心極まれり。是に於て後儒に武は聖に非ずの諭有り。則ち又武は聖に非ずの論を非(そし)るもの有り。二論喧閧(ケンコウ)すれど未だ一に帰せず。夫れ武の聖爲ると否とは、未だ折衷の遑(いとま)なし。然れども勝國を継ぎ天下を有して人情撊然(カンゼン)と服せざるに致るは、是れ徳の之に代るを以て足らざるなり。徳の之に代るを以て足らざるに、蚤(つと)に天下に涖(のぞ)む。是以(これゆゑ)郅隆(シツリュウ)の日、僅僅四十載に過ぎず。頑民(ガンミン)の馴服(ジュンプク)する比(ころ)に、周寝衰(シンスイ))す。名は八百禩と曰ふと雖も、厲宣而還、諸侯に儕(ひと)しく下り、道びくに足らざるなり。赧(タン)に降(くだ)り、先王の澤(めぐみ)已(すで)に竭(つ)き、弾丸の地を以て、數大國の間に摂(はさま)り、遂に秦の滅ぼす所と為ること、啻だ山の卵を壓するのみならず。而して周民盡(ことごと)く東へ亡(に)げ、秦に臣附(シンプ)するを肯(がへん)ぜず。其の民未だ悦服せざるに秦以力を以て之を取れば、秖(まさ)に民心を失ひ國亡を促すを以て足る。然りと雖も秦虎狼の國なれば、其の天人(テンジン)に罪を穫(え)る者一つに非ず、固(もと)より誅(せ)め足らず。武王大徳の君なれど、其の殷紂を待(もてな)す所以(ゆゑん)は、猶ほ未だ其の道を盡さざるに似る。此れ正に責備の論を以て之を砭(いまし)むるを可とするのみ。

5夫れ君臣の道は天経地義にして人倫の至重を為す。紂暴主なりと雖も、武至仁の臣なりと雖も、臣なるを以て主を伐(う)つは、萬萬已むを得ざるの事なり。其の悪盈ちて民離るるを待ち、然る後に之を伐たば、亦た天下に辞(ことば)有り。今や當(まさ)に天命未だ革(あらた)まず人心懐(なつ)き服せざるの際に遽(にはか)に之に代るは豈に所謂(いはゆる)善を盡さざる者に非ざるや。借使(たとひ)尭舜斯(かか)る時に丁(あた)るとも必ず遽(にはか)に斯(かか)る擧を興さず。果して擧ぐるや、海寓心服し断じて殷頑の憂ひ無く、或は彼の民自ら来て我に帰し干戈(カンカ)を労せざるかは、知るべからざるなり。顧(おも)ふに至道を以て律すれば、則ち又此に止まらざる者有り。天子果して戻虐不道にして毒を寰區に流し、宗祏(ソウセキ)殆ど血食を絶たんとせば、則ち諸侯之が敷治(フチ)に代わらざるを得ず。勢ひ既に此に至らば、手に四海の大柄を握るは固(もと)よりなり。然れども天子則ち予の夙に崇戴する所なれば、本心固(もと)より勦絶(ソウゼツ)を忍びざる者有り。事勢に在りても又當(まさ)に殄滅すべからざる者有り。先子嘗て曰く「吾夫子の韶武(ショウブ)を評し、屡(しばしば)夷齊(イセイ)を称へ、泰伯(タイハク)・文王を取るを観れば、必ず武王に不満なり。夫子の大徳、殷周の際に生れば、断じて命を革(あらた)めざるを得ず。然れども亦た必ず殷室を存(のこ)し、微(ひそか)に猶ほ古河公方の如くにて之を推戴すべし」と。良(まこと)に至論なり。

6予謂(おも)ふに紂業已(すで)に悪を長くし悛(あらた)むること靡(な)し。親離(シンリ)し民散(サン)ずれば、武王何ぞ殷を黜(しりぞ)け自ら王たるを妨ぐや。惟だ當(まさ)に紂を百里に封じ、中州の膏腴(コウユ)の地を都とし、宮室食飲裳服の盛んなること、少しも其の舊(もと)を替へること無く、田猟(デンリョウ)遊豫(ユウヨ)の娯(たのし)み、惟だ欲する所を意(おも)ひ、大政を周に委ぬると雖も依然として南面の王の楽しみを享(う)く。周世々に之(かく)の如くせば、斯(こ)れ仁の盡(きは)み、忠の盛り、人倫の極則(キョクソク)と為らん。豈に盤古以降絶へて有ること無き至徳に非ざるや。

7或(あるひと)曰く「勝國の主、其の優崇(ユウスウ)安肆(アンシ)を極むれば、未だ必ずしも意外の變を生ぜざることなし。遏抑(アツヨク)し以て民望を絶たば奚如(いかん)」と。斯(かか)る論や、予甚(はなは)だ之(これ)を小(つたな)しとす。特だ吾が徳の未だ其の大を極めざるを患(うれ)ふのみ。果して代徳(ダイトク)有らば、奚(なん)ぞ懼(おそ)れん。彼の猜防(サイボウ)囚拘(シュウコウ)の如し。人情爲(も)し不平を懐(いだ)かば、則ち末路憲(のり)とすべきこと無きにしもあらず。今吾之(これ)を崇(あが)め奉(たてまつ)らば、人心欣戴(キンタイ)に至り、福祉自(おのづ)から臻(あつま)る。主(あるじ)既に無疆(ムキョウ)の休(さいはひ)を享(う)け、吾亦た貽謀(イボウ)緜緜として終極無し。顧(かへっ)て盛んならざるや。然りと雖も未だ言ふに易(やす)からざるなり。夫(か)の獨夫の受洪(おほ)いに惟(た)だ威を作(な)し、八百諸侯或は紂伐すべし等の語を曰ふが如きは、皆周人より出る。果して信ずるに足るや。故に曰く「紂の不善、是(かく)の如くに甚しからざるなり」と。志に據(よ)れば牧野(ボクヤ)の戦、紂衆七十萬を帥(ひき)ゐ同心して敵に當る。周人苦戦し纔(わづか)に之(これ)に勝つ。故に血流れ櫓(やぐら)を漂(ただよ)はす。是れ武王未だ能く紂の死命を制せず。烏ぞ能く紂を共主と為して奉り晏然たるや。然らば則ち斯(かか)る事断じて武王の辨(わきま)ふ所に非ず。特(た)だ後世の勝朝を待(もてな)す者の為に、之が規縄(キジョウ)を立つるのみ。

8夫れ仁人の慈愛は心に根ざし、倫彝(リンイ)の際(まじはり)、肫肫(ジュンジュン)敦篤(トントク)なり。其の共主に於けるや、自(おのづ)から其の欽仰(キンギョウ)の誠を極む。智士事機を洞燭(ドウショク)し、共主に傲(おご)れば適(まさ)に自ら國脉(コクミャク)を蹙(ちぢ)むるを灼知(シャクチ)す。故に敢て卑牧(ヒボク)の禮を闕(か)かず。仁人睎(のぞ)むに易(やす)からず。而して智士夫れ人企(のぞ)むべし。後の共主に事(つか)ふる者、曷(なん)ぞ勖(つと)めて之を法(のり)とせざるや。

 

(語釈)

1居平(キョヘイ)(平素)兇悍(キョウカン)(心が悪くたけだけしい)無行(行いが悪い)曹疾(ソウシツ)(皆が憎む)憫惻(ビンソク)(あわれみ)庸庸(ヨウヨウ)(平凡な)陵虐(軽んじ、しいたげる)困蹙(コンシュク)(苦しみなやむ) 総然(手強く)軒眉(ケンビ)(眉をあげる)扼腕(ヤクワン)(残念がったり憤慨したりして、自分の腕を握りしめること)俊彦(シュンゲン)(才知が衆人よりすぐれている人。俊傑)挫辱(ザジョク)(くじきはつかしめる)削弱(サクジャク)(力や勢力を弱める)無識(ムシキ)(見識や知識のないこと)

2秦昭(秦の昭襄王。戦国時代の秦の君主。遠交近攻策をとり、白起を將として諸侯の師を破る。その在位中に秦の版図は飛躍的に拡大,列国の中で突出して強大になり,周王朝を滅亡させるに至った)

楚懐(楚の懐王)三戸亡秦(サンコボウシン)の謡(うた)(楚国がたとえ衰退してわずか三戸のみとなったとしても、必ずや秦国を滅ぼすという歌)勝廣(陳勝と呉広 秦末の農民反乱・陳勝呉広の乱のリーダー)項藉(項羽 楚の将軍の家柄を引く貴族的階層に生まれたが陳勝呉広の乱に乗じて秦に背いた。)

3昏瞀(コンボウ)(無知で事理にくらい)憸壬(センジン)(へつらう者)忠藎(チュウジン)(忠義を盡す者)稔熟(ジンジュク)(次第にたかまる)「時日(このひ)害(いつ)か喪(ほろ)びん」(書経湯誓篇の一節。夏の桀王を日になぞらえた人民が「この日はいつ亡びるであろうか」と願ったことば)暴著(バクチョ)(発覚する、露見する) 残害(ザンガイ)(傷つけ殺すこと)怨毒(エンドク)(ひどくうらみ憎むこと)駢肩(ヘンケン)(肩を並べる、並立)

4兆庶(チョウショ)(人々、民衆)怨咨(エンシ)(うらみなげく)反側(ハンソク)(そむくこと。寝返ること)三紀(三十六年、紀は十二年)沖主(幼い君主 武王の子成王は幼年で即位したので叔父の周公旦が摂政となり補佐した)暁諭(ギョウユ)(言い聞かせる)、繹騒(エキソウ)(絶え間なく騒がしいこと)  多方・多士(ともに書経・周書の篇名。周公の業績を記載している)武(武王)  喧閧(ケンコウ)(やかましくさわぐ)勝國(滅ぼされた前代の王国)撊然(カンゼン)(怒って)郅隆(シツリュウ)(隆盛)頑民(ガンミン)(かたくなで新しい制度や政治に従わない民)馴服(ジュンプク)(なれ従う)寝衰(シンスイ)(次第に弱る)厲宣(厲王と宣王。厲王:周の第十代王。臣下の諫言を聴かず,批判する者を密告させて次々に殺害するなど暴虐だったとされ,ついには離反した諸侯に襲撃されて彘へと出奔し政権の座に戻ることなくその地で没したという 宣王:厲王の子.周の中興の君主とされるが.魯の武公の後継問題に干渉して諸侯の不満を引き起こし,姜戎と戦って敗北するなど,治世末期は衰退の兆がみられた) 赧(タン)(赧王。周の最後の王)弾丸(狭い土地の喩え)臣附(シンプ)(臣として歸服する)責備(完全を求めること)

5天経地義(天が常を得、地が宜しきを得る道。轉じて、正當不易の道理)萬萬(全く)辞(ことば)(言い訳)海寓(天下)寰區(天下)宗祏(ソウセキ)(宗廟に在つて、位牌を藏する石室)血食(いけにえの動物を供えて先祖の霊を祭ること。子孫が続いて先祖の祭りを絶やさないこと)敷治(フチ)(治めること 政治)勦絶(ソウゼツ)(滅ぼしつくすこと。皆殺しにすること) 先子(亡父古賀精里)韶武(ショウブ)(舜帝の音楽と周の武王の音楽 論語八佾篇 『子、韶を謂はく「美を尽し、又善を尽せり」と。武を謂はく「美を尽せども、未だ善を尽さざるなり」と。』禅譲で天下を得た舜の音楽には平和の気がみなぎっているが、武力で天下を取った武王の音楽は美をつくしているが善をつくしていないとしている。)夷齊(イセイ)(周の賢人伯夷・叔齊の兄弟 2人は周の西伯(周文王)が老人をよく養うと聞いてそのもとへ行ったが,西伯はすでに死去しており,その子周武王が殷紂王を伐とうとしていた.2人は,父が死んで葬らないうちに戦争することは孝ではなく,臣下でありながら君を弑すのは仁ではないと諫めたが聞き入れられなかった.殷の滅亡後には周を宗とすることを恥じ,周の穀物を食べることを拒否して首陽山に隠れ,蕨(を採って生活し,とうとう餓死した)泰伯(タイハク)(周の人.周太王(周古公亶父)の長子,仲雍と季歴の兄.伝説によると,季歴は賢であり,太王は季歴とその子の昌(後の周文王)に王位を伝えたいと思った.そこで太伯は,仲雍と共に荊蛮の地に出奔し,入れ墨断髪し,周の人として用いられないことを示して季歴に譲った.)古河公方(鎌倉公方の足利氏五代の成氏が、下総国古河に移り住んでからの称。成氏は関東管領上杉憲忠を殺したため幕府軍に攻められ、康正元年(一四五五)に鎌倉を追われ古河に走った。以後、成氏・政氏・高基・晴氏・義氏の五代にわたって古河公方を称したが、次第に勢力は衰退し、わずかに足利家の支流としての格式の高さでその地位を保っていたが、天正十一年(一五八三)、義氏の病死によって断絶した)至論(道理にかなった論)

6親離(シンリ)(親族のものがそむきはなれる)百里(百里四方の国、公侯の国)膏腴(コウユ)の地(肥沃な土地)宮室(宮殿)田猟(デンリョウ)(狩猟、狩り)遊豫(ユウヨ)(遊び楽しむ)極則(キョクソク)(最高の規範。またこれ以上にない方法)

7優崇(ユウスウ)(優遇したつとぶ)安肆(アンシ)(気まま勝手に生活し、安逸に流れること)遏抑(アツヨク)(抑える、抑圧する)代徳(ダイトク)(代わって天下を治める徳)猜防(サイボウ)(疑って警戒すること)囚拘(シュウコウ)(とらえる。とらわれる。又、囚人の拘束)末路(一生の最後。晩年)欣戴(キンタイ)(よろこんで推しいただく)福祉(幸福)無疆(ムキョウ)(かぎりない、無限)貽謀(イボウ)(子孫のためにのこしたはかりごと)獨夫の受(殷の紂王。受は紂王の名 獨夫は匹夫の意味)「紂の不善、是(かく)の如くに甚しからざるなり」(論語子張篇の子貢の言葉)志(歴史書)牧野(ボクヤ)(周の武王が殷の紂王を伐つた所)共主(臣下が合意して戴いた主君、天下一統のために臣下が推戴した天子)規縄(キジョウ)(基準、手本)

8倫彝(リンイ)(人の道)肫肫(ジュンジュン)(ねんごろ、親切)敦篤(トントク)(人情があついこと)欽仰(キンギョウ)(尊敬し慕うこと)事機(物事をおこなう好機)洞燭(ドウショク)(明るく照らし出す 明察する)國脉(コクミャク)(国の命運)卑牧(ヒボク)(謙遜して自己の德を養ふ)

 

(漢文)

1有人乎茲焉、居平兇悍無行、衆所曹疾、猶未至祈其亡而欲其死、乃不堪一朝之恚、立打殺之、衆必生憫惻之心、矧人庸庸之徒、未有大罪可顕攻、而吾乃陵虐之、困蹙之、則衆之怨憤、総然萃乎我、方且軒眉扼腕、赴其人之急、而其人之凡焉、直推爲一時俊彦、是勢之必至也、天下咸知挫辱之削弱之之爲抑、而不知秖啓其張興之端、無識甚矣、

2昔秦昭與楚懐約好、會于武関、誘執之、遂客死于秦、秦帰其喪、楚人憐之、如悲親戚、諸侯由是不直秦、至有三戸亡秦之謡、卒之起兵夷秦者、勝廣項藉之倫、皆楚人也、

3夫懐王之昏瞀頑劣、信憸壬而棄忠藎、六國諸王之最下者也、使之在位緜久、其悪稔熟、民未必無時日害喪之心、特以及其罪未甚暴著、而秦行残害也、怨毒之報、至殲其後裔而靡遺、噫可畏也已、然此猶駢肩之國也、倘在所臣事則當何如、予因有深感於三代之季焉、

4殷紂失道、兆庶怨咨、周武討而代之、既克殷、殷民反側不靖、幾三紀、周公輔沖主、諄々暁諭、財得不致繹騒、観多方多士所陳、周公之苦心極矣、於是乎後儒有武非聖之諭、則又有非武非聖之論、二論喧閧、未帰乎一、夫武之爲聖與否、未遑折衷、然継勝國、有天下、而致人情撊然不服、是徳不足以代之也、徳不足以代之、而蚤涖天下、是以郅隆之日、僅僅不過四十載、比頑民之馴服、而周寝衰、名雖曰八百禩、厲宣而還、下儕乎諸侯、不足道也、降乎赧、先王之澤已竭、以弾丸之地、摂乎數大國之間、遂為秦所滅、不啻山之壓卵、而周民盡東亡、不肯臣附乎秦、其民未悦服、而秦以力取之、秖足以失民心而促國亡、雖然秦虎狼之國、其穫罪乎天人者非一、固不足誅、武王大徳之君、其所以待殷紂、似猶未盡其道、此正可以責備之論砭之耳、

5夫君臣之道、天経地義、為人倫之至重、紂雖暴主也、武雖至仁臣也、以臣伐主、萬萬不得已之事、待其悪盈民離、然後伐之、亦有辞于天下、今也當天命未革、人心懐不服之際、遽代之、豈非所謂不盡善者耶、借使尭舜丁斯時、必不遽興斯擧、果擧乎、海寓心服、断無殷頑之憂、或彼民自来帰于我、不労干戈、不可知也、顧律以至道、則又有不止乎此者焉、天子果戻虐不道、流毒寰區、宗祏殆絶血食、則諸侯不得不代之敷治、勢既至此、手握四海大柄固也、然天子則予所夙崇戴、本心固有不忍勦絶者、在事勢、又有不當殄滅者、先子嘗曰、吾観夫子評韶武、屡称夷齊、取泰伯、文王、必不満於武王、夫子之大徳、生殷周之際、断不得不革命、然亦必存殷室、微猶如古河公方而推戴之、良至論也、

6予謂紂業已長悪靡悛、親離民散、武王何妨黜殷自王、惟當封紂百里、都中州膏腴之地、宮室食飲裳服之盛、無少替其舊、田猟遊豫之娯、惟意所欲、雖委大政於周、而依然享南面之王楽、周世世如之、斯為仁之盡、忠之盛、人倫之極則、豈非盤古以降絶無有之至徳耶、

7或曰勝國之主、極其優崇安肆、未必不生意外之變、奚如遏抑以絶民望、斯論也、予甚小之、特患吾徳未極其大耳、果有代徳、奚懼焉、彼猜防如囚拘、人情爲懐不平、則末路不無可憲、今吾崇奉之、至人心欣戴、福祉自臻、主既享無疆之休、吾亦貽謀緜緜無終極、顧不盛歟、雖然未易言也、如夫獨夫受洪惟作威、八百諸侯或曰、紂可伐等語、皆出於周人、果足信乎、故曰、紂之不善、不如是之甚也、據志牧野之戦、紂帥衆七十萬、同心當敵、周人苦戦纔勝之、故血流漂櫓、是武王未能制紂死命、烏能奉紂為共主而晏然乎、然則斯事断非武王所辨、特爲後世待勝朝者、立之規縄耳、

8夫仁人慈愛根乎心、倫彝之際、肫肫敦篤、其於共主、自極其欽仰之誠、智士洞燭事機、灼知傲共主適自蹙國脉、故不敢闕卑牧之禮、仁人不易睎、而智士夫人可企、後之事共主者、曷不勖而法之、

 

 

侗庵新論 第百六

(要約)

・家康公を祀った日光東照宮を徳川家以降も永続させる策を家光から問われた知恵者の島田利正は、滅亡した豊臣家の廟を修築することを提案したが受け入れられなかった。これに対し清の康熙帝は滅亡した明の太祖の墓を自ら参拝し手厚く保護することで民を感激させ、清の大業の基礎を成したと評価されており、家光公より勝っているようにも見える。しかし家光公の時代はまだ豊臣家の恩顧を被った大名が存在しており、豊臣家の廟を修築すれば反乱の契機となりかねなかったのに対し、清は封建制ではなく中央集権制なので滅亡した前の王朝の諸侯が存続していること自体が有り得ず、そのうえ康熙帝の時代には清の安定期に入っており反抗する者が見当たらなかった。康熙帝が家光公の立場であれば豊臣家の廟の修築を許さなかったであろう。正しい政策であっても実施すべき時期をよく見なければならないのである。

 

(現代語訳)

1徳川家光公は世にまれな名君である。家康公を天のように崇め奉り、その偉業を受け継ぎ発展させることに熱心に取り組まれた。既に日光に東照宮を造営したが、それは巨大かつ美麗であり神威を遠く四方に輝かせていた。ある日群臣を江戸城に集めて、老中に上意をこう告げさせた。「私の願いは家康公の廟が永遠に廃れることが無いようにすることだ。それはどうすれば実現できるだろうか」と。皆目を見開いて一言も言葉を発するものはいなかった。その時島田利正が進みて出てこう言った。「今日ただ太閤殿下の廟を修復すれば家康公の廟も千年間無事を保つことができましょう」と。皆これには驚いたが、家光公はこう言われた。「攻め滅ぼされた国の廟は朽ち果てるに任せ、修繕しないのが古来からの決まりである。豊国廟を何で修築する必要があろうか」と。こうして島田利正の案は取り入れられることはなかった。利正は多くの人々の中でただ一人こうした率直で刺激的な言葉を発するとは優れた人物といえる。しかし結局明君の決定を覆すことができなかったのにはそれなりの理由があったのである。

2家康公はすぐれた武徳により豊臣氏に代り天下を取った。しかし当時の大名で太閤の恩顧を受けなかった者はおらず、中には家康公と等しく肩を並べる者もいた。家康・秀忠・家光の三代の君主が深い思いやりと徳により恩恵を与えても彼らの心はなお豊臣氏の恩義を忘れるには至らなかった。こんな時に豊国廟を一新して追慕の情を勢いづかせれば、不穏な動きをする者が出るかもしれない。だから豊国廟が廃れてゆくのを不問に付すのはかえって思いやりある人の心配りなのである。大阪城が落城した時に、金色の幣を豊国廟に奉納した者は数えきれないほどいた。廟を守る役人がこのことを詳しく報告すると家康公はこう言われた。「これは太閤に領地を与えられた大名が供えたに違いない。そもそも人は智・仁・勇の三つの徳を全て備えてはじめて神の称号を与えられるのにふさわしいのに、太閤は一つも備えていない。何で神の称号を勝手に称えて許されようか」と。そして遺像の冠服をはぎ取り、その廟を破壊することを命じた。秀吉の正室高台院が哀願して、やっとすぐには壊さず自然に崩れるのに任せること許した。家康公ほど仁愛の深い人物が何で敗者に対してこれほどむごいのか。それは罪を犯す人が増加するのを恐れて、予め発生を防止するためである。

3家光公の心は家康公の心と同じである。もしさらに数十年が経って、大名の中に豊臣氏の恩顧を被った者が全く存在しなくなり、徳川家による恩恵が武士にも庶民にも行き渡り皆心変わりしないようになった際に島田利正がこの言葉を述べれば、家光公ほどの思いやりと賢明さがあれば、必ずしも受け入れられなくはなかっただろう。惜しいことに、まだこれを言うべき時ではなかったということだ。

4しかしながら島田利正の言葉は理をつくしたとはいえない。彼が豊国廟の修繕を求めたのは、それによって次世代の君主を感化し、日光東照宮を代々にわたって維持させようとしたからであるが、これは目先の利害・損得について論じているだけで、正しい道には到達していない。昔から王朝を開いた君主で前の王朝を敵視した者はいない。ましてや家康公は長久手の戦いに勝って後しばらくして太閤と講和し、太閤に臣従するようになった。太閤からは厚遇され、また太閤の妹の朝日姫を正室に迎え入れたのだから、豊臣家との関係を軽んじてよいわけがない。こうした経緯をすべて踏まえたうえで家光公に上申すれば、必ず心に響いたことであろう。島田利正にはまだ不十分な所があったということだ。

5清の康熙二十三年に康熙帝は明の太祖の陵を自ら参拝した。参道の脇を通って行き、お付きの者や家臣に命じて、皆門の前で下馬させた。皇帝は三跪九叩頭の礼を行い、宝蔵の前に参詣し三献の礼を行った。退出のときもまた参道の脇を通って行った。陵墓を管理する宦官や陵を守る役人らに与える褒美には功績に応じて差をつけた。薪を取ること禁止するように指示し、地方官には厳しく巡察するように命じた。村の老人でこれに従って見ていたものは数万人いたが、みな感激して泣いていた。総督の王新命は石を刻んでこの事を記録した。その後自ら参拝したのは一度に止まらず、使者を派遣して毎年供え物をささげることを止めることはなかった。康熙帝が前の朝廷を崇敬することはこれほどまでだったのである。

6そして陵や廟を一新し廃れることがないようにさせたのは言うまでもない。このため清の論者はこれを古今に無い偉大な事業として称え、清の長年の大事業はこれを基に始まったと評価している。私は心を静めて公平に考えてみると、清の政治や法律は残酷であり、その風習は反抗的で強情であって、はるかにわが国に及ばない。それなのにこの一事だけが勝っているように見える。これは当然康熙帝の見識と度量が優れていたことに原因があるが、しかし以下に述べるように国体が全く異なることも考えるべきである。清の制度は中央集権の郡県制で封建制ではない。だから前の王朝の諸侯の領国がわずかでも残っているなどということは無い。清の初期の太祖、太宗、世祖の三皇帝は、明の人民千数百万人を殺して天下を取り、力で脅し威嚇で制圧した。これに対し人々は何もできなかった。康熙帝の中期から後期の世の中を見回してみると、恐れるに足るようなことは何一つなく、自分のやろうとすることに対し妨げになるようなことも見当たらなかった。もし康熙帝がわが国に生まれて豊臣家やその恩顧の大名が多数いる時に当たったならば、断じてこんなことはできなかっただろう。清朝と徳川家とでは情勢が異なっており、家光公と康熙帝に徳の優劣があったわけではないとわかる。

7清が明を滅ぼすと、清に抵抗した者は忠臣や信念を貫いた人物であってもたちどころに捕まえて殺した。一方で恥知らずにも服従した者には官位や褒美を与えてその身を輝かせた。つまり南北朝時代の褚淵(チョエン)や五代十国時代の馮道(フウドウ)のように二王朝に仕える恥知らずの大臣が前代以上に厚遇され、少しも非難されることもなかった。しかし更に四五代を経て、雍正帝や乾隆帝の時代になると始めて名誉や忠節を重んじるようになり、朱子学の華夷思想により清への忠節を否定した呂留良(リョリュウリョウ)や明に仕えながらその滅亡後は清に仕えた錢謙益(センケンエキ)などは始めて天下の重罪人とされた。この措置は大いに人々の不満を呼び起こした。しかしこれは時宜を得た適切な判断であり、英主の計略と言っても良いものである。清は異民族でありながら中国の土地を占領しているので、中国の人々はもともと深い恨みの感情を抱いており、競って命を投げ出すことを思い武力に反抗する者が澤の雑草のように多数いた。

8もし清朝が更に名誉や道義を重んじていたならば、明の人民の苦しくても信念を貫こうとする態度はますます激しくなり、清に屈しようとしなくなる。そうするとどうしても国内の人民を殺し尽くさなければ終わらなくなっただろう。それゆえ清の君主は残酷で乱暴ではあっても、王朝の始めのうちは明の旧臣に忠義や信念を求めるようなことはせず、務めてこれを招聘した。孫や子である雍正帝や乾隆帝の代になるのを待って、儒教の教えを重視するようになったことは思いやりと知恵のある措置と言えなくもない。だから天下の正しい政策であっても、時を見て実施すべきであり、そうしなければ必ず障害があって実施し難いだろう。これゆえ前の王朝の廟の修造にも自ずから適切な時期があることがわかるはずである。

(読み下し文)

1大猷大君、希世の英辟(エイヘキ)なり。其の烈祖を崇仰すること天の如し。孶孶(シシ)として紹述(ショウジュツ)するを以て務めと為す。既に日光山に大廟を営造し、其れ鉅麗(キョレイ)を極め、以て神威を四遐(シカ)に耀(かがや)かす。一日群臣を朝に會(あつ)め、大臣に宣旨せしめて曰く、「吾が意願はくば烈祖の廟をして千萬世に廃毀靡(な)からしめん。其の策如何にして可なるや」と。衆(みな)瞠目し敢(あへ)て片言を發するもの莫(な)し。島田幽也(ユウヤ)、進みて言ひて曰く「今日惟だ豊太閤廟を修葺(シュウシュウ)せば則ち烈祖の廟、以て千載虞(おそ)れ無きを保つべし」と。衆(みな)之(これ)に愕爾と為す。大猷大君曰く「勝國(ショウコク)の廟、其の壊堕(カイダ)に任せ、復た補理(ホリ)せざるを古(いにしへ)の法も然りと為す。豊國廟安(いづくん)ぞ再修すべきや」と。遂に聴用(チョウヨウ)せられず。幽也稠衆(チュウシュウ)中に在りて、獨り克(よ)く斯る伉直(コウチョク)激觸(ゲキショク)の言を吐くは奇士と称するに足る。顧(おも)ふに終(つひ)に英主の聴(さば)きを能く動かさざるは、是れ故(ゆゑ)有るなり。

2烈祖神武を以て豊臣氏に代り天下を有す。而して並時列侯、豊太閤の恩眷(オンケン)を蒙らざる者莫(な)く、間に烈祖と肩を騈ぶる等夷の人有り。祖宗三世、深仁厚徳を以て之(これ)を涵煦(カンク)すれど彼の心猶ほ未だ豊臣氏の私恩を全て忘るるに至らず。爾時(このとき)に當り豊國廟を一新し以て追慕の情を鼓舞せば、或は蠢動(シュンドウ)し靖(つつし)まざる者出るに致らん。則ち其の豊國廟の廃墜に於て不問に附するは、乃(すなは)ち仁人の設心なり。浪華城陥る日、金幣を豊國廟に奠(たてまつ)る者何人かを知らず、雑然と無數なり。守廟吏具(つぶさ)に聞こえさせば、烈祖曰く「此れ必ず太閤封ずる所の諸侯之(これ)を供ふなり。夫れ人必ず智仁勇の三徳を全て備へ、然る後に神明の號に膺(あた)るべし。太閤未だ一つも有らず。奚(いづくん)ぞ其の冒称(ボウショウ)を容るるや」と。遺像の冠服を褫(は)ぎ、其廟を隳(こは)せしむ。高臺夫人哀籲(アイユ)し、方に始めて其の壊(やぶ)れ塌(くづ)るるに任せて即(ただ)ちに毀(こは)さざるを許す。烈祖の至仁を以て何ぞ乃(すなは)ち勝國に於て此(かく)の如くに忍(むご)きか。洵(まこと)に其の嬰罪(エイザイ)の人を滋生(ジッセイ)するを恐れて豫(あらかじ)め未だ萌(きざ)さざるを杜(ふさ)ぐなり。

3大猷大君の心、即ち烈祖の心なり。借令(もし)更に数十禩の久しきを閲(けみ)し、諸侯に豊臣氏の豢養(カンヨウ)を蒙る者復た存せず、祖宗の惠澤既に士民の心を一定靡貳(ビニ)に浹(うるほ)し、斯(こ)の際に幽也此の言を陳べば、大猷大君の仁明を以てすれば、未だ必ずしも石を水に投ずるが如くにならざることなし。惜しかるかな、未だ之(これ)を言ふべき時に値(あ)はざるなり。

4然りと雖(いへど)も幽也の言、亦た未だ理を盡(つく)さず。彼其の豊國廟を修造するを請ふは、将(まさ)に此れを以て代興(ダイコウ)の君を感化し、世世に烈祖廟を営葺せしめんとす。纔(わづか)に利害を以て論じ、未だ至當の道に及ばざるなり。古来開創の君、未だ勝朝を仇視(キュウシ)する者有らず。矧(いはん)や烈祖長湫(ながくて)に捷(かち)を奏し、尋(ついで)太閤と媾(コウ)し、遂(つひ)に順(したが)ひ之(これ)に事(つか)ふ。其の厚遇を蒙(かうむ)り、又南明夫人の于帰(ウキ)を有し、蔑棄(ベツキ)すべきに非ず。悉(ことごと)く斯(かか)る理を備へ、以て大猷大君に入告(ニュウコク)せば、未だ必ずしも其の心に犂然(リゼン)たらざることなし。幽也猶ほ未だ達せざる所有るなり。

5清の康熙二十三年、聖祖明の太祖の孝陵を親謁す。甬道(ヨウドウ)の旁(かたはら)に由り行き、扈従(コジュウ)・諸臣を諭(さと)し、皆門に於て下馬す。上は三跪九叩頭の禮を行ひ、寶藏前に詣で、三獻の禮を行ふ。出て復(ま)た甬道(ヨウドウ)の旁(かたはら)に由(よ)り行き、守陵内監及び陵戸の人等に齎(あた)ふ賞に差有り。樵採(ショウサイ)を禁ずべく諭(つ)げ、地方官に厳しく巡察を加ふるを命ず。父老従ひ観る者数萬人、皆感泣す。総督王新命石を刻み事を紀(しる)す。嗣後親謁すること一に非ず。使ひを遣はし奠(テン)を致すこと年々替(や)むこと勿(な)し。其の崇敬此(かく)の如し。

6則ち陵廟を一新し壊隳(カイキ)せしめざるは又言を待たず。故に清の論者、以て古今未だ有らざる盛擧と為して称へ、又以て清の億萬載の丕業(ヒギョウ)此れに由(よ)ると為すなり。予、心を静め夷考(イコウ)すれば、清の政法峻酷にして風習忮懻(シキ)し、迥(はるか)に本邦に及ばず。獨(た)だ是の一擧のみ則ち勝るに似る。此れ固(もと)より聖祖識度(シキド)の卓出に由(よ)る。而して左に當(まさ)に國体の絶へて殊(こと)なるを察すべきのみ。清制郡縣にて封建に非ず。未だ始めから勝國の邦の僅(わづか)に存(のこ)ること有らず。太祖・太宗・世祖の三世、明の生霊(セイレイ)千有餘萬を屠僇(トリク)して天下を取り、力で脅し威で制す。士民敢て蠕動(ゼンドウ)せず。聖祖中季に寰區(カンク)を四顧すれば一つとして畏れ憚るに足るもの無し。惟だ吾爲さんと欲する所に何の窒礙(チツガイ)や有る。試(こころみ)みに使(も)し聖祖本邦に生れ、勝朝諸侯林立の日に丁(あた)らば、断じて斯(かか)る事を行ふ能はず。其の勢ひの同じからず、徳に優と劣と有るに非ざるを知るべきなり。

7清の明を滅ぼすや、其の我に抗(あらが)ふ者は藎臣(ジンシン)烈士と雖も、立(たちどころ)に捽(つか)みて之(これ)を戮(ころ)す。其の靦顔(テンガン)にして服従する者には寵秩(チョウチツ)し賚(ライ)を錫(あた)へ厥(その)躯(み)を煜耀(イクヨウ)す。即ち二姓に歴事する大臣、褚淵(チョエン)・馮道(フウドウ)の如きの亡耻(ボウチ)、榮遇(エイグウ)前代を軼(す)ぎ、少しも譙譴(ショウケン)を被らず。更に四五世を閲(けみ)し、雍正・乾隆に迄(いた)り始めて、名節を激揚し、而(すなは)ち呂留良(リョリュウリョウ)、錢謙益(センケンエキ)の輩、始めて天下の重犯と為る。此の擧大いに人意を満たさず。然れども其れ時を揆(はか)り宜しきを裁き、猶ほ英主の權(はかりごと)に庶(ちか)し。清膻臊(センソウ)なるを以て中州を竊據(セッキョ)す。中州士民、固(もと)より已(すで)に深く憤惋(フンワン)を抱き、競ひて喪元(ソウゲン)糜躯(ビク)を思ひ、以て其の鋒(ほこさき)に攖(ふ)れ反く者澤(さわ)の蕉(ショウ)の如く然り。

8若使(もし)更に名義を崇尚せば、則ち其の苦節益(ますます)甚しく、撊然(カンゼン)と下に屈せず、勢ひ海内士庶の殄戮を盡さざれば止まず。故に清主酷暴と雖も、而(すなは)ち其の始めは節烈を責(もと)めず務めて之を招来す。後代の孫子を待ち、方(まさ)に名教を大重とするは、亦た仁智の擧為るを失はず。然れば則ち天下至當の擧なれど猶ほ且つ時を相(み)て施し、方(まさ)に行ふべし。然らざれば必ず障(さは)り閼(ふさ)ぐ所有り通り難し。此れ以て勝朝遺廟の修造に自(おのづ)から其の時有るを悟るべし。

 

(語釈)

1大猷大君(徳川家光)英辟(エイヘキ)(明君)孶孶(シシ)(つとめはげむさま)紹述(ショウジュツ)(先人の業を受け継いで、それに従って行うこと)鉅麗(キョレイ)(すぐれて大きく美しいこと)四遐(シカ)(四方の極遠の地)、島田幽也(ユウヤ)(島田利正、旗本。江戸町奉行を務めた。知恵で知られ多くの逸話が残る)修葺(シュウシュウ)(修繕)勝國(ショウコク)(攻めほろぼされた国。亡国)壊堕(カイダ)(こわれ落ちる)補理(ホリ)(修理)聴用(チョウヨウ)(聞きいれて採用すること)稠衆(チュウシュウ)(多くの人の寄り集まり)伉直(コウチョク)(義理を曲げず正直なこと)激觸(ゲキショク)(刺激的)

2並時(同時代)恩眷(オンケン)(恩顧)等夷(同じ地位にあるなかま。同輩)涵煦(カンク)(恩恵を施し養う)鼓舞(勢いづけること)蠢動(シュンドウ)(うごめく)設心(心を用ひる。心をくばる)冒称(ボウショウ)(勝手に他の姓や名称をなのること、詐称)高臺夫人(高台院、秀吉正室おね)哀籲(アイユ)(哀願)嬰罪(エイザイ)(罪にふれる)滋生(ジッセイ)(繁殖する. 増加する、引き起こす)

3豢養(カンヨウ)(養うこと)一定靡貳(ビニ)(一定不変)石を水に投ずるが如く(受け入れて反発しないたとえ)

4代興(ダイコウ)(かわるがわる興る、次々に興る)世世(代々)営葺(修理、修繕)勝朝(前の王朝)仇視(キュウシ)(敵視)尋(ついで)(まもなく)媾(コウ)(講和)南明夫人(朝日姫 秀吉の異父妹)于帰(ウキ)(嫁に行くこと とつぐこと)蔑棄(ベツキ)(あなどりすてる)入告(ニュウコク)(事を上聞する 申し上げる)犂然(リゼン)(心にひびくさま、ふるえおののくさま。ぞくぞくするさま)。

5康熙二十三年(1684年)聖祖(清の第四代皇帝康熙帝)孝陵(明の太祖の陵)親謁(皇帝がみずから参拝すること)甬道(ヨウドウ)(中庭や墓地などのれんがや石畳の小道)扈従(コジュウ)(お付きの者)守陵内監(帝室の陵墓や廟・壇を維持管理を担う宦官)陵戸(天子の陵を守る者)樵採(ショウサイ)(薪をとること)父老(村里のおもだった年寄り、長老)奠(テン)(酒食を神・祖先に供えて祭ること)

6壊隳(カイキ)(やぶれこわれる)丕業(ヒギョウ)(大事業)夷考(イコウ)(公平に考察すること)忮懻(シキ)(強くもとる 反抗的で強情)識度(シキド)(見識と度量。物の考え方がすぐれ、心が広い)邦(諸侯の領地)太祖(清の初代皇帝ヌルハチ)太宗(第二代皇帝ホンタイジ)世祖(第三代順治帝)生霊(セイレイ)(たみ。人民)屠僇(トリク)(殺害)蠕動(ゼンドウ)(うごめく)中季(中期から末期)寰區(カンク)(天下)窒礙(チツガイ)(障害)

7藎臣(ジンシン)(忠臣)烈士(信念を貫きとおす男子)靦顔(テンガン)(羞耻のない顔つき。厚顏)寵秩(チョウチツ)(愛して官秩を授ける) 賚(ライ)(賜物) 煜耀(イクヨウ)(明らかにかがやく) 二姓(二つの王朝)歴事(二代以上の君主につかえる)褚淵(チョエン)(南朝の宋・斉の二代にわたって仕えた政治家。宋の明帝の遺詔を受けた重臣であったが、蕭道成が帝位を簒奪し斉を開国するのを助け、齊でも重臣の地位を占めた)馮道(フウドウ)(五代十国時代の政治家。五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった)亡耻(ボウチ)(恥知らず)、榮遇(エイグウ)(名誉ある待遇。光栄ある境遇)譙譴(ショウケン)(せめとがめ 非難)雍正(清第五代皇帝。雍正帝は,華夷の弁別に厳しかった朱熹や呂留良の思想に忠実であった曾静の謀反画策が発覚したのを契機に,漢民族のなかに満王朝の支配に反対する民族意識がなお根強く存在することを知った。そこで曾静を逮捕して訊問し,その主張に逐一論駁を加えて,みずからの支配の正当性を主張するとともに,この論駁の経過,それに関連する上諭,曾静の転向声明を併せて「大義覚迷録」とし,思想教化の道具とした) 乾隆(清代六代皇帝。乾隆帝統治時の社会情勢は清の初期と大きく異なり、明末に清の侵攻に抵抗し続けた人物を「忠臣」と評価することに対し、率先に清に帰降した、いわゆる清の建国の有功者を、二朝に仕えた節操のない臣、すなわち弐臣と評価するようになった。乾隆帝の時代には「弐臣」をテーマした清の正史である弐臣伝が編纂された)名節(名誉と忠節)激揚(はげしく天下に広める)呂留良(リョリュウリョウ)(明末清初期の思想家,朱子学者.明の滅亡後,清朝に出仕することを拒み再三の招聘にも応じず在野での講学,著述や出版事業に専念した.朱子学を教条主義的に理解し,政治論では,復古的な理想主義に依拠して井田・封建の制の復活や華夷の別を唱え,中央集権的な専制王朝体制を鋭く批判した.その没後に,彼の教説に私淑した曽静が,清朝打倒の謀反を企図して発覚したため,彼の所説は危険視され,その墓は暴かれ,著述は禁書とされた)、錢謙益(センケンエキ)(明末・清初の学者,詩人。明の滅亡後,一時南京の福王を擁立したが,清軍に降伏して,これに仕えた。そのため,彼の死後,乾隆帝は2朝に仕えた不忠の臣として非難し,その著書をすべて禁止した)膻臊(センソウ)(生臭い、異民族のこと)竊據(セッキョ)(土地を占據する)憤惋(フンワン)(いきどほりうらむこと)喪元(ソウゲン)(首を失う。殺される。元は頭)糜躯(ビク)(身を粉にしてつくす)蕉(ショウ)(雑草)

8名義(名譽と道義)苦節(逆境にあっても、自分の信念や態度を固く守りとおす心)撊然(カンゼン)(怒って)大重(大きく重い任務。重大な責任。大任)

 

(漢文)

1大猷大君、希世英辟也、其崇仰烈祖如天、孶孶以紹述爲務、既営造日光山大廟、極其鉅麗、以耀神威于四遐、一日會群臣于朝、使大臣宣旨曰、吾意願使烈祖之廟、千萬世靡廃毀、其策如何而可也、衆瞠目莫敢發片言、島田幽也、進而言曰、今日惟修葺豊太閤廟、則烈祖之廟、可以保千載無虞、衆爲之愕爾、大猷大君曰、勝國之廟、任其壊堕、不復補理、古之法為然、豊國廟安可再修、遂不見聴用、幽也在稠衆中、獨克吐斯伉直激觸之言、足称奇士、顧終不能動英主聴者、是有故也、

2烈祖以神武、代豊臣氏有天下、而並時列侯、莫非蒙豊太閤恩眷者、間有與烈祖騈肩等夷之人、祖宗三世、以深仁厚徳涵煦之、而彼之心猶未至全忘豊臣氏私恩、當爾時、一新豊國廟、以鼓舞追慕之情、或致蠢動弗靖者出、則其附豊國廟於廃墜而不問者、乃仁人之設心也、浪華城陥日、不知何人奠金幣於豊國廟者、雑然無數、守廟吏具以聞、烈祖曰、此必太閤所封之諸侯供之也、夫人必全備智仁勇三徳、然後可膺神明之號、太閤未有一、奚容其冒称乎、令褫遺像冠服、隳其廟、高臺夫人哀籲、方始許任其壊塌、而不即毀、以烈祖之至仁、何乃忍於勝國如此、洵恐其滋生嬰罪之人、而豫杜未萌也、

3大猷大君之心、即烈祖之心也、借令更閲数十禩之久、諸侯蒙豊臣氏豢養者、不復存、祖宗之惠澤、既浹士民之心、一定靡貳、斯之際而幽也陳此言、以大猷大君之仁明、未必不如石投水、惜哉未値可言之時也、

4雖然幽也之言、亦未盡理、彼其請修造豊國廟者、将以此感化代興之君、使世世営葺烈祖廟、纔以利害論、未及至當之道也、古来開創之君、未有仇視勝朝者、矧烈祖長湫奏捷、尋與太閤媾、遂順事之、蒙其厚遇、又有南明夫人于帰、非可蔑棄、備悉斯理、以入告于大猷大君、未必不犂然乎其心、幽也有所猶未達也、

5清康熙二十三年、聖祖親謁明太祖孝陵、由甬道旁行、諭扈従諸臣、皆於門下馬、上行三跪九叩頭禮、詣寶藏前、行三獻禮、出復由甬道旁行、賞齎守陵内監及陵戸人等有差、諭禁樵採、命地方官、厳加巡察、父老従観者数萬人、皆感泣、総督王新命刻石紀事、嗣後親謁者非一、遣使致奠者、年々勿替、其崇敬如此、

6則一新陵廟不使壊隳、又不待乎言、故清論者、称以爲古今未有之盛擧、又以爲清億萬載之丕業由此也、予静心夷考、清政法峻酷、風習忮懻、迥不及本邦、獨是一擧則似勝、此固由聖祖識度之卓出、而左當察國体之絶殊耳、清制郡縣而非封建、未始有勝國邦之僅存者、太祖太宗世祖三世、屠僇明生霊千有餘萬、而取天下、力脅威制、士民不敢蠕動、聖祖中季四顧寰區、無一足畏憚、惟吾所欲爲、有何窒礙、試使聖祖生于本邦、丁勝朝諸侯林立之日、断不能行斯事、可知其勢之不同、非徳有優與劣也、

7清之滅明也、其抗我者、雖藎臣烈士、立捽而戮之、其靦顔服従者、寵秩錫賚、煜耀厥躯、即大臣歴事二姓、如褚淵馮道之亡耻、榮遇軼于前代、不少被譙譴、更閲四五世、迄雍正乾隆始、激揚名節、而呂留良、錢謙益輩、始爲天下重犯、此擧大不満人意、然其揆時裁宜、猶庶乎英主之權、清以膻臊、竊據中州、中州士民、固已深抱憤惋、競思喪元糜躯以攖其鋒、反者如澤蕉然、

8若使更崇尚名義、則其苦節益甚、撊然不屈下、勢不盡殄戮海内士庶不止、故清主雖酷暴、而其始不責節烈、務招来之、待後代孫子、方大重名教、亦不失爲仁智之擧、然則天下至當之擧、猶且相時而施方可行、不然必有所障閼難通、此可以悟勝朝遺廟之修造、自有其時矣、

侗庵新論 第百五

(要約)

儒学者は人倫や国家の政治については深く考えるべきであるが、万事について博識である必要はないし不可能でもある。博識とされた朱子でもめりはりをつけて学んでいた。しかし今の世の人々は儒学者に国家の政治や人倫については相談しないくせに儀礼や品名などに関する雑多な知識ばかりを聞いてくる。これは儒学者を軽視しているからであるが、儒学者自身も孔子や朱子の残してくれた基本に立ち返るべきであろう。

(現代語訳)

1南北朝時代の梁の陶弘景は一万巻余りの本を読み、一つでも知らない事があるのは深い耻だと言った。これほどまでに陶弘景は博識であり心がけも優れており尊敬すべき人物ではある。しかしながら実は自らの身の程を知らないのである。春秋時代の鄭の名宰相子産は晋の平公を見舞い、平公は「わしの病を占ったところを實沈と臺駘が祟っていると出たが、その意味を知りたい」と言った。子産は「實沈は天文の神、臺駘は山川の神であり、君公を害したりしません。御病気は飲食、哀楽、女色から生じたものです」と言った。平公は「博識の君子である」として子産を手厚くもてなした。春秋時代の晋の天文学者蔡墨は都の郊外に龍が現れたときに龍について説明し、学者はその博識ぶりを褒めた。当時はまだ歴史が浅く書籍もごく少なかったので、人は読書に専心すればすぐに博物だとして褒められた。つまり陶弘景のように「一つでも知らない事があるのは深い耻だ」と言っても、春秋時代であればその通りにすることは難しくなかった。しかし陶弘景の生きた南北朝時代になると書籍も次第に増え、歴史的事実も非常に多く、それらをすべて見聞し記憶することは容易ではなくなる。陶弘景の心がけは立派だが、何でそんな望みがかなえられるものか。

2神農本草経によれば防風という薬草は沙苑の川や澤、及び邯鄲・琅琊・上蔡の地でとれるとされている。しかし陶弘景は注釈で「郡県に沙苑という所は無い」と書いていた。唐の学者顔師古はこれに反論して「今でも同州沙苑の中に防風はある。ここは昔から防風がとれる土地である。そのため神農本草経にはそのことが書いてあるだけのことである」と言っている。これを見れば陶弘景は目の前の身近な物に対してさえ粗雑な誤解を免れておらず、そのほかの事についても推して知るべしであろう。更に今の世の中になると、書籍の数は昔の百倍に増加し、国の興亡の事例、品物の種類や品名もまた昔の数十倍になっている。仮に陶弘景が今の世に生きていたとしたら茫然として何も言えず途方に暮れるであろうことは言うまでも無い。あるいはもし孔子が生きていたとしても、すべてのことに用意周到に対処することなど絶対にできない。しかしながら孔子は当然はるかに別格であり、人の道のことに関しては、すべてを明らかに洞察しており、重要な古典や天下の政治についてはすべて明瞭に記憶していた。もし細々とした儀礼の祭具のことや鳥類や虫類の細目についてまで知っているなら、もちろんそれは良いことではあるが、知らないとしてもそんなことに孔子が悩むだろうか。これについて忘れたとしても、それは『中庸』に言う所の「物事の極限については聖人でも知らないことがある」ということなのだ。

3朱子の学術は深く広く、宋の時代では第二流に落ちることはなかった。宋代の書物や事跡の数は現在に比べればはるかに及ばない。しかしこれを梁代に比べれば五倍どころではない。宋代に比類のない博学者であることは当然容易なことではない。私から朱子の学識の広さを見ると、儒教の根本である詩経などの六経や大学・中庸などの四子については詳しく、諸子百家についてはあまり多くの力を費やしていない。正史については精読するが、説話や民間の歴史書についてはざっと読み漁る程度だ。不変の条理や根本について熱心に研究し、天体の運行や万物の奥深さに至るまで広く理解している。根源から末端にまで行き、近くから遠くにまで及び、精緻だが固陋に陥らず、壮大でありながらおおざっぱにはならない。これほどまでに博学で有能なのである。ゆえに貴ぶべきである。清の儒者に朱子は夏・殷・周の三代以後の孔子として推挙する者があるが、それはこのためであろう。

4今の世で博学を自任する者を私は極めて疑わしく思っている。彼らは大学・中庸などの四書や二十一史の知識についてはまるで夢のようにあやふやなのに、明や清の時代の民間小説については心を込めて探求し些末なことまでしっかり覚えている。しかし人倫の大道や国家の重要な規則・制度についてはこれを視界の外に放り投げている。これこそ浅薄の極みである。こんなものが博学と言えるものか。彼らも始めのうちは志をたてて一つでも知らないことがあるのは深い恥だと考えていた。しかし物事の軽重や優先順序を見誤り、結局このような大きな誤りに陥ってしまった。陶弘景の一言に従わなければ必ずしもこんな誤りを犯すことにはならなかっただろうに。

5そもそも今の人々の儒学者への対応はとりわけ誤っていると思う。品物の名や種類、儀式の作法やきまりの細々したことでわからないことがあると、皆すぐに儒学者に質問して、こう言う。「儒学者には一つも知らないことなどないはずだ」と。これは今の人々は孔子にすら求めることができないようなことでも儒学者であれば必ずできると思っているということであり、甚だしく倒錯している。しかもその実情を考えてみると、儒学者を尊敬する心があるわけではなく、普段から国の方針や人が守るべき道について儒学者と相談するなどということは全くない。ただこうした細々としたどうでも良いことについてだけ行って質問する。これは医者に薬について質問し、農民に耕作について相談するのと同じことで、まことに儒学者を侮蔑し軽んじているということだ。そもそも世の中の儒学者への対応はもともと極めて不適切であるが、振り返って見れば、儒学者もおのれを律するのに、孔子や朱子の残してくれた手本を自らの基準としないでよいわけがなかろう。

(読み下し文)

1梁の陶弘景、書を讀むこと萬餘巻。一事知らざれば以て深き耻と為す。夫(こ)の弘景学殖(ガクショク)の博きこと、志氣の卓(すぐ)れ邁(まさ)ること此(かく)の如し。亦た崇尚すべし。然り而して其の實、自ら涯分を揣(はか)らざるなり。子産之(これ)實沈(ジツチン)臺駘(ダイタイ)を論じ時君(ジクン)博物の君子を以て目し、蔡墨(サイボク)之(これ)龍を談(かた)り先儒其の博物を賛(ほ)むるが如く、當時世を歴(ふ)ること甚しく久しからず典籍鮮少(センショウ)なれば、人克(よ)く讀書に覃精(タンセイ)せば、立(たちどころ)に博物の誉(ほまれ)を膺(う)くべし。即ち弘景の如く一事を知らざるを以て深き耻と爲すを斯の時に施さば、又奚(いづくん)ぞ其の期する所に酬(こた)ふるに難きか。弘景の時に迄(いた)れば、則ち史籍漸く浩瀚(コウカン)たり、事迹夥够(カコウ)、覩記(トキ)易(や)すからず。弘景の志固(もと)より大いなれど、顧(かへっ)て安(いづくん)ぞ其の素望(ソボウ)に副ふを得るや。

2本草に案(よ)れば防風沙苑(サエン)の川澤、及び邯鄲(カンタン)・琅琊(ロウヤ)・上蔡(ジョウサイ)に出(い)づ。陶弘景注に云く「郡縣に沙苑なる者は無し」と。顔師古(ガンシコ)之(これ)に駁して曰く「今同州沙苑の内に猶ほ防風有り。此れ乃(すなは)ち古昔以来宜(よろ)しく出す所の土(とち)なり。故(ゆゑ)に本草之を称するのみ」と。此れを観(み)れば則ち弘景目前の邇(ちか)き物に、業已(すでに)疎舛(ソセン)を免れず。自他推すべきなり。更に今世に降(くだ)れば、則ち書籍之(これ)古より百倍に増多(ゾウタ)す。興敗の迹、名物品類の繁きこと、又古より数十倍なり。借令(たとひ)弘景今に存(あ)れども、亡論(もちろん)其れ茫々黙々として方嚮(ホウキョウ)に迷ふべし。即ち吾が孔聖而(も)し在れども、断じて遺(のこ)り靡(な)く周到たること能(あた)はざるなり。然りと雖も孔夫子則ち又自(おのづ)から迥(はるか)に別なり。理之(これ)倫彝(リンイ)に関れば、灼然と洞達(ドウタツ)せざること無く、歴代大典大政、昭昭として心に記在(キザイ)せざること無し。若し夫れ籩豆(ヘントウ)の末、禽鳥(キンチョウ)蟲豸(チュウチ)の細かきは、之を知るは固(もと)より善し。間(ママ)或は知らざれど、奚(いづくん)ぞ夫子を病(なや)ます。此に於て或は遺忘(イボウ)有るは、所謂(いはゆる)「其の至るに及びてや聖人と雖も亦た知らざる所有り」との者なり。

3朱文公の学術淵博(エンパク)にして、宋代に在りて第二流に落ちず、宋代の舊典(キュウテン)已事、尚ほ迥(はるか)に今日の浩繁(コウハン)に如(し)かず。而して諸(これ)を梁代に較(くら)ぶれば則ち啻(ただ)之(これ)に蓰(シ)するのみならず。爾時(このとき)に當(あた)り博学を以て一代に獨歩(ドクホ)たるは固(もと)より易事(イジ)に非ざるなり。予文公の博(ハク)を観るや、六経四子に於ては詳しく、諸子百家に於ては略す。正史に於ては通透(ツウトウ)し、稗説(ハイセツ)野乗は渉猟(ショウリョウ)す。大経(タイケイ)大本(タイホン)に於ては亹亹(ビビ)にして度数品物の微(ビ)に周(あまね)く達す。源(みなもと)由(よ)り委(すゑ)に之(ゆ)き、邇(ちか)き従(よ)り遐(とほ)くに曁(およ)び、精にして陋に陥らず。大にして麤(ソ)に失(ゆきすぎ)ず。博能(ハクノウ)此(かく)の若(ごと)し。故(ゆゑ)に貴ぶべし。清儒に朱子を三代而下の孔子と為して推す者有り。蓋し此れを以てなり。

4今代の博を以て自任する者、予綦(きは)めて焉(これ)を惑(うたが)ふ。四子、念一史には昧(くら)きこと其れ夢の如し。而して明清の稗家小説に於ては、心を究め探討(タントウ)し、其の牢記(ロウキ)し忘れざる所の者は、委瑣(イサ)の微事なり。而して大倫盛典、之(これ)を度外に抛(なげう)つ。此れ乃(すなは)ち弇陋(エンロウ)の極みなり。奚(なん)ぞ博と為して名づくや。彼其の始めに志を樹(た)て、亦た能(よ)く一事を知らざるを以て深き耻と爲す。而して其の緩急後先の序(つひで)を失ひ、以て斯(かか)る大謬に至る。未だ必ずしも弘景の片言に由らざれば之を誤ることなきなり。

5抑(そもそも)今人の儒先を待(もてな)す所以(ゆゑん)に尤(もっと)も乖舛(カイセン)を覚ゆ。凡そ名物儀文の細砕(サイサイ)として通暁せざること有らば、輒(すなは)ち擧(みな)以て儒に問ひて謂(いは)く「儒先に一として周知せざること無し」と。是れ孔聖に責(もと)む能はざる所を以て今人必ず能(よ)くすと以(おも)ふは傎(さかさま)なること甚(はなはだ)し。然り而して其の實を稽(かんが)ふれば、儒先を欽崇(キンシュウ)する心有るに非ず。居平國是民彝(ミンイ)、未だ始めから之(これ)と商議(ショウギ)せず。特(た)だ此等(これら)の瑣事(サジ)に於てのみ方(まさ)に始めて就(おもむ)きて焉(これ)に質(ただ)す。猶ほ之(これ)醫に薬を詢(と)ひ、農甿(ノウボウ)に耕稼(コウカ)を諮(はか)るがごとし。誠に之(これ)を賤(いやし)むなり。誠に之(これ)を軽んずなり。夫れ世の儒を待(もてな)すこと、固(もと)より大ひに其の當を失す。顧(かへりみ)れば儒の己を處すること、則ち烏(いづくん)ぞ孔聖・朱文公の遺範を以て自ら準彠(ジュンワク)と為さざるを可とするや。

(語釈)

1陶弘景(上清派道教の大成者,本草学者。南斉の下級貴族の家に生まれ,〈一事知らざればもって深恥となす〉という態度で古典や医薬学を初めとする諸科学を修め,博学をもってうたわれた。斉梁革命に際しては,〈梁〉の国号を献じて武帝の厚い信頼を得,以後国家の大事に際してはことごとく諮問にあずかったので,〈山中宰相〉とも呼ばれた)学殖(ガクショク)(学力、学識、学問の素養)志氣(こころざし、意気込み)崇尚(あがめたっとぶ)子産(春秋時代に活躍した鄭の名政治家)實沈(ジツチン)臺駘(ダイタイ)(子産が晋の平公を見舞った時に平公は「わしの病を占ったところを實沈と臺駘が祟っていると出たが、その意味を知りたい」と言った。子産は「實沈は天文の神、臺駘は山川の神であり、君公を害したりしません。御病気は飲食、哀楽、女色から生じたものです」と言った。平公は「博識の君子である」として子産を手厚くもてなした。(史記鄭世家))時君(ジクン)(その時の君主)蔡墨(サイボク)(春秋時代の晋の天文・暦法担当の官吏。都の郊外に龍が現れたときに龍について説明した)鮮少(センショウ)(わずか、ごく少ない)覃精(タンセイ)(心をこめる。専心)浩瀚(コウカン)(書物の多くあるさま)事迹(なしとげた成果。業績。事蹟)夥够(カコウ)(多い)、覩記(トキ)(見聞と記憶。見聞して記憶する)素望(ソボウ)(もとからののぞみ。平素からの切なる希望。本來の志望)

2本草(神農本草経 中国最古の本草書。著者および著作年代については不明であるが、前漢末期と推定されている。原本は伝存せず、500年ごろに陶弘景  が校定し、自注を加えて出版した『神農本草経集注』や『証類本草』中の引用文などから、その内容をうかがい知ることができる)防風(セリ科の植物。根をかぜぐすりにする。また、はまにがな)沙苑(サエン)(地名。陝西省大茘縣の南)邯鄲(カンタン)(今の河南省北部及び河北省西南部の地)顔師古(ガンシコ)(唐初の学者)疎舛(ソセン)(疎雑で誤っていること)増多(ゾウタ)(増加)興敗(興隆と衰退。興亡)名物(品物の名と種類)品類(種類)方嚮(ホウキョウ)(方向)倫彝(リンイ)(人の道)洞達(ドウタツ)(道理に深く通達すること。見通すこと)大典(たいせつな古典)大政(天下の政治)記在(キザイ)(ちゃんと覚えている)籩豆(ヘントウ)(「籩」は竹で、「豆」は木で製した器。ともに食物を盛って宴に用い、また神に供える具)禽鳥(キンチョウ)(鳥類)蟲豸(チュウチ)(虫類)間(ママ)(時々)遺忘(イボウ)(わすれる、忘却)「其の至るに及びてや聖人と雖も亦た知らざる所有り」(『中庸』第十二章にある章句)

3朱文公(朱子)淵博(エンパク)(見聞・知識が深く広い)舊典(キュウテン)(古文書。古書)已事(すんだこと。以前のこと)、浩繁(コウハン)(非常に多いさま。たくさんあるさま)蓰(シ)(五倍)獨歩(ドクホ)(他に比べるものがないほどすぐれている)博(ハク)(見聞が広いこと)六経(儒教の根本である六つの経書。易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽記)四子(四書のこと。大学、中庸、論語、孟子)略す(多くの力を費やさない)通透(ツウトウ)(精読する)稗説(ハイセツ)(物語や説話)野乗(民間の非公式の歴史書)渉猟(ショウリョウ)(ざっと読み漁る)大経(タイケイ)大本(タイホン)(不変の条理や根本)亹亹(ビビ)(熱心につとめるさま)度数(天体の運行や位置・角度)品物(万物、すべての物)微(ビ)(奥深さ)麤(ソ)(あらいこと。きめこまかでないこと。粗雑なこと)博能(ハクノウ)(博学で有能)

4念一史(二十一史、中国の正史のこと。 念は二十の俗称)探討(タントウ)(さぐりたずねる。探究)牢記(ロウキ)(固く心にしるす。しつかり覺える)委瑣(イサ)(細かい。さまつ)大倫(人のふみ行うべき道。人倫の大道)盛典(国家の重要な規則、制度)弇陋(エンロウ)(浅薄であること)

5乖舛(カイセン)(くいちがうこと)名物(品物の名と種類)儀文(儀式の作法やきまり)細砕(サイサイ)(こまごまとしていること。こまかくわずらわしいこと)欽崇(キンシュウ)(うやまひたつとぶ) 居平(普段)民彝(ミンイ)(人の守るべき常道)商議(ショウギ)(互に相談する)農甿(ノウボウ)(農民)耕稼(コウカ)(土地を耕して農作物を作ること。耕作)遺範(前人ののこした手本)準彠(ジュンワク)(基準)

 

(漢文)

1梁陶弘景讀書萬餘巻、一事不知、以爲深耻、夫弘景学殖之博、志氣之卓邁如此、亦可崇尚、然而其實不自揣涯分也、如子産之論實沈臺駘、時君目以博物君子、蔡墨之談龍、先儒賛其博物、當時歴世不甚久典籍鮮少、人克覃精於讀書、立可膺博物之誉、即如弘景一事不知以爲深耻、施於斯時、又奚難酬其所期、迄弘景時、則史籍漸浩瀚、事迹夥够、不易覩記、弘景之志固大、顧安得副其素望哉、

2案本草防風出沙苑川澤、及邯鄲琅琊上蔡、陶弘景注云、郡縣無沙苑者、顔師古駁之曰、今同州沙苑之内、猶有防風、此乃古昔以来土宜所出、故本草称之耳、観此則弘景邇於目前物、業已不免疎舛、自他可推也、更降於今世、則書籍之増多、百倍于古、興敗之迹、名物品類之繁、又数十倍於古、借令弘景存于今、亡論其茫々黙々迷於方嚮、即吾孔聖而在、断不能周到靡遺也、雖然孔夫子則又自迥別、理之関于倫彝者、灼然無不洞達、歴代大典大政、昭昭焉無不記在心、若夫籩豆之末、禽鳥蟲豸之細、知之固善、間或不知、奚病夫子、於此或有遺忘、所謂及其至也、雖聖人亦有所不知者也、

3朱文公学術淵博、在宋代不落第二流、宋代舊典已事、尚迥不如今日之浩繁、而較諸梁代、則不啻蓰之、當爾時、以博学獨歩一代、固非易事也、予観文公之博也、詳於六経四子、而略於諸子百家、通透於正史、而渉猟稗説野乗、亹亹於大経大本、而周達度数品物之微、由源之委、従邇曁遐、精而不陥於陋、大而不失於麤、博能若此、故可貴清儒有推朱子爲三代而下孔子者、蓋以此也、

4今代之以博自任者、予綦惑焉、四子念一史、昧乎其如夢、而於明清稗家小説、究心探討、其所牢記不忘者、委瑣之微事、而大倫盛典、抛之度外、此乃弇陋之極、奚名為博耶、彼其始樹志、亦能以一事不知爲深耻、而失其緩急後先之序、以至斯大謬、未必不由弘景片言誤之也、

5抑今人所以待儒先、尤覚乖舛、凡名物儀文之細砕、有不通暁、輒擧以問儒、謂儒先無一不周知、是以孔聖所不能責、今人以必能傎甚矣、然而稽其實、非有欽崇儒先之心、居平國是民彝、未始與之商議、特於此等瑣事、方始就而質焉、猶之詢薬於醫、諮耕稼於農甿、誠賤之也、誠軽之也、夫世之待儒、固大失其當矣、顧儒之處已、則烏可不以孔聖朱文公遺範、自為準彠也哉、

侗庵新論 第百四

(要約)

人の悪徳の中で驕りほどひどくまた影響の大きいものは無い。歴史上驕りにより失敗した政治家は数限りなくいる。地方の愚直で善良な人間でもひとたび驕りが発生するとありとあらゆる欠点が出てきて、かえって都会の軽薄な人間よりも救いがたい状況になる。諸葛恪や司馬冏は素直で信念を守る武将であったが、驕りにより身を滅ぼした。反対に李林甫や秦檜は邪悪な宰相であったが、注意深く驕りに陥ることを避けていたため身を全うした。驕りにより信念の士が邪悪な宰相にすら及ばない結果となるのである。

 

(現代語訳)

1人の悪徳の中で驕りよりひどくまた影響の大きいものは無い。驕りの心が一たびめばえると、学問は日に日に衰退し、芸術も日に日に浅く拙いものになってゆく。過失がどんどん高く積もり、わざわいが次々に押し寄せる。春秋時代の齊の桓公は、葵丘に諸侯を集め盟約を結ばせて覇者となったが、やがて驕りにより九か国が離反した。楚の霊王は楚の勢力を拡大したが諸侯に驕った態度を示して反乱を起こされ、ついに乾谿で殺された。唐の玄宗は朝廷内部の騒乱を治め、善政を行ったが、驕りの心が次第に大きくなり、ついには安禄山の乱を招いた。こうした過去の事件は明らかな教訓とすべきことである。ゆえに、『大学』には「自己の心を尽くして道理を尊べば民の心を得られるが、驕り高ぶり自分勝手にすれば民の心を失う」とあるし、孔子は「周公ほどの優れた才能があっても、もし人に対して驕慢で自分の誠意を出し惜しみするようなら其の他のことは見るに値しない」と言った。驕りのもたらす弊害が甚大であることが想像できる。

2現在は長い間平穏が続き、人は極めて弱弱しく軽薄になった。特に都会はそれが著しい。傑出していて世俗とはかけ離れたような人はしばらく置いて、ためしに平均的な人々について論じれば、たいてい都会の人は軽薄で、地方の人は情け深い。都会の人は口がうまく悪賢いが、地方の人は愚直である。都会の人は柔軟で円熟しているが、地方の人は荒々しく残忍である。こうした古くからの気風はなお地方の片田舎には残っているが、賑やかな都会にはかえって残っていない。しかし驕り高ぶったり大言壮語する欠点になると、都会では免れていることもあるのに、地方では決して免れることができない。

3ためしにこのことを現在の学者について見てみると、私の古くからの知り合いや亡き父の門下生は少なくないが、たいてい江戸にいれば学問はどんどん進み、将来も見えてくる。国に帰るとあっさり自らの学問に見切りをつけ、退くことはあっても進むことは無くなる。自分は偉ぶり、他人を子供以下に見下す。郷里にいればぐったりとして成功することがないような者でも、ひとたび江戸に来たら皆見聞を広げる。江戸で学ぶ者は酒色におぼれがちではあるが、ここで学ぶことは必ず長く役に立つ。このため学びに来るものが相次ぎ絶えることが無い。そもそも地方の人は誠実な心や勇気があり、これは常に都会人をはるかにしのぎ、指摘すべき欠点もないはずだが、しかし驕り高ぶりによる失敗となると都会人よりもひどい。これは世の中の人が皆不思議に思うことではあるが、原因はすでにこれに即してあることに全く気付いていないのである。

4地方の人の心は素朴だが見聞は広くない。このため既に固くこう信じている。「儒学の奥義は自分一人が知り、膨大な経書を残らず読んだのは自分以外に誰もいない」と。気性が強いため一気に真っすぐ進み、はばかることを知らない。少しでも成果があがると得意げに世間に見せびらかし、世の中に優れた学者がいても誰一人として目に入らなくなる。これは放っておけば必ず陥ることである。また地方の人の資質の良さもただその始めの頃について言えるだけで、驕りの気持ちが生まれるとあらゆる欠点が発生し、まるで洪水や土砂崩れのように救い難い状況になる。反対に都会の軽薄な人物は規範に大きく違反することはなく、これに地方の人間は及ばない。どうして慎もうとしないのだろう。

5もし若者が遊郭に夢中になっても、都会人であればなお前後の状況を考慮して刑法に触れるような事態には至らないかもしれない。しかしはるかな片田舎の人は、もともと慎み深いことで評判の者であってもひとたび遊郭に心を奪われその守りを失えば、狂気の行いや道理に反した行いをして、身を滅ぼし家族を失い父母に恥をかかせずにはいられない。つまり驕りによる失敗と道理は同じなのである。

6これを古人に照らし合わせて考えてみると、三国時代の呉の武将諸葛恪や西晋の皇族司馬冏などは、親しみやすく素直で、信念を守る人間であった。これに対して唐の玄宗皇帝の宰相であった李林甫や南宋の宰相秦檜は極めて邪悪な家臣であった。その懸け離れ具合は玉と石の違いどころではなかった。しかし諸葛恪は東興の戦いで魏に大勝して驕りの心が生まれ、翌年周囲の反対を押し切り魏に侵攻したが合肥新城の包囲を陥落させられずに敗退し、家臣や民衆の怨みを買い、ついにはかつての協力者であった孫峻の手にかかって殺された。司馬冏は皇位を簒奪して西晋皇帝となった司馬倫を打倒して国政の実権を握ったが、驕りの心が起きて国家の規律は乱れ悪政が四方に及ぶようになってしまった。ほどなくして司馬乂、司馬穎、司馬顒の三人の王により殺された。李林甫と秦檜の二人の宰相は政治権力をほとんど二十年間握っていた。ただ計画にぬかりがあれば人に乗じられて権力を失うことを恐れ、思慮を日ごとに深め、少しも驕り高ぶって人を侮る心を持つことなく、結局畳の上で死ぬことができた。つまり驕りの心が弊害を生めばそれが信念を守る人士であっても、身を全うした邪悪な家臣にすらかなわない結果となるのだ。当然恐るべきことであるが、また恥ずべきことでもある。

 

(読み下し文)

1人の凶徳、驕りより甚しく且つ大いなるは莫し。驕心一たび萌さば、則ち學日に退き、藝日に譾(あさ)く拙(つたな)し。諐失(ケンシツ)益(ますます)崇(たか)く積り、而(しか)も釁殃(キンオウ)相継ぎ騈(なら)び臻(いた)る。齊桓、葵丘(キキュウ)の會にて一たび振矜(シンキョウ)すれど叛(そむ)く者九國。楚霊諸侯に汰(おご)りを示して終(つひ)に乾谿(ケンケイ)にて弑さる。唐の明皇内難(ナイナン)を平らげ、郅治(シツチ)を成す。侈心(シシン)滋長(ジチョウ)して天寶の乱に馴致(ジュンチ)す。斯る已事(イジ)之(これ)彰灼(ショウシャク)として鑑(かんがみ)るべき者なり。故に曰く「忠信以て之(これ)を得れども、驕泰(キョウタイ)以て之(これ)を失ふ。周公の才の美有るも、使(も)し驕り且つ吝(やぶさか)ならば、其の餘は観(み)るに足らざるのみ」と。驕りの甚しき害を想ふべきなり。

2方今(ホウコン)久しく安く、人の委靡(イビ)澆浮(ギョウフ)たること極まれり。而も都會甚しきを為す。其の俊傑卓出にして俗に牽(かかは)らざる者は姑(しばら)く旃(これ)を舎(お)き、試(ため)しに中人に就(つ)き立論せば、則ち大氐(タイテイ)都會の人は軽浮、侯國の人は長厚。都會の人は儇(ケン)にして黠(カツ)、侯國の人は戇(トウ)にして慤(カク)。都會の人は軟柔円熟、侯國の人、猛奮(モウフン)鷙忍(シニン)。是の古の遺風、猶ほ侯國遐僻(カヘキ)の地に存(のこ)りて、都會の盛り、反(かへっ)て及ぶこと能はず。矜高(キョウコウ)誇詡(コク)の失(あやまち)に至れば、則ち都會或は免かるれども、侯國決して能はざるなり。

3嘗(こころみ)に之(これ)を今日の儒生に驗(ため)せば、予の知舊(チキュウ)及び先子の門下、衆(おほ)からずと為さず。大率(およむね)都下に在らば、則ち其の學駸駸(シンシン)と進み、前途望むべし。國に還(かへ)らば則ち截然(セツゼン)自ら畫(かぎ)り、退くこと有れど進むこと無し。自らを崇大(スウダイ)に處(お)き、人を視ること啻(た)だ童豎(ドウジュ)のごとくのみならず。其れ郷里に在らば萎苶(イデツ)し成すこと無き者、一たび都下に来らば、長目飛耳(チョウモクヒジ)の效を獲ざるもの莫し。都下に学ぶ者は動(ややもすれば)遊蕩浮偽(フギ)に陥れど、之(これ)に学ぶを以て必ず長く益有るなり。故に來学者、陸続と絶へること靡(な)し。夫れ侯國の人、質愨(シツカク)の情、勇邁の氣、毎(つね)に都の人士を度越し、宜しく擿(あば)くべき瑕(きず)無かるべし。而して驕矜(キョウキョウ)の失(あやまち)、更に都の人士より甚し。是れ擧世の疑ひを蓄ふ所なれど、病原固(もと)より已に此に即して在るを絶へて知らざるなり。

4彼其の情之(これ)質愨(シツカク)なり。見聞廣からず。是れ已(すで)に太(はなは)だ確(かた)く以爲(おもへらく)「聖道の奥妙、己(おのれ)獨り之を窺(うかが)ひ、経籍(ケイセキ)の浩瀚(コウカン)なるを遍(あまね)く渉(わた)る者は、我を舎(お)きて誰ぞ」と。気の雄邁(ユウマイ)なるや、一意に直(た)だ遂(すす)み、顧忌(コキ)を知らず。少し得る所有らば、高視闊歩(コウシカッポ)し、傲然と衆に誇耀(コヨウ)し、擧世の鴻碩(コウセキ)、一(ひとり)として眼角(ガンカク)に掛くるに足るもの無し。是れ勢の必至なり。且つ彼(か)の資質の美も特(た)だ其の始めに就き之(これ)を言ふのみ。其の驕気の勃發に迨(およ)ぶや、百失叢生(ソウセイ)し、波流れ土崩れ救ふべからず。反(かへっ)て都下浮靡の士の猶ほ未だ甚しく大閑(タイカン)を踰へざるに如かず。可(あ)に慎しまざるや。

5今夫れ少年之(これ)花柳に沈溺すれば、都人猶ほ或は前後を顧慮し、刑憲に觸るるに至らず。遐方の荒陬(コウスイ)の人、素(もと)より謹飭(キンチョク)を以て聞ゆる者、一朝耽惑し、其の守りを喪(うしな)はば、則ち猖狂(ショウキョウ)倒行(トウコウ)し、身を僨(やぶ)り家族を隕(うしな)ひ辱(はづかしめ)を父母に被(かふむ)らすに至らざれば已(や)まず。理蓋し一つのみ。

6蓋し諸(これ)を古の人に参稽(サンケイ)するや、諸葛恪(ショカツカク)・司馬冏(シバケイ)、易直(イチョク)有守(ユウシュ)の士なり。而して李林甫、秦檜、臣の至て姦険なる者なり。其の相懸(へだた)ること翅(た)だ玉石のみならず、然れども恪東興にて大捷して驕心萌(きざ)し、新城にて敗衂(ハイジク)す。士民怨畔(エンパン)し、終(つひ)に孫峻(ソンシュン)の手に死す。冏、趙王倫を平らげて驕心熾(おこ)り、綱維(コウイ)頽堕(タイダ)し、秕政(ヒセイ)四被(シヒ)し、幾(いくばく)も無く三王の殄僇(テンリク)する所と為る。李秦二相、天下の大柄を攬(と)ること殆(ほとん)ど二十年。只だ計畫の未だ周(あまね)かざること有れば人の乗ずる所と為りて自ら其の権を失ふを恐れ、智慮日に益(ますます)深く、少しも驕易(キョウイ)の心を生ぜず、以て墉下(ヨウカ)に終らしむ。然れば則ち驕り之(これ)害を醸せば、有守の士、翻(かへっ)て姦臣の身を全(まった)うするに及ばざるに至る。固より可懼るべし。亦た可耻ずべきなり。

 

(語釈)

1諐失(ケンシツ)(過ち)釁殃(キンオウ)(わざわい)齊桓(春秋時代の齊の桓公。管仲を用い、その協力によって春秋の五覇の一人に数えられる有力君主となった。北方の異民族や楚の侵入から諸侯を救い、紀元前651年の葵丘(キキュウ)における会盟によって覇者の地位を確立した。内政面では富国強兵策を他国に先駆けて採用し、とくに手工業、商業の育成に努めた。しかし、やがて天子の儀礼である封禅を行おうとして諸侯から離反され、また、管仲の死後は、その遺言に背いて、かつて国外に追放した家臣を呼び戻したために、彼らに実権を奪われた。死後も斉国内の混乱によって、その遺体は2か月間も葬られることなく放置されたといわれる)、葵丘(キキュウ)の會(齊の桓公が霸を唱へ、諸侯を葵丘に會し好をあたため、王室に忠誠を盡すことを誓つた盟約)振矜(シンキョウ)(大いにほこるさま)楚霊(春秋時代の楚の霊王。楚の勢力を拡大したが、連年の戦役は臣民に多大な負担を強いた。このため臣民の心は霊王のもとから離れ、三人の霊王の弟たちは反対派を結成し、霊王が軍を率いて都の郢を留守にするとクーデターを決行。このクーデターを知って霊王の楚軍は一気に崩壊し、霊王は山中をさまよいながら死んだ)唐の明皇(玄宗)内難(ナイナン)(内部の騷亂)郅治(シツチ)(至って治まる)侈心(シシン)(おごる心)滋長(ジチョウ)(ますます長ずること)天寶の乱(安禄山の乱)馴致(ジュンチ)(次第にある状態に到達すること)已事(イジ)(過去の事)彰灼(ショウシャク)(明らか)忠信以て之(これ)を得れども、驕泰(キョウタイ)以て之(これ)を失ふ(大学 傳第十章 自己の心を尽くして道理を尊重すれば民の心を得られるが、驕り高ぶり自分勝手にすれば民の心を失う)周公の才の美有るも、使(も)し驕り且つ吝(やぶさか)ならば、其の餘は観(み)るに足らざるのみ(論語 泰伯篇)

2委靡(イビ)(おとろへる。弱る。振はない)澆浮(ギョウフ)(人情が薄く實がない、軽薄)長厚(人情が厚い)儇(ケン)(こざかしい、口上手)黠(カツ)(わるがしこい)戇(トウ)(愚か)慤(カク)(誠実)猛奮(モウフン)(猛々しく奮い立つ)鷙忍(シニン)(猛々しく残忍)遐僻(カヘキ)(片田舎)矜高(キョウコウ)(驕り高ぶる)誇詡(コク)(大言壮語)

3知舊(チキュウ)(古くからの知り合い)先子(亡父、古賀精理)駸駸(シンシン)(馬が進むように急速に、どんどんと)截然(セツゼン)(はっきりと、きっぱりと、決然)自ら畫(かぎ)り(自分の力を見限り)童豎(ドウジュ)(子供)萎苶(イデツ)(疲れる)、長目飛耳(チョウモクヒジ)(見聞を広めること)浮偽(フギ)(うわべを飾り、いつわること)質愨(シツカク)(生地のままでかざらない。誠實)驕矜(キョウキョウ)(おごりたかぶる)

4奥妙(奥義、深遠)経籍(ケイセキ)(経書)浩瀚(コウカン)(書物の多くあるさま)雄邁(ユウマイ)(気性が雄々しくすぐれている)顧忌(コキ)(遠慮する、はばかる)高視闊歩(コウシカッポ)(高いところを見、大股に歩く)誇耀(コヨウ)(ほこりかがやかす。世間にみせびらかす)擧世(世の中全部)鴻碩(コウセキ)(学識が大きくすぐれている人物)眼角(ガンカク)(目じり)叢生(ソウセイ)(むらがりはえる)大閑(タイカン)(立派なおきて。大切な道。閑は、おきて)

5荒陬(コウスイ)(片田舎)謹飭(キンチョク)(慎み深い)耽惑(タンワク)(心を奪われる)猖狂(ショウキョウ)(狂気の沙汰の行いをする、狂ったような行いをする)倒行(トウコウ)(道理にさからって行動する)

6参稽(サンケイ)(照らし合わせて考える)諸葛恪(ショカツカク)(三国時代の政治家、武将。呉に仕えた。東興の戦いで魏を打ち破り、翌年周囲の反対を押し切り魏に侵攻したが合肥新城の包囲を陥落させられずに敗退。諸葛恪が人々の不満を集めていることを受け、孫峻は孫亮と共に政変を計画。孫亮主催の酒宴の場で、諸葛恪は孫峻により斬殺された)司馬冏(シバケイ)(西晋の皇族で八王の乱の当事者の一人。西晋の第二代恵帝の時代に趙王司馬倫はクーデターを決行し皇位を簒奪した。司馬冏もこれに参画したが、やがて司馬倫を討ち恵帝を復位させて自分が実権を握った。実権掌握後は酒色と奢侈に溺れるようになり、長沙王司馬乂(シバガイ)、成都王司馬穎(シバエイ)、河間王司馬顒(シバギョウ)の三王に反乱を起こされ殺害された)易直(イチョク)(人柄が親しみやすく、気性がすなおなこと)有守(ユウシュ)(節操がある、信念を堅く守って、心変わりしない)李林甫(リリンポ)(唐玄宗朝の宰相。〈口に蜜あり,腹に剣あり〉とその奸佞ぶりを評されるが,学問,教養は乏しかったものの機を見るに敏かつ実務に優れた能吏であり,玄宗の信任を深めた。このため学者肌の張九齢らとあわず,陥穽をめぐらせて張九齢を追い,みずからがかわって中書令として実権を握った。反対勢力の排斥につとめるあまり,節度使に異民族出身者を抜擢し,結果的に安史の乱を招くことになった)秦檜(シンカイ)(南宋時代の政治家。金の侵入後金国に三年間抑留されたが、帰国して宰相になり、領土を割譲して金と和議を結んだ。彼のために獄死した岳飛将軍が救国の英雄として尊ばれた

のに反し、姦臣・売国奴として、後世の評価が悪い)姦険(心がねじけていて悪いこと)敗衂(ハイジク)(敗北)怨畔(エンパン)(うらんでそむく)孫峻(ソンシュン)(三国時代の呉の政治家。諸葛恪と共に協力して政治を行なった。しかし諸葛恪は、魏への遠征を強行し敗戦すると権力的な不安から次第に独裁色を強め、近衛軍の人事などをめぐり孫峻らと対立した。そこで孫峻

は諸葛恪を宴会に呼び寄せた上で、勅命と称して自ら斬殺した)趙王倫(司馬倫)綱維(コウイ)(国家の法)頽堕(タイダ)(崩れおちる。だらしなくなる)秕政(ヒセイ)(悪政)四被(シヒ)(四方におよぶ)

三王(長沙王司馬乂、成都王司馬穎、河間王司馬顒の三王)驕易(キョウイ)(いばって人をばかにする、たかぶつて人をあなどる)墉下(ヨウカ)(垣根の下)

 

(漢文)

1人之凶徳、莫甚且大於驕、驕心一萌、則學日退、藝日譾拙、諐失益崇積、而釁殃相継騈臻、齊桓葵丘之會、一振矜而叛者九國、楚霊示諸侯汰、而終弑于乾谿、唐明皇平内難、成郅治、侈心滋長、而馴致天寶之乱、斯已事之彰灼可鑑者也、、故曰、忠信以得之、驕泰以失之、有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足観也已、驕之甚害可想也、

2方今久安、人之委靡澆浮極矣、而都會為甚、其俊傑卓出、不牽於俗者、姑舎旃、試就中人立論、則大氐都會之人軽浮、侯國之人長厚、都會之人、儇而黠、侯國之人、戇而慤、都會之人、軟柔円熟、侯國之人、猛奮鷙忍、是古之遺風、猶存於侯國遐僻之地、而都會之盛、反不能及、至矜高誇詡之失、則都會或免、而侯國決不能也、

3嘗驗之今日儒生、予知舊及先子門下、不為不衆、大率在都下、則其學駸駸乎進、前途可望、還國則截然自畫、有退無進、自處崇大、視人不啻童豎、其在郷里萎苶無成者、一来都下、莫不獲長目飛耳之效、學於都下者、動陥於遊蕩浮偽、而以學之必有長益也、故來学者、陸続靡絶、夫侯國人、質愨之情、勇邁之氣、毎度越都人士、宜無瑕可擿而驕矜之失、更甚於都人士、是擧世之所蓄疑、絶不知病原固已即此而在也、

4彼其情之質愨也、見聞不廣、是已太確、以爲聖道之奥妙、已獨窺之、経籍之浩瀚遍渉者、舎我而誰、気之雄邁也、一意直遂、不知顧忌、少有所得、高視闊歩、傲然誇耀乎衆、擧世鴻碩、無一足掛眼角、是勢之必至也、且彼資質之美、特就其始言之耳、迨其驕気之勃發也、百失叢生、波流土崩不可救、反不如都下浮靡之士、猶未甚踰大閑、可不慎乎、

5今夫少年之沈溺花柳者、都人猶或顧慮前後、不至觸刑憲、遐方荒陬之人、素以謹飭聞者、一朝耽惑、喪其守、則猖狂倒行、不至僨身隕家族、辱被父母不已、理蓋一耳、

6蓋参稽諸古之人乎、諸葛恪、司馬冏、易直有守之士、而李林甫、秦檜、臣之至姦険者也、其相懸不翅玉石、然恪東興大捷、而驕心萌、新城敗衂、士民怨畔、終死孫峻手、冏平趙王倫、而驕心熾、綱維頽堕、秕政四被、無幾爲三王所殄僇、李秦二相、攬天下大柄、殆二十年、只恐計畫有未周、為人所乗、而自失其権、智慮日益深、不少生驕易之心、以令終墉下、然則驕之醸害、至有守之士、翻不及姦臣之全身、固可懼、亦可耻也、

侗庵新論 第百三

(要約)

才能と人徳に恵まれた家康公ですら、天下統一は天の助けが無ければできなかった。天命を自覚すれば自ずから謙虚になり身の程をわきまえるようになるが、自己の力を過信すれば暴走して身を亡ぼすことになる。

(現代語訳)

1家康公はかつてこう言われた。「天下は極めて重要な大きな器であり、知恵や力で争うべきものではない。世の中の野望を抱く者は自分だけの狭い考えや詐術や暴力で天下をかすめ取ろうとするが、私は決してそれが成功しないことを知っている。しかし今や天下はいつのまにか自分に転がり込もうとしている。これは天が天下を私に与えようとしているということかもしれない」と。素晴らしい言葉である。この論はありふれているように見えるが、実はこれ以上ないほど天命をよく理解したものである。後漢の学者班彪が豪族の野望を諫めた『王命論』は詳しく適切に真実を見通しており、今も昔も称賛されているが、家康公のこの言葉の範囲を超えるものではない。

2家康公が天下を取ったことを見てみると、強敵と戦っては百戦百勝。変化に応じた適切な処置や、勝利を制するための奇策は鬼神も考え付かないものであった。戦乱を収めて政治を行う際、複雑にもつれた状況を解決する方法はいつも人の意表をつくものであった。それらの大事業は専ら自身の優れた知恵や武徳によるもので、始めから少しも天の助けを借りていないように見えるが、断じてそうではない。

3甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信の二将は兵法に熟達し軍勢は無敵だった。彼らのその才能は天下を統一できるほどものであったかどうかは私にはわからないが、人が天下を統一するのを阻止するには十分であった。しかし謙信は四十九才で生涯を終え、信玄は五十二才で急死した。織田信長の優れた知謀や戦略は当時抜きんでており、彼のこころざしは既に天下を覆っていた。群雄を攻め滅ぼし、ほとんど天下の半分を支配していた。もし彼が世に長く生きていたなら、どうして家康公が天下を統一できようか。しかし彼は五十前に突然本能寺の変に遭ってしまった。太閤は天下の英雄であり、天からも人からも助けを得て、ついに全国六十余州を征服して、これを従えた。家康公はかつて彼に抵抗したが、やがて織田信雄の頼みを受け入れ、また戦乱が長引くことを配慮して、ついに講和して心からこれに従うことにした。これは周の文王が内に文明の徳を有しながら外は柔順な態度でよく暴君の紂王に仕え、幽閉される大難に遭いながらついに身を全うした故事に則ったものである。この時もし太閤が八十才や九十才にまでなって、幼子の秀頼が一人前に成長するのを待つことができたなら、家康公は一生涯彼に仕えるだけだっただろう。どうして太閤が死んでからわずか二年で天下に君臨することなどできようか。このほかにも蒲生氏郷のように実力があり大志を抱いた武将であれば、必ず他人が天下を統一するのを指をくわえて見ているはずはないが、太閤は予め彼を毒殺して、結果的に家康公のために取り除いてくれていた。前田利家は人望も実力もあり、太閤の遺言を受けて一人息子の秀頼を補佐し、天下の人々から尊敬されていた。もし彼が大坂夏の陣のあった元和年間の初め頃まで生きていたなら、決して秀頼の天下を人に与えるようなことはしなかっただろう。しかしわずか六十才余りで死去した。これらのことはすべて天がそうさせたのではないだろうか。

4また古来王朝を開設した君主に賢い跡継ぎがいなければ、王朝の基礎は必ず危機に陥ることを免れない。反対に子が賢く、必ず跡を継ぐのに適した賢い孫がいて始めて創業者がはじめた事業は強固なものになる。家康公には、子に秀忠公、孫に家光公があり、文武ともに代々受け継がれ、祖先の事業は磨かれていった。これらのことによってもまた天は家康公を助けたと言える。

5ある人がこう言った。「家康公の深い思いやりの心や厚い徳は天を動かすに十分である。信玄や謙信などの群雄が早世したり、子や孫に優れた人材が相次いだことなどは、皆天から出たことではあるが、家康公の徳が天にさせたことである。何でその根本のことを言わずにいられようか」と。この説には当然一理ある。つまり家康公の徳は天の助けを招来するに十分である。しかし現に天の助けにより成し遂げたこともあるのだから、これを幸運に頼らなかったなどと言うことができようか。半階級の位や五斗米の俸禄といのは全く些細なものであるが、ここで務める者にも一心に努力してうまくゆくこともあればうまく行かないこともある。ましてや天下は大きいし王位は貴重なものである。自分だけの知恵で幸いにもうまく行くと言えるだろうか。家康公の才能と徳は大きなものであるが、天下統一の大業を成すには天の力を借りずにはいられない。古来才能や徳では家康公にはるかに及ばない者が、出世して繁栄し、豊かな子孫も残していることがあるが、そこからはすべてが人の力によるものではないということが知れるのである。

6思うに人が皆栄達は天命によることを知るようになれば、常に身の程をわきまえ望外の幸運など求めなくなる。行為に道理に反することが少なくなり、また人の心を感動させ、天からの恩恵を迎えることができるようになる。これに反して、世の中の立身出世はすべて自身の知恵や力により求めることができると思えば、人の欠点を伺い、隙をつき、専ら危険を冒して身の程知らずの利益を貪ろうとするようになる。そしてついに自身を傷つけ一族を滅ぼすまで止めようとしない。心がけが公平か偏っているかで考えも異なってくる。天と地の間で、王や諸侯にだけこれがあてはまるわけではない。下は大夫や士庶に至るまでみな同一の理である。恐るべきことである。

7春秋時代の楚の霊王は志が極めて大きかった。天下を得られるかどうかを占い、不吉と出たので、占いに使った亀の甲を投げ捨て、天に向かってこうののしった。「こんな大したことのない占いのくせに俺様を馬鹿にするな」と。五代十国時代の後唐の建国者荘宗は、既に後梁に勝ち、後唐に臣従していた高季興に向かってこう言った。「私は自分の十本の指で上から天下を取った」と。一方はまだ天下を取らないうちに自分の知恵と力で求めることができると考え、もう一方は既に天下を取って自分の知恵と力で取ったと言う。その暗愚ぶりは同じである。この二人の王の背徳行為は数えきれないほどだが、この二つの言葉こそが滅亡の原因である。

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(読み下し文)

1烈祖嘗て云(いは)く「天下は至重の大器なれば智力を以て争ふべきに非ず。世の大志を有する者、一己(イッコ)の私智(シチ)・詐力(サリョク)を以て天下を攘竊(ジョウセツ)せんと欲すれど、吾其の決して成ること無きを知るなり。今天下滾轉(コンテン)し、将に自(おのづ)から我に帰せんとす。或者(あるいは)天は天下を以て我に予(あた)ふるや」と。至れるかな言。論卑近に類(に)れども、其の實天を知り命を達する識(ちゑ)、卓卓として尚(くは)ふべからず。班彪(ハンピョウ)の王命論、詳悉(ショウシツ)にして切に透(みとほ)し、今古共に嗟称(サショウ)する所なれど、安(いづくん)ぞ烈祖の斯(こ)の言(ことば)の範圍を出るや。

2夫(か)の烈祖の龍興(リュウコウ)を観るや、勍敵を討伐し百遇百克。應變の妙、制勝の奇、鬼神も測る能(あた)はざる所なり。乱を撥(をさ)め治を成す際、其の紛糾を解き盤錯を裁く所以(ゆゑん)、毎毎(マイマイ)人の慮表(リョヒョウ)に出(い)づること、殆ど専ら其の大智神武に任せ、以て鴻業を興し、未だ始めからだ絲毫も天祐を借りざる者の如し。而して孰(いづくん)ぞ其の断断として然らざるを知るや。

3甲越二将、鈐韜(ケントウ)に諳練し、威鋒無前(ムゼン)。彼其の才以て統一天下を統一するに足るか否か、予未だ知らざる所なり。其れ人の天下を有(たも)つを制(と)むるに於ては、則ち綽乎(シャクコ)として餘り有り。而して謙信年四十九に於て止(や)み、信玄五十二にて遽(にはか)に亡くなる。平信長の英謀偉略、一時を超越し、志(こころざし)已(すで)に八紘を嚢括(ノウカツ)す。群雄を芟夷(サンイ)し、殆(ほとん)ど天下の一半を有(たも)つ。使(も)し之をして久しく世に存(あ)らしめば、則ち烈祖安(いづくん)ぞ區寓(クウ)を混壹するを得るや。而して年未だ五十にならずして、忽(たちま)ち本能寺の禍に罹(あ)ふ。豊太閤蓋世の英雄たるを以て、天人の助けを得、遂に能(よ)く六十州を吞併して之を臣(したが)ふ、烈祖嘗て之(これ)に抗(あらが)ひ、既にして信雄の請(ねがひ)を可とし、又禍(わざはひ)の延ぶるを慮(おもんばか)るや、遂(つひ)に之(これ)と媾し、心服し事(つか)ふるに至り、以て文王文明柔順の義に法(のっと)る。爾時(このとき)設使(もし)太閤八九旬(ジュン)の壽(とし)に躋(のぼ)り、得て以て孺子(ジュシ)の成立を待たば、則ち烈祖亦た復た畢生之(これ)に順事(ジュンジ)するのみ。悪(いづくん)ぞ太閤殂(そ)すこと裁(わづ)か二年にて亟(すみやか)に寰區(カンク)を席巻するを得るや。他に蒲生氏郷の如く雄偉にして大志を懐けば、必ず人の天下を有するを袖手坐視するを肯ぜず。而して太閤先に之を酖(チン)し、以て烈祖の為に駆除す。前田利家徳望(トクボウ)隆重(リュウジュウ)にて、遺を受け孤を輔(たす)け、四海の崇仰する所と為る。使(も)し之をして元和の初め迄(まで)存(あ)らしめば、決して孺子の天下を挈(たづさ)へて人に與(あた)へず。而して僅(わづ)か六十餘歳を以て歿す。豈に盡(ことごと)く天之(これ)をせしむに非ざるや。

4且也古来開創の主(あるじ)、苟(いやしく)も之(これ)が後を為す賢嗣無くば、則ち丕基(ヒキ)必ず臲卼(ゲツゴツ)を免れず、乃(すなは)ち子賢ければ又必ず継述するに善き哲孫有り。而後緒業(ショギョウ)始めて鞏固(キョウコ)なり。烈祖台徳公を以て子と爲し、大猷公を孫と為す。文徳武威承承継継し以て祖考(ソコウ)の業(わざ)を潤色(ジュンショク)す。此れ又た烈祖を篤く保佑(ホユウ)する所以(ゆゑん)なり。

5或(あるひと)云(いは)く「烈祖の深き仁、厚き徳、以て天地を動かすに足る。彼の群雄の早き下世(カセイ)、子孫の賢哲の相承、皆天より出づれど實に烈祖の徳之(これ)を致す。安(いづくん)ぞ其の本を遺(のこ)して言はざるを得るや」と。此の説亦た自から理有り。然らば即ち烈祖の徳、天の祐(たす)けを來すを以て足れども、既已(すでに)天を待ち以て濟(な)すこと有り。安(いづくん)ぞ之(これ)を天幸を頼まずと謂ふを得るや。今夫れ半級の階(しな)、五斗米(ゴトベイ)の禄、亦た微の極みなり。而して于(これ)に進む者、一意に経営し、乃(すなは)ち得ること有り、得ざること有り。矧や天下之(これ)大なり、王位之(これ)崇重なり。而(すなは)ち私智倖(さいはひ)に以て得べきと謂ふや、烈祖の才と徳之(これ)大なれど、其れ洪業を就(な)すに且つ天の力を藉りざること能はず。古来乃(すなは)ち才徳烈祖に髣髴(ホウフツ)たるを希(のぞ)むこと能はざるもの有り。而して尊榮(ソンエイ)熾盛(シジョウ)にして、裕(ゆたか)なる裔昆(エイコン)を貽(のこ)すは、其の全てを人に由らざるを知るべきなり。

6蓋し人遭遇咸(みな)命に由るを明知せば、則ち常に自から其の涯分に安んじ、无望(ムボウ)の福を求めず。其の爲す所自(おのづ)から乖盭(カイレイ)鮮(すくな)し。亦た人心を感(うご)かし天貺(テンキョウ)を邀(むか)ふべし。若(も)し乃(すなは)ち世の顕榮(ケンエイ)、皆智力を以て求むべきと謂(おも)はば、則ち釁(すき)を伺ひ隙を抵(つ)き、専ら危険を冒し、以て分外の利を𩞣(むさぼ)る。卒(つひ)に之(これ)身を摶(う)ち族を覆(くつがへ)すに至らざれば已まず。處心の公私同じからざれば、而(すなは)ち措画焉(ここ)に判(わか)る。穹壌(キュウジョウ)獨だ王侯のみ爲然りと為さず。下は大夫士庶に至るまで、咸(みな)同一の理なり。懼るべきなるのみ。

7昔楚の霊王、志極めて大いなれば、天下を得るかを卜(うらな)ひ、不吉となれば、亀を投げ天を仰ぎ詬(ののし)りて曰く「是の區區たる者、余を卑(いや)む不(な)かれ」と。後唐の荘宗既に梁に克(か)ち、高季興(コウキコウ)に謂ひて曰く「朕十指を以て上にいて天下を得」と。一は未だ天下を得ずして以爲(おもへらく)智力を以て求むべきとす。一は既に天下を得て、己(おのれ)の智力を以て之を取るを謂ふ。其の迷瞀(メイボウ)一なり。二王の敗徳(ハイトク)、摟指(ロウシ)して數ふ遑(いとま)なし。而して斯(こ)の二語、正に其の覆亡の源なり。

 

(語釈)

1一己(イッコ)(自分だけ)私智(シチ)(自分だけの狹い考え)詐力(サリョク)(いつわりと暴力)攘竊(ジョウセツ)(こっそりぬすみとること)滾轉(コンテン)(ころがる)卑近(身近でありふれていること)班彪(ハンピョウ)(後漢の学者・文人。王莽末期の動乱時代に甘粛省の天水地方に拠った隗囂に身をよせたとき,《王命論》を著して隗囂の天下統一の野望に水をさした。後漢王朝が創業されると,《史記》の体例と史観を批判しつつその続編となるべき《後伝》の執筆に専念,本紀と列伝から構成された《後伝》は息子である班固の《漢書》にとりこまれた。)詳悉(ショウシツ)(非常にくわしくて漏れのないこと)嗟称(サショウ)(感歎してほめる)

2龍興(リュウコウ)(龍が雲を得て天に昇ること)紛糾(乱れもつれること)盤錯(入り組んでまじわる。事の困難なさま)毎毎(マイマイ)(いつも)慮表(リョヒョウ)(意外)大智(すぐれた智慧)神武(神のように絶大な武威)鴻業(大事業、国の創設)

3鈐韜(ケントウ)(兵法)無前(ムゼン)(前をはばむものがない)八紘(天下、全世界)嚢括(ノウカツ)(包括)芟夷(サンイ)(攻め滅ぼす)區寓(クウ)(天下)混壹(統一)媾(講和、仲直り)文王文明柔順の義(易経・明夷「内文明而外柔順、以蒙大難、文王以之」より 文王は内に文明の徳を有して外は柔順を以て、よく暴君の紂王に仕え、幽閉される大難を冒してついに身を全うした故事)旬(ジュン)(十年)孺子(ジュシ)(幼児)順事(ジュンジ)(すなおに仕える、従う)寰區(カンク)(天下)酖(チン)(毒殺)徳望(トクボウ)(徳が高く人々から慕われること)隆重(リュウジュウ)(さかんでおごそか)

4丕基(ヒキ)(国家の基礎)臲卼(ゲツゴツ)(危機)継述(ケイジュツ)(むかしの人の残した仕事を受けついで、それを明らかにする)緒業(ショギョウ)(やりかけた仕事。すでに着手した事業)台徳公(秀忠)大猷公(家光)祖考(ソコウ)(死んだ祖父と父)潤色(ジュンショク)(色どりをつけ光沢を添えること)保佑(ホユウ)(まもりたすける)

5下世(カセイ)(この世を去ること、死ぬこと)賢哲(才智のすぐれた人)相承(次々と受け継ぐこと)半級の階(しな)(一階級の半分の位)、五斗米(ゴトベイ)の禄(わずかな俸給)私智(他に通じない自分だけの視野の狭い知恵。つまらない知恵。公正でない知恵)髣髴(ホウフツ)(よく似ていること。また、そのさま。そっくりなさま)尊榮(ソンエイ)(たつといさかえ。榮達)熾盛(シジョウ)(はげしくさかんなこと。非常に盛なこと)裔昆(エイコン)(子孫)

6遭遇(出世すること)涯分(身の程。分際)无望(ムボウ)(思いがけない)乖盭(カイレイ)(そむき、もとる。物ごとがあべこべである)天貺(テンキョウ)(天からの賜物・恩恵)顕榮(ケンエイ)(立身出世すること)公私(公平か偏っているか)措画(とりはからい、計画)穹壌(キュウジョウ)(天と地)

7後唐(五代の一国。唐の節度使李存勗が後梁を滅ぼして建国)荘宗(五代後唐の建国者李存勗)梁(五代の後梁)高季興(コウキコウ)(五代十国の荊南の初代君主。李存勗が後梁を滅ぼすと入朝し,その際に荊南王に封ぜられた)迷瞀(メイボウ)(暗愚なこと)敗徳(ハイトク)(道ならぬ行。不德義、背徳)摟指(ロウシ)(指を折る)

 

(漢文)

1烈祖嘗云、天下至重大器、非可以智力争、世之有大志者、欲以一己私智詐力、攘竊天下、吾知其決無成也、今天下滾轉、将自帰乎我、或者天以天下予我也、至哉言、論類卑近、而其實知天達命之識、卓卓不可尚、班彪王命論、詳悉切透、今古所共嗟称、而安出乎烈祖斯言之範圍耶、

2観夫烈祖之龍興也、討伐勍敵百遇百克、應變之妙、制勝之奇、鬼神所不能測、撥乱成治之際、其所以解紛糾裁盤錯、毎毎出人慮表、殆如専任其大智神武、以興鴻業、未始借絲毫天祐者、而孰知其断断不然也、

3甲越二将、諳練鈐韜、威鋒無前、彼其才足以統一天下以否、予所未知、其於制人之有天下、則綽乎有餘、而謙信年止於四十九、信玄五十二遽亡、平信長英謀偉略、超越一時、志已嚢括乎八紘、芟夷群雄、殆有天下一半、使之久存乎世、則烈祖安得混壹區寓乎、而年未五十、忽罹本能寺之禍、豊太閤以蓋世英雄、得天人之助、遂能吞併六十州、而臣之、烈祖嘗与之抗、既而可信雄請、又慮禍之延也、遂与之媾、至心服事、以法文王文明柔順之義、爾時設使太閤躋八九旬之壽、得以待孺子成立、則烈祖亦復畢生順事之耳、悪乎得太閤殂裁二年、亟席巻寰區哉、他如蒲生氏郷之雄偉懐大志、必不肯袖手坐視人有天下、而太閤先酖之、以爲烈祖駆除、前田利家徳望隆重、受遺輔孤、為四海所崇仰、使之存迄元和之初、決不挈孺子天下與人、而僅以六十餘歳歿、豈非盡天使之耶、

4且也古来開創之主、苟無賢嗣爲之後、則丕基必不免於臲卼、乃子賢矣、又必有哲孫善於継述、而後緒業始鞏固、烈祖以台徳公爲子、大猷公為孫、文徳武威承承継継、以潤色祖考之業、此又所以篤保佑烈祖也、

5或云烈祖之深仁厚徳、足以動天地、彼群雄之早下世、子孫之賢哲相承、皆出乎天、而實烈祖之徳致之、安得遺其本而不言也、此説亦自有理、然即烈祖之徳、足以來天之祐、而既已待天以有濟、安得謂之不頼天幸乎、今夫半級之階、五斗米之禄、亦微之極也、而于進者、一意経営、乃有得有不得、矧天下之大、王位之崇重、而謂私智可倖以得耶、烈祖之才之徳之大、其就洪業且不能不藉天之力、古来乃有才徳、不能希烈祖髣髴、而尊榮熾盛、貽裕裔昆者、可知其全不由人也、

6蓋人明知遭遇咸由命、則常自安其涯分、不求无望之福、其所爲自鮮乖盭、亦可感人心邀天貺、若乃謂世之顕榮、皆可以智力求、則伺釁抵隙、専冒危険、以𩞣分外之利、卒之不至摶身覆族、不已、處心之公私不同、而措画判焉、穹壌不獨王侯爲然、下至于大夫士庶、咸同一理、可懼也已、

7昔楚霊王志極大、卜得天下、不吉、投亀仰天而詬曰、是區區者、而不余卑、後唐荘宗既克梁、謂高季興曰、朕以十指上得天下、一未得天下、而以爲可以智力求、一既得天下、而謂以己智力取之、其迷瞀一也、二王之敗徳、不遑摟指數、而斯二語、正其覆亡之源也、

侗庵新論 第百二

(要約)

家康公は豊臣政権下にあって無能なふりをして難を逃れたとの見解があるが、浅はかである。豊臣政権下でもその実力、人望ともに無視できない存在であったからこそ存続できたのであり、その点で唐の名将郭子儀と共通するところがある。

 

(現代語訳)

 

1世の論者はみな次のように考えている。「徳川家康公は豊臣氏の疑り深い政権に対して、愚者のふりをして身の安全を図った。これを蒲生氏郷が才能を見せびらかしたり武勇を誇ったりしても、結局氏郷の死後に蒲生家は改易されてしまったことと比べると、はるかに異なっている。これこそが家康公が古今の英雄を超越した理由である」と。

2太閤殿下が家康公の力を借りて小田原征伐をしたのを私から見ると、家康公は家臣に命じ、宿場を飾らず、橋も整備せず、万事何とか役には立つようにしながらも余計なことはさせないようにした。それはこう考えたからだ。「太閤殿下は才能や知恵で人に先んじることを好む。こんなことにかかずらわって優劣を争うべきではない」と。つまり家康公にももともと愚かなふりをする行いが無かったわけではない。しかしそれは一時の臨機応変の計略にすぎず、これをもって自分の身の安全を図れた理由とするのは不十分ではないだろうか。家康公は織田信長と共に興隆した。豊臣氏が織田信雄を攻めると、家康公はすでに兵力が十分に強かったので豊臣氏と争い、思った通り大勝利を収めた。ただ信雄の求めに応じてやむを得ず太閤殿下と講和しただけで、もともと威厳も権力も家康公の方にあった。しかし一旦太閤殿下と講和したからには、尊重しへりくだり、ひたすらにあがめたてまつって、礼儀に少しも欠けるところがなかった。無理やり家康公を罰しようと思っても、何のぬれぎぬを着せられようか。ましてや家康公は真心と思いやりで人を感動させており、当時の諸侯で喜んで従う者は数知れないほどだった。

3家康公の配下には智将や勇将が数多くいて、天下を思い通りにすることができるほどだった。家康公は天性の君主だったので、太閤殿下がどれほど嫌っても決して害を加えることはできなかった。もし幸いにも太閤が家康公を虐待することができたとしても、天下の諸侯は決してこれを坐視することはなく、必ず怒って雷電のような激しい攻撃を加え、戦乱が続いて天下は騒然とし、豊臣氏の子孫は大阪の陣を待つことなく途絶えたであろう。そもそも猜疑心の強い君主は優れた人物を排除しようと努めるし、そのように願うが、それで国の寿命を無限に延ばせるかは疑わしい。もし家康公をそのままにしておけば、すぐにこうした災いに陥ることからは免れただろうし、家康公を排除しようとしたため、間もなく豊臣家は滅亡してしまった。知恵者であれば断じてこんなことはしなかったであろう。春秋左氏傳にはこうある。「国は天地の中でこそ生まれ栄える」と。家康公は豊臣氏の治世にあって、その徳は人々を心服させるに十分であり、その名は国中を恐れさせるに十分であったが、普段は豊臣氏に慎み深く仕え、少しの過ちも無かった。もし力づくで家康公を排除しようとすれば、人々の心に反し、大乱を招くことになっただろう。これこそ天と地が並び立っていると言える。豊臣氏は何で天地に背いて家康公を滅ぼすことなどできようか。それなのに、家康公のことを愚かなふりをしてやっとわざわいを免れたなどと言うのは、家康公に対する浅はかな評価である。

4太閤殿下は粗雑であったとはいえ自らが稀代の君主であったので、愚かなふりをして一生だまし続けるなどいうことがどうしてできようか。太閤殿下はかつてこう言ったことがある。「天下に恐るべき者は、ただ徳川公と黒田如水だけだ。但し徳川公は温和で穏やかであり、如水のように荒々しくないというだけのことだ」と。このことは太閤殿下が、愚かなふりに騙されて家康公に大志があることを気づいていなかったわけではないことを示している。。ただ家康公は既に天からも人からも頼りにされる存在となっていたので、太閤殿下にはどうすることもできなかったというだけのことだ。

5名将郭子儀は唐にいて、唐の中興を助けその功績は天下に鳴り響いていた。しかしやがて小悪人の讒言により天子は彼を排斥した。不遇な時期は気付けば数年にもなっていた。ところが思わぬところから事変が生ずると、再び郭子儀を無理やり起用し、すべて任せることで事変は平定された。このためこう言われている。「一人で三十数年間国家の命運に関わってきた。あの安史の乱などの戦乱も彼が終結させた。天下の命運は彼を用いるか用いないかに係っているので、当時の人々は彼を憎み、誹り、遠ざけようとしたが、ついに死なせることはできなかった」と。郭子儀と家康公では当然多くの点で異なるが、郭子儀を見れば家康公が身を全うした理由がそのままわかるのだ。

 

(読み下し文)

1世の論者、咸みな以爲おもへらく「吾が烈祖豊臣氏の猜防サイボウの朝まつりごとに丁あたり、智を晦くらまし愚を佯いつはり以て自ら其の躯を全うす。諸これを蒲生氏郷の輩やからの儁才シュンサイを炫てらひ、英武を矜ほこり、以て金甖キンオウの禍を来す者と較ぶれば、邈爾バクジ侔ひとしからず。此れ烈祖古今の英雄を超越する所以ゆゑんなり」と。

2予、豊太閤の道を借り小田原を伐つを観るや、烈祖命じて亭傳(テイデン)を飾らず、橋梁を修めず、庶事(ショジ)僅に供用に足り嬴餘(エイヨ)無からしむ。以爲(おもへらく)「豊太閤好才智を以て人に先んずるを好む。之に与(あづか)り爭衡(ソウコウ)すべからざるなり」と。即ち烈祖固より愚を佯(いつは)る行なひ無きにしもあらず。然れども此れ特(た)だ一時の應変の略なり。迺(すなは)ち此の概(おもむき)を以て其れ之を全うする故(ゆゑ)を得るは則ち未(いまだ)しなるや。烈祖織田右府と並び興る。豊臣氏の織田氏を攻むるや、烈祖業已(すでに)兵力盛強なれば豊臣氏と确(あらそ)ひ、果して大捷(タイショウ)を致す。特(た)だ信雄の請(もと)めに已むを得ず以て豊太閤に媾すのみにて、其の威柄(イヘイ)固より我に在り。既に豊太閤と和し、恪慎(カクシン)恭遜(キョウソン)し、一意に崇(あが)め奉(たてまつ)り、大に事(つか)ふるの礼に少しも玷闕(テンケツ)靡(な)し。強ひて之(これ)に罪を加へんと欲さば、何の辞か以て之(これ)を誣(し)ふ。矧(いはん)や烈祖至誠深仁の感(うごか)す所、並時の列辟、翕然(キュウゼン)悦服する者、其の幾十百人かを知らず。

3烈祖麾下、謀臣林立し、驍将(ギョウショウ)雲の如し。以て寓内を横行するに足る。烈祖天授の君なれば、豊太閤百方忌猜(キサイ)すれど、必ず之(これ)に害を加ふること能はず。其れ或は幸(コウ)を徼(もと)め其の惨酷を肆(ほしいまま)にするを得れども、彼の列辟麾下、決して坐視を肯ぜざるのみ。必ず将に撊然(カンゼン)と霆撃(テイゲキ)し、以て忿(いか)りを快(ほしいまま)にすべし。烟塵(エンジン)鴻洞(コウドウ)として、薄海麋沸(ビフツ)し、豊臣氏の血食(ケッショク)の絶ゆること、恐らく浪華の役を待たざるなり。夫れ雄猜(ユウサイ)の主、英俊を芟夷(サンイ)するに務め、亦た其(それ)を冀幸(キコウ)すること此(かく)の如し。而(しか)して國祚を無窮に延ばすを或(うたが)ふのみ。今や斯の人を保全せば、方(まさ)に立(たちどころ)に之(これ)が禍に至るを免れ、斯の人を殲除せんと欲し、則ち宗祏(ソウセキ)の顛覆、踵(くびす)を旋(めぐら)さず。智者断じて為さざるなり。傳に曰く、「國天地に於て與立を有(な)す」と。烈祖豊臣氏の代に在りて、盛徳以て人を心服するに足り、威名以て海内を震讋(シンショウ)するに足る。生平上に事(つか)ふるに祗懼(シク)し、絲髪(シハツ)も諐失(ケンシツ)無し。倘(も)し之を力(つと)めて除かんと欲さば、人情に𠲽戻(フツレイ)して大乱を醸すべし。是れ天地與(とも)に並立すると謂ふべし。豊臣氏安(いづくん)ぞ天地に違(たが)ひて之を殄殲するを得るや。乃(すなは)ち之を纔(わづか)に佯愚に頼り以て禍(わざはひ)を免(まぬが)るると謂ふは、烈祖を評隲するに之(おい)て浅きなり。

4豊太閤粗笨と曰ふと雖も、亦た自ら希世の英主なれば、豈に佯愚(ヨウグ)を以て其の終身を欺罔すべき者なるや。豊太閤嘗て云(いは)く「天下に畏るべき者、惟だ徳川公と黒田如水のみ。但し徳川公温慈(オンジ)和易(ワイ)にして如水の豪悍(ゴウカン)に似ざるのみ」と。是れ佯愚(ヨウグ)に蔽(おほ)はれて絶へて烈祖に大志有るを知らざるに非ず。但だ烈祖既已(すでに)天人の帰往(キオウ)する所と爲れば、則ち豊太閤亦た之(これ)を如何(いかん)ともする無きのみ。

5郭汾陽の唐に在るや、中興の成るを翊(たす)け、勲烈天下に震耀(シンヨウ)す。既にして宵壬(ショウジン)之を讒搆(ザンコウ)すれば天子之を斥棄(セッキ)す。閑廃(カンパイ)なる者(こと)、動(ややもすれば)数年を累(かさ)ぬ。一朝變の意外に生ずれば、乃(すなは)ち復(ま)た汾陽を強起(キョウキ)して之に任せ委ね、以て禍乱を敉定(ビテイ)す。故に曰く「一身を以て天下軽重に係る者、三十餘年。夫(か)の世の禍變、我を待ちて済(をは)る。天下の軽重、我の用舎(ヨウシャ)に係れば、則ち時人(ジジン)之を悪み之を譛(そし)り之を遠ざくと雖も、了(つひ)に諸(これ)を死に致すこと能はず」と。汾陽之(これ)烈祖と、小大固(もと)より懸(へだた)る。然れども汾陽を観れば而(すなは)ち烈祖の身を全(まった)うする所以(ゆゑん)、居然(キョゼン)として見るべし。

 

(語釈)

 

1猜防(サイボウ)(疑って用心する)蒲生氏郷(安土桃山時代の武将。織田信長・豊臣秀吉に仕え、九州征伐・小田原征伐の功により会津42万石(のち92万石)を領した。和歌をよくし、茶道のたしなみも深かった。武勇に優れ、千利休は彼を日本で一、二の大名と評したという。彼の死後、蒲生家は内紛により改易された)儁才(シュンサイ)(俊才)金甖(キンオウ)(国家)邈爾(バクジ)(はるかに)

2亭傳(テイデン)(宿場)嬴餘(エイヨ)(余り、余分)爭衡(ソウコウ)(優劣を争う)大捷(タイショウ)(大勝)威柄(イヘイ)(威光と権力)恪慎(カクシン)(うやまいつつしみ)恭遜(キョウソン)(うやうやしくへりくだる)玷闕(テンケツ)(欠点)列辟(諸侯)、翕然(キュウゼン)(そろって)悦服(喜んで従う)

3謀臣(計略に巧みな家来)驍将(ギョウショウ)(勇将)百方(いろいろな方法・手段)忌猜(キサイ)(嫌い妬む)列辟(歴代の天子)撊然(カンゼン)(怒って)霆撃(テイゲキ)(電撃)烟塵(エンジン)(戦乱)鴻洞(コウドウ)(打ち続くさま)薄海(天下)麋沸(ビフツ)(騒ぎ乱れる、擾乱)血食(ケッショク)(いけにえの動物を供えて祖先の霊をまつること。子孫が続いて先祖の祭を絶やさないこと)雄猜(ユウサイ)(強くて猜疑心が強い)芟夷(サンイ)(刈り除く)冀幸(キコウ)(こいねがう、僥倖をねがう)宗祏(ソウセキ)(宗廟に在つて位牌を藏する石室 王室の象徴)傳(春秋左氏傳)海内(天下、国内)震讋(シンショウ)(ふるえ恐れる)祗懼(シク)(つつしみおそれる)絲髪(シハツ)(少しも)諐失(ケンシツ)(あやまち)𠲽戻(フツレイ)(もとる、反する)佯愚(ヨウグ)(愚かなふりをすること)評隲(ヒョウシツ)(評価)

4粗笨(粗雑)温慈(オンジ)(優しくて慈しみ深い)和易(ワイ)(やさしい.ものやわらかである.穏やかである)豪悍(ゴウカン)(強くて荒々しいこと)帰往(キオウ)(行ってたよること。帰属すること)

5郭汾陽(郭子儀 唐の名将。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。安禄山の乱に、河東節度使李光弼とともに官軍を率いて河北を転戦、長安陥落後、西北の霊武に逃れた粛宗の即位後は、皇太子広平王(後の代宗)の下で副元帥となり官軍の総指揮にあたった。ウイグルの援軍を得て756年長安・洛陽を奪回、国家再建の功労者と賞せられる。その後宦官の魚朝恩らのため一時失脚させられたが、代宗朝に入り、吐蕃、ウイグル、吐谷渾、タングートなどの異民族連合軍の侵攻や、これと通謀した僕固懐恩の反乱が起こり、ふたたび登用され、765年ウイグル軍を寝返らせて吐蕃を破り危機を救った)震耀(シンヨウ)(ふるひかがやく)宵壬(ショウジン)(小悪人)讒搆(ザンコウ)(人をおとしいれるために、事実をまげたり、ないことを作りあげたりすること。讒言をかまえて人をおとしいれようとたくらむこと)斥棄(セッキ)(しりぞけすてる)閑廃(カンパイ)(不遇)一朝(にわかに、急に)強起(キョウキ)(むりに起用する。強ひて官に就かせること)敉定(ビテイ)(平定)天下軽重(国家の命運)用舎(ヨウシャ)(用いることと用いないこと 用いるか用いないか)時人(ジジン)(当時の人々)小大(小も大も皆)居然(キョゼン)(そのままに)

 

(漢文)

1世之論者、咸以爲吾烈祖丁豊臣氏猜防之朝、晦智佯愚以自全其躯、較諸蒲生氏郷輩、炫儁才、矜英武、以来金甖之禍者、邈爾不侔、此烈祖所以超越古今英雄也、

2予観豊太閤之借道伐小田原也、烈祖命不飾亭傳、不修橋梁、使庶事僅足供用、而無嬴餘、以爲豊太閤好以才智先人、不可与之爭衡也、即烈祖固不無佯愚之行、然此特一時應変之略、迺以此概其得全之故則未也、烈祖与織田右府並興、豊臣氏之攻織田氏也、烈祖業已兵力盛強、与豊臣氏确、果致大捷、特不得已於信雄之請、以媾於豊太閤、其威柄固在我、既与豊太閤和、恪慎恭遜、一意崇奉、事大之礼、靡少玷闕、欲強加之罪、何辞以誣之、矧烈祖至誠深仁之所感、並時列辟、翕然悦服者、不知其幾十百人、

3烈祖麾下、謀臣林立、驍将如雲、足以横行寓内、烈祖天授之君、豊太閤百方忌猜、必不能加之害、其或徼幸得肆其惨酷、彼列辟麾下、決不肯坐視而已、必将撊然霆撃、以快忿、烟塵鴻洞、薄海麋沸、豊臣氏之絶血食恐不待浪華之役矣、夫雄猜之主、務芟夷英俊、亦冀幸其如此、而或延國祚於無窮耳、今也保全斯人、方免立至之禍、欲殲除斯人、則宗祏之顛覆、不旋踵、智者断不為也、傳曰、國於天地有興立焉、烈祖在豊臣氏之代、盛徳足以心服人、威名足以震讋海内、生平事上祗懼、無絲髪諐失、倘欲力除之、𠲽戻人情而醸大乱、是可謂與天地並立、豊臣氏安得違天地而殄殲之、乃謂之纔頼佯愚以免禍、浅之評隲烈祖也、

4豊太閤雖曰粗笨亦自希世英主、豈可以佯愚欺罔其終身者乎、豊太閤嘗云、天下可畏者、惟徳川公與黒田如水、但徳川公温慈和易、不似如水之豪悍耳、是非蔽於佯愚、而絶不知烈祖有大志、但烈祖既已爲天人所帰往、則豊太閤亦無如之何耳、

5郭汾陽之在唐也、翊成中興、勲烈震耀天下、既而宵壬讒搆之、天子斥棄之、閑廃者、動累数年、一朝變生意外、乃復強起汾陽而任委之、以敉定禍乱、故曰以一身係天下軽重者、三十餘年、夫世之禍變、待我而済、天下之軽重、係於我用舎、則時人雖悪之譛之遠之、了不能致諸死、汾陽之與烈祖、小大固懸、然観於汾陽而烈祖之所以全身、居然可見矣