腐儒論

 腐儒論は侗庵36才の時の論文です。腐儒とは役立たずの儒者といった意味で、侗庵の論文には盛んにでてきます。それだけ海外の情勢に無関心で現在の重要問題を考えようとしない儒者に我慢ならなかったということでしょう。本論文では儒者だけでなく兵学者や役人もやり玉に挙げています。特に役人の御役所仕事ぶりを厳しく非難しています。

 原本は西尾市岩瀬文庫所蔵のものです。これを6つに分けて見ていくことにします。

 

(1)腐儒とは

(漢文)

腐儒之目俗吏武夫詬厲吾儒之言也、使吾儒無腐之實、則斯言也爲誣、吾儒而有腐之實乎、將何以間執其口乎、夫腐者、朽壊潰爛無可用之稱、木之腐也、百囲之木、千尺之名林、其形偉然、其文理灼然、而心先朽腐、一施於大厦之用、立致摧塌、魚介之腐也、肉未餒敗、未至騰悪臭、誠一喫之、使人癢喉澁舌、胸懐作悪、雖則遐方海外之珍異、無不嗚而擲地、故儒之儀観堂々、記誦該博、立論有條緒、而絶無濟乎用者、皆腐之属也、

(読み下し文)

 腐儒(フジュ)の目(モク)、俗吏(ゾクリ)武夫(ブフ)の吾儒を詬厲(コウレイ)するの言なり。使(も)し吾儒に腐(フ)の實(ジツ)無くば、則ち斯の言や誣(ブ)為り。吾儒而(も)し腐の實有らば、將(まさ)に何を以て其の口を間執(カンシュウ)せんか。

 夫れ腐は、朽壊(キュウカイ)潰爛(カイラン)し用ふべきの無きことの稱(よびな)にして、木の腐るや、百囲の木、千尺の名林、其の形偉然(イゼン)として、其の文理灼然(シャクゼン)たるも、心(シン)(ま)ず朽腐(キュウフ)し、一たび大厦(タイカ)の用に施さば立(たちどころ)に摧塌(サイトウ)に致る。魚介の腐るや、肉未だ餒敗(ダイハイ)せず未だ悪臭の騰(あが)るに至らざれども、誠(もし)一たび之を喫(くら)はば、人をして喉を癢(かゆ)からしめ舌を澁(しぶ)からしめ、胸懐(キョウカイ)作悪(サクアク)し遐方(カホウ)海外の珍異と雖則(いへど)も、嗚(むせ)びて地に擲(なげう)たざること無し。

 故に儒の儀観(ギカン)堂々とし、記誦(キショウ)該博(ガイハク)にして、立論に條緒(ジョウショ)有れども、用を濟(な)すこと絶無ならば、皆腐の属(たぐひ)なり。

(語釈)

腐儒(フジュ)(役に立たない儒者) (モク)(名前、表題) 俗吏(ゾクリ)(教養の低い小役人)     武夫(ブフ)(武人 武士) 詬厲(コウレイ)(そしる、悪口を言う) (ブ)(有りもしないことを言うこと)   間執(カンシュウ)(ふさぎ止めること) 朽壊(キュウカイ)(腐って壊れること) 潰爛(カイラン)(崩れただれること) 百囲(周囲が両手を広げた百倍の長さ) 偉然(イゼン)(立派で) 文理(模様 木目)      灼然(シャクゼン)(輝いていること) (シン)(中心部) 大厦(タイカ)(ひさし) 摧塌(サイトウ)(くだけ落ちること) 餒敗(ダイハイ)(腐敗) 胸懐(キョウカイ)(心の中) 作悪(サクアク)(もだえ苦しむ) 遐方(カホウ)(遠方の土地)  儀観(ギカン)(身づくろい、身なり)  記誦(キショウ)(覚えていること)該博(ガイハク)(学識が広い) 條緒(ジョウショ)(筋道が通っていること)

 

(現代語訳)

 腐儒」とは小役人や武人が我々儒者の悪口を言うための言葉である。もし我々儒者に腐の実態がなければその言葉は虚偽であるし、実態があるならばどうすればその口をふさぎ止めることができるだろうか。

 そもそも「腐」とは壊れ崩れて役立たずになったことの呼び名である。木が腐るということは、両手を広げた百倍の大きさの木や、千尺の高さの素晴らしい林であっても、中心部が腐っていれば、その外形が依然として立派で木目も輝いていても、それを庇に用いればたちどころに崩れ落ちるということである。魚介が腐るということは、肉がまだ崩れず悪臭も立っていなくても、それを一たび食べれば喉は辛くなり舌は渋くなり心はもだえ苦しみ、たとえ遠方や海外の珍味であっても咽んで地になげうたずにはいられなくなるということである。

 それゆえ、儒学者の身なりが堂々としていて、学識が広く、言うことに筋道が通っていても、役に立つことが全くなければ、すべて腐儒である。

 

(2)腐儒の歴史

(漢文)

腐儒之来尚矣、如古昔所稱子張氏漆雕氏之賤儒、凡八派、今其行誼設施無可考、而其悉帰於腐、則斷可見矣、漢董江都醇儒也、天人之対策、義利道功之辨、卓矣、而好論説突異、至祈晴禱雨之術、殆類児戯、先賢既議其流於迂、是非腐乎、賈長沙通儒也、治安一策、無不中竅、論君臣之薄、封建尾大之失、尤洞看時弊、然而五餌三表、欲以係單于、無乃大浅露乎、汲々以正朝服色爲言、不達當務之急甚矣、亦腐而已、設使二子躋相位、宰制一世、較之學黄老之曹参汲黯、恐或遜之、二子漢儒之巨擘、且然若此、矧下馬者乎、魏晋迄於唐季、儒先所論、不出於喪祭之儀、冠服名物之末、不獨世待以腐、彼亦甘以腐自居、可悲、趙宋鉅儒輩出、闡發吾道、直上梓洙泗、稱聖学之中興、顧六七鴻碩之外、或議論勝而成功少、或泥古道而昧於時宜、信哉腐之不易醫也、

(読み下し文)

 腐儒の来りて尚(ひさ)しきこと、古昔(コセキ)の子張氏漆雕氏の賤儒と稱せらるが如し。凡(およ)そ八派、今其の行誼(コウギ)設施(セツシ)に考ふべきこと無くて其れ悉(ことごと)く腐に帰せば、則ち斷じて見るべきなり。

 漢董江都の醇儒(シュンジュ)なり。天人の対策、義利道功の辨卓(すぐ)るなり。而(しか)し突異を論説するを好み、晴を祈り雨を禱(いの)るの術に至れば、殆ど児戯(じぎ)に類(に)る。先賢既に其の迂(まちがひ)に流るるを議(あげつら)ふ。是れ腐に非ざるや。

 賈長沙(カチョウサ)通儒(ツウジュ)なり。治安一策、竅(あな)に中(あた)らざる無し。君臣の薄きこと、封建の尾大(ビダイ)の失(シツ)を論ず。尤(もっとも)時弊を洞看(ドウカン)す。然り而(しこう)して五餌三表、單于(ゼンウ)を係(つな)ぐを以てせんと欲し、無乃(むしろ)大いに浅露(センロ)なり。汲々(キュウキュウ)として正朝、服色を以て言を為す。當務の急に達せざること甚しきや、亦(また)腐なるのみ。

 設使(もし)二子相位(ショウイ)に躋(のぼ)り一世を宰制(サイセイ)し、之を黄老(オウロウ)に學ぶ曹参(ソウサン)汲黯(キュウアン)と較ぶれば、恐らく或ひは之(これ)に遜(ゆず)る。二子漢儒の巨擘(キョハク)にして且つ然り此(かく)の若(ごと)し。矧(いは)んや下馬の者をや。

 魏晋から唐季(すゑ)に迄(いた)り、儒先の論ずる所、喪祭(ソウサイ)の儀、冠服名物の末を出ず。獨(た)だ世の腐を以て待つのみならず、彼亦(また)腐を以て甘んじ自居(ジキョ)す。悲しむべし。

 趙宋鉅儒(キョジュ)輩出し吾道を闡發(センパツ)し、直ちに洙泗(シュシ)を上梓(ジョウシ)し聖学の中興と稱(たた)ふ。顧(かへりみ)れば、六・七の鴻碩(コウセキ)の外、或ひは議論勝(まさ)りてして功成ること少なく、或ひは古道に泥(なづ)みて時宜に昧(くら)し。信哉(まことにや)腐の醫(すく)ふこと易(やす)からざるなり。

(語釈)

子張(しちょう)氏 孔子の弟子。「過ぎたるは及ばざるが如し」と孔子が言うほか,「辟(誠実さに欠ける)」という評価も見える  漆雕(しつちょう)氏 孔子の弟子.《論語》に,孔子に仕官を勧められた際,まだ自信がないと答えたという.賤儒(くだらない学者) 八派(戦国時代の儒教八派) 行誼(コウギ)(行為) 設施(セツシ)(計画施行したこと)

漢董董仲舒)[前176ころ~前104ころ]中国、前漢儒学者。広川(河北省)の人。「春秋公羊(くよう)伝」を学び、武帝のとき文教政策を建言、儒学を正統な官学とさせ、その隆盛をもたらした。

醇儒(シュンジュ)(儒教に専心する学者) 天人の対策武帝の諮問に対する董仲舒の献策)  義利道功の辨(道義を功利より尊重すること「夫れ仁はその義を正して其の利を謀らず、其の道を明らかにして其の功を計らず」 突異(際立って異なること)

賈長沙(カチョウサ)[前200~前168]中国、前漢の学者・政治家。洛陽(河南省)の人。文帝に信任されたが、重臣らの反対にあって長沙王の太傅に左遷された。文章家・思想家としても有名。

通儒(ツウジュ)(広く書物や物事に通じた学者) 治安一策(賈長沙が漢の文帝の時に上げた時局匡救策)

尾大(ビダイ)の失(獣の尾が大きすぎて自由に動かせないこと、諸候の力が強すぎ君主が統治できないこと) 

五餌三表(賈長沙の献策した匈奴対策。中華思想に基づき匈奴を武力ではなく文化と経済により懐柔しようとするもの 五餌とは、匈奴を豪華な衣服で着飾らせ豪奢な車を乗り回させること、珍味を饗応すること、妙なる音楽を聞かせること、豪奢な家屋を与えること、官職を与え君則に侍らせること。三表とは匈奴に対して漢帝が信、愛、好の三者を表明し周知徹底させること)

單于(ゼンウ)(匈奴の王) 浅露(センロ)(浅薄で深みがない) 正朝(天子が家臣を謁見する所)服色(衣服や車馬の色) 當務の急(当面の急務) 相位(ショウイ)(宰相の位) 宰制(サイセイ)(支配) 黄老(オウロウ)(老荘思想) 曹参(ソウサン) 漢の高祖の功臣。その政治は,道家の精神により清静無為を尊び,言辞は正道,人民は休息を得て,賢相とたたえられた。 汲黯(キュウアン)※ 前漢の諫臣。黄老の言を学び、其の政、清静を以て聞こえ、しばしば朝廷に直諫し、武帝に「社稷の臣」といわせた。 巨擘(キョハク)(傑出した人物)喪祭(ソウサイ)(喪に服するときの祭祀) 自居(ジキョ)(自らその位置にいる) 鉅儒(キョジュ)(大学者) 闡發(センパツ)(明らかにする) 洙泗(シュシ)(孔子の学問) 上梓(ジョウシ)(出版) 聖学儒学

 

(現代語訳)

 腐儒の歴史は、昔、孔子の弟子の子張氏や漆雕氏が浅はかな儒者だと言われた時と同じぐらい古い。戦国時代の儒教八派については今はその行為やその効果について考えることができなくて、すべて役立たずということになっているので、必ずしっかり見るべきである。

 前漢時代の董仲舒は江都国の優れた儒者であり、武帝の策問に応じて著した「天人の対策」や道義を功利に優先すべきとした「義利道功の辨」は優れたものである。しかし突飛な論説を好み、晴れを祈り雨を祷る術ともなれば殆ど子供だましである。すでに古くから賢者がそのあやまちを指摘している。こうしたことも「腐」であろう。

 賈長沙も広く物事に通じた儒者である。前漢文帝の時に献策した「治安一策」は当を得たものであり、君臣の関係が薄いことや諸侯の力が強すぎて君主の統制が及ばないことの誤りを論じて、とりわけ当時の弊害を良く見通していた。しかし匈奴対策である「五餌三表」の政策は匈奴の王である単于を懐柔して繋ぎ止めようとするものだが、むしろ浅はかなものだった。ひたすら謁見所や服装や車の色についてあれこれ言う。こんなことは当面の急務に全く役立たず「腐」でしかない。

 もしこの二人が宰相の位につき同じ時代を支配したとして、これを老荘思想を学んだ曹参・汲黯と比べれば、おそらくこれより劣るであろう。二人は漢の儒者の傑出した人物ではあるが、それでもこの程度である。ましてやその他の儒者など言うまでもない。

 漢以後の魏や晋から唐末までの時代は、儒者が論ずるのは、喪に服するときの祭祀のこととか、冠や服装の細かなどうでもよい事ばかりであった。世の中が古びていくのを待っているだけでなく、儒者自身も古びて役立たずになっていった。悲しむべきことである。

 宋の時代になると大学者が次々に出て儒学の道を明らかにし、孔子の学問について出版するなど儒学の中興と称えられた。しかし顧みれば六・七の大学者以外は、あるいは議論ばかりで結果が伴わず、あるいは昔のやり方にこだわって現在の情勢に暗かった。まことに役立たずである「腐」を治すことは容易ではない。

 

(3)歴史上の様々な腐

(漢文)

漢唐群儒、拘泥訓詁、刻鉉抱柱、不達時変、不可施于政、此儒之腐于狭陋者也、六代儒生、風流都雅、胸無定見、附勲業於不問、甘終老于對白抽黄之間、此儒之腐于浮靡者也、宋代諸賢、精於析理、而短於成務、行不能酬其言、此儒之腐於虚遠者也、悠々歴代、如諸葛武侯韓魏公之超絶不群、益僅々而見耳、腐之極也、有請讀孝経以散反賊者、有弔喪而匍匐入門者、有行二里餘、知其爲径、而旋馬還由大道者、此等迂謬、獨吾儒有之、而他人莫與、叉何以逃腐儒之誚哉、世叉有一種儒先、放浪無頼、沈酣花柳、務自異於拘儒者、及責以錯節盤根之用、茫不知所下手、由識者観之、鈞歸於腐、譬之肉、彼拘泥之儒、是脯之浩之、𦁑久味失者、至於放浪無行之儒、則無異於盛夏収蔵累旬、爛潰蟲出、不可近口、其可斁何如也、

(読み下し文)

 漢唐の群儒、訓詁に拘泥し、鉉(ふなばた)を刻(きざ)柱を抱く。時変に達せず、政(まつりごと)に施すべからず。此の儒之(これ)狭陋(キョウロウ)たるに于(おい)て腐たる者なり。

 六代の儒生、風流都雅(トガ)にして、胸に定見無く、勲業(クンギョウ)を不問に附す。對白抽黄(タイハクチュウコウ)の間に終老(シュウロウ)するに甘んず。此の儒之(これ)浮靡(フビ)たるに于(おい)て腐たる者なり。

 宋代の諸賢、析理(セキリ)に精(くは)しく、而(しこう)して成務に短(おと)り、行(おこな)ひ其の言に酬(こた)ふること能はず。此の儒之(これ)虚遠(キョエン)たるに於て腐たる者なり。

 悠々歴代、諸葛武侯(ショカツブコウ)韓魏公の如きの超絶して群れざるは益(ますます)僅々(キンキン)に見るのみ。

 腐の極まるや、孝経を讀み以て反賊を散らすを請ふ者有り、弔喪して匍匐(ホフク)入門する者有り、二里餘りを行き其の径(ちかみち)爲るを知りて旋馬(センバ)し大道より還(かへ)る者有り、此等(これら)迂謬(ウビュウ)、獨(ひと)り吾儒のみ之(これ)有り他の人莫(な)きか、叉何を以て腐儒の誚(せめ)を逃る哉。

 世に叉一種の儒先有り。放浪無頼、花柳に沈酣(チンカン)し、務めて自ら拘儒(コウジュ)に異ならんとする者、錯節盤根(サクセツバンコン)の用を以て責むるに及べば、茫(ボウ)として手を下す所を知らず。

 識者之を観るに由(よ)れば鈞(ひと)しく腐に帰す。之(これ)を肉に譬(たと)ふれば、彼の拘泥の儒、是れは之(これ)を脯(ほじし)にし之(これ)を腊(ひもの)にし、𦂡(つづ)けて久しく失(あやまち)を味はふなり。放浪無行の儒に至れば、則ち盛夏に収蔵すること累旬(ルイジュン)にして爛潰(ランカイ)蟲出(チュウシュツ)し、口を近づくべからざるに異ならず。其れ何如(いかが)(えら)ぶべきや。

 

訓詁(古い文字や言葉の意味を解釈すること) 

鉉(ふなばた)を刻(きざ)む(時勢の移ることを知らず、いたずらに古いしきたりを守ることのたとえ。舟の上から川の中に剣を落とした者が、舟の流れ動くことを考えず、落ちた位置の印を舟ばたにつけて、岸についてから印の下を探そうとしたという「呂氏春秋‐慎大覧・察今」の故事による) 

柱を抱く(馬鹿正直で、融通のきかないことのたとえ。中国、春秋時代、魯の尾生という男が女と橋の下で会う約束をして待っていたが、女は来ず、大雨で河が増水してもなお約束を守って橋の下を去らなかったために、ついに溺死したという「荘子‐盗跖」「戦国策‐燕策・昭王」「史記蘇秦伝」などに見える故事による) 狭陋(キョウロウ)(見識が狭く融通がきかないこと) 都雅(トガ)(みやびやか) 勲業(クンギョウ)(国や君主に尽くす働き) 對白抽黄(タイハクチュウコウ)(美しい文章を作ること) 終老(シュウロウ)(余生を送る) 浮靡(フビ)(表面上のみ華やかだが実質が伴っていないこと) 析理(セキリ)(道理を細かに説き明かすこと) 成務(仕事を成し遂げること) 虚遠(キョエン)(現実離れしていること)

悠々歴代(何代も続く長い歴史の中で)諸葛武侯(ショカツブコウ)(諸葛孔明) 韓魏公北宋の政治家、王安石の新法に反対したことで有名) 僅々(キンキン)(わずか) 

弔喪して匍匐入門する者 (陳烈が蔡君謨の葬式に行ったとき、その門前まで来ると弟子たちを引き連れて匍匐(四つん這い)して門に入った。人が訳を尋ねると、「凡そ民の喪有る、匍匐してこれを救う、と申すからじゃ」と答えた。この場合の匍匐は力を尽くすという意味で、「匍匐之救」とは他人の喪に際して力を尽くして援助することであるが、陳烈は匍匐をはらばうの意味に解した。物の理に通じない腐儒はこれほどまでになるという例。(『五雑組 七』 二七頁 東洋文庫) 

旋馬(センバ)(馬の向きをかえる) 迂謬(ウビュウ)(間違いだらけであること)花柳(遊女) 沈酣(チンカン)(心酔) 拘儒(コウジュ)(視野の狭い学者) 錯節盤根(サクセツバンコン)(複雑で処理困難な事柄) (ほじし)(乾肉) 累旬(ルイジュン)(数十日) 爛潰(ランカイ)(腐ってつぶれる) 蟲出(チュウシュツ)(死体からウジ虫が出ること)

 

(現代語訳)

 漢や唐の多くの儒者は古い文字や言葉の解釈である訓詁に拘泥した。舷を刻み、柱を抱くようなもので、時代の変化に対応できず政治には使い物にならなかった。これは儒者が見識が狭く融通がきかないという意味で「腐」であった。

 魏晋南北朝時代である六代の儒学者は風流みやびやかで、胸には定見が無く、国や君主に尽くすことを無視して、美しい文章を作って余生を過ごすことに甘んじていた。これらの儒者は表面上のみ華やかで実質が伴っていないという意味で「腐」であった。

 宋の時代の多くの賢者は道理を細かに解き明かすことには長けていたが、実務に疎く、言葉に実行が伴わなかった。こうした儒者は現実離れしているという意味で「腐」であった。

 何代も続く長い歴史の中で諸葛武侯や韓魏公のような超絶して群れない人はますますわずかに見られるだけとなった。

 「腐」が極まると、孝経を読んで謀反人が退散するように願う者が出てきたり、葬式の時に四つん這いになって門に入る者がいたり、二里餘りの道を行ってからそれが近道であったことを知ると馬の向きを変えて大道にもどる者もいた。こうした世間の事情にくらくて、誤りが多いことは儒者だけにあって、他には無いものだろうか。またどうしたら腐儒の非難を免れるだろうか。

 世の中にまた一種の儒者がいて、放蕩無頼、遊女に夢中で、務めて自ら視野の狭い儒者とは異なろうとしていたが、複雑で困難な仕事を与えたら、茫然としてどこから手を付けてよいかわからなかった。識者がこれを見ればやはり同じような「腐」ということになる。これを肉に例えれば、古いことに拘泥する儒者は肉を干物にして長く過ちを味わい続けることを良しとする者で、放蕩無頼の儒者は肉を夏の暑い盛りに数十日も保存して、腐ってウジ虫が出て口を近づけることもできなくなっているのと同じである。そのどちらを選ぶべきだろうか。

 

(4)役人と兵学者の腐

(漢文)

顧昇平二百載、人気惰偸、其迂腐者、滔々而是、非獨儒爲爾也、俗吏以期會簿書爲要務、拘條例、繁儀文、好訐人小疵摘文書徴瑕、以自呈能、於宗社大計、士民休戚、未始経心、即使古之名臣細川頼之井伊直孝之倫、生于今、與之騈肩、必為其所疵瑕、是吏不免於腐也、兵家者流、泥陳編守成迹、雄辯懸河、源平甲越戦争之状、昭在目前、及審察之、宛然馬服子之不知應變、使之登壇禦侮、亦龍鍾輿尸耳、是兵家亦不免於腐也、俗吏武夫、皆咲儒之腐者、而流為目論、天下之大克不流於腐者、幾人耶、

 

(読み下し文)

 顧(かへりみ)て昇平二百載、人気惰偸(ダトウ)、其の迂腐(ウフ)たる者、滔々(トウトウ)として而(しか)も是、獨(ひと)り儒のみ爾(これ)を爲すに非ざるなり。

 俗吏期會(キカイ)簿書を以て要務と爲し、條例に拘(こだは)り、儀文に繁(しげ)く、人の小疵(ショウシ)を訐(そし)り文書を摘(あば)き瑕(あやまち)を徴(とひただ)すを好み、以て自ら能(ちから)を呈(しめ)す。宗社の大計、士民の休戚(キュウセキ)に於て、未だ始めから経心(ケイシン)せず。即使(たとひもし)(いにしへ)の名臣細川頼之井伊直孝の倫(ともがら)、今に生くとも、之(これ)と騈肩(ヘイケン)し、必ず其の疵瑕(カシ)とする所を為さん。是(ここ)に吏、腐を免れざるなり。

 兵家者流、陳編(チンペン)に泥(なづ)み迹(あと)を守成(シュセイ)す。雄辯懸河(ユウベンケンガ)、源平甲越戦争の状(ありさま)、昭(あきらか)に目前に在り。之を審察(シンサツ)に及べば、宛然(エンゼン)馬服子の應變(オウヘン)を知らざるがごとし。使(も)し之(これ)を登壇(トウダン)禦侮(ギョブ)せしめば、亦(また)龍鍾輿尸(リョウショウヨシ)するのみ。是(ここ)に兵家亦腐を免れざるなり。

 俗吏武夫、皆、儒の腐なるを咲(わら)ふ者は而(しこう)して目論(モクロン)を為すに流る。天下の大なるに克(よ)く腐に流れざる者幾人か。

(語釈)

昇平(太平 平和) 惰偸(ダトウ)(怠惰で軽薄) 迂腐(ウフ)(まわりくどくて役に立たない)     滔々(トウトウ)(往来している 歩き回っている) 期會(キカイ)簿書(会計帳簿) 儀文(儀式の作法やきまり) 小疵(ショウシ)(小さな欠点) 宗社(国家) 休戚(キュウセキ)(喜びと悲しみ、幸と不幸) 経心(ケイシン)(注意 留意) 細川頼之[1329~1392]南北朝時代の武将。室町幕府管領として足利義満を助け、幕政の安定をはかった。のち、一時失脚したが、中国・四国地方の平定に活躍して、再び幕政に参加) 井伊直孝([1590~1659]江戸初期の武将。直政の次子。近江国彦根藩主。大坂夏の陣に功を立て、徳川秀忠・家光・家綱3代に仕えた)  騈肩(ヘイケン)(肩を並べる)疵瑕(カシ)(欠点) (役人) 兵家者(兵学者)陳編(チンペン)(古臭い書物) 泥(なづ)む(こだわる) 迹(あと)(これまでのやり方) 守成(シュセイ)(すでに出来上がったものを守る) 雄辯懸河(ユウベンケンガ)(流れるような弁舌) 審察(シンサツ)(よく考えること) 宛然(エンゼン)(あたかも) 

馬服子 中国戦国時代の政治家.趙の人.若くして兵法を学び,天下一と自任していた.趙と秦の長平の戦いで,趙の将軍の廉頗は持久戦をとり秦軍は苦しんだ が、秦は馬服子が将軍になることを恐れていると噂を流し,これにより趙の孝成王は,廉頗を罷免して馬服子を将軍とした.馬服子は秦軍に攻勢に出て大敗,包囲され,ついに戦死した.趙軍は秦に降伏し,その兵士40万人は穴埋めとなった  .

應變(オウヘン)(変化に応じて適切な処置をとること) 登壇(トウダン)(大将や諸侯になること) 禦侮(ギョブ)(敵の攻撃を防ぐこと) 龍鍾輿尸(リョウショウヨシ)(敗戦し失意のうちに死体を載せて帰る)

目論(モクロン)(目は自分のまつ毛が見えないように、他人の欠点はわかるが自分の欠点はわからないこと)

 

(現代語訳)

 天下泰平の二百年を振り返ってみれば、人々の精神は怠惰で軽薄であり、回りくどくて役に立たない者が歩き回っており、しかもそれは儒者だけではない。

 役人は会計帳簿を重要任務と考え、法令に拘り、儀式の作法やきまりに忙しく、人の小さな欠点を非難し、文書をあばいてあやまちを問いただすのを好み、それで自分の能力を示そうとする。国家の大計や士民の喜びや悲しみ、幸不幸については全く留意しない。たとえ古の名臣である細川頼之井伊直孝のような人が今生きていたとしても、彼らと肩を並べ同じ過ちを犯すだろう。こうして役人も「腐」であることを免れない。

 兵学者は古臭い書物にこだわり、従前のやり方を守る。流れるような弁舌で、源平合戦川中島の合戦ありさまが目の前に浮かぶように語る。このことをよく考えてみるとあたかも中国の戦国時代の兵法家である馬服子が変化に応じた適宜の処置をとることができなかったのと同じで、彼らを採用して敵の攻撃を防がせれば、また敗戦して失意のうちに帰ってくるのみだろう。このため兵学者も「腐」であることを免れない。

 役人も武士も儒者の「腐」であることを笑うが、他人のまつ毛は見えても自分のまつ毛は見えないように、他人の欠点はわかっても自分の欠点をわかっていないだけのことだ。天下に「腐」に流れないでいられる者がどれほどいようか。

 

(5)清と西洋諸国 侵略に務め腐に陥らず

(漢文)

宋明之季、文過生弊、経畫悉趦於迂腐、馴致戎虜之祻、此殷鑒之章々者也、清既代明、雖多虐政、百七十祀、冨強如一日、兼弱併小、幅員日廣、在西土、是稱亘古靡亢、泰西諸國、富國闢土是事、不顧理義、國之強大者、畏而求媚、其極小弱、或無主者、亟圖呑噬、数百年前、風気尚鬱、人欲未大滋、地形多所未悉、各國其國、不甚相陵虐、数百年来、智巧紛起、慾日轉熾、地圖、靡不詳晰、清既悉殄殲、西北諸戎、羅叉亦呑併隣邦無数、自他諸国、多類此、故清之暴残、泰西之貪惏可悪、其務牟實利、不陥於腐、則不可不畏也、

 

(読み下し文)

 宋明の季(すゑ)、文過ぎ弊(ヘイ)を生み、経畫(ケイカク)(ことごと)く迂腐(ウフ)に趦(とどこほ)り、戎虜の祻(わざはひ)に馴致(ジュンチ)す。此れ殷鑒(インカン)の章々(ショウショウ)たる者なり。

 清既に明に代り、虐政(ギャクセイ)多しと雖も百七十祀、冨強一日の如し。弱きを兼ね、小さきを併せ、幅員(フクイン)(ひび)廣ぐ。西土に在りて、是れを亘古(コウコ)靡亢(ビコウ)と稱(たた)ふ。

 泰西諸國、富國闢土(ヘキド)是れを事とし、理義を顧(かへりみ)ず。國之(これ)強大なれば、畏(おそれ)て媚(こび)を求め、其れ極めて小弱にして或(あるい)は主(あるじ)無ければ亟(すみやか)に呑噬(ドンゼイ)を圖(はか)る。数百年前、風気(フウキ)尚ほ鬱(ウツ)として、人未だ大いに滋(ふえ)ざらんと欲し、地形未だ悉(つく)さざる所多し。各國其國、相(たがい)に陵虐(リョウギャク)すること甚しからず。数百年来、智巧(チコウ)紛起(フンキ)し、日(ひび)(いよいよ)(さかん)ならんと慾す。地圖の詳晰(ショウセキ)ならざるは靡(な)し。

 清既に悉(ことごと)く西北諸戎を殄殲(テンセン)し、羅叉(ロシア)(また)隣邦の無数を呑併(ドンペイ)す。自他諸国の多く此れに類(に)る。故に清の暴残、泰西の貪惏(タンラン)(にく)むべし。其れ實利を牟(むさぼ)り腐に陥らざるに務(つと)む。則ち畏れざるべからざるなり。

(語釈)

経畫(ケイカク)(企画)  迂腐(ウフ)(まわりくどくて役立たないこと 御役所仕事) 戎虜の祻(わざはひ)(異民族による侵略) 殷鑒(インカン)(戒めとすべき失敗の前例) 章々(ショウショウ)(明らか) 虐政(ギャクセイ)(人民を苦しめる政治) 兼ぬ(併呑する) 併す(併呑する) 幅員(フクイン)(面積) 西土(中国) 亘古(コウコ)(昔から今まで) 靡亢(ビコウ)(類の無いこと)富國闢土(フコクヘキド)(国を富ませ土地を開くこと) 事(こと)とす(専念する) 理義(道理と正義) 風気(フウキ)(気風) 陵虐(リョウギャク)(いためつけること しいたげること) 巧(チコウ)(知恵と技巧) 紛起(フンキ)(盛んに起こる)詳晰(ショウセキ)(詳細で明らかなこと) 殄殲(テンセン)(滅ぼしつくす) 貪惏(タンラン)(強欲)

 

(現代語訳)

 宋や明の末期には文化が行き過ぎて弊害を生み、国家の計画はすべて回りくどく役立たない御役所仕事のようなものなり、異民族による侵略を次第に受けるようになった。これは戒めとすべき明らかな失敗の前例である。

 明に代わって清となり、人民を苦しめる政治が多いとはいえ、百七十年間常に富強であった。弱国小国を兼併し、領土を日々広げた。これは中国では昔から今までにたぐいの無いことだと称えられている。

 西洋諸国は国を富ませ領土を広げることに専念し、道理や正義を顧みない。国が強大であれば恐れて媚びへつらい、弱小であったり主が無ければ速やかに侵略する。数百年前はまだ鬱然とした気風で人はそれほど増えることを望んでいなかったし地形もよくわからない所が多かった。各国は互いに痛めつけることも多くなかった。数百年の間に知恵と技巧が起こり、それが日々盛んになっていった。地図で明らかになっていない所はなくなった。

 清は既に西北の異民族をすべて滅ぼし、ロシアもまた多数の隣国を併呑した。その他の多くの諸国もこれと似たようなことをしている。故に清の暴虐や西洋諸国の強欲ぶりは憎むべきものである。彼らは実利をむさぼり「腐」に陥らないように務めている。だからこそ恐れないわけにいかないのだ。

 

(6)腐を避ける方法

(漢文)

本邦治教休美、士風純良勇鷙、洵甲于萬国、上古以還、所攻者必服、来侵者必虀粉、威稜震耀乎六洲、雖有狡焉之虜、決不敢撊然以兵相抗、雖然智士當事、貴及其未萌而制之、吾邦果擧世流於迂腐、間失撫御之方、烏知其不啓戒心耶、祛迂腐無他術、滌煩文、期實效、下情無有壅隔、百官四民、各盡其職、内之有以全中古剛武之俗、外之有以晰萬國之情形、如斯而已、此固馭外夷之良策、抑亦濟時之上計也、予也儒而腐、深自愧悪、顧世之同病者、亦不尠、願上為國、下為己相與勗而改之、

 

(読み下し文)

本邦治教(チキョウ)休美(キュウビ)にして、士風純良勇鷙(ユウシ)。洵(まこと)に萬国に甲(まさ)る。上古以還、攻むる所の者は必ず服し、来侵する者は必ず虀粉(セイフン)し、威稜(イリョウ)六洲に震耀(シンヨウ)す。狡焉(コウエン)の虜(えびす)有りと雖(いへど)も、決して敢(あへ)て撊然(カンゼン)兵を以て相抗(あらが)はず、然りと雖(いへど)も智士事に當り、其の未だ萌(きざ)さずして之を制するに及ぶを貴(たっと)ぶ。吾邦果して世を擧げ迂腐(ウフ)に流るれば間(このごろ)撫御(ブギョ)の方(てだて)を失ふ。烏(いづくん)ぞ其れ戒心(カイシン)を啓(ひら)かざるを知るや。

 迂腐を祛(はら)ふに他に術(すべ)無し。煩文を滌(のぞ)き實效(ジッコウ)を期す。下情に壅隔(ヨウカク)有ること無し。百官四民各其の職を盡(つく)す。内には之(これ)中古の剛武の俗(ならはし)を全うする以て有り、外には之(これ)萬國の情形を晰(あきらか)にするを以て有る。斯(かく)の如くのみ。此れ固(もと)より外夷を馭(ギョ)するの良策にして抑(そもそも)(また)濟時(セイジ)の上計なり。

 予也(や)儒にして腐なり。深く自ら愧(は)じ悪(にく)む。顧(かへりみ)て世の同病者亦(また)(すくな)からず。願はくば、上は國の為、下は己の為、相與(とも)に勗(つと)めて之を改むことを。

(語釈)

治教(チキョウ)(政治と教化) 休美(キュウビ)(うるわしい) 虀粉(セイフン)(粉みじんに砕く)    威稜(イリョウ)(天子の威光) 震耀(シンヨウ)(ふるい輝く) 狡焉(コウエン)(狡猾)撊然(カンゼン)(怒って) 撫御(ブギョ)(人をいたわってよく統治すること) 戒心(カイシン)(用心すること、油断しないこと) 煩文(煩わしい形式的な儀式) 實效(ジッコウ)(実際の効力) 下情(一般庶民のようす)    壅隔(ヨウカク)(ふさぎへだてること) 濟時(セイジ)(世の困難を救うこと)

 

(現代語訳)

 わが国の政治や教化はうるわしく、武士の気風は純良で勇ましい。これはまことに万国に優ることだ。古代から攻めれば相手は必ず降伏し、侵略者は必ず撃退し、国家の威光は世界に輝いた。狡猾な敵がいてもあえて武力で争うことはしなかった。知恵の有る者は問題が起こる前にこれを抑えることを重視した。

 わが国もとうとう世を挙げて、回りくどく役立たずの御役所仕事的傾向に流れてしまったので、人をいたわって統治する方法を失った。それは用心をしなくなることだと知っているだろうか。

 御役所仕事を避ける方法は他でもない。煩わしい形式的な儀式を廃止し、実効が上がるようにすること。庶民の実情をよく知ること。各人がすべてその職務を尽くし、内には中世以来の剛勇の気風を保ち、外には万国の情勢をよく調べること。これだけだ。これは当然外敵を制する良策であり、また世の困難を救う方法でもある。

 自分も儒者であり「腐」である。自ら深く恥じ入るが、顧みれば世の中に同病者も少なくない。願わくば、上は国のため下は自分自身のために、共につとめてこれを改めたいものだ。