海防臆測 後編(31~56)

 

其三十一(外国事情に暗く無関心な為政者にはせめて毎日世界地図を見せて教育すべし)

人之宰事、必先審其首尾悉其曲折、然後可注措之協宜、若乃黯々黮々、不炳照、而任意設施、尟不事、矧戎虜地勢、極其荒遐、而人情詭幻、變動叵測度乎、西洋諸國之彊域風尚、本邦人絶不之悉、殆如痴人之談一ㇾ夢然、此固其地之遼隔、政俗之殊趨、以至此、亦吾禁令自使之然也、予観今代所目以才諝幹蠱之臣、其値盤錯難處之事、順利駿快、莫悉中窾會、至外夷情形、則迂謬舛乖、不隔靴而爬上ㇾ痒、以斯心處修攘大計、幾何不於決裂崩潰也、世有忠猷爲之士、不坐視其錯乱、爲之反覆開譬、方且流涕長大息、而褎若聞知、可哀也已、予謂欲華夷形勢、莫地圖、今之握枢軸者、夫人掲萬國全圖稍詳確者於坐側、昕夕観翫、間詢諸群下頗洞外國概略、以窺遠夷風土之彷彿、於是乎、見西洋諸國封域咸大於漢唐宋明、勝兵百萬、綱紀整飭、屹然克自樹立、則必知外國之不上ㇾ侮蔑矣、聞西洋諸國不自安於欧邏巴、以漸蠺食四大洲、服屬海南諸島、侵支那、則自覺外夷之姦狡貪惏眞可上ㇾ疾矣、如是可以動其慎畏之心、乃人之昌言易入、而謬擧亦漸可革也。夫圝風七月無逸之圖、以儆悟人主、洵良臣之苦心也、今以地圖迪顕貴人、術類苯浅、而其裨補自有誣者焉、

 

(読み下し文)

人の事を宰(つかさどる)には、必ず先づ其の首尾を審(つまびらか)にし悉(ことごと)く其の曲折を洞(みとほ)し、然(しか)る後、注措(チュウソ)の宜(よろ)しきに協(かな)ふを望むべし。若乃(もしすははち)黯々黮々(アンアンタンタン)として炳照(ヘイショウ)(あた)はずして、意に任せ設施(セッシ)せば、事の僨(たふ)れざること尟(すくな)し。矧(いはんや)、戎虜(ジュウリョ)の地勢、其の荒遐(コウカ)を極(きは)む。而(しか)して人情詭幻(キゲン)にして變動測度(ソクタク)すべからず。西洋諸國の彊域(キョウイキ)風尚(フウショウ)、本邦人絶へて之(これ)を悉(つく)さず、殆(ほとん)ど痴人の夢を談ずるが如し。此(これ)(もと)より其の地の遼隔(リョウカク)にして、政俗の殊趨(シュスウ)なるを以て此(ここ)に至る。亦吾(わが)禁令自(おのづ)から之(これ)を然(しか)らしむなり。予、今代(コンダイ)の才諝幹蠱(サイショカンコ)の臣を以って目(モク)する所の者を観れば、其の盤錯(バンサク)(ショ)し難きの事に値(あた)り、順利駿快(ジュンリシュンカイ)、悉く窾會(カンカイ)に中(あた)らざるなし。外夷情形を論ずるに至れば、則ち迂謬(ウビュウ)舛乖(センカイ)にして、啻(ただ)靴を隔(へだ)てて痒(かゆ)きを爬(か)くのみならず、斯(かか)る心を以て修攘(シュウジョウ)の大計を區處(クショ)せば、幾何(いくばく)ぞ決裂崩潰(ホウカイ)に至らざるや。世に忠藎猷爲(チュウジンユウイ)の士有り、其の錯乱を坐視するに忍びず、之(これ)が爲(ため)反覆開譬(ハンプクカイヒ)し、方(まさ)に且(まさ)に流涕(リュウテイ)長大息(チョウタイソク)す。而(しか)して褎(ユウ)として聞知(ブンチ)せざるが若(ごと)し。哀れむべきなるのみ。予謂(おも)へらく、華夷形勢を瀏覧(リュウラン)せんと欲すれど、地圖の如きは莫(な)し。今の枢軸(スウジク)を握る者、夫の人、萬國全圖の稍詳しく確かなるを坐側に掲げ、昕夕(キンセキ)観翫(カンガン)する間、諸群下(グンカ)の頗る外國概略を洞(みとほ)す者に詢(はか)り、以て遠夷風土の彷彿(ホウフツ)を窺(うかが)ひ、是に於て、西洋諸國封域咸(みな)、漢、唐、宋、明より大にして、勝兵百萬、綱紀整飭(セイチョク)、屹然(キツゼン)(よ)く自(みづか)ら樹立するを見れば、則ち必ず外國、之(これ)侮蔑すべからざるを知るなり。西洋諸國、欧邏巴一洲に自(みづか)ら安(やす)んぜず、以て漸(やうや)く四大洲を蠺食(サンショク)し、海南諸島を服屬(フクゾク)させ、支那に侵逼(シンピツ)するを聞かば、則ち自(おのづ)から外夷之(これ)姦狡(カンコウ)貪惏(タンラン)にして、眞(まこと)に疾(にく)むべきを覺ゆるなり。是(かく)の如くして以て其の慎畏(シンイ)の心を動かすべし。乃(すなはち)人の昌言(ショウゲン)入り易(やす)く、而(しかう)して謬擧(ビュウキョ)亦漸(やうや)く革(あら)むべきなり。夫れ豳風(ヒンプウ)七月無逸(ムイツ)の圖、以(おも)ふに人主を儆悟(ケイゴ)すること、洵(まこと)に良臣の苦心なり。今地圖を以て顕貴人を誘迪(ユウテキ)する術(わざ)、笨浅(ホンセン)に類(に)る。而(しか)れども其の裨補(ヒホ)(おのづ)から誣(いつは)るべからざる者有り。

首尾(シュビ)(初めから終わりまで) ・曲折(キョクセツ)(込み入った事情) ・注措(チュウソ)(措置) ・黯々黮々(アンアンタンタン)(暗いこと) ・炳照(ヘイショウ)(明らかに照らすこと) ・設施(セッシ)(計画を実行すること) ・荒遐(コウカ)(はてしなく遠い 遠く寂しい) ・詭幻(キゲン)(不可思議) ・測度(ソクタク)(推し量ること) ・彊域(キョウイキ)(領域) ・風尚(フウショウ)(人々の好み)  ・遼隔(リョウカク)(はるかにへだたっていること) ・政俗(政治と文化) ・殊趨(シュスウ)(異なること) ・今代(コンダイ)(今の世の中) ・才諝幹蠱(サイショカンコ)(才能があり賢い) ・目(モク)する(自称する) ・盤錯(バンサク)(錯綜し困難なこと) ・順利駿快(ジュンリシュンカイ)(すらすらと)・窾會(カンカイ)に中(あた)る(穴とふたが全部ぴったりと合うこと 適切な処置をしていること)・迂謬(ウビュウ)(誤りが多い まちがいだらけ) ・舛乖(センカイ)(的外れ) ・修攘(シュウジョウ)(防衛の準備) ・區處(クショ)(対処) ・忠藎猷爲(チュウジンユウイ)(忠義の心が厚く思慮深い) ・反覆開譬(ハンプクカイヒ)(繰り返したとえを説くこと) ・(ユウ)(笑って) ・瀏覧(リュウラン)(目を見張って見る) ・枢軸(スウジク)(物事のたいせつなところ。要点。中心となって他を動かす勢力) 昕夕(キンセキ)(朝夕) ・観翫(カンガン)(見て楽しむ)・諸群下(グンカ)(家臣) ・彷彿(ホウフツ)(おおよその姿) ・封域(領域)・整飭(セイチョク)(整うこと) ・侵逼(シンピツ)(侵略しようと迫っていること) ・姦狡(カンコウ)(悪賢い) ・貪惏(タンラン)(強欲) ・慎畏(シンイ)の心(つつしみおそれる心) ・昌言(ショウゲン)(道理にかなった良い言葉) ・謬擧(ビュウキョ)(誤った行い) ・豳風(ヒンプウ)七月詩経の中に在る周公旦が先祖時代に農事に励んだことを偲んで作った詩。朝夕諷誦させて農業、勤労の事を教えた)・無逸の圖(無逸は書経の中で周公旦が成王に対して君子は勤めるべきで安逸にふけるべきではないことを教えている一節。無逸の圖は宋の孫奭(ソンセキ)の描いた絵画)・儆悟(ケイゴ)(いましめる) ・顕貴人(高位の人)・誘迪(ユウテキ)(誘いみちびくこと) ・笨浅(ホンセン)(おろかであさはか) ・裨補(ヒホ)(助け補うこと) ・誣(し)ふ(欺く、だます)

 

(現代語訳)

 人が物事を行うには、まずその事の始めから終わりまでを明らかにして、込み入った事情もすべて見通すことが必要で、そうすれば適切な措置の実現が期待できる。それなのに事情に暗く先も見通せないのに思うにまかせて計画を実行すれば失敗しないほうが少ない。ましてや外国についてはその国土は果てしなく遠く、その考えは不可思議でどのように変動するのか推し測ることができない。西洋諸国の国土や人々の好みについて日本人は全く知らずほとんど痴人が夢を語っているようなものだ。これはもともと西洋の地がはるかに遠く政治・文化も異なっているためだ。またわが国の禁令のせいでもある。現在最も才能があり賢い家臣であると自称する人を見ると、確かに複雑で困難な問題をすらすらと適切に解決している。しかし外国の情勢を論ずることになると事情に暗く間違いだらけで的外れだ。靴の上からかゆみを掻いているようにもどかしいだけでなく、こんな心がけで防衛の準備という大計画に対処しようとすれば必ず大失敗に至る。世の中に忠義の心が厚く思慮深い人がいて、その錯乱ぶりを座視するのに耐えられずこの人のために涙を流しため息をつきながら、くり返したとえ話を説いたことがあったが、この人はただ笑っているばかりでまるで聞いていないかのようだった。哀れなことだ。

 私が思うには、外国の情勢をよく見たいと思っても地図のようなものがない。今の為政者は、世界地図のやや詳しく確かなものを座席の横に掲げて朝夕見て楽しみ、家臣の中で外国事情に詳しい者に聞いて外国の風土のおおよその姿を知る。そうして西洋諸国の領域が漢や唐、宋、明よりも大きく、多数の兵力を有し、規律が整い孤高を保って自立しているのを知れば、必ず外国はあなどれない存在であることを知ることになろう。西洋諸国はヨーロッパ大陸だけに安住せず次第に四大大陸を侵略し、海南諸島を服属させ中国を侵略しようと迫っていると聞けば、おのずから外国というのは悪賢く強欲で憎むべきものであることに気づくだろう。このようにすれば為政者の慎みおそれる心を動かせる。そうすれば人の道理に合った言葉が理解しやすくなり、誤った行為も次第に改められるだろう。周公旦が先祖時代に農事に励んたことを偲んで作った書経の豳風七月の詩や、周公旦が成王に対して君子は勤めるべきで安楽にふけるべきではないことを教える書経の一節の場面を描いた無逸の圖に見られるように、君主をいましめることはまことに良き家臣の苦心するところである。地図で高位の人を教え導くことはおろかなことのようにも思えるが、それが助けになることは偽りようのないことである。

 

其三十二(病気を直視するように西洋も直視しなければ対策の立てようもないが、現状は余りにも無関心だ)

方今大吏重臣、間有深悪羅刹英機黎之貪狡、已絶不其政俗及防禦之宜、又不他人之道一ㇾ之者、是其悪二国則固當、至已不敢言、且禁人之言、則失得竟何如也、夫所於西洋諸國者、以其懐侵削吞噬之心也、果悪其侵噬、當以遏絶之之方、吾竭我心思、揆時之宜而詳論之、又博釆輿人之議、参證考覈、以定虜之長策、方爲好悪之當、故雖韋布之綦賎、而丁寧謐之代豫慮外夷之患、克審考其國俗兵力、以資海防之用、咸士之有志者也、若乃外夷之治忽彊弱概措之膜外、吾既絶不討究、又尼人使熟議、以馴致海防兵備壊隳弗一ㇾ修、異日侵擾之禍、有言者、斯與於外夷之甚者也、今有篤痾而酷悪死者、當力自摂養、其於食色痛警己、曰乎此則必死、不乎彼則必死、又當病顛末、明告良醫、以詢死之方、昕夕反覆、以死字身、方可乎死、世乃多疾忌醫、甚且諱死字、袖手無作、以冀其自愈、必不救、如秦政嬰疢悪上ㇾ死事是已、嗚呼謀國而甘踏秦皇之覆轍、可鄙之極、予將如之何哉、

 

(読み下し文)

方今大吏(ダイリ)重臣、間(このごろ)深く羅刹(ロシア)、英機黎(イギリス)の貪狡(タンコウ)を悪(にく)み、已(すで)に絶へて其の政俗及び防禦の宜(よろし)きを道(い)はず、又他人の之(これ)を道(い)ふを喜ばざる者有り。是れ其の二国を悪むこと則ち固(もと)より當(しか)り。己(おのれ)敢て言はず、且(かつ)人の言ふを禁ずるに至れば、則ち失得竟(つひ)に何如(いかが)なるや。夫れ西洋諸國を悪(にく)む所の者、其の侵削吞噬(シンサクドンゼイ)の心を懐(いだ)くを以てなり。果して其の侵噬(シンゼイ)を悪(にく)まば、當(まさ)に以て之(これ)を遏絶(アツゼツ)する所の方(てだて)を思ふべし。吾(われ)我心思(シンシ)を竭(つく)し、時の宜(よろし)きを揆(はか)りて之(これ)を詳論し、又博(ひろ)く輿人(ヨジン)の議を采(と)り、参證(サンショウ)考覈(コウカク)し、以て虜(てき)を防ぐの長策を定め、方(まさ)に好悪の當(トウ)を得させんとすべし。故に韋布(イフ)の綦(きはめ)て賎(いや)しきと雖(いへど)も、寧謐(ネイヒツ)の代に丁(あた)り、豫(あらかじ)め外夷の患(わづらひ)を慮(おもんばか)り、克(よ)く其の國俗兵力を審考(シンコウ)せば、以て海防の用を資(たす)くべし。咸(みな)士の志(こころざし)有る者なり。若乃(もしすなはち)外夷の治忽(チコツ)彊弱(キョウジャク)(おほむ)ね之(これ)を膜外(バクガイ)に措き、吾既(すで)に絶へて討究せず。又、人を尼(とど)め、熟議を得ざらしめ、以て海防兵備壊隳(カイキ)し修まらざるに馴致(ジュンチ)すれば、異日侵擾(シンジョウ)の禍(わざはい)、言ふに勝(た)ふべからざる者あり。斯(これ)外夷に與(くみ)するの甚(はなはだ)しき者なり。今篤痾(トクア)に罹(かか)りて酷(ひど)く死を悪(おそ)る者有らば、當に力(つと)めて自(みづか)ら摂養(セツヨウ)し、其の食色(ショクショク)に於て痛く己(おのれ)を警(いまし)め、此(これ)を戒(いまし)めざれば則ち必ず死に、彼(か)を慎まざれば則ち必ず死ぬと曰(い)ふべし。又當(まさ)に病(やまひ)の顛末を具(そな)へ、良醫に明告し、以て死を免(まぬか)るるの方(てだて)を詢(と)ふべし。昕夕(キンセキ)反覆し死字を以て身を切(つつし)めば、方(まさ)に死を脱すべし。世乃(すなは)ち、疾(やまひ)を護(まも)り醫を忌(い)み、甚しきは且(まさ)に死字を擧ぐるを諱(い)み、袖手無作(シュウシュムサク)、以て其の自(おのづ)から愈(い)ゆるを冀(こひねが)ふ者多し。必ず救ふべからず。秦政疢(チン)に嬰(かか)り、死事を言ふを悪(にく)むが如き是(これ)なり。嗚呼(ああ)國を謀(はか)り而(しか)して甘んじて秦皇の覆轍を踏む、鄙(いやし)むべきの極(きはみ)なり。予將(まさ)に之(これ)を如何(いかが)すべきかな。

大吏(ダイリ)(高官) ・貪狡(タンコウ)(貪欲で狡猾なこと) ・政俗(政治と文化)・遏絶(アツゼツ)(断ち切ること) ・心思(シンシ)(考え) ・輿人(ヨジン)(多くの人) ・采(と)る(採用する) ・参證(サンショウ)(証拠とする) ・考覈(コウカク)(厳しく調べる) ・長策(遠大なはかりごと)・韋布(イフ)(平民) ・寧謐(ネイヒツ)の代(穏やかに治まった世の中)・若乃(もしすなはち)(ところが) ・治忽(チコツ)(治と乱)・膜外(バクガイ)に措く(気にしない)・討究(深い研究)・壊隳(カイキ)(破綻)・ 馴致(ジュンチ)(次第に馴れること)・侵擾(シンジョウ)(侵略して乱すこと) ・篤痾(トクア)(重病) ・摂養(セツヨウ)(身体を養うこと) ・食色(ショクショク)(食欲と性欲) ・昕夕(キンセキ)(朝夕) ・袖手無作(シュウシュムサク)(袖に手を入れて何もしないこと) ・秦政(秦の始皇帝)・(チン)(熱病) ・覆轍を踏む(前者の失敗を繰り返す)・(いやしむ)(見下げる)

 

(現代語訳)

 このごろ交官や重臣は深くロシアやイギリスの貪欲、狡猾ぶりを憎み、その政治と文化および防禦の優れていることを全く言わない。また他人がこれを言うことも喜ばない。この二国を憎むことは当然のことではあるが、優れている点について自分はあえて言わず、他人にも言うことを禁止するとすればその得失はどうであろうか。西洋諸国を憎むのは彼らが侵略の心を懐いているからである。もし本当にその侵略を憎むのであれば、これを防ぐ方法を考えるべきである。我々は考え抜いてその時々に最も適合した方法を考えこれを詳しく論じ、また多くの人の意見を採用し照らし合わせて考え、これにより敵の侵略を防ぐ遠大な計画を定めて、まさに道理の通った議論をすべきである。ゆえに身分の低い平民であっても平和な時代に予め侵略の害を考えて、その国の文化や兵力を考察していれば海防の役に立つだろう。このような者は皆、士の志を持つ者である。

 ところが外国の治乱・強弱について我々は殆ど気にしておらず全く深い研究をしていない。また人を止めて熟議できないようにしている。海防や兵備が破綻し整備もされていない状態に慣れてしまっているので、将来の侵略の被害は言うにたえないほどひどいだろう。これでは外国に味方するのと同様なことだ。仮に重病にかかってひどく死を恐れる者があれば、まさに自ら体を養うことに努め、食欲と性欲について厳しくおのれをいましめ、これをやめなければ必ず死に、あれを慎まなければ必ず死ぬと思うべきだ。また病気の顛末を良醫に報告し、死を免れる方法を相談すべきだ。朝夕くり返して「死」の字を見て身をつつしめば死を脱するだろう。ところが世間では病気をそのままにして医者を嫌い、甚だしきは「死」の字を嫌い、袖に手を入れて何もせず自然に治るのをこいねがう者が多い。必ず助からないだろう。秦の始皇帝が熱病にかかり死について口にするのを禁止したのと同じである。ああ国の政治をつかさどりながら甘んじて秦の始皇帝の失敗を繰り返すとは全く見下げたことである。私はいったいこれをどうすべきであろうか。

 

其三十三(実力の拮抗した西洋諸国同士は侵略せず、弱いところが狙われる。わが国も西洋の技量、狙いを知らなければ危い)

太西欧邏巴、列國十餘、星羅麻列、行三百年而形勢自若也、伊須把尼亜俄羅斯英機黎等國、相継浡興、咸有大志、専圖侵噬、然其所併有、類在亜墨利加亜弗利加亜細亜、而不呑於本洲、邇年俄羅斯斯日滋彊大、始能克波羅尼亜小韃靼、以爲己有、然其用力洵苦而久矣、乃若孛漏生波留杜瓦爾第那瑪爾加諸國、其在欧邏巴中、蕞乎如邾莒之於齊楚、而能嶽然樹立、不甚屈伏、孛漏生方且與俄羅斯波羅尼亜而有之、雄威可想、太西諸大國呑噬之術、能施於大、不於小、不乎邇、而翻行乎遐者、獨何也、蓋亞墨利加亞弗利加諸國、地雖闊、民雖夥够、而兵力萎苶不振、又況不瀕海之備禦敵之防、無ㇾ異於慢藏来一ㇾ盗、間有風習獷悍好鬨争隣邦殊異者、而武備不整飭則與孱夫歸、太西乗其虚、襲其不虞、闔國惶駭、不手、洞然如無人之域、此太西所以數々得一ㇾ志也、欧邏巴諸國則不然、既已爲隣並之邦、彼狼狐之性、谿壑之欲、與我同調、則夙稔知之、將卒之勇略相上下、武技之精錬正相當、彼欲来為一ㇾ難、吾固有以待一ㇾ之、其不於此、職是故也、然則太西人伎倆、亦可知已、夫與虜對、而輕生慢侮之心、固爲不可、然虜之智思兵勢、則不其所底止、不然區処斷不厥宜矣、嗚呼以吾邦生歯之殷壌地之肥美、士風之勇而尚一ㇾ義、苟化導得方海防無瑕隙、足制外夷一、而勿之抗一、迺茫附之不問、可哉、

 

注:※国立国会図書館デジタルコレクション(日高誠実 編)では「唉」となっている。山口県立山口図書館所蔵版(山田亦介重刻)では「嘆」でありこれを採用した。

 

(読み下し文)

太西欧邏巴(ヨーロッパ)、列國十餘、星羅麻列(セイラマレツ)、三百年行きて形勢自若(ジジャク)なり。伊須把尼亜(イスパニア)、俄羅斯(オロシャ)、英機黎(イギリス)等の國、相継ぎ浡興(ボッコウ)す。咸(みな)大志有り。専ら侵噬(シンゼイ)を圖(はか)る。然るに其の併有する所、類(おほむ)ね亜墨利加(アメリカ)、亜弗利加(アフリカ)亜細亜(アジア)中に在りて、本洲の狼呑(ロウドン)有る能はず。邇年(ジネン)俄羅斯(オロシャ)日に滋(ますます)彊大(キョウダイ)なり。始めて能(よ)く波羅尼亜(ポーラニア)、小韃靼に克(か)ち、以て己有(コウ)と爲す。然るに其の力を用ふること洵(まこと)に苦しみて久し。乃(すなは)ち孛漏生(プロイセン)、波留杜瓦爾(ポルトガル)、第那瑪爾加(デンマーク)諸國の若(ごと)き、其れ欧邏巴(ヨーロッパ)中に在り。蕞(サイ)なること邾(チュ)・莒(キョ)の齊(セイ)・楚(ソ)に於けるが如し。而(しか)して能(よ)く嶽然(ガクゼン)と樹立し甚(はなは)だ屈伏せず。孛漏生(プロイセン)(まさ)に且(まさ)に俄羅斯(オロシャ)と波羅尼亜(ポーラニア)を割りて之(これ)を有す。雄威(ユウイ)想(おも)ふべし。太西諸大國呑噬(ドンゼイ)の術、能(よ)く大に施し、小に施す能(あた)はず。邇(ちかき)に行はず、而(しか)して翻(ひるがへ)りて遐(とほ)くに行ふは獨(それ)何ぞや。蓋(けだ)し亞墨利加(アメリカ)、亞弗利加(アフリカ)諸國、地闊(ひろ)しと雖(いへど)も、民夥够(カコウ)と雖(いへど)も、兵力萎苶(イデツ)にて振はず。又況(いは)んや瀕海(ヒンカイ)の備禦(ビギョ)敵の防(ふせぎ)を修めざるをや。藏を慢(おこた)りて盗(トウ)の来(きた)るに異ならず。間(ちかごろ)風習獷悍(コウカン)にして鬨争(コウソウ)を好み、隣邦と殊(こと)に異なる者有り。而(しか)して武備整飭(セイチョク)せざれば則ち孱夫(センプ)と歸すところは同じなり。太西其の虚(キョ)に乗じ、其の不虞(フグ)を襲ふ。闔國(コウコク)惶駭(コウガイ)し、手を措(お)く所を知らず。洞然(ドウゼン)無人の域に入るが如し。此れ太西の數々志を得る所以(ゆゑん)なり。欧邏巴(ヨーロッパ)諸國則ち然(しか)らず。既已(キイ)隣並の邦爲れば、彼の狼狐(ロウコ)の性、谿壑(ケイガク)の欲、我と同調す。則ち夙稔(シュクネン)之を知る。將卒(ショウソツ)の勇略相上下し、武技の精錬正に相當(あた)る。彼来(きた)りて難(いくさ)を為さんと欲さば、吾固(もと)より以て之(これ)への待(そなへ)有り。其れ此(ここ)に於て逞(ほしいまま)に獲らざるは、是(これ)を職(し)る故(ゆゑ)なり。然(しか)れば則ち太西の人の伎倆、亦知るべきなり。夫れ虜(えびす)に對(むか)ひて輕(かるがる)しく慢侮(マンブ)の心を生ずるは固(もと)より不可(フカ)と爲す。然れば虜(えびす)の智思(チシ)兵勢、則ち其の底止(テイシ)する所を審(つまびらか)にせざるべからず。然らざれば區処(クショ)斷じて厥(その)(よろし)きを盡(つく)す能はざるなり。嗚呼(ああ)吾邦(わがくに)生歯(セイシ)(これ)(おほ)く壌地(ジョウチ)(これ)肥美(ヒビ)、士風之(これ)勇にして義を尚(たっと)ぶを以ってす。苟(いやしく)も化導し方(みち)を得て海防に瑕隙(カゲキ)無くせば、以て外夷を威制するに足る。而して之(この)(ふせぎ)(な)ければ、迺(すなはち)ち茫(ボウ)(これ)を不問に附す。嘆くに勝(た)ふべき哉(かな)

 

星羅麻列(セイラマレツ)(星のように連なり、麻のように列をなす) ・自若(ジジャク)(落ち着いている) ・浡興(ボッコウ)(勃興) ・侵噬(シンゼイ)(侵略と併合) ・狼呑(ロウドン)(ほしいままに取ること) ・邇年(ジネン)(近年) ・小韃靼(クリミアハン国)・(サイ)(小さい) ・邾(チュ)莒(キョ)(両者とも周代の国)・嶽然(ガクゼン)(高く聳えるように) ・雄威(ユウイ)(雄々しく威厳があること) ・夥够(カコウ)(多い) ・萎苶(イデツ)(疲れていて) ・瀕海(ヒンカイ)(臨海) ・備禦(ビギョ)(防禦設備) ・防(ふせぎ)(守り、備え 防御施設) ・獷悍(コウカン)(荒々しく凶暴) ・鬨争(コウソウ)(戦い) ・整飭(セイチョク)(整備) ・孱夫(センプ)(弱い男) ・(キョ)(油断) ・不虞(フグ)(不意、予期していないところ) ・闔國(コウコク)(国中) ・惶駭(コウガイ)(あわてふためくこと) ・洞然(ドウゼン)(遮るものがなく) ・既已(キイ)(すでに) ・谿壑(ケイガク)(飽くことのない) ・夙稔(シュクネン)(昔から) ・將卒(ショウソツ)(将軍と兵士、軍隊) ・勇略(勇気と知恵)・相上下し(優劣がなく)・相當(あた)る(互いにつりあう)・(えびす)(敵) ・慢侮(マンブ)(あなどり軽んずる)・智思(チシ)(智慧) ・底止(テイシ)(至りとどまる) ・區処(クショ)(処置) ・生歯(セイシ)(人民) ・壌地(ジョウチ)(国土) ・肥美(ヒビ)(よく肥えている) ・化導(カドウ)(徳をもって人を導くこと) ・〈みち〉(法則。方法。道理) ・瑕隙(カゲキ)(すきま) ・威制(おどしおさえる)・(ボウ)(時務 その時の急務) ・勝(た)ふ(耐える、こらえる)

 

(現代語訳)

 ヨーロッパでは十余りの大国が星のように連なり、三百年経過して形勢は落ち着いている。スペイン、ロシア、イギリス等の国が相次ぎ勃興し、皆大志があって、専ら侵略と併合をしてきた。しかしその併合した所はおおむねアメリカ、アフリカ、アジアにあって欧州ではほしいままに併合することはできなかった。近年ロシアがますます強大になり、欧州では始めてポーランド、クリミアハン国に勝ち自分のものとしたが、その力を用いるのに長年苦しんできた。一方でプロイセンポルトガルデンマーク等の国はヨーロッパにあっては小国で、その小さいことは中国春秋時代の大国である齊や楚に対する邾や莒などの小国に例えられるほどだが、しかし高く聳えるように独立していて全く屈服しない。プロイセンはロシアと共にポーランドを分割して所有しており、雄々しく威厳があることを考えてみてほしい。

 ヨーロッパ諸大国の併呑の技術は大国に対して行うことができても小国に対してはできていないし、近隣では行っておらず、遠方で行っているのは何故だろうか。思うにアメリカ、アフリカ諸国は国土が広く人口も多いとはいえ兵力は弱く振るわず、その上臨海の防禦や敵への防衛設備が整っていない。蔵の戸締りをおこたったために盗賊が来たのと異ならない。近ごろでは風習が荒々しく戦いを好み近隣の国と特に異なる国もあるが、しかし武備が整っていないので弱い国と結果は同じである。西欧は油断に乗じて不意に襲うので、国中があわてふためきどうしてよいかわからなくなり、遮るものがない無人の領域に入るような状態になる。これが西欧が数々の併呑をできた理由である。しかしヨーロッパ諸国はそうはいかない。すでに近隣の国なのでその狼や狐のような性格と飽くことのない欲望が自分と同じであることを昔から知っている。軍隊の勇気と知恵には優劣がなく、武術の技の練度は互いに拮抗している。先方が戦争を仕掛けてくれば、こちらにはそれへの備えがある。この場所でほしいままに侵略をしないのはこれらを知っているからである。

 そうであれば西欧人の技量を知るべきであり、敵に向かって軽々しくあなどり軽んずる心を生じさせるのはとんでもないことだ。むしろ敵の考えていることや軍の勢いがどこまで至ろうとしているのかをよく考えなければならない。そうしなければ適切な対処など絶対にできない。ああ、わが国は人口が多く国土は豊かで武士の気風は勇ましく義をたっとぶのだから、もし人々を感化して道理を理解させ海防にすきが無いようにすれば敵を抑制するには十分である。しかしこのような防衛策も無いということはつまりは時の急務を不問に付しているということだ。嘆かずにはいられない。

 

其三十四(侵略するだけの実力があってはじめて国は守れる。家康公が長生きしていれば海南諸島、ルソン島を併合していただろう。)

乎今日、修攘之計、必也有制外夷之形、然後可以得上下奠枕無一ㇾ患、有伐海南諸島之力、然後可以免沿海鈔掠之害、此天然之大勢也、西

人有智慮者、論防禦之方、以爲力能経略河南北、而淮南可守、淮南防備完堅、而江南可保、形勢正相同也、烈祖居平慎静自守、不輕試干戈、萬不已、而后従事乎征討、故論者類以爲使烈祖出于今、只當確然固守、飭沿海防禦、以絶虜窺伺、斷不進取事而務遠略焉、斯論未必中一ㇾ窾也、予観烈祖時、海畔晏然無警、非今日之夷舶數數出没、而烈祖防遏之心不少弭忘、時時召和蘭耶揚須諳厄利亜安志、諮外國治忽隆替甞云、吾今爲日本主、則不外國動静上ㇾ慮、常欲知之、又甞令御勘定某、與喎蘭人、往南亜墨利加、熟察地形風尚、其遠圖非庸衆所克測也、烈祖年七十有四、始殄平攝城餘蘖、次年違世、未厥経綸、可惜已、夫明辟所以不上ㇾ於進取者、以其或招士民之困悴也、至國家安危所一ㇾ關、則沛然果決而行之、一労以貽百代之佚、予意使烈祖更數十載馭一ㇾ世、必當百勝之鋒、呑滅海南呂宋渤泥等國、以張皇本邦之威、決不瑣々苟自保而已、特不豊太閤征韓之擧、無謀強戦、死者如乱麻、以貽黷武之誚耳、

 

(読み下し文)

今日に在りて、修攘(シュウジョウ)の計、必ずや外夷を威制するの形有りて、然(しか)る後、以て上下奠枕(テンチン)(うれ)ひ無きを得るべし。海南諸島を侵伐(シンバツ)するの力有りて、然(しか)る後以て沿海鈔掠(ショウリャク)の害を免(まぬが)るべし。此(これ)天然の大勢なり。西人智慮有る者、防禦の方(てだて)を論じ、以爲(おもへらく)「力(つと)めて能(よ)く河南北を経略(ケイリャク)せば、淮南を守るべし、淮南の防備完堅ならば江南を保つべし」と。形勢正(まさ)に相同じなり。烈祖、居平(キョヘイ)慎静(シンセイ)を自守(ジシュ)す。輕(かるがる)しく干戈(カンカ)を試さず。萬(バン)(や)むを得ず、后(のち)に征討に従事す。故(ゆゑ)に論者類(おほむね)以爲(おもへらく)、使(も)し烈祖今に出(い)でしめば、只(ただ)(まさ)に確然(カクゼン)固守し、沿海防禦を飭(ととの)へ以て虜(えびす)の窺伺(キシ)を絶つべし。斷じて進取を以て事を爲し遠略(エンリャク)を務(つと)めざるなり。斯(かか)る論未だ必ずしも窾(あな)に中(あた)らざるなり。予、烈祖の時を観るに、海畔(カイハン)晏然(アンゼン)にして警(ケイ)無く、今日の夷舶(イハク)數數出没の如くにあらず。而(しか)して烈祖防遏(ボウアツ)の心少しも弭忘(ビボウ)せず。時時和蘭(オランダ)の耶揚須(ヤンヨーステン)、諳厄利亜(アンゲリア)の安志(アンジン)を召し、外國治忽(チコツ)隆替(リュウタイ)を諮(と)ふ。甞(かつ)て云(いは)く「吾(われ)今日本の主(あるじ)爲(た)れば、則ち外國動静を以て罣慮(カイリョ)せざるを得ず、常に之(これ)を洞知(トウチ)せんと欲す」と。又甞て御勘定某(なにがし)に、喎蘭(オランダ)人と與(とも)に南亜墨利加(アメリカ)に往(ゆ)かせ、地形風尚(フウショウ)を熟察せしむ。其の遠圖(エント)、庸衆(ヨウシュウ)の克(よ)く測(はか)る所にあらざるなり。烈祖年七十有四にして、始めて攝城餘蘖(ヨゲツ)を殄平(テンペイ)し、次年違世(イセイ)す。未だ厥(その)経綸(ケイリン)を究(きは)むるに及ばず、惜しむべきなり。夫(そ)れ明辟(メイヘキ)進取を輕(かるがる)しくせざる所以(ゆゑん)は、其れ或(ある)ひは士民の困悴(コンスイ)を招かんを以ってなり。國家安危に關(カン)する所に至れば、則ち沛然(ハイゼン)果決(カケツ)に之(これ)を行ひ一労を以て百代の佚(イツ)を(のこ)さんとす。予意(おもふ)に烈祖更に數十載世を馭(ギョ)せしめば、必ず當(まさ)に百勝の鋒(ホウ)に乗り、海南、呂宋(ルソン)渤泥(ボルネオ)等國を呑滅(ドンメツ)し、以て本邦の威を張皇すべし。決して瑣々(ササ)として苟(かりそめ)にも自保(ジホ)而已(のみ)ならず。特(ただ)豊太閤征韓の擧の無謀なる強戦にて死者乱麻の如くして以て黷武(トクブ)の誚(そしり)を貽(のこ)すに似ざるのみ。

修攘(シュウジョウ)の計(防衛計画)・奠枕(テンチン)(枕を定めること、落ち着くこと)・鈔掠(ショウリャク)(かすめ取ること) ・河南北(中国北部にある黄河の南と北)・経略(ケイリャク)(統治) ・淮南(中国中部にある淮河の南)・江南(中国南部にある揚子江の南)・居平(キョヘイ)平和な境遇に居ること ・慎静(シンセイ)(静かなこと) ・自守(ジシュ)(自力で守ること) ・干戈(カンカ)(戦闘) ・窺伺(キシ)(人の様子を窺って隙あらば事を試そうとすること)・遠略(エンリャク)(遠くの国を攻める計略) ・窾(あな)に中(あた)る(的を得る 的確である)・晏然(アンゼン)(やすらか) ・(ケイ)(警戒を要する状況) ・夷舶(イハク)(外国の大型船) ・烈祖(家康)・弭忘(ビボウ)(忘れること) ・治忽(チコツ)(治と乱) ・隆替(リュウタイ)(盛衰) ・罣慮(カイリョ)(心配) ・洞知(トウチ)(熟知) ・風尚(フウショウ)(人々の好み) ・遠圖(エント)(遠大な計画) ・庸衆(ヨウシュウ)(平凡な一般人) ・攝城大阪城)・餘蘖(ヨゲツ)(残り物 残党) ・殄平(テンペイ)(亡ぼし平らげること) ・違世(イセイ)(俗世を去ること) ・経綸(ケイリン)(国家を治めること) ・明辟(メイヘキ)(明君) ・困悴(コンスイ)(疲れ果てること ・沛然(ハイゼン)(盛大に) ・果決(カケツ)(思い切って) ・(イツ)(安楽) ・(ホウ)(軍隊の最前列)・張皇(広げる)・瑣々(ササ)(こまごましていること) ・自保(ジホ)(自身の身を守ること) ・黷武(トクブ)(道理に外れた戦争で武徳を汚すこと) 

 

(現代語訳)

 今日にあっては防衛計画に必ず外敵を抑制する形があってはじめて上も下も安心していられる。海南諸島を侵略するだけの実力があってはじめて沿海を侵略される被害を免れることができる。これが天然の大勢である。中国人の智慧ある者が防衛の方法を論じて言うには、「中国北部にある黄河地帯を統治することができれば、中国中部の淮河地帯を守ることができる。淮河地帯の防備が完璧ならば中国南部の揚子江地帯を守ることができる」と。形勢はまさにこれと同じである。

 家康公は平和な環境を自力で守って軽々しく戦闘を試さず、やむを得ないばあいにはじめて征討に従事した。このため論者はおおむね次のように考える「もし家康公が今世に出てきたら、しっかりと守り沿岸の防禦を整えて外国がすきを狙ってくるようなことを絶つだろう。決して積極的に遠国を侵略するようなことはしないだろう」と。こうした論は必ずしも的を得ていない。私が家康公の時代を見てみると、沿岸は安全で警戒するような状況ではなく、現在のように外国の大型船が多く出没するようなことはなかった。しかし家康公は防禦の心を少しも忘れなかった。時々オランダのヤンヨーステン、イギリスの三浦按針を召して外国の情勢を聞いた。かつて「私は日本の君主なので外国の情勢に気を配らざるを得ないし、常にこれを熟知していたいと思う」と言われた。またかつて御勘定の某にオランダ人と共に南アメリカに往かせ、地形や人々の好みを視察させた。その遠大な計画は平凡な一般人の考えの及ぶ所ではない。家康公は七十四歳で大阪城の残党を滅ぼし、翌年この世を去られたが、まだその政治について構想のすべてをなすには至らなかった。惜しいことだ。そもそも明君が軽々しく海外進出をしないのは人民の困窮を招くようなことがあってはならないと考えるからだが、国家の安全がかかっているような事態に至れば思い切ってこれを行い、百代安泰にしようとするだろう。私が思うには家康公がさらに数十年世を治めていれば必ず軍隊を率いて海南諸島、ルソン島などを併呑してわが国の影響力を広げ、決して小さく自分の身を守るだけのことはしなかっただろう。これは秀吉公が無謀な朝鮮出兵で多数の死者を出し武徳を汚したのとは異なるものだ。

 

其三十五(タタール人は勇敢だが熟慮や忍耐が足らず恐るに足らない。タタール人種のトルコや清には危機がせまる)

両間建國、莫韃、今之満清及莫臥兒都兒格、凡據肥沃富饒之域、肆然称帝者、擧皆韃種也、更遡満清而前、遼之入中州、金之有天下一半、元之統支那、咸屬韃種、韃之憑陵西土、非乎清、特清獨盛大而久耳、韃俗虓鷙、耐寒苦、輕戦闘、視死如生、是以侵畧隣國、如狼之敵羊、勁飈之摧霜葉、敵莫敢攖我鋒、奏勲之速、有人所克測度焉、惟其悍獷之性、一意直遂、無顧避、故足以陥堅挫一ㇾ鋭、而艱於持重、遭彼反覆十思以耐久曠日制之者、或爲折伏又況人之猛闞者、洎其蠱於紅翠漬於奢侈、則迷溺翻甚於治蕩敗撿之輩、元魏金元之季可見也已、邇者莫臥兒兵力弗競、至於國主爲一ㇾ俘、都府多見侵奪、都兒格雖強大、較諸二百年前邈然弗逮、今也盡喪小韃靼莫爾太皮亜等地、羅叉兵漸逼近帝都、獨清距開創甚久、又世以韃地古俗戒、故降乎今、威風未墜、然観緬甸述略戡靖教匪述編等書、兵力殊覚綿弱、異日外寇有拓跋圭完顔阿骨打、内乱有朱元璋陳友諒李自成、斷不天下矣、本邦風習、勁而直、重義而尚武、韃虜之勇、不懾憚也、而剽悍之資、飈發雷厲不其久、亦少犯韃種之短、在上者克知悉斯情、懇々誡告、使闔天下之人、咸能不古昔勇鷙之風、又能遠圖長思、不上ㇾ躁急之習、則彊虜遍於宇内究奚足畏乎、

 

(読み下し文)

両間に國を建つるに韃より彊(つよ)きは莫(な)し。今の満清及び莫臥兒(ムガール)、都兒格(トルコ)、凡(およ)そ肥沃富饒(ヒヨクフジョウ)の域に據(よ)り、肆然(シゼン)帝と称するは、擧げて皆韃種なり。更に満清の前に遡れば、遼(リョウ)之(これ)中州に入り、金(キン)(これ)天下の一半を有し、元(ゲン)(これ)支那を統一す。咸(みな)韃種に屬す。韃の西土に憑陵(ヒョウリョウ)すること、清昉(はじめ)てに非ず。特(ただ)清獨(ひと)り盛大にして久しきのみ。韃の俗(ならはし)、虓鷙(コウシ)にして、寒苦に耐へ、戦闘に輕(はや)り、死を視ること生の如し。是以(これゆゑ)に隣國を侵畧すること、狼の羊に敵(あた)り、勁飈(ケイヒョウ)の霜葉を摧(くだ)くが如し。、敵敢(あへ)て我鋒(ガホウ)に攖(せま)ること莫(な)し。勲(いさを)を奏(な)すこと之(これ)速く、人の克(よ)く測度(ソクタク)する所に非ざる者有り。惟(ただ)其の悍獷(カンコウ)の性(さが)、一意直(ただ)ちに遂げ、顧避(コヒ)する所無し。故(ゆゑ)に陥堅(カンケン)挫鋭(ザエイ)を以て足(た)りて、持重(ジチョウ)に艱(かた)し。彼の反覆十思(ジッシ)し以て耐久曠日(コウジツ)(これ)を制する者に遭(あ)はば、或(ある)ひは折伏(セップク)せらるる所と爲る。又況(いはん)や人の猛闞(モウカン)なるは、其れ紅翠(コウスイ)に蠱(まど)ひ、奢侈(シャシ)に浸漬(シンシ)するに洎(およ)べば、則ち迷溺(メイデキ)翻(かへっ)て怡蕩(イトウ)敗撿の輩より甚(はなはだ)きこと元魏、金、元の季(すゑ)に見るべきなり。邇(ちか)きは莫臥兒(ムガール)、兵力競(つよ)からず、國主俘(とりこ)と爲るに至り、都府多くは侵奪さる。都兒格(トルコ)、強大を称すると雖(いへど)も、諸(これ)を二百年前と較(くら)ぶれば、邈然(バクゼン)逮(とど)かず、今也(いまや)(ことごと)く小韃靼、莫爾太皮亜(モルダビア)等の地を喪(うしな)ひ、羅叉(ロシア)兵漸(やうや)く帝都に逼近(ヒッキン)す。獨(ひと)り清、開創を距(へだ)つること甚(はなは)だ久しからず、又世に韃地の古俗を忘れざるを以て戒(いましめ)と爲す。故(ゆゑ)に今に降(くだ)り、威風未だ墜(お)ちず。然(しか)れども緬甸(ビルマ)述略、戡靖教匪(カンセイキョウヒ)述編等の書を観(み)るに、兵力殊(こと)に綿弱(メンジャク)と覚(おぼ)ゆ。異日外寇(ガイコウ)に拓跋圭(タクバツケイ)完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の若(ごと)き有り、内乱に朱元璋(シュゲンショウ)陳友諒(チンユウリョウ)李自成(リジセイ)の若(ごと)き有らば、斷じて天下を保(たも)つ能(あた)はず。本邦風習、勁(ケイ)にして直(チョク)、義を重んじ武を尚(たっと)ぶ。韃虜(ダツリョ)の勇、懾憚(ショウタン)に足らざるなり。而(しか)も剽悍(ヒョウカン)(これ)飈發(ヒョウハツ)雷厲(ライレイ)に資するも、其の久しきを忍ぶこと能はず。亦少(わかもの)韃種の短(あやまち)を犯さば、上に在る者克(よ)く斯(こ)の情を知悉(チシツ)し、懇々(コンコン)誡告(カイコク)すべし。使(も)し闔(コウ)天下の人、咸(みな)(よ)く古昔(コセキ)勇鷙の風を墜(うしな)はず、又能(よ)く遠圖(エント)長思(チョウシ)し、躁急(ソウキュウ)の習ひに流れざらしめば、則ち彊虜(キョウリョ)宇内(ウダイ)に遍(あまね)けれど、究(きは)むれば奚(なん)ぞ畏(おそ)るに足るや。

 

両間(天と地の間、世界)・タタール)・肥沃富饒(ヒヨクフジョウ)(土地が肥えて富んで豊か) ・肆然(シゼン)(ほしいままに) ・憑陵(ヒョウリョウ)(攻め寄せ土地を侵すこと) ・虓鷙(コウシ)(勇猛で荒々しい) ・勁飈(ケイヒョウ)(強いつむじ風) ・霜葉(ソウヨウ)(霜のために黄や紅などに変色した葉。もみじ。紅葉)・(いさを)(武功) ・測度(ソクタク)(推しはかる) ・悍獷(カンコウ)(荒々しく凶暴)・一意(一心に)・顧避(コヒ)(気遣う 遠慮する)・陥堅(カンケン)(堅固な城を陥れること) ・挫鋭(ザエイ)(強い軍隊を打ち負かすこと)・持重(ジチョウ)(慎重にすること)・耐久曠日(タイキュウコウジツ)(長い間持ちこたえて)・折伏(セップク)(打ち負かし従わせること)・紅翠(コウスイ)(色香)・奢侈(シャシ)(贅沢)・浸漬(シンシ)(浸かること)・迷溺(メイデキ)(夢中になって本心を失うこと)・怡蕩(イトウ)(楽しんでほしいままにすること)・元魏北魏)・(すゑ)(末期)・(とりこ)(捕虜)・邈然(バクゼン)(はるかに)・小韃靼(クリミア)・逼近(ヒッキン)(接近)・開創(創業)・戡靖教匪(カンセイキョウヒ)述編(白蓮教徒の乱の記録書)・綿弱(メンジャク)(弱弱しい)・外寇(ガイコウ)(外国による攻撃)・拓跋圭(タクバツケイ)(北魏の初代皇帝)・完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)(金の初代皇帝)・朱元璋(シュゲンショウ)(元を滅亡させた明王朝の始祖) ・陳友諒(チンユウリョウ)(元末の群雄の一人) 李自成(リジセイ)(明を滅亡させた農民反乱の指導者)・勁(ケイ)(強い)・(チョク)(すなお)・懾憚(ショウタン)(おそれはばかること)・剽悍(ヒョウカン)(動きが早く荒々しい性質)・飈發(ヒョウハツ)(つむじ風のようににわかに起きること 激しく起きること)・雷厲(ライレイ)(雷が激しいこと 事を成すのに猛進して止まないこと)・(わかもの)・(あやまち) ・懇々(コンコン)心を込めて丁寧に・誡告(カイコク)(教え導くこと)・古昔(コセキ)勇鷙の風(昔からの勇敢な気風)・遠圖長思(エントチョウシ) (遠大な計画をじっくり考える) ・躁急(ソウキュウ)の習ひ(せっかちで落ち着きのない風潮) ・(キョウリョ)(強敵)・宇内(ウダイ)(世界中)

 

(現代語訳)

 世界に建国している民族のなかでタタールほど強いものはない。今の清およびムガール、トルコなどおよそ土地が肥えて豊かな所にいてほしいままに皇帝と称しているのはすべてタタールの種族である。さらに清の前に遡れば遼が中国に入り、金が天下の半分を有し、元が中国を統一した。皆タタールの種族に属す。タタールが中国に侵攻したのは清がはじめてではない。ただ清だけが長く栄えている。タタールの気風は勇猛で荒々しく、寒苦に耐え、戦闘に勇みたち、死を見ること生の如し。このため隣国を侵略するときはまるで狼が羊に襲い掛かり、強いつむじ風が紅葉を散らすかのようだ。敵はあえて向かってこようとはしない。武功を挙げることは早く、人が推し測ることができないほどだ。ただその荒々しく凶暴な性格はひたすら直ちに実行し、遠慮することがない。それゆえ堅固な城を落としたり強い軍隊を打ち負かしたりすることで満足し、慎重に振る舞うことができない。熟慮を繰り返し長い間持ちこたえて打ち勝つような者に会うと、あるいは打ち負かされることもある。その上猛々しく勇敢な人間は、色香に惑い贅沢に浸れば夢中になって正気を失ってしまうことが、かえって軽薄な連中よりもひどいことは北魏や金、元王朝の末期に見られたことだ。

 近年ではムガール帝国の兵力が弱く国王が捕虜になってしまい、都市の多くが侵略された。トルコは強大であることを自称しているが二百年前と比べればはるかに劣り、今やクリミア、モルダビア等の地を失いロシアが次第に首都に迫っている。清だけは創業からまだそれほど経っておらず、時々タタールの地の古い文化を忘れないように戒めているため今に至っても威風が落ちていない。しかし「ビルマ述略」や白蓮教徒の乱の記録書などの書を見ると、兵力は特に弱々しく思える。将来外国からの攻撃に北魏の初代皇帝の拓跋圭や金の初代皇帝の完顔阿骨打のような者がいたり、内乱に元を滅亡させた朱元璋や元末の群雄の陳友諒、明を滅亡させた李自成のような人物がいれば、絶対に天下を保つことはできないだろう。

 わが国の風習は強く素直で義を重んじ武をたっとぶ。タタール人の勇猛さは恐れるに足らない。しかも剽悍な性質はつむじ風や雷のように急激に動くことには役立つが、長続きさせることができない。また若者がタタール人のようなあやまちを犯すことがあれば、上に在る者がその事情をよく知り丁寧に教え導くべきである。もし天下の人が皆昔からの勇敢な気風を失わず、また遠大な計画をじっくり考え、せっかちで落ち着きのない風潮に流れてしまわなければ、強敵が世界中にあっても良く研究すれば恐れるに足らない。

 

其三十六(恥知らずな蘭学者

本邦支那政教之體、以使人知廉恥至重、故士民崇恥則國家又寧、衆忘恥尚則危顛立至、而西洋諸國似必然、斯風尚之夐不侔也、予観今代之蘭学者、往々不恥之爲一ㇾ恥、即其人稍以操行聞、而淫貪饕、忍爲士大夫之所一ㇾ敢、亦可慨也、或謂蘭学者之詬寡恥、此自其人之諐失、非和蘭政俗、是斷不然、乃父報仇、其子必剽刧、世人失道之行、必有淵源、西洋人趨利、如鷹鸇之駆一ㇾ雀、萬方必獲然後已、故二國互市於他邦、則必蝎譛妨碍其一一、使通、而已擅其利、與隣邦好、不啻膠漆之固、彼少有釁隙、直乗之以侵伐、不復顧齊盟、西洋所以富彊、咸率由斯術蘭学之源、眞可畏也、顧今俗吏役々於期會賬簿、而抛武備於局外、拘儒専談三代之英、漢唐之成彠、絶不今日外夷情形、今欲海防之制、以攘遏外寇、非諮於蘭学者、必不其窾綮也、予於蘭学者、節取其長、而棄其短、不貪惏無恥之風於政、其咸庶幾乎、

 

(読み下し文)

本邦支那政教の體(もと)、人に廉恥(レンチ)を知らしむを以て至重(シチョウ)と爲(な)す。故に士民恥を崇(たっと)びて則ち國家又寧(やす)し。衆が恥の尚(たっと)きを忘れば、則ち危顛(キテン)(たちどころ)に至る。而(しか)して西洋諸國未だ必ずしも然(しか)らずに似たり。斯かる風尚(フウショウ)(これ)(はるか)に侔(ひとし)からざるなり。予、今代の蘭学者の往々にして恥の恥爲(た)るを知らざるを観る。即ち其の人、操行(ソウコウ)を持(たも)つを以てすること稍(すくな)しと聞こえ、而(しか)も淫醟(インエイ)にして貪饕(タントウ)、忍びて士大夫の敢へてせざる所を爲(な)す。亦慨(なげ)くべきなり。或(あるひと)謂はく「蘭学者の奊詬(ケツコウ)にして恥づること寡(すくな)きは、此れ自(おのづ)から其の人の諐失(ケンシツ)にして、和蘭(オランダ)政俗)に原(もとづ)かず」と。是(これ)斷じて然らず。乃(すなは)ち父仇を報(かへ)さば、其の子必ず剽刧(ヒョウコウ)す。世人の失道(シツドウ)の行なひ、必ず淵源(エンゲン)有り。西洋人の利に趨(おもむ)くこと、鷹鸇(ヨウセン)の雀を駆るが如し。萬方(バンポウ)に必ず獲て、然(しか)る後に已む。故(ゆゑ)に二國、他邦に於て互市せば、則ち必ず蝎譛(カツシン)し其の一つを妨碍(ボウガイ)し、通(かよ)ひを得ざらしめて己に其の利を擅(ほしいまま)にす。隣邦と好(よしみ)を締(むす)び、啻(ただ)に膠漆(コウシツ)(これ)を固むるのみならず、彼(かしこ)に少し釁隙(キンゲキ)有らば、直ちに之(これ)に乗じ以て侵伐し、復(ふたたび)齊盟(サイメイ)を顧(かへり)みず。西洋富彊(フキョウ)たる所以(ゆゑん)、咸(みな)斯かる術に率由(ソツユ)す。蘭学の源(みなもと)、眞(まこと)に畏(おそ)るべきなり。顧(かへりみ)て今、俗吏(ゾクリ)期會賬簿(キカイチョウボ)に役々(エキエキ)たりて、武備を局外に抛(なげう)つ。拘儒(コウジュ)専ら三代の英、漢唐の成彠(セイカク)を談じ、絶へて今日外夷情形を諳(そらん)ぜず。今海防の制を定め、以て外寇を攘遏(ジョウアツ)せんと欲すれば、蘭学者に詢諮(ジュンシ)するに非ず。必ず其の窾綮(カンケイ)獲る能はざるなり。予、蘭学者(よ)り、其の長を節取(セッシュ)して、其の短を棄つれば、貪惏(ドンラン)にして恥無きの風を以て政に施すに至らざらん。其れ咸(みな)庶幾(ショキ)なり。

廉恥(レンチ)(心正しく、不正を恥じること)・至重(シチョウ)(こよなく重要)・危顛(キテン)(傾き倒れること)・風尚(フウショウ)(人々の好み)・操行(ソウコウ)(品行)・淫醟(インエイ)(淫らで酒乱)・貪饕(タントウ)(強欲)・奊詬(ケツコウ)(節操が無い)・諐失(ケンシツ)(あやまち)・政俗(政治と風俗)・剽刧(ヒョウコウ)(おびやかす 脅迫)・失道(シツドウ)(道義に背くこと)・淵源(エンゲン)(根源、はじまり)・鷹鸇(ヨウセン)(たかとはやぶさ)・萬方(バンポウ)(あらゆる方面)・互市(貿易)・蝎譛(カツシン)(木食い虫のように内から蝕む讒言を行うこと)・(よしみ)(親善)・膠漆(コウシツ)(親しく固い交わり)・釁隙(キンゲキ)(すき)・齊盟(サイメイ)(同盟)・率由(ソツユ)(拠る)・俗吏(ゾクリ)(教養の低い小役人)・期會賬簿(キカイチョウボ)(会計帳簿)・役々(エキエキ)(苦心して務めるさま)・拘儒(コウジュ)(融通のきかない儒学者、偏狭な学者)・三代(古代中国の三王朝、夏・殷・周)・(優れた人物)・成彠(セイカク)(きまり、前例)・攘遏(ジョウアツ)(防止)・詢諮(ジュンシ)(相談)・窾綮(カンケイ)(見聞の狭いこと)・貪惏(ドンラン)(強欲)・庶幾(ショキ)(心から願うこと)

 

(現代語訳)

 わが国や中国の政治と教化の根本、それは恥を知ることを何より重要と考えることだ。それゆえ皆が恥を知ることを尊べば国家は安泰であるし、これを忘れるとたちどころに危うくなる。しかし西洋諸国は必ずしもそうではないようで、人々の好みは大きく異なる。

 私は今の蘭学者が往々にして恥を知らないのを見ることがある。その人は品行が良くないとの評判で、淫らで酒乱、強欲で、こっそり知識階級の人間ならやらないようなことをする(注1)。何とも嘆かわしい。ある人が言うには蘭学者が節操が無くて恥じないのはその人のあやまちであってオランダの政治や風俗に基づくものではないとのことだが、これは断じて違う。つまり父が復讐すればその子は脅迫するようになるように、世の人の道義に背いた行いには必ず根源がある。西洋人が利益を追求するのは鷹や隼が雀を追いかけるようなもので、あらゆる方面で必ず獲得するまで終わらない。このため二国が他の国で貿易を始めれば必ず一方を讒言して妨害し、交流ができないようにして自分が利益を独占する(注2)。隣国と親善関係を結んでもあちらに少しでも隙があれば直ちにこれに乗じて攻撃し、全く同盟を顧みない。西洋が強くて豊かなのはこうした術による。蘭学の根源は恐るべきものだ。

 現在小役人は会計帳簿に四苦八苦して武備のことは放り出している。融通のきかない儒学者は専ら中国古代の三王朝の王様、漢や唐の前例のことばかり論じていて、今日の外国の情勢について全く知らない(注3)。もし海防の制度を定め外国の侵略を防止しようとするなら蘭学者に相談するのはよろしくない。その見聞の狭さは採用できない。私は蘭学者からその長所を取り入れて短所は捨てれば、強欲で恥知らずの気風を政治にもたらすことにはならないと思う(注4)。これを心から願う。

(注1)高野長英あたりを指すのか?後世蘭学者大槻玄沢の孫大槻文彦言語学者)は長英が仲間からどう見られていたかを「高野長英行状逸話」に記しており、それによれば長英は長崎留学から江戸に帰ったのちも長崎時代の同輩を呼び捨てにし、金に困れば旧友の宅におしかけ強奪同然に金を借りたという。また彼の酒好き女好きは有名で、地下潜行中の長英を一時匿ったことの有る宇和島藩士松根図書はのちに「長英は女と酒となくては一日もいられぬ性」であったと語っている(佐藤昌介『高野長英』P63~64 岩波書店1997年)

(注2)江戸時代初期、オランダとイギリスは日本に対して相互に相手を讒言して貿易の独占を図ろうとした。

(注3)侗庵と昌平黌の同僚であった儒学者佐藤一斉はまさしく海外情勢に無頓着であった。

(注4)侗庵は蘭学者大槻玄沢渡辺崋山とは親交があり海外事情を学ぶなど大きな影響を受けている。蘭学者すべてに批判的であったわけではない。

 

其三十七(現状の外国船や帰国者への対処は不適切、特に一律の打払いは国の危機を招く)

吾邦巋然雄峙乎巨海中、民風醇懿、守信尚義、在両間其比西洋諸國間有虎狼之志、未必不一ㇾ加乎我、而我理直義正、無瑕可指擿、則彼恧然内愧、無辞以使其下、而衆咸有隴種瑟縮之気、不用也、獨我邦於外國、過於畏慎、區處動失其中、今有外國而歸者、視如重犯之徒、不其再航海、或禁錮以畢生、夷舶之来海上者、無其情偽、概待以侵掠之賊、必殄殲然後已、夫漂到外國堅請而歸者、咸顧戀本邦、其情可憫、當厚撫之而加贍恤、其或萬有一二浸染祅教而欲愚俗嚴加之刑、不玉石而悉行罪僇也、夷舶之出海上者、不姦蔵匿之輩、然當覈其是非曲直而區處之、今一切以梗邊襲塞之虜之、欲獮薙以自快、其必無冤者、而適自處孱愞怯敵之甚、非策之上者也、本邦寛宏之政、虓勇之俗、万方所曹仰、獨於外夷情實、有猶未曉悉、故注措間有刺謬、致使外夷目我邦悍戻無道之邦、夫人思死乎我、是可懼也已、

 

(読み下し文)

吾邦巋然(キゼン)として巨海中に雄峙す。民風醇懿(ジュンイ)、信を守り義を尚(たっと)ぶこと、両間に在りて未だ其れに比(くら)ぶるを見ず。西洋諸國間(このごろ)虎狼(コロウ)の志を懐(いだ)く者有り。未だ必ずしも我に侵加(シンカ)せんと欲せざるにあらず。而(しか)して我、理に直(なほ)く、義に正しく、瑕(あやまり)の指擿(シテキ)すべきもの無ければ則ち彼恧然(ジクゼン)として内に愧(は)じ、辞(ことば)の以て其れに下せしむもの無く、而(しか)れば衆咸(みな)、隴種瑟縮(ロウシュシツシュク)の気有り、用ひる所と爲すを肯(がへん)ぜざるなり。獨(ひと)り我邦外國に畏慎(イシン)するに過ぐるのみならず、區處(クショ)(やや)もすれば其のの中(あたる)を失なふ。今外國を漂(ただよ)ひて歸る者有らば、視ること重犯の徒の如くして、其の再航海を許さず、或(ある)ひは禁錮し以て生を畢(をは)る。夷舶(イハク)海上に来去(ライキョ)すれば、其の情偽(ジョウギ)を間ふこと無く、概(おほむ)ね待つに侵掠の賊を以てし、必ず殄殲(テンセン)し然(しか)る後已(や)む。夫れ外國に漂(ただよ)ひ到り堅請(ケンセイ)して歸る者は、咸(みな)本邦を顧戀(コレン)す。其の情憫(あはれ)むべし。當(まさ)に厚く之(これ)を撫(やすん)じ贍恤(センジュツ)を加ふべし。其れ或ひは萬に一・二祅教に浸染(シンセン)して愚俗を誘はんと欲する者有れば、當(まさ)に嚴(きび)しく之(これ)に刑を加ふべし。玉石(ギョクセキ)を判(わけ)ずして悉(ことごと)く罪僇(ザイリク)を行なふべからざるなり。夷舶之(これ)海上に出没する者には、挟姦(キョウカン)蔵匿(ゾウトク)の輩(やから)無しとせず。然(しか)れば當(まさ)に其の是非曲直を審覈(シンカク)して之(これ)を區處(クショ)すべし。今一切梗邊襲塞(コウヘンシュウサイ)の虜(えびす)を以て之を視(み)、獮薙(センテイ)し以て自快(ジカイ)せんと欲さば、其の中に未だ必ずしも冤(エン)を銜(ふく)む者無しとせず。而(しか)して適(まさ)に自(みづ)から孱愞(センゼン)にて敵を怯(おそ)るること之(これ)甚(はなはだ)しきに處(を)るは、策の上なる者に非ざるなり。本邦寛宏(カンコウ)の政(まつりごと)、虓勇(コウユウ)の俗(ならはし)、万方(バンポウ)曹仰(ソウギョウ)する所なり。獨り外夷情實に於て、猶ほ未だ曉悉(ギョウシツ)せざる所有るのみ。故(もと)より注措(チュウソ)(ちかごろ)刺謬(シビュウ)有り。外夷をして我邦を目(モク)するに、悍戻無道(カンレイムドウ)の邦と爲さしむに致らば、夫(それ

人、我を死に致さんと思ふ。是れ懼(おそ)るべきなり。

 

巋然(キゼン)(独立自足して)・雄峙(雄々しくそびえている)・民風(民の気風)・醇懿(ジュンイ)(純粋でうるわしい)・両間(世界)・侵加(シンカ)(侵し加わること)・恧然(ジクゼン)(おずおずと恥じて)・隴種瑟縮(ロウシュシツシュク)(打ちのめされて萎縮する)・畏慎(イシン)(相手を尊んでかしこまること)・區處(クショ)(とりはからう 処理する)・中(あたる)を失(うしな)ふ(適切な度合いを失う)・夷舶(イハク)(外国の大型船)・情偽(ジョウギ)(誠と偽り)・殄殲(テンセン)(打払う)・堅請(ケンセイ)(無理やり頼む)・顧戀(コレン)(想い焦がれる)・贍恤(センジュツ)(恵んで豊かにしてやる)・愚俗(愚かな俗人)・罪僇(ザイリク)(刑の執行)・挟姦(キョウカン)(悪人を仲間とすること)・蔵匿(ゾウトク)(財物や犯人を隠し、かくまうこと)・審覈(シンカク)(詳しく調べる)・梗邊襲塞(コウヘンシュウサイ)(辺境・国境を侵し砦を襲う)・獮薙(センテイ)(打払うこと)・自快(ジカイ)(みずから心地よくすること)・冤(エン)(無実の罪)・孱愞(センゼン)(弱い)・寛宏(カンコウ)(寛大)・虓勇(コウユウ)(勇猛)・万方(バンポウ)(あらゆる方面で)・曹仰(ソウギョウ)(衆人が仰ぐ)・曉悉(ギョウシツ)(熟知)・注措(チュウソ)(処置)・刺謬(シビュウ)(責められるべき誤り)・悍戻無道(カンレイムドウ)(荒々しく心が拗(ねじ)けていて道義がない)

 

(現代語訳)

 わが国は独立自足して大海中に雄々しくそびえている。民の気風は純粋でうるわしく、信を守り義をたっとぶことでは世界の中で比べるものが無い。西洋諸国は近ごろ虎や狼のような侵略の志を抱く者があり、わが国をも侵略しようと考えないわけではない。しかし我々が道理に合っていて義に正しく誤りを指摘されるようなこともなければ、先方は恥じ入って言うべきことも無く、皆打ちのめされて萎縮した気分となり、侵略しようという気にならないだろう。

 ただわが国は外国を恐れ過ぎるのみならず、その取扱いもとかく適切さを欠きがちである。外国を漂流して帰ってくる者がいると、その者を重大な犯罪人のように見て再渡航を許さず、あるいは閉じ込めて外出を禁じ一生を終わらせる。外国の大型船が海上に来ればそれに真偽を問うこともなく、たいていは侵略船として取り扱い、必ず打払って終わる。外国に漂着して無理やり頼んで帰国する者は日本を思いこがれてきた。その情はあわれむべきで、厚くいたわり恵みを加えてやるべきである。万一キリスト教に染まって他人を勧誘しようとする者があれば厳しく処罰すべきだが、玉石を分けずにすべていっしょにして刑罰を与えるべきではない。

 海上に出没する外国船の中には悪人を助けたり匿ったりする者もいなくはない。したがってその是非を詳しく調べて対処すべきである。もし渡来する外国船すべてを国境を侵し砦を襲うものとみなして打払いそれで自分は良い気分になっても、その中には無実の罪の者を含むこともあり得る。自らを臆病で気が弱く敵を甚だしく恐れる状態にしておくのは上策とは言えない。

 わが国の寛大な政治、勇猛な文化はあらゆる方面で多くの人から仰ぎ見られるものである。ただ外国の情勢についてまだ熟知していないところがある。もともとこのごろの処置に責められるべき誤りがあるので、もし外国人がわが国を乱暴で道義の無い国と見るようになったなら、そもそも人は我々を殺したいと思うようになるだろう。これは恐るべきことである。

 

其三十八(中国は海防が不十分でも現状は安泰、だからと言って条件の異なるわが国が同じで良いわけはない)

西土明季而來、憑城禦敵、専頼炮銃以奏捷、然而其術之精巧、似於我焉、船艦之制、覚亦遜乎我、往歳清商之漂來清水湊也、予門生某蒙縣令嘱、護送達崎奥、爾時得観清舶之制、迥不本邦所造之巧緻、此賈舶耳、而戦艦可推也、夫船銃海防之大者、清無斯備、而能不侮於外夷者何、蓋以其國之形勢有一ㇾ殊也、清西北與回々蒙古俄羅斯壌界、獨東南瀕海、而南又惟廣東一省臨海、其他以安南緬甸等國藩、以自屏蔽、東方一帯、南自福健北抵青齊、爲沿海之境、不長、然而以清殆方二万里之大國之、特不一面受一ㇾ海、非本邦地形狭而長環海以立一ㇾ國也、清世以武爲大訓、海防亦稍修擧、不明代之全然隤弛、固足以伏海冦、而海防止於東方一帯、極易於措畫、斯清人之至幸也、清既綦其彊大、附近戎虜咸役屬、與西洋所據之地、犬牙錯、其威足以震憺之、一

清所奰怒、必不乎彼、故西洋諸國、惕息不敢違忤、清之免於海冦、固自有以也、若乃本邦見西土疎於海防而克免於侵擾、謂吾亦然、以怠於沿海之備、是闊於物情事理之甚者也、

 

(読み下し文)

西土、明の季(すゑ)而來(ジライ)、城に憑(よ)り敵を禦ぐ。専ら炮銃を頼み以て捷(かち)を奏(な)す。然(しか)るに其の術の精巧、我より尚(うへ)なること能はざるに似たり。船艦の制(つくり)、亦我に遜(ゆづ)ると覚ゆ。往歳(オウサイ)清商(シンショウ)(これ)清水湊に漂來するや、予の門生某縣令に嘱(たの)まるるを蒙(かうむ)り、護送し崎奥に達す。爾時(そのとき)清舶の制(つくり)を諦観(テイカン)するを得。迥(はるか)に本邦の造る所の巧緻(コウチ)に如(し)かず。此れ賈舶(コハク)のみ。而(しか)して戦艦推すべきなり。夫れ船銃海防の大なる者、清に斯(かか)る備(そな)へ無し。而(しか)して能く侮(あなど)りを外夷より招かざるは何ぞや。蓋(けだ)し其の國の形勢殊(こと)なること有るを以てなり。清の西北、回々、蒙古、俄羅斯(オロシャ)と壌界(ジョウカイ)し、獨り東南のみ海に瀕する。而(しか)して南又惟(ただ)廣東(カントン)一省のみ海に臨む。其他安南(アンナン)緬甸(ビルマ)等の國を以て藩と爲し、以て自(みづか)ら屏蔽(ヘイヘイ)す。東方一帯、南は福健より北は青齊(セイセイ)に抵(いた)るを沿海の境と爲す。長からずと爲さず。然(しか)り而(しこう)して清殆んど方(まさ)に二万里の大國たるを以て之(これ)を計れば、特(ただ)一面のみ海を受くるに過ぎず、本邦地形の狭くて長く、環海(カンカイ)なるを以て國を立つるが如くには非ざるなり。清の世、武を忘れざるを以て大訓(ダイクン)と爲す。海防亦修擧(シュウキョ)(すくな)けれど、明代の全然隤弛(タイシ)の如くには至らず。固(もと)より海冦(カイコウ)を讋伏(シュウフク)するを以て足り、而(しか)して海防、東方一帯に止まり、極めて措畫(ソカク)に易(やす)し。斯れ清人の至幸なり。清既に其の彊大(キョウダイ)を綦(きは)む。附近の戎虜(ジュウリョ)(みな)役屬(エキゾク)し、西洋の據(よ)る所の地と犬牙錯(ケンガサク)にて、其の威、以て之(これ)を震憺(シンタン)するに足る。一たび清の奰怒(ビド)する所と爲さば、必ず彼に利たらず。故(ゆゑ)に西洋諸國、惕息(テキソク)し敢て違忤(イゴ)せず。清の海冦を免るは、固(もと)より自(おのづ)から以(ゆゑ)有るなり。若乃(もしすなはち)本邦、西土の海防に疎(うと)くして克(よ)く侵擾(シンジョウ)を免がるるを見、吾も亦然(しかり)と謂ひ、以て沿海の備(そなへ)を怠らば、是れ物情事理に闊(はるか)なること甚しき者なり。

西土(中国、侗庵は中国を世界の中心とは見ず単にわが国の西にある土地としてこのように表記する) ・(かち)(勝利)・往歳(オウサイ)(往年)・清商(シンショウ)(清の商人)・崎奥(キオウ)(長崎) ・諦観(テイカン)(はっきり見極めること)・賈舶(コハク)(商船)・推す(推測する)・回々ペルシャやトルキシタン地方のイスラム教徒)・壌界(ジョウカイ)(境界を接すること)・(王家を守る諸侯)・屏蔽(ヘイヘイ)(屏風のように遮る)・青齊(セイセイ)(山東省地方)・然(しか)り而(しこう)して(それにもかかわらず)・環海(カンカイ)(四方を海に囲まれていること)・大訓(ダイクン)(大切な教訓)・修擧(シュウキョ)(立派に成し遂げること)・隤弛(タイシ)(崩れ緩んだ状態)・讋伏(シュウフク)(おそれひれふす)・措畫(ソカク)(とりはからい)・戎虜(ジュウリョ)(未開の野蛮人)・役屬(エキゾク)(従うこと 従属)・犬牙錯(ケンガサク)(犬の牙のように入り組んでいる)・震憺(シンタン)する(震え動かす・奰怒(ビド)(怒る)・惕息(テキソク)(恐れて息がはずむ)・違忤(イゴ)(逆らうこと)

 

(現代語訳)

 中国は明王朝末以来、城によって敵を防ぎ、専ら銃砲によって勝利を得てきた。しかしその技術はわが国よりも上とは言えないし、艦船の構造もわが国より劣ると思える。過去に清の商人が清水港に来た時に私の門下生が奉行からの依頼を受けこれを長崎まで護送した。その時に清の船の構造をはっきり見ることができたが、わが国の船の精巧さにはるかに及ばなかった。これは商船のみのことであるが戦艦についても推して知るべしであろう。

 清には船も銃も海防にたいしたものはない。それなのに外国から侮りを受けないのは何故だろう。それは中国の地形が特殊であるためである。清の西北はペルシャやトルキシタン地方のイスラム教徒やモンゴル、ロシアと境界を接し、ただ東南だけが海に臨んでいる。しかも南は広東省の一省のみが海に臨んでおり、その他の場所はベトナムビルマ等の国を属国として屏風のように遮っている。東方の一帯は南は福健省から北は山東省までが沿海の国境であるがかなり長い。しかし清が二万里の大国であることを考えればただ一面だけが海に面しているに過ぎないのであって、わが国のように四方を海に囲まれているわけではない。清の治世では武を忘れないことを大切な教訓としてきた。海防はあまり立派とは言えないけれど明代のように全く崩れ緩んだ状態にはなっていない。元々外敵を恐れさせ、ひれ伏させるだけで十分であり、しかも海の守りは東方一帯に限られ極めて対処しやすい。これは清の幸運なところである。清は強大さを極め付近の国はみな従属し、西洋が占領している所とは犬の牙のように入り組んでおり、その威厳は西洋を震え上がらせるに十分である。一たび清を怒らせれば必ず彼らには不利になる。したがって西洋諸国は恐れて敢えて逆らうことはしない。清が海からの侵略を免れているのはもともと理由があるのだ。

 しかし中国が海防をおろそかにしていても侵略を免れているのを見て自分もそうすると言って、わが国が沿海の備えを怠るとすればそれは事情や道理に甚だしく疎いということになる。

 

其三十九(日本は気候・風土・文化に恵まれ人口も世界有数だが、これに安住し外国を見下しているようではかえって侵略の危機を招く。英国の士気を見習うべし。)

泰西人歴選海國之大者、躋渤泥第一、麻太加須曷爾居ㇾ二、蘇門答刺在三、而擯本邦於第四蘭学者流、據以斥本邦之小、而驕稚庸俗、夫國之強弱盛否、非大小、當風気之固脆、民庶穀物之多寡以判上ㇾ之、若徒地之大是尚、則是狄之廣莫於晋、而鄭不宋之強也、而爲可乎、渤泥麻太加須曷爾蘇門答刺諸國、大都在赤道前後、毒熱異常、人之居此者、昏憒遳陋、蠢如禽獣蟲豸然、故其國久已爲外夷所蹂躙、無歯數、若乃本邦、則在北極出地三四十度之間、寒喧得中、万彙蕃庶、聖賢英傑之所産、是以風尚規制、亡渤泥諸國爲穹淵之懸、万邦亦未其倫匹、乃至戸口之夥、其實非吾儕所二ㇾ得與聞、然以臆度之、應五千萬、是特較清乾隆之盛則遜耳、其於漢唐宋明郅隆之際及欧邏巴都兒格俄羅斯目今之彊大、正相頡、猗乎昌矣、據此之地、足下ㇾ以雄視百蛮衆狄而勿之确乃来外國慢侮、鰓鰓然常有侵軼之懼、蓋經畫未其宜故也、如諳厄利亜亦爲海國、而邈不本邦之大、地又寒沍荒瘠、尠生聚、而以其志気卓犖務恢遠畧也、威稜震疊於五大洲、邦人見之、亦可以少知愧勵矣、

 

(読み下し文)

泰西人、海國の大なる者を歴選(レキセン)す。渤泥(ボルネオ)を躋(のぼ)せ第一と爲す。麻太加須曷爾(マダガスカル)を二に居(す)う。蘇門答刺(スマトラ)、三に在り。而(しか)して本邦第四に擯(しりぞ)く。蘭学者流、據(よっ)て以て本邦之(これ)小なりと斥(さ)す。而して庸俗(ヨウゾク)を驕稚(キョウチ)せば、夫れ國の強弱盛否、大小を以て斷ずべきにあらず。當(まさ)に風気の固脆(コゼイ)、民庶、穀物の多寡に就き以て之を判ずべし。若(も)し徒(いたづら)に地の大なるを是れ尚(たっと)しとせば、則ち是れ狄(テキ)(これ)廣けれど晋に勝つること莫(な)くて、鄭は宋の強さに及ばざるなり。而して可と爲すや。渤泥(ボルネオ)、麻太加須曷爾(マダガスカル)、蘇門答刺(スマトラ)諸國、大都(タイト)赤道前後に在り。毒熱異常。人の此(ここ)に居る者は、昏憒(コンカイ)遳陋(サロウ)にして、蠢(うごめ)くこと禽獣(キンジュウ)蟲豸(チュウチ)の如し。故に其の國久しく已(すで)に外夷の蹂躙する所と爲り、歯數(シスウ)に足ること無し。若乃(もしすなはち)本邦、則ち北極地を出ること三四十度の間に在り、寒喧(カンケン)(あた)るを得、万彙(バンイ)蕃庶(バンショ)し、聖賢英傑の産(うま)るる所なり。是以(これゆゑ)風尚規制、渤泥(ボルネオ)諸國と穹淵(キュウエン)の懸(へだたり)を爲すこと亡論(ムロン)なり。万邦亦未だ其の倫匹(リンヒツ)を見ず。乃ち戸口(ココウ)の夥(おびただ)しきに至れども、其の實(ジツ)吾儕(わがセイ)與聞(ヨブン)を得る所に非ず。然らば以て之を臆度(オクタク)すれば、應(まさ)に五千萬を下らざるべし。是れ特(ひと)り清の乾隆の盛(さかり)に較ぶれば則ち遜(ゆず)るのみ。其れ漢、唐、宋、明、郅隆(シツリュウ)の際及び欧邏巴(ヨーロッパ)、都兒格(トルコ)、、俄羅斯(オロシャ)、目今(モッコン)の彊大なるに於いて、正に相(あい)頡頏(ケッコウ)す。猗(ああ)(さかん)なるかな。此(かく)の如きの地に據(よ)り、百蛮衆狄(ヒャクバンシュウテキ)を雄視(ユウシ)して之(これ)と确(きそ)ふこと勿(な)きを以って足るとせば、乃(すなは)ち外國の慢侮(マンブ)を来(きた)し、鰓鰓然(シシゼン)として常に侵軼(シンイツ)の懼(おそれ)有らん。蓋(けだ)し經畫(ケイカク)未だ其の宜(よろ)しきを盡(つく)さざる故(ゆゑ)なり。諳厄利亜(アンゲリア)の如き亦海國爲(た)るも、邈(とほ)く本邦の大なるに及ばず。地又寒沍(カンゴ)荒瘠(コウセキ)にして生聚(セイシュウ)尠(すくな)し。而(しか)して其の志気卓犖(タクラク)なるを以て恢遠(カイエン)の畧に務むるや、威稜(イリョウ)五大洲を震疊(シンジョウ)す。邦人之(これ)を見れば、亦以て少しは愧勵(キレイ)を知るべきなり。

 

歴選(レキセン)(数え上げる)・(さ)す(指さす、指摘する)・庸俗(ヨウゾク)(凡庸な人)・驕稚(キョウチ)(驕り高ぶった人を小児視すること)・固脆(コゼイ)(堅実かもろいか)・民庶(庶民、人民)・(テキ)(異民族)

 中国,春秋戦国時代の侯国。前十一世紀末,周成王の弟叔虞が唐(山西省翼城県西)に封ぜられた国。前六七九年曲沃(山西省聞喜県)の分家の武公の国を奪い,以後周囲の小国や北の狄(てき)を討って疆域を拡大した。前七世紀後半の文公は,楚の北上をおさえて,覇者となる。以後華北の強大国として,楚と対立したが,春秋後半には,大夫の勢力が強大となり,晋侯の実権は失われ,前四五三年に韓・魏・趙三家に国土を三分され,前三七六年三家に滅ぼされた。(世界大百科事典)

 中国,春秋時代の侯国。前八〇六年周の宣王が弟の友(桓公)を鄭(陝西華県東)に封じたのに始まる。周の幽王のとき,桓公は周の滅亡を予見し,東の新鄭(河南新鄭県)に遷都することに着手しようとしたが,幽王とともに桓公も犬戎に殺された。その子の武公は東遷した周の平王を助け,王室の卿として力を振るった。のち内乱が続き,春秋時代には晋と楚との間にあって,両者の圧迫に苦しんだ。その間,子産が国政を改革したが,退勢を挽回できず,戦国になると韓に攻められ前三七五年に滅ぼされた。(世界大百科事典)

 中国,春秋時代の侯国。?-前二八六年。殷の滅亡後,殷王帝辛(紂王)の兄微子啓が,殷の故都商邱(河南商邱県南)に封ぜられた国。春秋時代には河南東部を中心として勢力をもち,第十九代襄公は桓公死後の斉の内乱を治め,覇者を志したが,楚に敗れ死亡。以後晋・楚の間にあり,両国の圧迫に苦しんだ。その間前五八八年,前五四六年の二回,宋が中心となって晋・楚の和平を実現させた。戦国時代には小国に転落,前二八六年斉,魏,楚に三分され滅んだ。(世界大百科事典)

昏憒(コンカイ)(心が暗く乱れている)・遳陋(サロウ)(背が低く醜くいやしい)・禽獣(キンジュウ)(小動物)・蟲豸(チュウチ)(虫やノロノロと這いまわる動物)・數(シスウ)(歯牙にかけ数え上げること、問題にすること)・若乃(もしすなはち)(さてそこで、ところで)・北極地を出ること三四十度(北緯30~40度)・寒喧(カンケン)(寒さと温かさ) ・中(あた)るを得(ちょうどよく)・万彙(バンイ)(万物)・蕃庶(バンショ)(増える)・風尚(人々の好み)・穹淵(キュウエン)(天と地)・倫匹(リンヒツ)(仲間)・戸口(ココウ)(家の数と人口)・吾儕(わがセイ)(我々)・與聞(ヨブン)(あずかり聞くこと)・臆度(オクタク)(推測)・郅隆(シツリュウ)(全盛)・目今(モッコン)(現在)・頡頏(ケッコウ)(張り合う 匹敵する)・百蛮衆狄(ヒャクバンシュウテキ)(諸外国)・雄視(ユウシ)(威勢を張って見下す)・慢侮(マンブ)(あなどり)・鰓鰓然(シシゼン)(びくびくして)・侵軼(シンイツ)(侵略)・經畫(ケイカク)(計画)・諳厄利亜(アンゲリア)(英国)・寒沍(カンゴ)荒瘠(コウセキ)(寒さ厳しく、荒れてやせている)・生聚(セイシュウ)(民を増やし財を豊かにすること)・卓犖(タクラク)(傑出)・恢遠(カイエン)大きく広い ・(はかりごと)・威稜(イリョウ)(王の威光)・震疊(シンジョウ)(ふるえ恐れる)・愧勵(キレイ)(はじること)

 

(現代語訳)

 西洋人は島国の大きいものを数え上げている。ボルネオを第一に挙げ、マダガスカルを第二に、スマトラを第三としている。そしてわが国を第四としている。蘭学者たちはこれを見てわが国は小さいと指摘している。しかし驕り高ぶった凡俗どもを幼児視して言えば、そもそも国の強弱や盛衰は国土の大小で判断することではない。民の気風が堅実か脆いか、人口や穀物生産の多いか少ないかにより判断すべきことである。もしただ面積が大きいことを良しとすれば、春秋時代に異民族の国は広かったが晋に勝てなかったし、鄭は宋の強さに及ばなかった。それでも良しとするのか。ボルネオ、マダガスカルスマトラの諸国はすべて赤道の前後にあり毒や熱が尋常ではない。ここにいる者は心が暗く背が低く醜くて、小動物や虫のようにうごめいている。このためこれらの国は随分以前から既に外国に蹂躙されており、問題にならない。

 一方でわが国は北緯三十から四十度の間にあり寒さと温かさが丁度よく、さまざまな物が育ち、聖賢や英雄が生まれる所である。このため文化や法制度はボルネオ諸国と天と地ほどの隔たりがあることは勿論である。世界中にこれに匹敵するような国は見当たらない。わが国の戸数や人口は非常に多いが、その実数がどれぐらいかは聞いたことが無い。そこでこれを推測すればおそらく五千万を下ることはないだろう。これは清の乾隆帝の時代の最盛期に比べれば下回るだけで、漢、唐、宋、明の全盛期およびヨーロッパ、トルコ、ロシアの現在の強大さに匹敵する。何と巨大なことだろうか。

 このような地にいながら、諸外国を見下しこれらと競う必要などないと思っているならば、かえって外国から侮られびくびくとして常に侵略を恐れることになるだろう。そのわけは国家の計略が適切ではないからだ。英国は同じように島国であるがわが国の大きさには遠く及ばない。土地は寒さが厳しく荒れてやせており、民を増やしたり財を豊かにするには厳しい。しかし傑出した志気で広大な計略に務めた結果、国王の威光は五大洲を恐れおののかせている。日本人はこれを見て少しは恥を知るべきである。

 

其四十(国土の割に人口が少ないロシアや清は国防が難しいはずだが人口密度の高い日本よりはるかにまし)

國雖廓然恢廣、而土地寒沍不毛、民物不蕃阜、則堡塞棄而弗守、険要疎而易入、岌岌焉有侵削之懼、國雖蕞爾之小、而戸口夥、米粟饒裕、則防備可以得周匝、進有攘闢之勢、退有堅守之便、其失得、迥爾不侔也、故梁伯廣其國、而民不實、卒併于秦、斉壌地不甚大而生聚繁殖、在七國中屹然称雄、固其當也、雖然英武之主據曠渺荒莽之國、能使守備周到無抵之隙、至昏君孱王、則治地狭民殷之域、直覺四封空疎多瑕可上ㇾ乗、譬之儗之倫居家、或不一二藏穀、而明畧邁匹者、乃将十万之師、能令之如臂指之使、左右伸縮、無意、人之智否懸甚廼至此、今清地十倍乎我、而人口不萬々、俄邏斯地數十倍乎我、而人口止於五千万、以地與一ㇾ人相参較、則亦可廣莫少一ㇾ民、然二國防備、即未周密無漏闕、而亦稍整設、有以自固、不称、若乃地居彼十之一二、口數與彼略敵衡、實爲両間富庶殷阜之區、而沿海守備或不二國之稍有以保境威一ㇾ敵、即其爲恥孰甚焉、

 

(読み下し文)

國廓然恢廣(カクゼンカイコウ)たりと雖(いへど)も、而(しか)して土地寒沍(カンゴ)にして不毛、民物蕃阜(ハンプ)たらざれば、則ち堡塞(ホウサイ)棄てて守らず、険要(ケンヨウ)(まばら)にて入るに易(やす)く、岌岌(キュウキュウ)として侵削(シンサク)の懼(おそれ)有り。國蕞爾(サイジ)の小と曰(い)ふと雖(いへど)も、而(しか)して戸口(ココウ)(おびただ)しく、米粟(ベイゾク)饒裕(ジョウユウ)ならば、則ち防備以て周匝(シュウソウ)を得、進むに攘闢(ジョウヘキ)の勢を有し、退くに堅守の便(てだて)を有すべし。其の失得、迥(はるか)に侔(ひとし)からざるなり。故に梁伯其の國廣けれども民實(みた)さず。卒(つひ)に秦に併(あは)さる。斉、壌地甚大ならざれども生聚(セイシュウ)し繁殖す。七國中に在りて屹然(キツゼン)(ユウ)たるを称す。固(もと)より其れ當(トウ)なり。然りと雖(いへど)も英武の主、曠渺荒莽(コウビョウコウモウ)の國に據り、能(よ)く守備周到にして抵(おか)すべき隙(すき)からしむ。昏君(コンクン)孱王(センオウ)に至りては、則ち地狭く、民殷(おほ)き域を治むるに、直ちに四封(シホウ)空疎にして瑕(すき)に乗ずべきところ多きを覺ゆ。之(これ)を譬(たと)ふれば、佁懝(アイガイ)の倫(とも)家に居、或ひは一二の藏穀(ゾウコク)を馭(ギョ)すること能はざるがごとし。而して明畧(メイリャク)(たぐひ)に邁(すぐ)れば、乃(すなは)ち十万の師を将(ひき)ゐ、能(よ)く臂指(ヒシ)の使ふが如くに之(これ)をせしめ、左右伸縮、意の如くせざるは無し。人の智否懸(へだ)つること甚しければ廼(すなは)ち此(ここ)に至る。今清地、我の十倍なり。而(しか)して人口萬々(バンバン)に過ぎず。俄邏斯(オロシャ)地我の數十倍なり。而(しか)して人口五千万に止(とど)む。地と人を以て相参較(サンコウ)せば、則ち亦廣莫(コウバク)にして民少なしと謂ふべし。然れば二國防備、即ち未だ周密(シュウミツ)にして、漏闕(ロウケツ)無きを得ず。而(しか)して亦稍(やうや)く整設し、以て自固(ジコ)有りと称すべきこと無しとせず。若乃(さてまた)地は彼の十の一二に居り、口數彼と略(ほぼ)敵衡(テキコウ)す。實(まこと)に両間(リョウカン)の富庶(フショ)殷阜(インプ)の區(ところ)爲り。而して沿海守備、或ひは二國の稍(やうや)く境を保ち敵を威(おど)すを以てすること有るに如(し)かず。即ち其れ恥ずべきと爲すこと孰(いづ)れか甚しきや。

廓然恢廣(カクゼンカイコウ)(広々としている)・寒沍(カンゴ)(寒さが厳しい)・民物(ミンブツ)(人々)・蕃阜(ハンプ)(多くて盛んなこと)、堡塞(ホウサイ)(とりで)・険要(ケンヨウ)(地形が険しく防御によい場所)・岌岌(キュウキュウ)(危険な状態で)・侵削(シンサク)(侵略)・蕞爾(サイジ)(小さい)・戸口(ココウ)(戸数と人口)・米粟(ベイゾク)(穀物)・饒裕(ジョウユウ)(豊かで余裕がある)・周匝(シュウソウ)(周到であること すみずみまで行き渡っていること)・攘闢(ジョウヘキ)(払いのけること)・春秋時代にあった諸侯国。秦に滅ぼされる)・壌地(国土)・生聚(セイシュウ)(人民を育て国力を養うこと)・七國(中国戦国時代の七国)・屹然(キツゼン)(孤高を保ちまわりに屈せず)・雄(ユウ)(旗頭)  ・英武(すぐれて勇敢な)・曠渺荒莽(コウビョウコウモウ)(広く荒涼とした)・昏君(コンクン)(愚かな君主)・孱王(センオウ)(弱い王)・四封(シホウ)(四方の国境)・佁懝(アイガイ)(愚かな)・藏穀(ゾウコク)(召使)・明畧(メイリャク)(賢明な計略)・臂指(ヒシ)(腕が手指を自由に使うように自由に人を使うこと)・萬々(バンバン)(一億)・参較(サンコウ)(比べ合わせて考える)・廣莫(コウバク)(広く)・周密(シュウミツ)(行き届いて手落ちがない)・漏闕(ロウケツ)(漏れや欠け)・稍(やうや)く(次第に)・整設(整え設ける)・自固(ジコ)(自分を堅固にすること)・若乃(さてまた ところで)・口數(人口)・敵衡(テキコウ)(匹敵)・富庶(フショ)(国が富み人口が多い)・殷阜(インプ)(栄えている)

 

(現代語訳)

 国が広々としていても寒さが厳しく土地は不毛で人口が多くなければ、砦は捨てられて守られず、要害の地でも人がまばらで簡単に入られるなど、侵略されるおそれが多分にある。国が小さくても戸数と人口が多く穀物が豊かで余裕があれば防備を周到に準備することができ、進む時には敵を払いのける勢いがあり、退く時は固く守る手段がある。両者の得失の差は大きい。それゆえ春秋時代の諸侯国である梁は広かったが民は豊かではなく遂に秦に併合された。一方斉は国土はそれほど広くなかったが人民を育て国力を養い、戦国時代の国の中でも孤高を保ち周囲に屈せず戦国七雄として称えられた。これは当然のことである。しかしながらすぐれた王であれば広く荒涼とした国にあっても守備を行き届かせ、つけ入る隙を無くすであろう。愚かな君主や弱い王では土地が狭く人民が多い地域を治めても、四方の国境がガラガラでつけ入る隙が多いことにすぐに気づく。これは例えてみれば、愚かな友人が家にいることや一人二人の召使を使いこなせないことと同じだ。しかし優れて賢明な計略があれば、十万の軍を率いてこれを自由自在に使いこなし、思い通りにならない所がない。人の知恵の有無の差がここまで甚だしければ、このような結果になる。

 現在の清の面積はわが国の十倍であるが人口は一億に過ぎない。ロシアの面積はわが国の数十倍あるが人口は五千万に止まる。面積と人口を比べ合わせて考えれば国土が広い割に人口が少ないと言うべきである。そうしてみるとこの二国の防備は行き届いておらず漏れや欠点が無いとは言えない。しかし次第に整備してきており、堅固になってきたと言える。ところでわれわれは清やロシアの面積の十分の一か二の土地に居て人口は彼らにほぼ匹敵するほどなので、日本は実に世界の中の富裕繁栄地域ということになろう。しかし沿岸の守備に関しては、ロシアと清が敵を威嚇することや国境を保つことが何とかできているのと比べてもこれに全く及ばない。恥ずべきであるのはどちらが甚だしいだろうか。

 

其四十一(海に囲まれているから安全などと考えるのは時代錯誤)

目今論者類以爲本邦之環一ㇾ海、而無隣並之國、實幸之至也、藉令西土與南夷西戎北胡一ㇾ壌、則久已爲虜所呑滅矣、此識一而不二之見也、西土如燕魏遼金割天下之半、元清併有天下之全、皆自附塞小夷起駸々蠺食、馴致滔天之禍、因以爲本邦無是隣近之夷、故能免於禍焉、然而西土所以罹燕魏遼金元清之難者、以其君臣荒淫、政厖民散、有必敗之兆也、國有必敗之兆、不更張釐整以自強、而徒冀敵之不来、以獲倖免、洵屬無策、矧國勢至此、凡萌隷寇賊咸足竊神器、寧獨戎虜之禍而已也哉、且也近歳強胡如卾羅斯、如英機黎、船艦牢而鉅、極長於水戦、雖千里而外轉瞚可達、則吾邦猶之隣比然、乃欲千載前専恃騎戦之虜一ㇾ之、膠柱極矣、夫本邦所以不上ㇾ外夷之患者、特以振古而還、國勢雄、兵力壮、人饒於智勇、然有以自立、故冦賊畏避、不敢萌覬覦耳、不然如爪哇呂宋蘇門答刺諸國、皆峙于巨海中、與本邦異、而悉爲泰西所蹂躙、無克自存、環海之固、烏足恃乎、試使本邦在支那印度之地乎、以邦俗之虓鷙、更得烈祖及豊太閤之英武而駕馭之、以展厥宏略、可以呑併隣邦、突過清之大、而虎視於五大洲、不快之極耶、乃以四面臨上ㇾ海不甚便於進取也、苶然、有退縮之勢、不復思兼并、予未其爲一ㇾ幸也、今上下果能一意愓厲、嚴武備、飭海防、進可以挫一ㇾ敵、退足以自保、若乃恃環海之阻、晏然忘戦、怠佚侈靡、湛溺昇平之楽、以來彊虜侵侮、異日の禍、深可憂慮、則世之所謂至幸、秪爲大不幸、可嘆喟哉、

 

(読み下し文)

目今(モッコン)論者類(おほむ)ね以爲(おもへらく)「本邦之(これ)海を以て環(めぐ)らして隣並(リンペイ)の國無きこと實に幸(さひはひ)の至りなり。藉(もし)西土の南夷、西戎、北胡と壌(つち)を接するが如しとせしめば、則ち久しく已(すで)に虜(えびす)の呑滅(ドンメツ)する所と爲らん」と。此れ一を識(し)りて二を知らざるの見(ケン)なり。西土、燕、魏、遼、金、天下の半(なかば)を割り、元、清、天下の全てを併有するが如く、皆附塞(フサイ)の小夷より駸々(シンシン)たる蠺食(サンショク)を起こし、滔天(トウテン)の禍(わざはい)に馴致(ジュンチ)す。因て以て、本邦是(これ)隣近の夷(えびす)無く、故(ゆゑ)に能(よ)く禍(わざはい)を免がると爲す。然(しか)り而(しこう)して西土、燕魏遼金元清の難に罹(かか)る所以(ゆゑん)は、其の君臣荒淫(コウイン)し、政(まつりごと)(みだ)れ、民散り、必ず敗るるの兆(きざし)有るを以てなり。國必ず敗るるの兆(きざし)有りて、自強するを以て更張釐整(コウチョウリセイ)するを思はずして、徒(ただ)敵の来らざるを冀(こひねが)ひ、倖免(コウメン)を獲(え)ると以てせば、洵(まこと)に無策に屬(ちか)し。矧(いはんや)國勢此(ここ)に至り、凡(およ)そ萌隷(ホウレイ)寇賊(コウゾク)(みな)神器を簒竊(サンセツ)するに足る。寧(いづ)くんぞ獨(ただ)戎虜(ジュウリョ)の禍(わざはひ)而已(のみ)なるや。且也(かつまた)近歳の強胡(キョウコ)、卾羅斯(オロシャ)の如き、英機黎(イギリス)の如き、船艦牢(ロウ)にして鉅(キョ)、極めて水戦に長じ、千里より外と雖(いへど)も轉瞚(テンシュン)に達すべし。則ち吾邦猶ほ之(これ)隣比(リンピ)のごとし。乃(すなは)ち千載(センザイ)前の専ら騎戦を恃(たの)むの虜(えびす)を以て之(これ)を待たんと欲するは、柱(ことぢ)に膠(にかは)すの極(きはみ)なり。夫れ本邦外夷の患(うれ)ひに遭(あ)はざる所以(ゆゑん)は、特(ひと)り振古而還(シンコジカン)、國勢雄(すぐ)れ、兵力壮(つよ)く、人智(チユウ)に饒(ゆた)かにて、嶻然(サツゼン)自立を以て有る以(ゆゑ)なり。故(ゆゑ)に冦賊(コウゾク)(おそ)れ避け、敢て覬覦(キユ)を萌(きざ)さざるのみ。然らざるは爪哇(ジャワ)、呂宋(ルソン)、蘇門答刺(スマトラ)諸國の如し。皆巨海中に峙(そばだ)ち本邦と異ならずして悉(ことごと)く泰西の蹂躙(ジュウリン)する所と爲り、克(よ)く自存するもの無し。環海(カンカイ)の固(かため)、烏(いづ)くんぞ恃(たの)むに足るか。試(こころみ)に使(も)し本邦支那印度の地に在らしめば、邦俗の虓鷙(コウシ)なるを以て、更に烈祖及び豊太閤の英武(エイブ)の如きを得て之(これ)を駕馭(カギョ)し、以て厥(その)宏略(コウリャク)を展(の)べ、以て隣邦を呑併(ドンペイ)し、清の大なるを突過(トッカ)して五大洲を虎視(コシ)すべし。快の極(きはみ)ならざるや。乃(すなは)ち四面海に臨むを以て進取に甚(はなは)だ便ならざるなり。苶然(デツゼン)、退縮の勢(かたむき)有り、復(ま)た兼并(ケンペイ)を思はず。予、未だ其の幸(さいはひ)爲るを見ざるなり。今上下果(はたし)て能く一意に愓厲(トウレイ)し、武備を嚴しくし、海防を飭(ととの)へば、進みては敵を挫(くじ)くを以てし、退きては自保(ジホ)を以てするに足るべし。若乃(もしすなはち)環海(カンカイ)の阻(へだ)てを恃(たの)み、晏然(アンゼン)戦(いくさ)を忘れ、怠佚(タイイツ)侈靡(シビ)、昇平(ショウヘイ)の楽に湛溺(タンデキ)せば、以て彊虜(キョウリョ)の侵侮(シンブ)を來(きた)し、異日の禍(わざはひ)、深く憂慮すべし。則ち世の所謂(いはゆる)至幸(シコウ)、秪(まさ)に大不幸爲り。嘆喟(タンキ)に勝(た)ふべきかな。

 

目今(モッコン)(現在) ・(つち)(国土)・附塞(フサイ)(辺境)・駸々(シンシン)(急速に)・滔天(トウテン)(天までみなぎること。きわめて勢いが盛んなこと)・馴致(ジュンチ)(次第になる)・荒淫(コウイン)(酒や遊びに心を奪われること)・更張(コウチョウ)(緩んだ糸を締め直す 緩みを引き締める)・釐整(リセイ)(秩序を正す)(いい加減だったことを改め整えてさかんにする)・自強(自ら勉め励むこと)・倖免(コウメン)(幸いにも免れること)・萌隷(ホウレイ)(人民や奴隷、賤しい者)・寇賊(コウゾク)(悪者)・簒竊(サンセツ)する(奪い盗む)・近歳(近年)・(ロウ)(堅固)・(キョ)(大きい)・轉瞚(テンシュン)(瞬く間に)・隣比(リンピ)(隣り近所)・千載(センザイ)(千年)・柱(ことぢ)に膠(にかは)す(琴柱を膠づけにして動かなくすれば音調を変えることができなくなる。融通の利かず的外れなことのたとえ。)・振古而還(シンコジカン)(太古以来)・嶻然(サツゼン)(そびえ立つように)・覬覦(キユ)(分不相応なことをうかがい狙うこと)・環海(カンカイ)(四方を海に囲まれた国)・(かため)(守備)・虓鷙(コウシ)(荒々しく勇ましいこと)・英武(エイブ)(武勇に優れていること)・駕馭(カギョ)(自分の思うままに使う)・宏略(コウリャク)(立派なはかりごと)・突過(トッカ)(突き抜ける)・虎視(コシ)(乗ずべき機会をうかがうこと)・苶然(デツゼン)(疲れて)・兼并(ケンペイ)(他国の領土を併呑すること)・一意(一心に)・愓厲(トウレイ)(まっすぐに励む)・自保(ジホ)(自分の身を守る)・晏然(アンゼン)(やすらかに)・怠佚(タイイツ)(怠け楽しみ)・侈靡(シビ)(身分に過ぎたおごり)・昇平(ショウヘイ)(太平)・湛溺(タンデキ)(溺れふけること)・侵侮(シンブ)(侮って礼を失すること)・嘆喟(タンキ)(なげくこと)

 

(現代語訳)

 現在議論を好む人たちはおおむね次のように考えている。「わが国は海に囲まれ隣国がないことはまことに幸いなことだ。もし中国のように外国と国土を接していたらとっくに外国から滅ぼされていただろう」と。これは一を知って二を知らない見解である。中国では燕、魏、遼、金などの異民族国家が国土の半分を占めたことがあり、元や清の異民族国家が国土の全部を占めたこともある。これらは辺境の小さな国が急速な侵略を起こし次第に大変なわざわいとなったものだ。だからわが国には近隣に外国が無くそれゆえこうしたわざわいを免れていると考えるわけである。

 しかし中国が燕、魏、遼、金や元や清などの異民族により災難に遭ったのは君主や家臣が酒や遊びに心を奪われ、政治が乱れ民がバラバラになり必ず敗れる兆しがあったことによるのだ。国が必ず敗れる兆しがあっても、自ら勉め励むことでゆるみを引き締め秩序を正そうとは思わず、ただ敵が来ないことを乞い願い、幸いにも難を免れたと考えているようではまことに無策に近い。ましてやわが国の情勢はここに来て身分の卑しい者、悪漢など誰でも帝位を狙いうるような状態であり(注1)、災難はただ外国からだけではない。かつまた近年ロシアやイギリスのような強国は艦船が堅固で大きく極めて海戦が得意で、千里と離れていても瞬く間に来ることができる。つまりわが国とは隣り近所のようなものだ。もはや千年前の専ら騎馬戦頼みの外敵のつもりでこれに対処しようとするのは、「琴柱に膠す」つまり融通がきかず的外れなことの最たるものだ。

 そもそもわが国が外国の侵略に遭わなかったのは大昔から国勢が盛んで兵力が強く人々に知恵と勇気があり、そびえ立つように自立していたからである。それゆえ悪者どもも恐れて避け、あえて狙うようなことはしなかったのである。そうでなかったのがジャワやルソン、スマトラなどの国で、皆海洋国家である点はわが国と同じであるが、ことごとく西洋諸国に蹂躙され独立しているものは無い。海に囲まれていることが何で防禦の頼りになるものか。もしわが国がインドの地にあったとすれば、わが国の勇猛な文化と更に家康公及び太閤秀吉公のようなすぐれた武勇でその戦略を展開し、隣国を併合し清のような大国を突き抜けて五大洲に進出する機会を伺っただろう。何と爽快なことだろうか。ところがまわりを海に囲まれていることは対外進出にはあまり有利ではない。ぐったり疲れて退いてしまう傾向があり、他国の領土を併合することなど全く考えない。私はそれが良かったことを見たことが無い。

 もし上も下も一心に励んで武備を厳しくし海防を整備すれば、進んでは敵を打ち負かし、退いては自分の身を守れるようになる。しかし海に囲まれていることを頼みにして安心して戦を忘れ、怠け楽しみ、身分不相応な贅沢と太平におぼれていれば、外国からの侮りを招くだろう。将来の災いを深く憂慮すべきである。つまり世に言うまことに幸せなこととはまさに大不幸なのである。嘆かわしいことだ。

(注1)この頃百姓一揆が頻発していたことに加え、1837年には大塩平八郎の乱生田万の乱が勃発するなど、国内は不安定化していた。

 

其四十二(英露の戦略は信長に似て弱国を併合し強国を孤立させるにあり、今のうちに防禦の準備をすべし)

古昔甲之武田晴信、越之上杉輝虎、胥長於行一ㇾ師、兵精而國強、不與确織田信長知之、故卑辞腆禮以承奉其意、使釁端、以其間噬京畿及隣近諸侯、意欲已國綦大兵至強、二師孑立無一ㇾ援、然後一征殲之、後來甲遂爲信長所一ㇾ併、輝虎雖信長之狡計、而未幾病歿、不之制、嗣子遂爲削弱、信長之遠圖亦可畏矣、今俄羅斯英機黎之設心、頗似類焉、姑舎其彊大者、而先従事于小弱易ㇾ與者、故五大洲中國、風習脆軟忘武者、多被併有、而其彊者則依然屹立不相下、彼其志豈畫乎此、亦欲壹衆弱其盛大之勢、以困蹙向之彊者、亦可悪而懼、今也彼経営惨淡、未其志之際、正屬我有爲之秋、不今之暇豫而爲之所、後必有悔者矣、雖然即称絶大莫強之邦、兵力自有涯垠、非輕與數十萬之師、有國焉、人口苟躋四五百萬、可以發十萬兵、加之措畫合宜、外夷無復可一ㇾ畏、此又異於甲越之小、四隣皆爲敵、則孤立難保者、天下與一國、其形勢固不侔矣、嗚呼如本邦、其盛大富實、幾無遺憾、特恨其未捍禦之術、不上ㇾ以威制四夷耳、

 

(読み下し文)

古昔甲の武田晴信、越の上杉輝虎、胥(とも)に師(シ)を行ふに長(た)け、兵精(すぐ)れ國強く、與(とも)に确(くら)ぶべからず。織田信長(これ)を稔知(ジンチ)す。故に卑辞(ヒジ)腆禮(テンレイ)以て其の意を承奉(ショウホウ)し、釁端(キンタン)を造るを獲(え)ざらしめ、其の間を以て京畿及び隣近諸侯を呑噬(ドンゼイ)す。意(おも)ふに已(すで)に國綦(きはめ)て大きく、兵至(いたっ)て強し。二師孑立(ケツリツ)し援(たすけ)無きを待ち、然(しか)る後に一征し之(これ)を殲(ほろ)ぼさんと欲す。後來(コウライ)甲遂(つひ)に信長の併(あは)す所と爲る。輝虎、信長の狡計を覺ゆと雖(いへど)も、而(しか)して未だ幾(いくばく)もなく病歿し、之(この)(おさへ)を有すること能(あた)はず。嗣子遂(つひ)に削弱(サクジャク)せらる所と爲る。信長の遠圖(エント)亦畏(おそ)るべし。今俄羅斯(オロシャ)、英機黎(イギリス)の設心(セッシン)(すこぶ)る焉(これ)に似類(ジルイ)す。其の彊大(キョウダイ)なる者は姑(しばら)く舎(すてお)きて、先ず小弱にして與(く)み易(やす)き者に従事す。故に五大洲中の國、風習脆軟(ゼイナン)にして武を忘るる者、多くは併有せらる。而(しか)して其の彊者(キョウジャ)則ち依然屹立(キツリツ)し相下らず。彼其の志(こころざし)此を畫(はか)るを豈(ねが)ひ、亦衆弱(シュウジャク)を混壹(コンイツ)し其の盛大の勢を極め、以て向之(さきの)彊者を困蹙(コンシュク)せんと欲す。亦悪(にく)み懼(おそ)るべし。今や彼、経営に惨淡(サンタン)として、未だ其の志を逞(たくま)しくせざるの際、正(まさ)に我が有爲の秋(とき)に屬(いた)る。今の暇豫(カヨ)を迨(ねが)ひて之所(これがところ)を爲さざれば、後に必ず悔ゆべからざる者(こと)有るべし。然れば即ち絶大莫強(バクキョウ)の邦を称すると雖(いへど)も、兵力自(おのづ)から涯垠(ガイギン)有り。輕(かるがる)しく數十萬の師に與(くみ)するを可(よし)とするに非ず。國有りて人口苟(いや)しくも四五百萬に躋(のぼ)れば以て十萬の兵を發(おこ)すべし。之に加ふる措畫(ソカク)合宜(ゴウギ)なれば、外夷復(ま)た畏(おそ)るべきもの無し。此又(これまた)甲越の小なるが四隣皆敵と爲さば、則ち孤立し保ち難き者(こと)とは異なる。天下と一國と其の形勢固(もと)より侔(ひと)しからざるなり。嗚呼(ああ)本邦の如き、其の盛大富實(フジツ)なること、幾(いくばく)も遺憾無し。特(ただ)其の未だ捍禦(カンギョ)の術を盡(つく)さず、以て四夷を威制すること能(よ)く有らざるを恨むのみ。

 

甲州 甲斐)・(越後)・(シ)(いくさ)・稔知(ジンチ)(熟知)・卑辞(ヒジ)(へりくだったことば)・腆禮(テンレイ)(丁寧な礼儀)・承奉(ショウホウ)(よく仕えること)・釁端(キンタン)(争いのいとぐち)・孑立(ケツリツ)(孤立)・後來(コウライ)(その後)・削弱(サクジャク)(国土を削り弱める)・遠圖(エント)(遠大な計画)・設心(セッシン)(心配り 配慮)・似類(ジルイ)(類似)・脆軟(ゼイナン)(脆く軟弱)・衆弱(シュウジャク)(弱小諸国)・混壹(コンイツ)(一つにまとめる)・困蹙(コンシュク)(困窮)・惨淡(サンタン)(苦心している)・有爲(重要な)・暇豫(カヨ)(無事でのんびりしていること)・之所(これがところ)(適切な処置)・絶大莫強(バクキョウ)(極めて大きくこの上なく強い)・涯垠(ガイギン)(かぎり 限界)・措畫(ソカク)(処置)・合宜(ゴウギ)(適切)・遺憾(残念に思うこと)・捍禦(カンギョ)(防禦)

 

(現代語訳)

 昔、甲斐の武田晴信と越後の上杉輝虎は共にいくさに長け兵は優れ国も強く、共に比類がなかった。織田信長はこれを熟知しており、へりくだった言葉や丁寧な礼儀でその意に逆らわないようにし、争いの糸口を与えなかった。そしてその間に近畿地方や近隣の諸大名を併合していった。信長が考えていたのは、すでに自分の国は極めて大きく兵も強いので甲斐と越後の二軍が孤立無援となるのを待ってその後に一気に攻め滅ぼそうというものであった。その後甲斐は結局信長に併合された。輝虎は信長に策略に気づいていたが間もなく病没し、これを抑えることができなかった。輝虎の後継者は結局国土を削られ弱められることになった。信長の遠大な計画は恐るべきものである。

 現在のロシアやイギリスの考えもこれによく似ている。強大な国はしばらく捨て置いて、まず弱小で組みやすい国を相手にする。それゆえ五大洲の国の中で脆弱な気風で武の心構えを忘れたものの多くが併合されている。しかしその中の強者は依然として立ちふさがり引き下がらない。彼らの志はこの状況を打開することであり、弱小諸国を一つにまとめて自分たちの勢いを強めることでこの強者を困窮させようとしている。まことに憎々しく恐るべきことである。

 今は彼らは計画実現に苦心していて思い通りにできていないので、我々にとっては重要な時である。今ののんびりした状態の続くことを願って適切な処置をしなければ、後に必ず後悔することになる。強大であることを自称する国であっても兵力には自ずから限界がある。軽々しく数十万の軍に味方するのが良いわけではない。国があって人口が四・五百万もあれば十万の兵をおこすことはできる。これに与える処置が適切であれば外国を恐れる必要はない。これは甲斐や越後のような小国がまわりをすべて敵としてしまえば孤立して国を保てなくるのとは異なる。世界と一国とでは情勢は同じではない。わが国のように豊かで充実していることは素晴らしいことだが、防禦の手段を尽くしておらず周囲の外敵を威圧できていないことが残念でならない。

 

其四十三(英露二国、とりわけ恐るべし)

目今外國除満清都兒格之外、莫下盛且大上於俄羅斯英機黎、凡両間綦彊極熾之國、爲本邦、爲滿清、爲莫臥兒、爲百兒西亜、爲都兒格、而朝鮮喀爾喀翁加里亜等次之、以西土里程之、緜地殆四萬里許、而其北則俄羅斯止以一國之、其形如鼇之載山而扑然、今又滅波羅尼亜、削奪雪際亜之半、其西界更出於都兒格之西、取柬察加、渡海而漸蠺食亜墨利加、則其東陲遠迤於本邦之東、其大爲何如也、俄羅斯疆域固多凛冽不毛之地、然併有既極其廣、則其中亦自有沃腴之區、如新舊都近地及歌撤更波羅尼亜、未始不殷富、故舊志其口三千萬、近歳之史則云五千萬、其勢駸々有禦者、即就今日而論、幅員之大、亘古靡匹、而其人口之夥、又足漢唐之盛際、那可輕耶、或云、渠夙有併一世界之心、此雖於憶測之説、而方今之盛、既已爲騎虎破竹之勢、其大志未必不一ㇾ乎方寸、不懼、亡本邦、如夫滿清百兒西亜都兒格、胥抛之度外、而不折衝之方、則非時務也、邇者英機黎侵略海南諸島、據榜葛刺、削噬天竺、又大入北亜墨利加、自其極東、而透出極西、殆有一大洲之半、勃興之勢不遏、然未悉其詳、故不論、要之二國尤外國之可畏悪者也、

 

(読み下し文)

目今(モッコン)外國、満清、都兒格(トルコ)を除くの外、俄羅斯(オロシャ)、英機黎(イギリス)より盛且つ大なるは莫(な)し。凡そ両間に綦(きはめ)て彊(つよ)く極めて熾(さかん)なるの國、本邦爲り、滿清爲り、莫臥兒(ムガール)爲り、百兒西亜(ペルシア)爲り、都兒格(トルコ)爲り。而して朝鮮、喀爾喀(カルカ)、翁加里亜(ハンガリー)等之(これ)に次ぐ。西土里程(リテイ)を以て之(これ)を計れば、緜地(メンチ)殆ど四萬里許(ばかり)。而(しか)して其の北、則ち俄羅斯(オロシャ)(ただ)一國を以て之(これ)を承(しの)ぐ。其の形、鼇(ゴウ)の山を載せて扑(たふれ)るが如く然り。今又波羅尼亜(ポーラニア)を滅し、雪際亜(スウェーデン)の半(なかば)を削奪す。其の西界更に都兒格(トルコ)の西に出る。柬察加(カムチャッカ)を取り、海を渡りて漸(やうや)く亜墨利加(アメリカ)を蠺食(サンショク)す。則ち其の東の陲(さかひ)、遠く本邦の東に迤(ゆ)く。其の大なるを何如(いかが)爲さんや。俄羅斯(オロシャ)疆域(キョウイキ)固(もと)より凛冽(リンレツ)不毛の地多く、然(しか)るに併有既に其の廣きを極(きは)む。則ち其の中に亦自(おのづ)から沃腴(ヨクユ)の區(ところ)有り。新舊都に近き地、及び歌撤更、波羅尼亜(ポーラニア)の如し、未だ始めから殷富(インプ)たらざるとせず。故に舊志其の口三千萬、近歳の史(ふみ)則ち云ふならく五千萬。其の勢(いきほひ)駸々(シンシン)として禦(ギョ)すべからざる者有り。即ち今日に就て論ずれば、幅員(フクイン)(これ)大にして、亘古(コウコ)(なら)ぶもの靡(な)く、而(しか)も其の人口之(これ)(おびただ)しく、又漢唐の盛際に敵(あた)るに足る。那(なんぞ)輕んずべきや。或云(あるひといはく)、「渠(かれ)(つと)に一世界を呑併(ドンペイ)するの心を有す」と。此れ憶測の説に出ると雖(いへど)も、而(しか)して方今(ホウコン)(これ)盛んにして、既已(キイ)騎虎破竹の勢ひと爲り、其の大志、未だ必ずしも方寸(ホウスン)に存せずとせず。懼(おそ)れざるべからず。亡論本邦夫れ滿清、百兒西亜(ペルシャ)、都兒格(トルコ)の如し。胥(みな)(これ)を度外に抛(なげう)ちて折衝(セッショウ)の方(てだて)を盡(つく)さず。則ち時務(ジム)に晰(あき)らかなる者に非ざるなり。邇(ちかく)は英機黎(イギリス)海南諸島を侵略し、榜葛刺(ベンガル)に據(よ)り、天竺を削噬(サクゼイ)す。又大ひに冞(ますます)北亜墨利加(アメリカ)に入り、其の極東より極西に透出す。殆(ほとん)ど一大洲の半(なか)ばを有し、勃興の勢ひ遏(とど)むべからず。然(しか)るに未だ其の詳(くは)しきを悉(つく)さざる故(ゆゑ)に論ぜず。之を要するに二國尤(もっと)も外國の畏(おそ)れ悪(にく)むべき者なり。

目今(モッコン)(現在) ・両間(世界)・喀爾喀(カルカ)(タタール北部の部族)・里程(リテイ)(里で距離を表すこと)・緜地(メンチ)(広大な土地)・(ゴウ)(巨大な亀)・波羅尼亜(ポーラニア)(ポーランド)・疆域(キョウイキ)(領域)・凛冽(リンレツ)(寒さが厳しい)・沃腴(ヨクユ)(肥沃の地)・歌撤更(コサックか?)・殷富(インプ)(富み栄えること)・舊志(古い資料)・(人口)・駸々(シンシン)(急速)・幅員(フクイン)(広さ)・亘古(コウコ)(永久に)・盛際(最盛期)・方寸(ホウスン)(心の中、胸の内)・亡論(無論、勿論)・折衝(セッショウ)(敵が攻めてくるのを挫き止めること)・時務(ジム)(時代の急務) ・削噬(サクゼイ)(侵略)・透出(通り抜ける)

 

(現代語訳)

 現在外国の中で清やトルコを除けばロシアとイギリスより盛大なものは無い。世界の中で極めて強く盛んな国としては、わが国、清、ムガールペルシャ、トルコがある。そして朝鮮、カルカ、ハンガリーなどがこれに次ぐ。中国の広大な土地はほとんど四百里ばかりだが、その北のロシアはただ一国でこれをしのぐ。その形は巨大な亀が山を載せてたおれているようだ。今またポーランドを滅ぼしスウェーデンの半分を奪った。その西の境界はトルコの更に西に出る。カムチャッカを取り海を渡って次第にアメリカを侵略して東の境界はわが国のはるか東の遠方にまで行く。その巨大さをどう考えたらいいのだろうか。ロシアの領域はもともとは寒さが厳しく不毛の地が多いが、領土を併合して極めて広くなっている。その中には当然肥沃な所もあり、ペテルブルグ、モスクワという新旧の都に近い所や歌撤更やポーランドなどは始めから豊かだった。このため古い資料では人口は三千万となっているが近年の資料では五千万とのことだ。その勢いは急速で抑えがたいものがある。現在について論ずれば面積は広大で永遠にこれに並ぶものはないほどだ。しかも人口も多く漢や唐の最盛期に匹敵し、軽んずることなどできようか。ある人が言うには「ロシアは昔から世界を併合しようという心がある」とのことである。これは憶測の説ではあるが、現在すでに騎虎破竹の勢いであり、野望が心の中に無いとは言えない。恐るべきことである。無論わが国は清やペルシャ、トルコと同じで、ロシアのことは度外視して敵の侵攻に対する防衛の手段を尽くしていない。つまりは時代の急務をよく理解しているとは言えないのである。

 近年ではイギリスが海南諸島を侵略しベンガルを拠点にしてインドを侵略している。またますます北アメリカに入りその東の端から西の端まで通り抜けており、殆ど大陸の半分を領有している。勃興の勢いはとどまる所を知らない。しかし未だにその詳しいことはわからないのでこれ以上論じない。要するに英露の二国は外国の中でもとりわけ恐れ憎むべき存在なのである。

 

其四十四(ロシアのオホーツク遷都はあり得ない)

論者或曰、俄羅斯國勢、日滋熾大、而貪惏無紀極、未必不一ㇾ侵加乎我、幸哉其未乎上計也、藉令彼移帝都于於烏都加、漸侵逼我、以行蠺食之術、則雖智士、無之何也已、世人類篤信斯説、其實未外國形勢也、今所於俄羅斯移一ㇾ都者、以其富庶之地密邇我也、蓋謂如此則大兵立發、糧餉易継、而我北陲防備闊疎、無以待一ㇾ之、其禍叵測也、夫於烏都加地方、沍寒窮匱、百物不殖、究非帝都之域、果使彼傾國以求斯地之殷阜、徒有財憊一ㇾ民、而不顕效、彼必弗爲也、泰西間有凛冽之郷爲繋泊之地其蕃庶、特以其萬國互市輻湊故克致昌阜也、今於烏都加傍近、未大國可市易、則將何以能得殷盛乎、且俄羅斯志願綦鉅、將以経営四海方今兵彊地廣如満清都兒格百兒西亜漢乂利亜拂蘭察等數國皆接近俄羅斯、而森然列峙、彼所畏忌而警備者、職在乎茲、彼之貪饕、不我無窺伺之心、然非積怨蓄怒、断不國力、不利害死以先攻上ㇾ我、可俄羅斯決不上ㇾ移ㇾ都之下策也、設使彼憖都以経略東方乎、本國遺守乏人、兵衛單弱、隣近大國、必將隙以求上ㇾ逞、則俄羅斯新舊两都、岌々焉危矣、昔楚靈次于乾谿以逼呉、而三公子潜入、内訌于郢、王遂縊死、金逆亮遷都于、將蹙宋、而燕京更立君、身尋遭弑、是在俄羅斯、洵爲失策之尤、而適爲我之幸、俄羅斯之愚、寧至斯邪、今之俗吏拘儒、固絶不海外情形、其稍留意於邊防者、立論之舛、亦復若此、可慨也已、

 

(読み下し文)

論者或(あるひと)曰く「俄羅斯(オロシャ)の國勢、日に滋(ますます)(さかん)にして大いなり。而(しか)して貪惏紀極(タンランキキョク)無く、未だ必ずしも我を侵加(シンカ)せんと欲せざることなし。幸(さいはひ)なるかな、其れ未だ上計(ジョウケイ)より出るものを知らざるなり。藉令(もし)彼、帝都を烏都加(オホーツク)に移し漸(やうや)く我に侵逼(シンピツ)し、以て蠺食(サンショク)の術を行なはしめば、則ち智士有りと雖(いへど)も、之(これ)を奈何(いかん)とすること無きなるのみ」と。世人の類(たぐひ)(あつ)く斯(かか)る説を信ず。其れ實に未だ外國形勢を燭(みぬ)かざるなり。今、俄羅斯(オロシャ)の都を移すを懼(おそ)るる所は、其の富庶(フショ)の地の我に密邇(ミツジ)するを以てなり。蓋(けだし)(おもへらく)(かく)の如くして則ち大兵を立ち發(おこ)さば、糧餉(リョウショク)(つ)ぎ易(やす)く、而(しか)して我北陲(ホクスイ)の防備闊疎(カッソ)にして、以て之に待(そな)へること無く、其の禍(わざはひ)(はか)るべからざるなり。夫(そ)れ烏都加(オホーツク)地方に於ては、沍寒(ゴカン)窮匱(キュウキ)にして、百物殖(ふ)えず。究(きは)むれば帝都に定むるの域に非ず。果して使(もし)彼、國を傾け以て斯(か)の地の殷阜(インプ)を求めしめば、徒(いたづら)に財を傷つけ民を憊(くる)しむること有りて、顕效を見ざらん。彼必ず爲さざるなり。泰西間(このごろ)凛冽(リンレツ)の郷(ところ)を繋泊(ケイハク)の地に爲し其の蕃庶(バンショ)を極むる者有るは、特(ただ)其の萬國互市(ゴシ)輻湊(フクソウ)を以てするのみ。故(ゆゑ)に克(よ)く昌阜(ショウフ)を致すなり。今、烏都加(オホーツク)傍近(ボウキン)に於て、未だ大國の市易(シエキ)すべき者有るを聞かず。則ち將(まさ)に何を以て能(よ)く殷盛(インセイ)を得んとするか。且つ俄羅斯(オロシャ)の志願綦(きはめ)て鉅(おほ)きく、將(まさ)に以て四海を経営せんとす。方今(ホウコン)兵彊(つよ)く地廣(ひろ)き満清、都兒格(トルコ)、百兒西亜(ペルシア)、漢乂利亜(ハンゲリア)、拂蘭察(フランス)等數國の如し、皆俄羅斯(オロシャ)に接近して、森然(シンゼン)列峙(レツジ)す。彼の畏(おそ)れ忌みて警備する所は、職(もと)より茲(ここ)に在り。彼之(これ)貪饕(タントウ)にして、我に窺伺(キシ)の心無しと謂(い)ふべからず。然れども積怨蓄怒有るに非ず。断じて國力を顧(かへりみ)ず、利害を圖(はか)らず、死を冒(をか)し以て先に我を攻むるに至らず。俄羅斯(オロシャ)決して都を移すの下策に出ざるを知るべきなり。設使(もし)彼都を移し以て東方を経略(ケイリャク)するを憖(ねが)はば、本國に遺(のこ)り守る人乏しく、兵衛(ヘイエイ)單弱(タンジャク)なり。隣近大國、必ず將(まさ)に隙(すき)を伺(うかが)ひ、以て逞(たくま)しくするを求むべし。則ち俄羅斯(オロシャ)新舊两都、岌々(キュウキュウ)として危きなり。昔、楚の靈、乾谿(ケンケイ)に次(やど)り以て呉に逼(せま)る。而(しか)して三公子郢(エイ)に潜入し内に訌(せ)め、王遂(つひ)に縊死す。金の逆亮、汴(ベン)を遷都し將(まさ)に宋を困蹙(コンシュク)させんとして、燕京に更に君を立て、身(みづから)(ついで)(シイ)に遭(あ)ふ。是れ俄羅斯(オロシャ)に在りては、洵(まこと)に失策の尤(とが)と爲り、而(しか)も適(まさ)に我の幸(さいはひ)と爲るべし。俄羅斯(オロシャ)の愚、寧(いづ)くんぞ斯(ここ)に至るや。今の俗吏(ゾクリ)拘儒(コウジュ)、固(もと)より絶へて海外情形を諳(そら)んぜず、其の邊防(ヘンボウ)に留意すること稍(すくな)き者は、立論の舛(たが)ふこと亦復(ふたたび)(かく)の若(ごと)し。慨(なげ)くべきなるのみ。

 

貪惏(タンラン)(貪欲)・紀極(キキョク)(終り、終末)・侵加(シンカ)(侵し加わる)・上計(ジョウケイ)(優れた計画)・侵逼(シンピツ)し(侵入しようと迫る)・智士(知恵のある人)・富庶(フショ)(豊かで人口が多い)・密邇(ミツジ)(近接)・糧餉(リョウショク)(兵糧)・闊疎(カッソ)(おろそか)・沍寒(ゴカン)(寒さが厳しい)・窮匱(キュウキ)(貧しく乏しい)・究(きは)む(深く調べる)・殷阜(インプ)(栄えること)・顕效(目立った効果)・凛冽(リンレツ)(寒さの厳しい)・繋泊(ケイハク)(船舶を繋ぎ止める)・蕃庶(バンショ)(繁栄)・互市(ゴシ)(交易 貿易)・輻湊(フクソウ)(物が多く集まり来ること)・昌阜(ショウフ)(栄えること)・市易(シエキ)(商売)・殷盛(インセイ)(繁盛)・森然(シンゼン)(ぴんと張りつめて)・列峙(レツジ)(並んで聳え立っている)・貪饕(タントウ)(貪欲)・窺伺(キシ)(人の様子を伺い探ること)・経略(ケイリャク)(攻め取り支配する)・兵衛(ヘイエイ)(兵士の護衛)・單弱(タンジャク)(孤立して助けがない)・岌々(キュウキュウ)(心配でひやひやして)・楚(ソ)の靈(霊王)・次(やど)る(軍隊を駐屯させる)・三公子(霊王に反抗する三人の弟)郢(エイ)(楚の都)・金(キン)の逆亮(金の悪逆な海陵王) ・  (ベン)(北宋の首都 開封)・困蹙(コンシュク)(困窮)・(ついで)(まもなく)・弑(シイ)に遭(あ)ふ(殺された)・(とが)(あやまち)・俗吏(ゾクリ)(下らない役人)・拘儒(コウジュ)(融通の利かない儒学者)・邊防(ヘンボウ)(国境の防備)・立論(議論の筋道)

 

(現代語訳)

 論者のある人が言うには「ロシアの勢いは日に日に盛んになっており、しかも貪欲さには限りが無くわが国を侵略しようとしている。幸いにも彼らは優れた計画があるのをまだ知らない。もしロシアが都をオホーツクに移して次第にわが国に迫って侵略を行えば、いくら知恵ある人がいてもどうしようもなくなるだろう」と。世の中の人はこうした説を厚く信じている。これは実は外国の情勢を見抜いていないのだ。

 ロシアが遷都するのを恐れる理由は豊かで人口が多い場所がわが国に近接することになるためだ。確かにこのようにしたうえで大量の兵を動員すれば兵糧の輸送がやりやすく、しかもわが国の北の国境の警備は疎かなためこれに対応できず、その災いは計り知れない。しかしオホーツク地方は寒さが厳しく貧しいため作物がとれず、よく調べれば都にできるような所ではない。もしロシアが国力を傾けてこの地を栄えさせようとしても、無駄に財を失い民を苦しめてしかも目立った効果は上がらないだろう。ロシアはこんなことは絶対しないだろう。西洋諸国はこのごろ寒さの厳しい所を船舶の基地にして繁栄を極めていることがあるが、それは貿易をして物が多く集まるようになりそれゆえよく栄えているのである。オホーツク付近で貿易をしようとする大国の人間を未だに聞いたことが無い。何をもって繁盛させようとするのか。それにロシアの野望は大きく世界を支配しようとしている。現在、軍が強く領土の広い清、トルコ、ペルシャハンガリー、フランス等の国は皆ロシアに近接しピンと張りつめて並び立っている。ロシアの恐れ嫌って警備する所はもともとここにある。

 ロシアは貪欲で日本を狙う心がないとは言えない。しかし長年の怨みだとか怒りがあるわけではない。国力をかえりみず、利害を考えずに死の危険を冒してまでわが国を先制攻撃するなどということは断じてない。ロシアが遷都などという下策に出ることは決してないということを知るべきである。もしロシアが都を移し東方を攻め取り支配しようとするなら本国に残り守る人が少なく護衛の兵が孤立して助けが無くなり、近隣の大国が隙を狙ってくるだろう。つまりロシアの新旧の都であるペテルブルグとモスクワは危くなり心配でひやひやすることになる。

 春秋時代に楚の霊王は乾谿という所に軍隊を駐屯させ呉に迫った。しかし霊王に反抗する三人の弟が楚の都である郢に潜入して内側から攻め、王は遂に首を吊り自殺した。金の海陵王は宋を困窮させようとして宋の都を汴から燕京に遷都してして間もなく殺された。遷都はロシアにとってはまことに失策となり我々には幸いなこととなるだろう。ロシアが何でそんなことをするものか。

 今のくだらない役人どもや頭の固い学者はもともと全く海外の情勢を知らず、国境の防備に留意が足りないことや議論の筋道が間違っていることは見てきたとおりである。嘆かわしいことだ。

 

其四十五(貿易厳禁論と解禁論 海防不備の現在貿易解禁により外国に恩義を与え開戦の口実を与えないことが上策)

今代議海防之方者、其待泰西之術有二、曰、彼來請互市、斷然不許、以巨炮摧其船艦、使嚮邇也、曰、姑許其請、待以禮、撫以恩、使之不一ㇾ釁端、也、而大吏則多左祖厳禁互市之策焉、夫絶互市而撃摧船艦者、峻烈之極、允其互市、而以恩信懐之者、一於仁柔、二論殆如東西氷炭の相反、而其心則未始相背馳、何也、戎虜豺狼之性、饕餮之欲、惟利是競、不信與一ㇾ義、吾洞視其肺肝、則夫峻拒互市、而極力撃之、固不過當也、顧戦非仁人所一ㇾ好、萬々不已、然後用之、且也今日海防之未周卒伍之未素習、難以應勍敵、故不戎虜恩敦信、使彼無上ㇾ以始闘鬨彼猶頑乎猖獗、不肯馴伏乎我、遂至鋒鏑、則彼師出無名、而我將卒夫人愾敵不義、勇力倍蓰、而我武備亦漸修整、斯可以奏捷、然則張主許互市恩信之説者、其心全然韲粉虜艦之見、特其経畫加周密耳、若乃與虜媾和、悦其辞之甘貢献之重、晏然自寧、不復事防禦、以自致阽危、如夫差之於勾践、王浚之於石勒、眞愚憃之極、唱恩信之説者、未始慮不一ㇾ此也、今夫小人姦狡凶険、綦可斁、吾能炳察其禍心、而其待之則當喣嫗寛綽不上ㇾ怨府、斯爲撫馭之妙、若乃明告之曰、汝眞小人、吾爾後誓不汝周旋、又且鉗制之、蹂躙之、使地自容、則渠忿奰抗逆、不毒于我止、此東漢趙宋諸君子、所以見一ㇾ於群小也、今之待虜、能勿漢宋諸賢之覆轍則庶幾矣、

 

(読み下し文)

今代海防の方(てだて)を議(はか)る者、其の泰西に待(そなふ)るの術(すべ)に二つ有り。曰く「彼來りて互市(ゴシ)を請(こ)はば、斷然許さず、巨炮を以て其の船艦を逆(むか)へ摧(くだ)き、嚮邇(キョウジ)を得ざらしむなり」と。曰く「姑(しばらく)其の請(こひ)を許し、待(もてな)すに禮を以てし、撫(な)づるに恩を以てす。之(これ)釁端(キンタン)を造るを得ざらしむなり。而して大吏(ダイリ)則ち多くは祖の互市(ゴシ)を厳禁するの策を左(たす)くのみ。夫れ互市を絶(た)ちて船艦を撃摧(ゲキサイ)するは、峻烈の極(きはみ)。其の互市を允(ゆる)して、恩信を以て之(これ)を綏懐(スイカイ)するは、仁柔(ニンジュウ)に一(おなじ)」と。二論殆(ほとん)ど東西氷炭の相反するが如し。而(しか)して其の心則ち未だ始めから相背馳(ハイチ)せず。何ぞや。戎虜(ジュウリョ)豺狼(サイロウ)の性(さが)饕餮(トウテツ)の欲、惟(ただ)利を是(これ)(きそ)ふ。信と義とを顧(かへりみ)ず。吾其の肺肝を洞視(ドウシ)すれば、則ち夫れ互市を峻拒して、力を極め之(これ)を撃つは、固(もと)より過當(カトウ)(た)らざるなり。顧(かへりみ)れば戦(いくさ)、仁人の好む所に非ず。萬々(バンバン)(や)むを獲(え)ず、然(しか)る後之(これ)を用ふ。且つ也今日海防之(これ)未だ周(あまね)からず、卒伍(ソツゴ)(これ)未だ素習(ソシュウ)せず、以て勍敵(ケイテキ)に應じ難し。故(ゆゑ)に戎虜に恩を播(し)き、信を敦(あつ)くし、彼に以て闘鬨(トウコウ)を始むるを辞(い)ふこと無からしむに如(し)かず。彼猶ほ頑(かたくな)にして猖獗(ショウケツ)、我に馴伏(ジュンプク)するを肯(がへん)ぜず、遂(つひ)に鋒鏑(ホウテキ)を交ふるに至れば、則ち彼の師出るに名(メイ)無し。而(しか)して我將卒(ショウソツ)、夫れ人、敵の不義を愾(いか)れば、勇力(ユウリョク)倍蓰(バイシ)す。而(しか)も我武備亦漸(やうや)く修整し、斯(ここ)に奏捷(ソウショウ)を以てすべし。然(しか)れば則ち互市を許し恩信を布(し)くの説を張主(チョウシュ)する者は、其の心、虜艦(リョカン)を韲粉(セイフン)するの見(ケン)に全く然り。特(ただ)其の経畫(ケイカク)に周密(シュウミツ)を加ふるのみ。若乃(もしすなはち)(えびす)と媾和(コウワ)し、其の辞(ことば)の甘きと貢献の重きを悦び、晏然(アンゼン)として自(みづか)ら寧(やすん)じ、復(ま)た防禦に事(つか)へざれば、以て自(みづか)ら阽危(エンキ)を致すべし。夫差(フサ)の勾践(コウセン)に於ける、王浚(オウシュン)の石勒(セキロク)に於けるが如し。眞(まこと)に愚憃(グトウ)の極(きはみ)。恩信を施すの説を唱ふる者は、未だ始めより慮(おもんぱかり)(ここ)に及ばざることなし。今夫れ小人姦狡(カンコウ)凶険(キョウケン)ならば、綦(きはめ)て斁(いと)ふべし。吾能く其の禍心(カシン)を炳察(ヘイサツ)し、而して其(もし)之を待(もてな)さば、則ち喣嫗(クウ)寛綽(カンシャク)に當り、怨府(エンプ)と爲るに至らず。斯(ここ)に撫馭(ブギョ)(ミョウ)を得るを爲す。若乃(もしすなはち)明らかに之に告げて曰く「汝眞(まこと)に小人なり、吾爾後(ジゴ)(ちかっ)て汝と周旋せず」とせば、又且(まさ)に之(これ)を鉗制(ケンセイ)し、之を蹂躙(ジュウリン)し、自(みづか)らを容(い)るる地(ところ)無からしめば、則ち渠(かれ)忿奰(フンヒ)抗逆(コウギャク)し、貽(のこ)らず我を毒(にく)むに止(とどま)らず。此れ東漢、趙、宋、諸君子の群小に踣(たお)さるる所以(ゆゑん)なり。今の虜に待(そな)ふるに、能(よ)く漢宋諸賢の覆轍(フクテツ)を踏まざること、則ち庶幾(ショキ)(心から願うこと)するのみ。

 

互市(ゴシ)(交易)・嚮邇(キョウジ)(よりつくこと)・(こひ)(願い)・釁端(キンタン)(争いのいとぐち)・大吏(ダイリ)(地位の高い役人)・恩信(情け深く誠のあること)・綏懐(スイカイ)(安心させてなつかせる)・仁柔(ジンジュウ)(いつくしみの心があり優しいこと)・戎虜(ジュウリョ)(外国人)・豺狼(サイロウ)(山犬や狼)・饕餮(トウテツ)(悪獣)・過當(カトウ)(やりすぎ)・萬々(バンバン)(全く)・卒伍(ソツゴ)(兵卒の組)・素習(ソシュウ)(平素からの練習)・勍敵(ケイテキ)(強敵)・闘鬨(トウコウ)(戦闘)・猖獗(ショウケツ)(猛り狂う)・馴伏(ジュンプク)(慣れ従う)・鋒鏑(ホウテキ)(武器)・(軍隊)・(メイ)(正しい理由)・將卒(ショウソツ)(将軍と兵卒)・倍蓰(バイシ)(何倍にもなる)・奏捷(ソウショウ)(勝利を報告すること)・張主(チョウシュ)(主張)・虜艦(リョカン)(外国船)・韲粉(セイフン)(粉みじんにする)・(ケン)(見解)・周密(シュウミツ)(細かく行き届いていること)・媾和(コウワ)(講和)・貢献(貢ぎ物)・阽危(エンキ)(極めて危険なこと)・石勒(セキロク)中国、五胡十六国後趙の建国者。晋將王浚の油断を誘いこれを滅ぼした)・愚憃(グトウ)(おろか)・姦狡(カンコウ)(ずるがしこい)・凶険(キョウケン)(凶悪で陰険)・禍心(カシン)(他人にわざわいを加えようとする心)・炳察(ヘイサツ)(明察)・喣嫗(クウ)(温め育てる、母が子を大切に育てること)・寛綽(カンシャク)(心が広くゆったりとしていること)  ・怨府(エンプ)(怨みのまと)・撫馭(ブギョ)(情けをかけて使う、いたわり使うこと)・爾後(ジゴ)(今後)・周旋(たずさわること)・鉗制(ケンセイ)し(力で押さえつけて自由にさせない)・忿奰(フンヒ)(怒る)・抗逆(コウギャク)(反抗)・庶幾(ショキ)(心から願うこと)

 

(現代語訳)

 現在海防を考えている者の主張で西洋諸国に対応する方法には二種類ある。一つは「西洋諸国が来て貿易を願っても断固許さず、大砲で船を撃破して寄り付くことがないようにする」というものだ。もう一つは「とりあえずその願いを許し、礼儀と慈しみをもって対応し争いの糸口を作らせないようにする。しかし幕府の高官は昔からの貿易厳禁策に賛成するばかりだ。そもそも貿易を断り船を撃破するなど厳しすぎる。貿易を許して恩義と信頼で相手を安心させることは仁柔すなわち慈しみの心があり優しいことと同じことだ」とするものだ。

 この二つの論は正反対のように見える。しかしその心は全く相反しているわけではない。なぜか。外国人の山犬や狼のような性質、獣のような貪欲さ、ただ利を競って信や義をかえりみないこと、こうしたことを考えれば貿易を拒否して力の限りに撃退することがもともとやりすぎとは言えない。しかし振り返ってみれば戦争は思いやりのある人の好むものではなく、全くやむを得ない場合にのみ行うものだ。それに現在海防の備えはゆきわたっておらず、兵士の訓練も十分行われていないので強敵に対応できない。ことため外国に恩を与え信頼を厚くして、先方に戦闘を始めると言わせないようにするのが良い。それでも向こうが猛り狂って当方に慣れ従おうとせず戦闘になれば、先方の軍には正当な理由がない。当方の軍はと言えば、そもそも人は敵の不義に怒れば勇気や力が何倍にもなるものだし、またそのころになれば武備も整ってきているため、勝利を報告することができるだろう。そうであれば貿易を許し恩義と信頼を与えるとする説を主張する者の心は外国船を撃破する説を主張する者の心と全く同じで、ただその計画に周到さと緻密さを加えただけのことだ。

 ところが外国と講和し、先方の甘い言葉や沢山の貢物を喜び安心してしまい防衛をおろそかにすれば、自らを危険な状態にしてしまうことになるだろう。これは呉王夫差が越王勾践に油断して身を滅ぼしたこと、晋將王浚が石勒に油断して滅ぼされたことと同じようなことで、まことに愚の骨頂だ。恩義と信頼を与えるという説を唱える者はそもそもこうしたことを考慮している。もし相手が下賤でずる賢く凶悪であればいやになってしまうであろうが、我々は相手の害を加えようとする心をよく見抜いた上で相手をもてなせば、母が子を温め育てることや広くゆったりした心持でいることと相等しく、恨みの的となることはない。これこそが情をかけながら相手をうまく使いこなすということだ。

 これに反して相手に対して「お前は本当に下賤だ。今後決してつきあわないぞ」とはっきり言ってしまったり、力で押さえつけて蹂躙し自分の居場所を失わせるようなことをすれば、相手は怒って反抗し皆残らず当方を憎むようになるだけに止まらないだろう。こうしたことが東漢や趙、宋などの諸君主が多くの下賤な者たちに倒された理由である。今外国人に対応するのに漢や宋の諸賢の失敗を繰り返さないことを心から願うものである。

 

其四十六(外国事情を知らずに行っているやみくもな打払いや排斥は道理に反し無礼であり侮蔑を招いている)

吾之於胡羯、苟不其情形、則注措必不窾、吾行之、以爲斯足敵、而翻来敵之侮蔑、吾施之、謂虜必感我之惠、而秖招虜憎怨、可喟也已、本邦待戎虜、原於威武、出於縝密威武俗之美、縝密政之懿、宜於事而収顕效、乃反来彼笑侮、則不虜之情、而漫施於行故也、數十載前、俄羅斯人發舶、送還本邦漂民、抵松前、朝廷亟命北海諸侯、發軍防備、於是大出舟師、囲羅叉舶數重、夷人見之憤甚、日登舷詬罵、而其言兜韎侏離不曉、故邦人不其何所一ㇾ道、不復苛禁、彼以爲吾萬里護送邦人、以厚意来、而汝視我如冦敵、四面囲守、不止不一ㇾ禮節、而何其孱也、曩者波留杜瓦爾估客、来貿易於我國都、都人讐直不當、頗有乾没、估客大怒、向王城大炮、國人夷然不動、馳一小吏研詰、曲在都人、乃譴罰之、而彼此晏然、我邦遭斯鉅變、不少惶擾、今汝若此、其怯愞無乃甚乎、夫邦人之囲守虜舶、所以耀威稜豫無虞、而徒招彼之陵蔑焉、今論海防者、大都以爲虜之心情叵測、其来無互市薪水上ㇾ否、概以大炮摧之、斯爲防禦之要、是論之失得竟何如也、彼必云、天下至理、犯罪當罰、無辜當寛赦、今不其罪之有無、苟見外國船艦、輒䚡々讐怖、遽施屠害之術、其不武甚矣、邦人大炮撃舶之擧、欲以遏虜鋒、而秖納其侮、此又囲守夷舶之類也、顧無警備之日、震耀威武、有人之勢、而遭醜虜之跳梁、不折北之羞、如丁卯之役是已、彼之譏侮、亦有自取之理焉、昔禹入保國、而倮、以従其俗、彼以倮爲禮、而吾以冠裳之、彼必駭怪以爲禮之甚、何者拂其風習也、矧今吾所以待胡羯、未措畫之宜、彼之所論、未全無一ㇾ當、則因仍釐革之方、在上者不十思也、

 

(読み下し文)

吾之(これ)胡羯(コカツ)に於て、苟(いやしく)も其の情形を諳(それん)ぜざれば、則ち注措(チュウソ)必ず窾(あな)に中(あた)らざらん。吾之(これ)を行なひ以て斯(これ)敵を威(おど)すに足らんと爲すも、翻(かへっ)て敵の侮蔑を来(きた)すべし。吾之(これ)を施し虜(えびす)必ず我の惠(めぐみ)を感ぜんと謂(おもふ)も、秖(ただ)(えびす)の憎怨(ゾウエン)を招くのみ。喟(なげ)くべきなるのみ。本邦戎虜(ジュウリョ)に待(そな)ふこと、威武を原(もと)とす。縝密(シンミツ)より出れば、威武の俗(ならはし)(これ)美しく、縝密(シンミツ)の政(まつりごと)(これ)(うるは)しければ、宜(よろ)しく事を措(お)きて顕效(ケンコウ)を収むべし。乃(すなは)ち反(かへっ)て彼の笑侮を来(きた)すは、則ち虜の情を悉(つく)さず、漫(みだり)に行なひを施す故(ゆゑ)なり。數十載前、俄羅斯(オロシャ)人舶を發(つかは)し、本邦漂民を送還し松前に抵(いた)る。朝廷亟(すみやか)に北海諸侯に命じ、軍を發(おこ)し防備す。是に於て大いに舟師を出し羅叉(ロシア)舶を囲むこと數重、夷人之(これ)を見て憤(いきどほ)ること甚(はなはだ)しく、日(ひび)(ふなべり)に登り詬罵(コウバ)す。而(しか)して其の言、兜韎(トバイ)侏離(シュリ)にして曉(さと)るべからず。故(ゆゑ)に邦人其れ何を道(い)はれたかを知らず。復(ま)た苛禁(カキン)たらず。彼以爲(おもへらく)「吾、萬里邦人を護送し、厚意を以て来たり。而して汝我を視ること冦敵(コウテキ)の如くして四面を囲守す。禮節を知らざるに止まらずして何ぞ其れ孱(セン)なるや」と。曩者(さきに)、波留杜瓦爾(ポルトガル)估客(コカク)、来りて我國都に於て貿易す。都人直(あたひ)を讐(つぐな)ふに、不當にして頗(すこぶ)る乾没(カンボツ)有り。估客(コカク)大いに怒り、王城に向けて大炮を放つ。國人夷然(イゼン)として動ぜず。一小吏を馳せ研詰(ケンキツ)し、曲(よこしま)なること都人に在れば乃(すなは)ち之を譴罰(ケンバツ)す。而(しか)して彼れ此れ晏然(アンゼン)なり。我邦斯(かか)る鉅變(キョヘン)に遭ふも、少しも惶擾(コウジョウ)せざり。今汝(なんぢ)(かく)の若(ごと)くんば、其の怯愞(キョウダ)無乃(むしろ)(はなはだ)しからんや。夫れ邦人の虜舶を囲守(イシュ)すること、以て威稜(イリョウ)を耀(かがや)かせ無虞(ムグ)に備豫(ビヨ)する所なれど徒(いたづら)に彼の陵蔑(リョウベツ)を招く。今海防を論ずる者は、大都(ダイト)以て虜(えびす)の心情測るべからずと爲し、其の来たることに互市を請(こ)ひ薪水を求むか否やを問ふこと無く概(おほむ)ね大炮を以て之(これ)を破摧(ハサイ)し、斯(これ)防禦の要(かなめ)を得ると爲す。是の論の失得竟(つひ)に何如(いかん)や。彼必ず云はく「天下至理(シリ)、罪を犯さば當(まさ)に罰すべし、辜(つみ)無くば當(まさ)に寛赦(カンシャ)すべし」と。今其の罪の有無を晰(あき)らかにすること能(あた)はざれば、苟(いやしく)も外國船艦を見れば、輒(すなは)ち䚡々讐怖(シシシュウフ)し、遽(にはか)に屠害(トガイ)の術を施す。其の不武(フブ)(はなはだ)しきかな。邦人の大炮を舶に撃つの擧、以て虜鋒を遏(とど)めんと欲して、秖(ただ)其の侮(あなどり)を納(い)るるのみ。此又(これまた)夷舶を囲守するの類(たぐひ)なり。顧(かへりみ)れば警備に無事(ブジ)の日に、威武を震耀(シンヨウ)し、人を噉(くら)ふの勢(いきほひ)有れども、醜虜の跳梁に遭ひ、折北(セツホク)の羞(はぢ)を免れざるは丁卯(テイウ)の役の如き是已(これなり)。彼の譏侮(キブ)、亦自取(ジシュ)の理(ことわり)有るなり。昔禹、倮國に入りて倮(はだか)となり、以て其の俗(ならはし)に従ふ。彼倮(はだか)を以て禮と爲す。而(しこう)して吾冠裳(カンショウ)を以て之(これ)に涖(のぞ)まば彼必ず駭怪(ガイカイ)し以て禮を忘ること甚(はなはだ)しと爲すべし。何者(なんとなれば)其の風習に拂(たが)へばなり。矧(いはんや)今吾の胡羯(コカツ)に待(そな)ふる所以(ゆゑん)、未だ措畫(ソカク)の宜(よろしき)を盡(つく)さず。彼の論ずる所、未だ全く當(あた)るところ無しと爲さず。則ち因仍(インジョウ)釐革(リカク)の方(てだて)、上に在る者、十思(ジッシ)せざるべからざるなり。

 

胡羯(コカツ)(外国)・注措(チュウソ)(措置)・窾(あな)に中(あた)る(的を得ている)・威武(威力と武力、武勇)・縝密(シンミツ)(つつしみ深いこと 配慮が細やかで注意深いこと)・舟師(海軍)・詬罵(コウバ)(悪口を言って辱める)・兜韎(トバイ)(南夷、東夷、北狄の音楽)・侏離(シュリ)(夷の言語)・苛禁(カキン)(きびしい戒め)・(セン)(臆病)・直(あたひ)を讐(つぐな)ふ(支払う)・乾没(カンボツ)(不当な利益)・估客(コカク)商人 ・夷然(イゼン)(平然)・研詰(ケンキツ)(問い詰める)・譴罰(ケンバツ)(罰する)・鉅變(キョヘン)(大事件)・惶擾(コウジョウ)(おそれ騒ぐ)・怯愞(キョウダ)(臆病で意気地のないこと)・威稜(イリョウ)(天子の威光)・無虞(ムグ)(思いがけないこと)・備豫(ビヨ)(備えること)・陵蔑(リョウベツ)(他人をばかにしてはずかしめること)・大都(ダイト)(ほとんど すべて)・至理(シリ)(もっともしごくな道理)・寛赦(カンシャ)(寛容にゆるすこと)・䚡々讐怖(シシシュウフ)(びくびくとおそれること)・屠害(トガイ)(殺害)・不武(フブ)(武勇の無いこと)・無事(ブジ)(やることが無い)・震耀(シンヨウ)(ふるわせかがやく)・折北(セツホク)(戦いに負けて逃げること)・丁卯(テイウ)の役(文化四年の露冦事件※1)・譏侮(キブ)(とがめ侮ること)・自取(ジシュ)(自ら招いたこと)・倮国(ラコク)(昔、中国の西方にあった国の名。国人皆裸であったという)・冠裳(カンショウ)(冠と礼服)・駭怪(ガイカイ)(おどろきあやしむ)・何者(なんとなれば)(なぜならば)・因仍(インジョウ)(旧によって改変しないこと)・釐革(リカク)(改革)

 

(現代語訳)

 我々が外国の情勢をよく知らなければ、外国に対する措置は必ず的を得たものにならない。我々がこれを行えば外国を十分に威すことができると思ってもかえって侮蔑を受けることもあり、逆にこれを行えば外国はこちらの好意を感じるだろうと思ったことが、ただ憎悪や怨みを招くだけのこともある。わが国の外国への対応は武勇に基づくが、注意深く配慮した武勇のならわしは美しいし、きめ細かく配慮した政治はすべての事柄にうまく対処し明らかな効果を収めるだろう。

 これに対して先方の侮りを招くのは外国の事情を理解せず漫然と対処するためである。数十年前にロシア人が船を遣わしてわが国の漂流民を送還するため松前まで来たことがある。幕府はすぐに北方の諸大名に命じて軍を派遣して防備した。この時海軍を多数出しロシア船を何重にも取り囲んだ。ロシア人はこれを見て非常に憤り、毎日船端に登って悪口を叫んだ。しかしその言葉は野蛮人の音楽や言葉のようにしか聞こえず理解できなかった。それゆえ日本人は何を言われたかを知らず、これが厳しい教訓とはならなかった。彼らが思ったのは「我々は万里を越えて厚意をもって日本人を護送してきたのに、お前たちは我々を害悪をなす敵のように見て周囲を取り囲んだ。礼節を知らないだけでなく何とも臆病なことだ」ということだ。

 昔、ポルトガル商人が来てわが国の都で貿易をしていた。都人は支払いに不正を行い不当な利益を得ていた。商人は大いに怒り皇居に向かって大砲を放った。日本人は平然として動ぜず、役人を派遣して問い詰め、不正が都人にあったのでこれを罰した。こうしてあちらもこちらも平和におさまった。わが国はこれほどの大事件に遭っても少しも騒がなかった。今もし我々がこのような目に遭ったなら、臆病で意気地のないことはむしろ昔より甚だしいのではなかろうか。

 そもそも日本人が外国船を取り囲んだのは国の威光を輝かせ不慮の事態に備えるためだったが、かえって先方の侮蔑を招いた。今海防を論ずる者はほとんど外国人の心情は理解できないと考え、彼らが来るのは貿易を願い薪や水を求めているのかそうでないのかを問うこともなく、すべて大砲で打ち砕くことが防衛の要だと考えている。この論はいかがなものであろうか。彼らは必ず次のように言うだろう「天下の当たり前の道理は罪を犯せば罰し、罪が無ければ寛大に許すということだ」と。今は罪の有無を明らかにすることができないので、とにかく外国船を見ればびくびくと恐れすぐに殺害の手段に訴える。武勇の無いにもほどがある。日本人が船に大砲を打ち込むことは外国の軍隊を防ごうとするものだが、ただその侮蔑を受けるだけだ。これまた外国船を取り囲んだことと同じたぐいのことだ。かえりみれば警備にやることのない平和な時に武勇をひけらかし人を食らうほどの勢いがあっても、外国軍の跳梁に遭って敗走の恥を免れなかったのが文化露宼※1だった。彼らが侮るのも我々が自ら招いたことで理由のあることだ。

 昔聖王の禹は倮国に入ってそのならわしに従って裸になった。彼は裸を礼と考えたのだ。もし我々が冠と衣服を着て来れば、禹は驚き怪しみ無礼にもほどがあると考えるだろう。なぜならばその風習に違えているからだ。ましてや今の我々の外国への対処方法は適切とは言えず、彼らが言うことにも一理なしとはしない。従って旧弊を改革する方法を上に在る者は十分考えなければならない。

 

※1 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件とも呼ばれる。

概要 江戸時代後期の1804年、ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマン根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、弘前藩南部藩庄内藩久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている

樺太への襲撃 文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。

シャナ事件 文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり弘前藩盛岡藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の盛岡藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名を捕え米、塩、什器、衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。4月29日、ロシア船が紗那に向けて入港してくる。即時交戦を主張した弘前、盛岡の隊長の意見を退けた幕吏達は、まず対話の機会を探るため箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を振らせて短艇で上陸しようとするロシア兵を迎え入れようとするが、ロシア兵はこれを無視し上陸後即座に日本側に銃撃をしかけたため、川口は股部を銃が貫通し負傷する。幕吏もようやく対話の困難を認め弘前盛岡藩兵に応戦を命じるも、圧倒的な火力の差に日本側は苦戦する。夕刻となりロシア側は本船に帰船。艦砲射撃により陸上を威嚇する。このような圧倒的な戦力差により戦意を失った指揮官の戸田又太夫、関谷茂八郎達は、紗那を捨て撤退することを決意する。幕吏の間宮林蔵や久保田見達はこの場での徹底抗戦を主張するも戸田らに退けられる。これにより敗戦の責任を痛感した戸田は、留別へ向けて撤退中の野営陣地にて自害している。一行は振別に到着後多少の人員を箱館に送還し、弘前南部藩兵は警備の都合上そのまま振別に駐屯させている。5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火する。翌2日にも上陸し、この際に戦闘で負傷しその場に留まっていた南部藩の砲術師、大村治五平がロシア側の捕虜となっている。5月3日、ロシア船は出帆し紗那を去る。6月6日、捕虜となっていた大村治五平や番人達が解放され宗谷に帰還する。

影響 この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因となった。 

 

其四十九(単一王朝が続いていることは無傷の玉と同じく人々に大切にする気を起こさせる。その事実自体が貴重で守る価値のあることである)

鎰之玉乎此、瑩徹焜耀朗然無微類、則人拳々謹持、惟恐墜失、若乃甞経抛擲委隳,瑕玷無数、且有毀壊、則人殊薄護惜之意、此雖於私、而實至理之所當然也、今也両間之建國林々矣、其小而弱者、不縷數、如支那、如天竺、如百兒西亜、如俄羅斯、幅員萬里而、固称盛大之邦、然逖稽其往事、或爲賊臣所逆簒、或爲彊藩所取而代、或爲外夷所入而呑併、甚且有戎虜呑滅之變、至再于三于四五、其爲毀玷之璧也多矣、本邦不惟士風之虓勇、民性之純厖、度越萬邦、神武而降、閲二千五百祀、而未始遭戎虜竊據之變、未甞罹姦臣悍藩簒奪之禍、百王一姓、緜々弗絶、與天地日月、比其悠久、實五大洲中所甞前聞、非無瑕之玉而何也、故在他邦則姦臣之闇干、黠虜之入帝、數々経覩、人視爲常然、勢難於遏絶、而君臣所以保守祖業、自有其寅畏慎密焉、本邦承百王一姓之丕基、継述之情、自然兢々而惕々、即逆臣悍虜、簒神器之禍、人以爲亘古絶無之事、則防遏自有其道而不甚難也、雖然恃其易則難必至、他邦未姦臣彊胡之禍之前、孰不百代一姓不易、既罹斯禍、則弊竇一開、蕩然不挽回、故本邦不今而豫盡桑土綢繆之方也、本邦風習之懿、賊臣悍藩之禍、萬可其無、可慮者獨戎虜耳、今欲永保金甌而無玷缼、莫武備務鼓勵士気、使於佚惰、整理兵備、於沿海之防、最加周密、以豫杜外夷之覬覦、是免国家玉之誚矣、

 

(読み下し文)

(ここ)に萬鎰(マンイツ)の玉(ギョク)有り。瑩徹(エイテツ)にして焜耀(コンヨウ)、朗然(ロウゼン)として微(わづか)に類(に)るもの無し。則ち人拳々(ケンケン)として謹持(キンジ)し、惟(ただ)墜失(ツイシツ)有るを恐る。若乃(もしすなは)ち甞て抛擲(ホウテキ)委隳(イキ)を経(へ)ば、瑕玷(カテン)無数なるべし。且つ毀壊(キカイ)する所有らば、則ち人殊(こと)に護惜(ゴセキ)の意(こころ)薄し。此れ私(わたくし)に類()ると雖(いへ)ども、實(まこと)に至て理の當然とする所なり。今也(いまや)両間の國を建つること林々(リンリン)なり。其の小にして弱なるは、縷(こまか)く數ふる遑(いとま)あらず。支那の如き、天竺の如き、百兒西亜(ペルシア)の如き、俄羅斯(オロシャ)の如き、幅員(フクイン)萬里より上なり。固(もと)より盛大の邦と称す。然れども逖(はるか)なる其の往事を稽(かんが)ふるに、或いは賊臣の逆簒(ギャクサン)する所と爲り、或ひは彊藩(キョウハン)の取て代る所と爲り、或ひは外夷の入りて呑併(ドンペイ)する所と爲る。甚しきは且(まさ)に戎虜(ジュウリョ)呑滅(ドンメツ)の變、再び于(な)し三(みたび)(な)し四五(しごたび)(な)すに至らん者有り。其の毀玷(キテン)の璧(ヘキ)と爲るや多きかな。本邦惟(ただ)士風の虓勇(コウユウ)なること、民性の純厖(ジュンボウ)なること、萬邦に度越(ドエツ)せず。神武而降、二千五百祀(シ)を閲(けみ)す。而(しか)して未だ始めより戎虜(ジュウリョ)竊據(セッキョ)の變に遭(あ)はず。未だ甞て姦臣悍藩簒奪(カンシンカンパンサンダツ)の禍(わざはひ)に罹(かか)らず、百王一姓、緜々(メンメン)として絶へず、天地日月と其の悠久を比(くら)ぶ。實に五大洲中未だ甞て前に聞かざる所、無瑕の玉に非ずして何ぞや。故(ゆゑ)に他邦に在れば則ち姦臣の闇干(アンカン)、黠虜(カツリョ)の入帝、數々覩(み)るを経れば人視()るものを常然と爲し、勢(いきほひ)遏絶(アツゼツ)に難(かた)く、君臣祖業を保守する所以(ゆゑん)、自(おのづ)から未だ其の寅畏(インイ)慎密(シンミツ)を極めざる者有り。本邦百王一姓の丕基(ヒキ)を承(う)け、継述(ケイジュツ)の情、自然兢々(キョウキョウ)として惕々(テキテキ)たれば、即ち逆臣悍虜、神器を簒(うば)ふの禍(わざはひ)、人以為(おもへらく)「亘古(コウコ)絶無の事にて、則ち防遏(ボウアツ)(おのづ)から其の道有りて甚(はなは)だ難(かた)からざるなり」と。然(しか)りと雖(いへど)も其の易(やす)きを恃(たの)めば則ち難きに必ず至る。他邦未だ姦臣彊胡の禍(わざはひ)に遭(あ)はざるの前に、孰(なん)ぞ百代一姓易(かは)らざるを云はざるや。既に斯の禍(わざはび)に罹(かか)り、則ち弊竇(ヘイトウ)(ひとたび)開かば、蕩然(トウゼン)として挽回すべからず。故に本邦今に迨(およ)んで豫(あらかじ)め桑土綢繆(ソウドチュウビュウ)の方(てだて)を盡さざるべからざるなり。本邦風習の懿(うるはしき)こと、賊臣悍藩の禍(わざはび)、萬(バンバン)其の無きを保つべし。慮(おもんぱか)るべきは獨(ひと)り戎虜(ジュウリョ)のみ。今永く金甌(キンオウ)を保ち玷缼(テンケツ)無きを欲すれば、武備を飭(ととの)へ務(つと)めて士気を鼓勵(コレイ)し、佚惰(イツダ)に流れざらしめ、兵備を整理し、沿海の防(ふせ)ぎに最も周密(シュウミツ)を加へ、以て豫(あらかじ)め外夷の覬覦(キユ)を杜(ふさ)ぐに如(し)く莫(な)し。是れ国家を視るに玉に如かざるの誚(せめ)を免るなり。

 

萬鎰(マンイツ)(数十万両)・瑩徹(エイテツ)(透き通って明るい)・焜耀(コンヨウ)(かがやいている)・朗然(ロウゼン)(明るくくもりがない)・拳々(ケンケン)(失わないように大事にして)・謹持(キンジ)(謹んで持ち)・抛擲(ホウテキ)(投げ捨てること)・委隳(イキ)(捨て去ること)・瑕玷(カテン)(きず)・毀壊(キカイ)(壊すこと)・護惜(ゴセキ)(惜しみ守ること)・(わたくし)(不正、不公平)・両間(世界)・林々(リンリン)(多数)・往事(昔)・逆簒(ギャクサン)(君主を廃して位を奪うこと)・毀玷(キテン)(こわれ傷ついた)・(ヘキ)(美しい玉)・虓勇(コウユウ)(勇ましいこと)・純厖(ジュンボウ)(純粋で豊かなこと)・度越(ドエツ)(まさっている)・竊據(セッキョ)(不法占拠)・悍藩(カンパン)(荒々しい大名)・闇干(アンカン)(ひそかに盗むこと)・黠虜(カツリョ)(悪賢い外国人)・遏絶(アツゼツ)(根絶)・寅畏(インイ)(おそれつつしむ)・慎密(シンミツ)(慎み深く行き届いていること)・丕基(ヒキ)(偉大な基礎)・継述(ケイジュツ)(先人の後を継いで述べること)・兢々(キョウキョウ)(おそれつつしみ)・惕々(テキテキ)(おののいている)・亘古(コウコ)(昔から今まで)・弊竇(ヘイトウ)(弊害の存するところ)・蕩然(トウゼン)(空しく)・桑土綢繆(ソウドチュウビュウ)(災いの起こる前に防ぐこと)・(バンバン)(必ず)・金甌(キンオウ)(金でできた瓶のように完全で欠点の無い国家)・玷缼(テンケツ)(欠点)・鼓勵(コレイ)(奮い立たせる)・佚惰(イツダ)(怠け怠ること)・周密(シュウミツ)(隅々まで行き届いた注意)・覬覦(キユ)(すきあらばとねらうこと)・(せめ)(非難)

 

(現代語訳)

 ここに数十万両の玉があって、透き通って明るく輝きくもりもなく、比類が無いものであれば、人々はとても大切にして失うことを非常に恐れるだろう。しかし一旦投げ捨てられたりすれば傷が無数にできるし、さらに壊されるようなことになれば人々の惜しみ守る心が薄くなるだろう。これは不公平なことのようではあるがまことに当然のことである。

 世界中には多数の国があり、弱小なものは細かく数える暇もないほどだ。中国やインド、ペルシャ、ロシアなどの国は国土が万里を上回り、当然大国と言われる。しかしはるか昔のことを考えると、逆臣に王位を簒奪されたり強大な諸侯に取って代わられたり、あるいは外国に併合されたりしている。甚だしきは外国に二度三四度と侵略されているものもある。壊れた玉となってしまったものが多いのである。

 わが国は気風が勇ましいことや民の性質が純粋で豊かなことについてはすべての国に勝っているわけではないが、神武以来二千五百年を数えて未だに外国に占領されたことがないし、未だに王位簒奪に遭ったこともなく単一の王朝が綿々と続いて絶えないのである。これは世界中で聞いたことが無く、まさに無傷の玉である。

 他国では姦臣による王位の簒奪や異民族による支配を数々見ているので、人々はそれが普通のことだと思うようになり、その結果こうしたことを防ぐのが困難になり君主も家臣も祖先から受け継いだ事業を守ることにあまり配慮をつくさない。わが国では単一の王家が続いているので自然に先人の後を継ぐことが尊重されている。

 このため王位簒奪については人々は「それは昔から絶無の事でありそれを防ぐ方法は当然にあってそれほど困難でもない」と考えている。しかしこれまでと同じように容易だと思っていると必ず困難に陥るだろう。他国で姦臣や異民族による害悪が発生していないと言う前に、何でわが国では単一の王朝が続いていて変わっていないことを言わないのか。

 既に王位簒奪の禍が起きてしまい弊害の穴が一たび開いてしまえば挽回不可能なのだ。それゆえわが国は禍の起こる前に予めそれを防ぐ手立てを尽くしておかなければならない。わが国の文化の麗しいことや王位簒奪の無いことはこれからも保っていかなければならない。心配すべきはただ外国だけだ。完璧な国家を守り欠点がないようにしようと願うなら、武備を整え士気を奮い立たせ、怠惰に流れることのないようにし、沿海の防備はとりわけ抜かりなくして外国から隙を狙われないようにするのが一番だ。これにより国家を見て無傷の玉と異なるではないかとの非難を免れることができる。

 

其五十(西洋諸国は大きすぎる植民地の反乱に苦しむ)

昔晋封成師於曲沃、曲沃大於晋都翼、遂滅翼而代之、衛以蒲戚孫寗、而踰制耦国、果遂獻公、而擅其國、尾大難棹、末重本顛、必至之理也、泰西諸邦貪饕之欲、可熾矣、蠺食隣邦、拓開境宇、猶未其志、方且遣舟師、遠経略亜墨利加洲、既奪其地、使守令往鎮一ㇾ之、於是乎、其地或大於本國、黎甿或夥多於本國、又況彼皆芟薙屠醢之餘、恨深次骨、勢必回戈反噬、以快其忿、邇者繹騒弗靖、迄於客歳、陸梁頗甚、英機黎守土之吏、不平殄、請於本國、其亂之大可想已、夫叔世人衆勝天之日長、天定勝人之日短、泰西人極巧於取人國、則新世界異日之動静、洵有臆料、若以今古定理覈之、則嗣後新世界畔亂數々起、以與本國抗、或且陵暴之、實勢之所必至、而適本邦之幸也、爾日土豪守兵百戦、智力困弊、必競来乞我應援、我大艦無闕、火器精錬、乗其釁、以電撃、恢本邦之幅員、挫捍慮之鋒焔、是亦千載一會、而兵備無素、難以應一ㇾ卒、此韓煕載所以搤腕於南唐、不上ㇾ中原擾攘臲卼之時、以致混壹之業也、

 

(読み下し文)

昔晋、成師(セイシ)を曲沃(キョクヨク)に封ず。曲沃晋都翼(ヨク)より大なり。遂に翼(ヨク)を滅(ほろぼ)して之に代る。衛、蒲戚を以て孫寗(ソンネイ)に與(あた)ふ。而して制(さだめ)を踰(こ)ゆる耦国(グウコク)なり。果して獻公(ケンコウ)を遂(お)ひて其の國を擅(ほしいまま)にす。尾の大なるは棹(さおさす)に難く、末重ければ本顛(たふ)る。必至の理(ことはり)なり。泰西諸邦貪饕(ドントウ)の欲、熾(さかん)なるを謂(おも)ふべし。隣邦を蠺食(サンショク)し、境宇(キョウウ)を拓開(タクカイ)す。猶ほ未だ其の志を逞(たくま)しくするに足らず、方(まさ)に且(まさ)に舟師を遣(つかは)し、遠く亜墨利加(アメリ)洲を経略せんとす。既に其の地を奪ひ、守令を往(い)かせ之(これ)を鎮(しづ)ましむ。是に於てや、其の地、或(あるい)は本國より大なり。黎甿(レイボウ)(あるい)は本國より夥多(カタ)なり。又況(いはん)や彼皆芟薙(サイテン)屠醢(トカイ)の餘り、恨み深く骨に次(いた)る。勢(いきほ)ひ必ず戈(ほこ)を回し反噬(ハンゼイ)し、以て其の忿(いかり)を快(こころよし)とす。邇者(ちかくは)、繹騒(エキソウ)靖(をさま)らず、客歳(カクサイ)迄、陸梁(リクリョウ)頗(すこぶ)る甚(はなはだ)し。英機黎(イギリス)守土の吏、平殄(ヘイテン)すること能(あた)はず、本國に援(たすけ)を請ふ。其の亂の大なるを想(おも)ふべきのみ。夫れ叔世(シュクセ)、人衆(おほ)ければ天に勝つの日長く、天定まって人に勝つの日短し。泰西人極めて人國を取るに巧みなり。則ち新世界異日の動静、洵(まこと)に臆料(オクリョウ)に難(かた)き者有り。若(も)し今古定理を以て之を推覈(スイカク)せば、則ち嗣後、新世界畔亂(ハンラン)數々起き、以て本國と抗(あらが)ひ、或(あるい)は且(まさ)に之を陵暴(リョウボウ)せんとす。實に勢の必ず至る所なり。而(しか)して適(まさ)に本邦之(これ)(さいはひ)なり。爾(その)土豪守兵と百戦し、智力困弊(コンペイ)せば、必ず競ひ来て我應援を乞はん。我大艦闕(か)くところ無く、火器精錬せば、其の釁(すき)に乗じ、以て電撃し本邦の幅員を恢(ひろ)め、捍虜の鋒焔を挫(くじ)かん。是亦(これまた)千載一會なり。而(しこう)して兵備素(もと)無く、應卒(オウソツ)を以てし難し。此れ韓煕載(カンキサイ)南唐に於て搤腕(ヤクワン)し、中原擾攘(ジョウジョウ)臲卼(ゲツゴツ)の時に乗じ、以て混壹(コンイツ)の業(わざ)を致すことを能(よ)くせざる所以(ゆゑん)なり。

 

成師(セイシ)(晋の昭侯の叔父 昭侯の時曲沃に封ぜられる)・耦国(グウコク)(臣下の納めている都城が君主の国城と匹敵するほでであること)・獻公(ケンコウ)(衛の王)・境宇(キョウウ)(領土)・拓開(タクカイ)(開拓)・守令(役人)・黎甿(レイボウ)(民衆)・芟薙(サイテン)(刈り除くこと)・屠醢(トカイ)(殺して塩辛にすること)・反噬(ハンゼイ)(恩を受けた者が背いて反抗すること)・忿(いかり)を快(こころよし)とす(心につかえるものがなくなり、さっぱりする)・繹騒(エキソウ)(ひっきりなしに騒ぐこと)・客歳(カクサイ)(去年)・陸梁(リクリョウ)(勝手気ままに暴れまわること)・平殄(ヘイテン)(鎮圧)・叔世(シュクセ)(末の世)・臆料(オクリョウ)(推測)・推覈(スイカク)(推し測って調べる)・畔亂(ハンラン)(反乱)・陵暴(リョウボウ)(ばかにして乱暴すること)・困弊(コンペイ)(苦しみ疲れる)・千載一會(千年に一度の好機)・應卒(オウソツ)(急場に応ずること)・韓煕載(カンキサイ)(中国五代十国時代の文官。文の名手であったが姫妾を好み四十人余りを蓄え俸給をすべてこれらに与え自分は篋を負って乞食をした)・搤腕(ヤクワン)(腕を握りしめ意気込むこと)・擾攘(ジョウジョウ)(乱れるさま、ごたつき騒ぐさま)・臲卼(ゲツゴツ)(恐れ危ぶむさま)・混壹(コンイツ)(統一)

 

(現代語訳)

 春秋時代に晋の昭侯は叔父の成師を曲沃に封じたが、曲沃は晋都の翼より大きく、遂に翼を滅ぼしてこれに代わった。周代の諸侯国である衛は蒲戚を孫寗に与えたがこれは君主の国に匹敵するほど大きかった。やはり衛の君主である獻公を追放してその国をほしいままにした。尾が大きいと制御するのに難しく、末が重すぎると本が倒れる。これは必ずそうなるきまりである。 

 西洋諸国の貪欲さを考えてみると、隣国を侵略し、領土を開拓してもなおその欲望を満足するに足らず、海軍を派遣して遠くアメリカ大陸を攻め従わせようとした。既にその地を奪って役人を派遣しこれを治めた。ここに於てその土地は本国より大きく民も本国より多い。しかし民衆は皆排除や殺害の目に遭ったので怨みが骨髄にまで達した。そのため必ず武器をもって反抗するようになった。近年では騒動が激しくてイギリスの役人が平定することができず本国に援助を求めた。その乱がどれほど大きいものであろうか。中国では「人衆(おほ)ければ天に勝ち、天定まって人に勝つ」と言って、人は多数を以て一時は天の道を踏みにじることもできようが、天の道が定まればそうした人間たちはことごとく天に打ち破られてしまう、と考えてきたが、天道が衰えた世の末にあっては「人衆(おほ)ければ天に勝つの日長く、天定まっても人に勝つの日短し」であり、反乱は成功し長く続くのである。

 西洋人は人の国を取るのが巧みで新世界の将来の動向はまことに推測し難いが、古今の定理でこれを推測すれば今後新世界では反乱が数々起き本国に反抗したり暴動を起こしたりするだろう。なりゆきでは必ずそこに至る。しかしこれはわが国にとっては幸いなことだ。原住民が本国の兵隊と戦い疲弊すれば必ず競ってわが国に応援を求めるだろう。わが国はその時大艦を備えあり火器も精錬していれば、その隙に乗じて電撃しわが国の領土を広げ邪悪な西洋諸国の軍隊を斥けるだろう。これまた千載一遇の好機である。しかし兵備の素地が無く急場に応ずることができない。これは中国五代十国時代南唐の文官である韓煕載が中原の争乱に乗じて統一を果たそうとして意気込んでいたができなかった理由でもある。

 

其五十一(海外情報をオランダ一国に頼ることは危険、貿易国を追加すれば互いに競って正確な情報を提供するようになる)

志云、偏聴生姦、獨任成亂、人家侗原之僕、謹敕之婢、偏信之、使専管家政、或致熒惑淫縦之失、矧戎虜之桀黠乎、本邦自古與支那交通、支那大邦而其弇陋最乎六大洲、専誇詡己國、視他邦、與禽獣蟲豸異、観於其評本邦政俗、一一失上ㇾ實、而昭昭矣、是支那稽外國情形、未始有少裨、故必託航海是事之國、然後外國動静可晰也、祖宗而來、許和蘭互市、歳々入貢實供告密之用、得因以周知外國興替治忽、洵有於國家、祖宗之遠圖、可崇仰也已、顧和蘭西土之多諼詐、而其貪饕、則又倍蓰於西土人、故事不於失得、則猶能正言無回避、而利害與己國干渉、則遮蔽粉飾、無至、烏可偏信斯一國以爲確據耶、慶長年間、國勢熾、武威憺於殊域、于時外夷朝貢者、二十餘國、競自輸情、以要親媚乎我、後來國家法紀寔整粛、又憎邪教之蠹、是以入貢者益尟、然寛永中、猶存和蘭英機黎両國、嗣後英機黎以互市鮮一ㇾ利故不来者數年、遂絶不許、然後和蘭獨擅互市之利、以迄于今茲、二百載如一日也、夫互市止於一國、則雖誕譎無根之言、其痕跡無自而露、若別有一國入貢、則迭相點検、欲以抉擿其瑕故不少有欺瞞、固其當耳、今和蘭外更許一二國互市、則彼争呈確実之言、外國情形、日瞭然乎心目、亦可以資防禦之策、顧其國則擇於外夷盛彊克獨立而知守信義焉、可也、此洵目今至要務、而人或未之悟、可惜也、

 

(読み下し文)

志に云はく「偏聴(ヘンチョウ)姦を生じ、獨任(ドクニン)亂を成す」と。人家侗原(ドウゲン)の僕(しもべ)、謹敕(キンチョク)の婢(はしため)、之を偏信(ヘンシン)し、専ら家政を管(つかさどら)しめば、或は熒惑(ケイワク)淫縦(インジュウ)の失(あやまち)有るに致らん。矧(いはん)や戎虜(ジュウリョ)の桀黠(ケツカツ)をや。本邦古(いにしへ)より支那と交通す。支那大邦と雖(いへど)も其の弇陋(エンロウ)なること六大洲の最(サイ)たるものにて、専ら己(おのれ)の國を誇詡(コク)し、他邦を視ること、禽獣蟲豸(キンジュウチュウチ)と異なること無し。其の本邦政俗を評するに於て一一(いちいち)實を失ふを観(み)ること昭々(ショウショウ)なり。是れ支那、外國情形を参稽(サンケイ)するに於て、未だ始めより少しも裨(たす)くところ有らず。故(ゆゑ)に必ず航海是之を事(こと)とする國に託す。然る後、外國動静晰(あきらか)なるべし。祖宗而來(ジライ)和蘭(オランダ)に互市を許す。歳々入貢し實(まこと)に密(こまか)の用を供告す。因て以て外國の興替(コウタイ)治忽(チコツ)を周知するを得。洵(まこと)に國家を補(たす)くこと有り。祖宗の遠圖(エント)、崇仰(スウギョウ)すべきなるのみ。顧(かへりみ)和蘭(オランダ)、西土の諼詐(ケンサ)多きには至らざると雖(いへど)も、而(しか)して其の貪饕(ドントウ)、則ち又西土人に倍蓰(バイシ)す。故に事の失得に関せざれば、則ち猶ほ能(よ)く正言(セイゲン)し、回避無し。而(しか)して利害己(おのれ)の國に干渉せば、則ち遮蔽(シャヘイ)粉飾、至らざる所無し。烏(いづ)くんぞ斯(かか)る一國を偏(ひとへ)に信じ、以て確かなる據(よりどころ)と爲すべきや。慶長年間、國勢熾(さかん)にして、武威殊域(シュイキ)を憺(おそれ)さす。時に外夷朝貢する者、二十餘國、競て自(みずか)ら情を輸(おく)り、以て我に親媚(シンビ)を要す。後來(コウライ)國家法紀寔(まこと)に整粛(セイシュク)し、又遠き邪教の蠹(きくひむし)を憎み、是以(これゆゑ)入貢者益(ますます)(すくな)し。然れども寛永中、猶ほ和蘭(オランダ)、英機黎(イギリス)両國存す。嗣後(シゴ)英機黎(イギリス)互市の利鮮(すくな)きを以てするが故(ゆゑ)に来ざること數年、遂(つひ)に絶へて許さず。然る後、和蘭(オランダ)獨(ひと)り互市の利を擅(ほしいまま)にす。以て今茲(ここ)迄、二百載一日の如きなり。夫(そ)れ互市を一國に止(とど)むれば、則ち誕譎(タンケツ)無根の言有りと雖(いへど)も、其の痕跡自(おのづ)から露(あらは)ること無し。若(も)し別の一國入貢有らば、則ち迭(たが)ひに相點検(テンケン)し、以て其の瑕(あやまち)を抉擿(ケツテキ)せんと欲し、故に少しも欺瞞有るを得ざるべし。固(もと)より其れ當るのみ。今和蘭(オランダ)の外更に一二國互市を許さば、則ち彼確実の言を争ひて呈(しめ)し、外國情形、日(ひび)心目(シンモク)に瞭然(リョウゼン)たるべし。亦以て防禦の策を資(たす)くべし。顧(おも)ふに其の國則ち外夷の盛彊(セイキョウ)にして克(よ)く獨立し而も信義を遵守(ジュンシュ)するを知る者を擇(えら)ばば焉(これ)(よし)とするなり。此れ洵(まこと)に目今(モッコン)至要の務なれど、人或(あるい)は未だ之(これ)悟らず。惜しむべきなり。

(古い書物)・偏聴(ヘンチョウ)姦(カン)を生じ、獨任(ドクニン)亂を成す(才能ある者を二人用いるとき、その一方を重用すると他方が不満を抱き、不都合なことが起きる。一人にすべてを任せると乱が起きる)・侗原(ドウゲン)(無知で素直)・謹敕(キンチョク)(慎み深い)・偏信(ヘンシン)(片方だけを信用する)・熒惑(ケイワク)(惑わす)・淫縦(インジュウ)(みだらで勝手気ままなこと)・桀黠(ケツカツ)(悪賢いこと)・弇陋(エンロウ)(内向きで狭量)・誇詡(コク)(大言壮語)・禽獣蟲豸(キンジュウチュウチ)(小動物や虫けら)・昭々(ショウショウ)(明白)・参稽(サンケイ)(照らし合わせて考える 参照する 参考にする)・事(こと)とする(いとなむ)・供告(報告)・興替(コウタイ)(興廃、盛衰)・治忽(チコツ)(治まることと乱れること、治乱)・遠圖(エント)(遠大な考え 先を見通した考え)・諼詐(ケンサ)(偽り)・倍蓰(バイシ)(何倍にもなる)・正言(セイゲン)(事実をまげずに言う)・干渉(関わり合う)・殊域(シュイキ)(外国)・親媚(シンビ)(親しみいつくしむこと)・後來(コウライ)(その後)・整粛(セイシュク)(きちんと整う)・誕譎(タンケツ)(とりとめのないうそ)・抉擿(ケツテキ)(摘発)・當(あた)る(正しい)・心目(シンモク)(心と目)

 

(現代語訳)

 古い書物に次のように書いてある「才能ある者を二人用いる時、その一方を重用すると他方が不満を抱き不都合なことが起きる。一人にすべてを任すと乱が起きる」と。家に素直な召使いと慎み深い下女がいても、片方だけを信頼して家政を任せきりにすれば恐らく驚くようなひどい失敗が起きるだろう。ましてや悪賢い外国を使う場合は言うまでもない。

 わが国は昔から中国とつきあってきた。中国は大国ではあるが内向きで狭量なことは世界の最たるもので、もっぱら自分の国のことを大言壮語し他国のことは小動物や虫けら同様に見ている。わが国の政治や文化に対する評価もすべて的外れであることは明白である。このため中国は外国の情勢を参照するのに助けになるものが少しも無い。故に航海は必ずこれを営む国に任せ、そこでやっと外国の動静を知ることになる。

 わが国は家康公以来オランダに貿易を許している。毎年貢ぎ物を差し入れ実に細かなことまで報告してくる。このため外国の情勢を良く知ることができ、まことに国家の助けになっている。家康公の先を見通した考えは大したものだ。考えてみるとオランダは中国ほど偽りが多くは無いけれど、その貪欲さは中国人の何倍にもなる。このため自分たちの利害に関係が無ければ事実を正しく伝え、隠すようなことも無い。しかし自分たちの利害に関係があるとあらゆるところで事実を隠したり粉飾したりする。何でこんな一国だけをひたすら信じて確かな拠り所としているのか。

 慶長年間はわが国の国勢が盛んで外国を武威で恐れさせた。この時外国で朝貢するものが二十余りあって、競って自ら情報を送り我が国に親善を求めた。その後わが国の法制が整い、又キリスト教の害悪を憎むようになったので入貢する国は少なくなったが、寛永年間中はまだオランダとイギリスの二国が残っていた。以後イギリスは貿易の利益が少ないため数年間来なくなり、遂に貿易を許されなくなった。以後オランダが貿易の利益を独占するようになった。それから現在まで二百年間全く変わりがない。

 そもそも貿易を一か国に限ればうそや根拠の無い事を言われてもそれが自然に露顕することがない。もし別の一か国が入れば互いに点検して誤りを摘発しようとするから、少しも欺瞞が入る余地が無くなる。当然これが正しいことだ。もしオランダの他に一・二か国に貿易を許せば彼らは争って確実なことを言い、外国の情勢は日々明らかになろう。これは防衛策の助けにもなる。そして選ぶべき国は強く盛んで独立していて信義を守る国であれば良いだろう。これは現在の重要課題だが誰も気づいていない。惜しむべきことである。

 

其五十二(オランダの衰退と役割低下)

和蘭入貢互市、閲二百有餘祀之久、世人因以爲衆夷中獨和蘭本邦、忠赤無二、可恃頼、此未確見也、泰西俗、惟利是競、不理義和蘭亦泰西一國、未甞殊異於他邦、吾於彼非絶存亡之大造、豈能保其必深感戴恩徳耶、和蘭之刱互市、在天慶之際、實本邦威武綦盛之秋、而彼之富強亦適丁斯時、侵略海南諸島多奪伊須把尼亜波爾杜瓦爾商館、而勲烈之偉、最在爪哇一國、彼之貪惏姦狡、與羅叉英機黎奚擇、但其國不廣、兵勢不甚雄、故不其呑噬耳、藉令本邦爾時有怯孱可悔之釁、必首中彼之毒、乃本邦風習之剛武、夙甲於万国、加旃當日百戦之餘、始致寧謐、上有英辟、下多梟將、士気虓闞、国力充裕、絶無瑕可一ㇾ乗、彼窺覘而讋慄於是乎幡然易慮、一意恭順、以求媚乎我、因命使我間諜、時々以外国消息上聞、以資邊防、島原之役、且至舟師大熕以助官軍聲勢殆如本邦屏翰之國然、彼入貢而来、互市之利、賜賚之優厚、固足以得其歓心、而其所以致彼心服之本、則由我威武之奮揚、是我所以能奴使和蘭者、在我而不彼、世乃妄以爲彼俗風尚誠愨、效忠藎乎我、惑之極也、然波爾杜瓦爾伊須把尼亜先和蘭市於本邦、見本邦之昌大、不崇畏、方且挟虎狼之心、圖呑噬、遂大獲罪乎我、焚棄其大艦、絶其入貢、與和蘭一ㇾ事、炭氷相反、就此以観、和蘭智慮、亦自有越泰西諸国焉、顧今日本邦兵力不天慶之盛、不以懾伏外国、而和蘭亦日滋衰苶不振、豈能生患乎我、惟其國勢之不昔也、間諜之用、屏翰之力頗薄、是則可慨也已、

 

(読み下し文)

和蘭(オランダ)入貢互市すること、二百有餘祀の久しきを閲(けみ)す。世人因(よっ)て以爲(おもへらく)衆夷中獨(ひと)和蘭(オランダ)本邦に事(つか)ふること、忠赤(チュウセキ)無二、恃頼(ジライ)すべしと。此れ未だ確見(カクケン)爲(た)るを得ざるなり。泰西の俗(ならはし)、惟(ただ)利を是(これ)競ひ、理義を顧(かへりみ)ず。和蘭(オランダ)亦泰西の一國にて、未だ甞て他邦に殊異(シュイ)せず。吾、彼に絶ふるを継(つ)ぎ、亡(ほろ)ぶるを存(たも)つの大造(タイゾウ)を有(みと)むるに非ず。豈(あに)(よ)く其の必ず深く恩徳を感戴(カンタイ)するを保つや。和蘭(オランダ)の互市を刱(はじ)むること、天慶(テンケイ)の際に在り。實に本邦威武綦(きはめ)て盛(さかん)の秋(とき)、而(しか)も彼の富強亦適(まさ)に斯の時に丁(あた)る。海南諸島を侵略し多くの伊須把尼亜(イスパニア)、波爾杜瓦爾(ポルトガル)商館を奪ふ。而(しか)して勲烈(クンレツ)の偉(すぐ)るに最もなるは爪哇(ジャワ)一國を取るに在り。彼の貪惏(タンラン)姦狡(カンコウ)、羅叉(ロシア)、英機黎(イギリス)と奚(なん)ぞ擇(えら)ばん。但し其の國、廣からず、兵勢甚(はなは)だ雄(さかん)ならず。故(ゆゑ)に其の呑噬(ドンゼイ)を肆(ほしいまま)にすること能はざるのみ。藉(かり)に本邦爾(その)時怯孱(キョウセン)にして悔(あなど)るべきの釁(すき)有らしめば、必ず首、彼の毒に中(あた)るべし。乃(すなは)ち本邦風習の剛武、夙(つと)に万国に甲(まさ)る。旃(これ)に加へ當日(トウジツ)百戦に餘り、始めて寧謐(ネイヒツ)に致る。上に英辟(エイヘキ)有り、下に梟將(キュウショウ)多く、士気虓闞(コウカン)、国力充裕(ジュウユウ)、絶へて瑕(すき)に乗ずべきこと無し。彼窺覘(キテン)すれど讋慄(シュウリツ)し是(ここ)に於て幡然(ハンゼン)(おもんぱかり)を易(か)へ、一意恭順し、以て媚(ビ)を我に求む。因(よっ)て命じて我が間諜(カンチョウ)に爲さしむ。時々外国消息を以て上聞(ジョウブン)し、以て邊防(ヘンボウ)を資(たす)く。島原の役、且(まさ)に舟師を出し大熕(ダイコウ)を發し、以て官軍聲勢(セイセイ)を助くるに至る。殆(ほとん)ど本邦屏翰(ヘイカン)の國の如し。彼、入貢而来(ジライ)、互市の利、賜賚(シライ)の優厚(ユウコウ)たり。固(もと)より以て其の歓心を得るに足る。而(しか)して其の彼の心服(シンプク)致す所以(ゆゑん)の本(もと)、則ち我威武の奮揚(フンヨウ)に由(よ)る。是の我の能く和蘭(オランダ)を奴使(ドシ)する所以(ゆゑん)は、我に在りて彼に在らず。世の妄以爲(おもへらく)彼の俗(ならはし)風尚(フウショウ)にして誠愨(セイカク)、忠藎(チュウシン)我に效(いた)すと。惑(まどひ)の極(きはみ)なり。然れば波爾杜瓦爾(ポルトガル)、伊須把尼亜(イスパニア)和蘭(オランダ)に先んじて本邦と互市す。本邦の昌大(ショウダイ)なるを見て、崇畏(スウイ)を知らず。方(まさ)に且(まさ)に虎狼の心を挟(さしはさ)み、呑噬(ドンゼイ)を肆(ほしいまま)にすることを圖(はか)らんとす。遂(つひ)に大いに我に獲罪(カクザイ)す。其の大艦を焚棄(フンキ)し、其の入貢を絶つ。和蘭(オランダ)の事を行ふことと炭氷(タンピョウ)相反す。此(これ)に就(つい)て観(み)るを以てせば、和蘭(オランダ)の智慮、亦自(おのづ)から泰西諸国を度越(ドエツ)する者有り。顧(かへりみ)て今日、本邦兵力天慶の盛(さかり)に逮(およ)ばず、以て外國を懾伏(ショウフク)さすに足らず。而して和蘭(オランダ)亦日(ひび)滋(ますます)衰苶(スイデツ)し振るはず、豈(あに)能(よ)く患(わづらひ)を我に生ずるか。惟(ただ)其の國勢の昔に及ばざるや、間諜(カンチョウ)の用、屏翰(ヘイカン)の力頗(すこぶ)る薄し。是れ則ち慨(なげ)くべきなるのみ。

 

閲(けみ)す(数える)・忠赤(チュウセキ)(忠実)恃頼(ジライ)(頼りになる)・殊異(シュイ)(異なる)・大造(タイゾウ)(大功績)・感戴(カンタイ)(ありがたく押し頂く)・天慶(テンケイ)(天正、慶長)・勲烈(クンレツ)(てがら)・貪惏(タンラン)(強欲)・姦狡(カンコウ)(悪賢いこと)・怯孱(キョウセン)(臆病で弱い)・剛武(強く勇ましいこと)・當日(昔日 ありし日)・寧謐(ネイヒツ)(世の中が治まり穏やかなこと)・英辟(エイヘキ)(優れた君主)・梟將(キュウショウ)(勇猛な大将)・虓闞(コウカン)(勇猛)・窺覘(キテン)(うかがい狙う)・讋慄(シュウリツ)(おそれおののく)・幡然(ハンゼン)(にわかに改めて)・(ビ)(好意、いつくしみ)・上聞(ジョウブン)(将軍のお耳に入れる)・邊防(ヘンボウ)(国境の防衛)・舟師(海軍)・大熕(ダイコウ)(大砲)・聲勢(セイセイ)(気勢)・屏翰(ヘイカン)(重臣)・而来(ジライ)(以来)・賜賚(シライ)の優厚(ユウコウ)(賜物のように手厚い)・心服(シンプク)(心から尊敬して従う)・奮揚(フンヨウ)(奮い立たせること)・奴使(ドシ)(奴隷のように使う)・風尚(フウショウ)(上品)・誠愨(セイカク)(真心がこもっている)・忠藎(チュウシン)(忠誠)・昌大(ショウダイ)(盛大)・崇畏(スウイ)(尊び敬うこと)・獲罪(カクザイ)(罪を得る、罪人になる)・焚棄(フンキ)(焼き捨てる)・度越(ドエツ)(上回る)・懾伏(ショウフク)(ひれ伏す)・衰苶(スイデツ)(衰退)・屏翰(ヘイカン)(垣となって守ること)

 

(現代語訳)

 オランダと貿易することは二百年もの長きにわたる。世の人は「多くの外国の中でオランダだけがわが国にこの上なく忠実で頼りになる」と思っている。これは正しい見解とは言えない。西洋の文化はただ利益を競い、理義を顧みない。オランダもまた西洋の一国で他の国と異なることは無い。私はオランダに絶滅したものを継承し、滅びつつあるものを保存するというような功績を認めることはできない。何でオランダが過去の恩徳をいつまでもありがたがっていようか。

 オランダが貿易を始めたのは天正、慶長年間であり、実にわが国の武威が極めて盛んな時で、しかもオランダの最盛期でもあった。海南諸島を侵略し多くのスペイン、ポルトガルの商館を奪った。手柄の中で最も優れているのはジャワ一国を取ったことだ。オランダの貪欲なこと、悪賢いことはロシアやイギリスと変わらない。ただ国土が広くはなく兵力も強くないので侵略をほしいままにすることができなかっただけいのことである。もしわが国がその時臆病で弱くてつけ入るすきがあればオランダの毒にやられていただろう。ところがわが国の強く勇ましい気風は早くから他国に優っていた。これに加えてかつては戦乱に明け暮れていたが、始めて世の中が治まり穏やかになった時期で、上には優れた君主がいて、下には勇猛な武将が多くおり、士気は盛んで国力も充実しており、全くつけ入るすきが無かった。オランダはすきを窺ったが、おそれおののいてにわかに考えを改め、ひたすら恭順しわが国の好意を求めるようになった。だから命令してわが国のスパイにして、時々外国の情報を将軍のお耳に入れさせ国境の防備に役立てた。島原の乱の時は海軍を出して大砲を打ち幕府軍の気勢を助けた。殆どわが国の重臣の国のようだった。

 オランダにとって貿易の利益は賜物のように手厚かったので、このように日本が喜ぶようなこともした。しかしオランダが日本に従う根本的な理由はわが国の武威にあった。つまりわが国がオランダを奴隷のように使う理由はわが国にあってオランダにあるのではない。世の無知な人は「オランダは文化は上品だし、我々にまごころで対応し忠誠を示してくれる」などと考えているが、世迷い事の極みである。ポルトガルやスペインはオランダに先んじてわが国と貿易を始めたが、わが国の盛大なことを見ても敬うことをせず、虎や狼のような心で侵略しようとした。ついにわが国の怒りを買い、艦船は焼き捨てられ貿易は禁止された。オランダとは正反対であった。これについて見ればオランダの知恵は西洋諸国を上回っていた。

 考えてみれば今日のわが国の兵力は天正、慶長の最盛期には及ばないので外国をひれ伏させるには足りない。しかしオランダもまた衰退していてわが国にわざわいをもたらすこともないだろう。ただオランダの国力が昔ほどではないのでスパイの役割や垣根となって守るような役割も十分にできなくなっている。嘆かわしいことだ。 

 

其五十三(軟弱な文化に浸り武を忘れたインドが侵略されたことはわが国も教訓とすべき)

印度至大綦盛之國、兵衆財力、較支那、有過無及、但其地富厚蕃庶、百物不匱、土沃而民佚、不覚流於脆靡、故莫臥兒以蒙古餘蘖、奮於北方撒馬兒罕之地、以明建文年中、深入印度、立滅四天竺、獨南天竺纔能自保、迄嘉靖中、亦爲併、莫臥兒之甫入印度也、一變印度孱怯之風、爲猛賁虓鷙之俗、其鋒不攖、未幾歳、而亦復儜然緜弱、元文中大摧破於百兒西亜、多喪城邑、帝遂爲俘、土地琛貨、陸續充貢纔而得釋還一ㇾ國、降於近歳、南方瀕海之地、率爲西洋所一ㇾ據、英機黎既併榜葛刺、漸蠺食印度、莫臥兒殆至海畔無尺地之有、其弱可想、莫臥兒之所以至於斯削弱者、固縁其浸漬天竺柔軟之俗、而其抛海防水戦於局外、不以介一ㇾ意、實爲之病源也、印度據海山之阻、擅魚鹽之利、國富民夥、苟海防整設、無武事、足以威制海南諸夷、而攘逷泰西、乃今也沿海咸爲敵所一ㇾ奪、殆如其口而搤其咽喉然、印度失厥富彊之資、而仰鼻息乎彼、駸々乎有膚椎髄之勢、亦可憫矣、借令莫臥兒有爲之主出、必先逐太西諸夷、復臨海地、然後始可以自強、不然仍今之形勢、無今之彊域、断不樹立、終歸於淪亡而已、是亦在于本邦、前車之可鑑者也、

 

(読み下し文)

印度(インド)至て大にして綦(きはめ)て盛(さかん)なるの國なり。兵衆(ヘイシュウ)財力、支那に較べ、過ぎたること有れど、及ばざること無し。但し其の地富厚(フコウ)にして蕃庶(バンショ)たり。百物匱(とぼし)からず。土沃(こ)えて民佚(イツ)なり。脆靡(ゼイビ)に流るるを自覚せず。故に莫臥兒(ムガール)、蒙古餘蘖(ヨゲツ)を以て、北方撒馬兒罕(サマルカンド)の地に奮(ふる)ひ、明の建文年中を以て、印度に深入し、立ちどころに四天竺を滅(ほろぼ)す。獨(ひと)南天竺のみ纔(わづか)に能(よ)く自(みづか)ら保ち、嘉靖中迄に亦併(あは)す所と爲る。莫臥兒(ムガール)(これ)(はじめ)て印度に入るや、印度孱怯(センキョウ)の風一變し、猛賁(モウヒ)虓鷙(ゴウシ)の俗(ならはし)と爲る。其の鋒(ほこさき)(ふれ)るべからず。未だ幾歳(いくとし)もせずに亦儜然緜弱(ドウゼンメンジャク)に復(かへ)る。元文中大いに百兒西亜(ペルシャ)に摧破(サイハ)せられ、多くの城邑(ジョウユウ)を喪(うしな)ふ。帝(みかど)(つひ)に俘(とりこ)と爲り、土地琛貨(チンカ)、陸續(リクゾク)(みつぎ)に充(あ)て纔(わづか)に釋(ゆる)し國に還(かへ)るを得。近歳に降(くだ)り、南方瀕海の地、率(おほむね)西洋の據(よ)る所と爲る。英機黎(イギリス)既に榜葛刺(ベンガル)を併(あは)せ、漸(やうや)く印度を蠺食(サンショク)す。莫臥兒(ムガール)(ほとん)ど海畔(カイハン)に尺地之(これ)有すること無きに至る。其の弱きを想ふべし。莫臥兒(ムガール)(これ)(かか)る削弱(サクジャク)に至る所以(ゆゑん)は、固(もと)より其れ天竺柔軟の俗(ならはし)に浸漬(シンシ)するに縁(よ)る。而(しか)して其れ、海防水戦局外に抛(なげう)ち、以て意に介さず。實に之(これ)病源を爲すなり。印度海山の阻(へだて)に據(よ)り、魚鹽(ギョエン)の利を擅(ほしいまま)にす。國富み民夥(おびただ)し。苟(いやしく)も海防整設し武事を忘るること無くば、以て海南諸夷を威制し、泰西を攘逷(ジョウテキ)するに足るらん。乃(すなは)ち今也(いまや)沿海咸(みな)敵の奪ふ所と爲り、殆(ほとん)ど其の口を関(とざ)して其の咽喉(インコウ)を搤(おさ)へるが如く然(しか)り。印度厥(その)富彊(フキョウ)の資(もと)を失ひて、鼻息(ビソク)彼を仰(あほ)ぐ。駸々(シンシン)膚を剥ぎ髄を椎(たた)くの勢有り。亦憫(あはれ)むべきなり。借(かり)に莫臥兒(ムガール)、有爲(ユウイ)の主(あるじ)(いで)しめば、必ず先ず太西諸夷を逐(お)ひ、臨海地を復し、然る後、始めて以て自強すべし。然らずして今の形勢に仍り今の彊域(キョウイキ)を改むること無くんば、断じて樹立有る能(あた)はず、終(つひ)に淪亡(リンボウ)に歸(キ)するのみ。是亦(これまた)本邦に在りて、前車の鑑たるべき者なり。

兵衆(ヘイシュウ)(軍勢)・富厚(フコウ)(富んで豊か)・蕃庶(バンショ)(繁殖すること)・(イツ)(気ままに楽しんでいる)・脆靡(ゼイビ)(やわらかくうつくしい 軟弱)・餘蘖(ヨゲツ)(残党)・孱怯(センキョウ)(臆病で弱々しい)・猛賁(モウヒ)虓鷙(ゴウシ)(勇猛で荒々しい)・儜然(ドウゼン)(弱々しく)・緜弱(メンジャク)(か細い、か弱い)・琛貨(チンカ)(財宝)・削弱(サクジャク)(国土が侵され弱くなる)・浸漬(シンシ)(つかること)・魚鹽(ギョエン)(魚と塩、海産物)・威制(おどし抑える)・攘逷(ジョウテキ)(払いのける)・鼻息(ビソク)彼を仰(あほ)ぐ(他人の鼻息をうかがっている。)・駸々(シンシン)(急速に)・淪亡(リンボウ)(滅亡)

 

(現代語訳)

 インドは極めて大きく盛んな国だった。軍勢や財力は中国と比べてもそれ以上であってそれ以下ではなかった。ただその地は富んで豊かで人口も多く物も不足していなかったし土地も肥えていたので、民は気ままに楽しんでおり軟弱に流れているのを自覚していなかった。このためムガールが蒙古の残党を集めて北方のサマルカンドの地で勢力を奮い、明の建文年間にインドに侵入し、たちどころに四天竺を滅ぼした。ただ南天竺だけが独立していたが嘉靖年間までには併合された。ムガールがインドに初めて入るとインドの臆病で弱々しい気風が一変し勇猛で猛々しい文化となり、その軍隊は無敵であった。しかし間もなくまた弱々しくなってしまった。元文年間にペルシャに大敗し多くの城を失った。帝王もついに捕虜となり、土地や財宝を続々と貢ぎ物にしてやっと許され国に帰った。

 近年になると南方の海に面した土地はおおむね西洋諸国が占領した。イギリスは既にベンガルを併合し次第にインドを侵略し、ムガールは殆ど沿岸の土地を失った。その弱さを思うべし。ムガールがここまで領土を削られ弱くなった理由は、何よりインドの軟弱な文化に浸かってしまい、海防や海戦のことは放置して意に介さなかったことにあり、実にこれが病源である。インドは海や山に遮られることで海産物の利益を独り占めにできて国は富み人口は多かった。もし海防を整備して武事を忘れなければ、海南の異民族を威圧し西洋諸国を払いのけることもできただろう。ところが今は沿海はみな敵に奪われほとんど口を塞がれ喉を抑えられているようなものである。インドはその富と力の元を失い他人の鼻息を伺っていて、急速に皮膚を剥がれ骨髄をたたかれているような状態である。実に憐れむべきことだ。

 もしムガールに有能な君主が出れば、必ずまず西洋諸国を追い出し、臨海地を回復し、その後初めて自ら努め励むことができるようになるだろう。そうではなく今の形勢によりかかり今の領域を改めることもなければ断じて立て直しはできず滅亡に向かうだけだろう。これはわが国にあっても失敗の教訓とすべきことである。

 

其五十四(清は防衛のためにはインドを西洋諸国より先に併合すべし)

支那之於印度、雖隔絶之邦、而實相爲唇歯今日形勢、爲清謀乎、必併印度、然後始免於杌隉之患也、清雖彊大、其蠺食隣邦之術、迥遜太西之巧、清既殲準噶爾、據葉爾羗地、殆接印度之背、印度衰苶已極、而中間無截我師之虜、使清乗兵力之猛熾、以直涖印度、則彼断不我、惟有版図以乞上ㇾ降耳、取印度而厳其沿海之備、守其陸路之衝要、以綏西南夷、可以威覃四海、乃舎而不問、致太西人肆意占據瀕海地、以漸侵削五天竺、坐失乗之會、此識者所爲深惜也、若更任泰西之狼貪、使之盡呑印度、憑據安日河東西、以攻支那、其禍有言者焉、藉使東夷西戎各自爲一邦、而各自作上ㇾ梗、其患未必甚深、今乃使太西人迭相掎角、以出乎東西夾攻之計、則清将殆不一ㇾ支、今清縦不平印度、果能取榜葛刺及清笠中間諸小夷、亦足以自強、而清人智慮絶不之及、可國無一ㇾ人矣、異日清或爲太西所併有、則禍毒直中乎我、其貽患有涯量、今人呑噬印度之策、固爲清謀、而實亦爲本邦謀也、

 

(読み下し文)

支那(これ)印度を隔絶の邦と曰(い)ふと雖(いへど)も、實に唇歯(シンシ)を相爲(あいな)す。今日形勢に就き、清の爲に謀(はか)れば、必ず印度を併(あは)せ、然る後始めて杌隉(ゴツゲツ)の患(わづらひ)を免るなり。清、彊大と雖も、其の隣邦を蠺食(サンショク)するの術、迥(はるか)に太西の巧(たくみ)なるに遜(ゆず)る。清既に準噶爾(ジュンガル)を殲(ほろ)ぼし、葉爾羗(ヤルカンド)の地に據(よ)り、殆(ほとん)ど印度の背に接す。印度衰苶(スイデツ)(すで)に極(きはま)る。而(しか)して中間に我師を攔截(ランセツ)する虜(えびす)無し。清兵力の猛(たけ)く熾(さかん)なるに乗じ、以て直ちに印度に涖(のぞ)ましめば、則ち彼断じて我に抗(あらが)ふこと能(あた)はず。惟(ただ)版図(ハント)を奉り以て降(くだ)るを乞ふこと有るのみならん。印度を取りて其の沿海の備(そなへ)を厳しくし、其の陸路の衝要を守り、以て西南の夷(えびす)を綏懐(スイカイ)せば、以て威を四海に覃(のばす)べし。乃(すなは)ち舎(す)てて問はざれば、太西人意を肆(ほしいまま)にし、瀕海地を占據し、以て漸(やうや)く五天竺を侵削するに致る。坐して乗ずべきの會を失ふ。此れ識者の深く惜しむ所爲(ゆゑん)なり。若(も)し更に泰西の狼貪(ロウドン)に任せ、之(これ)(ことごと)く印度を呑み、安日(ガンジス)河東西に憑據(ヒョウキョ)し、以て支那に攻逼(コウヒツ)せしめば、其の禍(わざはひ)言ふべからざる者有るなり。藉使(もし)東夷西戎各自一邦の爲に各自作梗(サクコウ)せば、其の患(わざはひ)未だ必ずしも甚だ深からず。今乃(すなは)ち太西人迭(たがひ)に相掎角(キカク)し、以て東西夾攻(キョウコウ)の計に出しめば、則ち清、将(まさ)に殆ど支(ささ)ふべからざるべし。今清縦(たと)ひ印度を蕩平すること能(あた)はざれども、果して能く榜葛刺(ベンカル)及び清笠中間諸小夷を取らば、亦以て自強するに足らん。而れども清人智慮絶へて之(これ)及ばず。國に人無きを謂(おも)ふべきか。異日清或(あるい)は太西の併有する所と爲らば、則ち禍毒直(ただち)に我に中(あた)る。其の患(わづらひ)を貽(およ)ぶこと涯(はて)を量るべからざる者有り。今人の印度を呑噬(ドンゼイ)するの策、固(もと)より清の爲(ため)の謀(はかりごと)にして實に亦本邦の爲(ため)の謀(はかりごと)なり。

・唇歯(シンシ)(くちびると歯 相互依存の譬え)・杌隉(ゴツゲツ)(危い、不安定な)・準噶爾ジュンガル)(モンゴル民族の一派オイラートの一部族。17~18世紀に栄え、天山南路・天山北路一帯を支配したが、1758年、清に滅ぼされた)・葉爾羗(ヤルカンド)(中国、新疆ウイグル自治区南西部のオアシス都市。タリム盆地西縁にあり、古来、隊商交易路の要衝で、農畜産物の集散地として発達)・衰苶(スイデツ)(衰え弱くなること)・攔截(ランセツ)(さえぎり止める)・綏懐(スイカイ)(てなずける)・(機会)・憑據(ヒョウキョ)(よりどころにする)・攻逼(コウヒツ)(攻め寄せる)・作梗(サクコウ)(妨害する)・掎角(キカク)(前後相応じて敵にあたること)・夾攻(キョウコウ)(はさみうち)・蕩平(平定)

 

(現代語訳)

 中国はインドのことをはるかにかけ離れた国と言うが、両者はくちびると歯のように相互に依存した関係にある。現在の情勢について清のために考えると、インドを併合することで初めて不安を免れることができる。清は強大ではあるが、隣国を侵略する技術では西洋諸国の巧みさにはるかに及ばない。清は既にジュンガルを滅ぼしヤルカンドの地を拠点としており殆どインドの背中に接している。インドは極めて衰えているが、インドと清の中間には清軍を遮る異民族はいない。清が兵力の強いことに乗じてすぐにインドに行けばインドは全く抵抗できず、ただ領土を譲渡して降伏するしかないだろう。インドを取って沿海の警備を厳しくし、陸路の要衝を守り、西南の異民族を手なずければこれにより威光を四方の海に伸ばすことができる。

 逆にインドを放置していれば西洋人が好き勝手に沿海部を占領し次第に五天竺を侵略するに至るだろう。座して乗ずべき好機を失う、これは識者が深く惜しむ理由である。もし更に西洋が貪欲に任せてインドをすっかり併呑し、ガンジス川の東西を拠り所にして中国に攻め寄せればその悪影響は言語を絶する。もし東西の異民族がそれぞれ自国のために妨害してきてもその影響はさほどのことはない。しかしもし西洋人が互いに相応じて敵に当たり、東西で挟み撃ちの作戦に出たら清はほとんど耐えきれないだろう。たとえ清がインドを平定することができないとしても、ベンガルおよび清とインドの中間地域の小国を取ればそれにより自国を強化できるだろう。しかし清人の知恵はそこに及ばない。国に人材がいないと思うべきなのか。

 将来清がもし西洋に併有されることになればその害毒はわが国を直撃し、その悪影響の大きさは計り知れない。このインドを併合する策は当然清のための計画だが、実はわが国のための計画でもある。

 

其五十五(国と人民を守れない仁愛の君主より、国と人民を守れる暴君の方がまし)

明太成二祖、天資酷忍、翦屠臣民、而子孫昌衍、傳祚三百年、唐明皇宋徽宗、慈恵寛厚、不殺、而安禄山完顔晟称兵猾夏、士庶死於兵者、數百千萬、國祚幾絶纔續、而其亡實兆于茲、夫原人情而論、則自下手殺人者、與他人殺一ㇾ人者、邈然殊科、明二祖、親下手者也、唐明宋徽、不人殺者也、其罪之輕重灼如、而禍福如斯之懸、後世智誑愚彊虐弱、毎多吾衆勝天之患、彊暴之得志、亦莫怪、而其中自有天道存焉、夫處人牧之任護生霊、令上ㇾ患苦職吾不之、而使勍敵捍虜衡行無上ㇾ顧憚、億兆黔黎死於鋒鏑於水火、與親殺一ㇾ之一間耳、且也、暴君乗怒而殺人、其殺人亦自有限、凶賊醜虜蹂躙天下、其死者不啻倍蓰什佰之多、其陥人於死益衆、而其獲罪於天、益深、瑣々小仁細謹、不以贖莫大之愆也、明二祖惨虐之罪固可悪、然而克振中州之威、以攘逐四夷、使之厥角懾伏、不敢擾上ㇾ邊、薄海蒸民、獲各楽其生、其功匪小、實人情之所皈王、抑亦天心之所眷祐也、近代如墨是可孛露及爪哇呂宋満刺加忽魯謨斯、咸爲太西所呑滅、彼其君未必有淫虐厲民之辜、而不兵備作士気、以遏黠虜之侵軼、可君國子民之道、其忽諸也固耳、夫明二祖之無道、當痛戒以爲殷鑑、而其摧破戎虜、以寧中州之勲、洵可則傚、若乃不武錬兵以攘冦虜之爲要務、徒好小恵、喣々撫柔細民、自謂以邀天眷、則處心之謬甚者也、

 

(読み下し文)

明の太成二祖、天資(テンシ)酷忍なり。臣民を翦屠(セント)し、而(しか)して子孫昌衍(ショウエン)し、祚(ソ)を傳(つた)ふること三百年。唐の明皇宋の徽宗(キソウ)、慈恵寛厚にして、殺を嗜(たしな)まず。而(しか)して安禄山、完顔晟、兵を称(あ)げ夏(カ)を猾(みだ)す。士庶兵(いくさ)に死す者數百千萬、國祚(コクソ)(ほとん)ど絶へ纔(わづか)に續く。而(しか)して其の亡ぶること實に茲(ここ)に兆(きざ)す。夫れ人情を原(たづ)ねて論ずれば、則ち自(みづか)ら手を下し人を殺す者と、他人に人を殺すことを禁ずること能はざる者と、邈然(バクゼン)(とが)を殊(こと)にす。明の二祖、親(みづ)から手を下す者なり。唐の明、宋の徽、人を殺すことを禁ずること能はざる者なり。其の罪の輕重灼如(シャクジョ)なり。而(しか)して禍福(カフク)斯くの如く懸(へだた)る。後世、智は愚を誑(たぶらか)し、彊(キョウ)は弱を虐(しへたげ)る。毎(つね)に吾(われ)(おほ)ければ天に勝つの患(わざはひ)多し。彊暴(キョウボウ)(これ)志を得ること、亦怪しむに足らず。而(しか)も其の中に自(おのづ)から天道有りて存(たも)つなり。夫れ人牧(ジンボク)の任(にな)ふ處、生霊(セイレイ)を捍護(カンゴ)し、患苦を脱せしむるを以て職と爲す。吾之(これ)を庇(かば)ふこと能はず。而して使(もし)勍敵(ケイテキ)捍虜(カンリョ)衡行(コウコウ)し顧憚(コタン)する所無からしめ、億兆の黔黎(ケンレイ)の鋒鏑(ホウテキ)に水火に死なば、親(みづ)から之を殺すことととは、一間(イッカン)のみ。且つ、暴君怒りに乗じて人を殺すも、其の人を殺すこと亦自(おのづ)から限りあり。凶賊(キョウゾク)醜虜(シュウリョ)天下を蹂躙せば、其の死者啻(ただ)倍蓰(バイシ)什佰(ジュウヒャク)の多きのみならず、其の人を死に陥(おとしいれ)ること益(ますます)(おほ)し。而(しか)して其の罪を天に獲(う)ること益(ますます)深く、瑣々(ササ)小仁(ショウジン)細謹(サイキン)、以て莫大の愆(あやまち)を贖(あがな)ふに足らざるなり。明の二祖惨虐(サンギャク)の罪、固(もと)より悪(にく)むべし。然れども克(よ)く中州の威を振ひ以て四夷を攘逐(ジョウチク)し、之(これ)を厥角(セツカク)懾伏(ショウフク)せしめ、敢て邊(くにざかひ)を擾(みだ)ざらしむ。薄海(ハクカイ)の蒸民(ジョウミン)、各(おのおの)其の生に楽を獲(う)。其の功小さからず。實に人情之(これ)王に所皈(ショキ)し、抑(そもそも)亦天心の眷祐(ケンユウ)する所なり。近代墨是可(メキシコ)、孛露(ペルー)、及び爪哇(ジャワ)、呂宋(ルソン)、満刺加(マラッカ)、忽魯謨斯(ホルムズ)の如き咸(みな)太西の呑滅(ドンメツ)する所と爲る。彼其(ヒキ)の君、未だ必ずしも淫虐(インギャク)厲民(レイミン)の辜(つみ)有らず。而(しか)して兵備を飭(ととの)へ士気を振作(シンサク)し、以て黠虜(カツリョ)の侵軼(シンイツ)を遏(とど)むること能(あた)はず。君國子民(クンコクシミン)の道を忝(はづかし)むると謂(い)ふべし。其の忽諸(コツショ)たるや固(もとより)のことなるのみ。夫れ明の二祖の無道、當(まさ)に痛く戒(いまし)め以て殷鑑(インカン)と爲すべし。而(しか)して其の戎虜(ジュウリョ)を摧破(サイハ)し、以て中州を寧(やすん)ずるの勲(いさお)、洵(まこと)に則傚(ソッコウ)すべし。若乃(もしすなはち)武錬兵を以て冦虜(コウリョ)を攘(はら)ふこと、之(これ)を要務と爲すを識(し)らず、徒(いたづら)に小恵を敷くを好み、喣々(クク)として細民を撫柔(ブジュウ)せば、自(おのづ)から以て天眷(テンケン)を邀(むか)へるべしと謂(おも)ふは、則ち心を處(ショ)することの謬(あやまり)(はなはだ)しき者なり。

 

明の太成二祖(明の太祖洪武帝と成祖永楽帝 洪武帝は明の創始者だが徹底した独裁制と恐怖政治を敷き、功臣を粛清し尽くした。永楽帝は明の第二代建文帝に対するクーデターで帝位に就き、建文帝側近の重臣とその家族に対し一族誅滅の処置をとった)・天資(テンシ)(生まれつきの資質)・酷忍(残忍)・翦屠(セント)(切殺す)・昌衍(ショウエン)(栄えはびこる)・(ソ)(天子の位)・唐の明皇玄宗皇帝 唐の第六代皇帝。はじめは立派な政治を行い、「開元の治」と称せられたが、後に楊貴妃への愛におぼれて政治をかえりみず、安禄山(あんろくざん)の乱をひきおこした。)・宋の徽宗北宋第8代の皇帝。書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励したが、政治力なく国政は乱れ、金の侵入に際し帝位を子の欽宗に譲位、のち親子とも捕らえられ、今の黒竜江省で死去)・慈恵寛厚(慈愛の心が厚い)・安禄山(中国唐代の武将。ソグド人。安史の乱の首謀者。玄宗皇帝に信頼されて平盧・范陽・河東の三節度使を兼任していたが、755年、反乱を起こして洛陽・長安を攻略。大燕皇帝を自称したが、子の慶緒に殺された)・完顔晟(カンガンセイ)(中国金の第2代皇帝。対宋戦争を開始し,宋の都開封を陥落させ 徽宗,欽宗を捕虜として宋を滅ぼした)・(カ)(中国)・國祚(コクソ)(帝位)・邈然(バクゼン)(はるかに)・唐の明玄宗)・宋の徽徽宗)・灼如(シャクジョ)(明らか)・吾衆(おほ)ければ天に勝つ「人衆ければ天に勝つ」史記伍子胥列伝)人が多くて意気盛んな時は、天もこれに気負けして天罰をくだすことができない)・彊暴(キョウボウ)(乱暴者)・人牧(ジンボク)(君主)・生霊(セイレイ)(人民)・捍護(カンゴ)(守る)・勍敵(ケイテキ)(強敵)・捍虜(カンリョ)(強い異民族 強敵)・衡行(コウコウ)(勝手気ままに振る舞う)・顧憚(コタン)(おそれはばかる)  黔黎(ケンレイ)(庶民)・鋒鏑(ホウテキ)(刀のほこ先と矢じり。武器をいう)・一間(イッカン)(少しの違い)・倍蓰(バイシ)(二倍、五倍 数倍)・什佰(ジュウヒャク)(十倍、百倍)・瑣々(ササ)小仁(ショウジン)細謹(サイキン)(細々した小さな仁徳や些細な礼儀作法)・中州(中国)・攘逐(ジョウチク)(追い払う) ・厥角(ケッカク)(頭を地につくまで下げて礼をする)・懾伏(ショウフク)(ひれ伏す)・邊(くにざかひ)(国境)・薄海(ハクカイ)(天下、世界)・蒸民(ジョウミン)(多くの民)・所皈(ショキ)(帰着する)・天心(天帝の心)・眷祐(ケンユウ)(助ける)・彼其(ヒキ)(彼)・淫虐(インギャク)厲民(レイミン)(みだらでむごく民を悩ます)・振作(シンサク)(奮い立たせる)・黠虜(カツリョ)(悪賢い外敵)・侵軼(シンイツ)(侵略)・君國子民(クンコクシミン)(君主の治める国家と君主が子供のように愛する国民)・忽諸(コツショ)(突然消え去ること)・殷鑑(インカン)(戒めとすべき失敗の前例 殷は前代の夏が滅ぼされたことを鑑(かがみ)としなければならなかったのに、そうしなかったところからこの言葉ができた。)・則傚(ソッコウ)(手本とする)・講武(武を習うこと)・錬兵(兵を訓練すること)・冦虜(コウリョ)(外敵)・小恵(少しばかりの恩恵)・喣々(クク)(へつらい笑うさま)・撫柔(ブジュウ)(可愛がる)・天眷(テンケン)(天の恵み)

 

(現代語訳)

 明の太祖洪武帝と成祖永楽帝は生まれつき残忍で家臣や人民を切り殺したが、子孫は繁栄し王朝は三百年続いた。唐の玄宗皇帝と宋の徽宗皇帝は慈愛の心が深く殺人を好まなかった。しかし安禄山や完顔晟が挙兵して中国を乱し、戦乱で死んだ者は数百千萬。帝位はほとんど絶えてわずかに続いたが、王朝の滅亡は実にここに前兆があった。

 そもそも人情に基づいて考えれば、自ら手を下して人を殺すことと、人を殺すのを止めさせることができないこととでは罪の重さははるかに異なる。明の二人の皇帝は自ら手を下し、唐の玄宗皇帝と宋の徽宗皇帝は人を殺すのを止めさせることができなかった者だ。その罪の軽重は明らかだ。しかし結果はこのように全く反対になっている。

 後の世には智者が愚者をたぶらかす、強者が弱者を虐げる、など多数を恃んで天罰を恐れず無道なことを行う事件が多く発生している。乱暴者が思った通りにできるということも不思議ではない。しかしそうした中にも自然に天道はあるものだ。

 そもそも君主の任務は人民を守り災いや苦しみから逃れさせることにあり、私人ができるようなことではない。しかしもし強敵や異民族が憚ることなく勝手気ままに振る舞い、その結果多くの人民が武器によりあるいは水や火により死ねば、それは君主自ら人民を殺すことと殆ど違わない。その上暴君が怒りに乗じて人を殺してもその数にはおのずと限りがあるが、凶悪な賊や醜い異民族が天下を蹂躙すれば死者はその二倍、五倍、十倍、百倍の多さになるというだけでなく、人を死に陥れることがますます多くなる。天の怒りを買うこともますます深く、細々とした小さな仁徳やつまらない礼儀作法でこの莫大なあやまちを償うことなどできない。

 明の二皇帝の残虐な罪は当然憎むべきものであるが、よく中華の威光を振るってまわりの異民族を追い払いあるいは徹底的にひれ伏させて、敢えて国境を侵犯しようなどとは考えさせないようにした。これにより世の中の多くの民が人生に楽しみを得られるようになった。その功績は小さくない。人々の心は王に寄せられたが、これもまた天の助けによるものだ。

 近代ではメキシコ、ペルーおよびジャワ、ルソン、マラッカ、ホルムズなどの国が皆西洋諸国に併呑された。これらの君主は必ずしも淫らであったり残虐であったり民を悩ませたりというわけではなかったが、軍備を整え士気を奮い立たせて外敵の侵略を防止することができなかった。これは国の君主たる者は民を子の如く愛すべしという「君国子民」の道に反するもので、これらの国が突然消え去ったのも当然のことだ。

 明の二皇帝の無道ぶりはまさに失敗の前例として教訓とすべきではあるが、しかし敵を撃破し中国を守った功績はまことに手本となるべきものだ。反対にもし武術を習い兵を訓練して外敵を追い払うことが重要であると認識せず、少しばかりの恩恵を施してへつらい笑って人民を可愛がっていれば自然に天の恵みを得られると考えているようでは心得違いも甚だしい。

 

其五十六(蝦夷地と東北沿岸の防備の重要性について)

本邦四面臨海、虜艦無至、而北陲最可憂慮、何也、俄羅斯柬察加之地頗密邇、而蝦夷之地曠邈荒寂守備單寡、所以可一ㇾ懼也、柬察加寒沍不毛之地、極難於蕃殖、今也生口無幾、彼有狡圖、斷不大師以加乎我、惟其吾防衛之闊疎、彼數々以小卒侵擾、亦足國憊耗、且彼百方経営、求斯地之阜昌、方大通新世界互市、則漸致繁夥、以陵逼我知、此異日之憂也、不獨茲也、近歳英機黎日滋盛彊、以漸蠺食北亜墨利加、將東一貫而達于西、西則與吾東北諸州岸、相距不甚遥、而此地漸近南、稍饟沃多生聚、與東柬察加之荒瘠同、若英機黎占據此地、築固城、屯精卒、時々鈔略東北諸塞、則其患尤不測、其可憂更甚於柬察(カムチャッ)加(カ)矣、宜今日之尚閑暇、亟有計畫、必也沿海之地、皆嚴防禦、而蝦夷之地、更加周密、方爲其宜、雖然方今以蕞爾一小矦、轄蝦夷莽渺之地、而使之守備無一ㇾ曠、實属事之綦難、是良相碩輔之所十思者也、

 

(読み下し文)

本邦四面海に臨み、虜艦至るべからざる處無し。而して北陲最も憂慮すべし。何ぞや。俄羅斯(オロシャ)柬察加(カムチャッカ)の地に頗(すこぶ)る密邇(ミツジ)し、而(しか)蝦夷の地曠邈(コウバク)荒寂(コウジャク)にして守備單寡(タンカ)なり。懼(おそ)るべき所以(ゆゑん)なり。柬察加(カムチャッカ)、寒沍(カンゴ)不毛の地にして、極めて蕃殖(ハンショク)に難(かた)し。今也(いまや)生口(セイコウ)(ほとん)ど無し。彼狡圖(コウト)を有す。斷じて大師を發(おこ)し以て我に加ふること能はず。惟(ただ)其れ吾が防衛之(これ)闊疎(カツソ)なり。彼數々小卒を以て侵擾(シンジョウ)せば、亦國を憊耗(ハイモウ)に致すに足る。且つ彼百方経営し、斯の地の阜昌(フショウ)を求め、方(まさ)に新世界互市を大通し、則ち漸(やうや)く繁夥(ハンカ)を致し、以て我に陵逼(リョウヒツ)すべきを知るべからざる。此の異日の憂ひなるや、獨(ただ)(これ)のみならざるなり。近歳英機黎(イギリス)(ひび)(ますます)盛彊(セイキョウ)なり。漸(やうや)く以て北亜墨利加(アメリカ)を蠺食(サンショク)し、將(まさ)に東より一貫して西に達すべし。西則ち吾東北諸州と岸に對(むか)ふ。相距(へだ)つること甚(はなは)だ遥(はる)かならず。而して此の地漸(やうや)く南に近づけば、稍(やや)饟沃(ジョウヨク)にして生聚(セイシュウ)多し。柬察加(カムチャッカ)の荒瘠(コウセキ)と同じからず。若(も)し英機黎(イギリス)此の地を占據し、固城を築き、精卒屯(たむろ)し、時々東北諸塞を鈔略(ショウリャク)せば、則ち其の患(わづら)ひ尤(もっとも)測れず。其の憂ふべきこと更に柬察加(カムチャッカ)より甚(はなはだ)し。宜しく今日の尚(なほ)閑暇(カンカ)なるに迨(およ)び亟(すみやか)に計畫有るべし。必ずや沿海の地、皆防禦を嚴しくして、蝦夷の地更に周密(シュウミツ)を加へ、方(まさ)に其の宜(よろ)しきを得さすべし。然りと雖(いへど)も方今(ホウコン)蕞爾(サイジ)の一小矦を以て、蝦夷莽渺(モウビョウ)の地を轄(カツ)す。而して使(もし)この守備をして無曠(ムコウ)ならしめば、實に事の綦(きは)めて難(かた)きに属(つらな)るべし。是れ良相(リョウショウ)碩輔(セキフ)の當(まさ)に十思すべき所の者なり。

密邇(ミツジ)(接近)・曠邈(コウバク)(はるかに広い)・荒寂(コウジャク)(荒れて寂しく)・單寡(タンカ)(少ない)・蕃殖(ハンショク)(動物や植物を増やすこと)・生口(セイコウ)(人口)・狡圖(コウト)(ずる賢い考え)・大師(大軍)・闊疎(カツソ)(おおまかで抜けた点がある)・小卒(小規模な軍隊)・憊耗(ハイモウ)(疲れ果てること)・百方経営(様々な方法を尽くす)・阜昌(フショウ)(豊かで盛んなこと)・大通(タイツウ)(ふさがっているものを通す)・繁夥(ハンカ)(多いこと)・致す(なしとげる)・陵逼(リョウヒツ)(せまる)・異日(将来)・饟沃(ジョウヨク)(土地が肥え作物が豊か)・生聚(セイシュウ)(人口と富)・荒瘠(コウセキ)(土地が荒れて地味がやせていること)・鈔略(ショウリャク)(かすめ取ること)・閑暇(カンカ)(静かでひまなこと)迨(およ)ぶ(乗ずる 利用する)・周密(シュウミツ)(隅々まで行き届い抜かりがないこと)・蕞爾(サイジ)(非常に小さい)・莽渺(モウビョウ)(果てしなく広い)・轄(カツ)す(取り締まる 管理する)・無曠(ムコウ)(専念すること)・良相(リョウショウ)(優れた大臣)・碩輔(セキフ)(立派な役人)・十思(ジッシ)(十回熟慮する よく考える)

 

(現代語訳)

 わが国は四面を海に囲まれ外国船が来ない所は無い。その中でも北端の地が最も憂慮するところである。なぜだろうか。蝦夷地はロシアのカムチャッカに極めて接近しており、しかも果てしなく広く荒涼としており守備兵も少ない。これが憂慮の理由である。

 カムチャッカは寒さが厳しい不毛の地であり、動物や植物が繁殖することは難しいし今や人口もほとんど無いが、ロシアにはずる賢い次のような考えを有している。「決して大軍を日本に差し向けることはできないが、ただ日本の防衛には粗漏があるので小規模な軍隊で何度も攻めれば疲弊させるには十分である」。またロシアはあらゆる手を尽くしてこの地の繁栄を求め新世界での貿易を大いに開拓し次第に多くの事を成し遂げわが国に迫るかもしれない。このような将来の憂いはこれだけに止まらない。

 近年イギリスはますます盛強であり、次第に北アメリカを侵略し東から貫いて西にまで達しようとしている。西はわが国の東北諸藩と向かい合い、距離もそれほど遠くない。しかもこの土地は次第に南に近づけば、やや土地が肥えて作物も豊かで人口や富も多くなる。カムチャッカの土地が荒れて地味が痩せているのとは異なる。もしイギリスがこの地を占領し堅固な城を築き兵隊を駐屯させて時々東北諸藩の砦を掠めとるようなことになれば、その被害ははかり知れないし、その心配はカムチャッカよりも深刻だ。

 現在の平穏のうちにぜひ速やかに対策を立てておくべきだ。必ず沿海地域は皆防禦を厳重にして、特に蝦夷地は隅々まで抜かりがないようにしなければならない。しかし現在は小さな一大名(松前※1)が蝦夷のはてしなく広い土地を管理している。もし守備に専念させようとすれば実に困難な問題につながるだろう。これは幕府の優れた老中や賢明な奉行がよくよく考えなければならないことである。

 

※1松前 蝦夷松前藩主。外様。出自については諸説がある。松前氏の家譜類では、若狭国後瀬山城主武田信賢の子信広が下野国足利を経て、陸奥国田名部の蠣崎に下り、享徳三年(一四五四)蝦夷島に渡って上ノ国花沢館主蠣崎季繁の客となり、コシャマインの蜂起鎮圧を契機に蠣崎氏を継ぎ、松前氏の祖となったとしている。信広以降、四世季広まで蠣崎を姓とし、五世慶広のとき豊臣氏・徳川氏に従い、松前と改姓して松前藩を形成した。松前氏はアイヌ交易の独占権を立藩基盤としたため、文化四年(一八〇七)―文政四年(一八二一)の陸奥国伊達郡梁川への移封期や、本州に飛地を領した幕末期を除いて石高はなく、享保四年(一七一九)にようやく一万石格となった。その後、梁川移封時に九千石となり、復領後は格付のないまま数年を経、天保二年(一八三一)再び一万石格となった。嘉永二年(一八四九)崇広のとき城主に列し、安政二年(一八五五)旧領の大部分と引換えに梁川および出羽国村上郡東根に計三万石を領して、はじめて三万石の大名となった。柳間詰。崇広は元治元年(一八六四)老中となる。明治十七年(一八八四)修広が子爵を授けられ、また崇広の次男隆広も同二十二年男爵を授けられる。(国史大辞典)