窮理説

 窮理説は侗庵の思想を知る上で重要な論文です。ここで予め「窮理」について解説します。朱子学ではあらゆる物や事にその存在原理・存在根拠があると考えられており、これを「理」といいます。理を追究していくことを「窮理」といいます。

 ここで動植物や物質や天体について窮理を行っていけば自然科学や物理学・天文学などの発展につながっていたとも思えますが、中国ではそうはなりませんでした。窮理は専ら道徳的な方面、形而上学的方面で行われました。

 朱子学ではあらゆる方面(といっても道徳的方面)で窮理を行ない(これを格物窮理といいます)、自分自身や宇宙全体の理を知る。そうすることが自分の心の発動である「意」をまことにすることになる(誠意)。ひいては心そのものを正しくすることができ(正心)、身を修めることにつながる(修身)。そうすれば家をととのえ(斉家)、国を治め(治国)、ついには天下を平かにする(平天下)ことができる、と考えたのです。

 こうした朱子学流の窮理のことを侗庵は「仁義道徳の窮理」と呼んでいます。これに対して動植物や物質、天体について行う窮理のことを「名物器数の窮理」と呼んでいるのです(名物とは物の名前と形状・性質。器数とは器械と歴法)。

 ここでは窮理説を6つの部分に分けて見ていきます。なお原本は西尾市岩瀬文庫所蔵のものによります。

 

(1)仁義道徳の窮理とは

(漢文)

窮理者問学之至要務也、而其中自析二道、有仁義道徳之窮理、有名物器数之窮理、二者劃然不同、有君父之倫、必思全達孝精忠之行、有民人宗社之責、即思卹隠之政承祀之禮靡瑕闕、有飛走蟲豸奇木、輒思参賛化育之方各協厥宜、乃至天道之浩々神鬼之不測、未始不窮格、然皆参省諸已、絶不驚心於玄虚、此仁義道徳之窮理也、

(読み下し文)

窮理は問学の至要の務なり。而して其の中自(おのづ)から二道に析(わか)る。仁義道徳の窮理有り、名物器数の窮理有り。二者劃然(カクゼン)と同じからず。

君父の倫(みち)有れば、必ず達孝(タツコウ)、精忠の行(おこな)ひを全(まった)うするを思ひ、民人、宗社の責(つとめ)有れば、即ち卹隠(ジュツイン)の政(まつりごと)、承祀(ショウシ)の禮に瑕闕(カケツ)(な)きを思ふ。飛走(ヒソウ)蟲豸(チュウチ)奇木有れば、輒(すなはち)化育(カイク)の方(てだて)を参賛(サンサン)し各(おのおの)(その)(よろし)きを協(たす)くを思ふ。乃至(ないし)天道の浩々(コウコウ)、神鬼の不測(フソク)、未だ始めから窮格(キュウカク)せざるにあらず。然れば皆諸(これ)を参省(サンセイ)する已(なり)。絶へて玄虚(ゲンキョ)に驚心せず。此れ仁義道徳の窮理なり。

 (語釈)

 君父(主君と父親) 達孝(タツコウ)(優れた孝行) 精忠(純粋な忠義) 民人(人民) 宗社(国家) 卹隠(ジュツイン)(民の憂苦をあわれむこと) 承祀(ショウシ)(受け継いでまつること) 瑕闕(カケツ)(玉のきず) 飛走(ヒソウ)(鳥獣) 蟲豸(チュウチ)(虫類) 化育(カイク)(天地自然が万物を育てること) 参賛(サンサン)(賛助) 乃至(ないし)(あるいはまた) 浩々(コウコウ)(広々としていること) 神鬼(人間を超えた霊力あるもの) 不測(フソク)(計り知れないこと) 窮格(キュウカク)(研究) 参省(サンセイ)する(何度も反省する) 玄虚(ゲンキョ)(老荘の説)

 

(現代語訳)

 窮理は学問の極めて重要な務めである。窮理は自然に二つの道に分かれる。仁義道徳の窮理と名物器数の窮理である。この二つは明確に異なる。

 主君と親に対する倫(みち)が有るので、必ず優れた孝行と純粋な忠義を全うしようと考えること。人民と国家に対する責任が有るので、民の苦労を憐れむ政治と受け継いできた制度に欠陥がないようにしようと考えること。鳥獣や虫類、植物が有るので、天地自然が万物を適切に育てるのを助けようと考えること。あるいは広々とした天道や計り知れない神鬼のようなものであっても、始めから研究を放棄することなく、軽々しく老荘思想などに驚いたりしないこと。こうしたことが仁義道徳の窮理である。

 

(2)名物器数の窮理とは   

( 漢文)
有一器械、則審其濟人之本呈用之宜、極其利便所届然後已、有一蟲獣薬物、斯察其性味、晰其気血能毒、不失錙銖、暦象所以推註察来、而測度之基其密、来茲之日月蝕、可以今稔豫知而毫無差忒、千歳後之日至、可以晏坐而致月與五星、各爲一世界、可以考推而悟、此名物器数之窮理也、

 

(読み下し文)

一つ器械有れば則ち其の濟人の本(もと)、呈用の宜(よろし)きを審(つまびらか)にし、其の利便の届く所を極め然る後(のち)(や)む。一つ蟲獣薬物有れば、斯(ここ)に其の性味を察(つまびらか)にし、其(そ)の気血能毒を晰(あきらか)にし、錙銖(シシュ)も失はず。暦象の推註、察来の所以(ゆゑん)、而(すなは)ち測度(ソクタク)の其(そ)の密なるに基く。来茲(ライジ)の日月蝕、今稔豫知(ヨチ)して毫も差忒(サトク)無きを以てすべし。千歳後の日至(ニッシ)、晏坐(アンザ)して致すを以てすべし。月と五星を各一世界と爲し、考推して悟るを以てすべし。此れ名物器数の窮理なり。

 

(語釈)
濟人(人をたすけること) 呈用(はたらきをしめすこと) 性味(性質、味わい) 気血(体内の生気と血液) 能毒(効能と毒性) 錙銖(シシュ)(わずかなもの) 暦象(天文現象) 推註(推し測り解き明かすこと) 察来(未来を審らかにすること) 測度(ソクタク)(おし測ること) (精密) 来茲(ライジ)(来年) 今稔(今年) 差忒(サトク)(差異) 千歳(千年) 日至(ニッシ)(冬至または夏至) 致す(予知する) 考推(推考) 名物(物の名前と性質・形状) 器数(器械と歴法)

 

(現代語訳)
器械が有ればその原理や作用を明らかにし、効用を限界まで究明すること。虫や獣や薬物が有ればその性質と味わいを詳しく調べ、体内の生気と血液、効能と毒性を明らかにし、少しも不明な所を残さないこと。天文現象の解明や予測が精密な観測に基づいてなされ、来年の日蝕月食を今年少しの差異もなく予想できるし、千年後の冬至夏至も座して予測ができること。月と火水木金の五つの星とはそれぞれ別の世界であると考えることでよく理解できること。こうしたことが名物器数の窮理である。

 

(3)朱子学における窮理

(漢文)

窮仁義道徳之理而極其至、可以進于賢于聖、窮名物器数之理、而研其精、究止於識近之不賢者、斯其軽重崇卑、固以穹淵判、人不可不審所祈嚮也、大學之教、自格致而誠正修斉治平、格致所以資誠正修斉治平、可見其一一本諸身、而非泛然格一草一木也、

 

仁義道徳の理を窮めて其の至るを極むれば、以て賢に聖に進むべし。名物器数の理を窮めて其の精(くはし)きを研(みが)けど、識小の賢者に究(をは)り止(とど)まる。斯(ここ)に其の軽重崇卑、固(もと)より穹淵を以て判(わ)かれ、人祈嚮(キキョウ)する所を審(つまび)らかにせざるべからざるなり。

大學の教へ、格致によりて誠正修斉治平をなす。格致の誠正修斉治平を資(たす)く所以(ゆゑん)は其の一一(いちいち)(これ)を身に本づき見るべくして、泛然(ハンゼン)として、一草一木を格(きは)むるに非ざるなり。

(語釈)

穹淵(天と地、天と地ほどの違い) 祈嚮(キキョウ)(求めて心をよせる) 格致格物致知) 誠正修斉治平(誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下) (自分自身、自分の心) 見る(理解する、悟る) 泛然(ハンゼン)(ぼんやりと、漠然と、あいまいに)

 

(現代語訳)

 仁義道徳の理を徹底的に窮めれば賢人や聖人になれるだろう。名物器数の理を窮めて事物にくわしくなっても見識の狭い不賢者になるに止まる。その軽重尊卑は当然天と地ほどもかけ離れているが、人は求めて心を寄せる所を明らかにせざるを得ない。

 (朱子学聖典である)「大学」の教えでは「格物致知」により「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国家」「平天下」をなす。「格物致知」が「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国家」「平天下」に資する理由は、それら一つ一つを自分の心に基づいて理解できるようになるからであって、漠然と一木一草について探究するからではない。

 

(4)聖賢の窮理

(漢文)

武王既受師尚父丹書之訓、退而於机鑑盥盤楹杖之属咸有銘、取其效用之義以自警焉、即仁義道徳之窮理也、孔夫子甞曰、驥不称其力、稱其徳也、借驥以評君子之徳也、歳寒然後知松柏之後彫、借松柏以彰志士之操也、屡称乎水曰、水哉水哉、借水以形容行之有本也、孟子論牛山之木、論桐梓稊稗之理、皆所以発明人之心性也、易六十四卦、莫非把物理以反求諸己、凡経傳中聖賢之窮理、類斯理也、

 

(読み下し文)

武王既に師尚父に丹書の訓(をしへ)を受け、退きて机鑑盥盤楹杖の属(たぐひ)に咸(みな)銘を有す。其の效用の義を取り以て自警す。即ち仁義道徳の窮理なり。孔夫子甞て曰く、驥(キ)其の力を称(たた)へず、其の徳を称(たた)ふなりと[i]。驥を借り以て君子の徳を評すなり。歳(とし)寒く然る後松柏の彫(しぼ)むに後るるを知ると、松柏を借り以て志士の操(みさお)を彰(あらは)すなり。屡(しばしば)水を称(たた)へて曰く、水なる哉(かな)水なる哉(かな)と。水を借り以て行(おこな)ひの本有るを形容するなり。孟子牛山之木(ギュウザンシボク)※1を論じ、桐梓稊稗(ドウシテイハイ)の理※2を論ず。皆人の心性を発明する所以(ゆゑん)なり。易六十四卦、物理を把(にぎ)り以て諸(これ)を己(おのれ)に反求するに非ざるは莫し。凡(およ)そ経傳中、聖賢の窮理、類(おほむね)(こ)の理なり。

 

(語釈)

師尚父(文王の師である太公望呂尚) 丹書(上古の道を記した書) (意味) 取る(理解する) 自警(自戒) 孔夫子孔子) (キ)(名馬の名) 借る(仮託する) 発明(よくわからなかったことを明らかにすること) 物理(物事の道理、性質) 反求(事の原因を自分の側に求めること) 経傳(経書とその注釈書)

 

(現代語訳)

 武王は太公望から上古の道を記した丹書の教えを受け、退出してから机、鑑、盥盤(手洗いの器)楹(柱)、杖などにすべてこれを刻み、その意味を理解し自らの戒めとした。これが仁義道徳の窮理である。

 孔子は嘗てこのようにおっしゃった「驥(キ)という名馬はその脚力を賞賛されているのではない。その徳や気品を賞賛されているのだ」と。驥(キ)に仮託して君子の徳を説明しているのだ。「寒さの厳しい年にはじめて松と柏の葉が他の樹木よりも遅れて枯れ落ちることがわかるのだ」と。松や柏に仮託して志ある者の決心の固さ表しているのだ。しばしば水を称えてこのようにおっしゃる「水なるかな、水なるかな」と。水に仮託して行為に根源があることのすばらしさを説明しているのだ。孟子は牛山之木※1を論ずる。また桐梓稊(ドウシテイハイ)稗(ハイ)※2の理を論ずる。

 これらは皆人の心性を明らかにするためのものである。 易経の六十四卦は物の道理をすべてわが身に求めてつかむ。すべて経書とその注釈書の中の聖賢の窮理はほぼこの理である。

 

※1 牛山之木孟子‐告子章句上編より)

牛山は、都の近くにあることから、樹木が伐採され、さらに牛羊を放牧したことで、ハゲ山になり、植物を育む力を失ったかのように見える。しかし、静かな夜気の中で、山に植物は芽生えている。 このように、人間の善なる本性、それ自体も、後天的な要素によって覆い隠され、まるで、初めから無いように感じられることがあっても、それは、一時的な現象で、本質そのものは、決して損なわれたり、失われたりすることはない。本性は、完全無欠なるものとして、厳然と存在し続ける、

 

※2 桐梓孟子 告子章句上編より)

孟子は言う。
「一抱えの桐(きり)や梓(あずさ)の苗がある。人はこれを生長させようと思ったならば、誰でもその育て方を知っている。しかし自分の身になると、その育

て方を知らない。まさか自分の身が桐や梓よりも大事でないはずがないだろう。思慮がないにも、程がある。」

 

(5)名物器数の窮理軽視による弊害

(漢文)

獨醫卜工匠之輩、則規規於名物器数之末、以畢一生、彼其術之賤、固不得以此為恥也、太西人之窮理、亦復外心身家國、而務苦索事物之理、臻其穾奥、是以其人大都頑獷猾、牟利忘義、君子之所不韙也、顧古昔聖王之窮理、重仁義道徳、而亦未始外名物器数、尭命羲和暦象日月星辰、夔典楽、益掌山澤草木、皆因其所長而任之、降乎周猶存斯意、司天之官以至輪輿鳬栗廛倉龜筮、咸世其職、疇其禄、欲其専而精也、君相機務之殷、固不暇窮究事理器数、故聖王不過己洞其大旨必選才力克堪者任之、是以其事修擧、自濟世大用、唐虞三代皞皞之俗、而百度整飭無滲漏者、職是故也、魏晋以降、夫人識見日馳乎虚遠、不屑究名物之末、宋代理学大明、而後斯風滋熾、尚理道而鄙事務、主形而上而斥形而下、其君子唱率斯説、下民靡然従風、斯其意固在恪遵先王之遺意、而不自覚流乎一偏、滋弊不尠、於是乎遂至目本邦爲専張主理道之邦、而暦数名物甘遜太西、可概也已、

 

(読み下し文)

獨り醫卜工匠の輩(やから)のみ名物器数の末の規規に則(のっと)り、以て一生を畢(をは)る。彼の其の術賤しけれど、固(もと)より此れを以て恥と為すを得ざるなり。太西人の窮理、亦復(また)心身家國を外(はず)れ、事物の理を苦索するに務め、其の穾奥(ヨウオク)に臻(いた)る。是以(このゆゑ)に其の人大都(タイト)頑獷(ガンコウ)、猾(カツケツ)、牟利(ボウリ)、忘義にして、君子の韙(よし)とせざる所なり。古昔(コセキ)の聖王の窮理を顧みれば、仁義道徳を重んずれども、亦未だ始めから名物器数を外さず。尭、羲和(ギワ)に暦象日月星辰を、夔(キ)に典楽を、益(エキ)に山澤草木を掌(つかさど)ることを命ず。皆其の長ずる所に因りて之を任せ、周に降(くだ)り猶ほ斯の意を存(たも)つ。司天の官より輪輿、鳬栗、廛倉、龜筮(キゼイ)に至り、咸(みな)其の職を世(よよ)にし、其の禄に疇(むく)ひ、其の専(もっぱ)らにして精(くは)しからんと欲するなり。君相の機務(キム)(おほ)く、固(もと)より事理器数を窮究する暇(いとま)あらず。故(ゆゑ)に聖王己(おのれ)は其の大旨を洞(みとほ)すに過ぎず必ず才力(サイリョク)(よ)く堪(た)ふ者を選び之を任(まか)す。是以(これゆゑ)其の事修擧(シュウキョ)す。濟世の大用に自(よ)り、唐虞三代皞皞(コウコウ)の俗(ならはし)、而して百度整飭(セイチョク)し滲漏(シンロウ)無きは、職(もっぱ)ら是の故(ゆゑ)なり。魏晋以降、夫れ人の識見(シキケン)(ひび)虚遠に馳せ、名物の末を究むるを屑(いさぎよし)とせず。宋代の理学、大ひに明らかになりて後、斯の風滋(ますます)(さかん)にして、理道を尚(たっと)びて事務を鄙(いやし)み、形而上を主(たっと)びて形而下を斥(しりぞ)く。其れ君子斯の説を唱(とな)へ率(ひき)ひ、下民靡然(ビゼン)として風に従ふ。斯れ其の意(こころ)(もと)より先王の遺意を恪遵(カクジュン)するに在り。而して一偏(イッペン)に流るるを自覚せず、滋(ますます)(ヘイ)(すく)なからず。是に於て遂に本邦を目するに専ら理道を張主するの邦と爲るに至る。而して暦数名物太西に甘んじて遜(ゆず)る。概(なげ)くべきなるのみ。

(語釈)

規規(細かい物のさま) 穾奥(ヨウオク)(深遠な境地) 大都(タイト)(おおむね) 頑獷(ガンコウ)(かたくなで手ごわい) 猾(カツケツ)(悪賢い) 牟利(ボウリ)(欲張り) 世(よよ)にし(代々受け継ぎ)  君相(君主と宰相) 機務(キム)(重要な政務) 才力(サイリョク)(知恵の働き 才能)         修擧(シュウキョ)(立派におさまること) 濟世(世を救う) 大用(大いなる任用) 唐虞尭・舜)          三代(夏・殷・周の三王朝) 皞皞(コウコウ)(心が広くゆったりしている) 百度(種々の制度)    整飭(セイチョク)(整う) 滲漏(シンロウ)(手ぬかり) 名物(物の名前と形状) 靡然(ビゼン)(靡くように) 恪遵(カクジュン)(つつしみ従う) 一偏(イッペン)(一方に偏っていること) 暦数名物天文学、物理学)

 

(現代語訳)

 ただ医者、占師、大工、職人らは名物器数の細かなことにこだわり、それで一生を終わる。彼らの技術は卑しいとされるが、もちろんそれを恥と考える必要はない。西洋人の窮理も正心、終身、斉家、治国という聖人への道とは関係なく事物の理を苦労して追求し、その深遠な境地に至るのである。このためこれらの人はおおむね、かたくなで手ごわく、悪賢く欲張りで亡義であるとして、儒教的君子の見地からは良く見られないのである。

 昔の聖王の窮理を見てみると仁義道徳の窮理を重んじていたが、また名物器数の窮理も外してはいない。古代中国の聖王尭は義和(ギワ)に天文を、夔(キ)に音楽を、益(エキ)に鉱物や植物を管理することを命じた。それぞれの得意とするところに任せ、周王朝になってもそれは変わらなかった。天文を司る役人から物作りの職人や占師に至るまで、皆その職を代々受け継ぎ、その俸給に報いようと専門性を高めることに努めた。君主や宰相には重要な政務が多く、こうした事物の道理や器械や歴法を研究する余裕はなかった。このため聖王自身は概略を見るだけで、必ず才能の有る者を選び任せた。このためこれらの事柄は立派に修まった。こうした世を救う大いなる任用による尭・舜や夏・殷・周王朝の寛容な文化には、種々の制度が整っていて手抜かりがなかったが、それはもっぱらこのためだった。

後漢滅亡後の)魏や晋の時代以降は人々の思想は次第に空虚な方向に向かい、事物の細々したことの研究を重視しなくなっていった。宋代に朱子学が完成した後はこの傾向はますます強まり、道理を尊重するけれど事務は軽視する、抽象的な形而上のことは重視するが、具体的な形而下のことは斥けるようになった。君子がこの説を主導して、下々の民は靡くようにこれに従った。その趣旨は古代の聖王の意思を尊重することにあったが、一方に偏っていることを自覚していなかったので、弊害が大きかった。このため中国は専ら道理ばかりを主張する国と見られるようになった。一方で天文学や物理学では西洋に後れを取った。嘆かわしいことだ。

 

(6)名物器数の研究は朱子学流の窮理にもつらなり、武器の研究ともなれば最優先事項である

輓近太西船艦之制益堅大、銃礮之術滋錬習、国勢由是日盛強、就中英機黎俄羅斯爲最陸梁、呑噬四代洲、遂及亜細亜諸国、至與満漢交鋒鏑、駸々乎有舐糠及米之勢、夫太西人焦神役智、製奇器珍玩、以悦人心目、洵可鄙、至船銃諸軍器極其精妙、則奚可不倣傚、矧本邦人物智勇甲於萬國、特以其棄而不講、致效先我著鞭、衡行乎六大洲、可恥之極也、人主君臨一国、必蔽遮其民、使不罹芟夷之懆、方称民之父母、今天竺呂宋及海南諸国王、任太西人蹂躙、而夷之抑遏、與自斬伐之、相距一間、不仁甚矣、殷鑒不遠、其韋而未遭太西之𧙥者、當亟議防禦之方、防禦之利器、船銃爲最、則船銃不可不務研究也、名物器數爲窮理之末固也、至於船銃諸軍器、則衛民之具、君之仁不仁所由判、當上下一意講明如忠孝之大節、然後始可以扞國庇民矣、世之俗吏武夫、類乏遠識、儒先動流於拘迂、無是與語、嗟嗟今代誰能晰達天人之際者、而與之論窮理之至要哉、

 

 

(読み下し文)

輓近(バンキン)太西、船艦の制(つくり)(ますます)堅大にして、銃礮(ジュウホウ)の術滋(ますます)錬習し、国勢是れに由り日(ひび)盛強なり。就中(なかんずく)英機黎(イギリス)・俄羅斯(オロシャ)最も陸梁(リクリョウ)爲り。四代洲を呑噬(ドンゼイ)し、遂に亜細亜(アジア)諸国に及び、満漢と鋒鏑(ホウテキ)を交(まじ)ふるに至る。駸々(シンシン)と舐糠及米(シコウキュウマイ)の勢ひ有り、夫れ太西人焦神(ショウシン)し智を役(つか)ひ、奇器珍玩を製(つく)り、以て人の心目を悦(よろこ)ばす。洵(まこと)に鄙(いやし)むべし。船銃諸軍器に至り其の精妙を極むれば、則ち奚(なん)ぞ倣傚(ホウコウ)せざるべし。矧(いはん)や本邦人物智勇萬國に甲(まさ)る。特(ただ)其の棄(うとんじ)て講(なら)はざるを以て彼、我に先んじ著鞭(チャクベン)するに致り、六大洲を衡行(コウコウ)す。恥ずべきの極(きはみ)なり。人主一国に君臨し、必ず其の民を蔽遮し芟夷(サンイ)の懆(うれひ)に罹(かか)ざらしめば、方(まさ)に民の父母と称(たた)ふべし。今天竺・呂宋(ルソン)及び海南諸国王、太西に人の蹂躙を任す。而して夷(えびす)の抑遏(ヨクアツ)と自ら之を斬伐(ザンバツ)することと相距(へだ)つること一間(イッケン)。不仁なること甚(はなはだ)しきかな。殷鑒(インカン)遠からず。其れ幸(さいはひ)に未だ太西の(トウ)に遭はざる者は、當(まさ)に亟(すみやか)に防禦の方(てだて)を議し、防禦の利器、船銃を最(もっと)もと爲すべし。則ち船銃研究に務めざるべからざるなり。名物器數窮理の末を爲すこと固(もと)よりなり。船銃諸軍器に至れば、則ち衛民の具、君の仁不仁を判(わ)く所由(ショユウ)にして、當(まさ)に上下一意講明すべきこと忠孝の大節(タイセツ)の如し。然る後始めて國を扞(ふせ)ぎ民を庇(かば)ふことを以てすべきなり。世の俗吏(ゾクリ)武夫(ブフ)、類(みな)遠識(エンシキ)に乏しく、儒先、拘迂に動流し、與(とも)に語ること是れ無し。嗟嗟(ああ)今代誰か能く天人の際を晰達せば、之と窮理の至要を論ずるかな。

(語釈)

輓近(バンキン)(最近) 堅大(強く大きい)  銃礮(ジュウホウ)(銃や大砲)  陸梁(リクリョウ)(暴れまわる様) 鋒鏑(ホウテキ)(武器) 駸々(シンシン)(早々と どんどんと) 舐糠及米(シコウキュウマイ)(糠を舐め尽くせば米を食うに至る、次第次第に害が及ぶこと)焦神(ショウシン)(苦心) 奇器珍玩(珍しい器具やおもちゃ) 倣傚(ホウコウ)(習いまねる) 著鞭(チャクベン)(着手) 衡行(コウコウ)(勝手気ままに振る舞う) 蔽遮(守る) 芟夷(サンイ)(刈り除くこと) 殷鑒(インカン)(戒めとすべき失敗の前例) (トウ)(短い袖の衣) 所由(ショユウ)(根拠) 大節(タイセツ)(重要な事項) 俗吏(ゾクリ)(役人) 武夫(ブフ)(軍人)、遠識(エンシキ)(優れた見識) 儒先(年長の学者 儒者) 拘迂(偏狭で実情を知らず役立たず) 天人の際(天道と人道の関係) 晰達(理解)

 

 

(現代語訳)

 最近、西洋諸国は艦船の構造がますます強く大きくなり、銃や大砲の技術もますます向上し、国勢はこれによって日々強くなっている。特にイギリスとロシアが最も暴れまわり、四大陸を侵略し、遂にアジアにも及び、清と交戦するに至っている。じりじりと侵略の範囲を広げるような勢いがある。

 そもそも西洋人は苦心して知力を使い、珍しい器具やおもちゃを作って人の目を喜ばそうとする。こんなことは下らないことだが、船や銃器などの武器については極めて精巧であり、これは是非習いまねるべきである。わが国は人や物や知力や勇気では万国に優っているのに、こうした技術を軽視して学ばなかったために、西洋諸国が我々に先んじて着手し、世界中で勝手気ままに振る舞うようになった。極めて恥ずべきことである。

 君主が一国に君臨して、必ずその国の民を侵略から守り心配のないようにすれば、まさに民の父母として称えられるだろう。しかし現在、インド、ルソンや海南諸国の王は西洋が人民を蹂躙するに任せている。外国が民を抑圧することと国王自らが民を切り殺すこととはほとんど同じで、甚だしく不仁である。教訓とすべき失敗の前例がこのように身近にある。

 幸いにも未だ西洋人と遭遇していないのであれば速やかに防禦手段を議論し防禦の武器、船や銃の準備を最優先にすべきである。つまり船や銃の研究に務めなければならない。こうした名物器数の研究が朱子学流の窮理につらなることはもちろんであるし、ましてや船や銃や武器ともなれば民を守る道具であり、君主の仁と不仁とを分けるものであり、まさに上も下も一心にこれを研究すべきであることは忠孝のような朱子学の重要事項と同じである。世の中の小役人や軍人は皆見識に乏しく、儒者は偏狭であったり世間知らずの役立たずであったりして、共に語れるような人間がいない。ああ、現在誰か天道と人道の関係を理解できている者がいれば、この人と窮理の重要性について議論するのに。