殷鑒論は1814年、侗庵27才頃の論文です。殷鑒とは教訓とすべき他人の失敗の事例というような意味で、「他山の石」とか「人の振り見て我が振り直せ」と同じような意味です。元々の意味は中国古代殷王朝の人たちが前代の夏王朝が政治の失敗で滅びたことを鑑(かがみ)として戒めたことに由来します。侗庵がここで失敗の事例として見ているのは中国です。これが書かれたときは1840年のアヘン戦争より随分前ですので、侗庵が中国の失敗として見ているのは兵器の近代化に遅れたといったことではなく、もっと根本的な、中国の自己中心的な考え方とか、他国を見下す傲慢さといったことです。
なお原文は国立国会図書館デジタルアーカイブ(請求番号827-36)に基づいています。なお侗庵は「中国」(世界の中心の国)「中華」(世界の中心にある高度な文化)という言葉を嫌い、殷鑒論では中国のことを「斉州」中国人のことを「唐人」と言っていますので、現代語訳ではそのニュアンスを生かすために中国を「斉州(中国)」中国人は「唐人(中国人)」と表記しました。
目次
- 序(この論で言おうとすること)
- 一(中国だけを偉いと思い込み他国を見下す傲慢さ)
- 二(聖人は中国にだけいるわけではない)
- 三(王位簒奪の残虐非道さについて)
- 四(夏、殷、周三代は全く理想の時代などではない)
- 五(中国の刑罰の残忍さと仁治の難しさ)
- 六(中国の無知で傲慢不遜なこと)
- 七(無意味な儀礼やばかばかしい迷信へのこだわり)
- 八(瑞祥や迷信をありがたがる愚かさ)
- 九(異民族を軽蔑しながらそれより劣る中国人)
- 十(女性による災いのすさまじさ)
序(この論で言おうとすること)
(漢文)
邦人質、政従而質、唐人文、政従而文、文之敝也偽、質之敝也俚、文敝至於偽、可憂、偽之更敝、敝不可救也、唐人之文、漢魏而降、其大敝乎、民澆浮而無実、政苛細而鮮仁、其流弊有不忍言者、輓近世太平日久、人心惰偸教令益煩、而俗尚益汚、督責愈密、而諸政愈替、頗似文之敝、識者憂之、然予甞静而察之、大抵出於俗吏小人、昇平多暇、増加虚文、修飾浮辞、以風靡一世、煩絮細苛、誠可厭、然其實皆施于事爲之末、其質之質者自若也、未至如唐之文敝、淪肌而浹髄苟有其人出而治之、不出三年、而積弊可祛也、予所最慮者、世之儒先、自幼迄老、沈酣唐人之書、阿其所好、而不覚其敝、政出于此、則卑以爲不足視、事出于彼、則嘆以爲不可及、幸不遭時耳、使之異日得志、以平日之所学所志、施于有政、不察時勢、不審事宜、欲以唐人文具無実之治、治当今浮薄之俗、是以水灣水、助桀爲虐也、即不得志、播揚其説、以誨人導世、其流禍何所不至、是可懼也、古之聖人、禮従宜、使従俗、生于斯邦、行斯政、必應因俗設教、損益古制、以成一代之盛治、豈汲々乎傚彼哉、予有見於此作殷鑒論十篇、以諗学者、予性骯髒、言毎過於激、此論近於裂眦罵詈、蓋性習之失、不能自掩、覧者諒焉可也、方今文教清明、自称爲夷、目彼爲中華中國之非、人或辨之、是也、然此尚其末者耳、故予舎旃、而獨於政化民風、尤致意焉、顧此論専諭学者、故惟論唐人之失、而未及本邦、本邦仁政禮俗、即度越齊州萬々、其損益因革之宜、亦多可言者、將俟異日而論之、殷鑒不遠之語、詩取時代近者、以爲炯戒、予則借以指本邦與齊州、地不相遠云、
(読み下し文)
邦人質なり。政(まつりごと)従ひて質なり。唐人文なり。政(まつりごと)従ひて文なり。文の敝(おとろ)ふや偽となり。質の敝(おとろ)ふや俚(リ)となる。文敝(おとろ)へ偽に至るは憂ふべし、偽の更に敝(おとろ)ふれば、敝(おとろ)へ救ふべからざるなり。
唐人の文、漢魏而降(ジコウ)、其れ大いに敝(おとろ)ふ。民澆浮(ギョウフ)にして実無く、政苛細(カサイ)にして仁鮮(すくな)し。其の流弊(リュウヘイ)言ふに忍びざる者有り。
輓近(バンキン)世に太平の日久しく、人心惰偸(ダトウ)にして教令益(ますます)煩(わづらは)し。而(しか)も俗尚(ゾクショウ)益(ますます)汚(けがらは)し。督責(トクセキ)愈(いよいよ)密(こまか)なれど諸政愈(いよいよ)替(すた)る。頗(すこぶ)る文の敝(おとろ)ふに似る。識者之(これ)を憂ふ。然れども予甞(かつ)て静かに之を察(み)れば、大抵(タイテイ)俗吏小人より出づ。昇平にして暇多く、虚文を増加さす。浮辞(フジ)を修飾し、以て一世を風靡す。煩絮細苛(ハンジョサイカ)、誠に厭(いと)ふべし。然れど其の實(ジツ)皆事爲(ジイ)の末に施す。其の質の質たるは自若(ジジャク)なり。未だ唐の文の敝(やぶ)るることの如きには至らざれば、淪肌(リンキ)而浹髄(ショウズイ)たり。苟(いやしく)も其れ人出て之を治さんとすること有らば、三年を出ずして積弊祛(はら)ふべきなり。
予の最も慮(おもんばか)る所は、世の儒先(ジュセン)幼きより老ふる迄、唐人の書に沈酣(チンカン)し、其の好む所に阿(おもね)りて、其の敝(おとろ)ふを覚へず。政(まつりごと)此(ここ)より出れば、則ち卑(いや)しみ以て視るに足らざると爲し、事(こと)彼(あれ)より出れば、則ち嘆き以て及ぶべからざると爲す。時に遭(あ)はざるを幸(さひはひ)とするのみ。使之(もしこれ)異日志を得、平日の学ぶ所志す所を以て有政(ユウセイ)に施し、時勢を察(み)ず、事の宜しきを審(つまびらか)にせず、唐人の文具無実の治を以て当今の浮薄の俗(ならはし)を治さんと欲さば、是れ水を以て水を灣(ま)げ、桀(ケツ)を助け虐(ギャク)を爲すなり。即(も)し志を得ず、其の説を播揚(ハヨウ)し、以て人に誨(おし)へ世を導かんとせば、其の流禍何の至らざる所かあらん。是れ懼るべきなり。古(いにしへ)の聖人、「禮は宜(よろ)しきに従がひ、使(つかひ)しては俗(ならはし)に従ふ」とす。斯(かか)る邦に生れ、斯(かか)る政(まつりごと)を行はんとせば、必ず應(まさ)に俗(ならはし)に因(よ)り教を設(まう)け、古制(コセイ)を損益し、以て一代の盛治を成すべし。豈(あに)汲々として彼に傚(なら)ふや。
予に見有り、此(ここ)に殷鑒論十篇を作(な)し、以て学者に諗(つ)ぐ。予の性骯髒(コウソウ)にして、言毎(つね)に激に過ぐ。此の論裂眦(レツセツ)罵詈(バリ)に近し。蓋(けだ)し性習の失(あやまち)、自ら掩(ただす)こと能(あた)はず。覧者(ランシャ)焉(これ)を諒(よし)とせば可也(かなり)。
方今文教清明ならば、自ら夷為りと称し、彼は中華中國為りと目するの非(あやまち)、人或(ある)いは之(これ)を是と辨(わきま)ふや。然れども此れ尚(なほ)其の末の者なり。故に予旃(これ)を舎(お)きて獨(た)だ政化民風に尤(もっとも)意を致すのみ。顧(かへりみ)れば此論専ら学者を諭(さと)す。故に惟(ただ)唐人の失(あやまち)を論じて未だ本邦に及ばず。本邦の仁政禮俗(レイゾク)、即ち齊州に萬々(バンバン)度越す。其の損益、革(あらた)むるの宜(よろ)しきに因る。亦多く言ふべき者は將(まさ)に異日之(これ)を論ずるを俟つべし。殷鑒遠からずの語、詩、時代近きを取り以て炯戒(ケイカイ)と爲(な)す。予則ち本邦と齊州と地相遠からずを指すを以て借りて云ふ。
(語釈)
質(質素、素直で飾り気がない) 文(外観をかざること) 俚(リ)(いやしく鄙びていること) 文(学問、文化)、澆浮(ギョウフ)(軽薄 情が薄く實がない) 苛細(カサイ)(細かく煩わしい) 流弊(リュウヘイ)(昔からの弊害) 輓近(バンキン)(ちかごろ) 惰偸(ダトウ)(怠惰で軽薄)俗尚(ゾクショウ)(世俗の風潮) 督責(トクセキ)(責めたてること) 昇平(平和) 虚文(実用を離れた無用の文) 浮辞(フジ)(中身のない言葉 虚飾の言葉) 風靡(風に草が靡くように皆が従うこと) 煩絮細苛(ハンジョサイカ)(くどく煩わしいこと) 事爲(じゐ)(しわざ、行い、為すべきこと、仕事) 自若(ジジャク)(従来通り) 淪肌浹髄(リンキショウズイ)(感銘の深いこと)沈酣(チンカン)(心酔) 有政(ユウセイ)(政治) 文具無実(かざりを備えるが実態の無い) 桀(ケツ)を助け虐(ギャク)を爲す(悪人と結んで悪事をなすこと) 播揚(ハヨウ)(広げる)「禮は宜(よろ)しきに従(したが)ひ、使(つかひ)しては俗(ならはし)に従ふ」(礼を行うには時と場合により程よく行うべきで、あたかも他国の使者を務める人が行った先の国の風習に程よく従うようなものである) 古制(コセイ)(古いしきたり) 損益(調整する) 骯髒(コウソウ)(直を好んで志を得ない) 裂眦(レツセツ)(まなじりを裂く、激しく怒ること) 覧者(ランシャ)(見る人) 文教(学問の教え) 仁政(ジンセイ)(慈しみのある政治) 禮俗(レイゾク)(風俗習慣) 損益(失敗と成功) 殷鑒遠からず(殷人の戒めの鑑とすべきは近い時代の夏の世の滅亡である) 詩(詩経) 炯戒(ケイカイ)(明らかな戒め)
(現代語訳)
日本人は質(質素で飾り気がない)である。政治も従って質である。中国人は文(外観を飾り見栄え重視)である。政治も従って文である。文が衰えると偽となり、質が衰えると俚(鄙びて下品)となる。文がおとろえて偽に至るのは憂うべきことである。偽はさらに衰えるので、衰えは救いがたいことである。中国人の文は漢・魏以降大いに衰えた。民は軽薄で中身が無く、政治は細かく煩わしいが真心がなかった。その弊害は口にするのがはばかられるほどである。
近年わが国は太平の時代が長く続いたので、人の心は怠惰で軽薄だし、法令はますます煩わしくなった。しかも世俗の風潮はますます汚らわしくなった。細かに責め立て責任を追及するけれど政治は退廃している。中国で文が衰えたのに似ている。識者はこれを憂いている。しかしよく観察してみれば、この傾向はたいてい小役人から発生している。平和なので暇が多く、実用を離れた無用の文を増やし、中身のない言葉を飾って、それが広く流行した。くどくて煩わしく、まことに厭なことだが、実際にはそれは皆仕事の末の方でやっているにすぎない。質素なことは従来通りで、中国で文が衰えたのと同じようにはなっていない。仮に有能な人が出てくればこの傾向を治すのに三年もかからないだろう。
私が最も心配しているのは世の中の学者の老いも若きも中国の書物に心酔してそれにおもねり、中国の文化が衰えたことを知らないことである。日本の政治は卑しく見るべき所が無いと考え、中国の事柄にはとてもかなわないと考える。こんな人が政治にかかわっていなくて幸いだった。もし将来政治を行う地位に就いて、普段学んだことや志していることを政治で行おうとし、時勢を見ず、何が適当かを詳しく考えもせず、中国人の外見ばかりで中身のない政治手法で現在の軽薄な文化を治そうとするなら、それは水で水の流れを曲げようとすることや、悪人と結んで悪事を為すのと同じことである。政治を行う地位には就かなくても、その説を広げて人に教えて世の中を導こうとするなら、その害悪はあらゆるところに及ぶだろう。恐るべきことだ。昔の聖人は「礼を行うには時と場合に因り適切に行うべきで、それはあたかも他国の使者を務める人が派遣先の国の文化に適切に従うようなものである」と言った。その国に生まれそこで政治を行なおうとするなら、かならずその文化によって教えを設け、古くからのしきたりを調整して、それにより政治を盛んにすべきである。何で中国のまねをすることに汲々とする必要があろうか。
私は自分の見解により、ここに殷鑒論十篇を発表し学生に与える。私は頑固で言葉はいつも過激だ。論文は激しく怒っているかのようで悪口に近い。これは自分の性質のあやまちは自分で治すことは難しいためで、見る人がこれを良しとすればまあ良いだろう。
もし学問の教えが清く明らかならば、自分たちは野蛮人であちらは中華中國であると思い込むのは誤りであることを素直に理解できるようになるかもしれない。しかしそれはまだ将来の事だろう。それゆえ私はこのことはとりあえず置いて、政治教化や文化のことについてだけとりわけ論じたい。この論は学生向けなので、中国の誤りを論じてわが国のことには言及しない。わが国の政治、制度、文化は中国より十分優れている。それは適切に改革を行ってきたからである。言いたいことは多くあるがそれはまた将来論じよう。
「殷鑒遠からず」(殷の人の戒めの鑑とすべきは近い時代の夏の世の滅亡である)という言葉は詩経が近い時代のことを取り上げて戒めの教訓としたものである。私はわが国と中国という近い場所のことを取り上げて同じことを言おうと思う。
一(中国だけを偉いと思い込み他国を見下す傲慢さ)
(漢文)
原夫天之所覆燾、地之所持載、日月之所臨照、霜露風雨之所沾被、凡夫含歯而載髪、円顧而方趾、誰非萬物之霊、誰非天心之所仁愛、華夏戎狄、鈞是人也、類也、庸詎可以自尊而相卑耶、然則詩曰、戎狄是膺、荊舒是懲、孔子曰、徴管仲、吾其被髪左衽矣、聖人何以汲々乎内夏外夷也、曰聖人承天而行者也、天既不有私愛於齊州、聖人焉得獨異乎、乃猶斷々然貴此而賎彼者、豈非以齊州者禮楽之所生、倫紀之所明、九夷八蛮所宣取準歟、蓋春秋雖季世、猶有先王之善政流風存焉、當時戎狄、聖人見聞之所及、僅々不過犬戎玁狁近塞之夷耳、犬戎玁狁、或父子聚麀、或兄弟相殺、習以成俗、恬不疑怪、比之齊州、迥乎不及、庸人猶判其優劣、況聖人乎、聖人庸詎預知数百千載之後、斎州反不及外国耶、又庸詎遠知天壌間、有如本邦神聖継承、政俗大度越齊州者耶、然則聖人貴斎州者、以其盡道而異於戎狄也、非以其居中州之地也、中州而三綱頽、九法淪、教替民厖、則中州亦戎狄而已、戎狄而三綱正、九法立、政擧俗美、則戎狄亦中州而已、故曰、孔子之作春秋也、諸候用夷禮則夷之、夷而進中国則中国之、唐人識見窄狭、夜郎自大、以爲宇宙之際、決無強大富贍、若我斎州者、未始知聖人夷夏之辨因時而發、是以抑外国大過、不比爲人類、多見其自陥於夏蟲坎蛙之見也、夫斎州風気中和、人性聡明、善産才賢、亦未易輕也、顧其治教清明、民風懿美、乃遠在三代之前、載籍缼、有間難得而詳、若夫秦漢而還、則倫理之悖、侵伐之繁、無以異於戎狄、習俗之澆、刑法之惨、翻有甚於戎狄、猶曉々然以中国禮義之邦自居、非顔之厚而何也、孔子曰、有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足観也已、假令斎州真有上古之善政美俗、其矜誇虚喝、凌轢外国如彼、終不容於孔子、矧俗非古之俗、政非古之政、而自驕驕人、曽不知耻、嗚呼其無義無礼甚矣、有人於此、高明之家、勲閥之曹、一旦淫蕩無頼、室如懸磬、手持壊椀、乞食于市、方且攘臂曰、吾家之勲如此、吾家之貴盛如此、汝焉敢抗我、則人有不笑之者乎、唐人之自大、奚以異乎此、
(読み下し文)
夫(そ)れ天の覆燾(フクトウ)する(おおい育てる)所、地の持載(ジサイ)する(保ちのせる)所、日月の臨照する所、霜露風雨の沾被(テンピ)する(うるおいが及ぶ)所を原(たづ)ぬれば、凡(およそ)夫れ含歯載髪(ガンシサイハツ)(歯を保ち髪を載せている、人間のこと)円顧方趾(エンコホウシ)(丸い頭と四角い足、人間のこと)、誰ぞ萬物の霊に非ざるか。誰ぞ天心の仁愛する(いつくしむ)所に非ざるか。華夏戎狄(カカジュウテキ)(中国も異民族も)、鈞(ひと)しく是(これ)人なり。類(たぐひ)(同類)なり。庸詎(いづくんぞ)自尊して(自分で偉がりうぬぼれて)相卑(いや)しむ(あなどる)を以てすべきか。
然れども則(すなは)ち詩(詩経)に曰く、「戎狄(ジュウテキ)(西戎と北狄)是(これ)膺(う)ち、荊舒(ケイジョ)(南方の蛮族)是(これ)懲(こ)らす」と。孔子曰く「管仲(中国春秋時代の斉の名宰相)徴(なか)りせば、吾其れ被髪左衽(ヒハツサジン)(ざんばら髪で着物を左前に着る戎狄の野蛮な風俗)ならん」と。聖人何ぞ以て内に夏(中華)、外に夷たることに汲々たる(あくせくする)や。曰く「聖人天を承(たす)けて行ふ者なり」と。天既に私愛(偏った愛し方、えこひいき)を齊州(中国)に有せず。聖人焉(いづくん)ぞ獨り異(こと)にするを得ん乎(か)。乃(すなは)ち(ところが)猶(なほ)斷々然、貴(たふと)きは此(これ)、而して賎(いや)きは彼(かれ)とするは、豈(あに)齊州は禮楽(文化)の生ずる所、倫紀(リンキ)(人倫)の明らかなる所、九夷八蛮は宜しく準(のり)(基準、手本)を取る(採用する)べき所と以てするに非ざらん歟(や)。
蓋(けだし)、春秋季(すゑ)の世と雖(いへど)も、猶(なほ)先王の善政、流風(リュウフウ)(先人の残した美風)焉(ここ)に存(たも)つこと有り。當時戎狄(ジュウテキ)、聖人見聞の及ぶ所、僅々犬戎玁狁(ケンジュウケンイン)(中国,陝西,山西,河北に居住し周と抗争した異民族。玁狁(けんいん)もその別名)近塞(国境に近い)の夷のみに過ぎず。犬戎玁狁(ケンジュウケンイン)、或は父子聚麀(シュウユウ)し(父子が牝を共にすること、男女に婚姻の礼がないこと)、或は兄弟相殺すを習(なら)ひ(習慣とし)以て俗(ならはし)と成し、恬(テン)として疑ひ怪しまず。之(これ)齊州に比べ迥(はるか)に及ばざるなり。庸人(凡人)猶(なほ)其の優劣を判(わ)く(区別する)。況(いはん)や聖人をや。
聖人庸詎(いづくんぞ)数百千載の後、斎州反(かへっ)て(逆に)外国に及ばざるを預り知らん耶(や)。又庸詎(いづくんぞ)遠く天壌(天と地)の間に本邦神聖を継承し政俗大いに齊州を度越するが如きこと有るを知らん耶(や)。然れば則ち聖人斎州を貴きとするは、其の道を盡(つく)して戎狄(ジュウテキ)に異なるを以てするなり。其の中州の地に居るを以てするに非ざるなり。中州而(しか)し三綱(サンコウ)(君臣、父子、夫婦の道徳)頽(くづ)れ、九法(天下を治めるための九つの大法)淪(しづ)み、教へ替(すた)れ民(たみ)厖(みだ)れば、則ち中州亦(また)戎狄(ジュウテキ)たる而已(のみ)。戎狄(ジュウテキ)而して三綱正しく、九法立ち、政(まつりごと)擧(あが)り(高まり)俗(ならはし)美(うるは)しからば、則ち戎狄(ジュウテキ)亦(また)中州たる而已(のみ)。故に曰く、孔子の春秋を作(な)す也(や)、諸候夷禮を用ふれば則ち之を夷とし、夷(えびす)而(よ)く中国に進(まさ)れば則ち之を中国とす。
唐人の識見窄狭(サクキョウ)、夜郎自大にして、以て宇宙(世界)の際(きは)(周辺)に強大富贍(フセン)(富んで豊かなこと)なること我が斎州の若(ごと)き者決して無しと爲す。未だ始めから聖人夷夏の辨(わきま)へ(区分)、時に因りて發(をこ)るを知らず。是以(これゆゑ)抑(そもそも)外国大過(タイカ)(度を超えて大きい)なれば、人類(じんるい)と爲(な)して(みなして)比べず、其の自ら夏蟲(カチュウ)(夏の虫は氷を知らず世事に疎いこと)坎蛙(カンア)(井の中の蛙のように視野が狭いこと)の見(ケン)に陥(おちい)るを多く見るなり。
夫れ斎州風気中和にして(かたよらず調和がとれていて)、人性聡明、善く才賢を産まば、亦未(いま)だ易(あなど)り輕(かろん)んぜざるなり。其の治教(政治と教化)清明にして、民風懿美(イビ)(うるわしい)なるを顧(かへりみ)ん。乃(すなは)ち(ところで)遠く三代(夏・殷・周の中国古代三王朝)の前に在れば、間有り、載籍(サイセキ)(書物への記載)缼(か)け、詳(くは)しきを而(もっ)て得難(えがた)し。若(も)し夫(そ)れ秦漢に還らば、則(すなは)ち倫理の悖(もと)ること(乱れていること)、侵伐の繁(しげ)きこと、戎狄(ジュウテキ)に異なるを以てすること無し。習俗の澆(うす)く(軽薄で)、刑法の惨(むご)きこと翻(かへっ)て戎狄(ジュウテキ)よりも甚(はななだ)しきこと有り。猶(なほ)曉々(ギョウギョウ)然として(巧みに弁じたてて)中国禮義(レイギ)の邦たるを以て自(みづか)ら居(を)る(自任する、気取る)は、顔の厚(あつ)きに非ず(あつかましくない)して何ぞや。孔子曰く、「周公の才の美(ビ)有るも、驕(おご)り且つ吝(やぶさか)ならしめば、其の餘りは観るに足らざるのみ(周公ほどの才能があったとしても、それに驕り他人の長所を認めないのであれば、もう見どころの無い人物だ)」と。假令(たとひ)斎州真(まこと)に上古の善政美俗を有すれども、其れ矜誇(キョウコ)(誇り)虚喝(キョカツ)し(虚勢をはり)、彼の如く外国と凌轢(リョウレキ)せば(争い合えば)、終(つひ)に孔子を容れず。矧(いはん)や俗(ならはし)、古(いにしへ)の俗に非ず、政(まつりごと)、古(いにしへ)の政に非ず。而して自(みづか)ら驕り人に驕らば、曽(すなは)ち耻(はぢ)を知らず。嗚呼(ああ)其の義無く礼無きこと甚しきかな。
此に人有り、高明(コウメイ)(富貴)の家、勲閥(勲功のある家柄)の曹(つかさ)(役人)なれど、一旦淫蕩(イントウ)無頼となれば、室、懸磬(ケンケイ)(磬という打楽器がぶら下がっているだけで何もないがらんどうの部屋)の如し。手に壊れた椀を持ち、市に食を乞ひ、方(まさ)に且(まさ)に臂(ひぢ)を攘(はら)ひて(腕まくりをして)曰く「吾家の勲(いさを)此(かく)の如し、吾家の貴盛(キセイ)(身分が高く盛んなこと)此(かく)の如し、汝(なんぢ)焉(いづくんぞ)敢て我に抗(あらが)ふか」と。則ち人之(これ)を笑はざる者有る乎(か)。唐人の自大(ジダイ)(自分で自分を偉いと思い尊大に振る舞うこと)たること、奚(いづくんぞ)以て此れと異なる乎(か)。
(語釈)
覆燾(フクトウ)(おおい育てる) 持載(ジサイ)(保ちのせる) 沾被(テンピ)(うるおいが及ぶ) 含歯載髪(ガンシサイハツ)(歯を保ち髪を載せている、人間のこと) 円顧方趾(エンコホウシ)(丸い頭と四角い足、人間のこと) 華夏戎狄(カカジュウテキ)(中国と異民族) 詩(詩経) 戎狄(ジュウテキ)(西戎と北狄)荊舒(ケイジョ)(南方の蛮族) 管仲(中国春秋時代の斉の名宰相) 被髪左衽(ヒハツサジン)(ざんばら髪で着物を左前に着る戎狄の野蛮な風俗) 夏(中華) 汲々(あくせくする) 私愛(偏った愛し方、えこひいき) 齊州(中国) 禮楽(礼節と音楽) 倫紀(リンキ)(人倫) 準(のり)(基準、手本) 流風(リュウフウ)(先人の残した美風) 犬戎(ケンジュウ)(中国,陝西,山西,河北に居住し周と抗争した異民族。玁狁(ケンイン)もその別名) 近塞(国境に近い) 父子聚麀(シュウユウ)(父子が牝を共にすること、男女に婚姻の礼がないこと) 庸人(凡人) 天壌(天と地) 三綱(サンコウ)(君臣、父子、夫婦の道徳) 九法(天下を治めるための九つの大法) 富贍(フセン)(富んで豊かなこと) 大過(タイカ)(度を超えて大きい) 夏蟲(カチュウ)(夏の虫は氷を知らず世事に疎いこと) 坎蛙(カンア)(井の中の蛙のように視野が狭いこと) 中和(かたよらず調和がとれている) 治教(政治と教化) 懿美(イビ)(うるわしい) 三代(夏・殷・周の中国古代三王朝) 載籍(サイセキ)(書物への記載) 曉々(ギョウギョウ)然(巧みに弁じたてて)
周公の才の美(ビ)有るも、驕(おご)り且つ吝(やぶさか)ならしめば、其の餘りは観るに足らざるのみ(周公ほどの才能があったとしても、それに驕り他人の長所を認めないのであれば、もう見どころの無い人物だ) 矜誇(キョウコ)(誇る) 虚喝(キョカツ)(虚勢をはる) 凌轢(リョウレキ)(争い合う) 高明(コウメイ)(富貴) 勲閥(勲功のある家柄) 曹(つかさ)(役人) 懸磬(ケンケイ)(磬という打楽器がぶら下がっているだけで何もないがらんどうの部屋) 貴盛(キセイ)(身分が高く盛んなこと) 自大(ジダイ)(自分で自分を偉いと思い尊大に振る舞うこと)
(現代語訳)
そもそも天が覆い育てている所、大地が載せている所、太陽や月が照らしている所、風や雨、霜や露がうるおしている所を見てみれば、そこにいる歯や髪、丸い頭と四角の足がある人間で萬物の霊でないものなどあるものか。天から愛されないものなどあるものか。中華も異民族も等しく人であり同類である。何で自分は偉いものだとうぬぼれて相手をあなどるのか。
しかし詩経にはこう書いてある「西の異民族と北の異民族を征伐し、南の異民族を懲らしめる」と。また孔子はこう言う「春秋時代の名宰相管仲がいなかったら、わたしはざんばら髪で着物を左前に着る異民族の野蛮な風習にそまっていただろう」と。聖人が何で中華と異民族の差別にあくせくしているのだろう。「聖人とは天を助けて行う者である」と言われている。天はすでに斉州(中国)を偏愛していない。何で聖人だけがこれと異なることができようか。ところが依然としてこちらは貴くてあちらは卑しいなどといって差別するのは、斉州(中国)は文化の生まれる所、人倫の明らかな所で、周辺の異民族の国はそれを手本にすべき所と考えているからではないのか。
春秋時代の末期であってもなお先王の善政や先人の残した美風が残っていて、当時の異民族といえば聖人が見聞したところではわずかに犬戎という国境近くの異民族だけだった。犬戎は父と子で女性を共有したり、兄弟で互いに殺し合うといったことを繰り返し行ないそれが習慣になっており、それを全く怪しむこともなかった。これは斉州(中国)と比べればはるかに劣ることだった。凡人ですらその優劣の判断はできたし、ましてや聖人には当然できた。
ところがその聖人は数百年、千年の後には斉州(中国)はかえって外国にかなわなくなっているのをどうして知り得ようか。また天と地の間に政治や文化で斉州(中国)より大幅に優れている日本のような存在があることをどうして知り得ようか。そうであれば聖人が斉州(中国)を貴いと考えたのは道徳が優れている点で異民族とは異なるからであって、黄河の流域である中州の地にあるからではない。しかし中州でも君臣、父子、夫婦の道徳が崩れ、統治のための法が崩れ、教えが廃れ、民が乱れればもはやそこに住んでいても野蛮人でしかない。異民族でも道徳が正しく行われ、法律が尊重され、政治が立派に行われ、文化がうるわしければ、もはや彼らが住んでいる所を中州と言うべきである。故に次のように言われる「孔子は春秋を作成し、諸侯が異民族の礼儀作法を行なえばこれを野蛮人とし、外国でも中国にまさればそれを中国とした」と。
唐人(中国人)は見識が狭く夜郎自大なので、「世界の周辺に我々斉州(中国)のような強大で豊かな国は決して存在しない」と考えていて、聖人の中華と野蛮の区別が時代により動くことを知らない。このため外国が度を超えて大きければそもそも人類として比べないなど、世事に疎く視野の狭い考えに陥ることを多く見てきた。そもそも斉州(中国)の文化が調和がとれていて、人も聡明で才能ある人や賢人を多く生んでいるのであれば、あなどられ軽んじられるようなことも無かっただろう。その政治は清く明るく、文化はうるわしいと思われただろう。ところで夏・殷・周の中国古代三王朝以前のことは書物への記載が無く詳しいことはわからないが、秦や漢の時代のことを見てみれば、倫理が乱れていること、戦争が多発していたことなど、異民族と同じである。文化は軽薄で刑法が残酷であったことなどかえって異民族よりひどいこともあった。これでもなお巧みに弁じたてて、中国は礼と義の国であると気取るのは厚かましい以外の何物でもない。孔子は「周公ほどの才能があったとしても、それに驕り他人の長所を認めないのであれば、もう見どころの無い人物だ」と言っている。たとえ斉州(中国)が古代に良い政治、うるわしい文化があったとしても、それを誇り、虚勢を張り、あのように外国と争い合えば結局孔子の言っていることとは相容れないこととなる。ましてや今の文化は古代の文化と同じではないし、政治も古代の政治とは同じではない。しかし自ら驕り人に対しても驕ればそれは恥を知らないということだ。ああ義も礼も無いこと甚だしい。
富貴や勲功のある家柄の役人だったが、一旦酒色に溺れ無頼となってしまい、部屋は何も無いがらんどうのようになり、手に壊れた椀を持ち市場で乞食をしている人がいる。それでも腕まくりをしてこう言うのだ「我が家の功績はこんなにすばらしく、我が家はこんなに身分が高くて栄えていたのだ。お前たちこの私に逆らうのか」と。これを見て笑わない人がいるものか。唐人(中国人)は自分で自分を偉いと思い尊大に振る舞っているが、これとどこが違うのか。
二(聖人は中国にだけいるわけではない)
(漢文)
嗚呼斉州之在六州、猶之黒子著面、而其産聖人何其多也、鴻荒之世、神聖継踵、及吾夫子、萬世宗師亡論已、春秋以降、藏武仲淳于髠竊聖人之號、韓子謂孟軻荀卿優入聖域、宋神宗称張子房為聖人、無取已、其膾炙人口者、三皇及五帝、及三王、及伝説、及周公太公、及伊尹之任、伯夷之清、柳下恵之和、擧皆生於斉州、而未甞有一聖人出于他国、此豈近乎人情哉、彼將謂斉州天地之中、霊秀之気所鍾、故能生聖人、則天地渾然元無中外之別、其與斉州天度同、風気侔者、屈指難罄、豈得斉州獨有聖人哉、儻謂斉州聖王馭世、文物禮楽、凡所以化誘斯民之具完然大備、故有以生聖人、則彼自古数々易姓、争奪無已、不暇施化他国、則往々君々臣々、治理清明、教具靡闕、豈得萬國絶不生聖人哉、蓋唐人崇尚其邦、如登諸天、抑下萬國、如墜諸淵、未甞遺余力、萬國無聖人之言、特出於唐人、其不足據信明矣、然則斉州有聖人、萬國亦有聖人、其聖也無別乎、曰其聖則一也、其所以為聖、則或不同、斉州之地、東南瀕海、居文明正位、百物富饒民智發開、文毎過其質、是以聖人出于斯地者、輝光發越、辞藻偉麗、加以後人推奨誇耀附益溢美之辞、卒然視之、若與他国聖人天淵懸殊、抑甞聞之、驥不稱其力、稱其徳、麟之所以為麟者、以徳不以形、吾意聖人之所以為聖、顧其徳如何耳、豈必以外之文、斷之優劣哉、我神武開天闢地、垂萬世之丕基、安寧懿徳諸帝、無為之治、不宰之功、崇神徳威光被、遠夷賓服、仁徳勞來輔翼、無一物不獲其所、天智経文緯武、同符神武、皆古聖人也、乃天下後世、咸被其覆載生成之澤、而人或不知其為聖、此尤聖徳之盛、所謂蕩々乎民無能名焉、帝之力於我何有者、倚歟休矣、不獨本邦為然、夫尭舜禅代、唐人嗟稱以為亘古無匹者、虞夏之後莫能踵行、踵行者不過莽操懿裕逆簒之徒、假以済其姦而已、而西洋意大里亜等國、自古皆就欧邏巴洲、遴選賢者、立以為君、然而禍乱不作、簒奪不萌、斯其美比之尭舜、不多譲焉、斷非唐人所能翹企萬一也、嗚呼萬國大矣遠矣、吾不能一一周知、即此一事、吾更有以知他国多聖人、而斉州少聖人矣、
(読み下し文)
嗚呼(ああ)斉州の六州に在ること、猶ほ之(これ)黒子(コクシ)の面(かほ)に著(つ)くがごとし。而して其の聖人を産むこと何ぞ其れ多かるや。鴻荒(コウコウ)の世、神聖継踵(ケイショウ)し、吾が夫子(フウシ)たる萬世の宗師に及ぶこと亡論(ムロン)なり。春秋以降、藏武仲(ゾウブチュウ)淳于髠(ジュンウコン)聖人の號(ゴウ)を竊(をか)す。韓子謂(いは)く、「孟軻(モウカ)荀卿(ジュンキョウ)聖域に優に入る」と。宋の神宗、張子房を称(たた)へ聖人と為し、取り已むこと無し。其の人口に膾炙(カイシャ)する者、三皇及び五帝、及び三王及び伝説、及び周公太公、及び伊尹(イイン)の任、伯夷(ハクイ)の清、柳下恵(リュウカケイ)の和。擧げて皆、斉州に生まれて未だ甞て一聖人も他国に出ること有らず。此れ豈(あに)人情に近きかな。彼將に謂はく「斉州天地の中にして、霊秀の気の鍾(あつ)むる所なる故(ゆゑ)に能く聖人生る」と。則ち天地渾然として元(はじめ)中外の別無し。其の斉州と天度の同じき、風気の侔(ひとし)き者、屈指罄(つ)き難し。豈(あに)斉州獨(ひと)り聖人の有るを得んや。儻(もし)斉州の聖王世を馭(をさ)め、文物禮楽凡(およ)そ以て斯の民を化(をし)へ誘(いざな)ふ所の具、完然にして大いに備はらり、故に以て聖人を生むこと有りと謂はば、則ち彼古(いにしへ)より数々姓を易(か)へ、争奪已(や)むこと無く、他国に化(をしへ)を施す暇あらず。則ち往々にして君々臣々、治理(チリ)清明(セイメイ)にして、教具闕(か)くところ靡(な)くば、豈(あに)萬國絶へて聖人を生まざるを得るや。蓋(けだ)し唐人其の邦を崇尚(シュウショウ)すること諸天に登るが如し。萬國を抑(おさ)へ下(くだ)すこと諸淵に墜(お)とし未だ甞て余力を遺(のこ)さざるが如し。萬國に聖人無しの言、特(た)だ唐人より出るのみ。其れ信明(シンメイ)に據(よ)るに足らざるなり。然れば則ち斉州に聖人有らば、萬國に亦た聖人有り。其の聖たるや別無し。曰く其の聖なること則ち一なれども、其の聖為る所以(ゆゑん)、則ち或いは同じからず。斉州の地、東南は海に瀕(そ)ひ、文明を正位に居(お)く。百物富饒(フギョウ)にして民智發開し、文(かざり)毎(つね)に其の質(まこと)に過ぐ。是以(それゆゑ)聖人斯の地に出る者は、輝光發越(ハツエツ)し、辞藻(ジソウ)偉麗(イレイ)なり。後人を以て加ふるに、誇耀(コヨウ)を推奨(スイショウ)し溢美(イツビ)の辞を附益(フエキ)す。卒然(ソツゼン)之を視(み)れば、他国の聖人と、天淵懸殊(ケンシュ)の若(ごと)し。抑(そもそも)甞て之を聞くならく「驥(キ)其の力を稱(たた)へず、其の徳を稱(たた)ふ、麟の麟為る所以(ゆゑん)は、徳を以てし形を以てせざるにあり」と。吾意(おも)ふに聖人の聖為る所以(ゆゑん)は、顧(かへりみ)て其の徳如何(いかん)のみ。豈(あに)必ずしも外の文(かざり)を以て之の優劣を斷ずるや。我が神武、天を開き地を闢(ひら)き、萬世の丕基(ヒキ)を垂(た)る。安寧、懿徳(イトク)の諸帝、無為の治、不宰の功なり。崇神徳威光被(コウヒ)し遠夷賓服(ヒンプク)す。仁徳勞來(ロウライ)し輔翼(ホヨク)す。一物として其の所に獲(と)らざるは無し。天智経文緯武(ケイブンイブ)なり。神武に同符(ドウフ)す。皆古(いにしへ)の聖人なり。乃(すなは)ち天下後世、咸(みな)其の覆載(フクサイ)生成の澤(めぐみ)を被(かうぶ)る。而(しか)して人或は其の聖為るを知らず。此れ尤(もっとも)聖徳の盛(さかり)なり。所謂(いはゆる)「蕩々(トウトウ)として民能(よ)く焉(これ)を名づくこと無く、帝の力我に何ぞ有る者か、倚歟(イヨ)休むなり」と。獨(ひと)り本邦のみ然(しか)為らず。
夫れ尭舜(ギョウシュン)の禅代、唐人嗟稱(サショウ)し、以て亘古(コウコ)匹(たぐひ)無き者と為す。虞夏(グカ)の後、踵行(ショウコウ)能(あたは)ず。踵行するは、莽操、懿裕逆簒(ギャクサン)の徒に過ぎず。假(もし)以て済(な)さば其れ姦(よこしま)なるのみ。而(しか)して西洋意大里亜(イタリア)等の國、古(いにしへ)より皆欧邏巴(ヨーロッパ)洲に就き、賢者を遴選(リンセン)し、立(たちどころ)に以て君と為す。然れども禍乱(カラン)を作(な)さず、簒奪を萌(きざ)さず。斯くして其の美(よ)きこと之(これ)を尭舜に比ぶれば、多くを譲らざるなり。斷じて唐人萬一も能(よ)く翹企(ギョウキ)する所に非ざるなり。
嗚呼(ああ)萬國大にして遠なり。吾一一(イチイチ)周知すること能(あた)はざるも、即ち此の一事、吾更に以て他国に聖人多く斉州に聖人少きを知ること有らんか。
(語釈)
六州(六大大陸、世界) 黒子(コクシ)(ほくろ) 鴻荒(コウコウ)(大昔) 亡論(ムロン)(言うまでもないこと) 藏武仲(ゾウブチュウ)(魯の大夫 魯公を威す) 淳于髠(ジュンウコン)(戦国、齋の人 弁舌に巧み) 韓子(韓愈)唐の文学者、思想家。 宋の神宗(北宋の第六代皇帝。財政再建のため王安石を登用して新法を実施した)張子房(張良、漢の劉邦の軍師) 人口に膾炙(カイシャ)(人々に知れ渡る)三皇及び五帝(中国古代の伝説上の帝王。三皇は伏羲、女媧、神農。五帝は黄帝、顓頊(センギョク)、帝嚳(テイコク)、帝堯 、帝舜) 三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三代の聖王) 太公(魯の始祖伯禽) 伊尹(イイン)の任(殷の賢相伊伊が天下の重任を自分一身に引き受けて力を尽くしたこと) 伯夷(ハクイ)(殷末周初の伝説上の人物。清廉な人間の代表とされる)柳下恵(リュウカケイ)(中国春秋時代の魯の大夫。賢人で度量が篤く、孟子に「聖の和」と評された)霊秀(すぐれた) 天度(天の度数 経度・緯度) 風気(風俗、気風)屈指罄(つ)き難(がた)し(十本では終わらない) 文物(法律・学問・芸術・宗教など、文化の発達によってできるもの) 禮楽(礼儀と音楽) 完然(欠点が無い)治理(チリ)(統治) 清明(セイメイ)(世の中が平和に治まっていること) 富饒(フギョウ)(富んで豊か) 質(まこと)(事実) 發越(ハツエツ)(盛んに発散する) 辞藻(ジソウ)(華やかに飾った文章) 偉麗(イレイ)(すぐれて美しい) 誇耀(コヨウ)(世間に見せびらかすこと)溢美(イツビ)(ほめ過ぎること) 附益(フエキ)す(付け加える) 卒然(ソツゼン)(突然) 天淵(天と淵、かけ離れていることの例え) 懸殊(ケンシュ)(非常に隔たっていること) 丕基(ヒキ)(天子の大事業の基礎)垂(た)る(ほどこす) 徳威(徳と威厳) 光被(コウヒ)(徳の光が広く世の中に行き渡る)賓服(ヒンプク)(来て従う) 勞來(ロウライ)(恵みを施して慕って来させる) 輔翼(ホヨク)(守り助ける) 経文緯武(ケイブンイブ)(文を経糸(たていと)、武を緯糸(よこいと)として国家を織りなす) 同符(ドウフ)(全く一致する) 覆載(フクサイ)(天地) 蕩々(トウトウ)(心が安らかでのんびりしていること) 禅代(禅定による代替わり) 嗟稱(サショウ)(感嘆して褒める)亘古(コウコ)(昔から今まで) 虞夏(グカ)(舜と禹の時代)踵行(ショウコウ)(後を継ぐこと) 莽操(ソウモウ)(王莽と曹操、共に漢の帝位を簒奪した) 懿裕(魏王朝を簒奪した司馬懿、東晋王朝を簒奪した劉裕) 逆簒(ギャクサン)(臣下が君主に背いて位を奪うこと)姦(よこしま)(不正義) 遴選(リンセン)(人材を選ぶこと) 翹企(ギョウキ)(熱望)
(現代語訳)
ああ、斉州(中国)は世界の中では顔についたほくろのような小さな存在なのに、そこで聖人が生まれることがどうしてそんなに多いのか。大昔に聖帝である堯 舜から始まる神聖が受け継がれ孔子に至ったことは言うまでもない。しかし春秋時代には藏武仲(ゾウブチュウ)や淳于髠(ジュンウコン)が聖人の呼び名を盗み取った。韓愈が言うには孟子や荀子は十分に聖人の領域に入るそうだ。宋の神宗は漢の劉邦の軍師である張良を聖人として称えて止むことがなかった。人々に知れ渡ったところでは、伏羲、女媧、神農の三皇及び黄帝、顓頊、帝嚳、帝堯 、帝舜の五帝、及び夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王、及び伝説、及び文王の子で周王朝の基礎を築いた周公とその子伯禽、及び殷の賢相伊伊が天下の重任を自分一身に引き受けて力を尽くしたこと、殷末周初の伝説上の人物伯夷が清廉であったこと、中国春秋時代の魯の大夫柳下恵が賢人で度量が篤く孟子に「聖の和」と評されたことなどだ。これらの聖人は皆斉州(中国)に生まれて、未だかつて一度も他国では生まれたことがない。こんなことは本当だろうか。
彼らが言うには「斉州(中国)は天地の中心で優れた気の集まる所なので、聖人を生みだすことができる」とのことだ。しかし天地ははじめは渾然一体で中心と外部の区別もなかった。そもそも斉州(中国)と緯度が同じで風俗、気風も同じ所は十指に余るほどだ。何で斉州(中国)だけに聖人が存在するなどということがあり得るのか。
もしや斉州(中国)は聖王が世をおさめ、法律、学問、芸術などの文物、礼儀や音楽など民を教え導くものが完璧にそなわっていて、そのために聖人を生むことができたと言うのであろうか。しかし実際にはそこでは古くから王朝が次々に代わり王権の争奪がやむことが無く、他国におしえを施す余裕もなかった。一方で世の中が平和に治まっていて、文物、礼楽などにも欠けるところがないならば、どうして他の国にだって絶対に聖人が生まれないなどということがあり得るものか。
これは唐人(中国人)が自国については天に登るかのように崇め奉り、他のすべての国については深淵に叩き落すかのように貶してきたからだ。「万国に聖人無し」などという言葉はただ唐人(中国人)が言っているだけで。でたらめなことだ。だから斉州(中国)に聖人がいるなら万国にもまた聖人がいる。その聖なることは同じである。
しかし聖なることは同じであっても、聖性の理由は異なるかもしれない。斉州(中国)の地で東南は海に面して、文明を中心に置いていた。さまざまな物が豊かにあり、民の知恵も花開いた。しかし事実よりもそれを飾る言葉が常に過剰で、このためこの地から出る聖人は文章で華麗に飾られ光り輝くようだった。それに加えて後の人が世間に見せびらかすために過剰なほめ言葉を付け加えた。あらためてこれを見てみれば、他国の聖人とは天と地ほどもかけ離れている。
そもそもかつてこんなことを聞いたことがある。「驥(キ)という名馬は、その力を称えられているのではなく、その徳を称えられているのである。麒麟が麒麟である理由は徳にあるのであって、形ではない」と。私が思うに、聖人が聖人であるのは徳がどうであるかということのみによるのであって、必ずしも外見的なかざりで優劣を判断するものではない。
わが国の神武天皇は天地を開き万世の基礎を築いた。安寧天皇、懿徳天皇は無為の治であり何もしないことに功績があった。崇神天皇は徳と威厳が広く世に及び、遠方の夷も来て従った。仁徳天皇は人々ねぎらい励まし守り助け、その土地で獲れないものは何一つなかった。天智天皇は文化と武力で国家を経営したことは神武天皇と同じだ。これらは皆古代の聖人だ。ところが後世の人はその恩恵を被っているのにそれがすばらしいことであるのに気づくことすらない。これはとりわけ聖徳が盛んであるということだ。民は心がのんびりと安らかであるがこれを何と名付けてよいかもわからず、「帝の力など自分には関係ない。ああ一休み」と言ったという古代の聖帝尭の時代の鼓腹撃壌の故事と同じことである。これはわが国だけのことではない。
尭から舜への帝位の禅譲を唐人(中国人)は感嘆して褒め、これは昔から今まで類例のない事だと言っている。舜と禹の時代以降はこれを続けることはできなかった。王莽、曹操、司馬懿、劉裕らが形式上禅譲を受けているが、これらは臣下が君主に背いて位を簒奪したに過ぎず、不正義なだけだ。しかし西洋のイタリア等の国では、昔からヨーロッパにあって賢者を選んでこれを君主にしているが、反乱も起きていないし、帝位の簒奪も起きていない。これは尭舜の禅譲と比べてもひけをとらないことで、唐人(中国人)が全く望みえないことである。
ああ、世界は大きく遠い。私がいちいち全部を知ることはできないが、この一事をもってしても更に他国に聖人が多くいて斉州(中国)には少ないことを知ることになるだろう。
三(王位簒奪の残虐非道さについて)
(漢文)
嗚呼斉州易姓之屢、國祚之短、尚忍言之哉、其載籍可考者、包犠以來而已、包犠氏没、神農代之、神農氏衰、軒轅代之、尭禅舜、舜援禹、湯放桀而夏亡、武王誅紂而殷亡、秦昭遷赧而周亡、漢高克秦、而中圮于王莽、光武中興而終奪于曹丕、晋簒魏、宋簒晋、斉簒宋、梁簒斉、陳纂梁、晋宋而來南北角争、隋能幷陳、而亡于唐、以歴五季五十年間八易姓、而宋興、宋又為元所殲、滅元者明、滅明者清、凡易姓者三十有餘、以迄今日、此其大較也、若夫偏覇之國、如北燕之纂後燕、周斉之纂東西魏、及兄弟親戚、自相簒奪、如周之思王考王、斉之䔥鸞者、不暇縷擧也、察夫歴代纂弑之臣、皆假唐虞以文姦慝、辞譲柴禋、欺天罔人、其於舊君、恝然不啻路人或幽囚、或倳刃、或夷滅其族、趙宋而降、禅譲殆絶、以于戈争天下、毎一革命、天下之民、十減六七、嗚呼両間立國者、不知其幾、従未有國祚之短促若斉州者也、又未有簒弑殺戮之惨如斉州者也、夫見影而形可知、挹流而源可了、君臣之賢否、國忽係焉、治忽影也、賢否形也、政教之失得、俗之美悪判焉、美悪流也、失得源也、今唐人動自矜伐、謂君臣明良、禮義之教所出、而國祚之短、簒奪之多、若是其甚、然則所謂明良、與所謂禮義之教、其為躛言也的矣、捉影以責形、挹流以論源、彼將何辞以免、謹按皇朝列聖相承、二千有餘祀于茲下人無敢覬覦神器、中世以来、雖権帰武臣、然付託得人、垂拱無為、天命不改、皇威益尊、自非天崩地陥、永無易姓之慮、此固萬國無比、不肯區々與斉州較短長者、乃俄羅斯一姓千年、其強未艾、即未能仰企本邦、求之斉州、三代之盛且不及、何数秦漢以降邪、或曰、王室微而為共主、苟図簒奪、人々得而誅之、利小禍大、故人不敢取爾、其勢與西土不同、豈係於政與俗哉、曰不然東周之季、亦甞稱天下共主、東西魏主委権于黒獺賀六渾、唐昭宗託身于朱三、亦略如王室之於幕府、然未幾歳、擧皆竄遂弑逆、不少顧忌、可以見唐人不義無道、可悪可畏萬々不及本邦君臣上下仁而有禮也、円融天皇天元五年、僧奝然之宋、宋太宗聞我百王一姓、臣下皆世官、嘆息謂宰相曰、此古之道也、吾雖不徳、亦當夙夜講求治本、以為子孫之計、使大臣之後、世襲禄位、其欽仰嘆羨于本邦者深矣、彼稍有人心而達事理者、或能如此、乃其動斥本邦及萬國為戎狄、比之禽獣者、此果何心哉、
(読み下し文)
嗚呼(ああ)斉州姓の易(か)はること屢(しばしば)なること、國祚(コクソ)の短きこと、尚(なほ)之(これ)を言ふを忍ぶかな。其の載籍(サイセキ)考ふべきは、包犠(ホウギ)以來のみ。包犠氏没し、神農(ジンノウ)之に代り、神農氏衰(おとろ)へ、軒轅(ケンエン)之に代る。尭、舜に禅(ゆづ)り、舜、禹を援(たす)く。湯、桀を放(はな)ちて夏(カ)亡ぶ。武王紂(チュウ)を誅(う)ちて殷亡ぶ。秦昭(シンショウ)赧(タン)を遷(うつ)して周亡ぶ。漢高秦に克(か)つ。而して中(なかば)に王莽(オウモウ)に圮(やぶ)る。光武(コウブ)中興するも終(つひ)に曹丕(ソウヒ)に奪はる。晋、魏を簒(うば)ひ、宋、晋を簒(うば)ひ、斉、宋を簒(うば)ひ、梁、斉を簒(うば)ひ、陳、梁を簒(うば)ふ。晋宋而來(ジライ)南北角争(カクソウ)し、隋能(よ)く陳を幷(あは)す。而して唐に亡ぼさる。以て五季五十年間を歴(へ)て八姓易(か)はりて宋興る。宋又元の殲(ほろ)ぼす所と為り、元を滅ぼす者は明、明を滅ぼす者は清なり。凡(およ)そ姓の易(か)はること三十有餘、以て今日迄此れ其の大較(タイカク)なり。
若夫(もしそれ)、偏覇(ヘンパ)の國、北燕之(これ)後燕を纂(うば)ひ、周、斉之(これ)東西魏を纂(うば)ふが如き、兄弟親戚自相(ジソウ)簒奪(サンダツ)に及ぶ周の思王、考王、斉の䔥鸞(ショウラン)の如きは、縷擧(ルキョ)に暇(いとま)あらざるなり。夫れ歴代纂弑(サンシ)の臣を察(み)れば、皆唐虞(トウグ)を假(いつは)り以て姦慝(カントク)を文(かざ)り、柴禋(サイイン)を辞譲(ジジョウ)し天を欺き人を罔(あざむ)き、其の舊君を恝然(カイゼン)啻(ただ)に路人(ロジン)とするのみならず、或(ある)いは幽囚(ユウシュウ)とし、或いは倳刃(ジジン)し、或いは其の族(ともがら)を夷滅(イメツ)す。趙宋而降(ジコウ)、禅譲殆(ほとんど)絶へ、干戈(カンカ)を以て天下を争ふ。一革命毎に、天下の民、十が減りて六七となる。嗚呼(ああ)両間(リョウカン)に國を立つる者、其の幾(あやう)きを知らず。従って、未だ國祚(コクソ)の短促(タンソク)なること斉州の若(ごと)きは有らざるなり。又未だ簒弑(サンシ)、殺戮(サツリク)の惨(むご)きこと斉州の如きは有らざるなり。夫(そ)れ影を見れば形は知らるべし、流を挹(く)めば源は了(さと)らるべし。君臣の賢否、國忽(たちま)ち焉(これ)に係はる。治忽(チコツ)は影なり。賢否は形なり。政教の失得、俗(ならはし)の美悪を判(わ)くれば、美悪は流なり、失得は源なり。今唐人動(ややもすれば)自(みづか)ら矜伐(キョウバツ)して謂(いは)く「君臣明良にして禮義の教しへ出る所なり」と。而して國祚之(これ)短く、簒奪之(これ)多きこと、是(か)くの若(ごと)く其れ甚(はなはだ)し。然れば則ち所謂(いはゆる)明良と所謂(いはゆる)禮義の教しへとは其れ躛言(カイゲン)為るや的(あきらか)なり。影を捉(とら)へて以て形を責(もと)め、流を挹(く)み以て源を論(はか)れば、彼將(まさ)に何を辞(つ)げ以て免れんとするか。
謹(つつし)んで按(アン)ずるに皇朝列聖相承(ソウショウ)すること二千有餘祀。茲(ここ)に下人敢て神器を覬覦(キユ)すること無し。中世以来、権(いきほひ)武臣に帰すと雖も、然れば付託するに人を得。垂拱(スイキョウ)無為なれど、天命改まらず、皇威益(ますます)尊く、自(おのづ)から天の崩れ地の陥ること非ざるなり。永く姓の易(かは)ることの慮(おそれ)無し。此れ固より萬國無比なり。區々(クク)斉州と短長を較(くら)ぶることを肯(がへん)ぜず。
乃(すなは)ち俄羅斯(オロシャ)一姓千年にして、其の強きこと未だ艾(つ)きざれど、即ち未だ本邦を仰企(ギョウキ)すること能はず。之(これ)を斉州に求む。三代の盛(さかり)且(すら)及ばざるに、何ぞ秦漢以降を数ふや。或曰(あるひといは)く「王室微(おとろへ)て共主(キョウシュ)と為る。苟(いやしく)も簒奪を図らば、人々得て之(これ)を誅(う)つ。利小にして、禍(わざはひ)大なり。故に人敢へて爾(これ)を取らず。其の勢ひ西土と同じからざるに豈政と俗とに係るや」と。曰く「然らざれば東周の季(すゑ)も亦甞て天下共主と稱す」。
東西魏の主、権を黒獺(コクライ)賀六渾(ガリクコン)に委ぬ。唐の昭宗身を朱三に託し、亦略(ほぼ)王室之(これ)幕府に於(を)るが如し。然れば未だ幾歳(いくとし)もなく、擧げて皆、竄遂(ザンチク)弑逆(シギャク)し、少しも顧忌(コキ)せず。唐人の不義無道なるを見るを以てすべし。悪むべし畏るべし。萬々(バンバン)本邦君臣の上下仁にして禮有るに及ばざるなり。
円融天皇天元五年、僧奝然(チョウネン)宋に之(ゆ)き、宋太宗、我百王一姓、臣下皆世官(セイカン)たるを聞く。嘆息して宰相に謂(い)ひて曰く「此れ古(いにしへ)の道なり、吾不徳なると雖も、亦當(まさ)に夙夜(シュクヤ)治本(チホン)を講求(コウキュウ)し以て子孫の計(はかりごと)と為さんとす」と。大臣の後(のち)に禄位を世襲せしむこと、其れ本邦を欽仰(キンギョウ)嘆羨(タンセン)すること深きなり。彼稍(やや)人心有りて事理(ジリ)に達する者なり。或は能(よ)く此の如くせむ。乃(すなは)ち其の動(ややもすると)本邦及び萬國を戎狄(ジュウテキ)と爲して斥(しりぞ)け、之(これ)を禽獣に比ぶるは、此れ果して何の心なるかな。
(語釈)
姓(王朝) 國祚(コクソ)(帝位) 載籍(サイセキ)(書物への記載) 包犠(ホウギ)(伝説上の帝王) 秦昭(シンショウ)(秦の昭襄王) 赧(タン)(周王朝最後の王) 漢高(漢の高祖劉邦) 曹丕(ソウヒ)(魏の初代皇帝) 角争(カクソウ)(つまらぬことにこだわって争う) 大較(タイカク)(あらまし)偏覇(ヘンパ)(一方の旗頭) 北燕(五胡十六国時代の漢人の国。後燕を滅ぼす) 周(南北朝時代の北周) 斉(南北朝時代の北斉) 自相(ジソウ)(互いに) 周の思王、考王(思王は周の第三十代王。兄が即位すると三か月後にこれを殺して即位し、さらにその弟の孝王は五か月後に思王を殺して即位した))斉の䔥鸞(ショウラン)(南北朝時代の南朝第二王朝南斉の明帝、皇族を次々に殺した)縷擧(ルキョ)(列挙) 纂弑(サンシ)(主君を殺して位を奪うこと) 唐虞(トウグ)(尭と舜)姦慝(カントク)(隠れた罪悪) 柴禋(サイイン)(柴を焚いて天を祭ること)辞譲(ジジョウ)(遠慮して譲ること)恝然(カイゼン)(平気で、平然と) 路人(ロジン)(赤の他人)幽囚(ユウシュウ)(囚われ人) 倳刃(ジジン)(刀を突き刺す) 夷滅(イメツ)(滅ぼす) 干戈(カンカ)(武力) 両間(リョウカン)(天と地の間) 短促(タンソク)(短い) 治忽(チコツ)(治と乱) 政教(政治と教化) 矜伐(キョウバツ)(驕り高ぶる) 明良(君主は賢明で、臣下は忠良なこと) 躛言(カイゲン)(誤った言葉) 覬覦(キユ)(分不相応に望み窺う) 垂拱(スイキョウ)(何もしないでいること) 慮(おもんぱかり)(心配) 區々(クク)(些細なことにこだわる) 仰企(ギョウキ)(仰ぎ慕う) 共主(キョウシュ)(君主が二人いること)東西魏(南北朝時代の北朝の東魏と西魏) 黒獺(コクライ)(宇文泰 南北朝北周の実質的建国者 孝武帝を傀儡として擁立し西魏の実権を握り、後に孝武帝を殺す) 賀六渾(ガリクコン)(高歓 南北朝北斉の実質的創建者 孝静帝を傀儡として擁立し東魏の実権を握った。孝静帝は後に高歓の後継者らに毒殺される) 唐の昭宗(唐の十九代皇帝、朱全忠に殺される) 朱三(朱家の三男=朱全忠) 竄遂(ザンチク)(追放) 顧忌(コキ)(遠慮) 萬々(バンバン)(全く) 世官(セイカン)(官職が世襲であること) 夙夜(シュクヤ)(一日中) 治本(チホン)(政治の根本) 講求(コウキュウ)(研究) 後(のち)(あとつぎ、子孫) 欽仰(キンギョウ)(尊び敬うこと) 嘆羨(タンセン)(感嘆しうらやむこと) 事理(ジリ)(物事の道理)
(現代語訳)
ああ、斉州(中国)で王朝の代わることの頻繁なこと、帝位の短いことといったら、言うに耐えないほどだ。書物に載っていて考えることができるのは伝説上の帝王である包犠からだ。包犠が亡くなって神農がこれに代わり、神農が衰えて軒轅がこれに代わった。尭は舜に禅譲し、舜は禹を援助した。湯は桀を追放して夏王朝は滅亡した。周王朝の武王は紂を討伐して殷王朝が滅んだ。秦の昭襄王は周の最後の王である赧を追放して周は滅亡した。漢の高祖劉邦は秦に勝った。しかし漢王朝は中頃に王莽に敗れて、光武帝が中興したが終に魏の初代皇帝である曹丕に帝位を奪われた。晋が魏から簒奪し、宋が晋から簒奪し、斉が宋から簒奪し、梁が斉から簒奪し、陳が梁から簒奪した。晋や宋以来南北で争い、隋が陳を併合したが、唐に滅ぼされた。五代十国時代の五十年間に八王朝が代わって、宋が興った。宋もまた元に滅ぼされ、元を滅ぼしたのは明、明を滅ぼしたのは清であった。全部で王朝が代わること三十余りで、これが現在までのあらましである。
そもそも五胡十六国の一つ北燕が後燕を簒奪し、南北朝時代北朝の北周と北斉が東魏と西魏を簒奪したことや、兄弟親戚が互いに簒奪に及んだ周の思王・孝王、皇族を次々に殺した南朝斉の䔥鸞(明帝)のようなことは枚挙にいとまがない。歴代の主君を殺して位を奪った家臣を見れば、皆尭舜の禅譲に似せることで隠れた罪悪をとりつくろい、天の祭りを遠慮して天を欺き人をあざむき、元の君主を平然と追放するのみならず、捕えたり、刀を突き刺したり、或いはその一族を滅ぼしたりする。
北宋以降は禅譲が殆どなくなり、武力で天下を争うようになった。王朝が代わるたびに天下の民は十が減って六、七となった。天地の間に建国する者はそれがいかに危い事か知らない。従って斉州(中国)ほど帝位が短いところは無い。また主君殺し、殺戮が斉州(中国)ほど惨いところも無い。
そもそも影を見れば原形はわかるものだし、水の流れを汲めば水源はわかるものだ。君主や家臣が賢いか否かは国に直ちに関わる。国が治まっているか乱れているかは影で、君臣が賢いか否かが原形だ。政治の長所と短所、文化の美点と欠点を分けて見れは、文化の美点欠点は水の流れであり、政治の長所短所が水源である。今の唐人(中国人)は自ら驕り高ぶって「わが国は君主が賢明で臣下が忠良だから礼と義の教えが発生する所なのだ」などとよく言うが、しかし帝位が短く簒奪が多いことがこれほど甚だしい。それを考えれば、君主が賢明で臣下が忠良とか礼と義の教えとかは誤った言葉であることは明らかである。影を見て原形を探究し、流れを汲んで水源を考える。彼らは一体どのような言い訳をして免れようとしているのだろうか。
考えてみればわが国の朝廷は皇位が二千年余り続き、下人があえて皇位を狙うことはなかった。中世以来権力は武臣に帰属したが、頼りにできる適切な人材を得た。何もすることはなかったが天命は変わらなかった。皇室の権威はますます尊く、自然に天が崩れ地が陥るようなことは無かった。長い間王朝が代わる心配はなかった。これは万国に比類のないことだ。細々と斉州(中国)と長短を較べようとは思わない。
ところでロシアは王室が千年続いており、その強さも尽きていないがわが国にはかなわない。これを斉州(中国)について見てみれば、夏、殷、周の三代すら王朝が続いていないのに、何で秦、漢以降を数に入れようか。ある人が言うには「東周王室はおとろえて名ばかりの君主と実権を握っている覇者と、君主が二人いるかのような状態になった。もし王権の簒奪を図れば、人々が知ってこれを討伐しようとするので、利が少なく害が大きい。そのため覇者は敢えて王位を簒奪しないのだ。東周は西周のような力が無いのに、そんなところの政治や文化に関与しても無益だったのだ」と。さらに言う「そうしなかったから東周末期の戦国時代でも天下に君主が二人いたと言われるのだ」。南北朝時代の西魏と東魏の君主は実権をそれぞれ実力者の黒獺と賀六渾とに委ね、唐の十九代皇帝昭宗は身を将軍の朱全忠に託し、王室は将軍の陣幕の中にあるかのようだった。何年もしないうちにこうした家臣は皆全く躊躇せずに君主を追放し殺した。唐人(中国人)の不義無道ぶりを見ることができる。憎むべきことであり恐るべきことだ。わが国の君主と家臣には上から下まで仁があり礼が有ることと比べて全く劣っている。
円融天皇の天元五年に僧の奝然が宋に行き、宋の太宗は彼から我が国では同じ王室が続いており、臣下の官職は皆世襲であることを聞いた。感嘆して宰相に「これこそ古代の聖人の道である。私も一日中政治の根本を研究して子孫のための計画としようと思う」と言って、大臣の子孫に位を世襲させているわが国を深く尊敬し羨んだ。彼にはやや人の心があり物事の道理に通じていた。もしかすれば本当にそのようにできたかもしれない。しかし一方でややもすればわが国や万国をケダモノの国として斥けたのは、どういう考えからだろう。
四(夏、殷、周三代は全く理想の時代などではない)
(漢文)
唐人稱郅隆之世、必曰三代、視三代之治、猶之天之不可階而升、以為後世莫能髴萬一、其崇仰至矣、以吾観之、三代奚足畏乎、明張居尚論、三代猶有取於殷、蓋殷國脈強綱維張、雖中間屢有兄弟争立、諸候莫朝之時、尚幸賢聖之君六七作、衰而復興乱而復治、六百年間、天下猶其天下、若乃夏、則前後僅々四百餘載耳、而禹之孫太康、尸位滅徳、為羿所逐、仲康流離播遷、僅能自存、其子相為寒促所弑、巨猾擅世凡百年、而少康始中興、至桀無道、夏祀忽諸、周則大業甫爾、叛乱四起、四世而昭王南征不返、九世而夷王下堂見諸侯、十世而厲王出奔死于彘十二世而幽王為犬戎所殺、平王東遷、威令不行、緜々延々、寝微寝滅、雖曰垂礼八百、其能制馭天下者、自武訖幽、二百有餘祀耳、東遷之後、徒尸空名乎天下之上、天下知有諸侯、而不知有王、周之滅也久、奚必待陽人憚狐之遷而後見邪、夏也殷也、載籍不存、靡以得其詳、獨周文献猶足徴、蓋甞考之、東周之衰乱可謂甚矣、戎狄入王都、殺天子、而王不能復仇也、諸候敗王師、射王中肩、而王不能罪也、南夷僭称王、而王不能禁也、曲沃以庶孽簒宗國、則以為晋君、三晋廃君分国、則封為諸侯、臣弑君、子弑父、無國無之、侵略邊邑、芟刈人民、無時不有、七国虎争、民死于兵、如乱麻、餘殃之所及、終致祖龍一出、坑儒焚書、蕩滅先王之法、天地惨黷、民人塗炭、豈不哀哉、嗚呼周季、下陵上替、内訌外潰、乃大乱之世、在於萬國、未之前聞者、周既如此、則夏殷可推而知、豈盡如唐人之所称賛哉、蓋無論秦漢而降、斉州人心世道、汚下溷濁、遠不及外國、其在三代、業已民風澆漓、譎詐滋生、治之非易易、観於春秋戦国、可見已、顧撥(をさ)乱世、挽頽風、豈無其術、當時君臣何其憒々也、周之東也、冠履倒置、綱維廃替、此尤當大声疾呼出死力以圖匡救者、而当時号為賢君良臣者、方且垂衣緩帯、未甞過而問焉、顧反規々拘々於礼文威儀之末、甚矣其迂也、夫風俗之薄悪、加之施設之乖方、無惑乎其乱之壊爛極矣、唐人称頌三代不容口、非獨佞諛所生之邪、亦其泥於古而然也、夫三代有得有失、有可師、有不可師、徒信唐人之誇言、随而和之、是以耳食也、悲哉、夫三代之毀誉、何預吾事、而辨駁乃爾也、蓋今之儒先文人、称誦三代、墨守陳迹、而不審事勢、一旦得位涖政、守株刻舷、冥行樀埴、以誤天下後世、或如漢之王莽、宋之王安石、吾為此懼、庸詎得不辨乎
(読み下し文)
唐人郅隆(シツリュウ)の世を稱(たた)へ、必ず三代を曰(い)ふ。三代の治を視れば、猶ほ之(これ)天の階(はしご)して升(のぼ)るべからずがごとし、以て後世萬一にも髴(さもにたり)とすること能はずと為す。其れ崇仰(スウギョウ)の至りか。以て吾之(これ)を観れば、三代奚(いづくんぞ)畏(おそ)るに足るや。
明の張居三代を尚論(ショウロン)し、獨だ殷を取ること有るのみ。蓋(けだし)殷、國脈(コクミャク)強く綱維(コウイ)張り、中間に屢(しばしば)兄弟争ひ立つこと有ると雖も、諸候之(これ)を朝する時莫(な)く、尚ほ幸に賢聖の君六・七作(おこ)る。衰へて復興し、乱れて復た治まり、六百年間、天下猶ほ其れ天下なり。
若乃(もしすははち)夏(カ)、則ち前後僅々(キンキン)四百餘載のみにて、禹の孫の太康、尸位(シイ)にして徳を滅ぼし、羿(ゲイ)の逐(お)ふ所と為る。仲康流離(リュウリ)播遷(バンセン)し、僅(わづか)に能(よ)く自存するのみ。其の子相(ショウ)、寒促(カンソク)の弑する所と為る。巨猾(キョカツ)世を擅(ほしいまま)にすること凡(およ)そ百年にて、少康、中興を始む。桀(ケツ)に至り無道となり、夏祀忽諸(コツショ)す。
周則ち大業甫(はじめ)のみ。叛乱四起す。四世の昭王、南征し返らず。九世の夷王、下堂し諸侯を見る。十世の厲王、出奔し彘(テイ)に死す。十二世の幽王、犬戎の殺す所と為る。平王東遷し威令行はず。緜々延々、寝(やうや)く微(おとろ)へ寝(やうや)く滅す。祀(とし)八百に垂(なんなん)とすと曰(い)ふと雖も、其の能(よ)く天下を制馭(セイギョ)するは、武より幽に訖(いた)る二百有餘祀のみ。東遷の後、徒(ただ)に天下の上に尸(しかばね)・空名(クウメイ)たるのみ。天下、諸侯有るを知るも王有るを知らず。周の滅ぶるや久しく、奚(いづくんぞ)必ずしも陽人(ヨウジン)、𢠸狐(ダンコ)の遷(くにうつし)而後、見(あらは)るを待つや。
夏や殷や、載籍(サイセキ)存せず、以て其の詳(つまびらか)にするを得ず。獨り周の文献のみ猶ほ徴(あかし)に足るもの有り。蓋(けだ)し甞て之(これ)を考ふるに、東周の衰乱(スイラン)甚(はなはだ)しと謂(い)ふべきなり。戎狄(ジュウテキ)王都に入り天子を殺す。而(しか)して王復(ま)た仇(あだ)すること能(あた)はざるなり。諸候、王師を敗(やぶ)り、王を射て肩に中(あた)る。而(しか)して王罪(つみ)すること能はざるなり。南夷、王を僭称す。而して王禁ずること能はざるなり。曲沃(キョクヨク)庶孽(ショゲツ)たるを以て宗國を簒(うば)ふ。則ち以て晋君と為る。三晋、君を廃し国を分く。則ち封じて諸侯と為る。臣、君を弑(シイ)し、子、父を弑す。之(これ)無き国無し。邊邑(ヘンユウ)を侵略し、人民を芟刈(サンガイ)すること有らざる時無し。七国虎争(コソウ)し、民、兵に死ぬこと乱麻の如し。餘殃(ヨオウ)の及ぶ所、終(つひ)に祖龍(ソリュウ)一出に致る。儒を坑め書を焚き、先王の法を蕩滅(トウメツ)す。天地惨黷(サントク)にして、民人塗炭(トタン)なり。豈(あに)哀れならざるかな。嗚呼(ああ)周の季(すゑ)、下は陵(のぼ)り上は替(すた)る、内は訌(みだ)れ外は潰(つひ)ゆ。乃(すなはち)大乱の世、萬國に在り。未だ之(これ)前聞せざる者なり。
周既に此(かく)の如し。則ち夏殷推して知るべし。豈(あに)盡(ことごと)く唐人の如きは之(これ)称賛する所なるや。蓋(けだ)し無論秦漢而降(ジコウ)、斉州人心世道(セドウ)、汚下(オゲ)溷濁(コンダク)し、遠く外國に及ばず。其れ三代に在りて業已(すでに)民風澆漓(ギョウリ)にして、譎詐(ケッサ)滋生(ジショウ)す。之を治むること易易(イイ)たらざること春秋戦国を観れば、見(あらは)るべし。
顧(かへりみ)て乱世を撥(をさ)め、頽風(タイフウ)を挽(ひ)く、豈(あに)其の術(すべ)無からんや。當時君臣何ぞ其れ憒々(カイカイ)たるや。周の東するや冠履(カンリ)尊卑)倒置し、綱維(コウイ)廃替(ハイタイ)す。此れ尤(もっとも)當(まさ)に大声にて疾呼(シッコ)し死力を出し以て匡救(キョウキュウ)を図るべき者なり。而して当時賢君良臣なりと号する者、方(まさ)に且(まさ)に垂衣(スイイ)緩帯(カンタイ)せんとし、未だ甞て過(あやま)ちて焉(これ)を問はず。顧反(コハン)礼文威儀の末に規々拘々(キキクク)とす。甚だしきかな其の迂なるや。夫れ風俗之(これ)薄悪(ハクアク)にして、之に加ふるに施設之(これ)方(みち)に乖(そむ)く。其の乱の壊爛(カイラン)を極むるに惑ひ無きや。
唐人三代を称頌(ショウショウ)し口を容れず。獨(た)だ佞諛(ネイユ)を生む所の邦のみに非ず、亦た其れ古きに泥(なづ)みて然(しかり)とする也。夫れ三代に得有れば失も有り。師とすべきこと有れば、師とすべからざることもあり。徒(いたづら)に唐人の誇言(コゲン)を信じ、随ひて之に和する、是れ耳食(ジショク)を以てするなり。悲しきかな。夫れ三代の毀誉(キヨ)、何ぞ吾事に預かりて、辨駁(ベンバク)乃(すはは)ち爾(しかる)や。蓋(けだ)し今の儒先文人、三代を称誦(ショウショウ)し、陳迹(チンセキ)を墨守して、事勢を審(つまびらか)にせず、一旦位を得て政(まつりごと)に涖(のぞ)めば、守株(シュシュ)刻舷(コクゲン)、冥行(メイコウ)樀埴(テキショク)、以て天下の後世を誤ること、或(あるい)は漢の王莽、宋の王安石の如し。吾此の懼(おそれ)を爲す。庸詎(いづくんぞ)辯(ただ)さざるを得るや。
(語釈)
郅隆(シツリュウ)(大いに栄えること) 三代(夏、殷、周の古代三王朝) 張居(張居正、明の政治家) 尚論(ショウロン)(昔に遡って古人の行事を論じる) 國脈(コクミャク)(国家が継承されていく伝統や力) 綱維(コウイ)(国家の法) 朝する(政治を行う) 太康(禹の孫、狩りにふけって民事をかえりみず羿に追放されて国を失った) 尸位(シイ)(職責を尽くさず位についていること) 仲康(太康の弟) 流離(リュウリ)(あてもなくさまよう) 播遷(バンセン)(遠国を流れ歩く)巨猾(キョカツ)(極悪人) 少康(相の子)忽諸(コツショ)(たちまち消滅した) 四起(四方で起きること) 下堂(身分の高い人がへりくだる) 威令(威厳のある命令) 空名(クウメイ)(名だけで実質を伴わない存在) 陽人(ヨウジン)(秦の荘襄王が東周を滅ぼし周君を遷し祭祀を行わせた所) 𢠸狐(ダンコ)(秦により西周公の遷された所) 仇(あだ)する(敵対する) 王師(王の軍) 罪(つみ)する(処罰する) 曲沃(キョクヨク)(曲沃の武公) 庶孽(ショゲツ)(妾腹) 宗國(本家の国) 三晋(晋から独立した韓、魏、趙の三国) 邊邑(ヘンユウ)(国境の村) 芟刈(サンガイ)(刈り取る) 七国(戦国時代の秦、韓、魏、趙、斉、燕、楚の七国)虎争(コソウ)(猛烈に争う) 餘殃(ヨオウ)(祖先の悪行の報いで子孫が受ける災い) 祖龍(ソリュウ)(秦の始皇帝) 蕩滅(トウメツ)(徹底的に滅ぼす)惨黷(サントク)(いたましくけがれる) 塗炭(トタン)(ひどい苦しみ)人心(ジンシン)(民の心) 世道(セドウ)(世の中の道徳) 汚下(オゲ)(堕落する) 溷濁(コンダク)(にごる)澆漓(ギョウリ)(道徳が衰え人情の薄いこと) 譎詐(ケッサ)(いつわり) 滋生(ジショウ)(ますます生ずる) 易易(イイ)(たやすい) 頽風(タイフウ)(堕落した風俗) 憒々(カイカイ)(乱れている) 冠履(カンリ)(かんむりとくつ、転じて上位と下位、尊卑) 綱維(コウイ)(国家の法) 廃替(ハイタイ)(すたれる) 疾呼(シッコ)(しきりに呼び) 匡救(キョウキュウ)(悪を正し危きを救うこと) 垂衣(スイイ)(衣装を垂らすこと。何もせず天下が治まることのたとえ) 緩帯(カンタイ)(武装しないこと) 顧反(コハン)(かえって) 礼文(制度や学問) 威儀(礼の規則) 規々拘々(キキクク)(規則にこだわって融通がきかないこと) 迂(まわりくどいこと) 薄悪(ハクアク)(軽薄俗悪) 施設(計画、策略を立てること) 方(みち)(正しいこと) 壊爛(カイラン)(こなごなに壊れること) 称頌(ショウショウ)(ほめそやす)口を容れず(誰も余計な口出しをしない) 佞諛(ネイユ)(こびへつらい) 泥(なづ)む(こだわる) 誇言(コゲン)(大げさな物言い) 耳食(ジショク)(人の言うことの是非を判断せずそのまま信じること)毀誉(キヨ)(けなすこととほめること) 辨駁(ベンバク)(他人の説の誤りを突いて論じ攻撃すること。反駁) 称誦(ショウショウ)(ほめたたえる) 陳迹(チンセキ)(古跡 過去の事跡)
守株(シュシュ) (古い習慣にこだわって融通のきかないこと。昔、宋の国の農夫がウサギが偶然切株につまずいて死んだのを見て、また同じようにしてウサギが手に入るものと思い耕作をやめて毎日切株を見ていたが無駄だったという故事による)
刻舷(コクゲン)(物事にこだわって変通を知らず融通がきかないこと。川中に劔を落とし、舷を刻み落とした場所の目印としたが、船の動くことを知らなかった故事による)
冥行(メイコウ)(暗闇を手探りで行くこと) 樀埴(テキショク)(盲人が杖で地面を叩きながら道を行くこと)
王安石 北宋の政治家・文学者。神宗の信任を得て宰相となり、新法と呼ばれる多くの政治改革を実施したが、旧法党の反対にあって辞職した。王安石の新法は当時の社会を根底からゆるがす要素を含んでいたため〈名教の罪人(体制破壊者)〉として,南宋から清朝まで非難の対象となった。王安石個人もすね者と性格づけられ,芝居や物語でおとしめられたが,⒚世紀末から評価は一転し,現在では先覚者として高く評価される。
王莽 前漢の皇位を簒奪し皇帝となった王莽は,《周礼(しゆらい)》の制度を手本に儒教的な理想国家の実現を目ざしてさまざまな大改革を行ったが,当時の客観的情勢を見定めず,儒教の復古主義的思想にもとづいてなかば思いつくままに実行したために失敗し,しかも一つの改革がゆきづまると直ちに別のものに改めて立法に一貫性を欠いたため,混乱を大きくし,不信感を強くした
(現代語訳)
唐人(中国人)は大いに栄えた世を称えて、必ず夏、殷、周の三代のことを言う。三代の政治を見れば、まるで到達不可能な崇高さで後世にこれと似たことがあると考えることすらできないと言う。これはほめ過ぎだ。私から見れば三代は大したことはない。
明の張居正は三代について論じ、殷だけは評価した。というのは、殷は国家の伝統の力が強く、規律があり、しばしば兄弟争いがあるが諸侯が政権をとることはなく、なお幸いなことに賢帝や聖君が六・七人出現し、乱れてはまた治まり、六百年間天下が続いたためだ。
ところが夏は前後あわせてもわずか四百年である。始祖である禹の孫の太康は職責を尽くさず徳義にそむいたため、羿に追放された。その後を継いだ仲康はあても無く遠国をさまよい自分の身を守るだけだった。その子の相は寒促に殺された。極悪人が世の中を好き勝手にしたのがおよそ百年で、相の子の少相が中興を始めた。しかし桀に至り無道となり夏王朝はたちまち消滅した。
周は始めだけは大業を成したが、反乱が四方で起き、四代の昭王は南に遠征して帰らなかった。九代の夷王は王威が衰えて諸侯にへりくだって会見した。十代の厲王は彘(テイ)に出奔して死んだ。十二代の幽王は犬戎に殺された。平王は東遷し、もはや威厳のある政治は行えなかった。長年次第に衰えてついに滅亡した。周王朝は八百年になるとはいえ、天下を支配できたのは初代武王から幽王までの二百年余りのみで、東遷の後はただ天下に王朝の名前だけあって実質を伴わなかった。天下の人々は諸侯を知っていても王の存在を知らなかった。周の滅びたのはずっと前で、必ずしも東周滅亡後に周君が遷った場所である陽人や周を滅ぼした秦により西周公が遷された場所である𢠸狐(ダンコ)があらわれるのを待つまでもない。
夏や殷は書物への記載が無いので詳しいことはわからない。周の文献だけは証拠とするに足るものがある。これによって考えれば、東周の衰乱は甚だしいと言うべきである。敵が都に侵入し天子を殺したが、王は仇討ちもできなかった。諸侯は王の軍を破り、王の肩に弓矢を当てたが、王は処罰することもできなかった。南の異民族が王を僭称したが、王はこれを禁止することもできなかった。曲沃の武功は妾腹だったが本家の国であり、周の諸侯国である晋を簒奪し晋君となった。晋の分国であった韓、魏、趙の三者は晋君を廃位して国を分け、独立して諸侯となった。家臣が主君を殺し、子が父を殺す。こうしたことが無い国は無かった。国境の村を侵略し、人民を虐殺することが常にあった。戦国時代の七国は猛烈に争い、民が兵に殺されることは乱麻の如しであった。祖先の悪行で子孫が災いを受け、ついに秦の始皇帝の出現に至った。焚書坑儒を行い、先王の法を徹底的に消滅させた。天地は痛ましくけがれ、人民は塗炭の苦しみを味わった。何と哀れなことか。ああ、周の末期には下はのぼり、上はすたれる。内はみだれ、外は逃げ散る。大乱の世は万国にあるけれど、これほどひどいものは聞いたことが無い。
周がすでにこのありさまでは、夏や殷は推して知るべしだ。何で唐人(中国人)はことごとくこんなものを賞賛するのか。秦や漢以後は民の心や世の中の道徳が堕落して濁り、外国に遠く及ばなかったことは無論のことだが、夏、殷、周の三代の時に既に人民の間では道徳が乱れ人情に薄く、偽りが益々生じていた。これを治めるのが容易ではないのは春秋戦国時代を見れば明らかだ。
乱世をおさめ堕落した文化を復興する、そのような手段は無かったのだろうか。当時の主君と臣下はなぜあんなに乱れていたのだろうか。周が東遷すると上下の秩序が逆転し、国家の法規が廃れてしまった。これは大声で叫び死力を尽くして救うべきことだった。しかし当時賢君や良臣を自称する者たちは、何もせず、武装もせずに天下は修まるとしており、過ちを問題にすることもなかった。かえって制度や礼儀の細かなことにこだわって融通が利かなかった。何とも世情に疎いことだ。そもそも文化が軽薄俗悪でこれに加えて政策が正しくない。それでは混乱を極めることは当然であった。
唐人(中国人)は夏、殷、周の三代のを褒めそやし、誰にも余計な口出しをさせない。単に媚びへつらいを生む国というだけでなく、古いことにこだわるのが当然と考えている。そもそも三代には長所もあれば短所もある。手本とすべきこともあればそうでないこともある。いたずらに唐人(中国人)の大げさな物言いを信じてこれに従う、これはもう耳食(人の言うことの是非を判断せずそのまま信じること)である。悲しいことだ。
そもそも三代を褒めたり貶したりすることの何が自分たちに関係するのか、そしてそれに対する反論もこんなものなのか。思うに今の学者や文人は三代を褒めたたえ過去の事跡を墨守して現在の情勢を明らかにしない。一旦位を得て政治に臨めば、「株を守りて兎を待つ」や「舷を刻む」の故事のように愚かで融通が利かず、暗闇を手探りで行くようなことや、盲人が杖で地面を叩きながら行くようなことをして、天下の将来への判断を誤る。これはまるで漢の王莽や宋の王安石のようだ。私はこれを恐れる。何でこれをたださずにいられようか。
五(中国の刑罰の残忍さと仁治の難しさ)
(漢文)
天之於人、莫不欲其生、人得天之心以為心、是以至愚不肖之人、無不知愛人、人而不卹人死、是禽獣也、嗜殺人、則曽禽獣之不若也、況人君代天理物、是以其於民、務求所以生之、愛護撫視、無所不至、必也頑嚚不可訓告、然後不得已而罰殛之、夫然後謂之民之父母而已、皇朝上古以来、聖々継承、深仁厚徳、根于心、加于民、臣下有罪、罰止於貶竄、雖頗有威令不粛、邪正混淆之弊、然所以祈天永命于億萬載者、其源實在乎茲、斉州三代之盛、君臣相與有不忍人之心、擧以措于政、是以後世靡及、春秋以還、人心忮忍、毫無仁恩、迨戦国極矣、於是乎有若商鞅、惨覈酷虐、増加肉刑大辟、創鑿頭抽脅鑊烹之刑、秦自文公已有三族之刑、至是益輕行之、一臨渭決囚、水為之赤、又有若白起、以威駆衆、以虐御下、惟務斬馘、不事撫納、坑殺已降、不少顧慮、起一人所殺、凡百有餘萬人、秦踵其成法、有加無損、至始皇、悉坑辟儒、殺天下豪俊、赭衣半路、十室九怨、商鞅既以是罹車裂之惨、白起既以是被杜郵之酷、始皇死肉未寒、而盗賊四起、咸陽丘墟矣、漢高昆一天下、治冠百王、宣當祛秦苛政、洒然與民更始、夫何参夷之刑、菹醢之戮、屠城殺降、依然不改、歴代因之、愈加惨酷、是以其用刑也、三族不足、而殃及五族、肉刑大辟不足、而冎肉腰斬之刑、定百脈、突地吼、死猪愁、求破家之法作、明太祖誅一藍玉、坐死者四万餘人、成祖殺一方孝孺、赤其十族八百人、戮一景清、轉相連座、村里為墟、謂之瓜蔓抄、其用兵也、朱粲煮人肉為糧、赫連勃々、築人作城、李自成以人腸飼馬、曹操之伐陶謙也、鶏犬皆尽、慕容沖之攻秦也、千里無人煙、黄巣之據長安也、尽殺城中人、謂之洗城、蒙古之取江南也、或血流有聲、或屍填巨港、清之滅明、殺人尤衆、始取遼東、捜得儒生、悉殺之、継陥揚州、十日之内、殺三百萬人、帝弘歴克平西域、怒其屢叛、誅夷男女百万人、嗚呼嗜殺之甚、虎狼所不忍、而彼忍為之、尚可謂有人心乎、鈞是人也、斉州之人、獨何辜而死于盗賊、死于夷狄、死于連座、死于攻伐、是以歴祀二千、而戸口無滋殖之日、嗚呼怖矣、乃彼則毎称仁聖之治、以誇示外国、吾將誰欺乎、吾観明清三祖 (按清陥揚州時、世祖年裁八九歳、叔父攝政王秉政、則似不可必責世祖、但以清主惨酷之風、世々相承、故二祖並稱而不改) 及帝弘暦、其不仁即浮于桀紂、亦自有智慮、達時変、非如孫皓符生之昏暴無智、蓋仁義可以治君子、不易以化小人、斉州之民、衆詗桀黠、尤難為治、施以仁義之教、不如重典峻法、猶可一切為治、是以明清四主治効、顧賢於仁厚恭倹、如漢文宗仁者、予於是有以益見唐人姦黠難治、万国所絶無也、噫
(読み下し文)
天の人に於けるや其の生を欲せざることなし。人、天の心を得て以て心と為す。是以(これゆゑ)至(いたっ)て愚かにして不肖(天にも似ない愚かな)の人すら人を愛するを知らざるもの無し。人にして人の死を卹(あはれ)まざるは是れ禽獣なり。殺人を嗜(たしな)めば則ち曽て(少しも、決して)禽獣之(これ)若(しか)らざるなり。
況(いはん)や人君(ジンクン)(君主)天に代はりて物を理(をさ)む。是以(それゆゑ)其の民に於て務めて之(これ)を生かす所以(ゆゑん)(方法)を求め、愛護撫視(ブシ)(いたわること)至らざる所無かるべし。必ずや(どうしても)頑嚚(ガンギン)(かたくなで道理にくらい 頑固でわがまま)にして訓告(いましめ告げる。官吏のあやまちなどを注意する処置)すべからざれば、然る後に已むを得ずして之(これ)を罰殛(バツキョク)(処罰)す。夫れ然る後に之(これ)を民の父母と謂ふ而已(のみ)。
皇朝上古以来、聖々継承し、深仁(シンジン)(深い愛)厚徳(コウトク)(手厚い恩恵)、心に根ざし民に加(くは)ふ。臣下に罪有らば、貶竄(ヘンザン)(官位を下げて遠方に流すこと)に罰を止(とど)む。頗(すこぶ)る威令(威力と命令)粛(しづ)まらず(厳粛でない)、邪正混淆(コンコウ)の弊有りと雖も、然れども億萬載に天の永命(永久の天命 朝廷が長く続くこと)を祈(もと)むる所以(ゆゑん)は、其の源(みなもと)實(まこと)に茲(ここ)に在り。斉州三代の盛(さかり)、君臣相與(とも)に人に忍びざる(情け深い 残忍なことができない)の心有れば、擧げて以て政(まつりごと)に措(お)く。是以(それゆゑ)後世靡(なび)き及ぶ。
春秋以還(イカン)(以来)、人心忮忍(シニン)(残忍)にして毫も仁恩無きこと戦国に迨(いた)り極まれり。是(これ)に於てや商鞅の若(ごと)き惨覈(サンカク)(残酷)酷虐(コクギャク)(酷く苦しめること)なるもの有り。肉刑(鼻削ぎなど身体を傷つける刑)大辟(タイヘキ)(死刑)を増加し、鑿頭(サクトウ)(額への入れ墨の刑)抽脅(チュウキョウ)(あばらの筋を抜き取る刑)鑊烹(カクホウ)(釜茹での刑)の刑を創る。秦、文公より已(すで)に三族の刑(犯罪者の父母、兄弟、妻子まで処罰する制度)有り。是に至り益(ますます)之(これ)を輕行(ケイコウ)す(軽々しく行うようになった)。一(ひとたび)渭(渭水)に臨み決囚(死刑に処すること)せば、水之(これ)が爲(ため)赤し。又白起(ハクキ)(秦の昭襄王に仕えた将軍、捕えた捕虜四十万人を悉く生き埋めにした)の若(ごと)き、威を以て衆を駆(か)り(追い立て)、虐(ギャク)(むごい刑罰)を以て下を御(をさ)む(統治する)もの有り。惟(ただ)斬馘(ザンカク)(首切り)に務め、撫納(ブノウ)(いたわって受け入れること)を事(こと)とせず、坑殺(コウサツ)已降(イコウ)(以後)も少しも顧慮せず、起(白起)一人殺す所、凡(およ)そ百有餘萬人。秦其(そ)の成法を踵(つ)ぎ、加(くは)ふること有れど損(そこ)なふこと無し。始皇に至り、悉(ことごと)く辟儒(ヘキジュ)(罪のある儒者)を坑(う)み、天下の豪俊を殺す。赭衣(シャイ)(罪人)路(みち)に半(なか)ばし(通行人の半分が罪人となり)、十室九怨(十戸のうち九戸が怨んだ)。商鞅既に是以(これゆゑ)車裂の惨に罹る。白起既に是以(これゆゑ)杜郵の酷(昭襄王との意見の対立から咸陽の郊外杜郵で自害を命じられたこと)を被(かうむ)る。
始皇死して肉未(いま)だ寒からざるに盗賊四起(シキ)し(四方に起こり)、咸陽丘墟(キュウキョ)(廃墟)なり。漢高(漢の高祖劉邦)天下を昆一(統一)し治め、百王に冠す(上に立つ)。宜しく當(まさ)に秦の苛政(カセイ)(酷い政治)を祛(はら)ひ、洒然(サイゼン)として(心にわだかまりなく)民と更始(コウシ)(新しく始める)せんとす。
夫れ何ぞ参夷(サンイ)(ひとりの罪によってその三族まで皆殺しにする刑罰)の刑、菹醢(ソカイ)(人を殺して肉や骨を塩漬けにする刑罰)の戮(はずかしめ)、屠城(トジョウ)(城を陥れて城中の人を殺戮すること)殺降(サツコウ)(降伏した者を殺すこと)、依然改めず歴代之(これ)に因り、愈(いよいよ)惨酷を加へ、是を以て其れ刑に用(もち)ふるや。三族では足らず、殃(とがめ)五族に及ぶ。肉刑大辟(タイヘキ)では足らず、冎肉(カニク)(人の肉をえぐって骨から分けとる刑罰)腰斬(ヨウザン)(腰から下を切り離す刑罰)の刑、定百脈(脈を止める)、突地吼(けたたましき悲鳴)、死猪愁(くたばった豚の愁い)、求破家(家をつぶしたい)(以上四つは則天武后の時代に考案された大枷の呼び名)の法を作る。
明太祖(洪武帝)一(ひとり)藍玉(アイギョク)(明創立の功臣)を誅(ころ)せば、坐死(ザシ)する(連座して死ぬ)者四万餘人。成祖(永楽帝)一(ひとり)方孝孺(ホウコウジュ)(明代初期に建文帝に仕えた学者、永楽帝に磔刑に処せられた)を殺せば、其の十族八百人を赤(ほろ)ぼす。一(ひとり)景清(ケイセイ)(方孝孺と共に建文帝に仕えた学者。建文帝の仇討ちをしようとして、永楽帝に磔刑に処せられ、その一族も殺された)を戮(ころ)せば、轉相(テンショウ)(相共に)連座し村里墟と為る。之(これ)を瓜蔓抄(カマンショウ)と謂ひ其れ兵に用ふるなり。
朱粲(シュサン)(隋末唐初の人。隋の官吏だったが亡命し盗賊となり人肉を食べるようになった)人肉を煮て糧(かて)と為し、赫連勃々(カクレンボツボツ)(五胡十六国時代の夏の創始者)、人を築きて(突き固めて)城と作(な)す。李自成(明末の農民反乱指導者)、人腸を以て馬を飼ひ、曹操の陶謙(トウケン)(後漢の政治家)を伐(う)つや鶏犬皆尽き(曹操は陶謙に一族を殺された恨みを晴らすべく徐州に二回の侵攻を行い、至るところで殺戮を行い、鶏や犬すらいなくなったという)、慕容沖(五胡十六国時代の西燕の初代皇帝)の秦(前秦)を攻むるや千里に人煙無く(前秦の首都長安は攻められて経済が破壊され飢餓に陥った)、黄巣(唐時代の農民反乱の指導者)の長安に據(よ)るや城中の人を尽(ことごと)く殺し之(これ)を洗城と謂ふ。蒙古の江南を取るや、或(あるい)は血流に聲有り、或(あるい)は屍(しかばね)巨港に填(うづ)む。
清之(これ)明を滅(ほろ)ぼし、殺人尤(もっとも)衆(おほ)し。始め遼東を取り、儒生(儒者)を捜得(ソウトク)し(探してとらえ)、悉(ことごと)く之を殺す。継ひで揚州を陥(おとし)いれ、十日の内に三百萬人を殺す。帝弘歴(乾隆帝)西域を克平(平定)し、其の屢(しばしば)叛(そむ)くを怒り、夷(えびす)男女百万人を誅(ころ)す。嗚呼(ああ)殺を嗜(たしな)むことの甚(はなはだ)しきこと、虎狼も忍ばざる(たえられない)所なれど、彼忍びて之(これ)を為す。尚(なお)人の心有りと謂ふべきや。鈞(ひと)しく是(これ)人なり。
斉州の人獨(ただ)何の辜(つみ)にて盗賊に死し、夷狄に死し、連座に死し、攻伐に死すか。是以(それゆゑ)祀(とし)二千を歴(へ)て戸口滋殖(ジショク)(増加)の日無し。嗚呼(ああ)怖るべし。乃ち(それなのに)彼則ち毎(つね)に仁聖の治と称(たた)へ以て外国に誇示す。吾將(まさ)に誰をか欺(あざむ)かんや。
吾、明、清の三祖(明の太祖洪武帝、成祖永楽帝、清の世祖順治帝)(按ずるに清揚州を陥せし時、世祖(順治帝)年裁(わづか)に八九歳、叔父の攝政王(ドルコン)秉政(ヘイセイ)(政権を握る)す。則ち必ずしも世祖を責むべからざるが似(ごと)し。但し清主の惨酷の風を以て世々相承す。故に二祖と並び稱して改めず)及び帝弘暦(乾隆帝)を観るに、其の仁ならざること即(すなは)ち桀紂(ケツチュウ)(夏の桀と殷の紂、共に暴君)を浮(す)ぐ(超えている)。亦(また)自(みづか)ら智慮有らば、時変(時代の遷り変り)に達し孫皓(ソンコウ)(三国時代の呉の天子)符生(南北朝時代の前秦の天子)の如く昏暴(コンボウ)(道理に暗く乱暴なこと)無智に非ざるなり。蓋(けだ)し仁義、以て君子を治むべけれど、以て小人を化(をし)ふるは易(やす)からず。斉州の民、桀黠(ケツカツ)(悪賢く凶暴な者)を衆詗(シュウケイ)し(大勢で伺い見ており)、尤(もっとも)治を為すに難(かた)し。仁義の教(をしへ)を以て施すは、重典峻法(ジュウテンシュンポウ)(きびしい法律制度)の猶(なほ)一切の治を為すを可とするに如(し)かず。是以(このゆゑ)に明清の四主の治効(チコウ)、顧(かへっ)て仁厚(ジンコウ)(人情に厚いこと)恭倹(キョウケン)(人には恭しく自分は控えめにすること)たること漢文(前漢五代文帝、刑法を緩め仁政を行った)宗仁(北宋四代仁宗、慶暦の治を行う)の如き者の於(より)も賢し。予是(これ)に於て益(ますます)唐人の姦黠(カンカツ)(悪賢いこと)にして治(をさ)め難きこと万国に絶(た)へて無き所を見るに以(ゆゑ)有るとするなり、噫(ああ)
(語釈)
人君(ジンクン)(君主) 撫視(ブシ)(いたわること) 頑嚚(ガンギン)(かたくなで道理にくらい 頑固でわがまま) 訓告(いましめ告げる。官吏のあやまちなどを注意する処置) 罰殛(バツキョク)(処罰) 深仁(シンジン)(深い愛) 厚徳(コウトク)(手厚い恩恵) 貶竄(ヘンザン)(官位を下げて遠方に流すこと)威令(威力と命令) 天の永命(永久の天命 朝廷が長く続くこと) 人に忍びざる(情け深い 残忍なことができない) 忮忍(シニン)(残忍) 惨覈(サンカク)(残酷) 酷虐(コクギャク)(酷く苦しめること) 肉刑(鼻削ぎなど身体を傷つける刑) 大辟(タイヘキ)(死刑) 鑿頭(サクトウ)(額への入れ墨の刑) 抽脅(チュウキョウ)(あばらの筋を抜き取る刑) 鑊烹(カクホウ)(釜茹での刑) 三族の刑(犯罪者の父母、兄弟、妻子まで処罰する制度) 輕行(ケイコウ)(軽々しく行う) 渭(渭水) 決囚(死刑に処すること) 白起(ハクキ)(秦の昭襄王に仕えた将軍、捕えた捕虜四十万人を悉く生き埋めにした)虐(ギャク)(むごい刑罰) 御(をさ)む(統治する) 斬馘(ザンカク)(首切り) 撫納(ブノウ)(いたわって受け入れること) 辟儒(ヘキジュ)(罪のある儒者) 赭衣(シャイ)(罪人) 十室九怨(十戸のうち九戸が怨んだ) 杜郵の酷(白起が昭襄王との意見の対立から咸陽の郊外杜郵で自害を命じられたこと)四起(シキ)(四方に起こる) 丘墟(キュウキョ)(廃墟) 漢高(漢の高祖劉邦) 苛政(カセイ)(酷い政治)洒然(サイゼン)(心にわだかまりなく) 更始(コウシ)(新しく始める) 参夷(サンイ)(ひとりの罪によってその三族まで皆殺しにする刑罰) 菹醢(ソカイ)(人を殺して肉や骨を塩漬けにする刑罰) 屠城(トジョウ)(城を陥れて城中の人を殺戮すること) 殺降(サツコウ)(降伏した者を殺すこと) 冎肉(カニク)(人の肉をえぐって骨から分けとる刑罰) 腰斬(ヨウザン)(腰から下を切り離す刑罰)
定百脈(脈を止める)、突地吼(けたたましき悲鳴)、死猪愁(くたばった豚の愁い)、求破家(家をつぶしたい)(以上四つは則天武后の時代に考案された大枷の呼び名)
明太祖(明の始祖洪武帝) 藍玉(アイギョク)(明創立の功臣) 坐死(ザシ)(連座して死ぬ) 成祖(明の永楽帝 第二代建文帝に対しクーデターを行い帝位につく) 方孝孺(ホウコウジュ)(明代初期に建文帝に仕えた学者、永楽帝に磔刑に処せられた) 景清(ケイセイ)(方孝孺と共に建文帝に仕えた学者。建文帝の仇討ちをしようとして、永楽帝に磔刑に処せられ、その一族も殺された) 轉相(テンショウ)(相共に) 朱粲(シュサン)(隋末唐初の人。隋の官吏だったが亡命し盗賊となり人肉を食べるようになった)赫連勃々(カクレンボツボツ)(五胡十六国時代の夏の創始者) 李自成(明末の農民反乱指導者) 陶謙(トウケン)(後漢の政治家) 慕容沖(五胡十六国時代の西燕の初代皇帝) 黄巣(唐時代の農民反乱の指導者) 捜得(ソウトク)(探してとらえる) 帝弘歴(清の乾隆帝) 滋殖(ジショク)(増加) 桀紂(ケツチュウ)(夏の桀と殷の紂、共に暴君) 浮(す)ぐ(超えている) 時変(時代の遷り変り) 孫皓(ソンコウ)(三国時代の呉の天子 性格は粗暴で酒色を好む 晋に攻められ降伏し呉は滅亡した) 符生(五胡十六国時代の前秦の第二代皇帝 残虐な性格で在位3年で従兄弟の符堅に殺された) 昏暴(コンボウ)(道理に暗く乱暴なこと) 桀黠(ケツカツ)(悪賢く凶暴な者) 衆詗(シュウケイ)(大勢で伺い見る)重典峻法(ジュウテンシュンポウ)(きびしい法律制度)仁厚(ジンコウ)(人情に厚いこと)恭倹(キョウケン)(人には恭しく自分は控えめにすること) 漢文(前漢五代文帝、刑法を緩め仁政を行った) 宗仁(北宋四代仁宗、慶暦の治を行い文化が興隆した) 姦黠(カンカツ)(悪賢いこと)
(現代語訳)
天は人に対して生きてほしくないなどとは思っていない。人は天の心を理解してそれを心にしている。このため極めて愚かな人すら人を愛することを知らない者などいない。人でありながら人の死をあわれに思わないのはもはや獣だ。殺人を好むことは獣ですら決してしないことだ。
ましてや君主は天に代わって物事を支配するのだから、民に対してはこれを生かす方法を求め、十分に守りいたわるべきだ。どうしても頑固でわがままなため訓告を受け入れなければ、その時はやむを得ず処罰する。そうしてこそ民の父母と言われるのだ。
朝廷は大昔から継承しており、深い愛と手厚い恩恵を心がけ民に与えている。臣下に罪があれば官位を下げて島流しにするだけに刑罰を止めている。やや命令に厳粛さが欠けていたり、正と不正が混在するといった弊害があるとしても、朝廷が長く続くことを祈る理由は実にここにあるのだ。夏、殷、周の三代の全盛期には君主にも家臣にも人を哀れに思う心が有り、それを政治に反映させた。このため後世もこれに従った。
春秋時代以後は人の心は残忍になり愛も恩恵も無くなり、その傾向は戦国時代に頂点に達した。そこでは商鞅のような惨酷な刑罰を主張する者がいて、身体を傷つける刑や死刑を増やし、額への入れ墨の刑、あばら骨を抜き取る刑、釜茹での刑などを創設した。
秦には文公の時から既に犯罪者の父母、兄弟、妻子まで処罰する制度があったが、ここにきてますますそれを軽々しく行うようになった。一たび渭水のほとりで死刑を行なえば川の水は赤く染まった。また白起のように威嚇して多数を追い立て、惨い刑罰で下を支配する者がいた。ただ首切りに務め、いたわって受け入れるようなことはしなかった。彼は捕えた捕虜四十万人を生き埋めにしたが、その後も少しも配慮することはなかった。白起一人でおよそ百万人を殺した。秦はこの法を受け継ぎ、これに付け加えることはあっても、減らすことはしなかった。始皇帝に至り、ことごとく罪の有る儒者を生き埋めにし、知恵や才能が天下に優れている者を殺した。道の半分が罪人であふれ、十戸のうち九戸が怨んだ。商鞅はこのため惨酷な車裂きの刑に処せられ、白起は既に昭襄王との意見の対立から首都咸陽の郊外杜郵で自害を命じられている。
始皇帝が死んでから間もなく盗賊が四方に起こり、首都咸陽は廃墟となった。漢の高祖劉邦が天下を統一して治め、百王の上に立った。秦の惨い政治を廃止して、民と心にわだかまりなく新しい政治を始めようとした。それなのになぜ、一人の罪により三族まで皆殺しにする刑や、人を殺して肉や骨を塩漬けにする刑、城を陥落させ城中の人を殺戮すること、降伏した者を殺すといったことが依然と改められないのか。歴代皇帝はこれにさらに残酷さを加えて刑罰を行った。三族を殺すだけでは足らず、咎めを五族に及ぼした。身体を傷つける刑や死刑では足らず、人の肉をえぐって骨から分けとる刑罰や腰から下を切り離す刑罰を行った。あるいは「脈を止める」「けたたましき悲鳴」「くたばった豚の愁い」「家を潰したい」というおぞましい名の大枷まで作った。
明の太祖洪武帝が功臣である藍玉一人を殺せば、連座して死ぬ者が四万人余りであった。明朝第二代建文帝から武力で政権を奪った成祖永楽帝は、建文帝の忠臣であった方孝孺一人を殺すと、その十族八百人も殺した。建文帝の仇を討とうとした景清一人を殺すと一族も連座して殺し村が廃墟となった。これを瓜蔓抄と言い、戦争で使われた。
唐代の盗賊朱粲は人肉を煮て食料とし、五胡十六国時代の夏の創始者赫連勃々は人を突き固めて城を造った。明末の農民反乱指導者の李自成は人の腸で馬を飼った。三国時代の曹操は陶謙に一族を殺された仕返しに徐州に侵攻していたる所で殺戮を行い鶏や犬すらいなくなった。五胡十六国時代の西燕の慕容沖が前秦を攻めると、首都長安は飢餓に陥り人煙が絶えた。唐末の農民反乱の指導者黄巣は長安に入ると城中の人を尽く殺した。これを洗城という。蒙古が江南を占領すると血流から聲がしたり、巨大な港が屍で埋まったりした。清が明を滅ぼしたとき、殺人がとりわけ多かった。始めに遼東を占領し、儒者を探して捕え、ことごとくこれを殺した。次に揚州を陥落させ、十日以内に三百万人を殺した。乾隆帝は西域を平定したが、しばしば反乱がおきるのを怒り、異民族の男女百万人を殺した。ああ、殺人を好むことの残虐さは虎や狼ですら耐えられないほどだが、彼はあえて行った。これでも人の心があるといえるだろうか。異民族でも等しく人なのに。
斉州(中国)の人は一体何の罪で、盗賊に殺され、異民族に殺され、連座で死に、討伐されて死ぬのだろうか。こんなことだから二千年を経ても人口が増殖しない。ああ恐るべきことだ。それなのに彼らは常に自国の政治を「仁聖の治」と称えて外国に誇示する。こんなことで誰かを騙せるのだろうか。
明、清の三祖(明の太祖洪武帝、成祖永楽帝、清の世祖順治帝)(思うに清が揚州を陥落させた時、世祖順治帝はわずか八、九才で伯父の摂政王ドルコンが政権を取っており、必ずしも世祖を責めるべきではないとも思えるが、清の皇帝の惨酷な風潮を受け継いでいるので、他の二祖と並び称することにして改めなかった)及び清の乾隆帝を見るとその仁に反する度合いは暴君であった夏の桀と殷の紂をも超えている。しかし自らに物事について深く考える能力があったので、時代の変化に対応するときには、三国時代の呉の皇帝孫皓や五胡十六国時代の前秦の第二代皇帝符生のように愚かで乱暴で無知というわけではなかった。
考えてみると仁義で君子を治めることはできるが、これで小人を教え導くことは容易ではない。斉州(中国)の人民は悪賢く凶暴な者を大勢で伺い見ており、とりわけ政治を行うのが難しい。ここで仁義の教えで政治を行うことは、厳しい法律制度が一切の政治の実行を可能にすることとくらべれば見劣りがする。このため明、清の四皇帝の政治はかえって、前漢五代の文帝や北宋四代の仁宗のように人情に厚く謙虚な者の政治よりも賢いといえる。私はこれを見ると、唐人(中国人)が悪賢くて治め難いこと万国無比であることには理由があるのだと思えてくる。ああ。
六(中国の無知で傲慢不遜なこと)
(漢文)
書曰、好問則裕、自用則小、學記曰、學然後知不足、舜大聖人也、好問而察邇言、周公大聖人也、下白屋之士、求賢如饑渇、惟紂之下愚、乃傲然自以為天下皆出己之下、不肯思下賢訪善、以自資益、蓋徳盛道大、則所見博、所受大、是以歉然常覚有所未至、么麼之徒、則小器易盁、小智自私、以其所已知已能、無以尚焉、此聖人所以為聖、愚人所以為愚也、此聖所以益聖、愚所以益愚也、吾考自古繆妄舛錯之論、其源莫不出于斉州、蓋自大已國、不求益于人、無惑乎其乃至此也、若夫黄赤道南北極之理、九天六洲之説、奥眇高遠、非臆見可至、不必責之唐人、乃於其他未甚難知者、曽不能得其髣髴可悲也已、夫月食者、地影障日光也、而謂月光其外影、中心實暗、到望時、當其中暗處、是為月食、天漢者星之小而聚者也、而謂是天之河、與海通、乗槎可至、二十八宿、自東徂西、無所停住、而謂其為斉州分野、各掌其地災祥、浩々之列宿、止管弾丸之斉州地、東南際海、西北難窮其所極、而謂地不足東南、天不足西北、斉州水皆東流者、地勢西高東下故也、而渭水性趨東、以于闐之西水西流為異聞、地方者、唯論其理也、而謂地信形方、烹一羊脾未熟而天明者、蓋地之尖角處、地形如卵、不與天屬、西行不已、終返故地、而謂自絛支國、乗水西行、可百餘日、近日所入、崑崙西域一山不甚高大、而謂日月所相隠避為光明者、斉州之於四海、猶之毫末之在馬體、四海之内、強大如斉州者比々、而謂四方万國、惟斉州為大、自佗諸国、瑣々小夷、不足比数、甚者謂雹者、蜥蜴噴水為之、潮水者天河之激湧、鯨𩷎之吐納、出入、風出土嚢之口、海水沃焦土、故能不溢、此皆出于斉州、其説之繆妄無據、乳臭小児能辨之、而彼不止不學無術之人、乃昴然以儒先自命者、亦信以為然、甚乎其愚也、雖然、此姑擧其梗槩耳、若必一一而駁之、則更僕未易悉也、大六洲之國、豈無管窺蠡測黭浅狭小、如唐人之見者、顧尚知自耻其陋、不如唐人之放言横議、無忌憚、譬之村学究財知一丁、羞赧退縮、不敢當為人師、猶有可取、乃敢抗顔教人、杖杜金銀、都々平丈我、都不自覚、則人莫不賤之、唐人亦猶是也、万暦二十九年、西洋人至、唐人始得聞二儀七曜之定説、曠若發蒙、乃曰、此皆周代司天之官所識知、周之亂疇人子弟、失其職、敢之西洋、因存其説于西洋、而中州反亡、可謂強項矣、夫唐人繆妄之説、但自誤而已、猶之可也、今乃至伝播以熒惑他国、得聞西洋二儀之定説、自耻従前瞽説之可笑、猶之可也、今乃掠其美、謂本出于我、是之謂下愚不移、是之謂播悪于衆、
(読み下し文)
書に曰く問を好めば則ち裕(ゆたか)に、自ら用ふれば則ち小なり。學記に曰く、學びて然る後足らざるを知る。舜大聖人なり。問を好みて邇言(ジゲン)を察す。周公大聖人なり。白屋(ハクオク)の士に下り、賢を求むること饑渇(キカツ)の如し。惟(ただ)紂(チュウ)之(これ)下愚(カグ)なり。乃(すなは)ち傲然(ゴウゼン)自ら以て天下皆己(おのれ)の下に出(い)づと為し、賢に下り善を訪ぬるを思ふを肯(がへん)ぜず、以て自ら益を資(たす)く。蓋(けだし)徳盛んにして道大なれば、則ち見る所博(ひろ)く受くる所大なり。是以(このゆゑ)に歉然(ケンゼン)として常に未だ至らざる所有るを覚ゆ。么麼(ヨウマ)の徒、則ち小器にして盁(あふ)れ易(やす)く、小智にして自私(ジシ)なり。其の已(すで)に知り已(すで)に能くする所を以てし、以て焉(これ)を尚(たか)むること無し。此れ聖人の聖為る所以(ゆゑん)、愚人の愚為る以所(ゆゑん)なり。此れ聖の益(ますます)聖たる所以(ゆゑん)、愚の益(ますます)愚たる所以(ゆゑん)なり。吾考ふるに、古より繆妄舛錯(ビュウボウセンサク)の論、其の源斉州より出ざること莫(な)し。蓋(けだ)し自大(ジダイ)已(のみ)の國にて、益を人に求めず。其れに惑ふこと無く乃(すなは)ち此に至るなり。若夫(もしそれ)、黄赤道・南北極の理、九天六洲の説、奥眇高遠にして、臆見至るべきに非ず。必ずしも之(これ)を唐人に責(もと)めず。乃(すなは)ち其の他に於て未だ知り難きこと甚しからざれば、曽(なん)ぞ能(よ)く其の髣髴を得ざるか。悲しむべきなるのみ。夫れ月食は日光を障(さへぎ)る地の影なり。而して謂はく「月光其れ外影にして、中心實に暗く、望む時に到り其の中の暗き處に當る。是れ月食為り」と。天漢(テンカン)は星の小さくて攢(あつ)まる者なり。而して謂はく「是れ天の河にして海と通じ槎(サ)に乗り至るべし」と。二十八宿東より西に徂(ゆ)き停住(テイジュウ)する所無し。而して謂はく「其れ斉州を分野と為し、各其の地の災祥(サイショウ)を掌(つかさど)る。浩々(コウコウ)の列宿(レツシュク)弾丸の斉州の地に止まり管(つかさど)る」と。東南、海に際(まじは)り、西北、其の極(きは)まる所を窮(きは)め難し。而して謂はく「地、東南に足らず、天、西北に足らず、斉州の水皆東に流るるは、地勢西に高く東に下る故なり」と。而して渭水の性東に趨(おもむ)き、于闐(ウテン)の西を以て水西流し異聞を爲す。地の方なるは、唯(ただ)其の理を論ずるのみなり。而して謂はく「地の信(まこと)の形方なり、一羊を烹て脾未だ熟さずして天明となるは、蓋(けだ)し地の尖角なる處なればなり」と。地形卵の如し。天屬(テンゾク)を與(とも)にせず西に行き已(や)まざれば、終(つひ)に故地に返る。而して謂はく「絛支(ジョウシ)國より、水に乗り西に行き、百餘日可(ばか)り、日に近き所に入れば、崑崙(コンロン)西域の一山甚だ高大ならず」と。而して謂はく「日月の相隠避し光明を爲す所なり」と。斉州之(これ)四海に於て、猶ほ之(これ)毫末(ゴウマツ)の馬體(バタイ)に在るがごとし。四海の内、斉州の如く強大なる者は比々(ヒヒ)なり。而して謂はく「四方万國、惟(ただ)斉州のみを大と為(な)し、自佗諸国瑣々たる小夷にして比べ数ふに足らず」と。甚しき者は謂はく「雹(ヒョウ)は蜥蜴(とかげ)水を噴(ふ)き之を為す。潮水は天河(テンガ)之(これ)激湧す。鯨𩷎(ゲイテキ)の吐納(トノウ)出入し風は土嚢(ドノウ)の口を出る。海水は焦土に沃(そそ)ぐ。故に能く溢(あふれ)ず」と。此れ皆斉州より出づ。其の説之(これ)繆妄(ビュウボウ)にして無據(ムキョ)なること、乳臭き小児も能く之を辨(わきま)ふ。而して彼不學無術の人たるを止めず。乃ち昴然(コウゼン)儒先を以て自命する者は、亦た信(まこと)に以て然りと為す。甚しきかな其の愚たるや。然りと雖も、此れ姑(しばらく) 其の梗槩(コウガイ)を擧ぐるのみ。若し必ず一一(いちいち)之に駁(バク)さば、則ち更僕(コウボク)未だ悉(つく)すに易(やす)からざるなり。大六洲の國に、豈(あに)管窺(カンキ)蠡測(レイソク)黭浅(アンセン)狭小なること唐人の見の如き者無し。顧(かへりみ)て尚ほ其の陋(せま)きを自ら耻づることを知るは、唐人の放言(ホウゲン)横議(オウギ)無忌憚(キタン)に如かず。之を譬(たと)ふれば、村の学究財(わづか)に一丁を知るのみなるが、羞赧(シュウタン)退縮(タイシュク)し、敢て當(まさ)に人の師為らんとせざれば、猶ほ取るべきところ有り。乃(すなは)ち敢て抗顔(コウガン)人を教へ、杖杜(ジョウト)金銀、都々平丈我、都(すべ)て自覚せざれば、則ち人之(これ)を賤(いやし)まざるは莫(な)し。唐人亦猶ほ是のごとくなり。
万暦二十九年、西洋人至り、唐人始めて二儀七曜の定説を聞くを得る。曠(あきらか)に蒙(モウ)を發(ひら)くが若(ごと)し。乃(すなは)ち曰く、此れ皆周代の司天の官の識知(シキチ)する所なり。周之亂れ疇人(チュウジン)の子弟、其の職を失ひ、敢て西洋に之(ゆ)き、因て其の説西洋に存すれど中州反(かへっ)て亡(な)くすと。強項(キョウコウ)と謂ふべきなり。夫れ唐人繆妄(ビュウボウ)の説、但だ自ら誤る而已(のみ)ならば猶ほ之(これ)可也(かなり)。今乃(すなは)ち伝播に至らば以て他国を熒惑(ケイワク)すべし。西洋二儀の定説を聞くを得、自ら従前の瞽説(コセツ)の笑ふべきことを耻(は)づれば猶ほ之(これ)可也(かなり)。今乃(すなは)ち其の美を掠(かす)め、本は我より出づと謂へば、是れを之(これ)下愚は移らずと謂ひ、是れを之(これ)衆に悪を播(ま)くと謂ふ。
(語釈)
書(書経) 學記(礼記の学記編) 邇言(ジゲン)(身近な実用的な言葉)白屋(ハクオク)の士(民間の身分の低い者) 饑渇(キカツ)(飢えと渇き) 下愚(カグ)(極めて愚か) 歉然(ケンゼン)物足らない)么麼(ヨウマ)の(価値のない小人) 小智(あさはかな知恵) 自私(ジシ)(利己的) 繆妄舛錯(ビュウボウセンサク)(でたらめなことが入り混じっている) 自大(ジダイ)(自らを偉いと思い尊大に振る舞うこと)奥眇高遠(奥深く高く遠い) 臆見(自分だけの考え)髣髴(ぼんやりした姿) 天漢(テンカン)(天の川、銀河) 槎(サ)(いかだ) 二十八宿(赤道、黄道の付近で天球を二十八の不等な部分に分けて設けた星座。この星座を宿とよぶ。) 停住(テイジュウ)(止まる) 分野(戦国時代に天文家が中国全土を天の二十八宿に配当して区別した呼び名。その分野に星変があるときはその国に災いがあるとされた) 災祥(サイショウ)(禍福)浩々(コウコウ)(光り輝く) 列宿(レツシュク)(連なる星座) 弾丸(狭い土地の形容) 于闐(ウテン)(中国漢代の西域の国) 方(四角形) 脾(内臓) 天明(夜明け) 天屬(テンゾク)(親兄弟)絛支(ジョウシ)國(シリア) 崑崙(コンロン)(中国の西方にあると考えられた伝説上の聖山) 毫末(ゴウマツ)(毛先) 比々(ヒヒ)(しばしばある) 天河(テンガ)(天の川) 鯨𩷎(ゲイテキ)(くじら)吐納(トノウ)(呼吸) 土嚢(ドノウ)(洞穴) 繆妄(ビュウボウ)(でたらめ) 無據(ムキョ)(根拠がない) 昴然(コウゼン)(驕り高ぶり) 自命(自任) 梗槩(コウガイ)(概略) 更僕(コウボク)(長時間にわたる思案) 管窺(カンキ)(見識の狭いこと) 蠡測(レイソク)(ほら貝で海水を汲み計ること、転じて小智を以て大事を計ること) 黭浅(アンセン)(無智であさはかなこと) 横議(オウギ)(勝手な議論) 無忌憚(キタン)(無遠慮) 学究(書生) 羞赧(シュウタン)(恥じて顔を赤くする) 退縮(タイシュク)(恐縮) 抗顔(コウガン)(物知り顔にあつかましく) 杖杜(ジョウト)(唐の李林甫が「𣏹杜(テイト)」と書いてあるのを見て𣏹の字を知らず「杖杜」とは何かと問ひた故事) 金銀(「金根車」(天子の乗物)を「金銀車」と誤った故事) 都々平丈我(論語の「郁々乎文哉(イクイクとしてブンなるかな)」を「都々平丈我」と誤った故事) 疇人(チュウジン)(天文・歴算家) 強項(キョウコウ)(頭を下げず剛直)繆妄(ビュウボウ)(でたらめ)熒惑(ケイワク)(まどわすこと) 瞽説(コセツ)(愚説) 下愚は移らず(最悪の愚者はどんなに教育しても変わらない)
(現代語訳)
書経にはこう書いてある「知らないことを好んで人に問えば知るところが豊かになり、自分の才能を誇って万事を処理しようとすれば小さなものに終わる」と。礼記の学記編にはこのように書いてある「学問をしてみて始めて自分の知識の不足を知るものだ」と。舜は大聖人である。自分から好んで人に質問して身近で実用的な言葉を理解した。周公も大聖人である。民間の身分の低い者の所にもへりくだって訪問し、喉が渇いて水を求めるかのように賢い知恵を求めた。殷の最後の皇帝である紂は極めて愚かだった。傲然と天下は自分の下に生まれるものだと考え、賢者にへりくだり善を探し求めることを考えようともせず、自ら利益を得ようとした。
思うに、人徳が豊かで行いも公明正大であれば見る所も博く、受ける所も大きい。このため自分を物足らなく思い、常に未だに至らない所のあることに気づく。小人は器が小さいので溢れやすく、浅はかな知恵しかなくて利己的である。既に知っていることや、よくできることに満足し、これを高めようとしない。これが聖人が聡明である理由であり、愚人が愚かなことの理由である。聡明な者はますます聡明になり、愚かな者はますます愚かになる理由である。
私が考えるに、昔からでたらめなことが入り混じった論はすべて斉州(中国)から出てきている。というのはこの国は自らを偉いと思って尊大に振る舞うだけの国で、有益なことを他人から学ぼうとせず、それに惑うこともなく今に至ってしまったからである。
ところで、黄道・赤道や南極・北極の理論や天文・世界地理の説は奥深く高遠で自分だけの考えで到達できるものではない。このことで唐人(中国人)を責めるものではない。しかしその他のことはさほど知るのが難しいわけでもないのに、何で概要すら理解できないのか。悲しむべきことだ。
月食は日光をさえぎる地球の影だ。しかし彼らはこう言う「月光は月の外側の光であって、中心は実は暗く、見るときにその暗い所に当たると、それが月食である」と。
銀河は小さな星が集まったものである。しかし彼らはこう言う「これは天の河であって海と通じており、いかだに乗って到達することができる」と。
二十八宿の星座は東から西に行き止まる所はない。しかし彼らはこう言う「これはそもそも斉州(中国)の地を二十八に分けて、それぞれの土地の禍福を司るものだ。光り輝き連なる星座が狭い斉州(中国)の地に止まって管轄するものだ」と。
この国の東南は海に面し、西北は限界を決め難い。しかし彼らはこう言う「地が東南で足らず、天が西北で足らない。斉州(中国)で川が皆東に流れるのは地形が西に高く東に低いためだ」と。しかし渭水はもともとは東に流れるが于闐の西から西に流れるので、言っていることと異なる。
地方(四角い大地)という言葉は、古代中国で天は円形、大地は方形と考えられていたというそのことわりを言っているだけのことだ。しかし彼らはこう言う「大地は本当に四角形である。羊を一晩煮て内臓がまだ煮えないうちに夜明けになるのはそこが(太陽の熱が届かず気温の上がらない)大地の尖った角のところだからだ」と。
地球は卵のような形をしており、親兄弟と別れて西に行き続ければついに元の場所に戻る。しかし彼らはこう言う「シリアから船で西に行き百数十日ばかりたつと、太陽に近いところに入るので崑崙や西域の山はあまり高くない」と。そしてまた言う「そこは太陽と月が互いに隠れて光るところである」と。
斉州(中国)は世界の中では馬体の中の毛先のような小さな存在にすぎず、世界の中ではこれと同様に強大な国はしばしばある。しかし彼らはこう言う「世界の中で斉州(中国)だけが大国で、その他は小さな野蛮国にすぎず、くらべて数えるまでもない」と。
ひどい者はこんなことを言う「雹はとかげが水を吹いてできるものだ。潮水は天の川が激しく湧き出たものだ。鯨が呼吸することで風は洞穴の口から出る。海水は焼けた土に注ぐので溢れることがない」と。
これらのことはすべて斉州(中国)から出てきたものだ。これらの説がでたらめで根拠がないことは乳臭い幼児でもわかることだ。しかし彼らは不學無術の人であることを止めない。それどころか傲慢で学者であることを自任する者は本当にその通りだと思っている。何と愚かなことか。しかしながらこれらのことはとりあえず概略を挙げただけのことだ。もしそれぞれにいちいち反論していたらいくら時間があっても足らなくなってしまう。
日本の国には唐人(中国人)の見解のような、見識が狭く、愚かしく浅はかなことは無い。かえって知識の狭いことを自ら恥じることを知っており、それは唐人(中国人)の無責任で自分勝手な論議よりもましである。これを例えていえば、村に住む学生がその学識の狭いことを恥じて、あえて教師になろうとしないならばまだ見込みがあるが、反対に物知り顔に人を教え誤ったことを教えているのに自覚していないのであれば、だれもがこれを軽蔑する。唐人(中国人)はこれと同じである。
萬暦二十九年に西洋人が来て、唐人(中国人)ははじめて西洋の最新の天文学の知識を聞くことができた。これは無知な者を教え導くようなことであった。ところが彼らは次のように言った「これはすべて周の時代の天文を司る役人が知っていたことだ。周王朝が乱れ天文家の子弟がその職を失って西洋に行ったので、その説が西洋に存在し中国には無くなってしまったのだ」と。強情と言うべきである。
そもそも唐人(中国人)のでたらめな説は、単に自分が誤っているだけならまだ良い。ところがもしこれが他に伝播したなら、他国を惑わすことになる。西洋の最新の天文学の知識を聞いて、自分の従来の愚かな説を恥じればまだ良い。ところがもしこれは元々自分たちから出た説だなどと言い出せば、これは「下愚は移らず」(最悪の愚者はどんなに教育しても治らない)と言われ、「衆に悪を播く」(多くの人に悪影響を及ぼす)と言われることになる。
七(無意味な儀礼やばかばかしい迷信へのこだわり)
(漢文)
唐人拘々於末節而不明於天下之體、墨守陳編、而不達時之宜、事之変、是以一旦管大任、臨大節、鮮不敗事、夫西漢元成之世、一人尸位、憸壬握柄、炎情之衰亡已兆、為大臣者、宜當竭忠殫力、以圖振救、而匡衡韋玄成等、所正色抗論者、僅々不過禘祫廟寝諸議、東漢之季、群小満朝、濁亂政治、當時之策、或漸奪之権、或誅罪魁以宥其餘、計不出於斯二者、在庭諸賢、方且植立朋黨、以攻小人、令小人無地自容、以致黨錮之禍、群賢誅戮、而國従之、嗣後唐有清流之禍、宋有元祐之黨、偽學之禁、明有東林之獄、千古一徹、莫不滅國殄祀、晋王政不綱、禍機章々、實国家危急之際、而擧世方盛談老荘、崇尚浮華、南北角争、戦攻弗已、正英雄有為之秋、而時人方區々辨南向北向之方位、明廟制祭儀之当否、唐高宗、権歸椒房、禍伏肘腋、如燕之巣幕、而晏然講明封禅改元之儀、袖手無一策、宋真宗為契丹所困、納金幣與之和、未始思所以自強之策、偽造天書祥瑞、粉飾太平以誇燿天下、女真俘二帝、毀宋廟、真茹肝渉血之仇、而南渡君臣、稱臣稱姪、苟延視息於湖山之間、歌舞康娯、絶不思恢復之策、明世宗入紹大統、諸臣不能従容匡賛漸釐其失、乃區々追尊一議、擧朝與天子争衡、撼殿門、大哭以致天子赫怒、悉逐正人、群小彙進、不止此也、盗賊蠭起、而思臨河誦孝経以散其衆、勍敵壓境、亡在旦夕、而戎服講老子、叛虜蔓延、逼迫幾甸、而請舞于羽以格之、(劉宋周事見南彊逸史) 父名晋粛、子不得擧進士、官天下家天下之語、至不保首領、玄都観裏桃千樹之句、猝被謫於万里、芒碭有王気、則東遊以厭之、熒惑入南斗、則下殿而走、匈奴高句麗不服、則改號爲降奴服于下句麗、孫萬栄李盡忠反、則改姓名為孫萬斬李盡滅、吾不意其迂愚浅狭、猜防拘忌、乃至于斯也、蓋唐人所盱衡掀髯揚々論議者、特祭儀廟制服色官名、其他無用之事、至政源治本至要之務、則智慮未曽及、亦奚怪乎歴代禍乱、毎横流四潰而莫之救也、吾観漢魏以降、斯弊為甚、而其始既見于三代、周幽王為犬戎所殺、其子平王遷都避難、王室日卑、卑於列侯、此為如何時、而周之君臣、略不介意、策命晋侯、封爵秦伯、語言意象、舒徐如太平之時、上之人如此、當時議論、亦従而委靡、絶無識見、周以天王之尊、下與鄭國交質、足為痛哭、君子不論天地反覆・冠履倒置之変、惟責其信不由中質無益、宋襄公伐人之喪、執人之君、亦戕之、無道極矣、及泓之戦、乃曰、不禽二毛、不鼓不成列、此不可以欺三尺之童、而論者謂、文王之戦、不過此、甚矣其迂也、嗚呼三代且然、奚責叔季之世哉、君子且然、奚責於小人哉、
(読み下し文)
唐人末節に拘々(コウコウ)として天下の體に明らかならず。陳編(チンペン)を墨守して時の宜(よろし)きに達せず。事之(これ)変る。是以(このゆゑに)一旦大任を管(つかさど)り大節に臨めど、敗れざる事鮮(すくな)し。
夫れ西漢元成の世、一人尸位(シイ)にして憸壬(センジン)たるもの柄(ヘイ)を握り、炎情(エンセイ)の衰亡已(すで)に兆(きざ)す。大臣為る者、宜(よろし)く當(まさ)に忠を竭(つく)し力を殫(つく)し以て振救(シンキュウ)を圖(はか)るべし。而(しか)して匡衡(キョウコウ)・韋玄成(イゲンセイ)等、色を正して抗論(コウロン)する所は、僅々(キンキン)禘祫(テイコウ)廟寝(ビョウシン)諸議に過ぎず。
東漢の季(すゑ)、群小朝に満ち、政治を濁亂(ジョクラン)す。當時の策、或いは之権を漸奪し、或いは罪魁(ザイカイ)を誅(ころ)し以て其の餘(あま)りを宥(ゆる)す。計(はかりごと)、斯(こ)の二者を出ず。在庭諸賢、方(まさ)に且(まさ)に朋黨(ホウトウ)を植へ立て以て小人を攻め、小人をして自容(ジヨウ)の地を無からしめ以て黨錮(トウコ)の禍を致し、群賢を誅戮(チュウリク)す。而して國之(これ)に従ふ。
嗣後唐に清流の禍有り。宋に元祐の黨、偽學の禁有り。明に東林の獄有り。
千古一徹、國の滅びず祀(まつり)の殄(や)まざること莫(な)し。晋の王政綱たらず。禍機(カキ)章々(ショウショウ)たり。實に国家危急の際なるに世を擧げ方(まさ)に老荘を盛談(セイダン)せんとし、浮華(フカ)を崇尚(スウショウ)す。
南北角争(カクソウ)し、戦攻已(や)まず。正に英雄有為(ユウイ)の秋(とき)、而時(そのとき)人方(まさ)に區々(クク)として南向北向の方位を辨(わ)け、廟制祭儀の当否を明らかにす。
唐の高宗、権椒房(ショウボウ)に帰し、禍(わざはひ)肘腋(チュウエキ)に伏すこと燕の幕に巣くふが如し。而して晏然と封禅改元の儀を講明(コウメイ)し、袖手(シュウシュ)し一策無し。
宋の真宗契丹に困(くる)しむ所と為り、金幣を納め之(これ)と和す。未だ始めから自強の策を以てする所を思はず。天書祥瑞(ショウズイ)を偽造し、太平を粉飾し以て天下に誇燿(コヨウ)す。
女真、二帝を俘(とりこ)にし、宋廟を毀(こわ)す。真に肝を茹(くら)ひ血を渉(わた)るの仇なり。而して君臣を南に渡し、臣と稱し姪と稱し、苟(かりそめ)に湖山の間に視息(シソク)を延ばす。歌ひ舞ひ康娯(コウゴ)し、絶へて恢復(カイフク)の策を思はず。
明の世宗大統(ダイトウ)に入り紹(つ)ぐ。諸臣従容(ショウヨウ)と匡賛(キョウサン)し漸(やうや)く其の失(あやまち)を釐(あらた)むること能(あた)はず。乃(すなは)ち區々(クク)たる追尊の一議、朝を擧げ天子と争衡(ソウコウ)し、殿門を撼(ゆす)り大哭(タイコク)し以て天子を赫怒(カクド)に致す。悉(ことごと)く正人を逐(お)ひ、群小彙進(イシン)し、此(これ)を止めざるなり。
盗賊蠭起(ホウキ)すれども、河に臨み孝経を誦(とな)へ以て其の衆を散らさんと思ふ
勍敵(キョウテキ)境を壓し、亡在(ボウザイ)旦夕(タンセキ)たれども、戎服(ジュウフク)にて老子を講ず。
叛虜蔓延し幾甸(キデン)に逼迫すれども、干羽(カンウ)を舞ふを請(こ)ひ以て之を格(ふせ)がんとす。(劉宗周(リュウソウシュウ)の事、南彊逸史に見る)
父の名晋粛たれば、子進士に擧ぐるを得ず。
官天下家天下の語、首領を保たざるに至る。
玄都観(ゲントカン)裏桃千樹の句、猝(にはか)に万里に謫(なが)さる。
芒碭(ボウトウ)王気有り。則ち東遊し以て之を厭(しづ)めんとす
熒惑(ケイコク)南斗に入れば、則ち下殿(ゲデン)して走る。
孫萬栄・李盡忠反(そむ)けば則ち姓名を改め、孫萬斬・李盡滅と為す。
吾其の迂愚(ウグ)浅狭(センキョウ)、猜防(サイボウ)拘忌(コウキ)乃(すなは)ち斯(ここ)に至るを意(おも)はざるなり。蓋(けだ)し唐人盱衡(クコウ)し掀髯(キンゼン)し揚々(ヨウヨウ)と論議する所は、特(ひと)り祭儀・廟制服色・官名、其他無用の事のみ。政源(セイゲン)・治本(チホン)至要(シヨウ)の務(つとめ)に至れば、則ち智慮未だ曽て及ばず。亦た奚(なん)ぞ歴代の禍乱、毎(つね)に横流(オウリュウ)四潰(シカイ)して之(これ)救ふもの莫(な)きを怪しむや。
吾漢魏以降を観るに、斯(かか)る弊甚しきと為す。而して其の始め既に三代に見る。周の幽王犬戎(ケンジュウ)の殺す所と為る。其の子平王遷都し避難す。王室日(ひび)に列侯より卑卑たり。此れ如何(いか)なる時と為すや。而して周の君臣、略(ほぼ)意に介さず、晋侯に策命し、秦伯に封爵す。語言意象舒徐(ジョジョ)にして太平の時の如し。上の人此(かく)の如し。當時議論亦従て委靡(イビ)にして絶へて識見無し。
周、天王の尊きを以て下し、鄭國と交質(コウチ)す。痛哭を為すに足る。君子、天地反覆・冠履倒置(カンリトウチ)の変を論ぜず、惟(ただ)其の信、中よりせずんば、質も益無きを責むるのみ。
宋の襄公、人の喪(しかばね)を伐ち、人の君を執(とら)へ、亦之を戕(そこな)ふ。無道の極(きはみ)なり。泓(オウ)の戦に及び、乃(すなは)ち曰く、二毛を禽(とりこ)にせず、列成らざれば鼓(つづみ)うたずと。此れ以て三尺の童を欺くべからず。而して論者謂はく、文王の戦、此れに過ぎず。甚しきかな其の迂(ウ)なるや。嗚呼三代且(かつ)然(しか)り。奚(なん)ぞ叔季(シュクキ)の世を責むるや。君子且(かつ)然(しか)り。奚(なん)ぞ小人を責むるや。
(語釈)
拘々(コウコウ)(こだわって) 體(本質) 陳編(チンペン)(古臭い書物) 時の宜(よろし)き(その時の都合に適うこと) 大任(重大な任務) 大節(国家の大事変) 元成の世(前漢十代元帝、十一代成帝の治世) 尸位(シイ)(地位についているだけで責任を果たさないこと)憸壬(センジン)(よこしまでおもねること) 柄(ヘイ)(権力)炎情(エンセイ)(漢の徳)振救(シンキュウ)(施しをして災害・貧困から救うこと) 匡衡(キョウコウ)(前漢元帝・成帝時代の政治家。儒学の政治理念に基づいて礼制を整備,南北の郊祀を正し,淫祠の廃止を建言した) 韋玄成(イゲンセイ)(元帝のときの政治家。郡国ごとに歴代皇帝の宗廟があるのは礼制に合致しないとして,郡国廟と諸皇后の陵墓の祭祀を廃止した) 色を正して(まじめな顔をして)抗論(コウロン)(張り合って議論する) 僅々(キンキン)(わずかに) 禘祫(テイコウ)(王者が祖先の霊を祭る大祭) 廟寝(ビョウシン)(霊廟) 群小(多くのくだらない人たち)朝(朝廷) 罪魁(ザイカイ)(犯罪者の首領) 朋黨(ホウトウ)(政治的党派、徒党) 黨錮(トウコ)の禍 後漢末の政治事件。宦官が政権を私物化したのに対し,儒家の官僚士大夫らが宦官批判を展開したが宦官派は彼らを党人として一斉に検挙,政界から終身追放する禁錮に処した。外戚竇武(とうぶ)は党人を起用し宦官誅滅を謀ったが失敗し、翌年党人に対する徹底した弾圧と禁錮が行われた。この事件で政府は空洞化,後漢王朝は滅亡へと向かった。
清流の禍(唐末に朱全忠が朝廷の官僚を黄河に突き落として皆殺しにした事件) 元祐の黨(北宋時代の王安石の新法に反対する旧法党) 偽學の禁(南宋が朱子学を「偽学」として排斥し、その流れに属する学者や政治家の仕官や著書の流布を禁じたこと)東林の獄(明末に陽明学末流の空疎な学問に反対し,政治の改革と民生の安定に役立つ実践的な学問を提唱する東林党が政府を批判して,相当の影響力をもったが、宦官魏忠賢らは特務機関を利用した一種の恐怖政治で対抗し,東林党の主要な活動家は逮捕されて獄死,東林党はまったく勢力を失った)千古一徹(大昔から)晋(三国の魏の権臣司馬炎が禅譲を受けて建てた王朝。都は洛陽。貴族官僚は奢侈の風潮に染まり、知識人の間には清談が流行した。) 禍機(カキ)(災難のきざし) 章々(ショウショウ)(明らか) 浮華(フカ)(うわべばかり華美で中身の無いこと)崇尚(スウショウ)(あがめ尊ぶ)區々(クク)(得意げに)唐の高宗(唐の第三代皇帝、則天武后を皇后とし皇位の簒奪を招いた)椒房(ショウボウ)(皇后の御殿)禍(わざはひ)肘腋(チュウエキ)に伏す(災いが目前に迫っていること) 燕の幕に巣くふ(幕の上に燕が巣を作ること、極めて危険なことの例え)晏然(のんびりと) 封禅(天子が行う天地の祭り) 講明(コウメイ)(意味を解き明かす)袖手(シュウシュ)(袖に手を入れ何もしない) 宋の真宗(北宋三代皇帝。遼と澶淵の盟を結ぶ) 金幣(黄金と幣帛) 天書(天子の文書) 祥瑞(ショウズイ)(めでたいしるし) 誇燿(コヨウ)(みせびらかした) 肝を茹(くら)ひ血を渉(わた)るの仇(報復のために辛酸に耐え抜くべき敵) 視息(シソク)(見ることと息をすること、生存すること) 康娯(コウゴ)(遊び楽しむ)明の世宗(嘉靖帝、道教を妄信し政務を顧みず宦官の専横を招いた) 大統(ダイトウ)(天子の系統) 従容(ショウヨウ)(静かに落ち着いて)匡賛(キョウサン)(助ける) 區々(クク)(取るに足らない) 追尊(尊号を贈ること、世宗の父の興献王への追尊が問題となった) 争衡(ソウコウ)(優劣を争う) 殿門(宮殿の門)大哭(タイコク)(慟哭) 赫怒(カクド)(激怒) 群小彙進(イシン)(多くの小人が徒党を組んで進出する) 蠭起(ホウキ)(蜂起) 勍敵(キョウテキ)(強敵) 亡在(ボウザイ)(存亡)旦夕(タンセキ)(危急が切迫していること)戎服(ジュウフク)(軍服) 幾甸(キデン)(王城の近くの土地) 干羽(カンウ)を舞ふ(夏の禹王が盾と羽の舞を奏し南方部族が帰服した故事) 劉宗周(リュウソウシュウ)(明末の儒学者。清軍により杭州が落とされると絶食して死去した) 首領(首、頭) 熒惑(ケイコク)(火星) 南斗(南斗六星) 迂愚(ウグ)(愚鈍)浅狭(センキョウ)(浅はかで度量が狭いこと) 猜防(サイボウ)(疑って用心すること) 拘忌(コウキ)(ある物事にこだわってそれを嫌うこと) 盱衡(クコウ)し(目を見張ってにらみ) 掀髯(キンゼン)(笑って口髭を動かし) 揚々(ヨウヨウ)(得意げに) 政源(セイゲン)(政治の根本) 治本(チホン)(統治の根本) 横流(オウリュウ)(水があふれて流れ出すこと) 四潰(シカイ)(四方に逃げ散る) 卑卑(取るに足らない) 策命(命令) 封爵(領土と爵位を与える) 舒徐(ジョジョ)(ゆるやか) 委靡(イビ)(衰え弱る)交質(コウチ)(互いに人質を取り交わす) 冠履倒置(カンリトウチ)(上下の秩序が乱れること) 二毛(白髪交じりの老人) 叔季(シュクキ)(末世)
(現代語訳)
唐人(中国人)は枝葉末節にこだわり、天下の本質を理解していない。古臭い書物に書いてあることを墨守して、その時代の状況に合わせようとしない。事態は変わるものだ。このため重大な任務を任され国家の重大事に臨んでも失敗しないことの方が少ない。
前漢十代元帝、十一代成帝の治世では地位に就いても責任を果たさず上におもねっているだけの人間が権力を握っており、漢王朝には既に衰亡の兆しが見えていた。大臣たる者は災害や貧困から人民を救うことに力を尽くすべきなのに、匡衡・韋玄成といった儒家官僚が大まじめに議論したのは、王家の祖先祭祀や霊廟に関することだけだった。
後漢の末には多くのくだらない人間が朝廷に満ちて政治を混乱させた。当時の政策はこれらの勢いを次第に奪うこと、或いは犯罪者の首領を殺して残党を許すこと。この二つしかなかった。朝廷の学者たちは党派を形成して小人(宦官のことか?)を責め、小人に身の置き所を無くさせた。その結果党錮の禁が発生し多くの学者が殺されたが、国はこれに従った。
以後、唐には朱全忠が朝廷の官僚を黄河に突き落として皆殺しにした「清流の禍」があったし、北宋には王安石の新法に反対する旧法党の官僚を弾圧した「元祐の黨」が、南宋には朱子学を禁止した「偽学の禁」が、明には東林党を弾圧した「東林の獄」があった。
大昔から国や朝廷が滅びなかったことは無い。晋の王政には規律がなく、災難の兆しが明らかだった。国家が危機に際しているのに世を挙げて老荘思想の論議に夢中になり、うわべばかりで中身のないことをありがたがった。南北で争い戦争が止まず、英雄の出現が待たれる時に、人々は得意げに南向き北向きの方位を調べ、儀式の当否を明らかにしようとしていた。
唐の第三代の高宗の時代には、権力は皇后である則天武后に帰し、禍が目前に迫り危機的状況であった。しかしのんびりと封禅や改元の儀礼を調べるだけで、手をこまねいていて何の対策も行わなかった。
北宋第三代の真宗は契丹に苦しめられ、黄金と幣帛を貢納して和議を結んだ。始めから自らを強化することを考えず、天子の文書やめでたいしるしを偽造し、太平を粉飾して天下に見せびらかした。女真族は徽宗と欽宗を捕虜にして宋の廟を破壊した。まことに報復のためには辛酸に耐え抜くべき敵である。しかし君主も臣下も南に移り、女真族に臣下の礼をとり臣や姪であると称して、湖と山の間で朝廷はとりあえず延命した。歌って踊って楽しみ、全く国土回復の策を考えなかった。
明の第十二代世宗が皇位を継ぐと、家臣たちは静かに落ち着いて帝を助けて、あやまちを改めるといったことができなかった。それどころか、取るに足らない世宗の父への追号の問題で帝と争いになった。帝は激怒し、ことごとく正しい官僚を追放した。多くの小人が徒党を組んで進出してきたがこれを止めることもなかった。
後漢末には涼州で反乱が起きたが監察官の宋梟は反乱が起きるのは学問が浸透していないせいだとして民衆に孝経を読ませて反乱を鎮めようとした。
南朝の梁の元帝は城を包囲されて滅亡の危機が切迫していたが、その中で軍服を着て信奉する老子の講釈を行っていた。
明の末に清軍が王城に迫っていたが、儒学者の劉宋周は夏の禹王が盾と羽の舞で南方の部族を帰服させた故事にならい、この舞でこれを防ごうとした。
唐の時代に李賀は父の名前が晋粛であったため、「晋」と同音の「進」士受験は父の名を侵すとされて、拒否された。
官天下家天下の言葉を使うと、身の安全を保てなくなった。
唐代の官吏、劉禹錫が左遷から長安に戻り、朝廷の様子がすっかり変わったという内容の「玄都観裏桃千樹の句」を読んだら、当局の忌諱するところとなり再び流された。
秦の始皇帝は芒と碭の二山の間に天子の気があるのは自分にとっては不吉であるとして、東遊してこれを鎮めようとした。
南朝の梁の武帝は火星が天廟である南斗六星に入るのは不吉なことであるとして、裸足で御殿を下り御祓いを行った。
王莽は、匈奴や高句麗が服属しないので、匈奴単于を降奴服于に、高句麗を下句麗と改称した。
則天武后は、契丹の首領の李尽忠と孫萬栄とが叛いたので、それぞれ李尽滅、孫萬斬と改名した。
私は彼らの愚鈍さ、浅はかで度量が狭いこと、疑り深いこと、あることを意味も無く忌み嫌うことなどがここまでひどいとは思ってもみなかった。考えてみれば唐人(中国人)が得意げに議論するのは、葬祭の儀式のことや服の色や官名など役に立たないことばかりだ。政治の根源、統治の根本、重要な任務については十分に考えたことが無い。歴代に様々な災いや乱があって救いようのない大混乱になるのも当然のことである。
漢や魏以降の時代にこうした弊害が甚だしいと思えるが、しかしこうしたことは既に夏、殷、周の三代に見える。周の幽王は犬戎に殺された。その子の平王は遷都して避難し、王室は列侯よりも取るに足らない存在となっていった。これをどのような事態と理解したのだろうか。しかし周の君主も家臣もほとんど気にせず、晋侯に命令したり秦伯に爵位を与えたりしていた。言葉も考えもゆるやかで太平の時のようであった。上の人はこんな状態だった。当時の意見もまた従ってふがいないもので全く見識が無かった。周は王室の尊厳を落として鄭国と人質の交換をした。極めて嘆かわしいことだ。君子たるもの、上下の秩序が転倒したことについては論議しない。ただ真心によらない約束はたとえ人質を交わしたところで何の益もないことを責めるのみだ。
春秋時代の宋の襄公は人の死骸を痛めつけ、他国の君主を捕えてこれを生贄にした。無道の極みである。ところが楚との泓水での戦いではこんな聖人じみたことを言っている「白髪交じりの老人は捕虜にしない。相手の陣形が整っていないうちは攻撃しない」と。こんなことでは幼児すら騙すことはできない。
しかし論者が言うには周の文王の戦いもこれと大して変わらないとことだ。何ともまどろっこしいことだ。ああ三代ですらこの程度だ。今の世を責めることができようか。君子ですらこの程度だ。何で小人を責めることができようか。
八(瑞祥や迷信をありがたがる愚かさ)
(漢文)
唐人有華而無實、飾外而不修内、多虚喝誇誕之意、而乏忠厚敦篤之心、其於炳々烺々可驚世駭俗者、毎出死力為之、於陰徳内美、未必足成名者、不肯下手為之、惟然、故行事之迹、赫赫可観、忖度其心、或未出乎真、此予所以深不喜唐人、而尤悪聞夫祥瑞之説、祥瑞之説、其来尚矣、舜之郷雲、禹之玉女、文之赤鳥、武之白魚、皆出於後儒、欲以尊聖人、而適足黠汚盛徳、其罪大矣、周秦而降、一何擾々也、有麟鳳亀龍之瑞、有日月合璧五星連珠之瑞、有景星醴泉之瑞、有赤雁白雉之瑞、有朱草嘉禾之瑞、又有三足之鳥、九尾の狐、金船銀甕、屈軼萐脯、闊達賓連蓂莢、神爵角端之属、唐明皇則一歳而祥瑞二十一事、宋太宗則出瑞物六十三種、宣付史館、名稱紛々、不可一一覩記、霊芝者、常有之物也、而以為難得、甘露者、木汁也、而以之紀元、河清者、水失其姓也、而為之作頌、帝王因是文太平以驕其下、群臣因是頌太平以媚其上、由識者視之、昏主而已佞臣而已、夫人事本也、天象末也、棄人事而論天象、乖舛甚矣、善哉唐太宗之言曰、家給人足、而無瑞、不害為尭舜、百姓愁怨而多瑞、不害為桀紂、且也祥瑞之多、専在好大之主、而仁倹恭黙之君、則寥々焉、漢武帝黷武窮兵、海内顫怨、比之孝文之治、迥乎不及、而祥瑞則倍之、周世宗四征弗庭、國強民足、非偏覇之主所能希望、而祥瑞反不如西蜀王建之多、然則當時情状、居然可見、其出於群臣希旨貢諛之為也昭々矣、夫歴代之久、英君明辟、林々矣、至祥瑞之説、則汲々楽聞、甘與昏主同轍、竟無一覚其非者何也、曰、斯吾所謂有華而無実、飾外而不修内者也、今夫發政施仁、躋海内於至治、良非易々、即能有成、既無形迹可捜尋、則亦未必足傾動天下、但夫喜瑞休徴慶景麟鳳之属、聞者皆以爲盛徳動天地、故能致此、天地且然、況人乎、祥瑞之説、所由熾、如斯而已、苟以是心求之、則或割其股以愈父母之疾、或以父名石、終身不履石、或棄其子而脱弟子、縛其子于樹、使賊得追殺之、凡唐人如此之類、奇偉卓犖、可以駭俗者、皆出于驕激之私、而非由哀之誠可知也、吾又悪唐人於創業之君、稱其姿表祥兆之異、動数十百言、如高祖之白蛇、藝祖之香孩児、猶可諉曰天授、至劉曜苻堅之属、或刎首、或雉経、家國滅覆、乃天下至不詳之人、而史之稱之、或云、垂手過膝、目有赤光、或云神光自天燭其庭、是亦不可以已乎、吁唐人之虚誇甚矣、
(読み下し文)
唐人、華有れども實無し、外を飾れど内を修めず。虚喝(キョカツ)誇誕(コタン)の意(かんがへ)多けれど忠厚(チュウコウ)敦篤(トントク)の心乏し。其の炳々烺々(ヘイヘイロウロウ)たるに於いて世を驚かせ俗を駭(おどろ)かすべきは毎(つね)に死力を出し之を為す。陰徳、内美たるに於て未(いま)だ必ずしも名を成すに足らざれば手を下し之を為すを肯(がへん)ぜず、惟(ただ)然(しかり)とす。故に行事の迹、赫赫(カクカク)たるを観るべけれど、其の心を忖度すれば或いは未だ真より出ず。
此れ予の以て深く唐人を喜ばざる所にして尤(もっと)も夫(そ)の祥瑞(ショウズイ)の説を聞くを悪(にく)む所なり。祥瑞の説、其れ来て尚(ひさ)しきなり。舜の卿雲(ケイウン)、禹の玉女、文の赤鳥、武の白魚、皆後儒より出づ。以て聖人を尊ばんと欲して適(まさ)に盛徳を黠汚(カツオ)するに足る。其の罪大なり。周秦而降(ジコウ)一(いったい)何ぞ擾々(ジョウジョウ)たるや。麟鳳亀龍の瑞有り、日月合璧(ジツゲツガッペキ)五星連珠の瑞有り、景星(ケイセイ)醴泉(レイセン)の瑞有り、赤雁白雉の瑞有り、朱草嘉禾の瑞有り、又三足の鳥、九尾の狐、金船銀甕、屈軼(クツイツ)・萐脯(ショウホ)、闊達賓連(ビンレン)・蓂莢(メイキョウ)、神爵(シンジャク)角端の属(たぐひ)有り。唐明皇則ち一歳にして祥瑞二十一を事とす。宋太宗則ち瑞物六十三種を出し史館に宣付(センプ)す。名稱紛々(フンプン)とし一一(いちいち)覩記(トキ)すべからず。霊芝は常有(ジョウユウ)の物なり。而して以て得るに難しと為す。甘露は木の汁なり。而して之を以て紀元とす。河清ければ、水其の性を失ふなり。而して之が爲に頌(ショウ)を作り、帝王是れに因り太平を文(かざ)り以て其の下に驕(おご)り、群臣是れに因り太平を頌(いは)ひ以て其の上に媚ぶ。識者之を視るに由(よ)れば、昏主(コンシュ)なるのみ、佞臣なるのみ。夫れ人事本なり、天象(テンショウ)末なるに、人を棄て天象を論ずるを事とすは乖舛(カイセン)甚しきなり。
善き哉(かな)、唐の太宗の言に曰く「家ごとに給し人ごとに足らば瑞無くとも、尭舜為るを害(そこな)はず。百姓愁怨(シュウオン)せば瑞多くとも桀紂為るを害(そこな)はず」と。且也、祥瑞之(これ)多きは専ら大を好む主(あるじ)に在りて、仁倹(ジンケン)恭黙(キョウモク)の君、則ち寥々(リョウリョウ)なり。
漢の武帝黷武(トクブ)窮兵(キュウヘイ)し、海内(カイダイ)顫怨(センオン)す。之を孝文の治に比ぶれば、迥(はるか)に及ばざるも祥瑞則ち之に倍す。
周の世宗、弗庭(フテイ)に四征し、國強く民足る。偏覇の主(あるじ)の能く希望する所に非ず。而して祥瑞反(かへっ)て西蜀の王建の多きに如かず。然れば則ち當時の情状居然(キョゼン)と見るべし。其れ群臣の希旨(キシ)貢諛(コウユ)の爲すより出るや昭々(ショウショウ)たり。
夫れ歴代之(これ)久しく、英君明辟(メイヘキ)林々(リンリン)たるに、祥瑞の説に至れば則ち汲々(キュウキュウ)として楽聞し、昏主と同じ轍(わだち)に甘んじ、竟(つひ)に其れに非を覚ゆる者一(ひとり)も無きは何ぞや。曰く、斯れ吾の所謂(いはゆる)華有りて実無し、外を飾りて内を修めざる者なり。
今夫れ政を發(をこ)し仁を施し、海内を至治(シチ)に躋(のぼ)すは良(まこと)に易々(イイ)たらず。即ち能く成す有れども、既に捜尋(ソウジン)すべき形迹(ケイセキ)無ければ則ち亦未だ必ずしも天下を傾動するに足らず。但(ただ)夫れ喜瑞(キズイ)休徴(キュウチョウ)慶景麟鳳の属(たぐひ)、聞く者皆以て盛徳(セイトク)天地を動かすと爲す。故に能く此(これ)を致さば天地且(かつ)然(しか)り。況(いは)んや人をや。祥瑞の説の熾(さかん)なる所由(ショユウ)、斯くの如きのみ。
苟(いやしく)も是の心を以て之(これ)を求むれば則ち、或いは其の股を割(さ)き以て父母の疾(やまひ)を愈(いや)さんとし、或は父の名の石なるを以て終身石を履まざらんとし、或は其の子を棄てて弟子(テイシ)を脱し、其の子を樹に縛り賊に之の追殺(ツイサツ)を得せしめんとす。凡(およそ)唐人此くの如くの類(たぐひ)、奇偉卓犖(キイタクラク)にして、以て駭俗(ガイゾク)すべきは、皆驕激(キョウゲキ)の私(わたくし)より出でて、衷(まこと)の誠(まこと)に由るに非ざるを知るべきなり。吾又唐人の創業の君を悪(にく)む。其の姿表(シヒョウ)祥兆の異なるを稱(たた)ふること動(ややもすると)数十百言、高祖の白蛇、藝祖の香孩児(コウガイジ)の如きなり。猶ほ天授(テンジュ)を曰ふに諉(かこつ)くべし。劉曜(リュウヨウ)苻堅の属(たぐひ)に至れば、或いは首を刎ね、或いは雉経(キケイ)し、家國滅覆(メツフク)す。乃(すなは)ち天下不詳(フショウ)の人に至るも、史(ふみ)は之(これ)を稱(たた)へ、或いは云はく「手を垂らせば膝を過ぎ目に赤光有り」と、或いは云はく「神光天より其の庭を燭(てら)す」と。是れ亦以って已(や)むべからざるなり。吁(ああ)唐人の虚誇(キョコ)甚しきかな。
(語釈)
虚喝(キョカツ)(こけおどし) 誇誕(コタン)(大げさな事を言って威張ること)忠厚(チュウコウ)(真心に厚いこと) 敦篤(トントク)(人情に篤いこと)炳々烺々(ヘイヘイロウロウ)(明らか) 陰徳(隠れた善行) 内美(心の中に在る善美の徳) 赫赫(カクカク)(輝き目立っている) 祥瑞(ショウズイ)(めでたいしるし)卿雲(ケイウン)(めでたいことの起こる前兆とされる雲) 玉女(天女) 後儒(後世の儒者) 黠汚(カツオ)(ずる賢くけがす)擾々(ジョウジョウ)(乱れて落ち着かない)日月合璧(ジツゲツガッペキ)(太陽と月が同時に昇ること) 五星連珠(金、木、水、火、土の五星が同一の方向に見える現象) 景星(ケイセイ)(めでたい前兆の星)醴泉(レイセン)(甘泉) 屈軼(クツイツ)・萐脯(ショウホ)(いずれも瑞草の名) 賓連(ビンレン)(瑞木) 蓂莢(メイキョウ)(瑞草) 神爵(シンジャク)(めでたいしるしとされる雀) 角端(瑞獣) 史館(史書を編纂する所) 宣付(センプ)(君命で下げ渡す) 覩記(トキ)(見聞と記憶) 常有(ジョウユウ)(常にある、珍しくない) 甘露(中国の伝説で、王者がよい政治をすると、そのしるしとして天がふらすという。天下太平のしるし) 紀元(物事のはじめ) 河(黄河) 頌(ショウ)(めでたい詩)文(かざ)る(うわべをとりつくろう) 昏主(コンシュ)(愚かな君主) 人事(人間社会の事柄) 天象(テンショウ)(天文現象) 乖舛(カイセン)(くいちがうこと) 仁倹(ジンケン)(慈悲深くつつましいこと) 恭黙(キョウモク)(慎み深く無口) 寥々(リョウリョウ)(わずか) 漢の武帝(前漢第七代の皇帝。漢の周辺の諸民族、諸地域に対する大規模な軍事遠征を成功させ、中国史上空前の大帝国を樹立した。しかし、外征による支出をはじめ、運河の掘鑿、黄河の治水、宮殿の築造などの大土木事業による支出も大きく、財政事情が急激に悪化し、国庫の増収を目的とした諸対策のためにさまざまな圧政を行った。晩年は、彼の樹立した大帝国の矛盾が内外で表面化し、危機的な状況が生まれた) 黷武(トクブ)(みだりに兵を用いて武徳を汚すこと) 窮兵(キュウヘイ)(兵を使い果たすこと) 海内(カイダイ)(国中) 顫怨(センオン)(ふるえて恨む) 孝文(北魏第六代皇帝。種族的原理がなお強く作用していた北魏国家を漢族風の貴族制導入により種族を超えた普遍国家にした。帝は儒学,史学,老荘学などの造詣深く,詔勅などもみずから筆を執って書くほどの教養人で,こうした改革にふさわしい心身共に強靱な帝王であった。 周の世宗(五代後周の第二代皇帝。軍の大改革で五代最強かつ厳正な軍隊をつくり上げ,統一事業を推進した。内政面でも,廃仏を断行して大量の仏像を貨幣に改鋳し,均税を行って農業生産の回復を図った。五代第一の名君と称せられる) 弗庭(フテイ)(朝廷に帰順せず反抗する者) 偏覇(一方の旗頭) 西蜀の王建(五代十国の十国、前蜀の初代皇帝。もと無頼の徒。四川全体を勢力下におくことに成功し,唐朝からは蜀王に封ぜられ,唐の滅亡後は帝位について国号を大蜀とした.その性格は慎み深く,家臣の直言を受け入れる度量もあったが,一方で猜疑心も強く,功績のある将士に罪を着せて殺害することもしばしばあった) 居然(キョゼン)(落ち着いて)希旨(キシ)(迎合) 貢諛(コウユ)(へつらい)昭々(ショウショウ)(明らか) 明辟(メイヘキ)(明君) 林々(リンリン)(多い) 至治(シチ)(この上なく天下が治まること)易々(イイ)(たやすい)捜尋(ソウジン)(たずね探す) 喜瑞(キズイ)(瑞兆) 休徴(キュウチョウ)(吉兆) 盛徳(セイトク)(立派な徳) 所由(ショユウ)(理由) 股を割(さ)き以て父母の疾(やまひ)を愈(いや)す(自分の股の肉を切り取って父母に食べさせれば病気が治るとされていた) 奇偉卓犖(キイタクラク)(立派ですぐれている) 駭俗(ガイゾク)(世の人を驚かす) 驕激(キョウゲキ)(わざと普通と違った行動をすること)私(わたくし)(よこしまなこと) 姿表(シヒョウ)(様子) 香孩児(コウガイジ)(香り坊や) 天授(テンジュ)(天から授かったもの、才能) 劉曜(リュウヨウ)(五胡十六国の漢(前趙)の第五代皇帝。洛陽を攻め落として懐帝を捕虜とし その際,皇后羊氏を奪って妻とした.西・南方に勢力を拡大したが,洛陽で石勒に敗れて捕らえられ殺害された) 苻堅(五胡十六国,前秦の第三代皇帝。天下統一を目指して大軍を率いて東晋に攻め込んだが,淝水で大敗しこれによって求心力を失い,燕や後秦などが次々に独立した.姚萇に捕らえられ,禅譲を求められたがこれを拒否したため,縊殺された) 雉経(キケイ)(縊死) 滅覆(メツフク)(滅亡) 不詳(フショウ)(不吉) 虚誇(キョコ)(ほらふき)
(現代語訳)
唐人(中国人)は華があっても実がない。外見を飾っても中身がない。こけおどしや大げさな考えは多いが、真心や人情に乏しい。目立って人を驚かすようなことについては全力で行うが、隠れた善行や内なる心の美徳に基づく行為については必ずしも有名にならないので実行しようとせずそのままにしている。このため行為の外見は輝き目立っているように見えるが、その心を考えてみると真心があるとは思えない。この点が私の唐人(中国人)について不快に思うところで、とりわけ彼らの祥瑞(天が聖人や王者の徳を称えていることを示す自然現象)の話を聞かされるのが不快だ。
祥瑞の話は昔からある。舜王のめでたい雲、禹王の天女、文王の赤い鳥、武王の白い魚、皆後世の儒者が言いだしたものだ。これにより聖人を称えようとしてかえって聖人の徳を汚しており、その罪は大きい。周王朝、秦王朝以後、どうしてこうも乱れて落ち着かないのか。それでも麒麟や鳳凰、亀、龍の瑞祥がある。日と月が同時に昇り、金、木、水、火、土の五星が同一の方向に見えるという祥瑞もある。めでたい星や甘泉の祥瑞、赤雁や白雉の祥瑞、朱草嘉禾の瑞祥もある。また三足の鳥、九尾の狐、金船銀甕、屈軼・萐脯・闊達賓連・蓂莢などのめでたい植物、神爵というめでたい雀、角端というめでたい獣などの祥瑞もある。
唐の玄宗皇帝には一歳で二十一の瑞祥が現れた。宋の趙匡胤は六十三種類の瑞物を出し、君命で史料編纂所に下げ渡した。その名称は様々でいちいち覚えていられない。霊芝はどこにでもあるものだが、これを入手が難しいものということにした。甘露は木の汁だが、これを物事の紀元とした。黄河の水が澄んでしまえば河の性質が変わってしまう。しかしこれについて帝王は太平のうわべをとりつくろいめでたい詩を作って家臣に誇り、家臣は上に媚びて太平を祝った。識者がこれを見ればただの愚かな君主とこれにこびへつらう家臣である。そもそも人間社会の事象が根本で、天文現象など末節のことにすぎない。それなのに人間社会のことを捨て置いて天文現象をあれやこれや言うのは勘違いも甚だしい。
唐の太宗が実に良いことを言っている「どの家もどの人も裕福で満ち足りていれば、瑞祥がなくても聖帝である尭舜の世と同じと言ってさしつかえない。人民が皆憂鬱で怨んでいれば瑞祥が多くても暴君である桀や紂の世と同じと言ってさしつかえない」と。そもそも瑞祥が多いのは専ら大げさなことを好む君主であって、慈悲深く慎み深い君主にはわずかしかない。漢の第七代武帝はむやみな出兵や遠征で兵は疲れ国中から怨まれた。これは北魏第六代の孝文帝の治と比べればはるかに劣るが、瑞祥だけはこれの倍はあった。五代十国時代、五代後周の皇帝世宗は四方の敵を平らげ、国力を強化し民も豊かになった。これは凡庸な国主になしうるようなことではない。それでいながら瑞祥については、十国西蜀の皇帝である王建のように多くはなかった。そうしてみると当時の状況を冷静に見てみる必要がある。瑞祥の多さは家臣どもの迎合や媚びへつらいから出ていることは明らかであろう。
そもそも長い歴史の中で英君や名君と呼ばれる者は数多くいるのに、瑞祥について皆夢中になり、暗君と同じ過ちを犯し、それに気づく者が一人もいないのはどうしたことか。これは私に言わせれば、華があっても実が無い、外見を飾って中身が無いということだ。
そもそも仁政を施し国内を円満に治めることは実に容易なことではない。うまくいったことがあっても、すでにその形跡がなくなっていれば国全体に影響を及ぼすには至らない。ただそもそも、吉兆が出たとか麒麟だの鳳凰が出たといった話を聞いた者は皆立派な徳が天地を動かすだろう考える。それゆえ瑞祥が出れば天地が動くと考えるし、ましてや人にも影響すると考えるのは勿論である。祥瑞の話が盛んにされるのはこうした理由なのである。
もしこうした愚かな心で物事を求めれば、自分の腿の肉を切り取って父母に食べさせて父母の病を治そうとしたり、父の名前に「石」とついているので終生石を踏むまいとしたり、賊に追われていて自分の子を棄てて兄の子を逃し、自分の子を木に縛って賊が追いかけてきて殺せるようにする、などといったことまでするようになる。だいたい唐人(中国人)がこうした人を驚かすような行為をするのは、わざと目立ったことをしようとするよこしまな動機から出たもので、真心から出たものでは無いということを知るべきである。
私はまた王朝の創業の君主を憎む。その様子や吉兆の珍しさを称えるのにややもすれば数十、数百の言葉を費やす。漢の高祖劉邦の「白蛇」や宋の太祖趙匡胤の「香り坊や」などは、まるで天から授かった特別な才能があるかのように示すためのものである。五胡十六国時代の前趙の劉曜や前秦の苻堅に至っては斬首されたり縊殺されて国家は滅亡しており、めでたくない人だが、歴史書はこれを称えて、或いは「手を垂らせば膝を過ぎ、目には赤光があった」とか、或いは「神の光が天から庭を照らした」などと書いている。こうしたことがやめられないのだ。ああ、唐人(中国人)のホラ吹きぶりはひどいものだ。
九(異民族を軽蔑しながらそれより劣る中国人)
(漢文)
其両間建国者、幾千萬矣、曽有困於外國如斉州之甚者乎、曽有兵力之孱弱如斉州之甚者乎、周之盛時、淮夷・徐奄、既捍然行稱亂、及其衰也、西戎畎戎、入弑幽王、楊拒泉皐伊雒陸渾之夷、公然與周人雑居、蓋在三代固已然矣、漢高祖以天下之衆、厄於白登、武帝竭海内之力以北伐、匈奴、雖衂、漢亦大罷弊、唐之中葉再窘於叛胡、再困於吐蕃、流離遷竄、無所定居、宋始衂于遼夏、中敗于金、終殲于元、納金幣乞和議之外、茫無一策、兢々如附庸之事侯伯、猶可謂國有人邪、明太祖逐胡元、以復中州、厥功偉矣、顧嗣後戎虜之禍、世々不絶、中間天子被虜者有之、都城受囲者有之、卒之満虜横行、中州之民、死者十七八、而明社屋矣、蓋三代以降、斉州之兵勢、世弱一世、戎狄之禍、歳甚一歳、較其智、則戎狄或出于斉州之上、比其勇、則斉州遠不及戎狄、是故女真以三五胡人、守一大郡、而宋人不敢闖其境、(見嬾真子)天文弘治之際、西海逋逃、屡抄掠明江南、甞以六七十人、蹂躙数千里、明出大兵、裁能殲之、清奴児哈赤以甲士十三人起、明人震恐、四十萬衆、分四道來攻、奴児哈赤以少卒當之、斬馘十餘萬、我兵財損二百人、曹彬稱為宗三百年第一名将、一遇遼耶律休哥、折北不救、郷使當粘没喝木華黎、不死則虜耳、五代時契丹攻晋、引兵去、晋王李存勗躡之、隨其行止、見其野宿之所布藁於地、回環方正、皆如編剪、雖去、無一枝亂者、嘆曰、吾所不及也、此誠公平之言、唐人信乎不及戎狄也、斉州世非乏智計之士、至于用兵、則大遜於戎狄者何也、夫議論勝而成功少、絛約煩而致敗多者、凡事皆然、軍旅為甚、斉州習俗澆漓、有言無行、将士疎隔、而情不通、約束細苛、而不合于要、加之生平淪陥於財利酒色之間、勇智竭、遠不及戎狄捍鷙之俗、易簡之法以是敵彼、其不能抗也則宜、惟清有天下、百六十載于茲、雖多酷虐之政、國勢盛彊、封域廓大、大勝於漢唐、蓋出于戎狄故能然、宜非唐人之所及也、唐人之賤戎狄、至明尤甚、若不歯為人者、今清自滿洲入代明、擧斉州之地、莫不辨髪而左衽乃唐人求媚、動稱以為五常三王所不及、雖出于畏而不得已、其無特操甚矣、雖然使唐人帝斉州、其治効決不及戎狄、則惟當妥尾貼耳、以媚事満虜可也、奚必以變于夷為恨哉、
(読み下し文)
其れ両間に國を建つる者は幾千萬なり。曽(なん)ぞ外國に困(なや)むこと斉州の如く之(これ)甚しき者有るや。曽(なん)ぞ兵力の孱弱(センジャク)なること斉州の如く之(これ)甚しき者有るや。
周の盛(さかん)なる時、淮夷(ワイイ)・徐(ジョ)・奄(エン)、既に捍然(カンゼン)と稱亂(ショウラン)を行ひ、其の衰(おとろ)ふるに及ぶなり。西戎(セイジュウ)・畎戎(ケンジュウ)入りて幽王を弑(ころ)し、楊拒(ヨウキョ)、泉皐(センコウ)・伊雒(イラク)・陸渾(リクコン)の夷、公然と周人と雑居す。蓋(けだ)し三代に固(もと)より已然(イゼン)として在るなり。
漢の高祖天下の衆を以(ひき)ゐ、白登(ハクトウ)に於て厄(くる)しむ。武帝、海内の力を北伐を以て竭(つく)し、匈奴衂(やぶ)ると雖ども漢亦大ひに罷弊(ヒヘイ)す。
唐の中葉再び叛胡に窘(くる)しむ。再び吐蕃(トバン)に困(くる)しみ、流離(リュウリ)遷竄(センザン)し、定居(テイキョ)する所無し。
宋、始め遼・夏に衂(やぶ)れ、中ごろ金に敗れ、終(つひ)に元に殲(ほろ)ぼさる。金幣を納め和議を乞(こ)ふの外、茫(ボウ)として一策無し。兢々(キョウキョウ)として附庸(フヨウ)の侯伯(コウハク)に事(つか)ふるが如し。猶ほ國に人有るやと謂ふべし。
明の太祖胡元(コゲン)を逐(お)ひ以て中州を復す。厥(その)功偉なり。顧(かへっ)て嗣後(シゴ)戎虜の禍(わざはひ)世々(セイセイ)絶へず、中間に天子虜(とりこ)とせらるること之れ有り、都城(トジョウ)囲みを受くること之有り。卒(つひ)に之れ満虜横行し、中州の民死者十に七八にて明社屋(オク)す。
蓋(けだ)し三代以降、斉州の兵勢、世(よよ)に弱き一世となり、戎狄(ジュウテキ)の禍、歳(としごと)に甚しき一歳となる。其の智を較ぶれば則ち戎狄或いは斉州の上に出で、其の勇を比ぶれば則ち斉州戎狄に遠く及ばず。
是故(これゆゑ)女真三五の胡人を以て一大郡を守りて宋人敢へて其の境を闖(うかが)はず。(嬾真子(ランシンシ)に見る)
天文弘治の際、西海の逋逃(ホトウ)、屡(しばしば)明の江南を抄掠(ショウリャク)し甞(かつ)て六七十人を以て数千里を蹂躙す。明、大兵を出し、裁(わづか)に能く之れを殲(ほろ)ぼす。
清の奴児哈赤(ヌルハチ)甲士十三人を以て起(た)つ。明人震へ恐れ四十萬の衆を四道に分け來攻す。奴児哈赤(ヌルハチ)少卒を以て之に當り斬馘(ザンカク)十餘萬、我兵財(わづか)に二百人を損(そこな)ふ。
曹彬(ソウヒン)、宋三百年第一の名将為りと稱す。遼の耶律休哥(ヤリツキュウカ)に一遇し、折北(セツボク)し救はず。郷使(キョウシ)粘没喝、木華黎(ムカリ)に當たり死なざれば則ち虜(とりこ)たるのみならん。
五代の時、契丹(キッタン)晋を攻め兵を引き去る。晋王李存勗(リソンキョク)之れを躡(お)ふ。其の行(みち)に隨(したが)ひ、其の野宿の所を止まり見れば、地に藁を布き、回環(カイカン)・方正、皆編(なら)べ剪(き)るが如し。去ると雖ども、一枝亂す者無し。嘆きて曰く「吾及ばざる所なり」と。此れ誠に公平の言なり。唐人信(まこと)に戎狄に及ばざるなり。
斉州世に智計の士乏しきに非ざるに、用兵に至らば則ち大ひに戎狄に遜(ゆづ)るは何ぞや。夫れ議論に勝ちて成功少なく、絛約煩(わづらは)しくて敗るるに致ること多きは、凡事(およそこと)皆然り。軍旅甚しきを為す。斉州の習俗澆漓(ギョウリ)にして、言(ことば)有るも行なひ無し。将士疎隔(ソカク)にして情通(かよ)はず。約束細苛(サイカ)にして要(かなめ)に合はず。之に加ふるに生平(セイヘイ)財利(ザイリ)酒色の間に淪陥(リンカン)し、勇熸(き)え智竭(つ)く。遠く戎狄の捍鷙(カンシ)の俗(ならはし)、易簡(イカン)の法に及ばず。是以(これゆゑ)彼に敵(あた)らば、其の抗(あらが)ふこと能(あた)はざるや則ち宜(むべ)なり。
惟(ただ)清天下を有すること茲(ここ)に百六十載。酷虐(コクギャク)の政(まつりごと)多しと雖ども、國勢盛彊(セイキョウ)にして封域(ホウイキ)廓大(カクダイ)し、大ひに漢唐に勝(まさ)る。蓋(けだ)し戎狄より出る故に能(よ)く然(しかり)とす。宜(よろし)く唐人の及ぶべき所に非ざるなり。唐人の戎狄を賤(いやし)むこと明尤(もっとも)甚しきに至り、人為るに歯(よはひ)せざる者の若(ごと)し。今清、滿洲より入り明に代り、斉州の地を擧げ、辨髪にして左衽(サジン)たらざるは莫し。乃(すなは)ち唐人媚(こび)を求め、動(ややもすると)五常三王及ばざる所と為すを以て稱(たた)ふ。畏(おそれ)より出て已(や)むを得ざると雖ども、其の特操(トクソウ)無きこと甚しきかな。然りと雖ども唐人を斉州に帝(みかど)たらしめば、其の治効(チコウ)決して戎狄に及ばず。則ち惟(ただ)當(まさ)に妥尾貼耳(ダビチョウジ)し満虜に媚事(ビジ)するを以てせば可也(かなり)。奚(なん)ぞ必ずしも夷に變るを以て恨みを為すや。
(語釈)
両間(天と地の間 世界) 孱弱(センジャク)(弱い) 淮夷(ワイイ)(東夷の名) 徐(ジョ)・奄(エン)(周代の諸侯国の名) 捍然(カンゼン)(猛々しく) 稱亂(ショウラン)(反乱) 幽王(周王朝第十二代の王。寵妃褒姒への愛におぼれて申皇后と太子を廃し、褒姒を正后、その子を太子としたため、犬戎の力を借りた外戚の申侯に攻められ、驪山(りざん)で殺された) 楊拒(ヨウキョ)(西戎の名) 泉皐(センコウ)・伊雒(イラク)・陸渾(リクコン)(いずれも春秋時代に夷のいた土地の名) 已然(イゼン)(すでにそうなっている状態)白登(ハクトウ)(高祖が匈奴を討ちに行って逆に匈奴に包囲された山) 吐蕃(トバン)(七世紀初めにチベットに成立した王国。安史の乱に乗じて西域を支配した。一時長安に侵攻して第八代の代宗に都落ちを余儀なくさせた) 流離(リュウリ)(さすらう) 遷竄(センザン)(逃れ隠れる) 金幣(金貨)茫(ボウ)(ぼんやり) 兢々(キョウキョウ)(びくびくして) 附庸(フヨウ)(大国に付属する小国)侯伯(コウハク)(諸侯)胡元(コゲン)(元人) 世々(セイセイ)(代々) 都城(トジョウ)(みやこ) 満虜(滿洲の異民族)明社(明の国家)屋(オク)す(覆いをかける、滅亡する) 三五(わずかな) 嬾真子(ランシンシ)(宋の馬永卿の書) 逋逃(ホトウ)(罪を犯して逃亡している者) 抄掠(ショウリャク)(略奪) 甲士(兵士)
曹彬(ソウヒン) (五代-北宋の武将.趙匡胤が宋を建国するとこれに仕えて後蜀の討伐に従軍し,南唐攻略ではその指揮を任された北漢討伐にも従軍して功績をあげたが,太宗(趙匡義)の北伐の際には遼軍に敗北を喫して降格させられた.温厚にして清廉な性格で,金陵(南京)陥落の際に暴行を厳しく戒めたことなど,それを示す逸話は数多く残されている) 耶律休哥(ヤリツキュウカ)(遼の武将.太宗(北宋)の侵攻を受け南京(現,北京市)を包囲された際には援軍を率いて,高梁河(北京市西南)で耶律斜軫と共に宋軍を挟撃して打ち破り,太宗を単騎敗走させた。曹彬らによる北宋の北伐軍が押し寄せると,兵力に劣る耶律休哥はゲリラ的な戦術をとって宋軍を疲労させ,承天太后の援軍が到着すると攻勢に転じて大いに打ち破った) 折北(セツボク)(敗北)郷使(キョウシ)(もし、仮に) 粘没喝(北宋を滅ぼした金の武将) 木華黎(ムカリ)(モンゴル帝国草創期の部将 チンギス・カンのモンゴル統一に大功を立てた) 李存勗(リソンキョク)(五代後唐の初代皇帝。突厥 沙陀族の出身で唐末の群雄李克用の長子として生まれ、晋王の位を継いだ。劣勢にあった後梁との抗争を攻勢に転じ、河北諸藩を併呑してほぼ後梁に匹敵する勢力となり、唐朝復興を標榜して国号を大唐と定め、同年中に激戦のすえ後梁を滅ぼし、洛陽に遷都した) 回環(カイカン)(円形) 方正(正方形) 軍旅(軍隊) 澆漓(ギョウリ)(義理人情に薄い) 将士(将軍と兵士) 疎隔(ソカク)(疎遠) 情(情報)細苛(サイカ)(細かく煩わしい) 生平(セイヘイ)(ふだん) 財利(ザイリ)(金儲け) 淪陥(リンカン)し(落ちぶれる)捍鷙(カンシ)(強く荒々しい) 易簡(イカン)(簡易) 封域(ホウイキ)(領土) 廓大(カクダイ)(拡大) 歯(よはひ)(つらなる、なかまに入る) 左衽(サジン)(着物を左前に着ること、夷の風俗とされる) 五常(仁義礼智信の五つの徳) 三王(古代の三聖王 夏の禹王、殷の湯王、周の文王) 特操(トクソウ)(堅く守り通すみさお)治効(チコウ)(政治の効果) 妥尾貼耳(ダビチョウジ)(尾を地面に垂れ耳を澄ます) 満虜(滿洲の異民族)媚事(ビジ)(こびへつらって仕える)
(現代語訳)
そもそも世界中で建国する者は幾千万もあるが、斉州(中国)ほど外国に悩まされることが甚だしい国は他にあるだろうか。斉州(中国)ほど兵力が弱い国は他にあるだろうか。
周王朝が盛んであった時に既に東方の異民族の淮夷や諸侯国の徐・奄などが猛然と反乱を行い、周の衰退につながった。異民族の西戎や畎戎が侵入して幽王を殺し、楊拒、泉皐・伊雒・陸渾にいた異民族が公然と周人と雑居するようになった。考えてみれば三代の古代王朝の時にすでにそんな状態だったのだ。
漢の高祖は多くの家臣を率いて白登の山で匈奴に包囲されて苦しんだ。漢の武帝は国中の力を尽くして遠征し匈奴を破ったが、国力も大いに疲弊した。
唐の中頃、再び異民族の反乱に苦しんだ。チベットの異民族である吐蕃に再び苦しめられ、皇帝は都落ちし逃げ隠れて定住するところもなかった。
宋は始めの頃遼や夏に敗れ、中頃は金に敗れ、ついには元に滅ぼされた。金貨を納めて和議を願う他には有効な対策が無かった。小国がびくびくと諸侯に仕えるかのようであった。これでも国に人材がいたのかと言いたくなる。
明の太祖朱元璋は元を追い払い中州を回復した。その功績は大きい。しかし以後は代々異民族に悩まされることが絶えず、中頃には皇帝が捕虜になったこともあるし、都が包囲されたこともある。ついには滿洲の異民族が横行し、中州では十人のうち七・八人が殺され明は滅亡した。
考えてみると夏・殷・周の三代以降、斉州(中国)の兵力は次第に弱くなり、異民族の侵攻は次第に激しくなった。その知恵を比べれば異民族の方が上回り、その勇気を比べれば斉州(中国)は異民族に遠く及ばない。このため女真族はわずかな人数で一つの大きな地方を守り、宋人はあえて国境に侵入しようとはしなかった。
室町時代の天文弘治年間、日本の西海の犯罪逃亡者がしばしば明の江南を掠奪し、六・七十人で数千里を荒らしまわった。明は大軍でやっとこれを滅ぼした。清のヌルハチが十三人で挙兵すると、明は震えるほど恐れ、四十万の兵を四つに分けて攻めた。ヌルハチは少数の兵でこれにあたり、十万余りの首を挙げ自軍の損失はわずか二百人だった。
曹彬は宋王朝三百年の中で第一の名将と言われているが、遼の耶律休哥に一たび遭遇すると敗北して自軍を救えなかった。もし金の粘没喝やモンゴルの木華黎のような武将に遭遇し死ななければ捕虜となるだけだっただろう。
五代十国時代、モンゴル族の契丹が晋を攻めて兵を引き揚げた。晋王の李存勗がこれを追い、道すがら野宿した所を見ると、地面に藁を敷き円形のところも正方形のところも皆切りそろえたように形が整っており、退去した後も一枝も乱れていなかった。晋王は感嘆して「とても我々の及ぶ所ではない」と言った。これは誠に公平な発言であって、唐人(中国人)はこのような異民族にとても及ばない。
斉州(中国)には知恵や戦略のある人間が少なくないのに、用兵になると異民族より劣るのはなぜか。そもそも議論に勝っても成功することは少なく、紙に書いた約束事が煩わしすぎて失敗に至ることが多いのはすべてのことに当てはまる。軍隊では特にそうである。斉州(中国)の文化は義理人情に薄く、言葉があっても行いが伴わない。将軍と兵士の間が疎遠で情報がうまく行き渡らない。約束事が細かく煩わしくて実用的でない。これに加えて、ふだんから金儲けや酒色に溺れ、勇気や知恵が無くなっている。異民族の強く荒々しい文化や簡易な法体系に遠く及ばない。このため彼らに敵対してもかなわないのは当然である。
ただ、清王朝は天下を支配して百六十年。残酷な政治が多いとはいえ、国勢は強く領土も拡大しており、漢や唐より大いに勝っている。思うに異民族出身だからこのようにできているのだろう。唐人(中国人)のできることではない。唐人(中国人)が異民族を軽蔑する点では、明がとりわけひどく、まるで人の仲間ではないかのような扱いだった。現在清は滿洲から入り明に代わっており、すべての斉州(中国)の地で満州族の風習である辮髪や着物を左前に着ることを行わない者はいない。それどころか唐人(中国人)は清に媚を求め、ややもすると仁義礼智の五つの徳や古代の三聖王も及ばないなどと言って称える。恐れからこうしたことをするのもやむを得ないかもしれないが、節操のないこと甚だしいものだ。そうかと言って唐人(中国人)を斉州(中国)の帝王にすれば、その政治は決して異民族にかなわないだろう。だから尻尾を地面に垂れて耳を澄ませて滿洲の異民族に媚びへつらって仕えていればいいのだ。何で異民族に代わられたからと言ってそれを恨むのか。
十(女性による災いのすさまじさ)
(漢文)
嗚呼斉州歴代之女禍可謂烈哉、夏之亡也由未喜、殷之亡也由妲己、周之亡也由褒姒、呂不韋進孕婦而嬴為呂矣、燕々啄皇孫、而火徳之衰兆矣、南風毒愍懐而典午土崩矣、麗華與狎客為一、而金陵兵墟矣、楊氏蠱惑玄宗、而唐之天下瓜分矣、其他弑君絶嗣、戮諫臣、賊賢輔、未至于殄社稷、即殄社稷焉在、夫偏覇之國、未暇一々徧擧也、漢鄧后有賢明之稱、利幼主、擅朝政、終来滅族之禍、隋獨孤后有才智之名、始已次骨、易置儲后、竟成唐家之駆除、其以才徳聞者且然若此、矧下焉者乎、趙宋而来、家法森厳、大勝漢唐、是以未至以婦人覆亡天下、然此猶縛梟于籠檻、其食父母之心、則未必忘也、蓋斉州男子、既已薄悪無行、虚誇無實、以此倡率婦人、則婦人固冝其然也、維我神后親將六師、龍舟凌海、以平三韓、四夷既賓、戢干戈、以興雍煕之治、文功昌、武功盛、元明元正二女帝、内行端潔、至誠篤恭、躋斯民乎仁壽之域、論者以為女中尭舜、夫以女主臨天下、未為美事、然足以別婦人之賢不賢、才不才、又足以見風俗之媺悪、婦人之賢如此、則男子従而可知已、斉州女主御世、以女為稱首、但上世荒眇、其信為婦人與否、未可的知、下此、則漢之呂雉、唐之武、頗有英断権譎之才、然雉則菹醢功臣、崇信私黨、漸誅鋤劉氏、殆成易姓之禍、曌則公然易國號、自称皇帝、罪通于天矣、又況親委酷吏、以屠戮忠賢、剪艾宗室、以寡弱王家、其淫穢則人盡夫也、而大宗高宗聚麀之醜、在所不問、其残忍則親生之子、且手殺之、而弑后屠兄之罪、則無足異者、之二人、比之我神后二女帝、直天地懸而黒白別矣、嗟夫神后尚矣、不可及已、昔俄羅斯主、将兵出征、不在其國、都児格強国也、乗虚来攻、王后加太里那親出禦之、大戦三日、都児格不能克、乞和而退、契丹主隆緒尚幼、其母䔥后、奉隆緒以攻宋、冞入其境、宋人納幣求和、遂為澶淵之盟而還、斯其英風奇気、在斉州諸主、未多見、況后妃乎、當䔥后之攻宋也、正宋初強盛之日、而宋挙国震讋、辟臣惶擾、計不知所出、或請幸成都、或請幸金陵、向非寇莱公一人出死力以任大事、則一隅偏安亦不可奠、宋氏之不祀、奚待乎徳祐、然則斉州婦人不足道已、乃斉州男子、其勇智、往々出外国婦人之下、悲夫、
(読み下し文)
嗚呼(ああ)斉州歴代の女禍烈(はげ)しと謂うべきかな。夏の亡ぶや未喜(バッツキ)に由る、殷の亡ぶや妲己(ダッキ)に由る。周の亡ぶや褒姒(ホウジ)に由る。呂不韋(リョフイ)孕婦(ヨウフ)を進めて嬴(エイ)を呂と為すなり。燕々(エンエン)皇孫を啄(ついば)みて火徳の衰(おとろ)ふ兆(きざし)なり。南風、愍懐(ビンカイ)を毒して典午(テンゴ)土崩するなり。麗華、狎客(オウカク)と一を為して金陵兵墟となる。楊氏玄宗を蠱惑して唐の天下を瓜分(カブン)するなり。
其の他、君を弑し嗣を絶ち、諫臣を戮(ころ)し、賢輔(ケンポ)を賊(そこ)なふ。未だ社稷(シャショク)を殄(つく)すに至らざれば、即ち社稷を殄(つく)すに焉(なに)をか在らん。夫(そ)れ偏覇(ヘンパ)の國未だ一々(いちいち)徧(あまね)く挙ぐる暇(いとま)あらざるなり。
漢の鄧后賢明の稱(ほまれ)有り、幼主を利し、朝政を擅(ほしいまま)にし、終(つひ)に滅族(メツゾク)の禍(わざはひ)を来す。隋の獨孤后才智の名有り、妬忌(トキ)骨に次(いた)り、儲后(チョゴウ)を易置(エキチ)し、竟(つひ)に唐家之れ駆除を成す。其れ才徳を以て聞ゆる者且然(ショゼン)此の若(ごと)し。矧(いはん)や焉(これ)に下(おと)る者をや。
趙宋而来(ジライ)、家法森厳(シンゲン)にして、大ひに漢唐に勝(まさ)る。是以(これゆゑ)未だ以て婦人の天下覆亡に至らず。然れども此れ猶ほ梟獍(キョウキョウ)を籠檻(ロウカン)に縛るがごとし。其の父母を食ふの心、則ち未だ必ずしも忘れざるなり。蓋し斉州男子、既已(キイ)薄悪(ハクアク)にして無行(ムコウ)、虚誇(キョコ)にして無實(ムジツ)なり。此れを以て婦人に倡率(ショウリツ)せば、則ち婦人固より冝(うべ)なり其れ然也(しかるなり)とす。
維れ我が神后親(みづか)ら六師を將(ひき)ゐ、龍舟(リョウシュウ)海を凌(しの)ぎ、以て三韓を平らげ四夷既に賓(したが)ひ干戈を戢(や)む。以て雍煕(ヨウキ)の治を興(おこ)し、文功昌(さかん)にして武功盛(さかん)なり。元明・元正二女帝、内行端潔(タンケツ)至誠にして篤恭(トクキョウ)なり。斯れ民を仁壽(ジンジュ)の域に躋(のぼ)す。論者以て女の尭舜に中(あた)ると為す。夫れ女主を以て天下に臨涖(リンリ)するは、未だ美事(ビジ)と為さず。然らば婦人の賢不賢、才不才を別(わ)くを以て足る。又風俗の媺悪(ビアク)を見るを以て足る。婦人の賢なること此(かく)の如し。則ち男子従て知るべし。斉州の女の主(あるじ)の御世(みよ)、女を以て稱首(ショウシュ)と為す。但だ上世(ジョウセイ)荒眇にして、其れ信に婦人為るや否や、未だ的知(テキチ)すべからず。此れを下れば、則ち漢の呂雉(リョチ)、唐の武曌(ブショウ)頗る英断権譎(ケンケツ)の才有り。然れども雉(チ)則ち功臣を菹醢(ソカイ)し、私黨を崇信し、劉氏を漸(やうや)く誅鋤(チュウジョ)す。殆んど易姓の禍(わざはひ)成る。曌(ショウ)則ち公然と國號を易(か)へ皇帝を自称す。罪天に通ずるなり。又況(いは)んや親(みづか)ら酷吏に委ね以て忠賢を屠戮(トリク)し、宗室を剪艾(センガイ)し、以て王家を寡弱(カジャク)とす。其の淫穢(インワイ)なること、則ち人は盡(ことごと)く夫なり。而して大宗高宗、聚麀(シュウユウ)の醜くきこと、在所問はず。其の残忍なること則ち親生の子、且(まさ)に之を手づから殺さんとす。
而して母を弑し兄を屠(ほふ)るの罪、則ち異なるに足ること無きは、之の二人なり。之を我神后二女帝と比ぶれば、直ちに天地を懸(へだ)てて黒白別けるなり。嗟夫(ああ)神后尚(たっと)ぶこと已(や)むに及ぶべからず。昔俄羅斯(オロシャ)の主(あるじ)、将兵出征し其の國に在らず。都児格(トルコ)強国なるや、虚に乗じ来攻す。王后加太里那(カタリナ)親(みづか)ら出て之を禦(ふせ)ぎ大戦三日にして都児格(トルコ)克つこと能はず和を乞ひて退く。契丹の主(あるじ)隆緒(リュウショ)尚ほ幼く、其の母䔥后、隆緒を奉じ以て宋を攻む。冞(ますます)其の境に入り、宋人幣を納め和を求め、遂に澶淵の盟を為して還(かへ)る。斯れ其の英風奇気、斉州に在る諸主に未だ多く見ず。況んや后妃をや。當(まさ)に䔥后の宋を攻めんとするや、正に宋強盛の日を初む。而して宋國を挙げて震讋(シンシュウ)し、辟臣(ヘキシン)惶擾(コウジョウ)す。計(はかりごと)、出す所を知らず。或は成都へ幸(みゆき)を請ひ、或は金陵へ幸(みゆき)を請ふ。向(も)し寇莱公(コウライコウ)一人死力を出し以て大事を任(にな)ふに非ざれば、則ち一隅の偏安亦た冀(こひねが)ふベからず。宋氏の不祀(フシ)奚(いづくん)ぞ徳祐を待つや。
然らば則ち斉州婦人道に足らざるなり。乃(すなは)ち斉州男子、其の勇智、往々にして外国婦人の下に出る。悲しきかな。
(語釈)
未喜(バッツキ)(桀王の后 美しいが淫乱で贅沢な女性で、桀に道を失わせたとされる) 妲己(ダッキ)(紂王の后 淫楽・残忍を極め、王とともに周の武王に殺害された) 褒姒(ホウジ)(幽王の后 褒の国の人が献じたところからの名。幽王はなかなか笑わない后を笑わせるために平時にたびたび烽火を上げて諸侯を参集させた。のちに、申侯が犬戎とともに周を攻めたとき、烽火を上げたが諸侯は集まらず、幽王は殺され、褒姒は捕虜になったという。) 呂不韋(リョフイ)(大商人であった呂不韋は秦の公子に自分の愛人を献上したが、この時すでに呂不韋の子を身ごもっており、これが後に始皇帝となった) 孕婦(ヨウフ)(妊婦) 嬴(エイ)(秦王室の姓) 燕々(エンエン)(趙飛燕と合徳の姉妹。前漢十一代成帝に寵愛され姉は皇后、妹は高位の女官となった) 皇孫を啄(ついば)みて(趙飛燕の姉妹は後宮で子供が生まれると怒ってこれを殺し、併せてその母も殺した) 火徳(漢王朝) 南風(西晋第二代恵帝の皇后賈氏 荒淫放恣で晋王朝崩壊の遠因となった) 愍懐(ビンカイ)(恵帝の長男で皇太子) 毒して(殺して) 典午(テンゴ)(晋王朝のこと)麗華(南北朝時代の陳王朝の最後の皇帝後主の寵姫) 狎客(オウカク)(後主のとりまきたち) 金陵(南京、陳の首都) 瓜分(カブン)(瓜を分けるように国土を分割すること)君(君主)嗣(跡継ぎ)賢輔(ケンポ)(優れた大臣) 社稷(シャショク)(国家) 偏覇(ヘンパ)(没落) 漢の鄧后(後漢第四代和帝の皇后) 幼主(幼かった五代殤帝、六代安帝) 隋の獨孤后(文帝の皇后) 妬忌(トキ)(そねみきらうこと)骨に次(いた)る(程度が甚だしく) 儲后(チョゴウ)(皇太子) 易置(エキチ)(取り替える) 才徳(才知と徳行) 且然(ショゼン)(それでも) 森厳(シンゲン)(おごそかで重々しいこと) 覆亡(滅亡) 梟獍(キョウキョウ)(親不孝者。梟(ふくろう)は母を食い獍は父を食う獣とされる)籠檻(ロウカン)(竹の檻) 既已(キイ)(もはや) 薄悪(ハクアク)(軽薄俗悪) 無行(ムコウ)(良い行いがない) 虚誇(キョコ)(ほらふき) 無實(ムジツ)(誠実さがない) 倡率(ショウリツ)(先に立って唱える) 神后(神功皇后) 龍舟(リョウシュウ)(天子の乗る舟) 雍煕(ヨウキ)(和楽) 内行(国内での行い) 端潔(タンケツ)(いさぎよい)至誠(シセイ)(この上なく誠実で) 篤恭(トクキョウ)(人情にあつく恭しい) 仁壽(ジンジュ)(仁徳があって命が長いこと)臨涖(リンリ)(のぞむ) 美事(ビジ)(立派なこと) 媺悪(ビアク)(良し悪し) 稱首(ショウシュ)(真っ先に呼び上げること) 上世(ジョウセイ)(大昔) 荒眇(遠いこと) 的知(テキチ)(確知) 漢の呂雉(リョチ)(高祖劉邦の皇后) 唐の武曌(ブショウ)(則天武后) 権譎(ケンケツ)(権謀、策略) 菹醢(ソカイ)(殺して骨や肉を塩漬けにする刑罰)私黨(私事のために組んだ徒党)誅鋤(チュウジョ)す(殺して除く) 屠戮(トリク)(殺戮)宗室(君主の一族)剪艾(センガイ)(滅ぼす) 寡弱(カジャク)(少なくて弱いこと)淫穢(インワイ)(みだらで汚らわしいこと) 人は盡(ことごと)く夫なり(男は皆夫となりうる) 大宗(唐二代皇帝李世民) 高宗(唐三代皇帝) 聚麀(シュウユウ)(父子が牝を共にすること 高宗は太宗の後宮にいた則天武后を皇后にした) 在所(決して) 隆緒(リュウショ)(遼の第六代皇帝聖宗) 䔥后(承天太后) 英風(エイフウ)(優れた姿) 奇気(キキ)(めずらしく優れた気性) 震讋(シンシュウ)(ふるえおそれる) 辟臣(ヘキシン)(君臣) 惶擾(コウジョウ)(おそれ騒ぐ) 出(いだ)す所(なすべきこと) 寇莱公(コウライコウ)(北宗の宰相 弱腰の真宗を親征にふみきらせ,澶淵の盟を結ぶことに成功した) 偏安(天下を統一する志を失なって地方に落ち着くこと) 不祀(フシ)(子孫が先祖をまつらないこと 滅亡) 徳祐(南宋七代恭帝 モンゴル軍の攻撃を受け降伏しこれにより南宋は実質滅亡した)
(現代語訳)
斉州(中国)では昔から女による災難が激しかった。夏王朝が滅んだのは桀王の后未喜(バッキ)のせいだし、殷王朝が滅んだのは紂王の后妲己(ダッキ)による。周王朝が滅んだのは幽王の后褒姒(ホウジ)による。
呂不韋は秦の公子に自分の愛人を献上したが、この時すでに呂不韋の子を身ごもっており、これが後に始皇帝となった。このため嬴姓である秦王室に呂氏の血統が入ってしまった。
前漢十一代成帝に寵愛された趙飛燕と合徳の姉妹は後宮で他の女が子供を産むと怒ってこれを殺し併せてその母も殺したが、このことは漢王朝の衰える前兆となった。
西晋第二代恵帝の皇后南風は皇太子の愍懐を殺し、西晋王朝は瓦解していった。
南北朝時代の陳の最後の皇帝後主の寵姫麗華は後主やとりまきたちと一緒になって遊興に明け暮れ、これにより陳は隋に滅ぼされ首都金陵は廃墟となった。
楊貴妃は玄宗皇帝をたぶらかし、唐の天下を瓜を分けるように分割した。
この他、君主を殺し、跡継ぎを殺し、いさめる家臣を殺し、賢い大臣を殺すといった例がある。これで国家がつぶれないわけがない。没落した国家を全部挙げていたらきりがないほどだ。
後漢第四代和帝の皇后である鄧后は賢明と言われていた。幼かった五代殤帝、六代安帝を後見し、鄧一族で政治をほしいままにしていたが、鄧后の死後鄧一族は大逆のかどで滅ぼされた。隋の文帝の皇后獨孤后は才智があると言われていたがねたみやそねみがひどく、皇太子を兄の楊勇から弟の煬帝に代えた。しかし煬帝は結局唐王朝により駆除された。このように才知があるといわれている者でもこんな状態だ。ましてやこれ以下の者は言うまでもない。
宋王朝以降は家法がおごそかで重々しくなり、この点漢や唐よりも大いに優れている。このため婦人が天下を滅ぼすには至っていない。しかしこれも親を食らう獣である梟や獍を竹の籠に閉じ込めているようなもので、父母を食らおうとする心は忘れていない。考えてみれば斉州(中国)の男はもはや軽薄俗悪で行いが悪く、ホラ吹きで誠実さが無い。このため悪事を婦人に先駆けて言い出せば、婦人は当然のようにそうしましょうと言うだろう。
わが国の神功皇后は自ら軍隊を率いて海を渡り新羅、高句麗、百済を平定した。そして和楽の政治を行い、文武とも盛んになった。元明・元正の二女帝は内政に務め、この上なく誠実で人情にあつかった。このため民を長生きさせることができた。論者はこれらを女の尭舜にあたると言った。ただ、女の君主が天下を治めることは、まだ良いこととは考えられていないので、彼女らが賢かったかどうか、有能であったかどうか判断してもらえば十分だし、あるいは治世下の文化の良し悪しを見てもらえば十分だろう。このように婦人は賢い。このことを男も知るべきだろう。
斉州(中国)での女の君主の時代は、まず真っ先に災いの時代と言われてしまう。ただ大昔のことは、それが本当に婦人のせいだったのかよくわからない。時代を下って見れば漢の高祖劉邦の皇后呂雉や、唐の則天武后は非常に決断力があり、権謀、策略の才能が有った。しかし呂雉は功臣を殺して塩漬けにする刑罰に処した。また自分の党派だけを偏重し、王家である劉氏を次第に殺して排除していった。これはほとんど易姓革命のようだった。則天武后は公然と国号を唐から周へ変え皇帝を自称した。これは天をも恐れぬ重罪だ。その上自ら役人に命じて忠臣や賢臣を殺戮し、君主の一族を殺し、王家を弱体化した。そのみだらで汚らわしいことと言ったら、まわりの男と手当たり次第関係を持ったほどだ。だから則天武后が唐の大宗・高宗父子それぞれの妾であり妻であったという醜態については全く問題にされなかった。またその残忍なことと言ったら自分の子を自ら殺そうとしたほどだ。母殺し兄殺しの罪人と異ならないのがこの二人だ。
これをわが国の神功皇后や元明・元正の二女帝と比べてみれば天と地ほどの違いがある。特に神功皇后はいくら称賛しても足らないほどだ。
昔ロシアのピョートル大帝が遠征して不在の時に強国のトルコが攻めてきた。皇后のエカテリーナは自ら出てこれを防ぎ三日たってもトルコは勝ことができず和議を結んで退却した。遼の第六代皇帝聖宗がまだ幼かった頃、その母の承天太后は聖宗を奉じて宋を攻め、次々に国境に侵入した。宋人は貢ぎ物を持って講和を求めてきたので、ついに澶淵の盟を結んで帰国した。このような優れた気風や気性は、斉州(中国)の君主にすらあまり見られない。ましてや后妃についてはなおさらだ。承天太后が宋を攻めようとしたのはちょうど宋が強盛になりはじめた時だった。しかし宋は国中でふるえあがり、君主も家臣もおそれ騒いだ。なすべきうまい計略も無く、ある者は成都へ遷都することを願い、ある者は金陵への遷都を願った。もし宰相の寇莱公が一人で死力尽くして大事を任っていなければ、宋は退却して地方に安住することすらできなかったであろうし、宋氏の滅亡は南宋七代恭帝がモンゴル軍に降伏する時よりもずっと以前になっただろう。
こうしてみると斉州(中国)の婦人は道徳心が足らない。一方で斉州(中国)の男子は勇気や智慧で往々にして外国婦人よりも劣る。悲しいことだ。