壼範新論

 壼範新論は1815年、侗庵27才の時の論文です。壼とは女性、範とは手本とか模範という意味ですので、壼範新論とは新しい女性の道徳論といった意味になります。従来の儒教の女性道徳論に異論を述べたもので、本論十篇と追記六項目から成ります。本論の目次を現代語訳で表せば以下のとおりです。

1、婦人は無能であってはならない

2、女性にも学問は必要である

3、花街は禁止すべきだ

4、服飾の過度に贅沢なものを禁止すべし

5、大奥の官女の十分の九は減らすべし

6、女性の再婚は必ずしも非難すべきではない

7、婦人が殉死するのは礼にあらず

8、妾は定数を定めるべきだ

9、大名が商人の娘や芸者を妾とすることを禁止すべし

10、七去の説(妻を離縁できるとされる七つの場合)は信じるべきではない

 

 この壼範新論について論述している学者は私の知る限りでは前田勉氏だけですが(『兵学朱子学蘭学国学平凡社 2006年 142~153頁)氏はその中でこのように評価を結論づけられています。「こうして見てくると、侗庵の『壼範新論』は、女性教育論、廃娼論、一夫一婦制といった明治初期の女性解放論の論点のすべてを含んでいた。これまでの女性史研究では、「三従」「七去」の世界から、一足飛びに明治の啓蒙思想家が現れたかのような感があった。その理由は、この両者を橋渡しするものが語られなかったためであろう。『壼範新論』はまさしくその役割を果たしていたのである。」つまり壼範新論は明治の女性解放論の先駆をなすものという評価です。特に本論の1,2,3,6,7,8,10あたりに強くそれが現れていると思います。ただ侗庵は封建社会の中の儒学者として生きているので華美や淫乱を嫌うあまり、琴や三味線の禁止(追記の1)、武士の妻の観劇禁止(追記の4)といった現代人から見るとう~んと思うようなことも言っていますし、芸者や商人の娘を妾にして生まれた子供は出来が悪い(本論9)といったやや偏見じみたことも言っています。そうしたことも含めて読んでいただければと思います。

 なお原文は西尾市岩瀬文庫所蔵のものを使っています。

 

 

 

 

目次

 

 

(漢文)

詩首二南、易重咸恒、室家之道者、萬化之原、不可不慎也、今也太平二百載、累洽重煕、可謂盛矣、至教化之具、則未之講、是以風俗日敗、都下最悪、近於商俗靡々利口惟賢之風、而婦人爲甚、淫蕩兇悍、多言自大、凡諸醜行、無一不具、故予当時於天下婦人、靡一可意者、而最悪都下婦人、此尤當修明陰教、以挽廻頽風之時也、顧古来諸儒、論婦道者、大抵膠柱守株、濶於物情、悖於人理、不可以訓世、予故原天地之心、祖聖賢之旨、酌人情之中察時勢之宜、著壺範新論十篇以警示時人、亦欲以一洗諸儒之謬、立千古之準則、顧其言奇創新□多世人之所未甞耳、未甞目者、読者其虚懐静気、察作者之苦心、以求其指歸、無如葉公之始見龍、駭愕而走也、

 

(読み下し文)

詩二南を首とし、易咸恒(カンコウ)を重とす。室家の道は萬化の原(もと)、慎まざるべからざるなり。今や太平二百載、累洽重煕(ルイコウチョウキ)、盛りと謂ふべし。教化の具に至れば則ち未だ之(これ)講ぜず。是以(これゆゑ)風俗日に敗れ、都下(トカ)最も悪し。商俗の靡々(ヒヒ)として利口を惟(こ)れ賢とするの風に近し。而して婦人甚しきを爲す。淫蕩(イントウ)兇悍(キョウカン)、多言自大、凡そ諸(もろもろ)の醜行、一として具へざるもの無し。故に予当時天下の婦人に、一(ひとり)として意に可(かな)ふ者靡(な)し。而して最も悪しき都下の婦人、此れ尤も當に陰教を修明し、以て頽風を挽廻すべき時なり。顧れば古来諸儒、婦道を論ずる者、大抵柱(ことぢ)に膠(にかわ)し株を守り、物情に濶(うと)く、人理に悖(もと)り、以て世を訓(みちび)くべからず。予故に天地の心を原(たず)ね、聖賢の旨に祖(なら)ひ、人情の中を酌み、時勢の宜しきを察し、壼範(コンパン)新論十篇を著し以て時人に警示し、亦以て諸儒の謬を一洗し、千古の準則を立てんと欲す。顧れば其の言奇創新闢にして多くの世人の未だ甞て耳にせず未だ甞て目にせざる所なれば、読者其の虚懐、静気にて、作者の苦心を察し、以て其の指歸を求むれば、葉公の始めて龍を見、駭愕(ガイガク)して走るに如かざる也

 

(語釈)

詩経) 二南詩経の最初の二篇、周南と召南 多くは男女夫婦のことを歌っている) 易経咸恒(カンコウ)(易経の下経の始、夫婦が人倫の元であることをいう)室家(夫婦、家庭)萬化(万物が化育されること) 累洽重煕(ルイコウチョウキ)(代々の天子が賢明で太平が長く続くこと)。教化(教育感化) (手段・方法) 都下(トカ)(みやこのうち) 商俗(殷時代の風俗)靡々(ヒヒ)(華やかだが浮ついている)利口を惟(こ)れ賢とする(口先の上手な者を賢人とする) 淫蕩(イントウ)(酒色に耽ること) 兇悍(キョウカン)(情け心が無く荒々しい)、多言(口数が多い)   自大(尊大) 醜行(恥ずべき行い) 陰教(女子の教育) 修明(修め明らかにする、立派にする) 人理(人間のおこなうべき道理) 壼範(コンパン)(婦人の立派な行い) 時人(同時代の人)千古(永久) 奇創(独創的)虚懐(公平でわだかまりのない心、虚心)指歸(趣旨)

葉公の始めて龍を見、駭愕(ガイガク)して走る(昔、楚の国の葉公は龍を好むと称して龍の絵を部屋に飾っていたが、本物の龍がこれを聞いて自分が行けば歓迎されると考え窓から顔を差し入れたら葉公は腰を抜かして逃げたという故事 うわべだけで実のないことの喩え)

 

(現代語訳)

 詩経は男女夫婦のことを歌った周南と召南の二篇を冒頭に置き、易経は夫婦が人倫の元であることを言う咸恒の章を重要なものとしている。夫婦や家庭の道は万物が育つもとであり大切にしなければならない。

 今や太平の世が二百年も続き世は栄えているが、教育の方法については未だによく理解されていない。このため風俗は日に日に廃れ、特に都会が最悪である。これは殷の時代の風俗が華やかだが浮ついており口先の上手な者がもてはやされていたことに似ている。特に婦人がひどい。酒色に溺れる、やさしい心が無く荒っぽい、おしゃべり、尊大、などの恥ずべき行為のうち当てはまらないものが何一つ無いほどだ。ゆえに私は現代の世の中の婦人で気に入った人は一人もいない。

 だから最悪である都会の婦人については、女子の教育を立派にして、乱れた風潮を立て直すべき時である。振り返ってみれば、古来の様々な儒者で婦人の道を論じた者は大抵的外れで、実情にうとく、道理に外れており、世を導くことができなかった。

 私は天地の心をたずね、聖賢の考えにならい、人情を斟酌し、時勢を考慮してここに壼範新論十篇を著す。これを人々に示し、これまでの儒者の誤りを一掃し永遠の準則を立てようと思う。私の言葉は独創的で新しく、多くの人はこれまで聞いたことも見たことも無いと思うので、読者は公平でわだかまりのない心で静かに作者の苦心を察して、その趣旨を考えてほしい。そうすれば昔楚の国の葉公が龍を好むと称して龍の絵を部屋に飾っていたので、本物の龍がこれを聞いて自分が行けば歓迎されると考え窓から顔を差し入れたら葉公は腰を抜かして逃げたという故事のようなことにはならないはずである。

 

一曰 婦人不可無才

(漢文)

志云、才之不可以已、又云、若夫爲不善、非才之罪也、人之有才也、原於天錫、其所以別是非辨利害、攻悪而修善、皆才使之、自天子達於庶人、黄童至于白叟、莫不待才以濟、乃至蠢蠕之属、各隨分有才、以能全身保生、何獨至於婦人而疑之、後人見在昔呂雉武曌之倫、俱以才覆邦家、今世婦人有材藝者、動輒驕夫蔑人、遂唱婦人不貴才之論、至謂婦人無才便是徳、此説既行、擧世風靡、無復異議、是識一而不知二也、夫婦人雖無外事、在家則孝於父母、適人則順於舅姑、以順徳承事君子、以義方誨導児女、不幸夫死子幼、則或不得不持門戸、以至制駆臧獲料量錢穀、莫不各有其道、任大責重若此、寧不才而克堪邪、試歴選古之賢媛、若任姒母周、以肇八百之基、曹大家講明婦道以垂訓萬世、趙娥之手刃父仇、孟光之以禮事夫、陶母之教子有方、皆天下真才、鬚眉男子所不及、才果不足重乎、若夫漢之呂雉唐之武曌、虺蝮之性、梟鏡之質、食父母殺人固其所常、更輔以奇衺之才、是以流毒如彼其酷、猶之夏桀殷紂挟申鉤索鐵之力、恃拒諫飾非之才、因以速亡、當時婦女頗工書札、解絲竹、輒凌君子傲世人、此蓋斗筲易盈、夜郎自大、猶夫子弟之輕俊浮薄者、稍渉書史、解属文、遽已侮師驕友、斯二者才之小而邪者、才而若此、其自禍禍人、流臭千載、婦人丈夫一也、豈可専罪婦人哉、蓋婦人以貞一爲徳、以卑柔爲道、不成名、不幹蠱、但貴其多才而不恃有才而若無而已、非欲其真頑嚚不才也、夫知婦人當貞一卑柔、而能貞一卑柔、即所謂才也、不知其當如無才者、而乃敢挟才傲人、是似才而非才也、其驕傲益甚、而其不才益甚、予亦取婦人之真才而已、非喜其似而非者也、若以偶然有一二婦人似才而不才者、欲併與其真才而去之、是因噎廃食爲蹶輟歩也、豈通儒之論也哉、夫天下古今、大矣遠矣、予不遑覶縷、姑以予一家證之、婢之不思作非者上也、不敢犯罪者中也、譴不懼而戒不改者下也、不思作非也、慎密貞静、不萌邪念、才之高者也、不敢犯罪者、謹守矩虔擇利遠害、小有才者也、譴不懼而戒不改者、嚚訟成性、朱愚不移、不識主父母之可畏、最不才者也、假令天下婦人咸若此乎、雖累尭舜湯武而治、予恐其終不能得而化也、

 

(読み下し文)

一に曰く 婦人不才たるべからず

 志に云はく「才之(これ)以て已むべからず」。又云はく「若し夫れ不善を爲さば才の罪に非ざるなり」。人の才有るや天錫(テンシャク)に原(もと)づく、其れ是非を別け利害を辨(わきま)へ、悪を攻め善を修む所以(ゆゑん)、皆才之を使(せし)む。天子より庶人に達するまで、黄童白叟に至るまで、才を待たず以て濟むは莫し。乃(すなは)ち蠢蠕(シュンゼン)の属(たぐひ)に至れば、各(おのおの)分に隨(したが)ひ才有り、以て能く身を全うし生を保つ。何ぞ獨だ婦人に至り之を疑ふや。

後人昔呂雉(リョチ)武曌(ブショウ)の倫(たぐひ)、俱(とも)に才を以て邦家(ホウカ)を覆すこと在るを見、今の世の婦人の材藝有る者は、動(ややもすれば)(すなはち)夫に驕(おご)り人を蔑(さげす)むとし、遂に婦人才を貴ばざるの論を唱へ、婦人才無くば便(すなは)ち是れ徳なりと謂ふに至る、此の説既に行なはれ、世を擧げ風靡し復た異議無し。

是れ一を識りて二を知らざるなり。夫れ婦人外事無しと雖も、家に在れば則ち父母に孝(つか)へ、人に適(とつ)げば則ち舅姑(キュウコ)に順(したが)ひ、順徳を以て君子に承事し、義方(ギホウ)を以て児女を誨導(カイドウ)す。不幸にして夫死し子幼ければ則ち或は門戸を持たざるを得ず、以て臧獲(ゾウカク)を制馭(セイギョ)し錢穀(センコク)を料量するに至れば、各(おのおの)其の道の有らざること莫し。任(つとめ)の大なること責の重きこと此(かく)の若し。寧(いづくん)ぞ不才にて克く堪ふや。試(こころみ)に古の賢媛を歴選(レキセン)せば、任姒(ジンジ)の若し、周の母となり、以て八百の基を肇む。曹大家(ソウダイコ)婦道を講明し、以て萬世に垂訓す。趙娥(チョウガ)(これ)父の仇を手刃(シュジン)す。孟光之(これ)禮を以て夫に事(つか)へ、陶母之(これ)子に方(みち)有るを教ふ。皆天下の真才にして鬚眉(シュビ)の男子の及ばざる所にて、才果して重きに足らざるや。

若し夫れ漢の呂雉(リョチ)、唐の武曌(ブショウ)、虺蝮(キフク)の性、梟鏡(キュウキョウ)の質、父母を食ひ人を殺すは固より其の常とする所にて、更に奇衺(キジャ)の才を以て輔(たす)く。是以(これゆゑ)流毒彼其(ヒキ)の如く酷し。猶ほ之(これ)夏の桀、殷の紂、申鉤(シンコウ)索鐵(サクテツ)の力を挟(たの)み、諫めを拒み非を飾るの才を恃み、因て以て速かに亡ぶがごとし。

當時婦女頗る書札を工(たくみ)にし、絲竹(シチク)を解(よく)すれば、輒(すなは)ち君子を凌(しの)ぎ世人を傲(あなど)る、此れ蓋し斗筲(トショウ)(あふ)れ易(やす)く、夜郎自大。猶ほ夫れ子弟の輕俊浮薄なる者、稍(やや)書史に渉(わた)り、属文(ショクブン)を解(よく)すれば、遽(にはか)に已(すで)に師を侮(あなど)り友に驕(おご)るがごとし。斯の二者の才之(これ)小にして邪(よこしま)なれば才而(すなは)ち此の若く其れ自ら禍(わざはひ)し人に禍(わざはひ)し、臭を千載に流す、婦人丈夫一なり。豈専ら婦人を罪するべきかな。蓋し婦人貞一(テイイツ)を以て徳と爲し、卑柔(ヒジュウ)を以て道と爲す。名を成さず、幹蠱(カンコ)たらず。但だ其の多才なれど才有るを恃まず而(すなは)ち無きが若しを貴しとするのみ。其れ真に頑嚚(ガンギン)不才なるを欲するに非ざるなり。夫れ婦人當に貞一卑柔たるべきを知りて能く貞一卑柔たれば即ち所謂(いはゆる)才なり。其れ當に才無き者の如くすべきを知らずして乃(すなは)ち敢て才を挟(たの)み人に傲(おご)らば、是れ才に似て才に非ざるなり。其の驕傲(キョウゴウ)(ますます)甚しければ而(すなは)ち其の不才益(ますます)甚し。予亦た婦人の真才を取るのみ。其の似て非なる者を喜ぶに非ざるなり。若し偶然一二の婦人の才に似て不才なる者有るを以て、其の真才と併せて之を去らんと欲さば、是れ噎(エツ)に因り食を廃し蹶(つまづき)を為して歩むを輟(や)むなり。豈通儒の論なるかな。夫れ天下古今、大なるかな遠なるかな。予覶縷(ラル)の遑(いとま)あらず。姑(しばらく)以予の一家を以て之を證すれば、婢(はしため)の非を作(な)すを思はざる者は上なり。敢て罪を犯さざる者は中なり。譴(とが)めて懼れず戒めて改めざる者は下なり。非を作すを思はざる者は、慎密(シンミツ)貞静(テイセイ)にして邪念を萌さず、才の高き者なり。敢て罪を犯さざる者は、矩(のり)を謹守し、虔(つつし)んで利を擇び害を遠ざく、小し才有る者なり。譴(とが)めて懼れず戒(いまし)めて改めざる者は、嚚訟(ギンショウ)性を成し朱愚(シュグ)移らず。主(あるじ)父母の畏るべきを識(し)らず。最も不才なる者なり。假令(もし)天下の婦人咸(みな)(かく)の若(ごと)きか、尭舜湯武を累(わづらは)して治むと雖も、予恐らくは其れ終に得て化(をし)ふ能はざるなり。

 

(語釈)

(古書) 天錫(テンシャク)(天から賜ること) 黄童(幼児)白叟(白髪の老人) 蠢蠕(シュンゼン)(虫けら)呂雉(リョチ)(呂后 前漢の高祖劉邦の皇后。よく劉邦を助けて、天下を平定するのに寄与した。わが子の恵帝の死後みずから政権を握り、その一族が権力をふるい、劉氏と対立して混乱を招いた。高祖の寵姫戚夫人への残虐ぶりは名高い)武曌(ブショウ)(則天武后 唐の高宗の皇后。高宗にかわって実権をにぎり、高宗の死後、わが子中宗・睿宗を次々に帝位につけたが、国号を周と改め、みずから聖神皇帝と称した。中国史上唯一人の女帝。悪辣非道な策略をとった反面、学芸を庇護し、文化を興隆させた。)邦家(ホウカ)(国家) 材藝(才能と技術。知恵とわざ) (すなはち)(そのたびごとに。いつもきまって) 外事(一家の外の事) 順徳(素直なこと) 君子(夫) 承事(命令をうけたまわって仕える。君主に奉公する) 義方(ギホウ)(家庭内の教え) 誨導(カイドウ)(教え導く) 門戸(家) 臧獲(ゾウカク)(召使) 錢穀(センコク)(財物) 料量(裁量すること 切りまわすこと) 歴選(レキセン)(あまねく数える、あまねく選ぶ)  任姒(ジンジ)(太任と太姒のこと 太任は周の文王の母、太姒は武王の母、共に賢母であった)曹大家(ソウダイコ)(後漢の人。「漢書」の著者である班固の妹で、「漢書」をおぎなって完成させた。大家は、すぐれた婦人への敬称) 講明(意味をときあかす。しらべて明らかにする)垂訓(教えを示す)趙娥(チョウガ)(後漢の女性、父の仇を討った)手刃(シュジン)(手ずから殺す)  孟光後漢の博学高潔の隠士梁鴻の妻。夫は屋敷の軒下に住む日雇い人夫の身であったが,妻は膳を眉まで挙げて恭しく迎えたという) 陶母(晋の大将軍となった陶侃(トウカン)の母。息子が魚を管理する役人となり魚の漬物を母に送ったところ、母は公物の流用を悲しみこれを拒絶し、忠義廉直を説いたという) 真才(真にすぐれた才能。学徳兼備で、まことに才能のある人)鬚眉(シュビ)(ヒゲと眉) 虺蝮(キフク)(まむし)梟鏡(キュウキョウ)(梟は母を食い鏡は父を食うとされ、親不孝のこと)奇衺(キジャ)(不正) 彼其(ヒキ)(彼) 申鉤(シンコウ)(曲がった鍵をまっすぐに引き直す 力の強いこと) 索鐵(サクテツ)(鉄を縄にする 力の強いこと)挟(たの)む(鼻にかける)、非を飾る(欠点や非行をごまかす) 當時(現在) 書札(書き物) 絲竹(シチク)(音楽) 輒(すなは)ち(たやすく。かんたんに。たちまち。すぐに) 凌(しの)ぐ(あなどる) 斗筲(トショウ)(器量が小さいこと) 夜郎自大(自分の力量を知らないでいばることのたとえ。中国の西南に居住した民族夜郎が自国の優勢を誇り、漢の強大を知らずにその使者に向かって、自国と漢との大小を問うたことからいう。)。 輕俊(才気ばしっているが軽薄なこと) 属文(ショクブン)(作文)(悪い噂) 貞一(テイイツ)(心が正しく二心の無いこと) 卑柔(ヒジュウ)(へりくだって素直なこと) 幹蠱(カンコ)(父母の仕事を受けつぐこと) 頑嚚(ガンギン)(頑なで道理に暗い)不才(才能がない) 驕傲(キョウゴウ)(おごりたかぶること) 真才(真にすぐれた才能) 噎(エツ)に因り食を廃す(食事中むせたことにこりて、食事をとらなくなる。小さなことにこりて、たいせつなことをやめることの喩え) 覶縷(ラル)(くわしく言うこと) 慎密(シンミツ)(つつしみ深くよく気をくばる) 貞静(テイセイ)(心が正しくおだやか) 謹守(注意して守る)嚚訟(ギンショウ)(言うことにうそが多く好んで言い争いをする) 性を成す(ならわしとなる、くせになる) 朱愚(シュグ)移らず(馬鹿は治らない)累(わづらは)す(委ねる)

(現代語訳)

婦人は無能であってはならない

 古い書物には「能力には限りがない」とか「悪事を行うのは能力のせいではない」などと書いてある。人の能力は天からの贈り物で、人が是非や利害を弁別したり、悪を非難し善を行うのはこの能力によっている。天子から庶民に至るまで、また幼児から老人に至るまで能力無しに済ませられることはない。一方で虫けらのたぐいでもそれぞれの能力があり身の安全や生命を保っている。何で婦人についてだけ能力を疑うのか。

 後世の人たちは漢の呂后や唐の則天武后が共にその能力で国家を転覆させるのを見て、今の世の中の婦人で才能や技術が有る者は必ず夫を見下し人々を馬鹿にするとして、ついに婦人には能力が無い方が良いと言うようになった。この説は世の中に広まり反対する人もいない。しかしこれは一を知って二を知らない論である。確かに婦人は家の外の事には関与しないとしても、家の中では父母に仕え、他家に嫁げば舅姑に従い、夫に仕え、家の方針に従い子供を教育する。不運にも夫が死亡し子供が幼ければ、場合によっては家について責任を持たざるを得ない。このため召使を使いこなしたり、財産を管理することになればこれらのことについてよく知らなければならない。このように婦人の任務は大きく責任は重大である。何で能力が無くて務まるものか。

 昔の賢い女性を見てみれば、周の文王の母太任と武王の母太姒は共に賢母で周王朝八百年の基礎を確立した。後漢の曹大家は漢書の著者班固の妹で漢書を補って完成させ、また婦道を説いて後の世に教えを示した。後漢の女性趙娥は父の仇を自らの手で討った。後漢の博学高潔の隠士梁鴻の妻孟光は夫が屋敷の軒下に住む日雇い人夫の身分であっても礼を以て仕え、膳を眉まで挙げて恭しく迎えた。晋の時代に大将軍となった陶侃の母は、息子が魚を管理する役人となり魚の漬物を送ってきたのに対して公物の流用を悲しみこれを拒絶して息子に忠義廉直の道を説いたという。皆まことの能力があり男のかなうところではない。これでも女性にとって能力は重要でないと言うのだろうか。

 ところが漢の呂后や唐の則天武后はまむしのような性格と親不孝の気質で、父母を食い殺すのは当たり前で、それに加えて不正を行う能力もあった。このためその悪影響は酷いものだった。これは夏王朝の桀王や殷王朝の紂王が力を誇示したり、諫めに従わず自分の欠点や非行をごまかして、それがもとで早期に滅びてしまったのと同じようなことだ。

 現在の婦人は書き物が上手になり音楽もよくできるようになると、たちまち夫や世間をあなどる。思うにこれは器量が小さいとすぐに水があふれるのと同じことで、夜郎自大である。これは才気走っているが軽薄な若者が、少しばかり書物を読んで作文もよくできるようになるとたちまち師匠や友人を馬鹿にするようになるのと同じである。このような婦人や若者の能力は小さくいびつである。能力がこのようであると自分自身にも他人にも多大な害悪を及ぼすことになる。この点婦人も男も同じで、婦人ばかりを責めるべきではない。

 思うに婦人は心が正しく二心が無いことが徳とされ、へりくだって素直なことが道とされている。名声を挙げたり父の仕事を継いだりするのではなく、ただ多才であるのに能力を鼻にかけずむしろ能力がないかのようにするのが貴いとされる。決して本当に頑なで愚かであることが望まれているわけではない。婦人は心が正しくへりくだって素直であるべきことを知っていて本当にその通りにできれば、それがすなわち有能であるということなのだ。能力が無い者のように振る舞うべきであるのを知らず、逆に能力を鼻にかけ人をあなどれば、それは似て非なるもので本当に有能であるとは言えない。驕り高ぶるれば高ぶるほど無能なのだ。私は婦人の真に優れた才能を評価するが、似て非なるものを喜ばない。ただ偶然一人二人有能とは似て非なる婦人がいたからと言って真に有能な婦人と併せてこれを排除しようとすればそれは、食事中に少しむせたからと言って食事そのものをやめてしまったり、少し躓いたからといって歩くこと自体をやめてしまうようなもので、賢い考えとは言えない。

 そもそも天下は今も昔も遠大である。私には詳しく説明する暇はないが、とりあえず私の一家のことで説明してみようと思う。

 召使の女で悪事を考えない者は上である。悪事を思いついても敢えて実行しない者は中である。悪事を実行してとがめても恐れないし戒めても改めない者は下である。悪事を考えない者はつつしみ深くよく気を配り、心が正しく穏やかで、邪念が浮かばず能力が高い者である。悪事を考えても敢えて実行しない者は規則を注意して守り利益を選んで悪事を遠ざける少し能力の有る者である。悪事を実行してとがめても恐れず戒めても改めない者は、言うことに嘘が多く言い争いをすることがくせになっており、救いようもなく愚かである。また主人や父母を恐れることを知らない最も無能な者である。もし天下の婦人が皆このようであれば、聖王である尭舜や湯武が世の中を治めても、恐らくうまく教え導くことはできないだろう。

 

二曰 婦人不可不學

(漢文)

世之論者咸云、婦人不可学也、誨婦人学、徒長矜誇之心、反怠縫紉饋食之職、有害無益、果哉言也、蓋彼見近代婦人稍慧黠者、略渉書史工歌詩、則昂然自大、以凌侮其君子、好裁淫詩艶歌、以傳示人、適足爲長傲之具誨淫之媒、故有此論、嗚呼婦人之学若斯、則信乎無益而有害、而學之爲道、豈端使然也、夫以渉猟結撰而已爲学者、学之末失、以是論婦人不可学、是以小人之腹度君子也、予所謂学者、使之読四子六経及列女傳女誡之属、或如俗説口占而授之、使其妬忌憚悪者、聞皇英任姒之徳、赧然愧恧、革獅子之吼、爲螽斯之化、其蕩淫罔検者、聞柏舟黄鵠青陵臺之烈、奮然興起、滌其邪穢之情、養其貞潔之心、其嚚訟不知恥者、聞徳耀少君之挙動以禮、大家憲英之言語有章、幡然顧省、用心於動作辞気、不敢有慢、其他百行皆然、務祛往諐以求新得、月将日就、上追古人、其益大矣、善哉、甄后之言曰、古者賢女未有不覧前世成敗以爲已戒、不知書何申見之、但婦人無外事故其学不可如男子之就外傳、惟父母若兄姉可親教之、而小説稗史不可読、歌詩不必作耳、孔子之論學也、曰、行有余力、則以學文、彼耽嗜文墨以怠棄婦功者、特未識学耳、果識焉決不至若斯之舛錯也、予観自古殉節守義者、禮法儒家最衆、西土宋明以還、婦人務学迥勝漢唐、而自爾以来、節烈婦女、史乗不絶書、雖多矯激失中者、要與汚下無行者不同日而論、可見学之爲裨非浅尠矣、男子婦人雖有貴賤内外之殊、各有其職以行其道、未有男子可学而婦人乃不可学者也、古之教人也、于戈羽籥、弦焉誦焉、使人春秋晝夜靡時有自逸自暇之時者、非以爲学盡乎此、所以挟持其心而不令他遷也、自非聖賢、未有不如此而能泰然安于道者也、夫婦人雖有裁縫之職中饋之任、遥々歳月、寧無暇豫之時、有暇豫之時而絶無所用心、勢不得不妄譚市井鄙褻之事、観傳奇演戯之書、故当今上自簪紳家婦女、詩書仁義之訓未甞夢覩、而俳優之称號勾欄演劇之齣瞭若視諸掌、貞姫潔婦之烈、女宗女尭舜之賢、未甞耳剽、而若阿七吉三、阿駒才三之淫蕩、不啻書諸紳且銘諸骨、雖父兄苛禁、止草其面而未改其心、此獨無夾持之具、故焉耳、嗚呼人有余暇、不用之於道徳仁義之学、徒以供記淫穢之説無限之談、可惜之甚也、世之論婦人不可学者、以爲婦人通古今、達理道、則桀黠不可駕制、故寧任其昏昧無知、令易馭使、蓋亦秦皇燔詩書以愚黔首之故智、然天下豈有此理乎、夫人所以易治者、以其能識知事理也、使其頑固不通、豈人之所能馭哉、自古家国之敗、皆由愚而不學、愚而不學、則以是爲非、流禍奚所底止、且已則無邪心、或爲他人所欺誑、陥其術中而不悟、可不懼哉、

 

(読み下し文)

二に曰く 婦人學ばざるべからず

世の論者咸(みな)云はく「婦人学ぶべからざるなり。婦人に学ぶを誨(をし)ふれば、矜誇(キョウコ)の心を徒長し、反(かへっ)て縫紉(ホウジン)饋食(キショク)の職を怠り有害無益」と。果せるかな言なるや。蓋し彼近代婦人の稍(やや)慧黠(ケイカツ)なる者、書史を略渉し歌詩に工(たくみ)なれば則ち昂然自大、以て其の君子を凌侮(リョウブ)し、淫詩艶歌を裁くを好み、以て人に傳へ示すを見る。適(まさ)に長傲(チョウゴウ)の具、誨淫(カイイン)の媒(なかだち)爲るに足る。故に此の論有り。嗚呼(ああ)婦人の学斯(かく)の若(ごと)くんば、則ち信(まこと)に無益にして有害。而して學の爲道(イドウ)、豈端(まさ)に然らしむや。夫れ渉猟(ショウリョウ)結撰(ケッセン)を以てのみ学と為すは学の末失(マツシツ)にて、是れを以て婦人学ぶべからずを論ずるは是れ小人の腹を以て君子を度(はか)るなり。予の謂ふ所の学とは、之に四子・六経及び列女傳・女誡の属(たぐひ)を読ましめ、或は俗説の如く口占にて之を授く、使(も)し其れ妬忌(トキ)憚悪(タンオ)なれば、皇英(コウエイ)・任姒(ジンジ)の徳を聞き、赧然(タンゼン)愧恧(カイジク)し、獅子の吼を革(あらた)め、螽斯(シュウシ)の化(カ)を爲す。其の蕩淫(トウイン)(ひか)へざれば、柏舟(ハクシュウ)、黄鵠(コウコク)、青陵臺の烈なるを聞き、奮然と興起(コウキ)し、其の邪穢(ジャワイ)の情を滌(のぞ)き、其の貞潔の心を養ふ。其れ嚚訟(ギンショウ)にして恥を知らざれば、徳耀(トクヨウ)、少君の挙動禮を以てすを聞く、大家憲英の言語に章(あや)有り、幡然(ハンゼン)顧省(コセイ)し、動作辞気(ジキ)に用心し、敢へて慢(おごり)を有さず。其の他の百行(ヒャッコウ)皆然り。務めて往(むかし)の諐(あやまち)を祛(はら)ひ以て新得を求むれば、月に将(すす)み日に就(な)る。上(かみ)古人を追へば、其の益大なり。善きかな甄后(シンコウ)の言に曰く「古者賢女前世の成敗を覧(み)ずして以て己の戒と爲すこと未だ有らず、書を知らずして何に由り之を見るか」と。但し婦人に外事無く故に其の学男子の外傅(ガイフ)に就くが如くにすべからず。惟だ父母若しくは兄姉親しく之を教ふべきのみ。而して小説稗史読むべからず、歌詩必ずしも作らず。孔子の學を論ずるや曰く「行ひて余力有らば則ち以て文を學べ」と。彼文墨(ブンボク)に耽嗜(タンシ)し以て婦功を怠棄せば、特だ未だ学を識らざるのみ。果して焉を識れば決して斯(かく)の若きの舛錯(センサク)に至らざるなり。予古よりの殉節(ジュンセツ)守義の者を観れば、禮法儒家最も衆(おほ)し。西土宋明以還、婦人学に務むること迥(はるか)に漢唐に勝りて、爾(それ)より以来、節烈婦女、史乗(シジョウ)書くを絶やさず、矯激(キョウゲキ)失中なる者多しと雖も、汚下(オカ)無行(ムコウ)なる者と同日に論ぜざるを要す。学の裨益(ヒエキ)爲ること浅尠(センセン)たらざるを見るべきなり。男子婦人貴賤内外の殊(こと)なること有ると雖も、各其の職(つとめ)有り、以て其の道を行なふ。未だ男子の学ぶべくして婦人乃(すなは)ち学ぶべからざる者(こと)有らざるなり。古の人を教ふるや、于戈(カンカ)羽籥(ウヤク)、焉を弦(かな)で焉を誦(うた)ひ、人をして春秋晝夜時に自逸自暇の時有るに靡(なび)かしむ者なり。以て爲学此に盡く非ず。其の心を挟持(キョウジ)して他に遷せしめざる所以(ゆゑん)なり。聖賢に非ざる自(より)は、未だ此の如くにならざるもの有らず、而(すなは)ち能く泰然と道に安んずる者なり。

夫れ婦人裁縫の職中饋(チュウキ)の任有りと雖も、遥々歳月、寧ぞ暇豫(カヨ)の時無からん。暇豫の時有りて絶へて心を用ふる所無くば、勢ひ妄(みだり)に市井鄙褻(ヒセツ)の事を譚(かた)らざるを得ず、傳奇(デンキ)演戯(エンギ)の書を観る。故に当今上は簪紳家(シンシンケ)の婦女より、詩書仁義の訓へ未だ甞て夢に覩ず。而して俳優の称號、勾欄(コウラン)演劇の齣(くぎり)瞭(あきらか)に諸(これ)を掌(たなごころ)に視るが若(ごと)し。貞姫、潔婦の烈、女宗、女尭舜の賢、未だ甞て耳剽(ジヒョウ)たらず、而(すなは)ち阿七吉三、阿駒才三の淫蕩の若(ごと)し、啻(た)だ諸(もろもろ)を紳に書くのみならず且つ諸(もろもろ)を骨に銘(きざ)む。父兄苛禁し、其の面を止め革むと雖も、未だ其の心を改めず。此れ獨だ夾持の具無き故のみ。嗚呼人余暇を有せば之を道徳仁義の学に用いず、徒に以て淫穢(インワイ)の説、無限の談を記すに供す。之を惜しむべきこと甚しきなり。世の婦人学ぶべからざるを論ずる者、以て婦人古今に通じ理道に達せば、則ち桀黠(ケッカツ)にして駕制すべからず故に寧ろ其の昏昧無知に任せ、馭使易くせしむと為す。蓋し亦秦皇詩書を燔(や)き以て黔首(ケンシュ)を愚とすの故智あり。然れば天下豈此れに理有るか。夫れ人治め易き所以(ゆゑん)は、以て其の能く事理を識知するなり。使し其れ頑固不通なれば、豈人の能く馭する所なるかな。古より家国の敗(すた)るは皆愚にして學ばざるに由る。愚にして學ばざれば則ち以て是を非と爲し、流禍奚ぞ底止する所なるや。且(も)し已めば則ち邪心無きか或は他人の欺誑(キキョウ)する所と為り其の術中に陥りて悟らざるか。懼れざるを可とするかな。

 

(語釈)

矜誇(キョウコ)(誇って威張る) 徒長(無駄に伸ばす) 縫紉(ホウジン)(裁縫) 饋食(キショク)(食事 料理) 慧黠(ケイカツ)(ずる賢い)昂然(自信満々) 君子(夫、亭主) 凌侮(リョウブ)(あなどること)長傲(チョウゴウ)(驕りの心を増長させる) 誨淫(カイイン)(みだらなことを教える) 爲道(イドウ)(道を学ぶこと)、渉猟(ショウリョウ)(書物を広く読むこと) 結撰(ケッセン)(文を作ること) 末失(マツシツ)(本来のやり方に反する行い) (心、考え) 女誡(女性教訓書。後漢の班昭撰。班昭は、『漢書』を書いた班固の妹) 俗説(世間話) 口占(口伝) 妬忌(トキ)(ねたみ嫌う) 憚悪(タンオ)(おそれ憎む) 皇英(コウエイ)(蛾皇(ガコウ)と女英(ジョエイ)。ともに尭帝の娘で舜帝の妃。聡明貞仁で天下に知られた) 任姒(ジンジ)(太任と太姒。太任は周の文王の母、太姒は武王の母、共に賢母であった)赧然(タンゼン)(赤面して恥じて) 愧恧(カイジク)(はぢる) 獅子の吼(妻が夫に対してがみがみ言うこと)        螽斯(シュウシ)の化(カ)(夫婦が和合して子供を多く作り、子孫が繁栄することのたとえ。「螽斯」は、イナゴ。イナゴは一度に九九匹というたくさんの子を産むとされるところからいう。)蕩淫(トウイン)(酒色に溺れること) 柏舟(ハクシュウ)(衛の太子共柏の妻が夫の死後も貞節を守ったこと) 黄鵠(コウコク)(魯の陶嬰は若くして寡婦となったが貞節を守り独身を貫き、自分を黄鵠に喩えた歌を作ったこと) 青陵臺(宋の康王は韓憑に青陵臺を築かせている間に妻を奪いそれを知った韓憑は自殺するが妻も青陵臺から飛び降り後追い自殺をした話) みさおを堅く守ること) 興起(コウキ)(感動して心をふるい起こすこと) 嚚訟(ギンショウ)(言うことにうそが多く好んで言い争いをすること) 徳耀(トクヨウ)(孟光 後漢の博学高潔の隠士梁鴻の妻。夫は屋敷の軒下に住む日雇い人夫の身であったが,妻は膳を眉まで挙げて恭しく迎えたという) 少君後漢の学者鮑宣の妻桓少君、貧しい夫を励ました) 大家憲英(辛憲英 三国時代の魏の人。才知あり発言は必ず正義によった 大家は女性に対する尊称) 幡然(ハンゼン)(さらっと変化するさま) 顧省(コセイ)(ふりかえって反省する) 辞気(ジキ)(ことばつき、言い方) 百行(ヒャッコウ)(あらゆる行い)  新得(新しく得るもの、新発見) 月に将(すす)み日に就(な)る(物事が日進月歩に良くなる) 甄后(シンコウ)(三国、魏の文帝の后 美貌で聡明であった) 前世(昔) 成敗(成功と失敗) 外事(外に出ること) 外傅(ガイフ)(学校の教師) 文墨(ブンボク)(学問・芸術) 耽嗜(タンシ)(ふける) 婦功(女の仕事。妻としてなすべき仕事) 舛錯(センサク)(混乱) 殉節(ジュンセツ)(節義を守って死ぬ) 史乗(シジョウ)(歴史の書物) 矯激(キョウゲキ)(言動などが並はずれて激しい) 失中(中庸を得ない)     汚下(オカ)(低劣) 無行(ムコウ)(行いが良くない) 裨益(ヒエキ)(役に立つこと) 浅尠(センセン)(小さい)  于戈(カンカ)(ほことたて) 羽籥(ウヤク)(鳥の羽とふえ) 自逸自暇(気楽に休んだり怠けたりする) 中饋(チュウキ)(食事、料理) 鄙褻(ヒセツ)(下品で汚らわしい) 傳奇(デンキ)(小説、戯曲) 演戯(エンギ)(芝居) 簪紳家(シンシンケ)(高官の家) 勾欄(コウラン)(劇場) (くぎり)(一幕)

貞姫(春秋楚の白公勝の妻、夫の死後貞節を守り呉王の求婚を斥けた) 

潔婦(魯の秋胡子の妻、新婚の時夫は仕官のため出かけ、五年後に帰郷すると道端で桑を摘む女を気に入り誘惑するが拒絶された。家に帰ると女は妻であった。妻は夫の行為を非難し川に身を投げた) 

女宗春秋時代、宋の鮑蘇の妻、姑に対してよく仕え、夫が宮仕えに他国へ行き、そのまま別の女と結婚していても嫉妬せず、姑の世話を続けた) 

女尭舜北宋五代英宗の皇后、六代神宗を生み神宗の死後は幼い哲宋を即位させ垂簾聴政を行った) 

耳剽(ジヒョウ)(聞きかじりで学んだこと、耳学問) 阿七吉三((八百屋お七と恋人吉三)  阿駒才三(材木問屋の娘お駒が手代の才三と密通し婿を殺害した話) (大帯) 苛禁(厳禁) 桀黠(ケッカツ)(悪賢い) 黔首(ケンシュ)(人民) 不通(道理を理解しない) 欺誑(キキョウ)(だます)

 

(現代語訳)

二 女性にも学問は必要である

 世の論者が皆言うには「女性は学問をしてはならない。女性に学問を教えれば、いたずらに誇る心ばかり生まれて裁縫や料理の仕事をおろそかにするようになり有害無益だ」とのことである。本当にそうであろうか。このように言う人たちは近ごろの少々ずる賢い女性が、本をあれこれ読んで詩や歌に巧みになり、自信満々になって自分の亭主を馬鹿にするようになり、卑猥な詩や色っぽい歌を好んで人に示すようになっているのを見ている。まさに学問が驕りの心を増長させる道具であり、卑猥なことを教える媒体であると言える。だからこうした主張が出てくるのだ。ああ、女性の学問がこのようであれば本当に無益で有害であろう。しかし学問により道を学ぶということはこんなことなのだろうか。書物を広く読むことや文章を作る事だけを学問と考えるのは学問の本来のありかたに反するもので、これにより女性に学問は不要と言うのは小人の心で君子の考えを推し測るようなものだ。

 私の言う学問は、女性に四書・六経や列女傳、女誡などを読ませる、あるいは世間話をするように口述でこれを伝えることである。

 もし女性にねたみや憎しみの心があるのなら、尭の娘で舜の后となった聡明な蛾皇・女英姉妹の話や、共に賢母であった周の文王の母太任と武王の母太姒の話を聞かせれば、赤面して恥じ、亭主にがみがみ言うのをやめ、夫婦和合するようになるだろう。

 もし酒色に溺れることを止めなければ、衛の太子共柏の妻が夫の死後も貞節を守った話、魯の陶嬰は若くして寡婦となったが貞節を守り独身を貫いた話、宋の康王が韓憑に青陵臺を築かせている間にその妻を奪い、それを知った韓憑は自殺するが妻も青陵臺から飛び降り後追い自殺をした話などを聞かせれば、感動して心を奮い起こし、汚らわしい気持ちを取り除き貞節の心を養うだろう。

 言い争いを好み恥を知らなければ、後漢の学者梁鴻は屋敷の軒下に住む日雇い人夫の身であったが,妻の徳耀は彼を尊敬し禮をもって仕え、膳を眉まで挙げて恭しく迎えたという話、漢の鮑宣の妻桓少君は富貴の家から嫁入りしたが、高潔で貧しい夫を尊敬し禮を以て仕えたという話を聞かせればよい。

 三国時代の魏の女性、辛憲英は言葉に筋道が通っていたが、さっと反省し動作や言葉づかいに注意し、驕ることがなかった。その他のすべての行いがそうであった。昔の過ちを改めて新しいことを求めるように務めれば、物事は日進月歩で良くなる。特に上にある人が古人について考えればその効果は大きい。三国時代の魏の文帝の后である甄后はこんなことを言っている「昔の賢女は前の世の成功と失敗を見て自分への教訓としたが、書物を知らないでどうしてそれを見ることができようか」と。

 ただし女性は外に出ることが無いので男子が外で学校の教師に教わるのと同じようにすることはできない。ただ父母やあるいは兄姉が直接教えるだけだ。しかし小説類は読むべきではないし、詩や歌は必ずしも作らなくてよい。孔子は学を論じてこう言った「実行が第一で学問の裏付けはその後で良い」と。学問や芸術にふけって妻として為すべき仕事を怠ればそれは未だ学を知らないということだ。このことを知ればこのような混乱には陥らない。

 私が古くから節義を守って死んだ者や義を守った者を見ると儒家が最も多い。中国では宋や明王朝以降は漢や唐の時代よりもはるかに多くの女性が学問に務めるようになり、それに伴って歴史書貞節な女性のことが絶えず書かれるようになった。言動が激しすぎる者ややりすぎの者も多いがそれらを低劣な者や不良者と同列に論ずべきではない。学問が役に立つのは決して小さくないことを見るべきである。男性と女性、身分の高い者と低い者、内と外、それぞれ異なり各々のつとめがあり、それぞれの道を行うべきである。男性が学ぶべきことで女性が学ぶべきでないことなどない。

 昔は人を教えるときに、盾や戈、羽や笛をもって歌ったり踊ったりして、いかなる時でも気楽に楽しむときがあるようにさせた。これは学問をそこで終えてしまうわけではなく、学問に向かう心を維持して他に移らせないための工夫であった。聖人や賢人でもないかぎり、皆このようにしてゆったりと道を楽しむことができたのである。

 女性は裁縫や料理の仕事があっても、余暇が無いなどということはない。余暇の時に全く心を向けるべき対象がないと、自然に世間の下品な話題を語らざるを得なくなったり、小説や戯曲、芝居の本を見るようになる。このため今では高官の家の婦女でも詩経書経の仁義の教えを読むことは全くない。一方で俳優の称号や劇場の演劇の一幕などについては自分の手のひらの上で見たかのようによく知っている。中国の歴史上の女傑である貞姫、潔婦の貞節なこと、女宋、女尭舜の賢いことなどは未だ嘗て聞いたことすらない。ところが歌舞伎の八百屋お七と吉三、城木屋お駒と才三といった卑猥な話については細かいところまで骨の髄に染みてよく知っている。父兄が厳禁して表面的には改めても心までは改めていない。これはただ学問に心を向ける手段が無いためである。人は余暇があるとこれを道徳仁義の学問に使わず、卑猥な話やとりとめのない話を書くのに使ってしまう。まことに惜しむべきことである。

 女性に学問は不要だとする世間の論者は、女性が歴史に詳しくなり道理を理解するようになると、悪賢くなって言うことを聞かなくなるから、むしろ無知蒙昧のままにして使いやすくすべきだと言う。思えば秦の始皇帝の時代に詩経書経を焼き捨て人民を愚昧にしたことがあった。しかしこれは理にかなったことだったのか。そもそも人が治めやすいのは被治者が道理をよく理解しているからであり、もしこれが頑固で道理を理解していなかったらそうはいかない。昔から国が衰退するのは人民が愚かで学ばないためである。愚かで学ばなければ正しいことを誤っていると考えてしまい、その悪影響は限りない。もしそれをやめればそれは邪心が無いということかあるいは他人に騙されてその術中に落ちたことをわかっていないということだ。恐れずにいられようか。

 

三曰 當禁絶花街

(漢文)

當今之世、蠱惑人心、敗壊習俗者、莫甚乎花街也、傳云、甚哉風俗之移人也、花街隣近之地、既学其侈靡又学其偎褻無耻、望而知其俗之不義、花街多而求敝俗之革、豈可得邪、國初都下雖有妓館、不過隨處零星有数家、且貴人未甞往、寛永中、賈人某請立一大花街于城東、既而遷于城北之郊、即今北里是也、是時花街止此一所、嗣後歳有加増、天明季年、白川源公秉政、釐革宿弊、減花街之賎濫者、稍殺其勢、不久蕩然如故、今則賎妓之以色爲活者、不知其幾地幾家、古人有云、刺繍文不如倚市門、凡諸商賈、獨花街獲利最饒、小民惟利是求、争冒禁而竊爲之、爲吏者袖手旁観、不之誰何、是以其勢彌漫靡知所底止焉、且夫天下之至賎而至苦者、莫妓爲甚、是以自古婦人有志操者、爲人所略賣乎花街、殺身全節者比々而有、即其不能死者、豈無慙憤之心、乃抑遏其良心、令忍爲禽獣之行、亦已酷矣、及其上妓籍也、又爲主父母所虐使、使之刓方爲圓破涕作笑、多方求媚于客、色稍不售、則箠撻隨之又豈仁人之所忍坐視哉、予甞聞清人厳禁倡伎、挙国絶無存者、嗣後聞琉人楊文鳳嘗学於清之福建、爲吾邦人、説所目撃、與予所百聞苻、則其事良然、嗚呼清君臣特以威力駆人耳、非真修明聖人之教者、尚猶能然、矧以我君明臣良風俗迥勝西土、断而行之、奚難之有、然此止言其賤濫者耳、至併與北里而去之絶不遺一、則未易言也、何者也、本邦封建之制、萬國所絶無也、藩臣祗役者、或二三年、或六七年、間有過十年者、孑然鰥居、此殆窮民之無告者、亦情之所可憫也、古之遣戍役也、周歳而代、聖王猶然思念其室家仳離之苦、詩以勞之、惻憫之情、備見乎辞、試令聖王在今日、必當先爲之所、必不一時任威以禁遏之矣、或因謂設花街者天下之善政也、假令無花街、則彼鰥居無耦者、不勝至欲、將無所不至、此亦一道也、然未達乎理、夫君子無諸已而後非諸人、夫子在都、即十餘年、時々沈酣花柳、固足以慰離索抑鬱之情、獨不思郷之妻妾十餘年孤棲靡匹獨處無聊之悲乎、請令諸侯之臣、祗役二年以上、皆携妻妾、有故而不得已者、不必強、此雖似生事、察情審勢、惟當出乎此、別無可處之方、至措置之詳、即予未暇具論也、古人之語治也、曰、倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱、又曰、仰足事父母、俯足蓄妻子、然後駆而之善、今明建之制、使藩国無曠夫怨女之悲、然後禁北里之遊、可以立有成効、亦處事之序也、若夫幕下士人妻妾有餘、而敢沈溺北里、欲兼魚與熊掌、蓋貪於色者、此直以峻法禁之、不必別勞區處也、至於商賈則浮薄姦黠、惟以罔利爲事、生平所爲、有甚於治遊者、且驟禁治遊、彼將鑽穴踰牆蕩不可制、固不必力遏也、顧治遊止於商賈、而士大夫絶不往、則其流毒決不至蠹害国政戕賊君徳、亦可以已矣、異日聖神駆世、教具靡闕、人人嚮道、耻近花柳、北里衰颯有可殄絶之兆、則相機度時、直禁止之、可也、但未知予在世之日能得値此時乎否也、

 

 

(読み下し文)

三に曰く 當(まさ)に花街を禁絶すべし。

當今の世、人心を蠱惑し、習俗を敗壊(ハイカイ)する者は、花街より甚しきは莫きなり。傳に云はく「甚しきかな、風俗の人に移るや。花街隣近の地、既に其の侈靡(シビ)を学び又其の偎褻(ワイセツ)無耻を学ぶ、望(のぞ)みて其の俗の不義なるを知る」と。花街多くて敝俗(ヘイゾク)の革めを求むること豈得べきや。國初(コクショ)、都下に妓館有すと雖も、隨處に零星(レイセイ)数家を有すに過ぎず。且貴人未だ甞て往かず。寛永中、賈人某(なにがし)城東に一大花街を立つるを請ひ、既に城北の郊(はづれ)に遷す。即ち今の北里是れなり。是の時花街此の一所に止む。嗣後歳(としごと)に加増有り。天明季年、白川源公政を秉り、宿弊を釐革(リカク)し、花街の賎濫者を減し、稍(やや)其の勢を殺(そ)げども、久しからず蕩然故(もと)の如し。今則ち賎妓の色を以て活を爲す者、其の幾地幾家かを知らず。古人云ふ有り、「刺繍文は市門(シモン)に倚(よ)るに如かず」と。凡そ諸商賈、獨だ花街の獲利(カクリ)最も饒(ゆた)かなれば、小民惟だ利を是れ求め、争ひて禁を冒して竊(ひそか)に之を爲す。吏爲る者、袖手旁観(シュウシュボウカン)し之を誰何(スイカ)せず。是以(これゆゑ)其の勢ひ彌漫し底止する所を知らず。且夫れ天下の至賎にして至苦たる者は、妓より甚しき爲るは莫し。是以(これゆゑ)古より婦人志操(シソウ)有る者、人の花街に略賣(リャクバイ)する所と為り、身を殺し節を全うする者比々(ヒヒ)にして有れば即ち其の死すること能はざる者、豈慙憤(ザンプン)の心無きや。乃ち其の良心を抑遏(ヨクアツ)し、禽獣の行ひを爲すを忍ばしむ。亦已(はなはだ)酷なるかな。其の上妓籍(ギセキ)に及ぶや、又主父母の虐使する所と為り、之をして方を刓(けず)り圓と爲し涕(なみだ)を破りて笑ひを作さしむ。多方客に媚を求め、色稍售(う)れざれば、則ち箠撻(スイタツ)之に隨(まか)す。又豈仁人の坐視を忍ぶ所なるや。

予甞て清人倡伎を厳禁するを聞く。国を挙げ絶へて存る者無し。嗣後琉人楊文鳳嘗て清の福建に学び、吾が邦人の爲に目撃する所を説くを聞き、予の百聞する所と符(あ)ふ。則ち其の事良(まこと)に然り。嗚呼清の君臣特だ威力を以て人を駆(か)るのみ。真に聖人の教を修明する者に非ざれど、尚猶(なほ)能く然する。矧(いは)んや我君明(クンメイ)臣良(シンリョウ)風俗迥(はるか)に西土に勝るを以て、断じて之を行へば、奚(なん)ぞ難きこと之れ有るや。然れども此れ止(た)だ其の賤濫者を言ふのみ。北里と併せて之を去り絶へて一も遺(のこ)さざるに至れば、則ち未だ言ふも易すからざるなり。何ぞや。本邦封建の制(さだめ)、萬國の絶へて無き所なり。、藩臣祗役(シエキ)せば、或は二三年、或は六七年、十年を過ぐる者有る間、孑然(ケツゼン)鰥居(カンキョ)す。此れ殆ど窮民の無告者にして、亦情の憫むべき所なり。古(いにしへ)の遣戍(ケンジュ)役なるや、周歳(シュウサイ)にて代る。聖王猶ほ然(しか)して其の室家(シッカ)仳離(ヒリ)の苦を思念す、詩以て之を勞(いたは)る。惻憫(ソクビン)の情、辞(ことば)に備見(ビケン)す。試みに聖王今日在らしめば、必ず當に先に爲すべきの所は、必ず一時の威に任せ以て之を禁遏せざるなり。或(あるひと)因て花街を設くは天下の善政なり、假令(もし)花街無かりせば、則ち彼の鰥居(カンキョ)(つれあひ)無き者、至欲に勝たず將に至らざる所無しと謂ふ。此れ亦一道なり。然れども未だ理に達せず。夫れ君子、諸(もろもろ)(や)みて後に諸人(もろびと)を非(そし)ること無し。夫子都に在ること即ち十餘年。時々花柳に沈酣(チンカン)すれば固より以て離索(リサク)抑鬱の情を慰むに足る。獨(た)だ郷の妻妾の十餘年孤棲(コセイ)し匹(つれあひ)靡く獨處無聊(ブリョウ)の悲しみを思はざるや。諸侯の臣、祗役(シエキ)二年以上は皆妻妾を携へしむを請ふ。故有りて已むを得ざれば必ずしも強ひず。此れ事を生ずに似ると雖も、情を察し勢を審にし、惟當に此に出るべし。別に處すべきの方(てだて)無し。措置の詳に至れば、即ち予未だ具論(グロン)の暇あらざるなり。古人の治を語るや曰く「倉廩(ソウリン)実ちて礼節を知る、衣食足りて栄辱を知る」と。又曰く「仰ぎては父母に事(つか)ふるに足り、俯しては妻子を蓄(やしな)ふに足り、然る後に駆りて善に之(ゆ)く」と。今之(この)(さだめ)を建つるを明らかにし、藩国に曠夫(コウフ)怨女(エンジョ)の悲しみを無からしめ、然る後に北里の遊を禁ずれば、以て立ちどころに成効有るべし。亦處事の序(ついで)なり。若し夫れ幕下士人妻妾餘り有りて敢て北里に沈溺し、魚と熊掌(ユウショウ)とを兼ねんと欲す。蓋し色を貪(むさぼ)る者、此に直ちに峻法を以て之を禁じ、必ずしも別に區處に勞めざるなり。商賈に至れば則ち浮薄(フハク)姦黠(カンカツ)、惟だ罔利(モウリ)を以て事を爲す。生平(セイヘイ)爲す所、冶遊(ヤユウ)に甚しき者有り、且驟(にはか)に治遊を禁ぜば、彼將に鑽穴踰牆(サンケツユショウ)(みだら)なること制(おさ)ふべからず。固より必ずしも力遏せざるや、顧(かへっ)て冶遊商賈に於いて止まりて士大夫絶へて往かず。則ち其の流毒決して国政を蠹害(トガイ)し君徳を戕賊(ショウゾク)するに至らず、亦以て已むべし。異日聖神世を馭(をさ)め、教具闕くるもの靡(な)く、人人道に嚮へば、花柳に近づくを耻づ。北里衰颯(スイサツ)し殄絶(テンゼツ)すべきの兆(きざし)有れば、則ち機を相(み)て時を度(はか)り、直ちに之を禁止するも可なり。但し未だ予の在世の日に能く此の時に値(あた)るを得るや否やを知らず。

  

(語釈)

蠱惑(まどわす、たぶらかす)敗壊(ハイカイ)(やぶれくずれる。敗頽) 侈靡(シビ)(身分に過ぎた驕り) 敝俗(ヘイゾク)(悪い風俗) 零星(レイセイ)(わずか) 北里(吉原) 白川源公松平定信釐革(リカク)(改革) 賎濫者(無許可営業者 岡場所) 蕩然(空しく)刺繍文(工業)市門(シモン)に倚(よ)る(商業)彌漫(はびこる)至賎(極めていやしい)至苦(極めて苦しい)志操(シソウ)(志と節操)略賣(リャクバイ)(人をかどわかして売る) 比々(ヒヒ)(しばしば) 慙憤(ザンプン)(恥じて怒る) 妓籍(ギセキ)(芸妓の世界) 箠撻(スイタツ)(むちうつ)楊文鳳琉球の学者、詩人) 君明(クンメイ)(君主の聡明なこと)  臣良(シンリョウ)(良い臣民) 祗役(シエキ)(君主の命令で他所へ行くこと)孑然(ケツゼン)(孤独に)  鰥居(カンキョ)(やもめ暮らし)窮民の無告者(自分の苦しんでいることを告げるべき身寄りもない者 孟子梁恵王章句下より) 遣戍(ケンジュ)役(辺地に派遣して守る役目)周歳(シュウサイ)(丸一年)室家(シッカ)(家庭) 仳離(ヒリ)(別離) 惻憫(ソクビン)(いたみあわれむ) 備見(ビケン)(つぶさに見る)至らざる所無し(どんな悪いことでもする)沈酣(チンカン)(ふける)離索(リサク)(孤独) 無聊(ブリョウ)(退屈なこと。心が楽しまないこと) 事を生ず(もめ事を引き起こす)具論(グロン)(十分に論じ尽くす)倉廩(ソウリン)(穀物の倉)栄辱(名誉と恥辱)曠夫(コウフ)怨女(エンジョ)(一人住まいの男と女)處事(事がらをとりはからう) 魚と熊掌(ユウショウ)とを兼ねんと欲す(魚と熊の掌は共に美味なもので、両方を欲すること 孟子告子編に出てくる喩え) 浮薄(フハク)(浅はかで軽々しい) 姦黠(カンカツ)(悪賢い)、罔利(モウリ)(利益を根こそぎ取り込む)生平(セイヘイ)(日頃) 冶遊(ヤユウ)(女遊び)鑽穴踰牆(サンケツユショウ)(穴をあけ、垣をこえる 人目を忍んで逢引すること)蠹害(トガイ)(物事を害すること) 戕賊(ショウゾク)(殺害)衰颯(スイサツ)(衰える) 殄絶(テンゼツ)(絶滅)

 

(現代語訳)

三 花街は禁止すべきである

 現在の世の中で花街ほど人々をたぶらかし文化や習慣を堕落させるものはない。古い書物には次のように書いてある「風俗が人々に及ぼす影響は大きい。花街の近隣の地域の人々は既に身分不相応な驕りや猥褻で恥知らずなことを学んだが、花街の中を覗いてみてそうした習わしが正しくないことを知った」と。花街は多く、悪い風習をあらためるよう求めることが果たしてできるのだろうか。

 江戸時代の初めには江戸には遊郭があってもわずか数件に過ぎなかったし、しかも身分の高い人たちは行かなかった。寛永年間にある商人が江戸城の東(日本橋人形町)に一大花街を申請して作り、その後城の北のはずれ(台東区千束)に移転した。今の吉原がこれである。この時は花街はこの一か所だけだった。その後毎年増えていった。天明の末、松平定信公が政権をとると、長年の弊害を改革し花街の無許可営業者を減らして、ややその勢いをそいだが、間もなく元に戻ってしまった。現在では遊女屋の営業をする者はどれぐらいあるかもわからない。古人は史記貨殖傳で「工業は商業にはかなわない」と言ったことがある。花街での利益は最も大きいので多くの商人が利益を求めて争って禁制を犯し密かに営業を行っている。役人はただ傍観して問いただすこともしない。このためその勢いはとどまる所を知らない。

 そもそも遊女ほど賤しく苦しい者は他にない。昔から志と節操のある婦人が花街にかどわかされて売られ、自殺して節操を守ったことがしばしばあったが、死ぬことができなかった者には恥じて怒る気持ちがなかったなどとどうして言えようか。一方で自分の良心を抑圧し獣の所業を耐え忍ばせるなどということははなはだ酷いことだ。その上遊女の世界では店主や父母に虐待され、四角を削られ丸くされ、涙を捨てさせ作り笑いをさせられる。客に媚びを売り、容色が衰えて売れなくなれば鞭打たれる。仁の心があればとても座視できるようなことではない。

 私は嘗て清では遊女を厳禁したと聞いたことがある。国中で遊女は全くいなくなったとのことだ。その後琉球の学者である楊文鳳が清の福建に留学してそこで見たことを日本人のために話したのを聞くと、私が聞いていたことと一致する。実際にその通りだったのだ。清の君主や家臣はただ権力で人を追い立てるだけで、聖人の教えを実行しているわけではないが、それでもこうしたことができているのだ。ましてやわが国は君主が聡明で、家臣は善良、文化もはるかに西土(中国)を上回るのだから、断じてこれを行なえば難しいことなどあるものか。しかしこれは無許可営業者の禁止についてだけ言えることだ。公認の吉原も併せてすべて廃止するとなると難しい。なぜか。わが国の封建制度は他国には類を見ない制度で、家臣は藩主の命令で江戸に赴任すれば、ある者は二三年、ある者は六七年、場合によっては十年を超える者もあり、その間孤独にやもめ暮らしをすることになる。これはほとんど悩みを打ち明けられる身寄りもない窮民に等しく、気の毒なものだ。古代の国境警備役は一年で交代した。それでも聖王は家族が別れることの苦難を思いやったし、詩経ではこれをいたわってあわれむ言葉が見られる。もし聖王が現在いたなら、真っ先にすべきことは力ずくで一挙に花街を禁圧することではないだろう。ある人は花街を設けることは天下の善政であって、もし花街が無ければこうした単身赴任者は欲望に勝てず何をしでかすかわからないと言う。それも一考だろう。しかしそれではまだ十分に考え尽くしたとはいえない。

 そもそも君子は様々な事が終わった後で諸人を非難するようなことはしない。貴君が江戸に十数年いたとして、時々女遊びにふければ当然孤独を慰めることはできるだろう。しかし国元の妻や妾は十数年夫が不在で孤独の悲しみにいることを考えないのか。大名の家臣で二年以上江戸に赴任する者は皆妻妾を帯同することを願い出るべきだ。やむを得ない理由がある場合には必ずしも強制はしない。これは面倒なことのように思えるかもしれないが、情勢を考えれば是非行うべきで、他に良い方法はない。措置の詳細についてはここで十分に論じる時間はない。

 古人は政治についてこんなことを言っている「穀物の倉がいっぱいになってはじめて礼節を知るようになり、衣食が十分足るようになってはじめて名誉と耻を知るようになる」と。また「父母に仕え、妻子を養うようになって、その後に善を行うようになる」と(孟子梁恵王章句)。今この制度を行うことを明らかにして、藩の中から一人住まいの男と女の悲しみを無くすようにして、その後に吉原での遊興を禁止すればたちどころに効果があるだろうし、それが物事を進める順序であろう。

 一方で幕府の旗本・御家人の中には妻や妾があるのにあえて吉原に入り浸り、両方を楽しもうとする者がいる。このように色欲を貪る者については直ちに厳しい法で禁止して格別のとりはからいなどする必要はない。

 商人に至っては軽薄で悪賢くただ利益のことだけを考えており、日ごろから女遊びも激しい。急に女遊びを禁止しても彼らは制度の抜け道を突いてくるので、実効があがらないだろう。はじめから力ずくで禁止しなければかえって女遊びは商人のところで止まり、武士は行かなくなるだろう。そうすれば花街の害毒が国政に悪影響を及ぼすことはなく、君主の徳を損なうこともなく、問題は収束するだろう。

 将来聖人が世を治め、教化のための道具も完備し、人々が正しい道に向かい花街に近づくことを恥じるようになって、吉原衰退の兆しが出てくれば機を見て直ちにこれを廃止するのが良いだろう。但し私が生きている間にその時が来るかどうかはわからない。

 

四曰 可禁服飾之奢僭者

(漢文)

嗚呼婦人首飾衣服之奢麗踰制、迄今日極矣、貴人富商之嬖妾、一人之身、而一時首飾或百金、衣之繍者一稱直数十金、猶非其美者、賤吏享五斗之粟、裏店小民、獲絲毫之利爲活者、衣帯非柳條皺紗厚繒天鵞絨不用、以銀爲笄、則衆群而嗤之、中人之家、其婦女将之人家、其往其來、衣帯不得同、同則斥爲寒陋、至芸妓之属、則有一時三更者、蓋往来既已殊服、而待客行酒之際、更服其一、有人欲求媚于富賈、出橐中金十四塊、買得毒冒笄之佳者、以献于其妻、妻大慍曰、汝豈輕我耶、吾平素未甞用笄直二十金以下者、此不可以汚我頭、便以賜侍婢、其奢僭至此、真可笑而可悪也、漢時民賣僮者絲履偏諸縁耳、冨人大賈白穀之衣耳、而賈生已爲之長大息、使見今之俗、應不止乎長大息矣、顧不必遠引外国也、若百餘年前、北里妓高尾、色藝冠絶、児童所共悉、今其遺衣藏青山某寺、特以天藍色染絹而作龍文者也、妓之貴者且爾、当時之俗可想、然則民之趨侈靡、其來不遠、今古頓成天淵、可勝嘆哉、或謂婦人服飾之美、奚預天下大事、而譏切迺爾也、夫婦人服飾之奢僭、足以傾資儲、足以戕敗風俗、百害由此生、然而不禁、猶爲國有政乎、今列侯貴人好内多嬖寵者、莫不窮匱問其故、則曰服飾之費難供、衣服於身、猶曰頼以活、至于首飾、全然無用、珠玉與荊竹奚擇、乃爲是費財不訾、抑亦愚矣、平素賞功賑民、斗粟尺帛靳不肯與、在嬖寵、則金帛山積、不復顧惜、臣民烏得不解體乎、至賤吏小民亦事侈靡、則非交通貨賂欺罔他人、其財何所出也、且上無一定之制、上下服章無辨、商賈之賤、苟饒於貨、則可以被服侈於妃嬪、此何異於魯三家之僭八佾雍徹、不可坐視而勿之救也、今誠欲禁絶斯習、當審所先後、下之於上、不従所令而従所好、請先令列侯貴人之妻妾婦女、擯瑇瑁而不用、棄文綺而不服、使下民観瞻暁然識所嚮、然後厳設之禁、盡罷天下造瑇瑁之工、布帛肆不得賣錦繍文綺諸價極貴者、道上見犯者、隣近聞犯者、皆得捕以聞官吏立行賞誅、如以銀爲簪前已有禁、但令不巌、故下不守、銀簪比瑇瑁、爲費至輕、雖然天下至□而徒用之首飾、幾於暴殄天物、請申厳前令、與瑇瑁同禁、此雖近於苛酷、不如是之厳、冥頑小民、決不知懲畏、夫在上者躬行以鼓作之、峻防明罸以督率之、然而禁不止者未之有也、

 

(読み下し文)

四に曰く 服飾の奢僭なる者を禁ずべし

嗚呼婦人首飾(シュショク)衣服の奢麗(シャレイ)踰制(ユセイ)、今日極まるに迄(いた)るかな。貴人富商の嬖妾(ヘイショウ)、一人の身にして一時に首飾或は百金、衣の繍(ぬひとり)したる者は一稱(イッショウ)(あたひ)数十金。猶ほ其の美を非(そし)るがごとき者は、五斗の粟(ゾク)を享くる賤吏、裏店(うらだな)の小民、絲毫(シゴウ)の利を獲て活を爲す者。衣帯(イタイ)柳條、皺紗(ちりめん)、厚繒(コウソウ)、天鵞絨(ビロード)に非ざるもの用ひず。銀を以て笄(かうがい)と爲せば、則ち衆(もろびと)群れて之を嗤ふ。中人の家、其の婦女将(まさ)に人家に之(ゆ)かんとせば、其の往き其の來るに、衣帯同じたるを得ず。同じなれば則ち寒陋(カンロウ)と爲して斥(しりぞ)く。芸妓の属に至れば、則ち一時に三たび更ふ者有り。蓋し往来既已(キイ)服を殊(こと)にして客を待ち、酒を行ふの際、服を其一に更ふ。有る人富賈に媚を求めんと欲し、橐中(タクチュウ)金十四塊を出し、瑇瑁(タイマイ)の笄の佳き者を買得し、以て其の妻に献ず。妻大ひに慍(いか)りて曰く「汝豈我を輕んずるや。吾平素未だ甞て笄の直(あたひ)二十金以下の者を用ひず。此れ以て我頭を汚すべからず」と。便(すなは)ち以て侍婢(ジヒ)に賜ふ。其れ奢僭(シャセン)此に至る。真に笑ふべきなれど悪むべきなり。漢時、民の僮(ドウ)を賣る者、絲履(シリ)偏諸(ヘンショ)縁となすのみ(漢書賈誼傳「今民賣僮者,爲之繍衣絲履偏諸縁」)。冨人大賈白穀の衣のみ。而して賈生(カセイ)已に之に長大息を爲す。使(も)し今の俗を見せしめば、應に長大息を止めざらん。顧れば必ずしも遠く外国を引かざるなり。百餘年前、北里の妓(あそびめ)高尾の若し色藝(ショクゲイ)冠絶すること、児童共倶(ともども)(しりつく)す所にして、今其の遺衣青山某寺に藏(をさ)む。特(ただ)天藍色(テンランショク)を以て絹を染めて龍文を作(な)すのみの者なり。妓(あそびめ)の貴き者且(また)(しか)り。当時の俗(ならはし)想ふべし。然れば則ち民の侈靡(シビ)に趨くこと、其の來るところ遠からず。今古頓(にはか)に天淵を成す。嘆くに勝(た)ふべきかな。或(あるひと)謂く「婦人服飾の美、奚(なん)ぞ天下大事に預りて譏切(キセツ)(すなは)ち爾(しかる)や」と。夫れ婦人服飾の奢僭(シャセン)、資儲(シチョ)を傾くを以て足り、風俗を戕敗(バツハイ)するを以て足る。百害此に由り生ず。然して禁ぜざれば、猶ほ國に政有りと爲すや。今列侯貴人多くの嬖寵(ヘイチョウ)を内(い)るるを好む者は窮匱(キュウキ)せざるもの莫し。其の故を問へば則ち曰く「服飾の費(つひえ)供し難し」と。衣服の身に於けるや猶ほ頼みて活(い)くると曰ふがごとし。首飾に至れば、全然無用。珠玉と荊竹と奚(なん)ぞ擇(えら)ばん。乃ち是が爲め財を費やすこと不訾(フシ)。抑(はた)(また)愚なるかな。

平素賑民(シンミン)を賞功(ショウコウ)し、斗粟尺帛(トゾクシャクハク)を靳(をし)み、與(あた)ふを肯ぜざれど、嬖寵(ヘイチョウ)在れば則ち金帛山積し、復た顧惜(コゼキ)せず。臣民烏ぞ解體せざるを得るや。賤吏小民に至れば亦侈靡(シビ)を事とす。則ち貨賂(カロ)を交通し他人を欺罔するに非ざれば、其の財何所(いづこ)の出なるや。且上に一定の制(さだめ)無くば、上下服章(フクショウ)(わきま)へ無し、商賈の賤しき、苟(いやしく)も貨に饒(ゆたか)なれば則ち被服妃嬪(ヒヒン)より侈(おご)るを以てすべし。此れ何ぞ魯三家の八佾(ハイイツ)雍徹(ヨウテツ)を僭(まね)ることに異ならん。坐視して之(これ)(ふせ)がざるべからざるなり。今誠に斯る習を禁絶せんと欲すれば、當に先後する所を審らかにすべし。下の上に於けるや、令する所に従はず、好む所に従ふ。先ず列侯貴人の妻妾婦女をして瑇瑁(タイマイ)を擯(す)てさせ用ひさせず、文綺を棄てて服さざらしむを請ふ。下民をして観瞻(カンセン)させ暁然嚮ふ所を識らしむ。然る後之(この)禁を厳設す。盡(ことごと)く天下瑇瑁(タイマイ)の工(さいく)を造るを罷め、布帛(フハク)(ほしいまま)錦繍(キンシュウ)文綺(ブンキ)諸價極めて貴き者を賣るを得ず。道上(ドウジョウ)に犯す者を見、隣近に犯す者を聞かば、皆捕へて官吏に立行賞誅(ショウチュウ)を聞かすを得。銀を以て簪と爲すが如きは前に已に禁有り、但だ令巌しからず、故に下守らず。銀簪(ギンサン)は瑇瑁(タイマイ)に比べ、費(あたひ)至て輕きと爲す。天下の至賞(シショウ)の然(ごと)しと雖も徒(いたづら)に之を首飾に用ふれば、天物(テンブツ)を暴殄(ボウテン)するに幾(ちか)し。前令を申厳(シンゲン)し、瑇瑁(タイマイ)と禁を同じくするを請ふ。此れ苛酷に近しと雖も、是(かく)の如くの厳にせざれば、冥頑(メイガン)の小民、決して懲畏(チョウイ)を知らず。夫れ上に在る者躬行(キュウコウ)し以て鼓して之を作し、峻(きび)しく防ぎし明らかに罸し以て之を督率(トクソツ)す。然れば而(すなは)ち禁ずれど止めざる者未だ之(これ)有るや。

 

(語釈)

首飾(シュショク)(頭や首を飾るもの)奢麗(シャレイ)(思い上がって華美に装うこと) 踰制(ユセイ)(制限をこえること)嬖妾(ヘイショウ)(お気に入りの女)、一稱(イッショウ)(衣装一かさね)五斗の粟(ゾク)(わずかな俸禄)絲毫(シゴウ)(わずか)衣帯(イタイ)(服装) 柳條(竪縞の絹)厚繒(コウソウ)(地の厚いつむぎ) 中人(普通の人) 寒陋(カンロウ)(貧乏で卑しい)既已(キイ)(すでに)客を待つ(客をもてなす)、酒を行ふ(宴席で酌をする)橐中(タクチュウ)(袋の中)瑇瑁(タイマイ)(鼈甲) 侍婢(ジヒ)(侍女)奢僭(シャセン)(身分不相応な贅沢) (ドウ)(隷妾 自由刑に処せられた身分の高い女)絲履(シリ)(糸で編んだ靴) 偏諸(ヘンショ)(飾りに用いる組ひも) (衣服のふちにつける飾り) 民の僮(ドウ)を賣る者、絲履(シリ)偏諸(ヘンショ)縁となすのみ(原文漢書賈誼傳「今民賣僮者,爲之繍衣絲履偏諸縁」) 賈生(カセイ)(賈誼 前漢の思想家)北里(吉原) 色藝(ショクゲイ)(容色と技藝)冠絶(群を抜いて優れている)  天藍色(テンランショク)(コバルト色龍文(龍の模様)天淵(天と地ほどの違い) 譏切(キセツ)(痛切に批判すること)資儲(シチョ)(たくわえ)戕敗(バツハイ)(傷つける)嬖寵(ヘイチョウ)(お気に入りの女性) 窮匱(キュウキ)(窮乏)不訾(フシ)(はかりしれない)賑民(シンミン)(人民に施し救うこと)賞功(ショウコウ)(てがらをほめる)斗粟尺帛(トゾクシャクハク)(わずかな粟や絹) 顧惜(コゼキ)(惜しんで大切にする) 解體(人々がばらばらになって離れ背く)貨賂(カロ)(賄賂)服章(フクショウ)(服に施した飾り模様)妃嬪(ヒヒン)(高位の女官)魯三家春秋時代の魯の政治を壟断した三桓氏) 八佾(ハイイツ)(天子の舞楽雍徹(ヨウテツ)(天子の祭りの際に雍の歌を歌わせること)文綺(かざり、装飾 )観瞻(カンセン)(見る) 暁然(明らかに覚るさま)厳設(きちんと設ける)布帛(フハク)(織物) 錦繍(キンシュウ)(美しい着物) 道上(ドウジョウ)(みちばた)立行(日常の行動)賞誅(ショウチュウ)(賞罰) 至賞(シショウ)(うまいほめかた 少ない費用でほめるやり方) 天物(テンブツ)を暴殄(ボウテン)す(天の与えてくれた物を損なう、礼法を乱す)申厳(シンゲン)(重ねて戒める)冥頑(メイガン)(愚かで頑な)懲畏(チョウイ)(おそれ)躬行(キュウコウ)(自ら実行する)鼓して(元気を奮い起こして)督率(トクソツ)(統率)

(現代語訳)

四 服飾の過度に贅沢なものを禁止すべし

 今日の女性の頭や首の飾り物や衣服の華美なことは度を超えている。高位の人や豪商のお気に入りの女性の頭や首の飾り物は一人用で或いは百両、刺繍してある衣装の一かさねの値段は数十両もする。その美をそしるのはわずかな俸禄の低位の役人、裏店の小民、わずかな利を得て生活する者などである。服装では竪縞の絹、ちりめん、地の厚い紬、天鵞絨以外の物は用いない。銀でかんざしを作れば人々が集まって笑いものになる。普通の人の家の女性が他人の家に行こうとすれば、その行きと帰りで衣装が同じではいけない。同じであれば貧乏で卑しいとしてとがめられる。芸妓では一時に三回服を変える者までいる。つまり往きと帰りで服を変えて客をもてなし、宴席で酌をするときにまた変える。ある人が豪商に媚を売ろうとして金十四両を出して鼈甲のかんざしの上等な物を買ってその妻に献上した。その妻は大いに怒って言うには「お前は私を馬鹿にするのか。私は普段二十両以下のかんざしを使ったことなどない。こんなもので私の頭を汚すわけにはゆかない」と。そしてこれを侍女に与えてしまった。このように身分不相応な贅沢がこれほどまでになっている。まことに笑うべきだが、憎むべきでもある。

 漢の時代には、隷妾(自由刑に処せられた身分ある女性)を売る者はこれに糸で編んだ靴、飾りに用いる組ひも、衣装の縁につける飾りを作らせた。金持ちや大商人の衣装は白い木綿や麻のみだった。しかし前漢の思想家である賈誼はこれを嘆いている。もし今の風俗を見たら嘆きが止まらないだろう。

 振り返ってみれば必ずしも遠い外国の例を引用するまでもない。百数十年前の吉原の遊女高尾などは容色・技藝が抜群に優れていることは子供でも知っていた。今はその衣装が青山のある寺に保存されているが、ただコバルト色で絹を染めて龍の模様が描いてあるだけのものである。有名な遊女でもこの程度である。当時の風俗がしのばれる。そうしてみると民が身分不相応な贅沢に向かったのはそれほど以前からではない。今と昔では天と地ほどの違いができてしまったのだ。嘆かわしいことだ。

 ある人は「女性の衣装や飾りが天下の大事に関わるとしてそんなに厳しく批判する必要があるものか」と言うが、女性の服飾の過度な贅沢は富を傾ける可能性が十分にあるし風俗を傷つける可能性も十分にある。様々な弊害がこれにより生じるのに禁止しなければ国に政治があると言えるだろうか。

 今、大名や高位者で多くのお気に入りの女性を抱える者は皆窮乏している。その理由を問えば答えは服飾の費用が掛かり過ぎるということである。衣服は身体にとっては生きるのに必要なものであるが、頭や首の装飾品などは全く無用のものであり、珠玉でも荊や竹でもどちらでもよい。ところがこのために計り知れないほどの財を費やす。何と愚かなことか。平素人民に施し救うことを賞賛しながらわずかな粟や布をも惜しんで与えようとしないのに、お気に入りの女性がいれば金や絹を惜しみなく与える。これでどうして家臣や民が離れ背かずにすむだろうか。小役人や零細な人民が身分不相応な贅沢をするには、賄賂をやりとりし人を欺くのでなければどうやってその費用を出せるだろうか。上で一定の制約を定めなければ、衣服の飾り模様に上下のわきまえが無くなるし、賤しい商人でも財産が豊かであれば高位の女官よりも驕った衣服を着させるようになる。これは春秋時代に魯の政治を壟断した三桓氏が天子の舞楽や儀式である八佾(ハイイツ)や雍徹(ヨウテツ)を勝手に行ったことにも匹敵する。こんなことは座視していてはいけない。

 もし本当にこうした行為を禁絶しようと思うなら、まず先にやるべきことと後からやることを明らかにすべきだ。下の者は上に対して命ぜられたことに従わず、好みに従っている。まずは大名や貴人の妻妾や婦女に鼈甲や装飾品を捨てさせ用いないようにさせる。下の者どもにはこれを見させて向かうべき方向をはっきり覚らせる。その後に禁令をきちんと設ける。鼈甲細工を作ることは全面的に禁止し、織物については美しい着物や装飾品で値段の高いものは勝手に売ることを禁止する。禁令を犯すものがあれば皆捕えて官吏に日常の行動や賞罰を知らせる。銀をかんざしに使うことは既に禁令があるが、厳しくないので下は守っていない。銀のかんざしは鼈甲と比べれば値段は大幅に安いので、少ない費用でうまくほめるような効果があるが、やたらにこれを頭や首のかざりに使えば天の与えてくれたものを損ない、礼法を乱すことになる。既にある禁令を厳しくし、鼈甲と同様にすることを願う。これは過酷なようだがこのようにしなければ愚かで頑なな小民は決しておそれを知らないだろう。上に在る者は自ら行って勇気を奮い起こして禁令を実行し社会を統率すべきだ。そうすれば禁止してもやめない者はなくなるだろう。

 

五曰 宮女可減十九

(漢文)

唐杜君卿痛論当時官職濫冗之弊、有云、昔契作司徒、敷五教、今司徒戸部尚書、是二契也伯冏太僕掌車馬、今太僕郷駕部郎中尚輦奉御閑厩使者、是四伯冏也、予竊以爲今日官吏之濫極、而宮中宦女爲甚、吏之濫猶可諉曰各有職掌不可軽減、至於宮女、則徒糜廩粟費庫金而已、其幹事理務者、十無一二、且宮女俸賜於官吏、器用服飾、既極其盛麗、所餘猶足沾丐九族、天下資儲、自有定分、寧堪多蓄此素餐之輩邪、婦人之性、大抵柔闇不達事理、使之執勞事親賤役、或足以開智成徳、今無可管之務、而禄賜過厚、於是乎、多蓄侍婢、気使頤指以自養重、於凡婦人所職汚澣裁縫調烹梳櫛之事、毫無所解、其所習知者、僅々塗抹紅粉修飾容儀品評俳優数事耳、故宮女之出宮者、人不欲娶、多不得于帰者及強嫁人也、大作夫家患、夫或不能堪而逐之、以予所覩聞、其犯此患者、不一而足、害不止乎身、毒流於人、可嘆之甚也、矧宮女擧皆以二七二八之妙齢入宮、或六七八九年、或十餘年、然後方得出、間有白頭黄馘終于職者、彼其孤鳴不和、獨居無匹、常人之情、寧得無悲哀抑塞傷天地之和乎、是故其稍謹慎有守者、知規矩之不可越、往々感鬱病瘵以死、其蕩而罔検者、抑遏日久、慾火益熾思偶甚於饑渇、苟有少釁隙、輒思逞其欲、顔厚行醜、殆倍平民、是雖可悪、察其心、不無可憫、故減一人則一人獲所、減二人則二人獲所、内無怨女者、太王之政也、可不勉哉、今於宮中、沙汰其十九、出而嫁之、揀択留其謹厚者十一、可省訾費鉅萬、其留者各有職掌、不得暇逸、自然勤励修飭、其嫁者得遂室家之情、感徳無窮、大利帰於上、而下蒙生成之功、是一挙而二利也、若夫宮女俸賜、則實過於厚、不可不減□、然必服飾之禁立、然後此法可行、不然服飾之奢麗、宮女爲甚、不禁服飾之奢麗而驟薄其俸賜、婦人之愚闇、苦於財不供用、但怨上之少恩、不知其爲國而然、此則措置之先後不可紊者也、可不察乎、

 

(読み下し文)

五に曰く 宮女十の九を減らすべし

唐の杜君卿当時の官職の濫冗(ランジョウ)の弊を痛論し云へる有り。「昔契(セツ)司徒と作(な)り五教を敷く。今の司徒、戸部(コブ)尚書(ショウショ)、是れ二契(セツ)なり。伯冏(ハクケイ)太僕車馬を掌る。今の太僕卿、駕部(ガブ)、郎中(ロウチュウ)、尚輦奉御(ショウレンホウギョ)、閑厩使者(カンキュウシシャ)、是れ四伯冏(ハクケイ)なり」と。予竊(ひそか)に以爲(おもへらく)、今日官吏の濫(みだり)極まり、而も宮中宦女(カンジョ)甚しきを爲す。吏の濫(みだり)猶ほ諉(かこつ)くべし。曰く「各(おのおの)職掌有り軽減すべからず」と。宮女に至れば則ち徒(いたづら)に廩粟(リンゾク)を糜(つひや)し庫金を費(つひや)すのみ。其の幹事(カンジ)理務(リム)は、十に一二無し。且宮女の俸賜(ホウシ)官吏に優(まさ)る。器用服飾、既に其の盛麗(セイレイ)を極む。餘る所猶ほ九族を沾丐(センカイ)するに足る。天下の資儲(シチョ)、自(おのづ)から定分有り。寧(いづくん)ぞ此の素餐(ソサン)の輩を多く蓄ふに堪ふや。婦人の性、大抵柔闇にして事理に達せず。使(もし)之をして事親、賤役(センエキ)を執勞(シツロウ)せしめば、或は開智、成徳を以て足らん。今(いま)管(つかさど)るべきの務(つとめ)無くて禄賜(ロクシ)厚きに過ぐれば、是に於いてや侍婢(ジヒ)を多く蓄ふ。気使(キシ)頤指(イシ)し、以て自ら重きを養ふ。凡そ婦人の職とする所の汚澣、裁縫、調烹(チョウホウ)、梳櫛(ソシツ)の事に於いて、毫も解する所無し。其の習ひ知る所は僅々紅粉(コウフン)を塗抹(トマツ)し容儀(ヨウギ)を修飾し俳優の数事を品評するのみ。故に宮女之(これ)宮を出れば人娶るを欲さず。多くは帰るを得ざれば人に強嫁(キョウカ)するに及ぶや、大ひに夫家の患を作す。夫或は堪ふこと能はずして之を逐ふ。予の覩聞(トブン)する所を以てすれば、其れ此の患を犯す者、一にて足らず。害は身に止まらず、毒は人に流る。之を嘆くべきこと甚しきなり。矧(いはん)や宮女擧げて皆二七・二八の妙齢を以て宮に入り、或は六七八九年、或は十餘年、然る後に方(まさ)に出るを得。間(このごろ)白頭黄馘にて職を終へる者有り。彼其(ヒキ)孤り鳴き和せず。獨り居り匹(ともがら)無し。常人の情にて寧(いづくん)ぞ悲哀無く傷を抑塞(ヨクソク)し天地の和を得るや。是故(これゆゑ)其の稍(やや)謹慎し有守(ユウシュ)たる者、規矩(キク)の越ゆベからざるを知り、往々に鬱を感じ瘵(サイ)を病み以て死す。其の蕩(みだり)にして検(みさを)(な)き者は、抑遏(ヨクアツ)の日久しければ、慾火(ヨクカ)(ますます)(はげし)く、偶(つれあひ)を思ふこと饑渇より甚し。苟(いやし)も少しの釁隙(キンゲキ)有れば、輒(すなは)ち其の欲を逞(たくましく)するを思ふ。顔厚(ガンコウ)行醜(コウシュウ)、殆ど平民に倍す。是れ悪(にく)むべきと雖も其の心を察すれば憫むべきこと無しとせず。故に一人を減ずれば則ち一人所を獲り、二人減ずれば則ち二人所を獲る。内に怨女(エンジョ)無ければ、太王(タイオウ)の政なり。勉めざるべきかな。今宮中に於いて、其の十の九を沙汰し、出して之を嫁(とつが)せ、其の謹厚なる者十の一を揀択(カンタク)し留む。訾費(シヒ)鉅萬(キョマン)なるを省くべし。其の留まる者は各職掌を有し暇逸(カイツ)を得ず。自然勤励修飭(シュウチョク)す。其の嫁ぐ者は遂に室家の情を得、徳に感ずること窮まり無し。大利上に帰して、下生成の功を蒙る。是れ一挙にして二利なり。若し夫れ宮女の俸賜(ホウシ)、則ち實に厚きに過ぐれば、減削せざるべからず。然れば必ず服飾の禁立て、然る後に此の法行なふべし。然らざれば服飾の奢麗、宮女甚しきを為し、服飾の奢麗を禁ぜずして驟(にはか)に其の俸賜を薄くせば、婦人之(これ)愚闇にして財の供用せざるを苦(にが)り、但だ上の少恩を怨み、其れ國の為に然るを知らず。此れ則ち措置の先後紊(みだ)すべからざる者なり。察せざるべきか。

 

(語釈)

杜君卿(唐代の学者、政治家) 濫冗(ランジョウ)(むだ) 痛論(手厳しく論ずる) (セツ)(中国古代殷王室の始祖とされる伝説上の人物。帝舜のとき,禹の治水を助けて功があり,司徒の官に任ぜられて民を教化したという) 五教儒教の五つの教え。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の五倫)       伯冏(ハクケイ)太僕(周の穆王の賢臣 太僕は官職名) 廩粟(リンゾク)(倉にある米)幹事(カンジ)(事をつかさどること) 理務(リム)(政務を処理すること) 俸賜(ホウシ)(手当 給料) 器用(道具)九族(九代の親族) 沾丐(センカイ)(めぐみ与える) 資儲(シチョ)(たくわえ) 素餐(ソサン)(仕事をしないむだ飯食い)事親(親に仕えること)賤役(センエキ)(卑しい仕事) 執勞(シツロウ)(骨折って仕事をする)   開智(知識を広める)成徳(徳を完成させる)気使(キシ)頤指(イシ)(人を見下げてあごや顔色で指図して使う)汚澣(洗濯)調烹(チョウホウ)(料理) 梳櫛(ソシツ)(髪をくしけずる)紅粉(コウフン)(紅とおしろい) 塗抹(トマツ)(塗る)容儀(ヨウギ)(みめかたち)俳優(芸人)覩聞(トブン)(見聞) 二七・二八(十四才、十六才)彼其(ヒキ)(彼) 抑塞(ヨクソク)(おさえふさぐ)有守(ユウシュ)(節操がある)規矩(キク)(規則)(サイ)(病気) 慾火(ヨクカ)(情慾) 釁隙(キンゲキ)(すき)顔厚(ガンコウ)(あつかましいこと)行醜(コウシュウ)(行いが恥ずべきであること)怨女(エンジョ)(婚期が遅れたり、夫が不在であったりして、独り身である自分を哀れと思って嘆く女)太王(タイオウ)(周の文王の祖父 伝説上の名君)沙汰(えり分ける)謹厚(つつしみぶかく誠実)揀択(カンタク)(選ぶ)訾費(シヒ)(費用)鉅萬(キョマン)(巨万)  暇逸(カイツ)(仕事をしないで、ぶらぶらしていること)修飭(シュウチョク)(身を修めいましめる)室家(家庭、夫婦) 徳に感ずる(ありがたく思う)愚闇(愚かで事理に暗い)苦(にが)る(不快に思う)

 

 

(現代語訳)

五 大奥の官女の十分の九は減らすべし

 唐代の学者の杜君卿は当時の官職のむだについて次のように論じている。「古代殷王朝の始祖とされる契は帝舜に司徒に任ぜられ人の守るべき五つの教えを広めた。今は司徒は戸部と尚書にあたり、二人の契がいることになる。周の穆王の賢臣である伯冏太僕は車馬を管理したが、今は太僕卿は駕部、郎中、尚輦奉御、閑厩使者の四つにあたり、四人の伯冏がいることになる」。私が密かに思うのは現在の官職が多すぎるということである。特に大奥の官女はひどい。男の官吏についてはまだ何とか理由が付けられる。各々に役割があり軽減できない、といったことだ。ところが官女については倉庫の食料や金銭を無駄に費やすだけだ。事務を処理したり政務を処理することは十のうち一、二ほども無い。その上官女の俸給は官吏より多いし、道具や服飾は贅沢を極めている。余った俸給で九代の親族を養えるほどだ。しかし天下の蓄えには限りがある。何でこんな無駄飯食いの輩を多く雇っていられるものか。

 女性の性質は大抵弱く愚かで事理を理解しない。もし彼女らに親に仕えることや卑しい仕事に骨折らせたら或いは知識を広めたり徳を完成させるのに役立つかもしれない。しかし今やるべき仕事もなくて俸給が多すぎれば、侍女を多く雇って人を見下げてあごで使うようになり、自分は偉いものだと思うようになる。およそ女性の仕事とされる洗濯、裁縫、料理、調髪といったことについては全く理解していない。彼女らの習い知るところはわずかに紅やおしろいを塗って外見を整えることや、芸人を品評することぐらいだ。このため官女が大奥から外に出されても、人々はこれと結婚したいとは思わない。多くは里に帰ることもできず、無理やりに嫁入りすれば嫁ぎ先の家を困らせる。夫は場合によっては耐えられずにこれを追い出す。私の見聞した所ではこうした失敗をする者は少なくない。悪影響は自分自身に止まらず他人にも及ぶ。嘆かわしいことだ。

 ましてや官女は皆、十四才、十六才といった妙齢で大奥に入り、或る者は六年から九年、場合によっては十数年いて、その後に出ることになる。この頃では白髪頭になってから退職する者もある。彼女らは一人でいて友人もいない。普通の人間から見れば、これで悲哀を感じずに心の傷をおさえて心穏やかにいられるわけがない。このためやや慎ましく節操の有る女性は、掟に反するわけにはいかないことを知って、往々にして欝を感じ病気になり、死んでしまう。反対に奔放で節操がない者は抑圧の日が長く続けば、情欲がますます激しくなり男に飢えて少しでもすきあらばその欲を満たそうとする。厚かましく恥知らずであることは平民よりはるかにひどい。これは憎むべきことだとは思うが、その心を察すれば憐れむべき点もないではない。このため一人退職すれば一人分の居場所をつくってやり、二人退職すれば二人分居場所を作ってやるべきだ。国内に婚期を逃して独り身である自分を哀れと思って嘆く女がいなくなれば、それは伝説上の名君である太王の政治といえる。是非実現すべきだ。

 今の大奥の官女の十分の九を選り分けて外に出して嫁がせ、残りの十分の一の慎み深く誠実な者を残す。そうすれば巨額の費用を節減できる。残った者はそれぞれやるべき職務があるので、仕事をせずにぶらぶらしているわけにはいかなくなる。そうすれば自然に勤勉に職務に励み身をつつしむようになるだろう。嫁いでいく者は家庭の愛情を得てありがたく思うようになるだろう。上には大きな利益があり、下にも家庭が誕生する。これは一挙両得であろう。

 ところで官女の俸給が高すぎれば削減しなければならないが、その場合まず服飾についての禁令を作り、その後に俸給削減を行うべきである。官女の服飾の贅沢は甚だしいが、これを禁止しないでいきなり俸給の削減を行なえば、女性は愚かで事理に暗いので金が出ないのを不快に思いただ上を怨み、それが国の為であることを理解しようとしないだろう。措置の順序を間違えてはならないということはよく理解すべきである。

 

六曰婦人再醮不必譏議

(漢文)

夫時異則勢殊、世下則俗易、通明之士、因時以制勢、不咈世以違俗、是以将有爲有行、如決江河靡所窒礙、迂腐守株之儒則反是、禮曰、壹與之齊、終身不改、故夫死不嫁、王蠋曰、忠臣不亊二君、烈女不更二夫、自是諸儒相承變本加厲、痛論再醮之罪、殆如悖理賊徳天地鬼神所不容者、至有宋程叔子正斷之謂寧可寒餓死不可再嫁、再嫁之婦、即娶之人亦爲失節、此説極嚴正、顧恐其於人情時勢、未免有不通也、試思當今澆季之俗、古制蕩然、無一存者、農之不可井田、樂之不可韶濩、衣之不可縫掖、夫人而知之、而奚獨尤乎再醮邪、再醮之罪、特見漢儒所輯之礼記、聖人未甞明言、予未知聖人之意竟如何耳、志曰、躬自厚而薄責於人、己所不欲、勿施於人、夫者婦之所取則、尤當反身修己然後能刑于寡妻、男女雖貴賤殊等、鈞是人也、自上帝観之、豈有霄壌之懸、周季之制、漢儒之論、惟知自便、略不顧人、劉夫人男子相爲之言、雖出乎妬婦之口、亦足以箴其膏肓矣、夫天子至御妻一百二十人、諸侯一娶九女、宗子雖七十無無主婦、、婦人則年甫二八、一合巹之後、無復再醮之理、抑何偏頗而苛刻也、予意不然、在古昔至治之世、再醮固不如其無、在于季世、再醮當在所不問、何也、俗澆教替、婦人之罪、可責者尚多、如再醮之失、微乎微者、奚足禁乎、況青年喪耦、孤居自守、在聞道之儒、尚或難之、豈可盡責天下婦人哉、予観儒学礼法之家、其婦其女、有少而寡者、或父兄防制、使之守節、或已耻再醮之名、憤激不嫁、夫守義不出於中心、而特出於父兄之駆迫、與一時之義激、寧能久而不変哉、彼其邪淫之欲、蓄然後發、泛濫四出、不可遏止、故孀婦之蕩閑者、行或侔禽獣、昔者東夷之子慕諸夏之禮、有女而早寡、爲内私婿、終身不嫁、嫁則不嫁矣、亦非清節之義也、今之守寡者、比二東夷子女、豈若公行再醮善事後夫之得道哉、至列侯夫人、則以礼儀隆重難再擧行、往々以寡終身、於是乎、獨陰無陽、積想不□成疾者相踵、尤可爲心惻者也、今再醮、令甲所不禁、固無煩乎言、但漢儒所定之禮、傳世已久、学者尊奉如金科玉律、故時論不帰乎一耳、予因私議禮曰、婦人四十以下、嫁而寡者、不禁再醮、有子承家衣食豊饒、不願改適者、固當聴允、気節高潔、誓自守義者、固當褒揚、但再醮不必譏斥耳、婦人之道、惟在貞静事夫柔順奉舅姑、不問其醮之壹與再、悍恣而不再醮、逈不若再醮而貞順、惟若此而後可以合天人之心得禮義之中、使聖人制礼于今、亦必出于此矣、荊渓某氏、年十七、適仕族某、半載而寡、遺腹産一子、氏撫孤守節、年八十餘、孫曽林立、臨終、召孫會輩媳婦、環侍床下曰、吾有一言、尓等敬聴、衆曰、諾氏曰、爾等作我家婦、盡得偕老百年、固屬家門之福、倘不幸青年居寡、自量可守則守之、否則上告尊長、竟行改醮、亦是大方便事、衆愕然、以爲惛髦之乱命、氏笑曰、爾等以我言爲非耶、守寡両字、難言之矣、我是此中過来人、請爲爾等、述往事、衆粛然共聴、曰我居寡時、年甫十八、因生存名門、嫁於宦族、而又一塊肉累腹中、不敢復萌他想、然晨風夜雨、冷壁孤燈、頗難禁受、翁有表甥某、自姑蘇来訪、下榻外館、於屏後覰其貌美、不覚心動、夜伺翁姑熟睡、欲往奔之、移燈出戸、俯首自慙廻身復入、而心猿難制、又移燈而出、終以此事可耻、長歎而回、如是者数次、後決然竟去、聞竃下婢喃〃私語、屛気回房、置燈卓上、倦而假寐、夢入外館、某正讀書燈火、相見各道衷曲、已而携手入幃、一人趺坐帳中、首蓬面皿、拍枕大哭、視之亡夫也、大喊而醒、時卓上燈熒熒作青碧色、譙楼正交三鼓、児索乳啼絮被中、始而駭、中而悲、継而大悔、一種児女子情、不知銷歸何處、自此洗心滌慮、始爲良家節婦向使竃下不遇人聲、帳中絶無噩夢、能保一生潔白不貽地下人羞哉、因此知守寡之難、勿勉強而行之也、命其子書此、垂爲家法、含笑而逝、後宗支繁衍、代有節婦、間亦有改適者、而百餘年来、閨門清白、従無中冓之事

 

諧鐸

予初草此論、所記古人之言、與予見符者、皆刪節鎔鋳而用之、十篇属藁已訖、然後得古人之説取者、不可補入、輒付記篇末、既不掩古人之美、又以補予言之未至、下倣此

惛髦 惛耄(コンポウ)の誤りか?読み下し文は惛耄(コンポウ)として扱う。

 

(読み下し文)

六に曰く、婦人の再醮(サイショウ)必ずしも譏議(キギ)せず

夫れ時異れば則ち勢殊(ことな)る。世下れば則ち俗(ならはし)(かは)る。通明の士、時に因り以て勢を制す。俗に違ふを以て世に咈(いか)らず。是以(これゆゑ)(まさ)に有爲有行(ウイウコウ)たらん。江河(コウガ)決し窒礙(チツガイ)する所靡(な)きが如し。迂腐(ウフ)守株(シュシュ)の儒則ち是に反す。禮に曰く「壹(ひと)たび之(これ)と齊(ととの)へば、終身改めず。故に夫死すれば嫁さず」と。王蠋曰く「忠臣二君に事へず。烈女二夫を更(か)へず」と。自ら是(よし)とする諸儒相承し、本を變じて厲を加へ再醮の罪を痛論す。殆ど理に悖(もと)り徳を賊(やぶ)り天地鬼神の容れざる所の者の如し。宋の程叔子(テイシュクシ)有るに至り、正に之を斷じて謂はく「寧ろ寒餓死すべくとも再嫁すべからず。再嫁の婦、即ち之を娶る人亦失節を爲す」と。此の説極めて嚴正なるも、顧(かへ)って恐らくは其の人情時勢に於いて未だ通ぜざること有るを免れざるなり。試しに當今の澆季(ギョウキ)の俗(ならはし)を思へば、古制蕩然(トウゼン)として一つとして存(のこ)る者無し。農は井田(セイデン)を可とせず。樂は韶濩(シュウユ)を可とせず。衣は縫掖(ホウエキ)を可とせず。夫れ人之を知れば奚(いづくん)ぞ獨(た)だ再醮を尤(とが)むや。再醮の罪、特(た)だ漢儒の輯(あつ)むる所の礼記に見るのみ。聖人未だ甞て明言せず。予未だ聖人の意竟(つひ)に如何なるかを知らず。志に曰く「躬(ミ)(みづか)ら厚くして薄く人を責む、己の欲せざる所を人に施す勿れ」と。夫は婦の則(のり)を取る所なれば尤も當に身に反し己を修むべし。然る後に能く寡妻に刑(のりをしめす)。男女貴賤殊等(シュトウ)ありと雖も鈞(ひと)しく是れ人なり。上帝より之を観れば豈に霄壌(ショウジョウ)の懸(へだたり)有るや。周季(すゑ)の制、漢儒の論、惟だ自便を知るのみ。略(ほぼ)人を顧(かへりみ)ず。劉夫人男子相爲すの言、妬婦(トフ)の口より出ると雖も、亦以て其の膏肓(コウコウ)を箴(いまし)むに足る。夫れ天子妻一百二十人を御すに至り、諸侯一娶九女(イッシュウキュジョ)、宗子七十と雖も主婦無きは無し。婦人則ち年甫二八、一たび合巹(ゴウキン)の後、復(ま)た再醮無きの理、抑(そもそも)何ぞ偏頗にして苛刻なるや。予然らざるを意ふ。古昔至治の世に在らば、再醮固より其れ無きに如かず。季(すゑ)の世に在れば、再醮當に不問とする所に在るべし。何ぞや。俗澆(うす)く教へ替る。婦人の罪、責むべき者尚多し。再醮の失(あやまち)の如し、微(かすか)にして微(わづか)なり。奚ぞ禁ずるに足るや。況(いはん)や青年耦(つれあひ)を喪(うしな)ひ、孤り居り自ら守るをや。聞道(ブンドウ)の儒在らば、尚或は之を難ず。豈盡(ことごと)く天下の婦人を責むべきかな。予儒学礼法の家を観れば、其の婦(つま)其の女(むすめ)、少(わか)くして寡(やもめ)の者有らば、或は父兄防ぎ制(おさ)へ之に節を守らしむ。或は再醮の名を已(はなは)だ耻じ憤激し嫁せず。夫れ義を守ること中心より出ざるは特だ父兄の駆迫(クハク)より出るのみ。一時の義激に與(したが)ひ、寧ぞ能く久しく変はらざるや。彼其の邪淫の欲、蓄(やしな)ひ然る後に發し、泛濫(ハンラン)四出し遏止(アッシ)すべからず。故に孀婦(ソウフ)の蕩閑者、行なひ或は禽獣に侔(ひと)し。昔者東夷の子諸夏の禮を慕ひ、女有りて早寡(ソウカ)なれば、内(ひそか)に私婿(シセイ)を爲し、終身嫁(とつ)がず。嫁(とつ)げど則(しかる)に嫁がざるとは、亦た清節の義に非ざるなり。今の寡を守る者、比比(ヒヒ)東夷子女なれば、豈(あに)(おほやけ)に再醮を行ひ善く後夫に事ふるの道を得るに若(し)くかな。列侯夫人に至れば、則ち礼儀隆重(リュウチョウ)なるを以て再擧行に難く、往々にして寡を以て身を終る。是に於いて、獨陰無陽(ドクインムヨウ)、積想(セキソウ)散ぜざれば疾(やまひ)と成る者相踵(つ)ぐ。尤も心惻を爲すべき者なり。今再醮、令甲(レイコウ)禁ぜざる所なれば、固より言ふ煩ひ無し。但し漢儒所定むる所の禮は世に傳はり已(すで)に久し。学者尊奉すること金科玉律の如し。故に時論一に帰せざるのみ。予私議に因らば禮に曰く「婦人四十以下、嫁して寡たる者は再醮を禁ぜず。子有り家を承ぎ衣食豊饒にして改適(カイテキ)を願はざる者は、固より當に聴允(チョウイン)すべし。気節(キセツ)高潔、自ら義を守るを誓う者は、固より當に褒揚(ホウヨウ)すべし。但し再醮必ずしも譏斥(キセキ)せざるなり。婦人の道、惟だ貞静(テイセイ)に夫に事へ、柔順に舅姑を奉るに在るなり。其の醮(ショウ)の壹と再を問はず。悍恣にして再醮せざるは逈(はるか)に再醮して貞順なるに若かず。惟だ此(かく)の若(ごと)くして後に天人の心に合ひ禮義の中を得るを以て可とするのみ」と。使し聖人今に礼を制(さだ)むれば、亦必ず此を出すかな。

荊渓(ケイケイ)某氏、年十七、族某に適(とつ)ぎ仕(つか)へ、半載にして寡(やもめ)なり。遺腹(イフク)一子を産む。氏孤を撫(やしな)ひ節(みさを)を守り、年八十餘。孫曽(ソンソウ)林立し終りに臨む。孫曽(ソンソウ)(ともがら)の媳婦(セキフ)を召し、床下に環侍(カンジ)し曰く「吾一言有り。尓等(なんぢら)敬聴せよ」と。衆曰く「諾(はい)」と。氏曰く「爾等(なんぢら)我を家婦と作し、盡く偕老百年を得れば、固より家門の福に屬(つらな)る。倘(もし)不幸にして青年に寡に居らば、自量し、則(のり)を守るべきなれば之を守り、否なれば則ち尊長(ソンチョウ)に上告し竟(つひ)に改醮(カイショウ)を行へば、亦是れ大方にして便事(ベンジ)」と。衆愕然とし以て惛耄(コンポウ)の乱命と爲す。氏笑ひて曰く「爾等(なんぢら)我言を以て非(あやまり)と爲すや。守寡の両字、之を言ふに難し。我是此(この)過来人(カライジン)に中(あた)る。爾等の爲に往事を述ぶを請ふ」と。衆粛然と共に聴く。曰く「我寡に居る時、年甫(はじめ)て十八。名門に生存するに因り宦族に嫁(とつ)ぐ。而して又一塊の肉腹中を累(わづらは)す、敢へて復(ま)た他想を萌さず。然れども晨風(シンプウ)夜雨、冷壁孤燈、頗る禁受(キンジュ)し難し。翁に表甥(ヒョウセイ)某有り、姑蘇(コソ)より来訪し外館に下榻(カトウ)す。屏後(ヘイゴ)より其の貌美を覰(うかが)ひ、不覚に心動き、夜翁姑(オウコ)熟睡するを伺ひ、往き之と奔(なれあ)はんと欲す。燈を移し戸を出、首を俯せ自ら慙(は)ず。身を廻(めぐら)し復た入る。而して心猿(シンエン)制し難く、又燈を移し出る。終に此の事耻ずべきたるを以て長歎して回(かへ)る。是(かく)の如き者(こと)数次。後に決然竟(つひ)に去る。竃下(ソウカ)の婢(はしため)私語を喃喃(ナンナン)するを聞き、屛気(ヘイキ)し、房(へや)に回(かへ)る。燈を卓上に置き、倦(つかれ)て假寐(カビ)す。夢に外館に入れば、某正に燈火に讀書す。相見(ソウケン)し各(おのおの)衷曲(チュウキョク)を道(い)ふ。已而(すでにして)手を携へ幃(とばり)に入る。一人帳中(チョウチュウ)に趺坐すれば、首は蓬面は皿。枕を拍(たた)き大哭す。之(これ)亡夫を視るなり。大喊(タイカン)して醒む。時に卓上の燈(あかり)熒熒(ケイケイ)として青碧色を作す。譙楼(ショウロウ)正に三鼓を交ふ。児(こ)乳を索り絮被(ジョヒ)中に啼く。始め駭(おどろ)き、中ごろは悲しく、継ひで大ひに悔ゆ。一種児女子の情、何處(いづこ)へ銷()へ歸るかを知らず。此により洗心(センシン)滌慮(デキリョ)し、始めて良家節婦と為る。向使(たと)ひ竃下の人聲に遇はざれども、帳中絶へて噩夢(ガクム)無し。能く一生潔白を保ち地下人に羞を貽(のこ)さざるかな。此に因り守寡の難を知る。勉強して之を行ふこと勿きなり」と。其の子に命じ此を書かせ、家法爲るを垂れ、含笑して逝く。後に宗支繁衍(ハンエン)し、代(よよ)節婦有り、間亦改適(カイテキ)する者有り。而して百餘年来、閨門(ケイモン)清白。従て中冓(チュウコウ)無きとの事。

 

(諧鐸

予初め此の論を草し、古人の言を記す所、予と符を見る者、皆刪節(サンセツ)(不用の語句をけずり、ほどよい文章にする)鎔鋳(ヨウチュウ)(作りあげる)して之を用ふ。十篇属藁(ショクコウ)(草案を作ること)已(すで)に訖(をは)る、然る後に古人の説取(セッシュ)(説得)する者を得、補入すべからず。輒ち篇末に付記す。既に古人の美を掩(おほ)はず、又以て予の言の未だ至らざるを補ひ、下此に倣ふ。)

 

(語釈)

再醮(サイショウ)(再婚)譏議(キギ)(非難)(なりゆき、形勢、かたむき)通明(事理に通じた)有爲有行(ウイウコウ)(役に立ち、見るべきところが有る)江河(コウガ)(揚子江黄河窒礙(チツガイ)(障害)迂腐(ウフ)(世事に疎く役に立たない)守株(シュシュ)(古い習慣にこだわり融通がきかない) 王蠋(戦国時代の斎の国の賢人)自ら是(よし)とする(独りよがりな)本を變じて厲を加ふ(本来のものより一層悪くする) 程叔子(テイシュクシ)(程頤 北宋の思想家。兄の程顥とともに二程子とよばれる。性理学の基礎を築いた)澆季(ギョウキ)(人情の薄い末の世)蕩然(トウゼン)(あとかたもなく)井田(セイデン)(古代中国で行われたといわれる土地制度。周代では、一里四方の田地を井の字形に九等分し、周囲の八区の土地を私田として八戸に分け与え、中央の一区を公田として共同耕作させ、その収穫を租として官に納めさせた)韶濩(シュウユ)(殷の湯王の音楽)縫掖(ホウエキ)(袖の下から両脇までを縫い合わせた儒者の着る服) (古い書物) 躬(ミ)自(みづか)ら厚くして薄く人を責む(自分の身は厚く責めて、人は余り責めない)身に反し(自分自身を反省し)殊等(シュトウ)(地位が異なる)霄壌(ショウジョウ)(天と地)自便(自分の便宜に従うこと 自分の便利なようにすること)劉夫人後漢末期の武将袁紹正室。嫉妬深い性格であった)妬婦(トフ)(嫉妬深い女)膏肓(コウコウ)(どうにも手のつけられない誤りや癖)二八(十六才)合巹(ゴウキン)(「巹」は瓢(ひさご)を縦に二分して作った杯。昔、中国で新郎新婦がそれで祝いの酒を酌んだところから》夫婦の縁を結ぶこと。婚礼。結婚) 青年(若い時)聞道(ブンドウ)(道理を知る)中心(心の中)駆迫(クハク)(追い立てること)義激(激しい正義の感情) 泛濫(ハンラン)(広く溢れる)四出(四方に出る)孀婦(ソウフ)(やもめ) 早寡(ソウカ)(年若くして夫と死別した妻)私婿(シセイ)(内縁の夫)清節(清らかなみさお) 比比(ヒヒ)(しばしば)隆重(リュウチョウ)(盛大でおごそか)獨陰無陽(ドクインムヨウ)(陰気なことばかりで陽気なことがない)、積想(セキソウ)(つもる思い) 心惻(心をいためること 気の毒に思うこと)令甲(レイコウ)(最初の第一令)時論(当代の世論) 私議私見) 改適(カイテキ)(女性の再婚) 聴允(チョウイン)(許す、承知する)気節(キセツ)(気概があり節操が固い)褒揚(ホウヨウ)(ほめ励ます)譏斥(キセキ)(非難) 貞静(テイセイ)(心正しくおだやか)醮(ショウ)(結婚)悍恣(荒々しく自分勝手)中を得る(宜しきを得る 適切にする)

荊渓(ケイケイ)(現在の江蘇州宜興市)遺腹(イフク)(父の死後に生まれる子)孫曽(ソンソウ)(孫とひ孫) 媳婦(セキフ)(妻)環侍(カンジ)(とりまく) 自量(自分の才能力量をはかり知る)尊長(ソンチョウ)(目上の人) 改醮(カイショウ)(再婚)大方(正しい道)便事(ベンジ)(便利な事)惛耄(コンポウ)(おいぼれ) 乱命(死に臨んで精神の錯乱したときの命令)守寡(後家を通すこと) 過来人(カライジン)(経験者)  宦族(官吏)晨風(シンプウ)(朝風)禁受(キンジュ)(耐え忍ぶこと)翁(舅)表甥(ヒョウセイ)(母方のいとこの子)姑蘇(コソ)(地名。今の江蘇省蘇州市)下榻(カトウ)(宿泊)屏後(ヘイゴ)(屏風の後)不覚(思わず)翁姑(オウコ)(舅姑) 心猿(シンエン)制し難く(情欲は抑えられない) 喃喃(ナンナン)(しゃべる) 屛気(ヘイキ)(息をひそめる)假寐(カビ)(うたたね)相見(ソウケン)(対面) 衷曲(チュウキョク)(心の奥深くに潜む細かな感情)大喊(タイカン)(大声で叫ぶ)熒熒(ケイケイ)(光がほのか)譙楼(ショウロウ)(物見やぐら)三鼓(午前零時の合図)絮被(ジョヒ)(綿入りの夜着洗心(センシン)(改心する)滌慮(デキリョ)(煩いを取り除く)噩夢(ガクム)(驚き感動して見る夢)地下人(死者) 勉強(無理強い)垂る(述べる、伝える) 宗支(一族)繁衍(ハンエン)(盛んに増える)(よよ)(代々)(時々)閨門(ケイモン)(家庭)清白(けがれなく清らか) 中冓(チュウコウ)(閨中の隠秘)

(読み下し文)

六 女性の再婚は必ずしも非難すべきではない

 そもそも時が異なれば情勢も異なる。時代が下れば風俗も変わる。事理に通じた人は時に応じて勢いを支配するし、風俗が変わったからと言って世の中に対して怒ったりしない。このため有能と評価される。それは黄河揚子江が決壊しても災害を発生させないようにするのと同じことだ。

 ところが世間に疎く古い習慣にこだわり融通が利かない役立たずの儒者はそうはいかない。礼記には「一たび結婚すれば夫を一生変えない。ゆえに夫が死んでも再婚してはいけない」と書いてある。戦国時代の齊の賢人である王蠋(オウショク)は「忠臣は二君に仕えず。信念を貫き通す女性は夫を変えない」と言った。独善的な儒学者がこれを受け継ぎ、元のものより一層ひどくして、女性の再婚の罪を非難してほとんど道理に反して徳を破壊する天地の神も許さない大罪のように言う。朱子学を確立した宋の学者程頤(テイイ)に至っては、「凍死しても餓死しても再婚はしてはいけない。再婚する女だけではなくこれを娶る相手もまた人の道を失い身を誤ることになるのだ」と言う。この説は極めて厳正だが、かえって人情や時の情勢に通じていない面があるのは否めない。

 現在の風俗や文化を考えてみれば、古代の制度はあとかたもなく一つも残っていない。農業では中国古代の井田(セイデン)制は残っていないし、音楽では殷の湯王の音楽である韶濩(シュウユ)も残っていない。衣服では袖の下から両脇までを縫い合わせた儒者の着る服である縫掖(ホウエキ)は残っていない。こうしたことを人々が知れば、何で女性の再婚だけを非難するものか。再婚の罪はただ漢の儒学者が編集した礼記に見られるだけで、聖人がこれまでに明言したことはない。私はまだ聖人の考えがいかなるものかを知らない。古い書物には、自分自身は厳しく責めて他人はあまり責めてはいけない、とか自分のしてほしくないことを人にしてはいけない、と書いてある。夫は妻の模範になるべき存在であるから、とりわけ自分自身を反省し身を修めるべきであり、そうして初めて妻に手本を示すことができる。男女は身分や地位が異なるとはいえ、等しく人間である。上からこれを見れば天と地ほどの差などあるものか。古代中国の制度や漢の儒学者の論はただ男たちに都合の良いことばかりで、ほぼ女のことを顧みていない。後漢末の武将である袁紹の妻の劉夫人の「男たちは互いに男のためにしている」との言葉は嫉妬深い女の口から出たものではあるが、どうにも手の付けられない誤りを戒めている。そもそも皇帝は百二十人の妻を支配し、諸侯は一度に九人の女を娶る。長男は七十才になっても正妻がいない者は無い。一方で女性は十六才で一たび結婚すればもはや再婚してはいけないという理屈は何と不公平で過酷なものか。私はそれは間違っていると思う。

 古代の政治が行き届いた理想の世の中であれば再婚は始めから無いに越したことがないだろう。しかし今の世の中では再婚は問題にすべきではない。なぜなら風俗や文化は軽薄になっており、道徳の教えも変わっている。女性の罪も数ある中で再婚の罪などは取るに足らないほどのもので、なんでわざわざ禁止する必要があろうか。ましてや若い時に伴侶を失い一人で生活し自らを守っているような人についてはなおさらである。それでも道理を知る儒学者は再婚を非難するかもしれない。しかし何で世の中の女性をことごとく責められようか。

 私が儒学者や礼法の家を見ると、その家の女性で若くして夫を失った者がいると、ある家では父や兄が男が近づくのを防ぎこれに貞操を守らせるし、ある家では再婚といわれることをはなはだ恥じて嫁がせない。つまり道徳を守っていると言っても心の中からそうしているのではなく、父や兄に追い立てられてそうしているに過ぎない。一時の感情に従っても何で気持ちがいつまでも変わらないなどと言えようか。彼女の情欲は蓄積された後に噴出すれば、広くあふれ出て止めることができないだろう。このため夫を失った女性の中でだらしがなく暇な者の行いはけだものに等しい場合すらある。

 昔の日本人は中國の礼にあこがれ、年若くして夫と死別した妻があれば、ひそかに内縁の夫を作り一生再婚しなかった。嫁いでいるのに嫁いでいないとは、これは中国の礼に言う清らかな節操とは言えないだろう。今の夫を亡くして独身を守る者はしばしば昔の日本の女子と同じことをしている。しかしそれであれば公に再婚をみとめて後の夫に仕える道を得させた方が良いだろう。大名の夫人に至っては婚礼の儀式が盛大で厳かであるため再度行うことが難しく、それでしばしば独身のまま一生を終わる。このため陰気なことばかりで陽気なことが無く、憂鬱を発散できず病気になる者が相次いでいる。とりわけ気の毒なことである。

 もし女性の再婚が初めから禁止されていなかったならば当然面倒はなかった。ただ漢の儒学者が定めた礼は世の中に伝わってからすでに久しい。学者がこれを尊重することはまるで金科玉条の如しである。このため世論が一つにまとまらないのである。私が考える礼の制度では次のように言う「女性が四十才以下で夫と死別し独身となった場合は再婚を禁止しない。子があって家を継ぎ衣食も豊かで再婚を願わない者は当然それを許す。気概があり節操が固く高潔で自ら義を守ることを誓う者は当然それを褒めて励ます。但し再婚は必ずしも非難しない。女性の道とは心正しくおだやかに夫に仕え、柔順に舅姑を大切にすることにあり、結婚が一度目か二度目かは関係ない。再婚しないが淫乱で自分勝手な者よりは再婚して心正しくおだやかな者の方がはるかにましである。このようにして天の心と人の心に合致し礼義に適合するのを良しとするのである」と。もし聖人が今の世の中で礼の制度を定めればきっとこのようにしただろう。

 荊渓(ケイケイ)(現在の江蘇州宜興市)のある女性は十七才で人に嫁ぎ仕え、半年で夫と死別し独身となった。その時妊娠しており、一子を生んだ。その後は独身で生活し貞節を守った。孫やひ孫が多くでき、八十才で臨終を迎えた。

孫やひ孫の妻たちを呼び病床の周りに座らせて「私は一つ言うことがあるので、お前たちよく聞きなさい」と言い、皆「はい」と返事した。彼女は次のように言った「お前たちは自分を家庭の主婦として夫と共に百歳まで生きられれば当然一族の幸運につながるだろう。もし不幸なことに若くして夫と死別して独身となったなら、自分の才能と力量を考えて、もし貞操を守れるのであれば守り、そうでなければ目上の人に報告して再婚すれば、これもまた正しい道であり便利なことでもある」と。皆これを聞き驚き、おいぼれが死に臨んで錯乱したのだろうと思った。彼女は笑ってこう言った「お前たちは私の言っていることは誤りだと考えているのか。『守寡』(後家を通すこと)の二文字は言うのも難しいことなのだ。私はこれについての経験者なのでお前たちのために昔のことを話すからを聞きなさい」と。皆粛然と聞いた。「私は名門の家に生まれ育ったので官吏の家に嫁いだ。夫と死別した時は十八才で、その時すでにおなかに子供がいたのでそのことを考えるだけで精一杯だった。しかし朝風に夜の雨、冷たい壁やぽつんと灯る明かりなどを一人で見ることは忍び難いことだった。ある時、舅のいとこの子が来訪し離れに宿泊することになった。屏風の後からその美しい顔を見た時思わず心が動き、夜舅姑が寝静まったのを見計らって会いに行きたいと思った。明かりを持って部屋を出たが、自分で恥ずかしくなりうつむいてまた部屋に戻った。しかし情欲は抑えがたくまた明かりを持って部屋を出たが、これは恥ずべきことだとため息をついて戻った。こんなことを何回も繰り返した後、ついに決心して部屋を出たが、かまどの下で下女たちがおしゃべりしているのを聞いて息をひそめて部屋に戻った。明かりを卓上に置くと疲れてうたたねしてしまった。夢の中で離れに入ると彼がちょうど明かりをつけて読書しているところだった。対面してお互いに心の中の思いのたけをうちあけ合った。まもなく手を取り合ってとばりの中に入った。とばりの中で一人で座って見てみると、相手の頭はよもぎ、顔は皿だった。これは亡き夫の姿を見ていたのだった。枕をたたいて泣き、大声で叫んで目が覚めた。その時卓上には明かりがほのかに青緑色に光り、やぐらの太鼓が午前零時の合図を打って、赤ん坊は乳をさがして夜着の中で泣いていた。始めのうちは驚いたがやがて悲しくなり次には大いに悔やんだ。これは一種の少女の心情でどうやって消え去っていったかはわからない。しかしこれによってさっぱりと心が洗われ始めて貞操を守る良家の女性となれた。たとえかまどの下の下女たちの声を聞かなくても、とばりの中であのような驚くべき夢を見ることはなくなり、一生貞操を守り死者に恥をかかせないですむようになった。しかしこれにより夫の死後独身を貫くことの困難さを知り、これは無理強いすることではないと思うようになった」。彼女はこのことを子に命じて書かせ、これは家法であることを述べて笑って死んでいった。

 後に一族は繁栄し、代々夫の死後も独身を守る女性もいたが、再婚する女性もいた。こうして百年の間、一族の家庭は清らかで醜聞もなかったとのことである。

 

七曰婦人殉節非禮

(漢文)

予徧閲歴代史乗稗説、至凡婦人其夫病死而以死殉之、論者概稱以貞烈、未甞不潜然流涕壮其志而惜其事之悖禮也、元明而降、人多矯偽、好名之念益切、駭俗之行愈熾、延及婦人、莫不慕効、於是乎、殉節者継踵而出、方且文詩以歌頌之、祠廟以崇異之、宜乎、擧世風靡、不復覚其非也、其最可悲者、至有膝下遺孤呱呱無人乳養、而亟決然就死、略不顧念、何其忍酷也、夫事必在是非失得之際、然後人或苦不能辨、斯事之悖謬怐然易見、三尺童子亦能察知、至堂々儒先反不能然者、何也、一則好異之心切、一則私己之情勝、彼其殺身殉節、特爲愛慕君子而然、在男子、人情不得不悦其激烈之行、燿目駭耳、犂然有中於吾好名之心、遂至於昏迷東西顛倒黒白、何不一反其本而平心察之乎、人之始也、稟気於天、父母生之育之、其重何如也、故身體髪膚之毀傷、先聖且斥以不孝、顧大節之所在、捨生取義、殺身成仁、固当然、至其夫罹疾物故、則人道之常、乃妄以死殉之、戕天地之理、傷父母之心、旁貽慼于兄弟親姻、於心安乎、記曰、不勝喪乃比於不慈不孝、其夫亡不勝悲慕、發疾而死、由君子観之、且當比不貞與不順、矧自忍戕其躯乎、且也作俑従葬、孔子尚悪其不仁、而論其必無後、至以人殉死、則秦國西戎之弊習、尤當爲炯戒者、故我垂仁天皇 嚴有大君及明英宗之禁殉、海内嗟称以爲徳事、今婦人自刃以従夫、即殉死之昭然者、乃貶此而褒彼、可謂不知類矣、初南天竺之麻辣襪尓古魯満帖児諸国、崇信浮屠、其俗婦人、夫死則熾火焚屍、己亦投火以死、則称爲貞烈、嗣後西洋人至、諭以非人所爲、其俗始止、自刃與自焚無以異、泰西人能禁而吾反不能、可耻之甚矣、此俗西土殊甚、吾邦則綦少夫已死、狂而自刃、及追慕而死、有疾不薬、而自速死者、間有之、此固當及其未萌而豫禁遏之者也、或曰、方今教弛鮮有共姜伯姫之節、褒揚矯激之行、以励其餘、猶恐其未、迺勧以淟涊偸活之道、将無教猱升木助桀為虐邪、予曰、豈其然乎、矯激之擧、或足以鼓動一時、而衆弊随之、予所以立此論、察今古之変、酌情禮之中、将以垂萬世矩矱、豈区区爲一時而謀乎、或曰、人能殺身殉夫、亦事之至難者、猶然不免乎譏、何其不成人之美也、予曰、古人有云、非死之難、處死則難、顧其死之当否如何耳、若以其死而已、則男女之相悦、而終至於懸梁投淵、門徒之人、爲其所宗刎頸且不辞者、亦將稱而揚之褒而賞之邪、

 歸有光曰、女未嫁人而或爲其夫死、又有終身不改適者、非禮也、夫女子未有以身許人之道也、未嫁而爲其夫死、且不適者、是以身許人也、男女不相知名、婚姻之禮、父母主之、父母不在、伯父世母主之、無伯父世母、族之長者主之、男女無自相婚姻之禮、所以厚別而重廉耻之防也、女子在室、唯其父母爲之許聘於人也、而已無所與、純乎女道而已矣、六禮既備、壻親御授綏、母送之門、共牢合巹而後爲夫婦、苟一禮不備、婿不親迎、無父母之命、女不自往也、猶爲奔而已、女未嫁、而爲其夫死、且不改適、是六禮不具、壻不親迎、無父母之命而奔者也、非禮也、陰陽配偶、天地之大義也、天下未有生不偶者、終身不適、是乖陰陽之気、而傷天地之和也、曾子問曰、昏禮既納弊有吉日、婿之父母死、則如之何、孔子曰、壻已葬、致命女氏曰、某之子有父母之喪、不得嗣爲兄弟、使某致命、女氏許諾而弗敢嫁也、弗敢嫁而許諾、固其可以嫁也、婿免喪、女之父母、使人請壻弗取而後嫁之、禮也、夫壻有三年之喪、免喪而弗取、則嫁之也、曾子曰、女未廟見而死、則如之何、孔子曰、不遷於祖、不祔於皇姑、不杖不菲不次、歸葬於女氏之黨、示未成婦也、未成婦則不繫於夫也、先王之禮、豈爲其薄哉、幼従父兄、嫁従夫、従夫則一聴於夫、而父母之服爲之降、従父則一聴於父、而義不及於夫、蓋既嫁而後夫婦之道成、聘則父母之事而已、女子固不自知其身之爲、誰屬也、有廉耻之防焉、以此言之、女未嫁而不改適、爲其夫死者之無謂也、或曰、以勵世可也、夫先王之禮不足以勵世、必是而後可勵世也乎、

 

(煜按、明代婦人好名之甚、許嫁未適而夫死、便以死殉之者、比〃、震川之論所以作也、其所論不與予同、意則相近、故録以資考、夫既嫁而以死殉夫且不可、況未嫁乎)

 

又曰、嗚呼男女之分、天地陰陽之義、並持於世、其道一而已矣、而閨門之内罕言之、亦以陰従陽地道、無成有家之常事、故莫得而著焉、惟夫不幸而失其所天、煢然寡儷、其才下者往々不知従一之義、先王憫焉、而勢亦莫能止也、則姑以順其愚下之性而已、故禮有異父昆弟之服、至於高明貞亮之姿、其所出有二、其一決死以殉夫、其一守貞以没世、是皆世之所称、而有國家者之所旌別、然由君子論之、苟非迫於一旦、必出於死爲義、而出於生爲不義、是乃爲可以死之道、不然猶爲賢智者之過焉耳、由是言之則守貞以没世者、固中庸之所難能也、婦之於其夫、猶臣之於其君、君薨世子幼六尺之孤百里之命、国家之責方殷臣子之所以自致於君者、在於此時耳、三代以来、未有以臣殉君者也、以臣殉君者、秦之三良也、此黄鳥之詩所以作、而聖人之所斥也、夫不幸而死、而夫之子在、獨可以死乎、就使無子、苟有依者、亦無死可也、要於能全其節、以順天道而已矣。

 

 

(読み下し文)

七に曰く、婦人節に殉ずるは禮に非ず。

予徧(あまね)く歴代史乗(シジョウ)稗説(ハイセツ)を閲(けみ)す。凡(およ)そ婦人其の夫病死に至りて死を以て之に殉ず。論者概ね貞烈なるを以て稱(たた)ふ。未だ甞て潜然(センゼン)其の志(こころざし)の壮(さかん)なるに流涕せざることなし。而して其の事の禮に悖(もと)るを惜しむなり。元明而降、人矯偽(キョウギ)多し。好名(コウメイ)の念益(ますます)(ふか)く、俗を駭(おどろ)かすの行ひ愈(いよいよ)(さかん)なること婦人に延及(エンキュウ)し、慕効(ボコウ)せざるもの莫し。是に於いてや、殉節者継踵(ケイショウ)して出(い)で、方に且に文詩、歌を以て之を頌(ほ)め、祠廟(シビョウ)、崇(かざり)を以て之を異(こと)にす。宜しきかな。擧世風靡、復た其の非(あやまち)を覚へざるなり。其の最も悲しむべき者(こと)は、膝下(シッカ)に遺孤(イコ)の呱呱(ココ)たる有り乳養する人無くとも亟(すみやか)に決然と死に就き、略(ほぼ)顧念(コネン)せざるにに至る。何ぞ其れ忍酷(ニンコク)なるや。夫れ事に必ず是非失得の際(きは)在り、然れども後人(コウジン)或は能く辨(わきま)へざるに苦しむ。斯る事の悖謬(ハイビュウ)灼然(シャクゼン)と見易し。三尺童子亦た能く察知す。堂々たる儒先、反(かへっ)て能く然らざるに至るは何ぞや。一に則ち異を好むの心切(セツ)なること。一に則ち私己(シコ)の情の勝ること。彼其(ヒキ)身を殺し節に殉ず。特に君子を愛慕する爲(ため)(すなは)ち然り。男子に在れば、人情其の激烈の行なひを悦ばざるを得ず、目を燿(かがや)かせ耳を駭(おどろ)かす。犂然(レイゼン)(わが)好名(コウメイ)の心に中(かな)ふ有り。遂に東西に昏迷し黒白を顛倒するに至る。何ぞ一たび其の本に反すれば而(すなは)ち平心(ヘイシン)之を察せざるや。人の始るや、天に気を稟(う)け、父母之を生み之を育(はぐく)む。其の重きこと何如(いかが)なるや。故に身體髪膚の毀傷、先聖(センセイ)(まさ)に不孝たるを以て斥(しりぞ)く。顧(かへりみ)れば大節の在る所、生を捨て義を取り、身を殺し仁を成すは固より当然なり。其の夫疾(やまひ)に罹(かか)り物故するに至れば、則ち人道の常として、乃(むし)ろ妄(みだり)に死を以て之に殉ずるは、天地の理を戕(そこな)ひ、父母の心を傷(そこな)ひ、兄弟親姻(シンイン)に旁(ひろ)く慼(うれひ)を貽(のこ)し、心に安らかなるや。記に曰く「喪に勝(た)へざるは乃(むし)ろ不慈不孝(フジフコウ)に比(ひと)し。其夫亡く悲慕(ヒボ)に勝(た)へず、疾(やまひ)發(おこ)りて死す。君子之を観るに由り、且(まさ)に當(まさ)に不貞と不順とに比(なぞら)ふ。矧(いはん)や自ら忍び其の躯を戕(そこな)ふをや。且也作俑(サクヨウ)従葬孔子尚ほ其の不仁を悪(にく)みて其の必ず後(のち)無きを論ず。人を以て死に殉ずるに至れば、則ち秦國西戎の弊習、尤も當に炯戒(ケイカイ)を爲すべき者なり。故に我が垂仁天皇嚴く大君及び明英宗の殉(おひじに)を禁ずること有れば、海内(カイダイ)徳事爲るを以て嗟称(サショウ)す。今婦人自刃し以て夫に従へば、即ち殉死の昭然(ショウゼン)たる者なり。乃ち此を貶(おとし)めて彼を褒(ほ)むは、類(に)るを知らざると謂ふべし。初め南天竺の麻辣襪尓(マラバール)、古魯満帖児諸国、浮屠(フト)を崇信す。其の俗、婦人は夫が死せば則ち熾火(シカ)に屍(しかばね)を焚(や)き、己も亦た火に投じ以て死さば則ち貞烈と為して称(たた)ふ。嗣後西洋人至り、人の爲す所に非ざるを以て論(と)き、其の俗(ならはし)始めて止む。自刃と自焚と異を以てすること無し。泰西人能く禁じ、而(しか)るに吾反(かへ)って能はず。耻ずべきこと之(これ)甚しきかな。此の俗(ならはし)西土殊(こと)に甚し。吾邦則ち夫已(すで)に死し狂ひて自刃するもの、及び追慕して死するもの綦(きは)めて少なし。疾(やまひ)有り薬(い)えずして自ら速(すみやか)に死する者、間(このごろ)之(これ)有り。此れ固(もと)より當(まさ)に其の未だ萌さざるに豫め之を禁遏に及ぶべき者なり。或(あるひと)曰く「方今(ホウコン)教へ弛み共姜(キョウキョウ)伯姫(ハクキ)の節有ること鮮(すくな)し」と。矯激(キョウゲキ)の行なひを褒揚し、以て其の餘りを励まし、猶ほ其の未(いまだし)を恐るがごとし。迺(すなは)ち淟涊(テンデン)偸活(トウカツ)の道を以て勧め、将(まさ)に猱(さる)に木に升るを教へ桀を助け虐を為すこと無からんや。予曰く「豈其れ然るや。矯激の擧、或は以て一時を鼓動するに足れども、衆弊(シュウヘイ)之に随ふ」と。予此の論を立つる所以(ゆゑん)は、今古の変を察し、禮の中(こころ)を酌情し、将に以て萬世の矩矱(クワク)を垂れんとす。豈区区(クク)一時の為に謀(はか)るや。或(あるひと)曰く「人能く身を殺し夫に殉ずれど、亦事之(これ)至難なるに、猶然(ユウゼン)(そしり)を免れず、何ぞ其れ人の美(よきこと)に成らざるや」と。予曰く「古人云ふ有り。死することの難(かた)きに非ず、死に處すること則ち難(かた)しと(史記廉頗蘭相如列伝より)。顧ふに其の死の当否如何のみ。若し其の死を以てするのみなれば、則ち男女の相(たが)ひに悦びて終に懸梁(ケンリョウ)投淵(トウエン)に至る。門徒の人、其の宗(たっと)ぶ所の為に刎頸(フンケイ)(まさ)に辞さざる者は、亦將に稱へて之を揚(い)ひ、褒めて之を賞すべきか。

 

 歸有光曰く「女未だ人に嫁がずして或は為(も)し其の夫死し、又終身改適せざる者有らば、禮に非ざるなり。夫れ女子未だ身を以て人に許すの道を有せざるなり。未だ嫁がずして爲(も)し其の夫死し、且(かつ)(とつ)がざれば、是れ身を以て人に許すなり。男女相ひに名を知らざれば、婚姻の禮、父母之を主(つかさど)り、父母在らざれば、伯父世母(セイボ)之を主(つかさど)る。伯父世母無くば、族の長者之を主(つかさど)る。男女自相婚姻の禮無くば、厚く別して廉耻(レンチ)の防(まも)り重んずる所以(ゆゑん)なり。女子室に在れば、唯其の父母之が爲に人に聘(とつ)ぐを許すなり。而して已(すで)に與(あた)ふ所無くば、純乎(ジュンコ)女道のみなり。六禮(りくれい)既に備はり、壻親(みづか)ら御(ギョ)して綏(スイ)を授く。母之を門に送り、牢を共にし合巹(ゴウキン)し而る後に夫婦と為る。苟も一禮備はざれば、婿親迎(シンゲイ)せず、父母の命無くば、女自ら往かざるなり。猶奔(なれあひ)を爲すがごときのみ。女未だ嫁がずして、爲(も)し其の夫死し且(かつ)改適せざれば、是れ六禮具はらず、壻親迎せず、父母の命無くて奔(なれあふ)者なり。禮に非ざるなり。陰陽配偶、天地の大義なり。天下に生れて偶(つれあひ)無き者未だ有らざれば、終身適(とつ)がざるは、是れ陰陽の気に乖(そむ)き天地の和を傷(そこな)ふなり。曾子問ひて曰く『昏禮に既に弊を納め吉日有り。婿の父母死すれば則ち之を如何にせん』と。孔子曰く『壻已に葬り、命を女氏に致して曰く[某の子父母の喪有り、嗣(つ)ぎて兄弟(ケイテイ)爲()るを得ず。某をして命を致さしむ]と。女氏許諾して敢へて嫁がざるなり。敢へて嫁がずして許諾するは、固より其れ嫁ぐを以て可とするなり。婿喪を免ずれば、女の父母、人をして請はしむ。壻取らずして後に之を嫁とする。禮なり』と。夫れ壻三年の喪有り、喪を免じて取らず、則ち之を嫁とするなり。曾子曰く『女未だ廟見(ビョウケン)せずして死さば、則ちこれを如何にせん』と。孔子曰く『祖(ソ)に遷(うつ)さず、皇姑(コウコ)に祔せず、杖つかず、菲(わらぐつ)はかず、次せず。女氏の黨に歸葬す。未だ婦と成らざるを示すなり』と。(曾子孔子のやりとりは「礼記曾子問」による)未だ婦と成らざれば則ち夫に繫がらざるなり。先王の禮、豈其の薄きを爲すかな。幼にして父兄に従ひ、嫁して夫に従ふ。夫に従ふは則ち一へに夫を聴き、而(すなは)ち父母の服之(これ)が爲に降(しりぞ)く。父に従ふは則ち一へに父を聴く。而して義、夫に及ばず。蓋し既に嫁して後夫婦の道成る。

聘(とつ)ぐは則ち父母の事のみ。女子固より自ら其の身の誰の屬(みうち)と爲るかを知らず。廉耻の防ぎ有り。此を以て之を言はば、女未だ嫁がずして改適せざるは、爲(も)し其の夫死すれば之(これ)無謂(ムイ)なり」と。或(あるひと)曰く「勵世(レイセイ)を以て可とするなり。夫れ先王の禮、勵世を以てするに足らず。必ず是れ而後勵世すべきなり」と。

 

(煜按ずるに、明代の婦人の名を好むこと之(これ)甚し。許嫁の未だ適(とつ)がずして夫死すれば、便ち死を以て之に殉ずる者比比たり、震川の論の作(な)す所以(ゆゑん)なり、其の論ずる所は予と同じからざれど意則ち相近し。故に録し以て考を資(たす)く。夫れ既に嫁ぎて死を以て夫に殉ずるは且(まさ)に可とせず。況や未だ嫁がざるをや)

 

又曰く、嗚呼男女の分、天地陰陽の義、世に並び持(たも)つ。其の道一なるのみ。而して閨門(ケイモン)の内に之を罕(まれ)に言ふのみ。亦以て陰陽に従ひ、地道有家(ユウカ)の常事を成すこと無し。故に得て焉(これ)を著(な)すこと莫(な)し。惟だ夫れ不幸にして其の所天(ショテン)を失へば、煢然(ケイゼン)儷(ともがら)寡(すくな)し。其の才下る者往々にして従一(ジュウイツ)の義を知らず。先王焉(これ)を憫(あはれ)めど、勢ひ亦た止む能(あた)はざるなり。則ち姑(しばらく)以て其の愚下(ぐか)の性に順(したが)ふのみ。故に禮に異父昆弟の服有り。

高明(コウメイ)貞亮(テイリョウ)の姿に至らんとせば、其の出る所二つ有り。其の一は死を決し以て夫に殉ず。其の一は貞を守り以て世を没(をは)る。是れ皆世の称ふ所にて國家を有する者の旌別(セイベツ)する所なり。然れども君子之を論ずるに由れば、苟も一旦に迫るに非ざれば、必ず死より出れば義と爲し、而して生より出れば不義と爲す。是れ乃ち死の道を以て可と爲し、然らざれば猶ほ賢智者の過と爲すがごとし。是に由り之を言はば、則ち貞を守り以て世を没(をは)る者(こと)は固より中庸なれど、之(これ)能くし難き所なり。婦の其の夫に於けるや、猶ほ臣の其の君に於けるがごとし。君薨(みまか)り世子幼く六尺(リクセキ)の孤()なれば百里の命、国家の責(つとめ)、方(まさ)に殷(おほ)かるべし。臣子(シンシ)の君に自致(ジチ)する所以(ゆゑん)は、此の時に於いて在るなり。三代以来、未だ臣を以て君に殉ずる者有らざるなり。臣を以て君に殉ずる者は、秦の三良なり。此れ黄鳥の詩の以て作()す所にて、聖人の斥(しりぞ)く所なり。夫不幸にして死して夫の子在り。獨り死を以て可とすべきか。就使(もし)子無く苟(いやしく)も依る者有れば、亦た死無きを可(よし)とするなり。能く其の節を全うするを要(もと)むれば、天道に順(したが)ふを以てするのみ。

(語釈)

史乗(シジョウ)(歴史書) 稗説(ハイセツ)(小説) 潜然(センゼン)(ひそかに)矯偽(キョウギ)(偽ること) 好名(コウメイ)(名誉を好む) (世の人)慕効(ボコウ)(徳をしたって言行をまねること)祠廟(シビョウ)(やしろ)異(こと)にす(特別にする) 遺孤(イコ)(父母が死んで残されたこども) 乳養(養育) 顧念(コネン)(気にかけて思うこと)後人(コウジン)(後世の人) 悖謬(ハイビュウ)(道理に反すること) 灼然(シャクゼン)(明らか) (セツ)(深い) 私己(シコ)(個人的な。自分だけの)犂然(レイゼン)(はっきりと)平心(ヘイシン)(心をおだやかにして)先聖(センセイ)(孔子)大節(人の守るべき大きな節義)  親姻(シンイン)(結婚によって結ばれた女系の親族)不慈不孝(フジフコウ)(年下の者に対しては慈愛深くなく、親に対して孝行でない) 悲慕(ヒボ)(悲しみいきどおる、くやしがる) 不貞(妻の道を守らないこと)不順(人にさからう、道理に従わない)作俑(サクヨウ)(木偶を作り墓に埋めること) 従葬(主だった人の墓のそばに墓をたてて葬ること)必ず後(のち)無き(必ず子孫が断絶するだろうと)炯戒(ケイカイ)(明らかないましめ)垂仁天皇(第十一代天皇野見宿禰の進言により殉死の風習をやめさせ、埴輪に代えさせたと伝えられる)海内(カイダイ)(国内) 嗟称(サショウ)(感嘆してほめる)昭然(ショウゼン)(明らかなこと)浮屠(フト)(ブッダ熾火(シカ)(猛火)共姜(キョウキョウ)(衛の太子共伯の妻、太子に早く死別したが義を守り再婚しなかった) 伯姫(ハクキ)(春秋時代、宋の恭公に嫁ぎ夫の死後寡居した。家に火事が出た時に婦人は保傅の付き添いがなければ夜に家を出ないと言って焼死した)矯激(キョウゲキ)(言動などが並はずれて激しいこと)淟涊(テンデン)(けがれ濁り)偸活(トウカツ)(いたづらに生を貪る)衆弊(シュウヘイ)(多くの弊害)酌情(事情を考慮する)矩矱(クワク)(法則、規則)区区(クク)(わずかに)猶然(ユウゼン)(依然として) 死することの難(かた)きに非ず、死に處すること則ち難(かた)し((死ぬこと自体が難しいのではない、どのように死ぬのか、その死に方が難しい 史記廉頗蘭相如列伝のことば) 懸梁(ケンリョウ)(首つり自殺)投淵(トウエン)(身投げ)門徒(弟子、門人) 歸有光(中国明代の文学者)改適(再婚)世母(セイボ)(伯母)自相(互いに)厚く別して(男女の別を明確にして)廉耻(レンチ)(心が正しく、不正をはずかしく思うこと)純乎(ジュンコ)(もっぱら、純然) 六禮(りくれい)(結婚のときの六種の礼)(食事)合巹(ゴウキン)(夫婦の縁を結ぶこと)親迎(シンゲイ)(新郎が新婦を迎えに、その家まで出向くこと)(なれあひ)(正式の禮に基づかない結婚、野合) 命を女氏に致して(女の家に申し入れて)嗣(つ)ぎて兄弟(ケイテイ)爲(た)るを得ず(すぐに両家兄弟の誼を結ぶことができなくなりました)某をして命を致さしむ(某を使者として申し上げます)廟見(ビョウケン)(新婦が夫の家のおたまやに参拝すること)(ソ)(先祖のおたまや)皇姑(コウコ)(亡くなった姑)(喪に服すこと)無謂(ムイ)(意味がない、不当、不法)勵世(レイセイ)(世に勧めること)比比(多い しばしば) 震川(歸有光)閨門(ケイモン)(夫婦の間柄。家庭内の事情)有家(ユウカ)(家のこと)常事(ふつうのこと)所天(ショテン)(夫)煢然(ケイゼン)(孤独で)従一(ジュウイツ)(婦人が貞操を守ること)愚下(ぐか)(愚かで下等なこと)高明(コウメイ)(学識に優れていること)貞亮(テイリョウ)(心が正しく誠実)旌別(セイベツ)(善人と悪人を区別して表彰する)六尺(リクセキ)の孤(コ)(幼少で父を失った君主)百里の命(一国の政治)臣子(シンシ)(家臣) 自致(ジチ)(自らあらん限りの力を出しつくすこと)秦の三良(三人の良臣、秦の、奄息・仲行・鍼虎)鳥の詩詩経の篇名、秦の穆公の死に三人の良臣が殉死したのを悼んだ詩)

 

(現代語訳)

七 婦人が殉死するのは禮にあらず

 私は歴代の歴史書や小説を広く読んでみた。夫が病死して妻があとを追って殉死すると論者は皆貞烈だと言って称える。私もひそかにその心意気に涙した。しかしこれは残念ながら礼に反している。元や明の時代以降人々には偽りが多くなり、名誉を好む気持ちが深くなり、世の中の人を驚かすような行いが盛んになったが、これが婦人にも影響し皆まねするようになった。このため殉死者が次々出て、これを歌でほめたり、その霊廟を特別にかざるようになった。これが世の中で大いに流行ったがその誤りを全く自覚していない。最も悲しむべきことは父母に見捨てられた子供がいて養育する人がいないのに決然と死におもむきほとんど気にしていないことだ。何という残酷なことだ。事柄には良いか悪いか、利益か損失かの境界があるものだが、後世の人がそれをよくわきまえていないことは理解に苦しむところだ。こうしたことが明らかに道理に反していることは三歳の子供でもわかるのに、堂々たる儒学者がかえってよく理解していないのはなぜだろう。それは一つには珍しいことを好む心が深いこと、一つには個人的な心情が勝っていて、自分の身を殺して節義に順ずること、特に君主への愛慕のためにそうすることは男子であればその激烈な行いに目を輝かせ耳を驚かせて喜ばずにはいられないためだ。つまり自分の名誉好きな心情にぴったりと合うのだ。このため心が倒錯して黒と白を反対に判断するようになった。一度基本に反するようなことをすると心を落ち着けて判断することができなくなる。

 人は始めに天から気を受けて、父母が生み育てる。その貴重なことをどう考えているのか。このため自分の体や髪や皮膚を傷つけることは親不孝であるとして孔子は非難した。考えてみれば人の守るべき大切な正義があれば、生を捨てて義を取り、身を殺して仁をなすのは当然のことである。しかし夫が病死した場合にむやみに殉死するのは天地の理に背き、父母の心を傷つけ、兄弟親戚を悲しませることになる。そんなことで心安らかにいられようか。古い書物には、夫の死の悲しみに耐えられずにいることは、むしろ子供への無慈悲、親への不孝に等しいと書いてある。夫の死の悲しみに耐えられず病気になり死亡したことを君子が見て、これは妻の道を守らず道理に逆らうことにあたると言った。ましてや自殺するなどとんでもない。また俑という身代わりの人形を作って墓に埋めることや主人のそばに墓を作って葬ることに対して孔子はこれは不仁であるとしてこんなことをする者は必ず子孫が断絶するだろうと言った。ましてや人が殉死するともなればこれは秦國や異民族の悪習であり最も戒めなければならないことである。このためわが国の垂仁天皇は厳しく殉死を禁止したが、これは徳のあることであるとして国中から称賛された。

 もし妻が自刃して夫に従えば明らかに殉死である。それなのにこれを賞賛して他の殉死を批判するのはどちらも同類であることを理解していないからだ。昔南インドのマクバール諸国などでは仏陀を信仰していた。そこの風習では妻は夫が死ねば死体を猛火で焼き、自分も火に身を投げて死ぬことが貞烈であるとして称賛された。その後西洋人が来てそんなことは人間のすべきことではないと説いてそうした風習はやっとなくなった。自刃と焼身自殺とで異なることなどない。西洋人は禁止することができているのに我々はできていないのは全く恥ずべきことだ。こうした風習は西土(中国)が特にひどい。

 わが国では夫が死んで妻が狂って自刃したり追慕して死ぬことは極めて少ない。このごろでは病気がなかなか治らなくて自分から進んで死ぬ者があるが、こうしたことは予め禁圧すべきだろう。

 ある人がこんなことを言っている「最近では儒教の教えもたるんでしまい、夫が早々と死んでも再婚しなかった共姜(キョウキョウ)や、夫の死後、夜家が火事になったときに、妻は付き添いがなければ夜家を出てはいけないという儒教の教えを守って焼死した伯姫(ハクキ)のような節操ある人は少なくなった」と。このように過激な行いを褒めたたえ人にも勧めることは、かえって誤った道を勧める残虐な行為ではないだろうか。私は、こうした過激な行為は一時的に人々を鼓舞することがあっても多くの弊害が伴うと思う。

 私の立論は古今の事件を考察し、礼の精神を考慮し、将来にわたる規則を確立しようとするもので、単なる一時しのぎのための案ではない。ある人がこう言った「妻が夫のために殉死することはできるが実際には非常に困難なことなのに依然として非難される。なぜ殉死は良いこととされないのですか」と。これに対して私はこう答えた「古人は、『死ぬこと自体が難しいのではない、どのように死ぬのかその死に方こそが難しいのだ』と言っている。考えてみれば何のために死ぬのかが問題なのだ。ただ死ぬだけで良いのなら、男女が喜んで首つりや身投げで心中することになるだろう。学問の門人がその大切な教義のために命をかけることはまさに称賛されるべきであろう。

 

(明代の文学者である歸有光は『貞女論』で次のように言っている。

【「女性が婚約して嫁ぐ前に夫が死んだ場合に一生再婚しないなら、それは礼に反する。女性は自分の意思で結婚する道が無いのに、婚約してまだ嫁ぐ前に夫が死んでしかも再婚もしないとなれば、それは自分の意思で亡くなった許嫁と結婚したことになる。

 結婚前の男女は互いに名を知らないので、婚姻の儀式は父母が主宰し、父母がいないときは伯父伯母が主宰する。伯父伯母もいないときは一族の長者が主宰する。男女は婚姻の儀式がすまないうちは互いに離れて決して会わず、恥知らずなことはしないのが重要なのだ。

 未婚の女性が家にいるときは、父母だけが結婚を許す。しかしすでにその相手が亡くなった時はまた未婚の女性としての道があるのみである。婚礼の六つの儀式がすでに整い、婿が自ら馬車を動かし、途中で代理者に手綱を授け、代理者が花嫁の家に向かう。花嫁の母親がこれを門まで送る。花嫁が壻の家に到着し食事を共にして夫婦の縁を結んだ後に夫婦となる。仮に一つでも儀式が整わなければ壻は花嫁の家まで迎えに行くことはないし、父母の命令がなければ女性が自らの意思で結婚することはない。そうでなければ正式の礼に基づかない野合になってしまう。

 女性が婚約はしたが嫁ぐ前もし夫が死亡し、しかも再婚もしなければ、それは婚礼の六つの儀式が整わず、父母の命令がないのに亡くなった許嫁と野合していることになり、礼に背いている。陰陽と結婚は天地の大義であり、天の下に生まれてつれあいのいない者はないのに、一生結婚しないのは陰陽の気に背き天地の和をそこなうものだ。

 礼記の中で曾子が師匠の孔子にこんなことを尋ねている『婚礼において、既に結納をして期日も決めたが壻の父母が亡くなった場合どうすべきでしょうか』と。孔子は答えて言う『壻がすでに父母を葬ったら女性の家に申し入れてこう言う〈父母の喪があったので、すぐに両家で兄弟のよしみを結ぶことができなくなりました。某を使者として申し上げます)と。女性の家ではこれを承諾して敢えて他家へ嫁がせないようにする。こうするのは当然また嫁ぐことを前提としているからだ。壻の喪が明けたら女性の父母は人を仲に立てて結婚を申し入れ、婿は他から娶らずこれを嫁にする。これが礼である』。壻には三年の服喪期間があるが喪が明けても他から娶るのではなく、許嫁を嫁とするのである。

 曾子はまた尋ねて言う『新婦が夫の家の廟堂に参拝する前に死んでしまった場合、どうすべきでしょうか』と。孔子は答えて言う『新婦は先祖の廟堂に移さず、亡くなった姑とも合祀しない。杖もつかず、わらぐつも履かず、喪室にも入らない。女性の実家の墓地に葬る。まだ嫁となっていなかったことを示すためだ』と。まだ嫁となっていないので夫とつながらないのだ。

 先王の礼は決して軽視してはいけない。幼いときは父兄に従い、嫁いでからは夫に従う。夫に従うということはひとえに夫の言うことを聞き、父母の喪に服すこともこのため優先されない。父に従うということはひとえに父の言うことを聞くことだが、夫の方が優先される。既に嫁になっていれば夫婦の道に従うからだ。

 嫁ぎ先を決めるのは父母だけで、女性は誰が相手になるのかを知らず、父母が決めた相手以外と交わるのは恥知らずなことだ。これに基づいて言えば、女性が婚約しただけでまだ嫁いでいないのに再婚しないのは、もし夫が死亡していれば無意味で不法なことなのだ」。と

ある人が歸有光にこう言った「これは世に勧めるべきです。先王の礼は世に勧めるほどではありませんが、これこそは今後世に勧めるべきものです」と。】)

 

(私が思うに、明の時代の女性は名誉を非常に好んだ。許嫁の段階でまだ正式に結婚していないのに夫が死んだ場合、殉死する者がたびたびあった。歸有光がこの論文を作成した理由でもある。彼の論は私と同じではないがその意とするところは近いものがある。それで参考のため引用した。結婚してからでも夫に殉ずることはそもそも良くないことであり、ましてやまだ正式に結婚していないのに殉死するなどもってのほかである)。

 

 歸有光はこうも言っている

「男女の区分と天地陰陽の原理は世の中に併存するが、その道は同じである。ただ夫婦間ではこのことはほとんど言及されない。陰は陽に従い、地道は天道に従うので、地道であり陰である妻や家臣は自ら主体的に事を行うことはなく、天道であり陽である主君や夫に従って事を行うのが当然である。このためあえてこれを言うことはしないのである。

 ただ不幸にも妻が夫を失えば孤独で友人も少ない。才知の劣る者は往々にして婦人が貞操を守るべきであることを知らない。先王はこれをあわれに思ったが、どうずることもできず愚かで下等な性質に任せるしかなかった。このため礼の規定には女性が再婚して子供を産んだ場合を想定して異父兄弟の服喪に関する項目がある。

 女性が賢く心正しくあろうとすればその方法は二つある。一つは死を覚悟して夫に殉ずること。もう一つは貞操を守って一生を終わることだ。この二つは世の中で称えられ、国家から表彰される。しかしこのことについて君子が言うには、緊急の場合でなければ必ず死に向かうことが正しく、生に向かうことは正しくないというのだ。これは死の道を良いこととし、それ以外は賢者の過ちとするかのようだ。

 これについて私の意見を言えば、当然貞操を守って一生を終わることは調和のとれた正しい行いではあるが、実行するのが難しいということだ。妻の夫に対する関係は家臣の君主に対する関係と同じだ。君主が亡くなり世継ぎの子が幼ければ、一国の政治や国家の責任は非常に重く、この時こそ家臣は君主の為にあらん限りの力を尽くすべきである。古代の聖王の時代から家臣が君主のために殉死したことなどない。秦の三人の良臣が殉死したと言われているが、これは詩経の中の黄鳥の詩が創作したことで聖人は否定している。夫が不幸にも亡くなってその子がいるのに、妻が死ぬのが良いものか。もし子がいなくても頼りにできる人があれば死ぬ必要はない。節義を守り通そうとすれば天道に従って行なうしかないのだ」と。

 

 

八曰妾媵可立定数

(漢文)

漢儒之言禮也、曰、天子三夫人九嬪二十七世婦八十一御妻、又詳説之曰、舜三妃、夏増以三三而九、合十二人、殷増以三九二十七、合三十九人、周人増至百二十一人、此豈聖王之制也、夫十二人可増爲三十九人、三十九人可増至百二十一人、則豈不可更増爲数百爲千餘乎、又奚怪乎晋武之一万唐明之四万哉、顧其説之謬至易見、而累数千歳、尊信如一日者、何也、蓋好内者、憑依聖王之制、以逞其欲、志道者畏其爲聖王之制、不敢訟言排之、無或乎其説之蔓延而莫之遏也、本邦事事依倣西土、即陋習敝俗、亦復因襲不改、加妾媵亦秖放效西土、不立規制、良属缼陥、本邦俗尚敦厚、迥非西土所及、加之國初干戈始戢、士専潜心于武事、絶不流浮靡之習、升平日久、漸趨奢淫、既無一定之制、又踵西土之弊、蕩無綱紀、是故諸侯之好内者、妾有二十人以上者、士人商賈苟禄豊財饒、則五六七八人以上、惟意所欲、又有別営它室、以蓄妾者、無論其耗家資罄國儲、帳簿之不脩、上下之無辨、皆由此致之、坐視其乱敗而不爲之所、豈爲民父母之意哉、抑更有可嘆焉者、予甞怪今之列侯貴人往々無子、即有又動夭、夫何故而然也、其過於飽煖溺於安逸、所以害生者非一、而妾媵無数、最爲之主、夫人之精有量、猶人之資橐有限、雖有千萬金之儲、日散以畀衆、立可致懸罄、而其受者、亦未足以致富、魁梧輕健之人、十餘寵嬖、分其愛而耗其精、其致衰斃固也、即所生子稟精不多、則気薄力少、所以夭也、夫既精気之闕乏、幸而不夭、其爲人自不得不㞗怯迂疎、列侯貴人率多不及士大夫之有才者、職是故也、然則減妾媵者、家國宗社之重繋焉、不可忽也、今原本邦西土群聖人之意略説之防、諸侯不得過二妾、大夫士不得過一妾、庶人則一夫一婦、但当時大賈有冨踰列侯者、不可墨守聖経疋夫匹婦之言、故庶人必家累萬金臧獲三十人以上、方許蓄一妾、如此則庶乎得其中矣、或曰、西洋一夫一婦之制似至当、何不遂擧而従之乎、曰、西洋之制、雖曰良法、終是夷虜之道、非吾聖人之意也、西洋視男女略無等差、不以嗣爲重、是以婦人抗夫、家自絶祀者比比、吾聖人之制禮則不然、不孝有三、自無後爲大、夫婦尊卑判然、故予謂士以上無妾而可已、固大善或妻不能産子、多病不能理内、或娶妻出乎不得已、而又無可逐之罪、皆可納妾、所以優士大夫也、庶人則種族甚賤、又無名位、不可與士大夫同也、且夫男貴而女賤、天地生物、賤者衆貴者寡、故天下婦人常多於男子、使天下皆一夫一婦、必有不獲所之怨女矣、予上本天心、下原人情、十思而定此制、聖人復生、必不易予言矣、

(本邦女多於男、西土蓄妾媵無数、而未甞覚婦人之少、可見與本邦同、西洋一夫一婦之制行、而婦人未甞患其衆、似與本邦西土不同、豈北方寒凛、陰強陽弱故邪、又按東国通鑑、高麗朴楡嘗言、東方属木、木之生数三而成数八、奇者陽也、偶者陰也、吾邦之人、男寡女衆、理然也、則朝鮮亦與本邦同)

(読み下し文)

八に曰く妾媵(ショウヨウ)定数を立つべし。

漢儒之(これ)禮を言うなり。曰く「天子三夫人九嬪(ヒン)二十七世婦(セイフ)八十一御妻(ギョサイ)」と。又之を詳説して曰く「舜に三妃、夏、三三而九を以て増し、合せて十二人。殷、三九二十七を以て増し、合せて三十九人。周人増し百二十一人に至る。」此れ豈聖王の制(さだめ)なるや。夫れ十二人を増し三十九人と爲すを可とし、三十九人を増し百二十一人に至るを可とす。則ち豈更に増し数百と為し千餘と爲すを可とせざるや。又奚(いづくん)ぞ晋武の一万、唐明の四万を怪しむかな。顧(おも)ふに其の説の謬(あやまり)至て見易(やす)し。而して数千歳を累(かさ)ね尊び信ずること一日の如きなるは何ぞや。蓋し内を好む者、聖王の制(さだめ)に憑依(ヒョウイ)し、以て其の欲を逞しくす。道に志す者は其の聖王の制(さだめ)爲(た)るを畏れ、敢て訟言(ショウゲン)し之を排(しりぞ)けす。或(まど)ひ無く其の説の蔓延すれば而(すなは)ち之を遏(とど)むもの莫(な)きなり。本邦事事(ジジ)西土に依倣す。即ち陋習敝俗、亦復た因襲し改めず、加ふるに妾媵(ショウヨウ)亦た秖(ただ)西土を放效(ホウコウ)し規制を立てず。良く缼陥(ケッカン)に属(したが)ふ。本邦の俗(ならはし)敦厚(トンコウ)を尚(たっと)び、迥(はるか)に西土の及ぶ所に非ず。之に加へ國初(コクショ)干戈(カンカ)始めて戢(や)み、士専ら武事に潜心(センシン)し、絶へて浮靡(フビ)の習(ならひ)に流れず。升平の日久しく、漸く奢淫(シャイン)に趨く。既に一定の制(さだめ)無し。又西土の弊を踵(つ)ぎ、蕩(みだら)にして綱紀無し。是故(これゆゑ)諸侯の内を好む者、妾二十人以上を有する者なり。士人商賈苟(いや)しくも禄豊か財饒かなれば、則ち五六七八人以上、惟だ意の欲する所なり。又別に它室(タシツ)を営むこと有り、以て蓄妾(チクショウ)する者なり。無論其れ家資を耗(へら)し國儲(コクチョ)を罄(つく)す。帳簿之(これ)脩(をさ)まらず、上下の辨(わきま)へ無し。皆此に由り之に致る。其の乱敗(ランパイ)を坐視して之所(これがところ)を為さざるは、豈に民の父母の意爲るや。抑(そもそも)更に焉(これ)を嘆くべき者有り。予甞て今の列侯貴人往々にして子無く、即(たと)ひ有すれど又動(やや)もすれば夭(わかじに)するを怪しむ。夫れ何故(なにゆゑ)而(すはば)ち然るや。其れ飽煖(ホウダン)に過ぎ、安逸に溺る。害の生ずる所以(ゆゑん)は一に非ず。而して妾媵(ショウヨウ)無数、最も之(これ)主爲り。夫れ人の精有量なること、猶ほ人の資(もとで)の橐(ふくろ)有限なるがごとし。千萬金の儲け有ると雖も、日(ひび)衆(もろびと)に畀(あた)ふを以て散ずれば、立(たちどころ)に懸罄(ケンケイ)に致るべし。而して其の受く者、亦未だ致富(チフ)を以てするに足らず。魁梧(カイゴ)輕健(ケイケン)の人、十餘りの寵嬖(チョウヘイ)に其の愛を分けて其の精を耗(つひや)す。其れ衰(おとろ)へ斃(たふ)るに致ること固(もと)よりなり。即ち所生(ショセイ)の子稟(うまれつき)精多からず。則ち気薄く力少なし。夭(わかじに)の所以(ゆゑん)なり。夫れ既に精気之(これ)闕乏(ケツボウ)すれば、幸にして夭(わかじに)せざれども、其れ人をして自(みづか)ら不屈たるを得ざらしめ迂疎(ウソ)たるを怯(おそ)れしむ。列侯貴人多くを率れど士大夫の才有る者に及ばざるは職(もっぱら)是故(これゆゑ)なり。然れば則ち妾媵(ショウヨウ)を減ずるは、家國(カコク)宗社(ソウシャ)之(これ)重く焉(これ)に繋(かか)り、忽(ゆるがせ)にすべからざるなり。今、本邦西土群(もろもろ)の聖人の意に原(もとづ)き、之防(これがふせぎ)を略説せば、諸侯二妾を過ぐるを得ず。大夫士一妾を過ぐるを得ず。庶人則ち一夫一婦。但し当時の大賈、冨有りて列侯を踰(こ)ゆる者、聖経(セイケイ)疋夫匹婦の言を墨守すべからず。故に庶人(ショジン)必(いやしく)も家に萬金・臧獲(ゾウカク)三十人以上を累(かさ)ぬるものは、方(まさ)に一妾を蓄(たくは)ふを許すべし。此の如くせば則ち其の中を得るに庶(ちか)し。或(あるひと)曰く「西洋一夫一婦の制(さだめ)至当に似る。何ぞ遂(あまね)く擧(あ)げてこれに従はざらんや」と。曰く「西洋の制(さだめ)、良法と曰ふと雖も、終(つひ)に是れ夷虜の道、吾聖人の意に非ざるなり。西洋男女略(ほぼ)等差無しと視る。嗣を以て重しと為さず、是以(これゆゑ)婦人夫に抗(あた)る。家自(おのづ)から祀(まつり)を絶やす者比比(ヒヒ)たり。吾が聖人の制禮(セイレイ)則ち然らず。不孝に三有り而(すなは)ち後(のち)無きを大と爲す(跡継ぎがいないのを不孝の大なるものとする)、夫婦の尊卑判然たり。故に予謂(おも)ふに士以上に妾無きは而(すはは)ち可(よし)とするのみ。固より大ひに善し。或は妻、子を産むこと能はず、病多く内を理(をさ)むること能はず。或は已むを得ざるより出て妻を娶り、而して又之を逐ふべき罪無し。皆妾を納(い)るを可とす。優れし士大夫たる所以(ゆゑん)なり。庶人則ち種族甚だ賤し、又名位無し。士大夫と同じかるべからざるなり。且夫れ男貴く女賤し。天地生物、賤しき者衆(おほ)く貴き者寡(すくな)し。故に天下婦人常に男子より多し。使し天下皆一夫一婦なれば、必ず所を獲ざるの怨女(エンジョ)有るなり。予上は天心に本づき、下は人情に原(もと)づき、十思して此の制を定む。聖人復た生れば、必ず予の言を易(か)へざるなり。

(本邦の女男より多し。西土妾媵を蓄ふこと無数。而して未だ甞て婦人の少なるを覚えず。本邦と同じきを見るべし。西洋一夫一婦の制(さだめ)行なふ。而して婦人未だ甞て其の衆きに患はず。本邦・西土と同じからずに似る。豈北方寒凛、陰強く陽弱き故(ゆゑ)なるや。又東国通鑑を按(しら)ぶれば、高麗の朴楡嘗言く「東方木に属す。木の生数三にて成数八、奇は陽なり。偶は陰なり。吾邦の人、男寡く女衆し。理然るなり。則ち朝鮮亦本邦と同じ)

 

(語釈)

妾媵(ショウヨウ)(めかけ)(ヒン)(側室)世婦(セイフ)(後宮女官で夫人、嬪につぐもの)御妻(ギョサイ)(女官の最下級の者) 晋武司馬炎 西晋の初代皇帝。晩年は女色に溺れた)唐明(唐の玄宗皇帝)   内を好む(女色を好む)憑依(ヒョウイ)(よりどころにする、かこつける)訟言(ショウゲン)(明言)事事(ジジ)(様々なこと)放效(ホウコウ)(まねる) 敦厚(トンコウ)(まごころがあって人情深いこと)潜心(センシン)(心を落ち着けて一心に考える)浮靡(フビ)(派手で不真面目)升平(太平)奢淫(シャイン)(奢侈と淫乱)它室(タシツ)(別宅)蓄妾(チクショウ)(妾を囲う)國儲(コクチョ)(国の蓄え)之所(これがところ)(適切な処置)飽煖(ホウダン)(生活に不自由のないこと 飽食煖衣)懸罄(ケンケイ)(一文無し)致富(チフ)(富裕になる)魁梧(カイゴ)(たくましい)輕健(ケイケン)(身軽で健康) 寵嬖(チョウヘイ)(お気に入りの者)所生(ショセイ)(生まれた)迂疎(ウソ)(世事にうとい)家國(カコク)(国家)宗社(ソウシャ)(国家)聖経(セイケイ)(儒教の経典)臧獲(ゾウカク)(召使)等差(格差)(あとつぎ)比比(ヒヒ)(しばしば)不孝に三有(親不孝には三種類ある。一におもねり従って親を不義に陥れること、二に家が貧しく親が年老いているのに官職につかないこと、三に娶らず跡継ぎが無くて先祖の祭祀を絶つこと)後(のち)無きを大と爲す(跡継ぎがいないのを不孝の大なるものとする)怨女(エンジョ)(婚期が遅れたり、夫が不在であったりして、独り身である自分を哀れと思って嘆く女)生数(一から五までの数) 成数(六から十までの数)

 

(現代語訳)

八 妾は定数を定めるべきだ

 漢の儒学者が禮について次のように言っている。「皇帝には三人の正室と九人の側室、二十七人の女官、八十一人の下級女官がいる」と。またこれを次のように解説する。「伝説の聖王舜には三人の妻がいた。夏王朝ではこれに九人を加え合せて十二人となった。殷王朝では二十七人を増やして合わせて三十九人となった。周王朝の人はさらに増やして百二十一人になった」と。これは本当に聖王が定めたことなのだろうか。そもそも十二人から三十九人に増やすのを良しとし、三十九人から増やして百二十一人に至るのを良しとするなら、更に増して数百、千余りにすることも良しとするのだろうか。またそうすると西晋の初代皇帝である司馬炎には一万人の女性がいたとか、唐の玄宗皇帝には四万人いたというのをどうして疑うのだろう。考えてみればこんなことを聖王が定めたという説は誤りであるのはすぐにわかることだ。しかしこれを数千年の間信じ奉っててきたのはなぜだろう。それは好色者が聖王の定めにかこつけて自分の欲望を満足させてきたからだ。道に志す人はこれが聖王の定めたことであるのを恐れて、敢えてはっきりとこれを止めろとはいえなかった。迷いもなく堂々とこの説が蔓延するようになるともはやこれを止めようとする者もいなくなった。わが国は様々なことで西土(中国)をまねてきた。いやしい習慣、悪い風俗を受け継いで改めないことだ。さらにこれに加えて妾についてもただ西土(中国)をまねるだけで規制を立てなかった。欠陥についてもよく従ったのだった。

 わが国の文化はもともと真心や人情を尊び、はるかに西土(中国)にまさっていた。これに加えて、戦乱が終わって以来、武士は武亊を一心に考え、派手で不真面目な風習に流れなかった。しかし太平の日が長く続くと次第に贅沢と淫乱に向かっていった。もうすでに一定の定めは無くなっているし、西土(中国)の弊害を受け継いで淫乱となり規律も乱れている。このため大名の好色者は二十人以上の妾を持っている。また旗本や富裕な商人の妾は五人、六人、七人、八人、それ以上と好き放題だ。また別宅を持ってそこで妾を囲うこともある。無論こうしたことは家の財産を減らし、國の蓄えを乏しくする。会計帳簿の帳尻が合わなくなり、上下のわきまえが無くなるといったことも皆これにより起こることだ。こうした混乱を座視して適切な処置をしないようではもはや民の父母たる君主といえるだろうか。

 更に嘆かわしいことがある。私はかつて今の大名や旗本にしばしば子供が無く、またたとえあってややもすれば若死にすることを不思議に思っていた。なぜそんなことになっているのだろうか。そもそも何不自由なく、安逸な生活に溺れていることが問題だが、害の発生理由は一つではない。その中で妾が多数いること、これが最も問題だ。人の財産の袋の中が有限であるのと同様に、人の精も有限である。千萬金の利益があっても、毎日これを人に与えて散財すればすぐに一文無しになってしまう。一方でこれをもらった人も富裕になるわけではない。たくましく健康な人でも十人余りのお気に入りの女性に愛を分けて精を費やせば、衰えて倒れてしまうことは当然である。そうして生まれてきた子供も生まれつき精が少ない。そのため気力や体力が無く、若死にするわけである。幸いに若死にしなくても精気が足りないので人に自分が不屈であることを示すことができず、また世事にも疎いと思われてしまう。家来を多く有している大名や旗本が、才能ある武士にかなわないのはこのためである。このため妾を減らすことは国家の命運にかかわり、軽視すべきではない。

 わが国や西土(中国)の聖人の考えに基づき、その対策を説明すれば、まず大名の妾は二人までとする。武士の妾は一人まで。その他は一夫一婦とする。但し現在の大商人で富があって大名をしのぐような者は儒教聖典に書いてあることや下賤の男女の言うことなど守ろうとしないだろう。このため家に萬金があり召使三十人以上を有する者は妾一人を持つことを許す。このようにすれば公平で適切であろう。

 ある人が「西洋の一夫一婦制度は極めて適切だと思えるのに、なぜこれに従わないのか」と言う。私が思うに西洋の制度は良法だが結局これは異民族の制度であり、聖人の考えとは異なる。西洋では男女の格差がほぼ無いように見える。跡継ぎを重要視することもない。このため妻が夫に張り合うし、家では跡継ぎが無くなり先祖の祭祀を絶やすこともしばしばある。わが国の聖人の定めた禮の制度はそうではない。親不孝には三種類あるが、その中でも跡継ぎかなくて先祖の祭祀を絶やすことが最悪とされる。夫婦間の尊卑もはっきりしている。考えてみれば士以上に妾がいないことはむしろ大いに良いことだ。しかし妻が子を産むことができなかったり、病気がちで家を治めることができなかったり、あるいはやむをえない事情で娶った妻だがこれを追い出すほどの理由もない、などの場合もあり、こうしたときに妾を入れるのは良いだろう。これが優れた武士のすることだろう。それ以外の一般人は生まれも賤しいし、名も位も無く武士と同じでよいわけがない。そもそも男は貴く、女は賤しい。天地に生きる者で賤しい者は数が多く、貴い者は少ない。このため女性は常に男性より多い。もし天下が皆一夫一婦となれば必ず結婚できない女性が出てしまう。私は天の心と人情に基づきよくよく考えてこの制度を定めた。聖人がまた生まれてくれば必ずこの私の言っていることを変えようとはしないだろう。

 

(わが国では女が男よりも多い。西土(中国)では妾が多数いて、女性が少ないとは聞いたことが無い。この点わが国と同じとみるべきだろう。西洋では一夫一婦制度が行われているが、女性が多くて困っているといったことはない。わが国や西土(中国)とは同じではないように見える。これは北方で寒さが厳しく、陰気(女性)が強く陽気(男性)が弱いためだろうか。東国通鑑を調べてみると、高麗の朴楡嘗がこんなことを言っている「東方は木に属していて、木の生数は三、成数は八で、奇数は陽で偶数は陰だから、わが国の人は男が少なく女が多いのだ」と。理屈ではこうなる。朝鮮もまたわが国と同じだ。)

 

九曰可禁諸侯以賈人女及芸妓爲妾

(漢文)

春秋之乱極矣、朱子所謂五濁悪不成世界者、其淫穢、多不忍言者、然當時嫁娶猶知擇其耦、無論諸侯妃匹必迎之列國、即姪娣妾媵亦必取之諸侯大夫之女、故當時稱女子之可愛慕者、非齊之、姜則宋之子、蓋不専悦其姝麗而已、又取其閨門厳深漸漬禮教也、蓋婦人之賤者、狎男子周知俚事、淫恣儇黠、不可訓告、迥不知士人之女謹厳守禮、國初諸侯大夫好武知耻、雖無大禁、自不踰防閑、今則蕩然無所顧忌、列侯之買妾、惟明□妖蠱之求、不復問其家法性習、賤士人守禮法之女、爲村野鄙俚、翻称賈人之女、爲都雅慧敏、故列侯姫妾大抵莫非賈人子、甚乃納歌妓舞倡、寵之専房、至於士則有狎花街之女、落其籍、直迎以爲室者、或慮其駭視聴、則假他人爲之父、然後迎之、是掩耳盗鈴之爲耳、今代風俗敗壊、滔々皆是、而莫甚於賈人之可賤、士各有其禄、農各有其田、此所謂有恒産者有恒心也、賈人則不然、其所以爲生者、非牟財利欺瞞他人則無由、豈非所謂無恒産因無恒心者乎、故賈人有恒言曰、貪財争利即吾儕之職也、爲之女者、日夕所覩聞、莫非貪惏欺誑之事、宜乎無一人有志行者也、若夫芸妓則惟以清歌妙舞、呈燭于人、妓女則純乎禽獣之行、本不歯於人類、斯亦不足言也已、程叔子曰、人主一日之間接賢士大夫之時多、接宦官宮妾之時少、則可以變化気質而薫陶徳性、今列侯貴人惟好與寵嬖雑居、不肯以時禮接賢士延問儒臣、固已不可、又況愛幸此等貪淫無行之女、其不爲所浸漸者幾希、且子之賢否雖不専係父母、亦自稟其気以生、故越絶書曰、恵種生聖、痴種生狂、晋武帝曰、賈氏種妬而少子、醜而短黒、今列侯姫妾之子、稟其汙穢之気而生、烏得有聡敏儁異之才乎、幼爲之所養、絶不見貞潔之行聞礼儀之訓、豈復有所観感以成就其徳邪、予観今代列侯貴人之庶子、大抵孱懦浮靡、非蒯聵之婦人、則昭公之童心、夫豈無由而然也、昔晋太子遹以穎秀之資、居儲副之尊、乃於宮中爲市、使人屠酤、手揣斤両、軽重不差、史云、其母本屠家女、故太子好之、終死賊后手、爲天下笑、此足以爲鑑矣、今誠嚴設之制、列侯貴人姫妾、必取於士大夫之家、不得納賈人之女歌舞之妓、犯者立罸、其納妓女爲室者事發、則削禄褫職決不寛貸、如此則夫人知所畏懼、而斯弊自熄矣、自古婦人造譖者、衽席従容一言、能使英雄儁傑意消心釋、蓋愛之方深言之易入、婉辞之動人、迥勝犯顔之□物故也、讒者若此、陳善者亦宜然、姜后樊姫之事可見矣、今使列侯貴人擇簪紳家守禮之女而寵之、亦未必不爲進徳之一助也、此事也實君徳胤嗣之所𨶋繋、似小而實大、似緩而翻急、時人之智慮未甞及、悲夫、

 

(読み下し文)

九に曰く、諸侯の賈人の女及び芸妓を以て妾と爲すを禁ずべし

春秋の乱極まれり。朱子謂ふ所の五濁悪(ゴジョクアク)世界を成さざる者にして、其の淫穢(インワイ)、多くは言ふに忍びざる者なり。然れども當時嫁娶(カシュ)猶ほ其の耦(つれあひ)を擇ぶを知る。無論諸侯妃匹(ハイヒツ)必ず之を列國より迎ふ。即ち姪娣(テッテイ)妾媵(ショウヨウ)亦た必ず之を諸侯大夫の女(むすめ)より取る。故に當時女子の愛慕(アイボ)すべき者を稱するに、齊の姜(キョウ)則(あるい)は宋の子(シ)とするに非ず。蓋し其の姝麗(シュレイ)のみなるを悦ぶを専らとせず。又其の閨門(ケイモン)の厳(おごそか)に深く禮教の漸漬(ゼンシ)するを取るなり。蓋し婦人の賤き者、男子に狎(な)れ俚(いやし)き事を周知す。淫恣(インシ)儇黠(ケンケツ)にして訓告すべからず。迥(はるか)に士人の女の謹厳守禮なるを知らず。國の初め、諸侯大夫武を好み耻を知る。大禁無しと雖も、自(おのづ)から防閑(ボウカン)を踰(こ)へず。今則ち蕩然(トウゼン)顧忌(コキ)する所無し。列侯の妾を買うこと、惟だ明艶妖蠱(ヨウコ)之(これ)を求(もと)むのみ、復た其の家法性習を問はず。賤しき士人禮法を守る女を村野(ソンヤ)鄙俚(ヒリ)と為し、翻(かへっ)て賈人の女を称へ、都雅(トガ)慧敏(ケイビン)と爲す。故に列侯の姫妾(キショウ)大抵賈人の子に非ざるは莫し。甚(はなはだ)しきは乃(すなは)ち歌妓舞倡(カギブショウ)を納(い)れ、之(これ)を寵(いつくし)み房を専らにす。士則ち花街の女に狎(な)れ其の籍を落とし直ちに迎へ以て室と爲す者有るに至る。或は其の視聴を駭(おどろ)かすを慮るれば則ち假に他人之(これ)が父と為り、然る後に之を迎ふ。是れ耳を掩(おほ)ひて鈴(かね)を盗むの爲(ため)のみ。今代風俗敗壊(ハイカイ)し、滔々として皆是(みなこれ)なれど、之を賤しむべきこと賈人より甚だしきは莫し。士各(おのおの)其の禄を有し、農各(おのおの)其の田を有す。此れ所謂(いはゆる)恒産有れば恒心有るなり。賈人則ち然らず。其の生を爲す所以(ゆゑん)は、財利を牟(むさぼ)り他人を欺瞞するに非ざれば則ち由無し。豈所謂(いはゆる)恒産無く因て恒心無き者に非ざるや。故に賈人に恒言(コウゲン)有り曰く「財を貪り利を争ふは即ち吾儕(ともがら)の職なり」と。之が爲(ため)女は日夕覩聞(トブン)する所、貪惏(タンラン)欺誑(ギキョウ)之(これ)を事とするに非ざる莫(な)し。宜(うべ)なるかな、一人として志を有し行ふ者無きなり。若(も)し夫(そ)れ芸妓則ち惟(た)だ清歌妙舞(セイカミョウブ)を以て人に悦を取り、妓女則ち純乎(ジュンコ)禽獣の行ひのみ。本(まこと)に人類に歯せず。斯れ亦言ふに足らざるなるのみ。

程叔子曰く「人主一日の間賢士大夫と接するの時多ければ、宦官宮妾(キュウショウ)に接するの時少なし。則ち気質を變化するを以て徳性を薫陶すべし」と。今列侯貴人惟だ寵嬖(チョウヘイ)と雑居するを好み、時を以て賢士を禮接(レイセツ)し儒臣を延問するを肯ぜざること、固(もと)より已(すで)に可(よし)とせず。又況(いはん)や此等貪淫(タンイン)無行(ムコウ)の女を愛幸し、其の浸漸(シンゼン)する所と為らざるは幾(ほとん)ど希(まれ)なり。且、子の賢否父母に係るを専らにせざると雖も、亦自(おの)づから其の気を稟(う)け以て生る。故に越絶書に曰く「恵種聖を生み、痴種狂を生む」と。晋武帝曰く「賈氏(カシ)の種(たね)妬(うまずめ)にして子少なし。醜くして短く黒し」と。今列侯の姫妾(キショウ)の子、其の汙穢(オアイ)の気を稟(う)けて生れ、烏(いづくん)ぞ聡敏(ソウビン)儁異(シュンイ)の才の有るを得るや。幼(をさなご)之が養ふ所と為り、絶へて貞潔(テイケツ)の行ひを見ず、礼儀の訓(をしへ)を聞かず。豈復た観感(カンカン)し以て其の徳を成就する所有るや。

予今代の列侯貴人の庶子を観れば、大抵孱懦(センダ)浮靡(フビ)なり。蒯聵(カイカイ)の婦人、則(あるい)は昭公の童心を非(そし)るも夫れ豈由(よし)無くて然るや。昔晋太子遹(イツ)穎秀(エイシュウ)の資を以て、儲副(チョフク)の尊きに居る。乃(すなは)ち宮中に於いて市を為し、人を屠酤(トコ)に使はし、手づから斤両(キンリョウ)を揣(はか)り、軽重差(たが)はず。史云く、其の母本より屠家(トカ)の女。故に太子之(これ)を好む。終(つひ)に賊后の手に死し、天下に笑はる。此れ以て鑑と爲(な)すに足る。今誠に嚴く之(この)制(さだめ)を設け、列侯貴人の姫妾(キショウ)、必ず士大夫の家より取り、賈人の女、歌舞の妓を納(い)るを得ず。犯さば立(たちどころ)に罸す。其れ妓女を納れ室と爲す者(こと)事發(ジホツ)せば、則ち削禄(サクロク)褫職(チショク)決して寛貸(カンタイ)せず。此の如きなれば則ち夫れ人畏懼(イク)する所を知り、而(すなは)ち斯る弊自(おのづ)から熄(や)む。古(いにしへ)より婦人譖(そしり)を造(な)す者、衽席(ジンセキ)に一言を従容し、能く英雄儁傑(シュンケツ)の意を消さしめ心を釋(す)てしむ。蓋し之を愛(め)づれば方(まさ)に深言之(これ)入り易し。婉辞(エンジ)の人を動かすこと、迥(はるか)に之(これ)が悟物(ゴブツ)を犯顔するに勝る故(ゆゑ)なり。讒(そし)る者此(かく)の若し。善を陳(の)ぶる者、亦宜しく然るべし。姜后(キョウコウ)樊姫(ハンキ)の事見るべし。今使(も)し列侯貴人簪紳家(シンシンケ)の守禮の女を擇(えら)び之を寵(いつくし)めば、亦未だ必ず進徳の一助と為らざることなきなり。此の事や、實に君徳胤嗣(インシ)の關繋(カンケイ)する所なり。小に似て實は大なり。緩に似て翻(かへっ)て急なり。時人(ジジン)の智慮未だ甞て及ばず。悲夫(かなしいかな)。

 

(語釈)

賈人(商人) 淫穢(インワイ)(みだらできたない) 嫁娶(カシュ)(結婚) 妃匹(ハイヒツ)(配偶者)  姪娣(テッテイ)(婦人の姪や妹が夫人に付き添ってきてやがて妾となった者) 妾媵(ショウヨウ)(妾)

齊の姜(キョウ) 宋の子(シ)(齊は春秋時代の姜姓の侯国、宗は子姓の侯国。詩経国風の陳風衡門の詩に「豈其取妻 必齊之姜 豈其取妻 必宋之子」という文言があり、齊の姜、宋の子は美女の典型として表現されている 『東洋文庫 詩経国風』 二〇三頁参照) 姝麗(シュレイ)(美麗) 閨門(ケイモン)(家庭)漸漬(ゼンシ)(しみこむこと)淫恣(インシ)(ふしだら)儇黠(ケンケツ)(こざかしく悪賢い)訓告(いましめ告げる)防閑(ボウカン)(防ぎ、限度)蕩然(トウゼン)(あとかたもなく)顧忌(コキ)(遠慮する)明艶(明るく麗しい)妖蠱(ヨウコ)(人を惑わせるほどあでやか)性習(習性、習慣) 村野(ソンヤ)(野卑) 鄙俚(ヒリ)(風俗やことばが品がない)都雅(トガ)(上品で雅やか)慧敏(ケイビン)(賢く機敏) 姫妾(キショウ)(そばめ、妾)歌妓舞倡(カギブショウ)(芸者)耳を掩(おほ)ひて鈴(かね)を盗む(音がして人に知られることを恐れ、耳をふさいで鐘を盗む。小策を弄して自ら欺くことのたとえ)滔々として皆是(みなこれ)(人々が皆同じ風潮に従う) 恒言(コウゲン)(常に口にする言葉)覩聞(トブン)(見聞)貪惏(タンラン)(貪欲)欺誑(ギキョウ)(あざむき偽る)清歌妙舞(セイカミョウブ)(清らかに歌い美しく舞う)人に悦を取る(ご機嫌をとる)  歯せず(並び立たない。同列に扱わない)程叔子(程頤 北宋の思想家。朱子学の基礎を築いた)宮妾(キュウショウ)(宮中の婢)徳性道徳心寵嬖(チョウヘイ)(お気に入りの家来)禮接(レイセツ)(礼をもってもてなす) 延問(召し入れて問う)貪淫(タンイン)(ひどく色好み) 無行(ムコウ)(行いが悪い)愛幸(かわいがる) 浸漸(シンゼン)(次第に程度・状態が進むこと)越絶書(周代の越国の興亡を記した書)    恵種(優良な種) 痴種(愚か者の種)武帝西晋初代皇帝司馬炎) 賈氏(カシ)(司馬炎の皇太子妃 司馬炎の死後、無能な夫の恵帝を差し置き政治の実権を握り悪逆の限りを尽くした。自身に子は産まれなかった) (たね)(血筋)姫妾(キショウ)(妾)汙穢(オアイ)(けがれていること)聡敏(ソウビン)(聡明で俊敏) 儁異(シュンイ)(優れてまさっていること)貞潔(テイケツ)(貞操が固く行いが潔白)観感(カンカン)(見て感じる)孱懦(センダ)(体が弱い)浮靡(フビ)(派手で不真面目) 蒯聵(イカイ)(春秋時代の衛の荘公) 昭公春秋時代の魯の君主、十九才でも精神が未発達で幼児のようであった)晋太子遹(イツ)(西晋二代恵帝の皇太子 賈氏に殺された穎秀(エイシュウ) 儲副(チョフク)(世継ぎ)屠酤(トコ)(屠殺業者と売酒業者)斤両(キンリョウ)(重さ)屠家(トカ)(屠殺業の家)賊后(恵帝の后、賈后)(妻)事發(ジホツ)(発覚) 褫職(チショク)(免職) 寛貸(カンタイ)(大目に見て許すこと) 畏懼(イク)(恐れはばかる) 衽席(ジンセキ)(寝所) 従容(ほのめかす) 婉辞(エンジ)(しとやかな言葉) 悟物(ゴブツ)(物事の真実をつかむこと) 犯顔(ハンガン)(不機嫌を顧みず直言すること) 姜后(キョウコウ)(周の宣王の賢明な后) 樊姫(ハンキ)(楚の荘王の賢夫人)簪紳家(シンシンケ)(高位の家)胤嗣(インシ)(跡継ぎ、子孫) 關繋(カンケイ)(かかわる)時人(ジジン)(同時代の人々)

 

(現代語訳)

九 大名が商人の娘や芸者を妾とすることを禁止すべし

 春秋時代に世は乱れ、その腐敗ぶりは言うにたえないほどであった。しかしそれでも当時の人は結婚相手を選ぶことを知っており、諸侯の配偶者はもちろん列国諸侯の娘から迎えた。また妾についても諸侯や家老の娘から選んだ。このため当時愛し慕う女性を呼ぶのに、美人を意味する「斉の姜」だとか「宋の子」などといった呼び方はしなかった。なぜなら女性については美しさだけではなく、家庭での礼儀の教育が深く浸透していることも評価して選んだからだ。

 身分の低い女性は男になれなれしく、淫靡なことをよく知っていて、ふしだらでこざかしく、言っても治らないし、武士の娘が謹厳で礼儀正しいことを全く知らない。江戸時代の初めには大名や家老は武を好み耻を知っていた。禁制がなくても自分で限度を超えるようなことはしなかった。今はそうしたことが全く無くなり遠慮することもなくなった。大名が妾を買うときはただ美しくあでやかなことを求めるだけで、その者の家法や習慣は問題にしない。身分の低い武士は礼儀正しい女を野暮で垢ぬけないと言い、かえって商人の娘を上品で雅やかだとか賢く気が利いているなどといってほめる。このため大名の妾は大抵商人の娘だ。ひどいのになると芸者や遊女を妾として受け入れ寵愛し、これが寝室を独占している。武士が花街の女となじみになり、これを身請けして直ちに妻として迎えるに至ることまであるが、世間の外聞を気にして、一旦他の人がこの女の仮の親となり、その後に妻として迎えることもある。これなど音で盗みが人に知られることをおそれて、自分の耳を塞いで鐘を盗むようなもので、自分で自分を欺いているにすぎない。

 現在の風俗は乱れていて皆同じ風潮に染まっているが、その中でも商人ほど賤しい者はいない。武士は各々禄をもらい、百姓は各々田を有している。これはいわゆる恒産有れば恒心有りということだが、商人はそうではない。商人の生きる道は、財産や利益をむさぼり他人を欺くこと以外にはない。これはいわゆる恒産無く恒心無き者に他ならない。このため商人たちはこういうことをよく言う「財産をむさぼり、利益を争うのが我々の仕事だ」と。このため商人の娘が日ごろ見聞きするのは貪欲や欺瞞に励むことばかりだ。なるほどそのため立派な志を持っている者は一人としていない。一方で芸者は歌や舞いで人のご機嫌を取るだけで、遊女がするのは禽獣の行いだけだ。もはや人として同列に扱えず、言うに値しない。

 朱子学の基礎を築いた程頤はこう言っている「君主が一日の間、賢明な家臣と接する時間が多ければ、宦官や宮中の女官と接する時間は少なくなる。そうすれば心の性質を変化させて道徳心を養うことができる」と。ところが今の大名や旗本はただお気に入りの家臣といるのを好み、しかるべき時に賢人を礼をもってもてなしたり、学者を召し入れて質問するといったことをしないのは既に良くないことだ。それどころか、こうした好色で行いの悪い女を可愛がり、それが次第にひどくなっていくばかりだ。また、子供の出来の良し悪しは父母のみに係っているとは言えないけれど、当然親の素質を受けて生まれてくる。これゆえ「越絶書」という歴史書にはこう書いてある「優良な親の種は聖人を生み、愚か者の種は狂人を生む」と。また西晋の初代皇帝の司馬炎は自分の息子の妃となった賈氏についてこう言っている「賈氏の種は石女(うまずめ)で子が少なく、醜くて背が低く色黒だ」と。もし大名の子が妾のけがれた気質を受けて生まれれば、何で聡明、俊敏の才能を得ることができようか。幼児の時に妾が養育すれば貞節で潔白な行いを見ることが無く、礼儀の教えを聞くこともできない。何でこれで徳を養うことができようか。私が大名や旗本の妾の子を見ると、大抵体が弱く、派手だが不真面目だ。春秋時代の衛の君主となったが女性的な性質であった蒯聵(カイカイ)や、魯の君主であるが十九才になっても精神が未発達で幼児のようであった昭公のことを皆そしるけれど、それは原因がなくてそうなったのだろうか。西晋の二代恵帝の皇太子であった遹(イツ)は妾の子だったが優れた資質により世継ぎの地位についた。しかし宮中で売買を行い、人を屠殺業者と売酒業者につかわして、自分で商品の重さを計り間違えることがなかった。史書によればその母がもともと屠殺業者の娘であったので自身もこれを好んだのだった。しかし結局邪悪な恵帝の后の賈后に殺されて天下の笑いものになった。このことは教訓とするに足りる。

 厳しい禁制を設けて、大名や旗本の妾は必ず武士の家から取ることにし、商人の娘や芸者・遊女から入れることを禁止する。違反すれば即座に罰する。もし芸者や遊女を妻にしたことが発覚すれば減禄免職に処し決して許さない。このようにすれば皆恐れ憚りこうした弊害も自然になくなるだろう。

 昔から女性は人をそしる時は寝所で一言ほのめかす。そうすると英雄豪傑でも心を動かされてしまう。これは閨の睦言は受け入れられやすいからだ。しとやかな言い方は、不機嫌を顧みず真実を直言することよりはるかに人を動かすのだ。そしる者がこのようであれば、善いことを言う者もこのようにあるべきだ。周の宣王の后の姜后(キョウコウ)、楚の荘王の夫人樊姫(ハンキ)のような賢夫人の行いを見るべきだろう。

 もし大名や旗本が高位の家の礼儀正しい娘を選んでいつくしめば、必ず徳を高めるのに役立つだろう。このことは君主の徳や跡継ぎに関わることで、ささいなことのように見えて実は重大であり、急を要さないように見えて実は緊急の用なのだ。しかし人々の知恵はここに及ばず、悲しい限りだ。

 

十曰七去之説不可信

(漢文)

予甞論七去之説、難一一信従、必應出於漢儒之臆見、決非聖人所制、後人以其炳載於禮、不敢少議其失、以朱文公之卓識、猶収載之小学書中、或謂七出正當道理、非権則信以爲然、遂令擧世遵信、流爲惨覈少恩之行、可嘆也已、請甞試爲衆惑、一剖判其是非、夫娶妻者、以養父母、不順父母、奚足以爲妻、淫也窃盗也、天下之大辠、王法所不赦、犯斯三者、断難寛宥、此七去之不容疑者也、妬者婦人之情、多言者婦人之習、予甞審察之、大抵都會多々言之失、村野多妬忌之病、此未足爲大罪極悪、爲之夫者、果能剛明果断、足刑寡妻、則斯二失可以變而革、其有稟質下愚、妬與多言習以成性、非教之可移、則固不得不去、然此特百中之一二耳、今概以妬與多言、爲可去、苟執而不変、予恐天下之爲婦者、無一不可去、語而不詳、将貽禍於人、此七去之當詳其時與勢者也、至於無子、即七去之不可従者也、有悪疾、則七去之決不可行者也、夫去者在于婦人、實爲大罸、猶之丈夫之褫職収禄、婦人一被去則玷累其父母、無復面目見他人、夫死而去者、出于不得已、故再適不難、夫存而出、則人或憎遠不肯娶、因而没身坎軻不得所歸者有之夫丈夫必其貪黷邪枉罔上虐下、然後始褫職収禄、未有偶然過誤便蒙此罸者也、婦人無子、本是人生之不幸、非其所與知、曽未足以爲偶然之誤、乃加以大罸、寧仁人の所忍爲也、且以無子罪婦人、尤予所不解也、人之有子無子、蓋不可測度、故婦人或輕健無疾而不孕、或尩羸善病而屢字育、既不可以形決、又不可以意推、無乃有夫不能爲人而婦不成子姓者乎、夫不能爲人而反責婦無子、是陽虎虐匡人而孔子被圍也、豈非可笑之甚邪、悪疾則尤天民之窮厄而可心惻者、在泛然疎遠之友朋、尚當営救撫視務爲之所、矧請於君告於父母、六禮備而後迎之伉儷乎、特以其疾之可醜、忍中道而棄之、正荘周所謂以利合者迫窮禍患害相棄者、乃市井無頼之所爲、而士君子亦復倣之邪、昔宋人女爲蔡人妻、曾夫有悪疾、其母欲改嫁之、女終不聴、劉向既載列女傳、後世所嗟称以取則、男女雖有貴賤之殊、理則一而已、夫之有悪疾、婦不可棄去、而婦之悪疾夫可棄捐不顧、苟圖便已、不知矜人、此豈合於天道哉、予謂悪疾之婦決不可同床、且不可同堂、有餘財則當別爲築一室、若患其嗣續将絶侍養無人、則固可畜姫侍、但悪疾之婦則必使之生得其養没得其安、然後夫婦之道爲盡也、嗚呼此説之非、瞭然易見、乳臭児能辨、而幾世幾年、儒先如林、卒無有一人明目張膽痛論其謬者、可嘅也已、

 

或問於郁離子曰、在律、婦有七出、聖人之言與曰、是後世薄夫之所云、非聖人意也、夫婦人従夫者也、淫也妬也不孝也多言也盗也、五者天下之悪徳也、婦而有焉、出之宜也、悪疾之與無子、豈人之所欲哉、非所欲而得之、其不幸也大矣、而出之忍矣哉、夫婦人倫之一也、婦以夫爲天、不矜其不幸而遂棄之、豈天理哉、而以是爲典訓、是教不仁、以賊人道也、仲尼没而邪説作、懼人之不信、而駕聖人以逞其説、嗚呼聖人之不幸而受誣也、久矣哉、

 

呂坤曰、無子有疾、雖聖人所不免、世豈無子之丈夫乎、設數出數娶而竟無子、何以處之、伯牛有悪疾、設是長子、亦當廃禮矣、此二婦者、出之、於情未安、雖先祖之嗣宗廟之礼固重、亦有善處之而已、

 

(読み下し文)

十に曰く、七去の説信ずべからず

予甞て七去(シチキョ)の説を論ず。一一(いちいち)信じ従ひ難し。必ず應(まさ)に漢儒の臆見より出(い)づべし。決して聖人の制(さだ)むる所に非ず。後人其の炳(あきらか)に禮に載るを以て、敢て少しも其の失(あやまち)を議(あげつら)はず。朱文公の卓識を以て、猶之(これ)を小学書中に収載す。或(あるひと)謂く「七出正に道理に當る。権(かりそめ)に非ず」と。則ち信(まこと)に以て然りと爲す、遂に世を擧げて遵信せしむ。流れて惨覈(サンカク)にして恩少なしの行ひと為る。嘆くべきなるのみ。請ふ甞試(ためし)に衆を惑はしめ、一たび其の是非を剖判(ボウハン)せんことを。夫れ妻を娶らば、以て父母を養ふ。父母に順(したが)はざれば、奚ぞ以て妻爲るに足るや。淫(みだら)なるや窃盗たるや天下の大辠(タイザイ)にして王法の赦さざる所なり。斯る三者を犯さば断じて寛宥(カンユウ)し難し。此れ七去の疑ひを容れざる者なり。妬(ねたみ)は婦人の情、多言は婦人の習ひ。予甞て之を審察す。大抵都會に多言の失(あやまち)多し。村野に妬忌(トキ)の病多し。此れ未だ大罪極悪爲るに足らず。之(これ)が夫爲(た)る者、果して能く剛明(ゴウメイ)果断たれば、寡妻(カサイ)を刑(ただ)すに足(た)る。則ち斯の二失變(か)へて革(あらた)むを以て可とす。其れ稟質(ヒンシツ)下愚なるを有し、妬(ねたみ)と多言の習ひ以って性と成り教(をし)へ之(これ)移すべきに非ざれば、則ち固より去らざるを得ず。然れども此れ特(ただ)百中の一二のみ。今概(おほむ)ね妬(ねたみ)と多言を以て、去るべしと為し、苟(いやしく)も執りて変ぜざれば、予恐らく天下の婦爲る者、一(ひとり)として去るべからざるもの無し。語りて詳(つまびらか)ならざれば、将(まさ)に人に禍(わざはひ)を貽(のこ)すべし。此れ七去の當(まさ)に其の時と勢とを詳(つまびらか)にすべき者なり。子無きに至りては、即ち七去の従ふべからざる者なり。悪疾有るは則ち七去の決して行ふべからざる者なり。夫れ去るは婦人に在りては實に大罸爲り。猶ほ之(これ)丈夫の褫職(チショク)収禄のごとし。婦人一たび去を被れば則ち玷(きず)其の父母を累(わづらは)し、復た他人を見る面目無し。夫死して去る者は、已むを得ざるより出るが故に再適難(かた)からず。夫存(あ)りて出れば則ち人或は憎み遠ざけ娶るを肯ぜず。因て身を没し坎軻(カンカ)にして歸する所を得ざる者之(これ)有り。夫れ丈夫必ず其の貪黷(タントウ)邪枉(ジャオウ)にして上を罔(あざむ)き下を虐(しひた)げば、然る後始めて褫職収禄たり。未だ偶然の過誤にて便ち此の罸を蒙る者有らざるなり。婦人子無きは本より是れ人生の不幸にして其の與(あづか)り知る所に非ず。曽(なん)ぞ未だ偶然の誤りと爲すを以て足らず、乃ち以て大罸を加ふや。寧ろ仁人の爲すを忍ぶ所なり。且(まさ)に子無きを以て婦人を罪(とが)むは、尤も予の解せざる所なり。人の子有る子無きは蓋し測度(ソクタク)すべからず。故に婦人或は輕健にして疾無くて孕まず。或は尩羸(オウルイ)にして善く病みて屢(しばしば)字育(ジイク)す。既に形を以て決すべからず。又意を以て推すべからず。無乃(むしろ)夫、人を爲す能はずして婦子姓(シセイ)を成さざる者(こと)有るか。夫、人を爲す能はざるに反(かへっ)て婦の子無きを責む、是れ陽虎匡(キョウ)人を虐げて孔子圍まるなり。豈之(この)甚しきを笑うべきに非ざるや。悪疾則ち尤も天民の窮厄(キュウヤク)にして心惻(いた)むべき者なり。泛然(ハンゼン)疎遠の友朋在れば、尚當(まさ)に営救(エイキュウ)撫視(ブシ)務めて之が所を爲すべし。矧や君より請け父母より告げられ、六禮備はりて後に之を迎へし伉儷(コウレイ)をや。特(た)だ其の疾(やまひ)の醜(にく)むべきを以て、忍(むご)くも中道にて之を棄つ。正しく荘周謂ふ所の利を以て合ふ者は窮禍(キュウカ)患害(カンガイ)迫りて相棄つる者なり。乃(すなは)ち市井(シセイ)無頼(ブライ)の爲す所なり。而して士君子亦復(またまた)之(これ)に倣(なら)ふや。昔宋人の女、蔡人の妻と爲るも、曾(すなは)ち夫に悪疾有り。其の母之(これ)を改嫁(カイカ)せんと欲すれど女終(つひ)に聴かず。劉向(リュウキョウ)既に列女傳に載す。後世嗟称(サショウ)し以て則(のり)を取る所なり。男女貴賤の殊(ことな)ること有ると雖も、理則ち一なるのみ。夫の悪疾有らば婦棄去(キキョ)すべからず。而して婦の悪疾は夫棄捐(キエン)し顧(かへりみ)ざるを可とす。苟(かりそめ)に便を圖るのみ。人を矜(あはれ)むを知らず。此れ豈に天道に合うかな。予謂(おも)ふに悪疾の婦、決して同床すべからず。且同堂すべからず。餘財有らば則ち當(まさ)に別に一室を築かしむべし。若し其の嗣續(シゾク)将(まさ)に絶へんとし侍養(ジヨウ)に人無きを患(うれ)へば、則ち固より姫侍(キジ)を畜(やしな)ふべし。但し悪疾の婦則ち必ず使(も)し之(これ)生くれば其の養ひを得さしめ、没すれば其の安らかなるを得さしむべし。然る後夫婦の道盡(つく)さるなり。嗚呼此の説の非(あやまり)、瞭然と見易し。乳臭き児能く辨(わきま)ふ。而して幾世幾年、儒先林の如し、卒(つひ)に明目張膽(メイモクチョウタン)し其の謬(あやまり)を痛論する者一人として有ること無し。嘅(なげ)くべきなるのみ。

或(あるひと)郁離子(イクリシ)に問ひて曰く「律に在りて婦に七出有り。聖人の言なるや」と。曰く「是れ後世薄夫(ハクフ))の云ふ所なり。聖人の意に非ざるなり。夫れ婦人は夫に従ふ者なり。淫なること、妬なること、不孝なること、多言なること、盗なること、五者天下の悪徳なり。婦にして焉(これ)有らば、之を出すこと宜しかるなり。悪疾と無子と、豈に人の欲する所かな。欲して之を得る所に非ず。其の不幸なるや大なり。而して之を出すこと忍(ニン)なるかな。夫婦人倫の一(はじめ)なり。婦は夫を以て天と為す。其の不幸を矜(あはれ)まずして遂に之を棄つ。豈に天理なるかな。而して是を以て典訓(テンクン)と為すは是れ不仁を教へ以て人道を賊(そこな)ふなり。仲尼(チュウジ)没して邪説作(おこ)る。人の信ぜずざるを懼(おそ)れて聖人に駕し以て其の説を逞(たくま)しくす。嗚呼聖人之(これ)不幸にして誣(フ)を受くや久しきかな」と。

 

呂坤(リョコン)曰く「子無く疾(やまひ)有ること、聖人と雖も免れざる所なり。世豈に子無きの丈夫、設(も)し數(しばしば)出し.數(しばしば)娶りて竟(つひ)に子無くば、何を以て之を處さん。伯牛(ハクギュウ)悪疾有り。設(も)し是れ長子なれば亦當(まさ)に禮を廃すべし。此の二つ婦なれば、之を出すこと、情に於いて未だ安からず。先祖の嗣、宗廟の礼固(もと)より重しと雖も、亦之が善處有るのみ。

 

(語釈)

七去(シチキョ)(儒教で、妻を離婚する七つの条件。父母の言をきかない、子ができない、おしゃべり、盗みをする、みだら、ねたみ深い、悪い病気を持つ。七出) (大戴礼記 (だたいらいき)大戴の編集した礼に関する雑記という意味。『礼記』と同じように、周末から漢初までの儒教の文献から集められた。戴徳は漢の宣帝に仕えた官員であり、一方、礼学を修めた学者でもあった。元々八十五篇あったが、現本は残欠が多く四十篇が残るのみ。帝王伝説・時令思想・曽子学派の遺説など、注目すべき記述が多い。) 朱文公朱熹) 小学南宋朱熹が門人劉子澄らの協力を得て編んだ,少年のための修身作法の書) 流れて惨覈(サンカク)にして恩少なし(法律を用いることが過酷で少しも人情を用いないこと)剖判(ボウハン)(分ける)寛宥(カンユウ)(大目に見て許すこと)妬忌(トキ)(ねたみ)剛明(ゴウメイ)(心が強く知性が明らか)寡妻(カサイ)(正夫人)稟質(ヒンシツ)(天性)褫職(チショク)(免職)再適(再婚)身を没す(一生を終わる 死ぬ)坎軻(カンカ)(不遇)貪黷(タントウ)(強欲) 邪枉(ジャオウ)(よこしまでねじけている)測度(ソクタク)(推測) 輕健(身軽で健康)尩羸(オウルイ)(かよわい)字育(ジイク)(やしない育てる)子姓(シセイ)(子から次々生まれた者 孫や子孫) 陽虎春秋時代の魯の人。陽貨とも。季氏の臣。主家季氏をしのぎ魯侯に反したが失敗し、魯の国宝である玉と弓とを盗んで斉に走った。孔子がこの人物に似ていたので、匡という所を通った時、陽虎と誤られ、危険な目に遭ったことが、『史記孔子世家』に見える) 天民(人民) 窮厄(キュウヤク)(危難にあったり追い詰められたりして苦しむこと) 泛然(ハンゼン)(落ち着き無くただよう)営救(エイキュウ)(色々な方法を考えて人を困難から救い出す)撫視(ブシ)(いたわること) 六禮(リクレイ)(結婚のときの六種の礼。納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎) 伉儷(コウレイ)(つれあい 配偶者)中道(途中) 荘周荘子 窮禍(キュウカ)患害(カンガイ)(わざわい) 士君子(学問もあり人格も高い人)   劉向(リュウキョウ)(前漢の経学者。宮中の書物の校訂・整理に当たり、書籍解題「別録」を作り、目録学の祖と称される。著「説苑」「洪範五行伝」「新序」「列女伝」など) 嗟称(サショウ)(感嘆してほめる) 則(のり)を取る(模範にする)棄捐(キエン)(捨てること)同堂(同じ堂に居ること)嗣續(シゾク)(跡継ぎ)侍養(ジヨウ)(側にはべって世話をすること)姫侍(キジ)(妾)明目張膽(メイモクチョウタン)(目を見開き腹をすえて決然として事に当たること)郁離子(イクリシ)(劉基 明の文人、太祖を助けて帝業を固くした) 薄夫(ハクフ)(考えの浅い人)(ニン)(むごい) 典訓(テンクン)(人道のおしえ)仲尼(チュウジ)(孔子(フ)(無実の人を罪におとしいれること) 呂坤(リョコン)(明代中末期の官僚,学者.現実政治に密着した実践的学問を尊重した)伯牛(ハクギュウ)(孔子の弟子、徳行に優れていたが癩病で亡くなった)嗣(あとつぎ)

 

 

(現代語訳)

十 七去の説は信じるべきではない

 私はかつて七去の説、つまり儒教で妻を離縁できる七つの条件(夫の父母に従わない、淫乱の行為、窃盗、妬み、おしゃべり、子ができない、悪い病気を持つ)について論じたことがあるが、すべてについて信じて従うことはできない。これは漢の儒学者の勝手な見解に基づくもので、決して聖人が定めたものではない。しかし後の人たちはこれが大載禮記に載っているので、あえてその誤りを指摘することは少しもなかった。朱熹のような優れた見識のある人ですらこれを少年のための終身の本である小学に記載している。ある人は、この七去の説は道理にかなっておりいい加減なものではないと言う。つまり全く当然だというのである。こうして世の中で広く信じられ尊重されるようになった結果、七去の説を適用することは過酷で少しも人情に合わないこととなってしまった。嘆かわしいことだ。ためしにこの説を信じている多くの人を惑わせてでも、一度この説の是非を分析してみようと思う。

 まず、妻を娶れば妻は夫の父母を養う。父母に従わないようでは妻とはいえない。淫乱の行為や窃盗は天下の大罪で法が許さない。この三つを犯して大目に見て許すなどということはできない。これらは七去の中でも疑いのないものだ。

 次に妬みは女性の心情、おしゃべりは女性の習慣である。私はかつてこれらをよく観察してみたが、たいてい都会にはおしゃべりが多く、田舎には妬みが多い。これらはまだ極悪の大罪というほどではないだろう。これらの女性の夫が聡明で心が強く決断力もあれば十分に妻を正すことはできる。つまりこの二つのことについては変えて改めればそれで良しとし、離縁するほどではない。ただし生まれつき性格が悪く、妬みとおしゃべりがしみついた癖になっており教えても改められないようであれば当然離縁せざるを得ない。しかしそんな例は百の中の一か二のみだろう。もしすべての妬みとおしゃべりを離縁の理由とし、それにこだわって変えなければ、おそらく世の中の女性で離縁されない者は一人もいなくなってしまうだろう。詳しく説明しなければ人に災いを及ぼすことがある。七去の説についてはまさにこれを適用する時と場合とを詳しく説明しなければならないのだ。

 子ができないことを理由に離縁することに至っては、七去の説の中で従う必要のないことだ。悪い病気を持つことを理由に離縁することは七去の説の中でも決してやってはいけないことだ。そもそも離縁されることは女性にとっては重罰を受けるに等しい。これは男が免職されたり俸禄を廃止されるのと同じことだ。女性が一たび離縁されればその父母をもはずかしめ、他人に対する面目も失う。夫が亡くなって離縁するのであればやむを得ない事情なので再婚もできるが、夫が生きていて離縁されたとなると人はこれを嫌い娶ろうとはしない。このため亡くなってからも不遇にも帰すべき所がない者もいる。男であれば強欲で心がねじ曲がっていて上司をだまし部下を虐げるなどのことをしてはじめて免職や俸禄廃止になる。偶然過失を犯したからといってここまでの罰を受ける者はいない。女性で子ができないのは人生の不幸だが本人の責任ではない。それなのになぜ、偶然の過失とするだけでは飽き足らずこんな重罰を加えるのか。立派な人格者であればこんなことはしない。

 子ができないからといって女性をとがめるのは私が最も理解できないことだ。子ができるかできないかは予測できることではない。女性は健康で病気が無くても妊娠しないこともあるし、か弱くて病気がちでも子宝に恵まれることもある。外見から決まるものではないし、勝手な推測もできない。むしろ夫の方に原因があって妻に子ができないことだってあるではないか。夫に原因が有るのに妻に子ができないのを責めるのは、昔匡(キョウ)の国に陽虎が侵入して人々に暴虐をふるったため、後に孔子がこの国に入った時に人々がこれを陽虎と間違えて取り囲み殺そうとしたのと同じことだ。このお粗末ぶりはもはや笑うべきではないのか。

 悪い病気は人民が最も苦しむことであり、心をいためることだ。遠方の友が病気に苦しんでいる時でさえ、なんとか救いの手を差し伸べいたわるなどのことをする。ましてや君主からの話を請け、あるい父母から告げられ、婚礼の六つの儀式を経た後に迎えた大切なつれあいであればなおさらのことだ。それなのにただ病気がひどいからといって酷くも途中でこれを捨てるなどということは、荘子が言う所の、利益によって結ばれた関係はひとたびわざわいが迫ると互いに見捨ててしまうということと同じであり、町のならず者のすることだ。それなのに教養も身分もある人物がこんなことをするのか。

 春秋時代の昔に宋の国の女性が蔡の国の男の妻となったが、夫には悪い病気があったので、女性の母親は別の所に嫁入りし直させようとした。しかし女性はこれを聞かず夫に添い遂げた。前漢の学者劉向はこの話を『列女傳』に載せ、また後世の人はこの話に感動して手本にした。男女では身分の違いがあるとはいえ道理は同じである。夫に悪い病気があっても妻は夫を捨て去るべきではない。それなのに妻に悪い病気があれば夫はこれを捨て去り顧みる必要もないとする。こんなのはいいかげんな屁理屈でしかない。人をあわれむことを知らないで、何でこれが天道に合うのか。

 私が考えるに、妻が悪い病にかかっていれば決して床を共にしてはいけないし、また同じ建物にいてもいけない。資力に余裕があれば別に一室を築くのがよい。もし跡継ぎが絶えそうであったり、側で世話をする人間がいないことに悩むのであれば、その時はもちろん妾を入れてもよい。ただし、病気の妻が生きているうちは療養できるようにし、亡くなれば安らかに眠れるようにしてやるべきだ。そうしてこそ夫婦の道を尽くすことになる。

 この説の誤りははっきりしていて、乳臭い子供でもわかる。しかし何年も何世代にも渡って、儒学者は多くいたのに一人もその誤りを厳しく指摘する者がいなかった。全く嘆かわしいことだ。

 

(ある人が明の文人である劉基にこんな質問をした「法律には妻を離縁できる七つの条件のことが書いてありますが、これは聖人が言ったことでしょうか」と。劉基の答えはこうだ「それは後の世の考えの浅い者が言ったことで、聖人の考えではない。妻は夫に従うものであり、淫乱、嫉妬、親への不孝、おしゃべり、窃盗、この五つは天下の悪徳であり妻にこれがあれば離縁してもよい。しかし悪い病気と子ができないこと、これは本人がそうなりたくてなったわけではなく、大変不幸なことである。それなのにこれを理由に離縁することはむごいことだ。夫婦というのは人の道のはじまりであり、妻は夫を天と考えている。それなのに夫は妻をあわれに思わずこれを捨てる。こんなことが天の道理であるわけがない。こんなことを人道の教えとしているようでは、かえって誤ったことを教えて人道をそこなうことになる。孔子が亡くなってからこのような邪説が出てきた。人がこれを信じないことを恐れ、聖人にかこつけてこんな説を好き勝手に広めて、聖人は長い間無実の罪をおしつけられてきたのだ」。)

 

(明代中期の学者である呂坤はこのように言っている「子ができないこと、病気があること、この二つは聖人でも免れることができないことである。子供のいない男がもし何度も離縁して何度も再婚してもついに子ができなければどう対処するのか。孔子の弟子であった伯牛には重い病気があり、彼が長男であったなら宗廟の儀礼をやめることになっただろう。この二つが女性の場合であったなら、これを離縁して安らかな気持ちではいられない。あとつぎや宗廟の儀礼はもちろん大事であるが、善処あるのみである」)

 

追記

(漢文)

十篇已就、或讀一過、笑謂予曰、此論嚴於男子而寛於婦人、夫婦人性愚暗易驕、務摧折之、猶懼其亢、子則反是可乎、予應之曰、唯〃否〃、予論之似寛、即将以深責婦人也、夫禮必合人情然後久、有寛於此、方可禁乎彼、古来論婦教者、若以死殉夫、少年不再醮、婦有七去之属、惨刻迫切、不近人情、於是乎、偶有賢明婦人、則故爲詭激之行、以駭俗釣誉、其汚下者則知禮法之不可守、賢媛貞女之不可希、寧放蕩恣睢、外於名教、禮自禮、人自人、判不相于、而遵行者少矣、故今立之中制、令賢者知所持循、不肖者可企而及、天下婦人、相與孜孜従事于平常不敢爲僻異之行、夫婦和楽閨門粛雍、以助吾君郅隆之治、此予志也、其所責於婦人者深矣、予撰斯論、意有未盡、又辨於下方、以其事稍小、故秪道其梗概而未及詳也、

 

一曰、今士大夫家有女子、其父母莫不誨以三絃秦箏、此百餘年前所未甞有、夫物之感人、莫甚乎音声、三絃秦箏、淫詞俚曲、能令人貞心消邪念萌而不自覺、又況以此接賓客、交盃酒、男女雑坐、歌舞迭作、狎昵無所不至、今代婦人之淫蕩無行、此實與有罪焉、不可不禁、

 

二曰、市中之有裏店也、陰闇幽深之中、男女混殽、動行姦穢、城東多裏店、則淫風殊熾、城西少裏店、則淫風稍損、故裏店可禁、但裏店戸口無数、不可一旦駆逐、當以漸遷徙、

 

三曰、禮男女不共井、不同椸架、豈有可赤身相與入混堂乎、混堂男女並入、白川源公執政時、嘗禁之、迄今遵守弗改、然尚僻遠之地、仍襲旧習、薬湯則莫非男女並入、當一切禁絶

 

四曰、勾欄演劇、尤是誨淫之具、或謂假設之戯、不足以惑人、此大不然、婦人観劇、至且末艱厄之際、莫不涕泣汍瀾、聞人罵其所愛之優則艴然怒、夫烏得不爲之動心蕩魄哉、方今有司知婦人観劇之爲害、而不知害如斯其大、不甚苛禁、故士大夫婦女不観者、百無一二、宜著令甲、厳禁士大夫婦女往観、亦風教之一助也、

 

五曰、今男女相與犯刑、重責男、而女否、蓋以男倡率故也、然又當審察事情而處之、乃男女竊出關、男磔女否、女惟陳爲男所脅誘不記其地之状、則免偏頗甚矣、予謂婦人年長有知識者、惟當準男子行罸、則婦人知所懼、不敢妄従男子作悪、其於情理亦自得其中矣、

 

六曰、今婦人嫁則墨染其歯、醜怪異常、近戎虜之俗、西土人以與雕題並稱、良所難辞、且汚穢不潔、令観者嘔噦、婦人梳頭者、張雙鬢如鳥翼、脳後出髪如菌蕈、亦可醜、之二者雖無関大義當禁、又婦人着緋褌、隋歩露出、尤粗野不敬、當禁緋褌、帯下着袴、略如宮禁宦女及朝鮮之制、方爲愜当

 

(読み下し文)

十篇已に就(な)り、或(あるひと)讀むこと一過、笑ひて予に謂ひて曰く「此の論男子に嚴しく婦人に寛(ゆる)やかなり。夫れ婦人の性愚暗にして驕(おご)り易(やす)し。務めて之を摧折(サイセツ)し、猶其の亢(コウ)を懼(おそ)る。子則ち反(かへっ)て是(これ)可(よし)とするや」と。予之(これ)に應(こた)へて曰く「唯〃(イイ)否〃、予の論之(これ)寛なるに似る。即ち将に以て婦人に深く責(もと)むるなり。夫れ禮は必ず人情に合ひ然る後に久し。此(こちら)に寛有れば、方(まさ)に彼(あちら)を禁ずべし。古来婦教を論ずれば、死を以て夫に殉ず、少年にして再醮(サイショウ)せず、婦に七去の属(たぐひ)有りの若し。惨刻(サンコク)迫切(ハクセツ)。人情に近からず。是に於いてや偶(たまたま)賢明の婦人有れば、則ち詭激(キゲキ)の行ひを故爲(コイ)にし、以て駭俗(ガイゾク)釣誉(チョウヨ)す。其れ汚下(ヲカ)なる者、則ち禮法の守るべからざる、賢媛(ケンエン)貞女の希(もと)むべからざるを知り、寧ろ放蕩(ホウトウ)恣睢(シキ)し、名教(メイキョウ)に外る。禮自(おのづ)から禮、人自(おのづ)から人、判け相于(をか)さず。而(すなは)ち遵行(ジュンコウ)する者少し。故に今之(この)中制(チュウセイ)を立て、賢者に持循(ジジュン)する所を知らしめば、不肖者企して及ぶべし。天下婦人、相與に孜孜として平常に従事し、敢へて僻異(ヘキイ)の行ひを爲さず。夫婦和楽し閨門(ケイモン)粛雍(シュクヨウ)、以て吾君郅隆(チリュウ)の治を助く。此れ予の志なり。其れ婦人に責(もと)むる所の者深し。予斯の論を撰(つく)り、意未だ盡さざること有り。又下方に辨(わ)け、以て其の稍(やや)小なるを事(た)つ。故に秪(た)だ其の梗概(コウガイ)を道(い)ひ未だ詳(つまびらか)に及ばざるなり。

 

一に曰く、今士大夫家に女子有らば、其の父母以て三絃秦箏を誨(をし)へざるもの莫し。此れ百餘年前未だ甞て有らざる所なり。夫れ物の人に感ずるは、音声より甚しきは莫(な)し。三絃秦箏、淫詞俚曲(リキョク)、能く人をして貞心を消さしめ邪念を萌さしめて自覺させず。又況や此を以て賓客に接し、盃酒(ハイシュ)を交し、男女雑坐し、歌舞迭(たがひ)に作(な)さば、狎昵(コウジツ)至らざる所無し。今代婦人の淫蕩(イントウ)無行(ムコウ)、此れ實に有罪に與(あづか)る。禁ぜざるべからず。

二に曰く、市中の裏店(うらだな)有るなり。陰闇(インアン)幽深(ユウシン)の中、男女混殽(コンコウ)、動行姦穢(カンアイ)。城東に裏店多し。則ち淫風殊(こと)に熾(さか)ん。城西に裏店少し。則ち淫風稍(やや)損(へ)る。故に裏店禁ずべし。但し裏店の戸口無数なれば一旦(イッタン)に駆逐すべからず。當(まさ)に漸(ゼン)を以て遷徙(センシ)すべし。

三に曰く、禮は男女井を共にせず、椸架(センカ)を同じくせず。豈に赤身(セキシン)相與(とも)に混堂に入るべきこと有るや。混堂に男女並ひ入ること、白川源公執政時、嘗て之を禁ず。今迄遵守し改めず。然るに尚ほ僻遠(ヘキエン)の地、仍ほ旧習を襲ひ薬湯なれば則ち男女並び入るに非ざること莫し。當(まさ)に一切禁絶すべし。

四に曰く、勾欄(コウラン)演劇、尤も是れ淫(みだら)の具(そなへ)を誨(をし)ふ。或(あるひと)謂く「假設(カセツ)の戯(たはむ)れ、以て人を惑はすに足らず」と。此れ大ひに然らず。婦人劇を観て、且末(タンマツ)艱厄(カンヤク)の際に至れば、汍瀾(ガンラン)と涕泣(テイキュウ)せざる莫(な)し。人が其の愛(め)づ所の優(わざをぎ)を罵るを聞かば、則ち艴然(フツゼン)と怒る。夫れ烏(いづくん)ぞ之(これ)心を動かし魄(たましひ)を蕩(うご)かすを為さざるを得るや。方今有司婦人の観劇の害を爲すを知る。而して害の斯の如く其の大なるを知らず。苛禁(カキン)甚しからず。故に士大夫の婦女観ざる者、百に一二も無し。宜しく令甲(レイコウ)に著(あらは)すべし。士大夫の婦女往き観るを厳禁すれば亦た風教の一助なり。

五に曰く、今男女相與(あひとも)に刑(のり)を犯さば、男を重く責む。而して女は否(しか)らず。蓋し以て男倡率(ショウリツ)せし故(ゆゑ)なり。然れども又當(まさ)に事情を審察して之を處すべし。乃ち男女竊(ひそか)に關を出れば、男は磔、女は否らず。女惟(た)だ男の脅し誘ふ所と為り其の地の状を記(しる)さざるを陳ぶ。則ち偏頗甚しきを免るや。予謂(おも)ふに婦人年長にして知識有らば、惟だ當(まさ)に男子の罸を行ふに準ずべし。則ち婦人懼るる所を知れば、敢へて妄(みだり)に男子の悪を作すに従はず、其の情理に於いて亦た自づから其の中を得ん。

六に曰く、今婦人嫁さば則ち其の歯を墨染す。醜怪異常、戎虜の俗に近し。西土人以て雕題(チョウダイ)と並べ、良き所辞(い)ひ難く、且汚穢(をあい)不潔にして観る者に嘔噦(オウエツ)せしむと称す。婦人梳頭(ソトウ)せば、雙鬢(ソウビン)を鳥翼の如くに張り、脳後に菌蕈(キンジン)の如くに髪を出す。亦醜(は)ずべし。之(この)二者大義に関はり無しと雖も當に禁ずべし。又婦人緋褌(ヒコン)を着け、歩むに隋ひ露出すること尤も粗野不敬なり。當に緋褌を禁ずべし。帯下に袴を着さば略(ほ)ぼ宮禁(キュウキン)の宦女(カンジョ)及び朝鮮の制(さだめ)の如し。方に愜当(キョウトウ)爲るべし。

 

 

(語釈)

一過(一通り読む) 摧折(サイセツ)(くだき折る) (コウ)(おごり高ぶり)少年(若年)再醮(サイショウ)(再婚)惨刻(サンコク)(むごくきびしい)詭激(キゲキ)(過激) 駭俗(ガイゾク)(世間を驚かす)   釣誉(チョウヨ)(いつわって名誉を得る)汚下(ヲカ)(暗愚、下等)放蕩(ホウトウ)恣睢(シキ)(勝手気ままに振る舞うこと)名教(メイキョウ)(儒教の教え)中制(チュウセイ)(中庸を得た制度)持循(ジジュン)(守り従う) 不肖者(愚か者) 企して及ぶ(追いつく)和楽(うちとけ楽しむ)閨門(ケイモン)(家庭、夫婦の間柄)粛雍(シュクヨウ)(うやまい和らぐ) 郅隆(チリュウ)(大いに栄えている)梗概(コウガイ)(あらまし)三絃(三味線か?)秦箏(琴か?)物の人に感ずる(人を感動させる)雑坐(入り混じって座る)狎昵(コウジツ)(なれ親しむこと)淫蕩(イントウ)(酒や色欲におぼれること)無行(ムコウ)(行いが悪い)

裏店(うらだな)(江戸時代に江戸・大坂などの大都市の町人居住地で,表通りに面していない路地裏に建てられた小商人・職人・日雇いなど下層庶民の借家住居のこと。多くは長屋建てであったので裏長屋とも呼ばれる)混殽(コンコウ)(入り混じる)姦穢(カンアイ)(よこしまでけがれている)一旦(イッタン)(すぐに)  漸(ゼン)を以て(順を追って)遷徙(センシ)(移転)椸架(センカ)(着物掛)赤身(セキシン)(裸) 混堂(浴場)白川源公松平定信僻遠(ヘキエン)(辺鄙、片田舎)勾欄(コウラン)(劇場)且末(タンマツ)(俳優) 艱厄(カンヤク)(悩み苦しむ)汍瀾(ガンラン)(涙がはらはらと流れること なお原文では「芄蘭」と表記されている) (わざをぎ)(役者)艴然(フツゼン)(むっとして、怒って) 有司(役人)苛禁(カキン)(厳しい禁制)令甲(レイコウ)(政令、法律)風教(徳をもって民を教えみちびくこと)倡率(ショウリツ)(先に立って唱える)情理(人情と道理)雕題(チョウダイ)(額に入れ墨をする南蛮の風習)嘔噦(オウエツ)(嘔吐)梳頭(ソトウ)(髪の手入れをする)雙鬢(ソウビン)(頭髪の左右の側面)脳後(頭の後ろ)菌蕈(キンジン)(きのこ)緋褌(ヒコン)(赤い腰巻)宮禁(キュウキン)(内裏)宦女(カンジョ)(女官) 愜当(キョウトウ)(道理に合う、分に適う)

 

(現代語訳)

 十篇を書き終えて、ある人がこれを一通り読んで、私に笑ってこう言った「この論は男性に厳しくて女性に寛大だ。そもそも女性は生まれつき愚かでうぬぼれやすいので、高慢の鼻をへし折るように務めていてもなお驕り高ぶりを恐れるほどだ。君はそれでも良いと思っているのか」と。私はこれに答えてこう言った「いやいや、私の論は女性に寛大なように見えるが、実際は女性に多くを求めているのだ。そもそも礼の制度は人情に合っていてこそ長続きする。寛大にすべきこともあれば、禁止すべきこともある。

 昔からの女性への教えの中には、夫に殉じて死ぬ、年が若くても再婚は禁止、七去(七つの離縁理由)などといったものがあるが、極めて酷く厳しいもので、とうてい人情に合ったものとはいえない。

 こうした中で、賢明な女性がいれば故意にこうした教えに沿った奇矯な行いをして世間を驚かせ、名声を得るかもしれない。他方で暗愚な女性はこんな礼法は守ることが不可能であることや、賢いとされる女性、貞節とされる女性にはとうていなり得ないことを知り、むしろ勝手気ままに振る舞うようになり儒教の教えから外れていく。礼は礼、人は人、互いに関与しないとなれば守る者も少なくなる。

 これゆえ、人情に合った調和のとれた制度を立て、賢者に守り従うべきことを知らせれば、暗愚な者もついてこれるだろう。天下の女性が皆敢えて奇矯な行為に走らず、日常業務に従事し、夫婦がうちとけ楽しみ、家庭が和らげば、君主の善政を助けることにもなるだろう。これが私の願いであり、女性に深く期待しているのだ」と。

私はこの論を作ったが、まだ言い足りないことがあるので、以下にその概要を述べる。

 

一 今の武家に娘がいれば、父母は皆三味線と琴を教える。これは百年前には無かった ことだ。人の心を動かすもので音声に勝る者はない。三味線、琴、卑猥な歌、下品な曲、これらは人の正しい心を消し邪念を生み、しかもそれに気づかせない。ましてやこれを使って客に接し、盃を交わし、男女入り混じって座り、互いに歌ったり踊ったりすればすっかりなれなれしくなろう。現在の女性が酒色に溺れたり非行に及ぶのは三味線や琴のせいであり、禁止すべきだ。

 

二 江戸市中には裏店があるが、暗い中で男女が入り混じり、風紀も良くない。城東には裏店が多く特に風紀が乱れている。城西には裏店は少なく風紀の乱れもやや少ない。これゆえ裏店は禁止すべきだ。但し裏店は無数にあるため一度に駆逐はできない。順を追って移転させるべきだ。

 

三 礼法では男女が井戸を共用することも、着物掛けを共用することも良しとされていない。それなのに何で男女が裸で浴場に入るなどということがあって良いものか。混浴は松平定信公が老中の時に禁止され、今まで変わらず守られてきた。しかし田舎の方ではいまだに旧来の風習に従っており、薬湯であればすべて男女混浴となっている。こんなことは一切禁止すべきだ。

 

四 演劇はとりわけ淫らなことを教えるものだ。ある人は「演劇は所詮作り話にすぎず、人を惑わすようなものではない」と言うが、全くそんなことはない。女性は演劇を見て役者が悩み苦しむ場面になると全員涙をはらはらと流して泣く。人が贔屓の役者を罵るのを聞くとむっとして怒る。これでどうして演劇に心を惑わされないと言えようか。今の役人は女性の観劇が有害であることは知っているが、それがどれほど甚大であるかまでは知らない。禁制は厳しくないので武士の妻で演劇を見ないのは百人のうちの一、二人もいない。法に禁令を明記すべきだ。武士の妻が演劇に行くのを厳禁すれば道徳振興の一助になろう。

 

五 もし男女が共に罪を犯せば、男は重く処罰されるが女はそうでもない。男が犯罪を主導したとされるからだ。しかし事情をよく調べて対処すべきだ。また男女が不法に関所から出て、男は磔となったが女はそうはならなかった。女はただ男に脅されむりやり誘われただけで、その土地のこともよく知らなかったと陳述したからだ。これはあまりに不公平ではなかろうか。私は女性でも年長で知識が有る者は男子の処罰に準ずるべきだと思う。女性も重く処罰されることを知れば安易に男性の悪事に従わないようになり、人情と道理に基づいて適切な判断をするようになるだろう。

 

六 女性は結婚するとお歯黒をする。醜く奇怪で野蛮人の風習に近い。西土人(中国人)はこれを額に入れ墨をする南方の野蛮人の風習と並べて、長所があるとは言い難く、且つ不潔で見る者に吐き気を催させると言っている。また女性が髪の手入れをすると左右両側を鳥の翼のように張り出し、後ろはきのこのように髪を出す。これまた恥ずべきことだ。この二つの事は人倫に関わるようなことではないが、禁止すべきだ。さらに女性が赤い腰巻を着けて歩くたびに見せるのはとりわけ粗野で失礼なことだ。赤い腰巻は禁止すべきだ。着物の下に袴を着ければほぼ宮中の官女や朝鮮の制度と同じで適切だろう